青函連絡船7便
だいぶ前のRFかRJ誌に青函切符コレクション記事があったな。
アンコール最終日の臨3便船内で切符を購入して「函館到着間近だったからこれが羊蹄丸最後の発行だろう」とあった。
反対に十和田丸最後の切符を買ったのは誰だろうな。 浦賀で造った青函連絡船もあるんだっけ?
今、それがわかる石碑とか案内板戸かあるのかな? >>32
松前丸ジャマイカ
機器の動作訓練で浦賀に通ったっての読んだ希ガス 浦賀
1946年以後
北見丸型全2隻
洞爺丸型摩周丸
檜山丸型空知丸
津軽丸型津軽丸・十和田丸 浦賀っていっても、浦賀と川間の2カ所があるぞ。
連絡船は両方で建造されている 【鉄道】青函トンネルの貨物列車全面撤退を断念 北海道新幹線の高速化に課題を残す…国交省
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1566271850/994
994 名無しさん@1周年 2019/08/21 23:23:40.30 ID:r1SrQGim0
>> 981
どちらとも正しい
定期最終日までは車両を積んで航行した
3.13 青森1岸0730発 23便(八甲田丸)
控車20両(最後は桟橋から手押し)
3.13 函館1岸0240発 170便(八甲田丸)
コキ50000×17両
3.13 青森1岸0005発 101便(桧山丸)
コキ50000×16両
コキ60000×1両
ただし、それ以降は車両を搭載していない
また、博覧会用として9月まで臨時運航した2隻も同様 もう見られないスレだが、ナンセンスというか本末転倒というか。
路面が傷むからって高速道路からトラックを追い出すかっての。 >>42
同意。
沈没原因は、運悪く漂砂にキールが引っかかって、横風にあおられて
横転したためということを伝えてほしかった。 >>45
知っている。
以前、図書館の本で読んで知った。
やはり、戦争に関する話は図書館の本を読んで知るのが一番。 片肺航行
エンジンが2つ以上ある船舶にて、片方のエンジンだけで航行すること。
そのままだと、船が曲がって進むため、舵を上手く使ってコントロールする。
当然ながら、航海性能は大幅に低下し、洞爺丸では片肺になると、10ノットを出すのが精一杯になる。
舵が利かなくなり、上から見ると、大きく円を描くようにして走る第四青函丸。 小学生のころお爺ちゃんの船員さんと仲良くなったらその船員さんが
「俺の孫だから」とうそをついて操舵室に入れてくれたのが忘れられない 小学生のとき、神田の交通博物館で青函連絡船の船内で迷子になって船内を探検する映画を観た記憶がある
今の大宮の鉄道博物館は映画設備ないんだよね? じゃ自分も小学生の時の話
青森の叔母さんが函館に帰る自分に「船で読む本」として
学研ジュニアチャンピオンコース「あの事件を追え」を買ってくれた
その中の「洞爺丸沈没」のあまりの迫力と怖さに
八甲田丸の中で震えて泣いたっけ… >>50
一応北館の一番奥にあるが普段は子供向けのビコムDVDみたいなのばかり流してる
ただ時々記録映画を流したりもしてるらしく、今度の週末からは特別展に合わせて
「あさかぜの食堂車で働くスタッフ」のドキュメンタリー映像を流すそうだ
(PDF注意、6頁目)
http://www.railway-museum.jp/press/pdf/20190828_1.pdf 海峡ラーメンは食べてみたけど美味しくなかった。
ちょっとワカメを入れすぎのような。
風呂にも入ったが威張れるほどの風呂じゃなかったよ。 旧船だったらいざ知らず、津軽丸以降は風呂だったら、士官浴室1カ所と部員浴室2カ所の計3カ所しかないよね。 >>58
そんなことはない。
青函連絡船のシャワーには何度もお世話になった。
タイル張りの殺風景な区画だったが、当時は列車にはシャワーはなく、
青函連絡船のシャワーは乗り鉄にはありがたい設備だった。 シャワーのお湯の水は、元をたどるとギャレーなどと同じ清水タンクから来ているから、臭いということはないと思う。
函館で積むので、函館の水道水。 >>61
俺が使ったときは、木製のすのこがあったから、そのにおいかも? まあ、青函連絡船に高級な風呂を求めたことはなかったよ 台風来てるけど青函連絡船は普段どおりに運航するのかな? 他の交通機関が止まるのに動くかもという発想は
なぜでしょうか。 海峡ラーメンは、当時の東京の巷のラーメンに比べれば旨かったかも知れんが、これから北海道帰る人間にとっては、特筆すべきはない味だった。
故に函館も桑園も程なく閉店しちゃった。 先週BSで放映された「居酒屋兆治」の録画を見たが、
背景の函館港や津軽海峡にキチンと連絡船が出ていて感動。
造船所のシーンでは背景を通過したのが「檜山丸」と確認できたが、
その他のシーンは船の特定にまでは至らなかった。 平成という時代を通り過ぎても、「津軽海峡・冬景色」という歌で青函連絡船は語り継がれ続けている。
令和が終わる時、北斗星やらトワイライトエクスプレスの存在を覚えている鉄ヲタ以外の人はいるだろうか?
そんなことを、紅白歌合戦合石川さゆりの歌声を聞きながら感じてしまった。
連絡船ファンの皆さん、良いお年を! >>71
第三補機室にし尿処理装置があって、それで処理していたはず。 陸上は垂れ流しで海上は処理か。
そこは逆じゃね?と思う。 >>74
外航船なら洋上投棄じゃないかなあ。
横浜大桟橋に何台ものバキュームカーなんて見たことないし。 青函連絡船のあった昭和は実にいい時代だった・・・・・・・ 携帯電話はないし
給料は手渡しだし
便所は和洋以前にくみ取り式だし 今じゃ考えられないような、怖い事件多かった気がする オレはガラガラのグリーン席でシャワー浴びたあと爆睡してたな
うまく行くと二席占領できたからな 爆睡する人もいて起きたらまた戻っていたこともあるんだろうね 青函連絡船の寝台は列車の寝台と違ってよく寝れたし、料金も安めの
設定(1978年10月2000円・1988年2400円)だったので深夜便で2回ほど
利用した事があったけど約4時間の利用時間が短すぎてちょっと残念。 ゆうづるの若番は早朝に連着だったから、二度寝に使った人も多そうだな。 青函連絡船の通常は出港のどれくらい前から客扱いしていたんだろう?
列車からの接続以外の乗客もいただろう だいたい出航20分前
夜行便となる1・2便(と追加の11・112便)は特急乗継客優先
繁忙期の急行・快速・普通乗継客はほぼ2時台に出る151・158便へ回された >>88
揚げ足取るつもりはないが、✕112→○12便ね。
晩年は深夜便の甲便の便名は11→101便、12→102便になっていた。 >>88
S53.8、急行「しらゆき」から青函連絡船に乗り継いだが、
何とか1便?に乗ることが出来た。
乗り損ねたら札幌の集合時間に間に合わなかった。
(函館で気動車「ニセコ」に乗り継ぐため)
以前書いた話ですまん。 >>90
S53だと、まだ連絡船のお客がいっぱいいて、深夜便は混雑していた頃でしょうね? >>91
そりゃすごかったです。
はつかり、白鳥、みちのく、3本からの客を受けることもあり、
特急からの優先客がぞろぞろとロープ柵の向こう側を行く姿を見て、
「しらゆき」は北海道連絡の列車じゃなかったんだ、と認識しました。
まあざっとの計算で、3列車×650で約2,000人になりますか。 船での宿泊は移動しながら目的地に行けるし、自分にとっては快適で安いし、
欠点は見当たらなかった。 スタビなければ、うねり1なくてもそこそこ揺れるよ。 青函連絡船の「うねり」の等級って1、3、6しかなかった?
当時、「波6、うねり6」とかよく耳にした。 寝台車やグリーン指定席は寝てたからかもしれないけど、あまり感じなかったな
食堂は作る人も食べる人も大変だったんだろうな >>103
17年ぶりくらいか。
地の利がありますな。 津軽海峡では外洋のような波長の長いうねりはないので、うねりの階級は1、3、6ですね。 Jim〜ペンタゴン〜安倍の支配下だからねえ
さて、鮭弁当でも桟敷で食おう >>109
お前に定期便が満員で貨物改造船にまわされて
海峡ラーメンが食べられないでいる俺の気持ちはわかるまい 船の売店で売ってたねぶたの写真の缶の水あめ
あとよくわからない焼きリンゴ、絶対食べきれないで持て余したっけ
も一度食いたいなぁ >>103
よく金があったなあ
でもお化粧直しが終わったら、また見に行こうかな。 海峡ラーメンは長旅の移動の疲れが激しく、食べれる時は食べたが、疲れている時はその気力もなかったな
それほどうまいものでも無かったし >>112
あの垢抜けない商品のラインナップ、あの売店の雰囲気こそ「ザ・昭和」だよなあ
自分は函館の叔母が一緒に乗船して、よく南部せんべいを持たされたっけ
現代でも、青森駅の1階土産物売り場なんか近い感じを醸し出してる、つっても急行はまなす廃止以降は訪れてないんだが
一方函館駅の方は、ずいぶん洗練されてしまったな >>113
早くも動画が上がったがドック入りしたね。
タグ4台で動かしてたが、陸上から右舷側が見えると往時の出航風景みたい。 摩周はエンジン下ろしてるから法令上艀扱いだと聞いた >>120
絶対にかからない。
船としては、完全に死んでいる。 座敷は雑魚寝だけど疲れは取れず睡眠不足だったなあ
みんなどうだった? それでも、夜行列車の椅子で寝るよりは良かったと思う。 そういえばダイヤモンドプリンセス号のトイレはタンク式なのかね?
青函連絡船も海峡汚さないためにタンク式だったけど >>124
し尿はタンク式じゃないよ。
処理して排出。 >>124
汚水処理と真水精製の為に外海に航海してる >>116
南部せんべい!!堅かったなぁ
ピーナツ入りのとかもあったっけ
売店が閉められるともうそろそろ着くのか〜って寂しくなった 青函連絡船は、法改正されるまではし尿はたれ流しだった。
改正後は、第三補機室にし尿処理装置を搭載し、処理して放流。
タンク式だったことは一度もない。 >>127
今だと同じ味で厚さ1/3の「薄くち」ってのがあってだな、とうとう部分入れ歯になっちまった自分でもバリバリいける
あー、厚いのでもビビらずに食えたあの頃に戻りてぇw >>129
水あめがはさまったやつ食べにくかったなぁ >>120
猫娘
「丹念に整備しなくちゃ、再始動は不可能よ。
勝鬨橋の再稼働と同様の手間がかかるわ。
勝鬨橋の可動橋は、当時のデータによると、約70秒で全開になった。」