ブルートレイン秘密基地
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>>46
その姿はレアだな、雑誌でも見たことがない
ネットでもその生写真は高く売れるだろう
その闘争時代は機関車になぐり書きしてたり
とか実に物騒だった 20系時代の寝台特急「北星」の最後尾に連結されていたワサフ8000
この新聞輸送用の貨車が連結されていたせいで、上野駅では最後尾の車両の
「北星」の文字ヘッドマークが見えなかった >>49
特急に荷ー貨車連結は大昔はあったなあ…
ブルトレでは急行は14系化後も珍しくなかった
特に北海道急行ブルトレは2ー3両もあった それにしても79年頃ブーム爆発期のブルトレは
どのマシンにもオーラがあった
その頃姫路住みで東京発着九州列車は
ほんと丑三つ時にしかウオッチンできなかった
せいか漆黒の中をぶっちぎるヘッドマーク
編成には神秘性すら感じられたものだ! その神秘性を大切にしたいから、だから
東京とか九州の真昼頃に見られるところには
実は憧れなんてなかったよ…
関西ー九州列車も上りですら明け方だったし 京都ー向日町客車区にはよく行った
当時あそこに行けば20系から24系25型の
10ー100ー最新200番台なんでも揃っていた
24型は少し前に品川を経て尾久に移籍してたが
奇跡的にカヤ24が1両残っていたぞ 向日町にはカマも何でもあったなあ
定期ブルトレからは撤退していたEF58、
EF65P型、そして花形PF、DD51、EF81
PFも81も初期ー後期型とばっちり揃ってたぜ でも向日町駅からは遠くてね、くっそ暑い中を
とにかく歩いたなあ…少年の体力ではただただ
苦行でしかなかった…
おれのあの頃の夏休み…意識もうろうとした
その先に見えたブルトレ群、そしてBGMは
フルボリュームの蝉の大合唱だぜ! 国鉄時代の向日町運転所は活気があったな
新快速の車窓から同所を眺めていると、20系客車も留置されていたり、作業員によって車体洗浄中の寝台特急24系客車、
仕業検査中の583系「雷鳥」、キハ58などと連結されて留置されたキハ180やキロ180、
485系の予備車がポツンと留置されていたり、大阪方の留置線には寝台車の予備車が
留置されているのが見えて、20系客車のテールマークは「急行」になっていることもあった >>56
電車も気動車も何でもあった
宮原や尾久よりも魅力的だったよ 20系客車時代の急行「だいせん」は大社発着列車もあり、編成も10両と長く、
利用者も多かったが、14系客車化されてから、12系座席車2両と14系寝台車4両という短編成となり、
夜行「だいせん」の気動車化後はエーデル車2両、増結で3両で運転されるようになったが、
高速バスの夜行便などの影響もあって利用者も少なくなり、廃止された >>58
蒸気時代は寝台ー食堂ーグリーンー普通車の
他に荷物ー郵便から家畜車までなんでも
連結されていたらしい、雑誌でしか見たこと
ないが確かに木の隙間から牛が見えていた DD51北斗星カラー機を初めて雑誌で見たとき
本気で衝撃が走った…こんなにカッコいい
しびれるマシンがあるのかと!
しかし自分は重連というのが好きではなくて、
だから同じブルトレでも単機で牽く
急行のほうが好きだった、だから
「はまなす」消滅ときはショックだったなあ しっかしJR北海道もその北斗星カラー機
イベント用か動態保存で1両くらい残しとけば
なあ…東南アジアにくれてやってもまともに
走ってねえじゃん、たった1両も無くなった
ところに何かの圧力を感じる… 90年代に入ってブルトレ車は快速にも連結
されるくらい格落ちした…ただし料金は
変わらずだったが前以上にブルトレ車が
頻繁に撮影できるようになったのは良かった ムーンライト九州は14系座席車だったが
電源供給源としてスハネフ15がオマケ連結
されていたが時にはフリースペースとして
開放されていた…高額料金なしでブルトレ車に
乗れるとは…何と夢心地なことか! 一時期、寝台特急「北陸」の金沢到着が早すぎた時、乗客を乗せたまま列車を金沢運転所まで回送し、
車内で乗客が少しでも長く睡眠がとれるサービスが行われていたことがあった。
金沢運転所で停車中の車内では、コーヒーやサンドイッチなどの朝食のサービスも行われていた。
その後、金沢駅まで戻って客を下車させていた。 >>64
そうそう、JRがまだブルトレに熱心だった
最後の頃ね、「北陸」は乗車率の優等生
だったからできたことかも
それとも北陸地区の鉄道マンが温かかったのか 今や『九州特急』と言うとJRQの特急になってしまうが、元々は「あさかぜ」を筆頭に、
「さくら」「富士」「はやぶさ」など、東京発の九州行きブルトレのことだった。
最後の九州特急「富士・はやぶさ」が廃止になって10年余り、残る動画の大半がDHVで
すらなく、富士ぶさの最終便を撮るのは、壊滅状態のガラケーの群れであった。
そして、あの変な駅名の新駅で、東京機関区の威容の名残も、完全に姿を消した。 >>68
東京機関区…ブルトレ栄光時代は全国の中でも
最上級名門の城だったなあ…富士ぶさが
消滅すると速攻で完全崩壊した 歴代急行ブルトレのなかで最も強烈オーラを
放つてたのは80年代中盤の「きたぐに」だ
なにしろ14系編成のなかでロネ2両連結、
ハネ、座席車から旧客グリーン車、さらに
オマケのマニーオユニまで総15連のビッグ編成
実にうならせまくられたぞ その「きたぐに」さらにカマがPF千トップ
だから1001号機が関西地区ではレギュラー機
だったからファンは燃えた、おれもファイヤー
だったよ、高校の頃で見終えたら校門まで
ゲロ吐く直前までのマジ走りでギリ間に合った 14系客車と24系客車は、併結できないが14系「さくら」と24系「はやぶさ」の併結運転の時は、
24客車と14系客車が連結されていたが、空調などのサービス用電源などは、
14系客車は床下の発電用エンジンから、24系客車は電源車から供給していたため、
連結器をつなぐだけでも走行できたようだ。 >>72
さくらーはやぶさ、双方に電源供給源があった
からね、なはーあかつきもそう
さくぶさタッグは名門同士終わりの姿かと
悲しかったがそれでも見応えはあった 国鉄時代、14系客車を使用していた「みずほ」は、中間に組み込まれているスハネフ14がときおり逆向きに連結されていて、上り長崎発東京行「みずほ」は最後部のスハネフ14が妻面を見せて鳥栖まで走ることもあった。
同様の編成は、「つるぎ」や「日本海」でも見られ、寝台特急でのこのような編成は見た目が良いとはいえなかった >>74
多分2段化改造のときとか検車でレギュラーを
外れたときでしょうなあ…
さくらーみずほがそれだった時期は電源供給源
として座席車スハフ14が連結されていて
時には逆向きだったな…その時には
テールランプにさらに赤い反射板のオマケ付き ブルトレ車のなかでも北国改造仕様は
すごくメカチックで好きだった
緩急車ー電源車のテールマーク側両端に
水筒縦通しが付けられたり、帯が腐敗対策で
色や貼りのデザインまで変わったりと…
オリジナル崇拝者は異論を唱えたが鉄道車両は
時代とともに改造を繰り返して生存するのだ その改造車のなかでも2階建てオハネ14
3千番台は窓大きさ、並び配置が絶妙で
絵的にだいすきだった…
出雲14系時代末期を経て、なはーあかつき
連結で有終の美を飾った 寝台特急「富士・はやぶさ」の最後尾スハネフ14には尾灯があるにも関わらず、
赤い丸い反射板が取り付けられていたが、なんの意味があったのだろうか。
「サロンカーなにわ」も最後尾車両に赤い反射板が取り付けられていることが多いが、
見た目が良くないようにも見える 回送の時だけじゃなく?防護無線整備前は赤色円盤を前方にも付けていたっけ。 丸い赤色円盤は、国鉄時代、貨物列車の車掌車連結が廃止されてから、
貨物列車の最後尾の貨車の妻面や下部に取り付けられるようになった。
山陰本線の後藤車両所入出場回送の気動車が客車列車や貨物列車の最後尾に連結されて回送される時も、赤色円盤や反転式赤色円盤がついたランプ付きの尾灯が気動車の妻面や前面に取り付けられていた >>81
これ、PFが欲しかったのにゴハチや客車ばかりだった。当時ゴハチのブルトレなんかなかった平成4年。 おれはZゲージが好きだ
Nでは1両あたりはいいサイズでも編成を
組むと大きすぎる
世界の基準はZなのになんで日本だけは
Nなのか…模型は小さくてリアルのほうが
値打ちがあるんだよ >>70
80年代中盤の「きたぐに」は14系座席車と14系寝台車だけでグリーン車は連結されてなかった
1982年11月15日から1985年3月14日の大阪発501列車編成表
スユ16 @スハフ14 Aオハ14 Bオハ14 Cオハ14 Dオハフ15 Eスハネフ14 Fオロネ14 Gオハネ14 Hオハネ14 Iオハネ14 Jスハフ14
※5号車はスハフ14、6号車はオハネ14の場合有り ※1984年2月1日よりスユ16の連結を終える
参考までに1975年3月10日から1978年10月1日までの大阪発501列車編成表
マニ37 スユ10 @スロ54 Aスハフ12 Bオハ12 Cオハ12 Dオハ12 Eオハ12 Fオハフ13 Gオハネフ12 Hスハネ16 Iオロネ10 Jスハネ16 Kオハネフ12
※郵便車は他形式の場合有り ビッグワンガムのオマケのプラモデルのEF66
組み立てると超リアルだった。
2つも3つも買い込んで、赤やローズピンクの塗料を塗って組み立てて、
交流電気機関車ふうの赤いEF66や交直流電気機関車ふうのローズピンク色の
EF66を作ってみたこともある >>84
そーか、旧客時代と頭んなか混同してたな…
だがこの列車客車時代は実に見応えあった >>85
90年代中盤小指サイズの海外列車フィギュアが
オマケのお菓子を大量に買い込んだ
速攻ブルトレに改造した、あのサイズが
いちばん好きで何で昔も今も正規発売されない
のか…機関車だけならたまにでるけどねえ… 寝台特急「あかつき」と「なは」は、阪神大震災の時の福知山線、山陰本線、播但線経由での
迂回運転されたときは、京都〜姫路間はDD51、姫路〜下関間はEF65の牽引だったが、
「あかつき」は山陽本線内では編成が正規の向きになるように、京都発車時点では、
長崎編成と佐世保編成の連結が逆になっていた。
また、両列車ともDD51にヘッドマークは取り付けられていなかった >>88
そうそう、DD51姿は激レアだったよね
不謹慎だけど行ったよ
ヘッドマークあったらさらに不謹慎しょw 東京発着のスター「さくら」は90年代一時期
基本編成が長崎、付属編成が佐世保所属
だったが佐世保側も食堂車連結を望み
売店扱いとはいえ合体時はオシ2両連結という
歴代最も豪華な姿になった…「さくら」が
最後にいちばん輝いていた勇姿であった ちなみにブルトレが史上最高豪華だったのは
90年代前半に登場した「北斗星夢空間」だ
団臨だったがこんな連結方法もあるのかと
雑誌を見て衝撃が走ったのだ! 長崎本線電化後、特急かもめ、みどりは485系電車化されたが、寝台特急「あかつき」、「みずほ」、
「さくら」は電化後もしばらくの間、長崎本線、佐世保線内はDD51が牽引していた。
のちにED76が牽引するようになったが、長崎本線電化当初は軌道や軸重などの関係から、
長崎本線にED76は入線できなかったのだろうか >>92
単に新カマが足りなかったんじゃないの?
日豊本線宮崎以南電化後もDF50が
富士ー彗星を牽いてたよね 九州ブルトレは下りは終着が昼過ぎが
多かったせいか、キラキラとした陽射しの
中をのんびり走ってるイメージが強い
逆に出雲の山陰は小降りの曇天のなか…
東北ブルトレは定番の冬景色
駅ホームより情景撮影だな 併結寝台特急「いなば・紀伊」は、機関車は薄汚れたEF58型で機関車にヘッドマークは取り付けはなく、
東京発着の他の寝台特急に比べ、見劣りしていた。
「いなば」は、53年10月改正で出雲市発着となり、出雲3・2号となったが、牽引機は55年10月改正まで、
EF58だった。EF58は、55年10月改正でEF65-1000番台に置き換えられ、「出雲3・2号・紀伊」も、
見劣りはしなくなったが、ヘッドマークは「紀伊」廃止まで取り付けられなかった。 >>93
最後の76増備で1000番台の後期ロットと、0番台の最終ロットが作られたはず。
前者は、鹿児島機関区配備で富士とはやぶさ。後者は佐世保線電化であかつき、さくら担当。 >>91
1990年代の夢空間を編成に入れたのは北斗星トマムスキーだったと思う
>>92
長崎本線のブルートレインと言えばED73-1000やED75-300のイメージもある >>95
そうそうゴハチのブルトレは70年代中盤では
東京発着は団臨以外レアだった
いなばは末期は編成後半に座席車スハフ14を
組んだサービスしてたな
出雲ー紀伊は名古屋駅でドッキング失敗で
大惨事を起こしたな >>96
だけどED76てダサいよ
末期の富士はEF81で何とか面目保てた >>97
夢空間をDD51青カマが牽く姿は絶品だった
いま模型で再現しても美しい >>98
長崎本線はただでさえ単線に加えて
特急ー普通ー貨物のダイヤ過密区間だから
踏切はどこも開かずの間
人々は発狂しないでいれるもんだ
中国なら暴動が起こるよな 寝台特急「紀伊」も、DF50にヘッドマークが取り付けられていたことがあった。
マークの絵柄は2種類あって、14系客車のトレインマークと同じく、
那智の滝が描かれたものとハマユウが描かれたものがあった 00年代にゴハチ牽引で14系ブルトレ、さらに
旧客マイテのオマケ付きの団臨が
走ったことがあった
ブルトレ車と旧客の組み合わせというのが
こうも美しいのかと惚れ惚れした思いだった
それ以前にイベントや回送で実現してたが
正規の列車で見ると絶品であったのだ! DD51青カマ、旧客主体に中盤にブルトレ車を
組み込むとしびれる
家の模型では定番スタイルだが
実車でも実現したらなあ 旧客マイテ付きのブルトレは確か
山陰行きの出雲大社記念号でも
実現してたな
JRがサービス満点だった頃だよ >>103
いまは面白味のカケラも無くなった
その地区もかつてはブルトレ、旧客、
キハ81ー82系、DD51貨物列車まで
山陰や北海道並みに非電化区間のモノは
何でも走ってた
いまの新世代ファンには驚きだよな ブルトレ自体が消滅直前だった時期でも
尾久はまだ外観メンテナンスしてたほうだと
思う、対して宮原ー向日町のハコは
見るに耐えないほどズタボロで
よく客を乗せて走ったものだ 早岐客貨区所属の「あかつき」用の14系客車が「日本海」と共通運用だった頃、「明星」とも共通運用されて西鹿児島から青森まで広範囲にわたって運用され、
所属区の早岐客貨区を出区してから、同区に戻ってくるまでは6日を要していた。
冬場、「日本海」が雪の影響で大阪に大幅に遅れて到着すると、共通運用の
「あかつき」や「明星」にも遅れが生じるなど、問題も多く、また、かなりの
広域運用とあって車両故障も多かった。 >>109
かなり大昔だな…テールマークが文字だった
時代、関西発着ブルトレは常に
最新の車輌を導入していた
その恩恵を受けて関西ー北国ゆきも
早々と14系以降化していった 映画「皇帝のいない八月」での14系「さくら」の車内は超リアルな撮影用セットだったが、最後に列車が爆破されるシーンの14系客車は、旧型客車に14系の
張りぼてを貼ったものだった。国鉄はこの映画撮影に協力しなかったが、門司駅構内で機関車交換中に自衛隊が客車の床下に爆弾を仕掛けるシーンは、門司駅構内で撮影されていることがわかる。 >>113
おおそういえば映画、ドラマにも
ブルトレよく出てたなあ 映画「喜劇 急行列車」
渥美清が車掌役で20系寝台特急「さくら」や「富士」に乗務していて、
日豊本線を走るDF50牽引の西鹿児島行「富士」に乗務しているシーンでは、
食堂車従業員の恋愛や、女性客の出産などいろんなシーンがある。 >>116
映画、ドラマに出るブルトレてさあ、
何かズレてるの
80年代に入っても20系が主だったりとか
実際はオシ非連結なのに主人公が
食堂車でコーヒー飲んでたりとか
撮る側は知識ないからねえ…
かつての「週間鉄道」ではまともに
納得できる作品を載せてたなあ ザ・サスペンスでの「寝台特急紀伊殺人行」や「下り特急富士殺人事件」などでは、
24系や14系のブルトレの走行シーンや個室寝台車内が出てきたが、
踏切を通過するシーンでは、列車が京浜東北線の103系だったりもしてたな 20系寝台特急出雲を牽引していたDD54は車両トラブルが多発し、「出雲」牽引中の、
DD54が故障して動けなくなったときは、DF50やC57が「出雲」牽引にあたることもあった 大都市圏で明け方に終着に向かう
ブルトレの姿がいちばん好きだった
だから上りばかり撮影してた
だが問題は大都市では複々線だから
他の列車とカブる
時刻表と地図との戦いであった 00年代以降はブルトレ消滅フィーバーで
駅ホームは人の波になるし
機関車撮影禁止の柵は立つしで
特に大都市駅はまともに撮影できなかったが
それでも90年代までは楽勝であった
運転席内も気前よく撮影してもらったし
カニのテールマーク側乗務員室まで
停車中は入れたものだ
ノスタルジックでもありギャグでもあった だからどうしても「あけぼの」カニ姿を
撮影したくて「なは」カニに停車中に
忍び込んでテールマーク回転レバーを
ぐるぐる廻すという反則行為をやった
こともあった
ギャグでもあり違法行為でもあった >>118
西村京太郎の?作家がオタクだから
撮影班も列車車輌選択にもこだわるね >>119
80年代後半以降は20系も団臨から快速まで
投げ売り状態だった
昼間にイベント列車になって遠くまで
格安で行けた 葬式が近づくと、機関車に向けてフラッシュ焚くニワカが湧いて、ウテシが怒って瞬発
フルライトにするから露出が狂った。 >>120
DD54はドイツのカマだっけ
雑誌でしょっちゅうトラブル出るので
援護カマ準備が大変だったとあった >>127
ほんと戦場だったよね
殴り合いまで撮影したよ 発動機から推進軸に自在継手で繋ぐ構造で、当時の日本のメーカーの技術ではそこを保守し
きれなかったというような怖い話だっけ? 映画「野獣死すべし」で、松田優作と室田日出男が上野駅から乗車した急行「八甲田」の車内は20系客車の車内を模したセットだったが、シートはボックスシートで、
車両番号は「ナロネ21 145」となっていた。
走行中の列車シーンはスカ色の113系か115系で、最後尾にスカ色のクモニが連結されていた ブルトレ撮影で苦労した場所は余部鉄橋だと
みんな言うと思う
ただでさえ地理的にアクセスが難いうえに
普通列車では京都からの一番列車では
栄光の「出雲」に間に合わないのだ だから前日から現地入りするしか
方法は無いのだが80年代まで10代だった
自分にはムズかった
18のときに原チャリ買ってトライしてみたが
ただでさえ幾つもの峠が行く手を阻むうえに
冬季は修羅場と化す
何回も途中で撤退した その苦労して辿り着いた余部鉄橋だが
定番の駅裏墓場ショットよりも
実は防波堤側のほうが絶対いい
編成全部と陸橋とが丸ごと収まるからだ
ただし逆光になるため
ピーカンの日は憂鬱であった その防波堤で猫の大群と戯れていると
常連の兄ちゃんがそのなかの
ボスはもう20年は生きているぞと教えてくれた
確かに暴力団の顔つき、丸々と裕福なボディは
ボスの風格十分で自分のようなたまにしか
来ない奴は相手にもしてくれないのだ
当時雑誌に載っていたここの猫で
いちばん多く写っていたのもボスだった 余部鉄橋は鉄橋の上を歩いて反対側(鎧駅側トンネル出口海側)の崖から
午後の上り列車(DD51牽引の旧客+オハニ36)を撮影するのに都合だった >>138
ノスタルジックな時代の話だな
でもあの崖にしがみつく姿は
いつも笑い者にされてた >>140
痛くないよ
自分の世代は折戸式は特急の証であった >>40
遅レスだけど
同じような時期にロッテのガムの付録としてプルートレインカードあったな
表面は写真で裏面は編成表とか車両解説とかのキャプション
特急は勿論のこと急行では銀河のみならず十和田とかの寝台・座席併結も含めて >>142
ビッグワンガムのオマケのプラモデルにはEF65-500番台もあったな
組みたてて前面のクリーム色部分のシールを貼るとEF60だったが、
そのシールには、寝台特急「はやぶさ」の鳥の絵だけのヘッドマークがプリントされていて、
リアルだったな >>141
引き戸客車ならトワイライトエクスプレス、北斗星、エルモ、はまなすetc
キハ80系は引き戸だから道内でも活躍できたんだな >>142
お菓子でカードはいろいろあったなあ…
思い出せないんだよ >>146
貨物列車セットみたいなオマケのついた食玩もあったな
弁慶号か義経号の蒸気機関車とEF66を模したような電気機関車と客車と貨車と車掌車がセットになった小さな食玩 >>147
だからさ、いまのフィギュアのクオリティは
高いからいまブルトレシリーズ出して
ほしいよね
自分で企画とか持ち込んだら
JRとかへの版権とか工場契約とか
クソ面倒なことになるのかなあ?
ハンドメイド自作販売でも
JRいちゃもん来るの? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています