ここだけ宮脇俊三先生を勝手に生き返らせるスレ
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亡くなった父が落胆して無茶苦茶な旅に出て死を早めてしまったのを思い出した。 「現在では、東北・高崎・常磐線にもグリーン車が連結されるようになって、
『グリーン車の無料開放』を見出す楽しみがなくなった…」
と慨嘆する。 予定していた北海道旅行をコロナウイルスの影響で取りやめになる羽目に。
家で酒を飲んで荒れる先生。 「しかし、近頃北海道も、”用があっても乗りたくない国電”だらけではないか。
平常時と雖も、もう一つ出掛ける気になれずにいる」
などと虚勢張ったりする。 改めて中央構造線の旅に出掛けて、今度は渥美半島の釜揚げうどん食おうとする。 今度は、東京から大阪へ行く途中で、岳南鉄道・静岡鉄道・大井川鉄道・遠州鉄道、にも乗る。 ダイナミックですね。ノシャップ岬のほうまで。
普通ならば稚内は、もう去るくらいの時期に逆に接岸するとは。 「昭和58年3月に雑誌社の編集者を連れて
オホーツク海岸沿いを北上した折、
やはり稚内から『利尻』に乗った方が
面白かったかも知れない」
と今更の如く後悔する。 シベリア鉄道に乗ったのは昭和57年。理子は小学生だったなあ。としみじみ。 「来月1日は、『西寒川線』『日中線』等の三十七回忌か…」
と感慨にふける。
同時に、自らの意向を無視した国鉄”改革”への憤りを新たにする。 初めて湧網線に乗った感動から50年。私は当時43歳だった。 どこかの青年に説教したことがある気がするが年のせいか
場所が思い出せない。 実は昭和52年夏頃から時々、
差出人不明の脅迫状が届いてたとか…。 東北新幹線の上野開業から35周年よりも、
急行が大々的に廃止された点への憤りの気持ちが断然強かったりする。
何より食堂車の全滅がけしからぬ事であったと振り返る。 48年前に「日本最長」の座から転落した北陸トンネルを通ってみようと考える。 宮古―釜石間が山田線でなくなった事を憤る。
「元々、三陸縦貫鉄道は国鉄の手によるものである筈だったのだ」と。 「ぼくに水割り頂戴!」と60代と思われる女性が叫んでいた。 青森―好摩間を寝台特急の車中で過ごした事で、最長片道切符の旅を済ませた事にした。
これを未だに後悔してるが、さりとて今更改めて乗る気にもなれず。
そこを走る車両は紛れもなく「用があっても乗りたくない国電」そのものだから。 浜川崎駅で、「途中下車印を押してくれ」と言うが、拒否される。 飯田駅で「切符の再発行が必要」と言われ、逃げようとするが捕まる…。 再び中央構造線の旅に出ようかと思うが、
「帰りの楽しみ」がないと思い当たって取り止める。 もう一度、最長片道切符の旅に出ようと思う。しかし、ルートが大幅に短縮されてしまったこと
だろう。 「今は本当に、“稚内発肥前山口行“の切符しか
発売されない。逆方向は不可能である。」
と悟って、南から北へ向かえない寂しさを痛感する。 この家の主人はよく旅に出る。しかし最近は、魅力的な路線が多数廃止に
追い込まれてしまったこともあり、出不精になりつつある。 空腹が旅情を上回っているから猛然とハンバーガーを食べる 東京オリンピック延期?あんなもんは、1964年昭和39年の1回で十分だこのハゲ 「それがこのスレの趣旨に何の関係があるというのか。
さような事も考慮せぬ向きが増えたとは、実に憂慮に耐えぬ」
と思ったりする。 加悦鉄道の跡地を訪ねたいと思うものの、
新型コロナウィルスの前に屈する。
「命あっての物種である」なんて。 今度は自作の「最長片道ルート」見せて、
T村N樹に失笑されたり…。 「東京に戒厳令が敷かれようとしているとは…。
しかも、”不急不要”という言葉は戦時中を思い起こさせるものである」
と言葉もない思いに襲われる。 「三江線の最後の日から早2年である。
この線を経由して、浜田―岡山間の急行が走るのではないかなどと考えたりもしたが、
全く当てが外れた。尤も、国鉄とすれば、それこそ”不要不急”の路線を経営させられた、
との思いだったのであろう」
などと回想する。 江の川の眺めが良かった路線。先生と違って、それがしは一度しか乗ったことが
なかったのだが。 国鉄分割民営化に関する見解(異論)を披瀝しそびれた事を改めて悔やんでる。
「何故、インタビューされた時に『利用者の視点』を思いつかなかったのか」と。 しかし過去を振り返っても仕方ないと思い直して旅に出ることにする。 元の夕張駅の跡地へ行ってみる。
付近の住民に”インタビュー”して、
「これがこの国の交通政策というものか…」
と慨嘆、やはりこの思いを書に訴えねば、と決意を新たにする。 福知山線のあの事故現場に足を運んでみる。
「21世紀の日本でこのような前時代的事故が起きたとは信じ難い。
鉄道の技術進歩とは何であったのか」と嘆きつつ。 肥薩おれんじ鉄道線? それは、いかなる鉄道であるか フランス国鉄関係者に、
「TGVの最高時速は何キロでしたかな?」
と嫌味ったらしく尋ねる日の到来を待ち侘びる。
それだけに、”整備新幹線の最高速度260km/h”とかを腹立たしく思ったり…。 「私は酒で体内を消毒できているのである」
…なんて事は、T大卒ともあろう御仁だから、考えるわけないが。 鉄道とは「金を失う道」と書く。しかしパパは後悔なんかしていない。
金なんか残しても人生つまらんと思っている。
しかし家族には金を残したい。 去年、北陸新幹線の車両10編成が一気にお陀仏になったと知って、
JR東日本に幾らか寄付する。 「また一段と煙草が吸い難い世情になった」と不満を漏らす。 「旅」の企画の打ち合わせに美人編集者を同席させて、
宮脇氏に無理難題を押し付ける(東京から大阪まで歩かせる、等)雑誌社。 「私を感激させた気仙沼線も結局廃止された」と憤ると共に、
開通日に志津川駅にいた、当時の女子高生を思い出す。 「私の”国鉄全線大集合”をパクるとは何事か!」
と、某大学教授に文句言ったりする。 で、あくまで犯人追跡のための一場面でしかなかった筈の、
時刻表探索に没頭し過ぎて、NGの連発。
それがプロデューサーをはじめスタッフの逆鱗に触れ、とうとう役を下ろされる。 相棒に「由々しき事態であり、ぞっとしない」とコメントされる先生 「『武蔵野線の西船橋延長で最長片道ルートが変わる』、
程度の勘も働かん奴に事件の捜査なんかできるのか」
と思われてたりする。
で、逃走する犯人役は、何処かの眼科医M畑(逃走経路考えるのはお手の物)。 「これは『不要不急の旅行』などではない。私にとっては仕事なのである」
と言って、列車に乗り合わせた他の客に自身の正当性をアピールする。 43年前、筑前宮田駅へと所望したにも拘らずバスの営業所へ連れていかれた経緯から、
もっと地理を勉強しろとタクシー会社にクレームを入れる。 「東京近郊区間の路線に乗るからと言って、
前日目覚まし時計をかけずに寝るのはよくない」
と悟る。 「近頃は、座席のリクライニングに後ろの客の同意を求める時代になったのか」
と嘆くことしきり。 その時、何処かのレイルウエイライターとやらが乗り合わせてて、
「どうも、特急列車の客には変なのがいる」
と揶揄される。 列車に乗ると、女子高生から警戒の眼差しを向けられる。
「あのおじ(い)さん、何?キモ〜〜〜〜い」
って…。 「もう今年で94だよ・・・・・・あ、いい手がある。灯子に仕事回そう」 「今年は、足立区に住んでた”あの御仁”の七回忌か…」
とふと思い出す。 「肺病などとうに克服されたと考えていたが、とんだ誤りであった」
と反省する。
同時に、
「しかし、私が知っているあの医者は眼科であった」
などと、余計な事も思ったり。 「今日ではもう、
”高山本線経由の列車で金沢へ行こうとする客が、間違えて富山から猪谷へ戻る車両に乗ってた”、
などという事はないのか…。
私の鉄道に関する有識さを発揮できる場がどんどん狭められている」
と歯軋りする。
それを小耳にはさんで、鼻で笑う、何処かのライターとやら…。 8月15日には今泉駅に行こうとするが、
「今年は無理な情勢か…」と肩を落とす。 「札沼線の非電化区間は、本来今日まで営業する筈だったではないか!
新型コロナウィルス云々などというのは言い訳にもならぬ。
もとより、そもそもこれを廃止などという仕打ち自体が受け入れ難いものであるが」
などと、憤りを新たにする。 浜川崎駅の有人改札を通ろうとしたら、
「ここでは途中下車印は押しませんよ」と釘刺される…。 「個人的道楽のために我々の仕事を妨げるような事はお控え下さい。
興味本位からのお問い合わせには応じかねます」
と、各鉄道会社から抗議或いは警告の手紙が届いてたりする。 「私を味方に付けるのと敵に回すのとどっちが得ですかな」
言葉は穏やかだが実はかなり怖い先生 先生のことではないが
味方に付けても良いことないが
敵に回すと甚だ面倒臭い人ってのはいるw その場所が駅だったから、自らの使命を忘れ、旅立つ客を羨望の目で眺める。
それが原因で犯人を取り逃がし、とうとうクビに…。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています