ブルートレイン秘密基地
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中1の時、始めて出雲市駅に行った
上り2号と4号のカマ付きの横並びシーンを
撮るためにだ
その頃はノーヘッドマークだったが
名門列車をセットで記録できただけで
大満足だったのだ でもあの頃の出雲市駅は汚かったなあ
ほんと地方の場末駅そのままで
浮浪者が切符売り場の下でごろ寝してた
おばちゃん達が床に座って弁当広げてた そこから2年後くらいたって倉吉から下り
出雲3号の昼寝区間に終着まで乗った
おおこれが夢の都東京からやってきて
栄光の余部鉄橋を駆けてきたマシンかと! 乗ってすぐ車内探検に出かけた
スハネフの貫通扉窓からDD51のドアップ顔面
を見た、ビビった
その後ロネは通れた、だが営業休止のオシは
鍵かかってて入れなかった
それでもこれがこれまた憧れのさくらーみずほ
同じハコだと思うとより嬉しかったなあ 宍道湖が近いあたりでは客自分含めて
5人くらいしかいなかったと思う
ホントガラガラで中速でのんびり走って
車内には昼前の陽射しがたちこめてて
実にほのぼのしたひとときであった 書き忘れたけど、その頃の出雲市駅は
地上駅でね、出雲横並びシーンが
撮れてたわけ
後にヘッドマーク復活した頃もね
でも山陰はいつでも小雨降っていた
それが慕情性を生むんだなあ 79年、ブルトレブーム絶頂期の頃にさ、
当時小学生だったおれ、周りの奴らは
ヘッドマークにこだわっていたけど
おれはそうでもなかった
例えば「明星」と「彗星」両方共に
ノーヘッドマークPF+24係25型だったけど
見た目同じでも中身違いで味わうことが
大人チックな面白さ、みたいな 軍艦て見た目似てても名前や細かい違いで
見分けるじゃん
その見方をブルトレで眺めてたわけ ヘッドマークはねえ、いいのかそうでもないか
いまでも解決してない
こどもイベント列車みたいじゃん だけどPFヘルプんときの「富士はやぶさ」
ではあの青いヘッドマークは似合ってたな
単にEF66よりPFが好きていうのもあるけど
「なはあかつき」もそう、あのカラフルな
ヘッドマークは絶対PFのほうが
お上品に見えるよなあ 出雲牽引機の田端機関区のEF65-1000番台が下関運転所のEF65-1000番台の運用についた関係で、
EF66が「出雲」の牽引に当たったことがある。
その時、EF66に取り付けられた「出雲」のヘッドマークは、本来の牽引機EF65や九州ブルトレ
牽引機EF66に取り付ける重厚なものではなく、DD51に取り付ける薄っぺらいベッドマークだったが、
EF66にも出雲マークは似合っていた >>14
そうかなあ…?66には「はやぶさ」だけだろ
似合ってるのは… 出雲のヘルプ機で思い出したが
90年代後半あたりから伯備線迂回のときは
山陽本線はPF、伯備線はEF64で
DD51の出番はなくなったが問題は
山陽PFで特急色カマが足りなかったのか
いつも貨物カラーのザコ機でブルトレ凋落を
思い知らされたものだ
ださいP系500番台一般型や200だったことも
早朝から失望させられて家に帰ったなあ… >>16
富士山型HMが一番
66は角ばっているフォルムだから 「出雲」3号と特急「あさしお」4号はスイッチバック式の滝山信号場で交換していた。
「あさしお」が滝山信号場の待避線に入り、その上の本線を出雲3号が通過していた
のち、両列車は湖山で行き違いするようになった >>18
特にまだオシやロビーカーがついて
総16連の大名行列編成だった頃はね
オーラびしばし放ってた富士 >>19
その信号所、蒸気時代のスイッチバック
やるとこだったんだよね?
蒸気時代の出雲もやってたっけ? >>21
やってたんじゃないかな
そのほか、山陰本線の下り普通客車列車と上り急行「白兎」の交換も行われていた。 ブルトレは明け方に駆ける姿がいちばん
美しかった…陽が昇る前の肉眼でようやく
確認できるくらいの…写真撮るにはキツいん
だけどさあ、でも神秘性というかオーラは
決してピーカンの下では味わえないね その薄明かりのなか、朝霧がたちこめるなか
ブルトレがやって来る…乗客はまだお眠だが
カマは力強くヘッドライトと共に姿を見せ
そしてカニの轟音をバックに去ってゆくのだ 10代は兵庫南部住みだったのでブルトレ撮影
いつも新大阪発着九州マシンを撮っていた
早朝の上りに限定されていて79年頃のブーム
爆発期にはノーヘッドマークだったが
ブルトレを撮れたという満足感はバッチリ! ブルトレ以外にも注目の獲物はあったぞ
急行「雲仙-西海」「阿蘇-くにさき」は
PF+14系座席車の退屈な編成…と見せかけて
最後部に荷物車マニ50のオマケ付き、
それ1両だけで随分急行の風情を感じたなあ 東京-九州ブルトレは丑三つ時にウォッチング
するのがやっとだった…いや某駅で一晩中
撮りまくったこともよくあったがその話は
別の機会で…基本明かりができるだけ多い
駅でフルスピードで走り去っていく姿を
観るのだが…ヘッドマークとか編成とか
速すぎてよく解かんねえよ オハネフ24は初期のテールマーク側
ジャンパ栓ホースが剥き出しになってるほうが
メカチックでカッコよかった
JR化後ボックスだけが残ったのはまあ幸いか
北国仕様の縦徹しが付けられたのは計算外 対してスハネフ14ー15は床下のエンジン装備が
カッコいい、これまたメカチックだ
編成中盤に2両連結するとより力強い
轟音もいい、最高のメカサウンドだよ ブルトレは白帯がいちばん様になる
後期主流のゴールド帯は太陽が当たると
非常にチープに見えるのが残念
白帯箱に似合う釜はDD51かPFだな 自分は実は編成美にあまりこだわらない
要はキマってたらそれでいいのだ
だから79年頃東京発着のステンレス帯+
白帯オシも食堂車だけ際立っててよかった…
だが白帯1両が編成美を損ねるなどと
いちゃもんつけてたバカはあほだと思う いま思い返しても急行「おが」は訳わからん
編成であった…定期の頃は20系だったが
臨時化以降は基本20系+14系座席車とか
そこにカニ24が収まる車両区の余りもん
引っ張り出してきたごちゃまぜセット、
最後期はゴールド帯の15系で有終の美だった そうそう「八甲田」は最終期は寝台ブルトレ
それで終われてよかったな 夜が明けきらぬ朝や深夜、または夕刻を走るのが多いが、
はやぶさとか富士などの九州ブルトレは真昼間に走っていたね。
特に正午の東シナ海をバックに走るはやぶさの姿は印象的だった。 >>37
釜のED76がダサいんだ、九州ブルトレは
筑豊本線期のDD51「あかつき」だけだな
でも南国特有のクリアな陽射しはいいよね 昔、山陰に行きまくってた頃、出雲市駅前の
ほか弁屋は出雲大社よりも聖なる場所だった
なぜならオバちゃんがごはんを山盛りに
入れてくれるからだ、その量は蓋がしまらない
くらい半端なかった、それで普通の値段
旅の醍醐味のひとつだよ 昭和50年代に発売されていた食玩のオマケのブルートレインの客車と機関車のプラモデル
機関車はEF65のブラモデルとDF50のプラモデルがついたものと2種類あった。
客車のプラモデルは20系だったようだが、ナシ20、ナハネフ23などもあり、
客車、機関車をそれぞれ買い込んで組み立てるとリアルなブルートレインが出来た。
DF50は青一色だったが、組み立てるとリアルだった >>40
いまでいうところのフィギュアだよね
Zゲージより小さいやつ、いま24系で
出ないかなあ、自作しかないのか…
その20系買った記憶あるよ
DD51はチープだった 数年前999号のライターサイズのフィギュアが
出た、これが結構改造できるやつで
いまもブックオフとか探してる
旧客がDD51とばっちりだよ 硬派な「日本海」は男のブルトレという
印象が強い、特に冬場の羽越地区の寒々しい
空、日本海の荒波、降りしきる雪をバックに
駆ける奴の勇姿はどのフォトを見てもしびれる
残念ながらそのシュチエーションで撮影
できた事は1回しかない…寒くて凍えまくり
撮影どころではない、それどころかもう2度と
来るもんかと思い知らされたものだ その「日本海」冬は雪ダルマ姿になるのが
風物詩だったが、なぜか関西に回帰してきた
ときはそんなに雪は覆ってなかったのは何故か
多分羽越地区あたりでは雪の塊姿なのだが
北陸ー湖西線で溶けたのか?
雪姿目当てに駆けつけても肩すかしだったよ 北陸の親不知の断崖絶壁のマークも2種類あったんだな
穏やかな波と荒波バージョン 国鉄の遵法闘争の影響で大幅に遅れた下り寝台特急「富士」の車両運用のやりくりがつかなくなり、
大分までは所定の編成で運転されたものの、上り「富士」は大分から下関までは付属編成だけで
運転されて、下関からは14系座席車が連結されて20系客車+14系座席車という編成で運転されたことがあった >>45
北陸は特に目立たない列車だったが意外と
長く生き残ったのは需要があったからだね
乗車率がよくて優等生だったよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています