青函連絡船7便
>>58
そんなことはない。
青函連絡船のシャワーには何度もお世話になった。
タイル張りの殺風景な区画だったが、当時は列車にはシャワーはなく、
青函連絡船のシャワーは乗り鉄にはありがたい設備だった。 シャワーのお湯の水は、元をたどるとギャレーなどと同じ清水タンクから来ているから、臭いということはないと思う。
函館で積むので、函館の水道水。 >>61
俺が使ったときは、木製のすのこがあったから、そのにおいかも? まあ、青函連絡船に高級な風呂を求めたことはなかったよ 台風来てるけど青函連絡船は普段どおりに運航するのかな? 他の交通機関が止まるのに動くかもという発想は
なぜでしょうか。 海峡ラーメンは、当時の東京の巷のラーメンに比べれば旨かったかも知れんが、これから北海道帰る人間にとっては、特筆すべきはない味だった。
故に函館も桑園も程なく閉店しちゃった。 先週BSで放映された「居酒屋兆治」の録画を見たが、
背景の函館港や津軽海峡にキチンと連絡船が出ていて感動。
造船所のシーンでは背景を通過したのが「檜山丸」と確認できたが、
その他のシーンは船の特定にまでは至らなかった。 平成という時代を通り過ぎても、「津軽海峡・冬景色」という歌で青函連絡船は語り継がれ続けている。
令和が終わる時、北斗星やらトワイライトエクスプレスの存在を覚えている鉄ヲタ以外の人はいるだろうか?
そんなことを、紅白歌合戦合石川さゆりの歌声を聞きながら感じてしまった。
連絡船ファンの皆さん、良いお年を! >>71
第三補機室にし尿処理装置があって、それで処理していたはず。 陸上は垂れ流しで海上は処理か。
そこは逆じゃね?と思う。 >>74
外航船なら洋上投棄じゃないかなあ。
横浜大桟橋に何台ものバキュームカーなんて見たことないし。 青函連絡船のあった昭和は実にいい時代だった・・・・・・・ 携帯電話はないし
給料は手渡しだし
便所は和洋以前にくみ取り式だし 今じゃ考えられないような、怖い事件多かった気がする オレはガラガラのグリーン席でシャワー浴びたあと爆睡してたな
うまく行くと二席占領できたからな 爆睡する人もいて起きたらまた戻っていたこともあるんだろうね 青函連絡船の寝台は列車の寝台と違ってよく寝れたし、料金も安めの
設定(1978年10月2000円・1988年2400円)だったので深夜便で2回ほど
利用した事があったけど約4時間の利用時間が短すぎてちょっと残念。 ゆうづるの若番は早朝に連着だったから、二度寝に使った人も多そうだな。 青函連絡船の通常は出港のどれくらい前から客扱いしていたんだろう?
列車からの接続以外の乗客もいただろう だいたい出航20分前
夜行便となる1・2便(と追加の11・112便)は特急乗継客優先
繁忙期の急行・快速・普通乗継客はほぼ2時台に出る151・158便へ回された >>88
揚げ足取るつもりはないが、✕112→○12便ね。
晩年は深夜便の甲便の便名は11→101便、12→102便になっていた。 >>88
S53.8、急行「しらゆき」から青函連絡船に乗り継いだが、
何とか1便?に乗ることが出来た。
乗り損ねたら札幌の集合時間に間に合わなかった。
(函館で気動車「ニセコ」に乗り継ぐため)
以前書いた話ですまん。 >>90
S53だと、まだ連絡船のお客がいっぱいいて、深夜便は混雑していた頃でしょうね? >>91
そりゃすごかったです。
はつかり、白鳥、みちのく、3本からの客を受けることもあり、
特急からの優先客がぞろぞろとロープ柵の向こう側を行く姿を見て、
「しらゆき」は北海道連絡の列車じゃなかったんだ、と認識しました。
まあざっとの計算で、3列車×650で約2,000人になりますか。 船での宿泊は移動しながら目的地に行けるし、自分にとっては快適で安いし、
欠点は見当たらなかった。 スタビなければ、うねり1なくてもそこそこ揺れるよ。 青函連絡船の「うねり」の等級って1、3、6しかなかった?
当時、「波6、うねり6」とかよく耳にした。 寝台車やグリーン指定席は寝てたからかもしれないけど、あまり感じなかったな
食堂は作る人も食べる人も大変だったんだろうな >>103
17年ぶりくらいか。
地の利がありますな。 津軽海峡では外洋のような波長の長いうねりはないので、うねりの階級は1、3、6ですね。 Jim〜ペンタゴン〜安倍の支配下だからねえ
さて、鮭弁当でも桟敷で食おう >>109
お前に定期便が満員で貨物改造船にまわされて
海峡ラーメンが食べられないでいる俺の気持ちはわかるまい 船の売店で売ってたねぶたの写真の缶の水あめ
あとよくわからない焼きリンゴ、絶対食べきれないで持て余したっけ
も一度食いたいなぁ >>103
よく金があったなあ
でもお化粧直しが終わったら、また見に行こうかな。 海峡ラーメンは長旅の移動の疲れが激しく、食べれる時は食べたが、疲れている時はその気力もなかったな
それほどうまいものでも無かったし >>112
あの垢抜けない商品のラインナップ、あの売店の雰囲気こそ「ザ・昭和」だよなあ
自分は函館の叔母が一緒に乗船して、よく南部せんべいを持たされたっけ
現代でも、青森駅の1階土産物売り場なんか近い感じを醸し出してる、つっても急行はまなす廃止以降は訪れてないんだが
一方函館駅の方は、ずいぶん洗練されてしまったな >>113
早くも動画が上がったがドック入りしたね。
タグ4台で動かしてたが、陸上から右舷側が見えると往時の出航風景みたい。 摩周はエンジン下ろしてるから法令上艀扱いだと聞いた >>120
絶対にかからない。
船としては、完全に死んでいる。 座敷は雑魚寝だけど疲れは取れず睡眠不足だったなあ
みんなどうだった? それでも、夜行列車の椅子で寝るよりは良かったと思う。 そういえばダイヤモンドプリンセス号のトイレはタンク式なのかね?
青函連絡船も海峡汚さないためにタンク式だったけど >>124
し尿はタンク式じゃないよ。
処理して排出。 >>124
汚水処理と真水精製の為に外海に航海してる >>116
南部せんべい!!堅かったなぁ
ピーナツ入りのとかもあったっけ
売店が閉められるともうそろそろ着くのか〜って寂しくなった 青函連絡船は、法改正されるまではし尿はたれ流しだった。
改正後は、第三補機室にし尿処理装置を搭載し、処理して放流。
タンク式だったことは一度もない。 >>127
今だと同じ味で厚さ1/3の「薄くち」ってのがあってだな、とうとう部分入れ歯になっちまった自分でもバリバリいける
あー、厚いのでもビビらずに食えたあの頃に戻りてぇw >>129
水あめがはさまったやつ食べにくかったなぁ >>120
猫娘
「丹念に整備しなくちゃ、再始動は不可能よ。
勝鬨橋の再稼働と同様の手間がかかるわ。
勝鬨橋の可動橋は、当時のデータによると、約70秒で全開になった。」 >>132
国鉄職員はそういう意味では船乗りに非ず。 曳航船での牽引で動かしたけどね…。
だいぶ老朽化が進んでいるので、通常の航行には使えない。
南極観測船宗谷も同様。 老朽化もなにもとうの昔に動力は封じられてプロペラも無いんだけど。 でも老朽化は進んでるんだろうね
末永く函館のランド?マークであって欲しいが そんなヤワな造りなら現役の荒くる航海中にとうに亀裂が入って浸水しとるさ。 ヤワな造りだろ。
全部の船とは言わないが、現役時代に何度か船体に亀裂が入って破口から浸水しとるし。 陸奥半島側に第二青函トンネル作れば良いのに
貨物と在来線通れる 恐らく下北半島って言いたいのだろうけど、
それは水深が深すぎて無理。 1/500の摩周丸と八甲田丸が発売されているんだな いつの話だよ…
その2隻だけでなく、津軽丸形全部揃ってたよ。 そもそもなんで陸奥湾の奥から100kmもの航路を設定したわけ?
下北半島の端から最短距離で結べばいいのに。
戦時中にやろうとして挫折、戦後輸送改善の必要があっても手つかずだった。 >>152
下北の方は大湊線が毎年強風で止まる
なので、津軽半島側に港(今別)をしっかり作った上で短縮となる >>152
幕末に幕府が津軽海峡の航路を設定した際、本州側の発着港として
青森港と下北半島の佐井港をを指定した。
ところが運行を開始してみると、佐井港は手狭な上に冬場の荒波に
対応しきれず、冬場はまともに運行することができなかった。
こうして定期船は青物港発着ばかりになってしまった歴史がある。
さらに下北半島は地形が険しく、陸路での移動が困難だという事情が
重なってくる。
過去には青森から佐井や大間への移動が、陸路ではなく船に頼って
いた時代もあったほどだ。
鉄道や主要国道や高速道路の多くが下北半島に入ってこないのは、
地形が険しく建設が困難だからで、これも北海道渡航に青森港が最も
使いやすくなった原因のひとつだ。
現在も函館港〜大間港間にフェリーがあるが、この利用者の多くは
本州〜北海道間の広域移動の渡航者ではなく、下北半島北部と、
そこから最も近い都市函館を結ぶローカル線としての役割が強い。 青森市内から大間ってクルマで3時間もかかるからねえ。
竜飛は2時間だから、お天気だからひとっ走り行くか!…が下北半島はそんな気分にならなかったなぁ。 なるほど、港が海に突き出していたらイカンということか。
下北アクセス線や連絡港を戦後の土木技術で無理やり作る選択肢もあったと思うが。
戦後早い時期に青函トンネル計画が立ち上がっため手つかずになったのだろう。
(鉄道敷設法に海峡線が書かれたのは洞爺丸事故の前年) 下北は冬場は西風がまともに当たるから無理でしょう。
焼山など、いちばん気象の影響を受けるところだし。
大間埼より東側も、東風の影響があると難しい。
いろいろ考えても、青森とした当時の選択は正しかったと思う。