青函連絡船7便
>>464
乗用車の航送な
自動車輸送って言うとク5000状態だから、ちょっと違う
1便あたり十数台から二十数台、桟橋の都合で航送なしの便もあったんだっけ 青森駅舎解体されてる
これで青函連絡船の面影が消えた >>468
東奥日報の解体現場写真見ると、新駅舎は可動橋へのレール跡上に造られてたんだな。
それにしても今から10階建て駅ビルなんて需要があるのかねえ。 曾祖母と大叔母が洞爺丸で死去。
抽選に当たって、青函トンネルの試乗会の1番列車の先頭車両に乗った。 しばらくぶりにwikiで十和田丸2代のページを見たら、アンコール運航時期の動きが追記されてた。
これだけ時間が経っても情報を煮詰めてくれる人がいるのは嬉しい。 >>475
どういうこと?
乗船は青森駅と函館駅の構内からだから、両駅にはみどりの窓口ありますよ。
船内にあったかってことですか? 昭和29年3月に洞爺丸に乗ったぞ、
函館の問屋の隠居大旦那がそう自慢していたが、
多分、生存者の最高年齢だろうな。
私なんかまだ「鼻たれ小僧」だ・・・ >>475
はい、船内にあったかどうかです
わかりにくくてすいません >>478
いや、十分わかるよ。
で、マルス端末こそないから「みどりの窓口」ではないけれど
案内所で各種切符を売っていた。
普通なら〇〇駅発行となるべきところ〇〇丸発行ってのが嬉しくってね。
で、オンライン発行はできないけどあらかじめマルスから席を抜いておいて、
船内で指定券も売っていたはず。 青函連絡船は普通列車扱いだったから、
利用時はほとんどグリーン船室(指定・自由)に乗ってた。
国鉄時代に青春18....で、深夜便の普通船室に乗ったら、人買い舟状況で、
これは二度と乗るまい...と決意した。
ただ、寝台だけは乗れなかったのが心残り。 >>487
>国鉄時代に青春18....で、深夜便の普通船室に乗ったら、人買い舟状況で、
>これは二度と乗るまい...と決意した。
18シーズンの深夜便じゃあ仕方ないね。っていうかその程度の事は予測出来るでしょ。 >>481
津軽海峡フェリーも道南フェリーも広義では青函連絡船だろう >>488
1984年位の話だけど、年始の北海道からの戻りでは深夜便は定員いっぱいいっぱいだったな。
俺は改造客貨船(石狩、檜山)は乗りたくなかったから函館0:40発を選んで乗ってたけど。
案内所の向かいで新聞紙敷いて寝たよ。
いい思い出だ。 >>481
津軽海峡フェリーも道南フェリーも広義では青函連絡船だろう >>491
新聞紙敷くのは昭和は東京駅でもあった
次第に見なくなり上野駅、急行津軽の自由席辺りが最後だろうか
数年前、東北新幹線が止まった時、東京駅のホームが宴会場になった記憶
昔ながらの東北が一瞬だけ蘇った >>491
俺はグリーン船室のロビーにグリーン船室料金を払って座ってた。
テレビのあるロビーね。 日本国有鉄道青函船舶鉄道管理局
この一言に尽きますね
>>491
その頃でも年末年始はいっぱいいっぱいだったんですね
そういえば小樽に帰る北野広大先生もスシ詰めの列車(12系?)に乗ってましたっけ 昭和63年3月廃止の青函連絡船。
強烈に懐かしい。 「深夜便」って、青森と函館を21時台に出る便のことじゃなかったっけ?
一般旅客扱いは旅客繁忙期だけで、普段は貨物と自動車扱いだけだったけど。
0時台に出港するのは「夜行便」とされていたと記憶している。
>>490 >>492
てーか、津軽海峡フェリーと道南フェリーは同じだよ。
津軽海峡フェリーの前身は道南自動車フェリー(道南フェリー)。
道南自動車フェリーが東日本フェリーから青函航路の譲渡を受けたときに
津軽海峡フェリーに改名したのですよ。
現在の津軽海峡でフェリーを運航しているのは、「津軽海峡フェリー」と
「共栄運輸」と「北日本海運」の3社ですよ。
「青函フェリー」についてはここでは言うまでもないですよね。 0時台に出港するのが「深夜便」だよ
夜行列車にあたるものは連絡線には存在しなかったわな いろいろあるけど、
1(+11)便「夜行便」 0時台出港
151便「深夜便」 2時台出港
がそこそこ多いような 当時の映像見ると船体錆々
最盛期は昼夜ピストン輸送だったから
今の抜け殻みたいな青森函館駅は隔世の感 >>483
新年を迎える汽笛を鳴らすことはありませんでした。
汽笛を鳴らすのは通常のスタンバイ、出航、とも押せと着岸完了です。 摩周丸も座席は一部だけ残してあとは撤去して展示室? 船側では「深夜便」も「夜行便」もとくに定義はなく、用語としても使っていなかった。
便を示すときは「深夜便」とも「夜行便」とも言わず、普通に「便名」を言っていた。
旅客にわかりやすいように事務部の放送などでは便宜的に使っていたかもしれないが、何便が何というとりきめはなかったはず。
待合室は駅側の組織なので、どう呼んでいたかはわからない(駅と連絡船は組織が違うのであまり交流はなかった)
駅や旅客の側で呼びならわしていた用語ではないだろうか? >>506
残してというか残ってだね
展示室にするつもりがなくて結果的に残ったのが窓越しに見られる
桟敷席の復元とか頑張ってるとは思うよ >>434
スカイメイトとかで帰路だけが多かったよ >>509
今となっては深夜高速バスとフェリーターミナルに置き換わってるな >>511
でもそんな帰り方する女性いますかねえ? 臼杵港はいいぞ昭和で
深夜便に乗ったら1980年代へタイムスリップだ 明日2/5 (土) 12:00 〜 12:30のBSフジ
鉄道伝説 第83回は「青函連絡船〜北海道と本州をつないだ海の鉄路〜」
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/jnr/1412668109/781
まあご存じ超低予算番組だから、目新しい貴重な映像なんて望むべくもないが 意味の無い会議してる風の、変な再現シーン使い回しで、延々繰り返すのとか嫌い。わざわざ煙草吸わせたりセピア色にしたり。
その分、車両とか見せろよ って。
取材さぼってるから、放送時間分を満たせる資料が足りないんだろうけど。 静止画ばかりだしな
ユーチューブの方がお宝映像ある 鉄道伝説観てきた
やはり静止画ばかりだったか、戦前の船は観たことなかったから興味深かった エンジンはそのままだが、配管、配線ズタズタで動くことはない。
プロペラは外され、舵は動かないよう固定。
水線下の開口部は溶接封止。
再び動かせないようにするのが条件だから。 1982年3月4日は津軽丸終航の日だった。青森発7:30の便だった。
出航の際、僚船との長い汽笛のエール交換が印象的であった。
函館港での終航式の模様と共に録音してあるから、機会があったら
ようつべに上げとくね。 マリンガールという、萌え萌えなお姉さんが乗務してましたねw
今で言えばイベント列車のアテンダントのようなものかも。 3月12日といえば1988年の3月12日は函館で最終便に乗るために並んでたなあ 今思うと夜行列車と連絡船は連動した交通機関
日本が24時間生産し続けた時代から
バブル期を境に生産から消費へシフトしていく
労働時間は減り給与は横ばいに
コンビやネットが消費のツールとして24時間稼働
連絡船の終わりは日本の青年期の終わりだった >>529
その年の夏休み期間、上野からゆうづる号経由で、リバイバル運航の連絡船で函館入り
翌々年の夏が、MOTOトレインで青函トンネル初体験だったな
今やどちらもどれだけ望んでも2度とは乗れない、貴重な体験だった 3月の定期終航はトンネル開業と合わさってお祭り状態の閉幕。
一方で9月の完全終航、特に十和田丸回航便の船出は定年退職者を職場で見送る風景さながらだった。
無線交信を終わる如く『ありがとうございましたー!さようならーっ!』とスピーカーから響いた涙声は忘れられない。
せつなさ、寂しさとともになんとも清々しいお別れだったね。 地元に密着した青函連絡船
地元民をスルーする北海道新幹線 我田引鉄の考えを未だに引きずってる人がいるとはさすが陸奥 もうすぐ羊蹄丸がお台場から去って、ちょうど10年になるんだね。
月日が流れるのは早いなぁ。 >>534
それなりに裕福な家庭なんだろうけど、今別辺りから青森市内の学校に新幹線通学してるって記事があったな。
3ヶ月で14万強だが下宿させるよりいいという内容。
新幹線は東京へ向かうだけじゃなく、地域内速達にも有効なんだよね。
長野新幹線でも国道が混むからというので、上田⇔長野間の利用は増えたとRJ誌記事もあったし。 >>537
今はその場所に宗谷丸が以前と逆向き(右舷付け)に繋がれてて、新客船ターミナルとアプローチ道路ができちゃいましたな。
でも形見のプロペラは今も金色に佇んでいる。 >>539
レアケース持ち出されても、新青森函館北斗間のみの地元利用者は決して多くない
長野駅と上田駅共に既存の在来線の駅に新幹線乗り入れ
新幹線新駅を作った青森函館とは条件が異なる
懐古趣味で言ってるのではなく、都市計画のグランドデザインが無い事を批判している >>541
なんかお話の焦点が解らないが、グランドデザインとは誰を主体に捉えておられるのかな?
もともと青函航路にしても本州⇔北海道の流通が主眼であって、青森と函館という局所地域の発展を企図したわけじゃないでしょ。 北海道の新幹線というと流山温泉駅はいよいよ駅ごとなくなりそうなんだっけ なくなりそうではなくなくなりました(´TωT`)
駅の見直しってヘンな日本語ですね
ttps://www.jrhokkaido.co.jp/daiya20220312/ >>534
青函は日本の動脈の途中に位置してるだけだよ とよら丸は船館からはバックで牽いて出たよね。
城南島公園で眺めた時も後ろ向きだったが、横浜ポートタワーから見たら前向きになってた。
羽田沖辺りで繋ぎ変えたのかな。
よくあんなデカいデッドシップをタグ3隻で、しかも四国西側を遠回りして運んだものだね。 >>526
氷川丸も最後のシアトル航路の航海を終えて、ユースホステルの施設に改造も、これを施したらしい。
スクリュープロペラは取り外されて、車籍は除籍したよ。 >>414
言葉悪いが発達気質やらアスペ気質なら餓鬼の頃の記憶が意外に残っているもんやで 宇高連絡船の船を青函連絡船に転用は不可能
外洋で波が荒い上にフィンスタビライザーが恐らく付いてないため揺れまくって乗客が船酔いするどころか積んでる貨車が横転の危険性もある
逆はどうなんだ? >>555
宇高の船を青函へは不可能
船の形見てわからないのなら眼科へ行けレベル
青函の船を宇高への転用は不可能ではない
旅客臨時便程度なら代行旅客輸送船としての設備を有している津軽丸型なら可能(ただし接岸できる岸壁深さと岸壁長さが必要だが) 船を鉄道連絡ではなく,自動車航送で使ったことありますか。 宇高連絡船は甲板が低く平べったい形状だな
瀬戸内海は割合波が低いので割り切ったともいえる
うかつに外洋航海したら高波で転覆しそう >>556
青函のやつを宇高に持ち込むと車両航送が出来ない
車両甲板への搬入口の位置が宇高が船首側で青函が船尾側と異なるので桟橋と合わない >>559
そもそも平水区域限定だから青函航路にはつけない 簡単に言うと、ブリタニック号の例では、寒冷地仕様の船なのに、熱帯地方で運用させたのがそれかな。
タイタニック、オリンピック、ブリタニックは、北大西洋航路用の豪華客船であり、寒冷地仕様車。
ブリタニック号は地中海での運行では、相当に蒸し暑かったらしく、船窓は窓全開だったと言う。 今話題の知床の船、元来は瀬戸内海用の船だったらしい
救命胴衣の他に筏みたいなのもあったが間に合わなかったのか使わなかったらしい
らしいばっかりでしょうもないが >>557
乗用車なら何台か乗れた。
大型車は当時から東日本海フェリーだった。