夜行列車総合スレ★17
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日本の夜行列車も2019年7月現在で定期運転しているのはサンライズ「出雲」・「瀬戸」だけになり、臨時列車で
何とか走っている「ムーンライトながら」も一時期より運転数を減らして残すのみとなり、
これらもいつまで運行が継続されるか不透明な状況で今後が気になります。
その一方で「ななつ星」「四季島」「瑞風」「カシオペアクルーズ」「カシオペア紀行」など、豪華な客室を売りにする
寝台列車は従来の夜行列車とは全く趣向が異なる、ツアー方式クルーズトレインへの業態転換が特徴です。
当スレでは、もはや輸送列車としては絶滅寸前となった夜行列車全般について、
過去の列車の思い出話を中心に語ることで雑談などをします。
辛うじて現役である列車やクルーズトレインは、鉄道路線・車両板の個別スレでお願い致します。
※個別スレへのリンクは>>2以降で
前スレ(夜行列車総合スレ★16@鉄道懐かし板)
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/jnr/1549693515/
鉄道総合板の夜行列車総合スレ(★14)はこちら
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/train/1517052329/ 北陸民だが、関東出張では特急北陸のB個室ばかり使った
多分50往復はした
東京フリーきっぷで乗れたからね
駅前の焼鳥屋秋吉でふたふたになって車内シャワーを浴びてから寝るんだよ
新幹線などいらんかったのになあ >>34
1994年夏に大阪へ恐竜博を見に行くのに往路は銀河のA寝台上段を取った。
山側だったので、当時の通勤経路の大森-横浜あたりの京浜東北線ホームに並ぶリーマンの皆様におっつーwwwという気分に。 >>37
大阪〜金沢を先に造らなかったもんで大阪が大慌てしてるんやで >>37
北陸出身東京在住だが一度も乗らなかったな。
上越新幹線とはくたかか、夜行バスでいいやってなってた。
一筆書きで名古屋経由もよくやった。 >>35
上野7時30分前後は、佐渡1号でなかったか。よねやまは上野を9時台発だったような気がする。
>>36
20系おがで、なまはげを模したテールサインを作った。 >>34
東京〜鹿児島県下は20時間程かかっていたので、避けたい気持ちは確かにある。
食堂車営業がなくなってから、東京〜博多でも選択肢から消えたのでは?
どちらかの時間帯が悪く効率悪くなり、食堂車で気分転換しにくくなった。
売店扱いのフリースペースでは、わびしさが漂って仕方ない。
それに食堂車営業廃止と同時期に、地下鉄が福岡空港へ延伸したし。 東京発着ブルトレの食堂車は1980年頃までだよな
沿線の郷土料理やメニューも多く、車内で揚げたトンカツやエビフライを
車内で食べられてコックも2〜3名乗って食堂車は活気があった
当時は開放B寝台コンパートメントが中心だったので個室といえば1976年
に登場した独房のようなまだ名も無き1人用A個室があっただけ
旧客や20系の52p幅3段蚕棚寝台を経験している身には25形の2段ハネは
何とも過ごしやすくて日中の相席BOXでも気にならなかったし、昔は
それが当たり前だったので苦痛に感じなかった
1989年の春に富士とはやぶさにソロが連結されたので乗りに行ったがソロは
北斗星のソロより機能的で素晴らしかったけど食堂車は劣化というか陳腐化
して最悪だったよ。メニューが少なく、コック1名だからレトルトやレンジチン♪
ばかりで凋落化しており、もう終わったと思ったわ
やっぱり日本食堂門司営業所・長崎営業所・米子営業所でないと・・・ >>43
在来線の昼行特急の食堂車が廃止になりつつあったから、食材等の
スケールメリットが得にくくなったと思う。 国鉄末期のよねやま
9:34 上野発
14:42 直江津着 >>37
自分は金沢市民だけど1989年に単身赴任の東京転勤が決まり、8年間は
出張での金沢⇔上野移動と年4〜5往復の実家帰省などの単純計算で100回近く
乗ってるけど北陸は12両中5両がソロでほぼソロが取れたけど急な出張だと
空がなくて急行能登のB寝台に救われた事もある。
寝台特急北陸が減車する前に乗れて満足だったけど今は定年を迎えて
子供たちも独立したので夫婦で金沢市に住んでるけど昔がなつかしい。 >>42
昭和51年〜昭和54年頃の目撃談で書いたつもりなんだが
急行佐渡・よねやまが併結して運転していた時期はこの頃に
ないんだったろうか?
時間は、あさの通勤時間だったから間違いはないのだが
あの頃の京浜東北線は103系10両編成で3+7or4+6だったか記憶は薄い!!。
大船側が7or6だったかな?で、大船側が高運転台で順法闘争の時代で、
運転台の日除けに新聞を挟んで読みながらの運転(現代では考えられないが)の時代であった。 >>42
9時台発だねよねやまは上野も直江津も
521列車が柏崎と直江津の中間あたりでよねやまの通過待ちをしてた記憶ある。521列車も522列車も523列車524列車も途中で快速や急行通過待ちがやたら多く4列車とも全区間乗らなかったの残念。 49氏の京浜東北103は低運クハ挟んで80年代半ばまであって、たまに方向幕が大磯とかなっててインド人もビックリ、じゃなかったかな?
北陸のアニキさん達には失礼ながら距離から言っても真っ先に廃止されると思っていたのが最末期まで残ってたのが意外 。
wiki見ると、北陸は3桁鈍行→急行→特急と出世魚みたいな列車。昭和30年代前半は大阪ゆきのだった頃もあるとあるので31年の時刻表見たら福井発着で少し残念。
でも北陸601列車の後に上野発米原行きという香ばしい鈍行列車発見。日付けが変わる頃に発車するけど昼間1日走り続けて終着駅には夜7時着というw >>51
学生時代は寝台特急北陸になんか乗れなかった、周遊券で能登か越前の床ごろ寝ばかり、最後尾のスハフ・オハフから立小便したこともある
働き出して少し金に余裕ができてから常宿にしたのさ >>49
昭和51年〜昭和54年頃、急行佐渡・よねやまが併結して運転していた時期はない。
佐渡とよねやまは共通運用で同一編成だった。 >>52
風向きによってはションベン丸かぶりになりそうだなw
列車内からではないが、カーッペッって吐いた痰が逆風に乗って自分にくっついたという話もたまに聞く。 床にゴロ寝するような混雑だと、トイレに行くのも一苦労だわな
どうせタレ流しだし、トイレもデッキも同じだ 最後尾妻面からのアーチ放水
走行中にデッキからいたせば間違いなくびちょびちょになる >>49
佐渡・よねやま以外に、当時上野口の165系は、ゆけむり・なすのなどもあった。
また信州・妙高などの169系とも区別が付いたのかも疑問。
7時台発の妙高か信州も当時はあったと思うが・・ 20系スレでスレチと書かれたヤツへ
>昭和33年10月、全車冷暖房完備の20系特急「あさかぜ」が東京⇔博多間を走るまで、
>旅は楽しいものでも快適なものでなく、劣悪な環境で苦痛に満ちたものだった。
「あさかぜ」はその1956(昭和31)年11月から運転開始
特急なので当然全席指定だから、
>汽車は満員である。2人は通路に新聞紙を敷いて、尻を下ろして一夜を明かした。
なことはない >>57
急行信州・妙高が169系なのは横川〜軽井沢でEF63を連結して協調運転するため
165系も同区間でEF63を連結して運転は可能だけど両数制限がある >>58
>「あさかぜ」はその1956(昭和31)年11月から運転開始
>特急なので当然全席指定だから、
>>汽車は満員である。2人は通路に新聞紙を敷いて、尻を下ろして一夜を明かした。
>なことはない
2人の刑事が列車で九州へ向かったとは書いてあるけど、乗り込んだ汽車は特急「あさかぜ」だったと何処に書いてあります?
九州に向かう列車は「あさかぜ」以外はないのですか?
そしてその引用先の書き込みを見ると、乗り込んだ2人の刑事はその後一人が京都で座れ、もう一人も大阪で座れたと書いてありますよね?
特急「あさかぜ」は京都も大阪も乗客は乗り降りできないダイヤであったのはないですか? >>58
そして小説「張込み」の映画化は「昭和33年1月封切り」と書いてあるよね?
一方で、あさかぜの運転開始は「昭和33年10月」とも書いてあるよね?
であれば、↓の結論はおかしくないですか?
>「あさかぜ」はその1956(昭和31)年11月から運転開始
>特急なので当然全席指定だから、
>>汽車は満員である。2人は通路に新聞紙を敷いて、尻を下ろして一夜を明かした。
>なことはない 特急「あさかぜ」は昭和31年11月から運転しているワケ
「冷房がない。蒸気機関車牽引区間で煙が入るから苦痛」と言われればそれまでだが、
少なくとも急行みたいに床に新聞紙を敷いて座るような環境ではない
その夜行急行「さつま」の対比として、夜行客車急行の環境が改善(全冷房化)されるのは、
(寝台 昭和41年前後)
夜行 昭和48年10月からの「音戸」・「きたぐに」から 横川駅からあさまの(長野行き)の後方に電気機関車が連結されました。
それが、私の初めての横軽経験で昭和の50年代前半の出来事。
軽井沢の西武百貨店に電電公社へ提出するFAX取り付け申請書に
捺印を貰いに日帰り出張で行ったのを思いだしたわ。 蒸気機関車が出すばい煙との闘いが昭和50年まで続いていた
だから、いまでも都会のバカが気動車に乗ったら、トンネル手前で窓を閉めず、他の乗客が注意されることしばし
ID:XaBN2OXHは急行と特急の区別もつかないちょっとおかしいやつなんだろう 種別の正確さも理解できないお子ちゃまかい?(ケタケタ) 老害以前にこの趣味で特急・急行区別できないのはヤバイだろ 話の元の書き込みも確認しないで勝手に自分語りを始める老害w
ttps://mao.5ch.net/test/read.cgi/jnr/1524075510/304 どーでもいいんですけど他スレの揉め事持ち込まないでくれませんか このスレが一番よい話題だね
新幹線が遅れた影響をモロ受けた客車 50系客車なんかつくらんで旧客を使いたおせばよかったのになあ
あの赤い客車はいつ見ても吐き気を催した 地方都市で旧客通勤列車の転落事故がシャレにならんくなったからな
筑肥線に1本だけ残ってた朝の東唐津発博多行で博多駅到着直前に転落した高専生がちょうど入線してきた回送まつかぜ号に轢かれ死亡したのが大きなきっかけだったらしい
この列車は以前から転落事故を繰り返していて地元新聞に載ってたとかこの数週間前にも女子高生が室見川鉄橋で列車から転落する事故が有ったとか
まあここの場合は路線もろとも廃止になって地下鉄に移行したんだがね 別府ヤングセンターへおいでの際は特急富士でどうぞ。
昭和31年時点であさかぜは10両編成で登場、
10両だけど三等はナハネとナハで速度維持
する為に編成軽くするのに随分苦労してた
のがわかる。でもその後20系化される前までに
3両増結が可能だったのは蒸気牽引区間がC59
から62にかえられたとかかな? 秋田出身の友人とその周囲は設備面で50系は好意的に受け止めてたな。
ただし、赤字の国鉄が真っ赤な汽車ってどういう冗談だ?と言ってた。 我々リアルヤングからすると口にするのも恥ずかしい名前だがますます繁盛の様子。自炊1泊
4500円でお芝居付き。帰る日もお芝居見てゆっくりして帰ってねの巻。
だいたい鉄輪温泉は旧型客車みたいな居心地の宿が多いねえ。 はやぶさを待つのに時間があり、小倉でパチンコをしてフィーバーしてしまい、
泣く泣く打ち切った苦い思い出w 50系客車だったら、快速海峡が好きだったなぁ。
今考えたら、ED79の電気暖房のインバーターで冷房を稼働してたって言うし。
10系寝台車も冷房は電気機関車のインバーターで稼働すれば良かったのに。 >>78
転落事故って単に落ちた奴が馬鹿なだけでは?
自然淘汰じゃね? そう思うのはお前の勝手だが、世の中は違うようだな。
つまりお前自身がバカかなのかどうか、何かしらの問題があるって事です。 子供の頃姉ちゃんが
宮城道雄は便所の穴から転落した
と嘘を教えやがった。 盲目でトイレに入るのは難しいからとドアからおしっこしようとして落ちたんではなかったか?大検校の権威損なうから遠慮してあまり言われなかったみたいだが。
教え子の高峰秀子自伝によると三味線のお師匠している間は凄く厳しいが、そう出ない時は動き回ってよくコケたらしい。
今だと銀河で移動ってなんか質素だなと思うが当時は進駐軍車両上がりのマロネ40連結した別格の急行だった罠。 >>85
ああいう使い方もあるんだなと感心した。
貨物の50番台にも装備していたし。 >>77
50系客車で唯一夜行列車で運転されたのは、高松〜高知の快速だなw 10系寝台車は鹿児島線日豊線山陽線北陸線東北線位しか運用なかっただろう。
後はスハフ12系と20系寝台車連結したり。
青函トンネル内の北斗星、はまなすも電源車のディーゼル発電止めて、電気機関車から電気引っ張った方が安全だったんかな? >>93
台湾のように非電化区間のみ電源車を着ける方法がある。 技術進展に伴い、それほど消費電力もなく、かつそれほど長時間停車もなかったからできたこと
カニ22時代には
直流区間で電圧変動が大きくて給電電圧では賄いきれず、ディーゼル発電も併用しただの
架線温度の上昇があったことから、停車時にカニパンが接触する架線箇所は径の太いものにしただの
昭和30年代後半と違って技術が進んだなぁと思わせる記録ばっかり
おそらく昭和50年代後半に入らないと停車時においても機関車からの電力供給は難しかったと思われる 蟹22の電動発電機って電気を力エネルギーに替えてそれをまた電気エネルギーに変換。モータを回してブラシ消耗、発電機回してえブラシ消耗、巨大モータと巨大発電機自身の半端ない重さって気の遠くなるような効率悪さだよね。 >>95
当時の国鉄が何のために軽量客車を導入したかを考えましょう 機関車の電暖用電源供給は長大編成だと間に合わないのでは? 10系寝台車は編成中3両から5両だったし、
青函トンネル内では貨物列車ED79重連で485系6M2Tだったから。架線電圧的には大丈夫?食堂車が不安だったなぁ まぁ北陸、東北は全部が電暖車だから繋げばいいだけの話なんだけど、非電化区間や
電暖車使ってない所を考えると制約多くてやらないな
>>99
どうなんだろうな。前も少し話題になったけど、電暖容量が約300kVA。581は150kVAx2で
10両いけたからそのくらいはいけるけど、北斗星は11両でも食堂車あるから足りないだろうし
函館で電源車用意して繋げてってのは向きもあるしやりたくないだろ
>>97
ディーゼルエンジン+発電機より軽いし効率いいしメンテも楽だけどな
問題はMG、DG両方とも載せたこと
後出しで考えてもこんだけ否定的な要因あるんだから電源車で正解なんだよ しかし終戦直後とかはものすごい人数の乗客が客車の屋根上や機関車の炭水車のうえにへばりついてたというのに、その当時の夜行列車は転落事故は起きなかったんだろうか >>100
交流20キロボルトだから問題ないでしょ
電流値小さいし >>101
東北(黒磯)スジと大阪−米原−北陸(要するに米原経由の「きたぐに」)が両用
冬場「きたぐに」は
電気暖房は停車時切るため走行時に蓄熱のため強くしていたら、下段寝台の乗客から「熱い」と言われ、
電気暖房→蒸気暖房の時は、凍り付いた蒸気管が溶けるまで冷蔵庫となり、乗客から「寒い」と言われ、
ろくなことがなかったとの由 >>104
東北筋はEF58も電暖仕様だったけど
ついでにEF57も電暖仕様に改造してた >>105
指摘サンクス
昭和30年代の客車列車を眺めすぎていたら、つい忘れていた
宇都宮EF58電暖化 昭和45年〜
宇都宮EF57電暖化 昭和40年〜 急行きたぐに復活して欲しいなぁ。
特急きたぐにでいいから。
サンダーバード付属編成とか気動車はまかぜ3両とか 大人の事情で絶対無理いやそれどころか北陸新幹線敦賀開業分断乗り換え必須w あいの風だけは乗り気だがほかの二社が反対しそうなイメージ。 >>102
バングラデシュへ行けば、その答えが見つかるかもw 1970年代の厳冬期に札幌から急行利尻に乗ったが、旭川駅の26分停車で
機関車交換(ED76500→DD51)に変わるためSGの暖房送気が止まると車内は
急に冷え込み、DD51が連結されて蒸気が送られて来ても外気がマイナス13度
もあるため、中々適温まで上がらずにやっと暖かくなったら今度は暑すぎたけど
塩狩峠に差し掛かると外気温が更に下がったのか、今度は適温になったと
思ったら寝てしまった・・・今更ながら極寒の蒸気暖房の難しさを感じた旅であった。 東北線電暖化された後も年末年始臨でゴハチがSG炊いて走ったというのが面白いね。ボイラー運転出来る機関士の手配とか給水とか色々運用面で電暖とは勝手が違ったと思われるが問題なかったんかな? >>116
暖房罐扱うのはボイラー技士もってる機関助士 割と遅くまで関門を越えてた旧客夜行は急行さんべだけど下関到着から門司出発の間は暖房無しだったんだよね
およそ20分程度の暖房カットでも問題にならないんだから九州の冬は楽だな >>116
荷レで使ってた56はSGで残ってたし、特に問題はなかったんでは
>>115
自分が利尻に乗った時は塩狩越えるのに後部補機ついてたな。暖房補機だったのか知らんけど
ちゃんと汽笛合図してて後ろからも推してるのがわかった いったい神岡行きはどうなるのかと不安になり駅員に尋ねると、この「のりくら7号」の後部6両を切り離し、前の3両が神岡行き、後ろの3両が途中の猪谷まで行くのだと言う。
細かい表現は違っているかもしれないが、「時刻表2万キロ」の第一章。
そもそも名古屋からの夜行「のりくら」は何両編成だったのだろう。富山で切り離す付属編成が6両なら、最低でも3両は金沢まで行ったのではないか。とすれば富山までは9両で運転されていたのか。
昼間の「のりくら」と編成を合わせるためだろうが、新聞輸送がメインのような夜行急行を長編成にして、乗車率がどのくらいだったのか気になる。 急行のらくろ(のりくら)
急行ドラえもん(かいもん)
特急のんき(南紀) 今月発売のピクはサンライズ特集だが、個室車も取り上げられ、幅広い資料となっている。
通常号では特に買って良かった。 鉄道ピクトリアル9月号の「特集:サンライズ出雲・瀬戸」と
「285系車内カタログ〜ようこそ"サンライズ瀬戸・出雲"へ」は
読み応えがあった。客車時代の「出雲」「瀬戸」も懐かしく読んだ。 上野〜青森間の東北・常磐線夜行急行に最後まで旧客グリーン車を連結してたのは十和田5号・2号が最後だっけ? >>125
1979年10月の急行十和田5号・2号の12系化で旧型グリーン車のスロ62が編成から外された。
因みに急行八甲田と急行津軽の旧型グリーン車は1980年3月まで、上野発着の上越線・信越線経由の
夜行だと急行能登・急行越前・急行鳥海が全て1982年11月14日にて旧型グリーン車が外されてる。 長距離夜行にロザの需要がなくなったんだね
今ならボックス席よりリクライニングできる方が長距離なら需要ありそうだけど
オロ12かオロハ12を見てみたかった(ジョイトレ除く) 昔は出張規定でグリーン車は良いが寝台車は不可って所が結構有ったからね
新幹線博多開業まで博多あさかぜにグリーン車が連結されてたのはそのせい >>126
旧型グリーン車「津軽」は1978年10月まで、「八甲田」は1979年3月までだろう。
だから>>125は正解で、「十和田」の12系化に伴い外された時期は合っている。 1985年の夏休みに新幹線と583系はつかり号乗って三戸の祖父の家に帰省した。3日後に三戸から立席特急券で客車ゆうづるに乗って青森まで行った。青森では今はなき特急むつ、特急たざわ、寝台特急日本海を撮影した。 俺のおやじの田舎が渋川なので上越線の夜行急行列車も好きだったけど謎なのが急行鳥海が渋川駅を停車していたこと。メリットあったのかな?もちろん上りは早朝なので通過してたけど。 >>128
意外だな。
そのころのB寝台なら(長距離なら今でもそうだが)、グリーン料金より寝台料金の方が安くつくだろうに。A寝台不可なら理解できるが。 >>125 >>129
十和田は12系化でロザなくなったけど、津軽は12系化しても10系ハネにしばらくはスロフ62
ついてたよな。秋田回転車のハネがつくからハネとロネにロザが挟まれてハザは
12系というおかしな編成だったの覚えてる。どっちもなくなったのは55.10じゃないのか >>131
下り急行鳥海は渋川駅(23:02-03)に停車してるね
上り鳥海は通過になってるが上り夜行列車だと
上り急行佐渡4号(708M)が渋川駅停車(3:02-03)だが
この時間帯に利用客があったのかは不明 >>133
この編成表で見ると「つばさ」「やまばと」が6号車がグリーン車の同一編成。「あけぼの」が20系だった模様。
「あけぼの」は55.10に24系に置き換わっているので、この編成表は53.10〜55.9のものだろう。
上野〜青森「あけぼの」は24系化後に、秋田切り離し車両は無くなってるはず。
https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E6%80%A5%E8%A1%8C%E6%B4%A5%E8%BB%BD+%E6%99%82%E5%88%BB%E8%A1%A8#mode%3Ddetail%26index%3D0%26st%3D0 ただ↓によると、53.10直後はまだ「津軽」にグリーン車は残ってるな。
しかし55.10まで持たなかったような。
「八甲田」の12系化か、「十和田」の12系化と同時に「津軽」グリーン車も消えたか。
https://news.mynavi.jp/article/trivia-288/ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています