ここだけ宮脇俊三先生を勝手に生き返らせるスレ
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「『自分の娘がそんな事になったからって…』との声も上がろうが、
以上の点を勘案すると、列車のトイレは増設こそされるべきではないか。
しかるに近頃では、相当な閑散線区・長距離列車でもトイレ無が目立っている。
特急ですら、トイレのない車両も多くなった。何たる乗客軽視ぶりか」
などと本に書いたりする。 車両はあるだろ。
さすがに編成単位では???だが。 >>126
漏らしたことに腹を立て、そのまま駅のホームに娘を放置して旅を続けていたらどうなってた? >>129
185のトイレだと、あっても和式で使えないという人が結構いそう 気仙沼線に乗って志津川町に行き、
開通当時(昭和52年12月)の女子高生がどうなってるか確かめようとする。 ババ●になっている姿を確認して、虚しくフカヒレを食べつつ帰路につく先生 「考えてみれば無理もない。あの”少女”達も、今や当時の私の年齢を超えたのである」
と自らに言い聞かせてたりする。 渡良瀬川で獲れた魚をつまみに、一杯やろうとする。
地元のタクシー運転手の制止を無視して。 森高千里じゃないが勉強してほしいな。
じいさんに何を言っても無駄だろうが。 渡良瀬川は水質良くなったんじゃないかな? 娘の灯子から聞いたぞ、と先生。 年末になると、唐津―西唐津間の乗り残しを思い出す。 前述のは適切じゃなかった。
「年末になると、唐津―西唐津間の乗り残しを始末するために悪戦苦闘した事を思い出す」
が妥当か。 瀬棚線は北海道で一番最後の路線となってしまった。
あの頃は、灯子も理子も子供だったのう・・・・・・・・・ 「前述したが、その北海道完乗の帰途の青函連絡船内で深酒し、
とんだ失敗をしでかした。
特に連絡船で同室になった青年に、要らぬ節介した事は、断罪されて然るべきであろう」
などと回想する。 昭和50・51年度と、立て続けに正月に風邪で寝込んだ事を、今更のように悔しがる。 「45年前の正月、私は唐津線を、終点まであと1駅というところで途中下車した。
そのきっかけは、唐津駅前のホテルで伊勢エビを食そうとしたことだった。
しかも、伊勢エビは高くて、泣く泣くサザエにしたのだった。
これこそ自業自得であろう…。」
と回想する。 「今のような世相であれば、私は昭和51年のうちに国鉄全線完乗を果たせたであろう」
と思う。
「しかし当時は、長時間労働・休日出勤が厭われぬばかりか、”美徳”とさえされ、
私はこの年の秋以降、殆どの休日を返上させられたのである」
などと恨み言を口にしつつ。 わざわざ正月に北海道に出掛けて、
胆振線に乗っただけで帰ってきた事を思い出す。
「当時は食堂車があったからまだよかった。
今なら、指定席を予約できなければ即立たざるを得ない」
などと回想しつつ。 しかし、たんしんせん、とやらに乗ったことがない
私は、ひたすら先生の存在が眩しいのである。
( 一部間違えている箇所アリ ) 「御庄は新岩国と一体化すべきであった」
と、今更のように蒸し返す。 指宿枕崎線に乗って、
再び女子高生から席を譲って貰えることを期待したり…。 北海道新幹線・北陸新幹線の延伸を夢見て、
第二弾の「線路のない時刻表」を執筆する…、気になるかどうか。 私ももうトシなのである。灯子に頼もう、などと考える。 未だに本籍地を「神奈川県」と間違えられて、憤慨する。
「私の本籍地は香川県である」と。 「その香川県の親戚を訪ねた折に乗った、
東京ー岡山間の汽車に纏わる思い出は、
私の鉄道趣味の原点とも言える。
但し、食堂車へ連れていって貰えなかった
事は、未だに口惜しい」
と回想する。 「今年は、飯山線や只見線に乗っても豪雪には出会えそうもない」
とtwitterで呟いたり。 仕方ない。深名線は・・・・・・・・・・・とっくに存在しなかったのである 「阪神大震災から25年か。当時私はまだ、ギリギリではあったが60代だった」
と回想する。 その頃はまだ「旅」誌の企画で青春18きっぷの旅行もやった。
ロングシートの車内で駅弁を食べるのは私にとっては至極当然のこと。
私のファンの男は、出版元が変わってから「旅」誌の内容が著しく変わってしまい
読まなくなってしまったそうだ。 突然のように、「東京―大阪間・国鉄のない旅」の逆の行程はどうだったのかと思い立って、
昭和57年9月号の時刻表を引っ張り出す。しかし当然、調べ切れない。
「豊橋から浜松へは、三ケ日乗り換えで行かれるだろう。
だが今度は、静岡から沼津がネックになるに違いない。
もう一度、あの雑誌社の編集担当に調べさせるか…」
などと悪企みも。 今だと東京〜大阪間に高速バスガンガン走ってるからあのルールだとあっさり終わってしまう。 一度、福塩線に寝ずに乗ろうとするが、結局寝ちゃう。 「特急や急行のために造られた筈の、”藤代線”に今や特急の姿はなく、
寧ろ、そこを通って新函館北斗を無視する普通列車があるとは、何と皮肉な事か」
などと言って、その新函館北斗無視の各停に乗り、森駅でイカ飯を買う。
併せて、
「今や北海道にまで国電型のロングシート車が蔓延っているのである」と憤る。 森駅に行くのは何年振りであることか。いやはや感慨深い。 「1月の終わりと言えば、松前線の廃止を思い出さないわけにはいかぬ。
沿線住民は、何の見返りも得ることなく鉄路を奪われたではないか」
と、改めて国鉄”改革”への怨念をたぎらせる。 「今、門司から福知山に山陰線の鈍行で旅しようとしたら何回乗り換える事になるのかと思って、
時刻表を調べてみた。
そうしたら、何という事か。門司から山陰線上り始発に乗り継ぐことができぬではないか!」
と憤る。 「ただ、考えてみると、山陰本線の起点というか終点は幡生であり、
その意味では、下関から乗ってもよいことにはなる」
と自らを無理矢理納得させる。 「自分の都合で遠回りさせておいて、
その分の運賃を客から徴収するとは何事か
(長万部ー札幌間)!」
と、JR北海道に猛抗議する。
しかし、鼻で笑われて終わり…。 「富山ー神岡」のサボに惑わされた事に腹立てつつも、
行先表示器全盛の現代に味気なさを覚えたり。 「当方は、昭和50年12月29日に上り『有明5号』の遅延のせいで湯之前線に乗り損なうなど、
鹿児島本線の度重なるダイヤの乱れで散々迷惑を被った。
剰え、昭和53年12月19日には、八代駅にて、当日で有効期限切れとなる乗車券の継続乗車手続きを
懇願したものの聞き入れられなかった。
貴管理局は客の存在を何と心得ていたのか」
と、当時の門司・鹿児島鉄道管理局幹部にに文句言うとか。 寒川ー西寒川間の初乗りを、出張の帰りで済ませた、
って事を、今でも祟られてたりする。 忍者の里へ行って、今度は手裏剣を命中させようとする。 気のせいか女の子が近くで「ぼくに水割り頂戴!」と言ったような気がする。 「『どうも特急列車の客には変なのがいる』って、あんたが一番そうだろ」
と、〇村△樹辺りに突っ込まれてたりする…。 〇…畑に蒔いて、花や野菜の元にする物
△…曲がりくねってるというのの正反対の状態
この人物(東京都足立区在住)は、
宮脇氏が、「ぼくに水割り頂戴!」なる客に出食わした旅に関して、
そのルートを決定するに当たって若干の指南を行ったという。 椅子ごと身体をせり出してきたくらいノリノリだった。 “あれから40年以上“経っても、
「新松戸ー西船橋間の開通で最長片道ルートが
変わる事をお察しになれなかったのですか?」
と嘲笑されて言葉に窮する夢を見たりする。 100系の個室に閉じ込められて原稿書かされる、
っていう夢にもうなされたりする。 今年で94歳なのだから原稿はもう書かなくていいのでは、と考えたりする。
灯子がなんとかしてくれるだろう、と。 「私には、『汽車』の話など書けません。
父と違いますし、妹にも申し訳ありませんから…」
と執筆依頼を断る長女を目にして、肩を落としたり。 「そう言えば理子も間もなく50か。パパもトシを取るわけだなあ」
気分転換に街をぶらつくことにする。しかし、まちさんは夫の帰りを待ちは
しない。空気のような存在だから、宮脇家にとっては、夫の存在はさほど重要
ではない。良く言えば「無害」
強いて言えば酒を愛しすぎることがちょっと欠点なのだが。 「妹さん、というのはどういう事ですか?」
と尋ねられて、灯子氏は、
「小学校2年生の時、父に連れられて旅行に出掛けたら、
電車に乗ってる時にトイレに行きたくなったというんです。
ところがその電車にはトイレがなくて、あろう事か、妹は駅のホームで”させられた”そうです。
それがトラウマになってるようで、鉄道関係の事物には著しい拒絶反応を示すんです…」
と涙ながらに語ったりする。
というやり取りを陰で見ていて宮脇氏も自責の念に駆られて…。 「近頃急に物が見え難くなった」
と言って、最長片道ルートを提唱した眼科医を訪れる。 広尾から始まった最長片道切符の旅も40年以上が経ち大幅なルート変更を余儀なく
されることに。
「淋しいですな」とポツリ。 今度はJRバスを含めた最長片道ルートを
辿ろうと思いかけたが、
「これは、さるレイルウェイライターとやらの猿真似になる」
と気づいて“自粛“する…。 由々しき事態でありぞっとしない。
ヤング諸兄の投稿を祈るや切。 現状の最長片道ルートの終点が肥前山口である事を暫し呑み込めなかったり…。
(T大卒なんだから、そんな事はないだろうが) 某スレでの種村センセイとの不毛な争いはもうおやめください
アル中呼ばわりされていますぞw 「今年はその人物の七回忌だな」
なんぞと、ふと思い出したりする!? あの人も勝手に当スレで生き返らせてみては? とふと考える。 「優等列車には再び喫煙車を設けるべきである」、と各鉄道会社に訴えを起こす。 「パパも禁煙しないとダメですよ」と言われても耳を傾けることのない先生である。 新型コロナウィルスの恐怖に慄いて、旅行に出掛けられなくなったり…。
「私はそれでなくても肺を病んでいるのである」と。
(”だったら余計、禁煙すべきだろうと”の声は耳に入らず!?) その結果、健康診断で、
「肝機能の数値(γGTP)が悪いですね〜。お酒は控え目にしましょう」
とか釘刺される。 中央構造線の旅で、今度は鳥羽に泊まって
伊勢エビを賞味しようとする。 その結果、体調の異変を感じた時には既に…。
てな事言いだすと、このスレ終わっちまうが。 しかし93歳の年齢がたたり乗り継ぎに失敗してしまう先生 置いてけぼりを食って、空しく駅のベンチで次の列車を待ちつつ、
「そう言えば42年前、1分間の乗り継ぎを企てた私を大股で追い越していった、
あの女の客は今どうしているのだろう」
と、ふと思い出したりする。 昭和53年。ヤクルトが阪急を破り球団初の日本一になった年か・・・・・・と
思うと感慨深いものがあるスワローズファンの先生 妙齢の女性がものすごい勢いで僕たちを追い越し、列車に乗り込んだ。
周囲のヤングも、うへーこれはすごいなどと口々に言っている。
もちろん、僕も宮脇さんも、乗り継ぎには失敗した。
駅前のなんでも屋で買ったパンをかじりながら、ひとしきり、
例のギャルについて宮脇さんと語り合ったことである。
…と、実はそこにいたもそもそ先生が。 僕は40歳の誕生日を目前にして常呂駅付近の流氷に喜び過ぎて転倒。掌がえぐれた
懐かしい思い出がある。昭和51年のことだ。 「私1人が下界に舞い戻った事を妬んでいる人物がいるようだ…」
と慨嘆する。 最長片道切符の継続乗車が認められたとしても、
八代から枕崎までの間、一切駅の外に
出られなかったと思い当たって、
八代駅の改札係に感謝する気持ちになる。
同時に自分を棚に上げて「額の禿げ上がった中年の駅員」
などと揶揄した事を詫びたいと考えたり。 宮脇先生推奨の湧網線ですが今、流氷が勢力を増しているようです。 昔、結核が蔓延した時代を思い出す。
「通勤列車が感染拡大の場にならぬよう祈るばかりである」と、
近所の神社に願掛けに出掛ける。 3日前は、「一旦!?」昇天した日だった事を、今更のように思い出す。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています