夜行列車総合スレ★17
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日本の夜行列車も2019年7月現在で定期運転しているのはサンライズ「出雲」・「瀬戸」だけになり、臨時列車で
何とか走っている「ムーンライトながら」も一時期より運転数を減らして残すのみとなり、
これらもいつまで運行が継続されるか不透明な状況で今後が気になります。
その一方で「ななつ星」「四季島」「瑞風」「カシオペアクルーズ」「カシオペア紀行」など、豪華な客室を売りにする
寝台列車は従来の夜行列車とは全く趣向が異なる、ツアー方式クルーズトレインへの業態転換が特徴です。
当スレでは、もはや輸送列車としては絶滅寸前となった夜行列車全般について、
過去の列車の思い出話を中心に語ることで雑談などをします。
辛うじて現役である列車やクルーズトレインは、鉄道路線・車両板の個別スレでお願い致します。
※個別スレへのリンクは>>2以降で
前スレ(夜行列車総合スレ★16@鉄道懐かし板)
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/jnr/1549693515/
鉄道総合板の夜行列車総合スレ(★14)はこちら
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/train/1517052329/ スレ建て乙
>>3のほどちゃんの島ってサイトまだあるんだね、昔よく見てたので懐かしい
今や「寝台車にのるには」の項も歴史的資料になってしまった
比較的新しい話になってしまうが、個人的に2005年のあさかぜ・さくら廃止あたりから加速度的に減っていった印象がある
この年の正月に「あさかぜ」乗ったけどガラガラだった
最後尾にカメラ据えてずっと回してるような人もこの頃はまだ見かけなかった >>9
その意味では「夜行旅客列車スレ」とすべきだったんだろうかw
>>8他
いずれにしても、新幹線の延伸(+幹線の3セク化)が止めを刺す一因になったのは
言うまでもないんだろうけどね
それなりに人気はあったはずの北斗星・カシオペア・トワイライト・はまなすさえ
あっさり消えることになっただけに >>12
昔は郵便や荷物を扱うついでに客扱いしていたような夜行普通列車もあったからどうだろ >>12
その新幹線のおかげでJR北海道は破たんの危機 >>10
それとあけぼのが地元(東北本線沿線)と縁のないものになっていく過程を経験したから
00年代以降の各地で起きた廃止もそりゃ当然だし単に夜行廃止だけで終わるもんじゃないよなという感じで醒めた感覚で見たのはまああった 大きな節目は1994年の単純な減便開始からやね
その後サンライズとカシオペアを製造するも見切りをつけたようで
あとは車両の寿命と運命を共にしただけのこと
歴史をまとめるとこんなもんやで カシオペアはJR北海道が1998年に新幹線建設と言い出したから
※客車の減価償却は20年
サンライズは諸説あるものの、
一番可能性が高いのは、福知山経由で残さなければならなかった山陰出雲と下関あさかぜの併結運転による時刻変更がひどかった
下関あさかぜ(客)東京1900→下関0955、下関1650→東京0733
山陰出雲(客)東京2100→出雲市1057、出雲市1739→東京0657 >>17がバカなのは自分で草を付けていることからも明らか 北斗星・カシオペア・トワイライト・はまなすの廃止は客車の老朽化と
機関車の老朽化と青函区間を走れるAC25KV電気機関車の新製がないから
他にも廃止要因はあるけど 北海道新幹線がいよいよ現実のものになろうとしていた頃のパンフには、三線軌で新幹線と貨物列車がすれ違っているイラストの下に
「夜行列車については、(どうなるか)まだ決まっていません」と書かれていて多少期待してたんだがなぁ
今思うとその時点で既に既定路線だったような書き方にも読めるけど 小学生のころ、直江津発長岡経由上野行きの夜行急行よねやまに何度か乗った
2歳下の弟と2人だけで、ハックルベリーみたいな移動だった
伯父に乗せてもらい、母に迎えに来てもらった
平和な時代だった >>20
病院へ行け
>北斗星・カシオペア・トワイライト・はまなすの廃止は客車の老朽化と機関車の老朽化
新幹線への集約による使用用途損失
新幹線は1編成で一日4往復できるが、北斗星は1編成で一日0.5往復しかできない
はまなすは上記によるDD51廃止が原因
さらに共用区間となった青函トンネルは閉塞と整備の関係から運転本数が決まっており、まだ不足している貨物列車を減らすか新幹線を減らすかしない限り、定期夜行(寝台も含む)を入れる余地すらない
カシオペアは電源車以外重大な故障で運転日を数回連続して運休したことがあったのか?
>青函区間を走れるAC25KV電気機関車の新製がないから
上記より使用用途損失で牽引する列車がないため、機関車は不要 >>23訂正
新幹線は1編成で一日「2」往復できるが、北斗星は1編成で一日0.5往復しかできない
(東京−新函館北斗1往復、東京−新青森1往復) カシオペアが入ってるところがなんだかなあって思うが、20も23も強ち間違いではない。
卵が先か鶏が先かっていうだけ。 カシオペアにしたって当時の交通新聞にJR東との持ち合いで増備の話を
一日一回しか客を運べないものに投資する余力はないから断ったと
当時の柿沼副社長のインタビューが載ってたしなあ 昔は「よねやま」は夜行だったんだ。
知らなかった。
長岡経由の直江津行き昼行急行のイメージしかなかった。 >>11
東京駅でのブルトレは、90年代半ば頃からガラガラだった。
食堂車全廃、阪神淡路大震災の長期運休で、利用者減に拍車をかけていた。 >>29
99年の禾重の「富士」ルポだったかで、合計で1両か2両で事足りる程度の客しかいないというのがあったと思う。
ガラガラの列車追跡はそのころ既に珍しくなかった。 東京駅で通勤帰りの客が下り東海道のホームにあふれてるときに
無駄に空気運んでる寝台特急とかが出発していくのは腹だたしかった
小田原発にしとけと どうせ小田原発だったら>>31みたいな奴は
東京駅で通勤帰りの客が下り東海道のホームにあふれてるときに
無駄に大荷物持って小田原発の寝台特急に乗りこむ客が同じ電車で移動するのが腹だたしかった
飛行機か新幹線にしとけと
みたいな感想しか持たなかったと思う 寂しい話だね。確かに自分が社会出た90年代半ばには九州出張でブルートレインは選択肢に無かった。
昨日秋田今日鹿児島とかのハードスケジュールだったし。ある時同僚が帰りの飛行機が撮れなくて困っていて、面白いからブルートレインの夜行で帰って来れば?と言ったらすかさず「アレは嫌だ」と拒否されたw
80年代だと特に瀬戸内海沿い工場へのサラリーマンの人とかよく乗ってた気がするが。
東京駅出て有楽町新橋のホームのサラリーマン見るとあの人達は普通の日常送ってるんだなと少し感傷的になったものだ。 急行よねやまは、上野発はam7:30発前後だったんだが
1978年ころまで京浜東北線南行きで通勤していて、よく上野から
鶯谷駅のカーブですれ違ったもんだったが・・・記憶違いか?
尾久に回送する寝台特急・急行型電車の隙間を縫って大宮方面に走っていったよ。 JR東日本の夜行急行は最期まで絵柄テールサイン作らなかったな
津軽
八甲田
妙高
アルプス・・・
津軽のHMはイベントのお遊びで見たことはあるけど 北陸民だが、関東出張では特急北陸のB個室ばかり使った
多分50往復はした
東京フリーきっぷで乗れたからね
駅前の焼鳥屋秋吉でふたふたになって車内シャワーを浴びてから寝るんだよ
新幹線などいらんかったのになあ >>34
1994年夏に大阪へ恐竜博を見に行くのに往路は銀河のA寝台上段を取った。
山側だったので、当時の通勤経路の大森-横浜あたりの京浜東北線ホームに並ぶリーマンの皆様におっつーwwwという気分に。 >>37
大阪〜金沢を先に造らなかったもんで大阪が大慌てしてるんやで >>37
北陸出身東京在住だが一度も乗らなかったな。
上越新幹線とはくたかか、夜行バスでいいやってなってた。
一筆書きで名古屋経由もよくやった。 >>35
上野7時30分前後は、佐渡1号でなかったか。よねやまは上野を9時台発だったような気がする。
>>36
20系おがで、なまはげを模したテールサインを作った。 >>34
東京〜鹿児島県下は20時間程かかっていたので、避けたい気持ちは確かにある。
食堂車営業がなくなってから、東京〜博多でも選択肢から消えたのでは?
どちらかの時間帯が悪く効率悪くなり、食堂車で気分転換しにくくなった。
売店扱いのフリースペースでは、わびしさが漂って仕方ない。
それに食堂車営業廃止と同時期に、地下鉄が福岡空港へ延伸したし。 東京発着ブルトレの食堂車は1980年頃までだよな
沿線の郷土料理やメニューも多く、車内で揚げたトンカツやエビフライを
車内で食べられてコックも2〜3名乗って食堂車は活気があった
当時は開放B寝台コンパートメントが中心だったので個室といえば1976年
に登場した独房のようなまだ名も無き1人用A個室があっただけ
旧客や20系の52p幅3段蚕棚寝台を経験している身には25形の2段ハネは
何とも過ごしやすくて日中の相席BOXでも気にならなかったし、昔は
それが当たり前だったので苦痛に感じなかった
1989年の春に富士とはやぶさにソロが連結されたので乗りに行ったがソロは
北斗星のソロより機能的で素晴らしかったけど食堂車は劣化というか陳腐化
して最悪だったよ。メニューが少なく、コック1名だからレトルトやレンジチン♪
ばかりで凋落化しており、もう終わったと思ったわ
やっぱり日本食堂門司営業所・長崎営業所・米子営業所でないと・・・ >>43
在来線の昼行特急の食堂車が廃止になりつつあったから、食材等の
スケールメリットが得にくくなったと思う。 国鉄末期のよねやま
9:34 上野発
14:42 直江津着 >>37
自分は金沢市民だけど1989年に単身赴任の東京転勤が決まり、8年間は
出張での金沢⇔上野移動と年4〜5往復の実家帰省などの単純計算で100回近く
乗ってるけど北陸は12両中5両がソロでほぼソロが取れたけど急な出張だと
空がなくて急行能登のB寝台に救われた事もある。
寝台特急北陸が減車する前に乗れて満足だったけど今は定年を迎えて
子供たちも独立したので夫婦で金沢市に住んでるけど昔がなつかしい。 >>42
昭和51年〜昭和54年頃の目撃談で書いたつもりなんだが
急行佐渡・よねやまが併結して運転していた時期はこの頃に
ないんだったろうか?
時間は、あさの通勤時間だったから間違いはないのだが
あの頃の京浜東北線は103系10両編成で3+7or4+6だったか記憶は薄い!!。
大船側が7or6だったかな?で、大船側が高運転台で順法闘争の時代で、
運転台の日除けに新聞を挟んで読みながらの運転(現代では考えられないが)の時代であった。 >>42
9時台発だねよねやまは上野も直江津も
521列車が柏崎と直江津の中間あたりでよねやまの通過待ちをしてた記憶ある。521列車も522列車も523列車524列車も途中で快速や急行通過待ちがやたら多く4列車とも全区間乗らなかったの残念。 49氏の京浜東北103は低運クハ挟んで80年代半ばまであって、たまに方向幕が大磯とかなっててインド人もビックリ、じゃなかったかな?
北陸のアニキさん達には失礼ながら距離から言っても真っ先に廃止されると思っていたのが最末期まで残ってたのが意外 。
wiki見ると、北陸は3桁鈍行→急行→特急と出世魚みたいな列車。昭和30年代前半は大阪ゆきのだった頃もあるとあるので31年の時刻表見たら福井発着で少し残念。
でも北陸601列車の後に上野発米原行きという香ばしい鈍行列車発見。日付けが変わる頃に発車するけど昼間1日走り続けて終着駅には夜7時着というw >>51
学生時代は寝台特急北陸になんか乗れなかった、周遊券で能登か越前の床ごろ寝ばかり、最後尾のスハフ・オハフから立小便したこともある
働き出して少し金に余裕ができてから常宿にしたのさ >>49
昭和51年〜昭和54年頃、急行佐渡・よねやまが併結して運転していた時期はない。
佐渡とよねやまは共通運用で同一編成だった。 >>52
風向きによってはションベン丸かぶりになりそうだなw
列車内からではないが、カーッペッって吐いた痰が逆風に乗って自分にくっついたという話もたまに聞く。 床にゴロ寝するような混雑だと、トイレに行くのも一苦労だわな
どうせタレ流しだし、トイレもデッキも同じだ 最後尾妻面からのアーチ放水
走行中にデッキからいたせば間違いなくびちょびちょになる >>49
佐渡・よねやま以外に、当時上野口の165系は、ゆけむり・なすのなどもあった。
また信州・妙高などの169系とも区別が付いたのかも疑問。
7時台発の妙高か信州も当時はあったと思うが・・ 20系スレでスレチと書かれたヤツへ
>昭和33年10月、全車冷暖房完備の20系特急「あさかぜ」が東京⇔博多間を走るまで、
>旅は楽しいものでも快適なものでなく、劣悪な環境で苦痛に満ちたものだった。
「あさかぜ」はその1956(昭和31)年11月から運転開始
特急なので当然全席指定だから、
>汽車は満員である。2人は通路に新聞紙を敷いて、尻を下ろして一夜を明かした。
なことはない >>57
急行信州・妙高が169系なのは横川〜軽井沢でEF63を連結して協調運転するため
165系も同区間でEF63を連結して運転は可能だけど両数制限がある >>58
>「あさかぜ」はその1956(昭和31)年11月から運転開始
>特急なので当然全席指定だから、
>>汽車は満員である。2人は通路に新聞紙を敷いて、尻を下ろして一夜を明かした。
>なことはない
2人の刑事が列車で九州へ向かったとは書いてあるけど、乗り込んだ汽車は特急「あさかぜ」だったと何処に書いてあります?
九州に向かう列車は「あさかぜ」以外はないのですか?
そしてその引用先の書き込みを見ると、乗り込んだ2人の刑事はその後一人が京都で座れ、もう一人も大阪で座れたと書いてありますよね?
特急「あさかぜ」は京都も大阪も乗客は乗り降りできないダイヤであったのはないですか? >>58
そして小説「張込み」の映画化は「昭和33年1月封切り」と書いてあるよね?
一方で、あさかぜの運転開始は「昭和33年10月」とも書いてあるよね?
であれば、↓の結論はおかしくないですか?
>「あさかぜ」はその1956(昭和31)年11月から運転開始
>特急なので当然全席指定だから、
>>汽車は満員である。2人は通路に新聞紙を敷いて、尻を下ろして一夜を明かした。
>なことはない 特急「あさかぜ」は昭和31年11月から運転しているワケ
「冷房がない。蒸気機関車牽引区間で煙が入るから苦痛」と言われればそれまでだが、
少なくとも急行みたいに床に新聞紙を敷いて座るような環境ではない
その夜行急行「さつま」の対比として、夜行客車急行の環境が改善(全冷房化)されるのは、
(寝台 昭和41年前後)
夜行 昭和48年10月からの「音戸」・「きたぐに」から 横川駅からあさまの(長野行き)の後方に電気機関車が連結されました。
それが、私の初めての横軽経験で昭和の50年代前半の出来事。
軽井沢の西武百貨店に電電公社へ提出するFAX取り付け申請書に
捺印を貰いに日帰り出張で行ったのを思いだしたわ。 蒸気機関車が出すばい煙との闘いが昭和50年まで続いていた
だから、いまでも都会のバカが気動車に乗ったら、トンネル手前で窓を閉めず、他の乗客が注意されることしばし
ID:XaBN2OXHは急行と特急の区別もつかないちょっとおかしいやつなんだろう 種別の正確さも理解できないお子ちゃまかい?(ケタケタ) 老害以前にこの趣味で特急・急行区別できないのはヤバイだろ 話の元の書き込みも確認しないで勝手に自分語りを始める老害w
ttps://mao.5ch.net/test/read.cgi/jnr/1524075510/304 どーでもいいんですけど他スレの揉め事持ち込まないでくれませんか このスレが一番よい話題だね
新幹線が遅れた影響をモロ受けた客車 50系客車なんかつくらんで旧客を使いたおせばよかったのになあ
あの赤い客車はいつ見ても吐き気を催した 地方都市で旧客通勤列車の転落事故がシャレにならんくなったからな
筑肥線に1本だけ残ってた朝の東唐津発博多行で博多駅到着直前に転落した高専生がちょうど入線してきた回送まつかぜ号に轢かれ死亡したのが大きなきっかけだったらしい
この列車は以前から転落事故を繰り返していて地元新聞に載ってたとかこの数週間前にも女子高生が室見川鉄橋で列車から転落する事故が有ったとか
まあここの場合は路線もろとも廃止になって地下鉄に移行したんだがね 別府ヤングセンターへおいでの際は特急富士でどうぞ。
昭和31年時点であさかぜは10両編成で登場、
10両だけど三等はナハネとナハで速度維持
する為に編成軽くするのに随分苦労してた
のがわかる。でもその後20系化される前までに
3両増結が可能だったのは蒸気牽引区間がC59
から62にかえられたとかかな? 秋田出身の友人とその周囲は設備面で50系は好意的に受け止めてたな。
ただし、赤字の国鉄が真っ赤な汽車ってどういう冗談だ?と言ってた。 我々リアルヤングからすると口にするのも恥ずかしい名前だがますます繁盛の様子。自炊1泊
4500円でお芝居付き。帰る日もお芝居見てゆっくりして帰ってねの巻。
だいたい鉄輪温泉は旧型客車みたいな居心地の宿が多いねえ。 はやぶさを待つのに時間があり、小倉でパチンコをしてフィーバーしてしまい、
泣く泣く打ち切った苦い思い出w 50系客車だったら、快速海峡が好きだったなぁ。
今考えたら、ED79の電気暖房のインバーターで冷房を稼働してたって言うし。
10系寝台車も冷房は電気機関車のインバーターで稼働すれば良かったのに。 >>78
転落事故って単に落ちた奴が馬鹿なだけでは?
自然淘汰じゃね? そう思うのはお前の勝手だが、世の中は違うようだな。
つまりお前自身がバカかなのかどうか、何かしらの問題があるって事です。 子供の頃姉ちゃんが
宮城道雄は便所の穴から転落した
と嘘を教えやがった。 盲目でトイレに入るのは難しいからとドアからおしっこしようとして落ちたんではなかったか?大検校の権威損なうから遠慮してあまり言われなかったみたいだが。
教え子の高峰秀子自伝によると三味線のお師匠している間は凄く厳しいが、そう出ない時は動き回ってよくコケたらしい。
今だと銀河で移動ってなんか質素だなと思うが当時は進駐軍車両上がりのマロネ40連結した別格の急行だった罠。 >>85
ああいう使い方もあるんだなと感心した。
貨物の50番台にも装備していたし。 >>77
50系客車で唯一夜行列車で運転されたのは、高松〜高知の快速だなw 10系寝台車は鹿児島線日豊線山陽線北陸線東北線位しか運用なかっただろう。
後はスハフ12系と20系寝台車連結したり。
青函トンネル内の北斗星、はまなすも電源車のディーゼル発電止めて、電気機関車から電気引っ張った方が安全だったんかな? >>93
台湾のように非電化区間のみ電源車を着ける方法がある。 技術進展に伴い、それほど消費電力もなく、かつそれほど長時間停車もなかったからできたこと
カニ22時代には
直流区間で電圧変動が大きくて給電電圧では賄いきれず、ディーゼル発電も併用しただの
架線温度の上昇があったことから、停車時にカニパンが接触する架線箇所は径の太いものにしただの
昭和30年代後半と違って技術が進んだなぁと思わせる記録ばっかり
おそらく昭和50年代後半に入らないと停車時においても機関車からの電力供給は難しかったと思われる 蟹22の電動発電機って電気を力エネルギーに替えてそれをまた電気エネルギーに変換。モータを回してブラシ消耗、発電機回してえブラシ消耗、巨大モータと巨大発電機自身の半端ない重さって気の遠くなるような効率悪さだよね。 >>95
当時の国鉄が何のために軽量客車を導入したかを考えましょう 機関車の電暖用電源供給は長大編成だと間に合わないのでは? 10系寝台車は編成中3両から5両だったし、
青函トンネル内では貨物列車ED79重連で485系6M2Tだったから。架線電圧的には大丈夫?食堂車が不安だったなぁ まぁ北陸、東北は全部が電暖車だから繋げばいいだけの話なんだけど、非電化区間や
電暖車使ってない所を考えると制約多くてやらないな
>>99
どうなんだろうな。前も少し話題になったけど、電暖容量が約300kVA。581は150kVAx2で
10両いけたからそのくらいはいけるけど、北斗星は11両でも食堂車あるから足りないだろうし
函館で電源車用意して繋げてってのは向きもあるしやりたくないだろ
>>97
ディーゼルエンジン+発電機より軽いし効率いいしメンテも楽だけどな
問題はMG、DG両方とも載せたこと
後出しで考えてもこんだけ否定的な要因あるんだから電源車で正解なんだよ しかし終戦直後とかはものすごい人数の乗客が客車の屋根上や機関車の炭水車のうえにへばりついてたというのに、その当時の夜行列車は転落事故は起きなかったんだろうか >>100
交流20キロボルトだから問題ないでしょ
電流値小さいし >>101
東北(黒磯)スジと大阪−米原−北陸(要するに米原経由の「きたぐに」)が両用
冬場「きたぐに」は
電気暖房は停車時切るため走行時に蓄熱のため強くしていたら、下段寝台の乗客から「熱い」と言われ、
電気暖房→蒸気暖房の時は、凍り付いた蒸気管が溶けるまで冷蔵庫となり、乗客から「寒い」と言われ、
ろくなことがなかったとの由 >>104
東北筋はEF58も電暖仕様だったけど
ついでにEF57も電暖仕様に改造してた >>105
指摘サンクス
昭和30年代の客車列車を眺めすぎていたら、つい忘れていた
宇都宮EF58電暖化 昭和45年〜
宇都宮EF57電暖化 昭和40年〜 急行きたぐに復活して欲しいなぁ。
特急きたぐにでいいから。
サンダーバード付属編成とか気動車はまかぜ3両とか 大人の事情で絶対無理いやそれどころか北陸新幹線敦賀開業分断乗り換え必須w あいの風だけは乗り気だがほかの二社が反対しそうなイメージ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています