青函連絡船7便
>>152
幕末に幕府が津軽海峡の航路を設定した際、本州側の発着港として
青森港と下北半島の佐井港をを指定した。
ところが運行を開始してみると、佐井港は手狭な上に冬場の荒波に
対応しきれず、冬場はまともに運行することができなかった。
こうして定期船は青物港発着ばかりになってしまった歴史がある。
さらに下北半島は地形が険しく、陸路での移動が困難だという事情が
重なってくる。
過去には青森から佐井や大間への移動が、陸路ではなく船に頼って
いた時代もあったほどだ。
鉄道や主要国道や高速道路の多くが下北半島に入ってこないのは、
地形が険しく建設が困難だからで、これも北海道渡航に青森港が最も
使いやすくなった原因のひとつだ。
現在も函館港〜大間港間にフェリーがあるが、この利用者の多くは
本州〜北海道間の広域移動の渡航者ではなく、下北半島北部と、
そこから最も近い都市函館を結ぶローカル線としての役割が強い。 青森市内から大間ってクルマで3時間もかかるからねえ。
竜飛は2時間だから、お天気だからひとっ走り行くか!…が下北半島はそんな気分にならなかったなぁ。 なるほど、港が海に突き出していたらイカンということか。
下北アクセス線や連絡港を戦後の土木技術で無理やり作る選択肢もあったと思うが。
戦後早い時期に青函トンネル計画が立ち上がっため手つかずになったのだろう。
(鉄道敷設法に海峡線が書かれたのは洞爺丸事故の前年) 下北は冬場は西風がまともに当たるから無理でしょう。
焼山など、いちばん気象の影響を受けるところだし。
大間埼より東側も、東風の影響があると難しい。
いろいろ考えても、青森とした当時の選択は正しかったと思う。 津軽半島の三厩から函館への連絡船航路というわけにはいかなかったのか?
津軽半島の方が下北半島より冬の季節風が強いからか。大間に比べれば地形はそれほど険しくないように見えるが。 >>159
築港に莫大な建設費が必要
まだ蟹田北(外ヶ浜)へ作る方がましとおもう >>159
三厩へだって、険しい峠越えがあるよ。
海峡線乗ったことないの? 津軽線(ガニ線)すら戦後になってからの開業だもんな。
もっと早くから蟹田あるいは今別が青森の支港として開発〜発展してたらどうなったろうなぁとは思う。
カーフェリーだって昭和末期〜平成初めまでは三厩や野辺地発着便があったんだがな。 連絡船の港であれば着岸設備以外に列車の留置線確保しなくちゃならないし、カーフェリー以上に建設経費がかかる。
航路の距離が短くなるとはいえ、大間や蟹田なんぞに青森の機能を代替する港を造るのが、コスパで見て有効なのか考えて造らなかったということなんだろうな。 >>163
青函トンネルを作らないと決めていたなら航路短縮のため、
今別漁港浜名地区と福島町字吉岡の北側を結ぶことになる
どちらともそこそこ遠浅なので大規模な浚渫が必要
直線で37km、防波堤などを考慮すれば実航路は40km程度
青函連絡船が113kmだから、36%まで短縮≒およそ片道所要時間1時間35分程度
今別町大字浜名二ツ石地区は国280号より少し北から海側は一部を除きすべて港レベルまで削ることになるけどね
車両基地:津軽浜名駅の北側で電気機関車・電車・客車を受け持ち
三厩にディーゼル機関車・気動車
操車場は青森(そのまま)
福島町字吉岡の道636号より北は一部を除きすべて港レベルまで削ることになる
車両基地:同所
操車場は五稜郭(そのまま) >>164 連絡船が欠航ないし遅延したときに貨物列車停めておく留置線、着岸施設のすぐ近くに造っとく必要ないの?連絡船動いても、津軽線など港に直結する路線の運行中断もあり得る。
それに道路整備も必要。列車だけでなく自動車も載せていたわけだから >>165
どうして今別町大字浜名二ツ石地区を平らにするのかわからないのだろ
そういうやつに解説しても無駄
津軽線も松前線も改良しないと使えない >>164
青函トンネルを作らないなら津軽線の軌道強化や電化もしなかったから
その区間にDE10で貨物を牽いても大した量の貨物は運べないと思う
単線区間のための退避線の延長も気動車4両分くらいしかないからね
青函トンネルはもしソビエト連邦が北海道に攻めてきたら戦車など武器の
輸送も考えたと噂の範疇で聞いたが・・・ >青函トンネルを作らないなら津軽線の軌道強化や電化もしなかったから
意味不明 そもそも青函連絡船のこれ以上の高速化って難しかったのか?現在の青函フェリーも、青森・函館間3時間50分だし。
ジェットフォイルは冬季の欠航が多く採算取れなくて撤退したけどね。 >>171 ナッチャンReraもあったか。技術的に可能であっても所詮は運賃と採算の問題だな。 翔鳳丸型 石炭 15.5ノット 4時間30分 2往復
石狩丸 (初代)型 石炭 14.5ノット 4時間40分 2往復(遅延回復不可能・積み下ろし時間の短縮で確保)
檜山丸 (初代)型 A/C重油→B重油 14.5ノット 4時間40分 2往復
津軽丸 (2代)型 軽油 18.2ノット 3時間50分 2.5往復(積み下ろし時間55分/回)
これ以上早くすると言うことは、3時間10分 3往復での運航が必要となり、表定で22.1ノット(加減速の関係も含めれば最高速力は26ノット)必要
船は速度を上げれば上げるほど燃費が極端に悪くなるため、とんでもなく燃費が悪い船になってしまう 最後の頃は、むしろどうやって遅く走らせて燃料を節減するかを模索してたから、
もし青函連絡船が続いていたら、1船2運航を検討したんじゃないかな?
貨車作業を1時間で終わらせれば、5時間で走ればいいことになる。
そもそも、長距離の旅客はすでにほとんど飛行機で、鉄道の時代は終わっていたんだから、
連絡船も早く走らせるメリットはない。 1976年5月の異常出水を2年かけても食い止められずに断念(1978年6月)
53.10・55.10では13隻25往復運航そのまま
55.10の後、11隻21往復運航が計画される
夜行便は続行が必要なため、それを合わせて7隻の車載客船が必要だった
史実では
津軽丸型7-2(津軽・松前)廃船
渡島丸型6-2(渡島・日高)廃船・2(石狩・檜山)車載客船化
ifでは
津軽丸型7-4(津軽・八甲田・松前・大雪)廃船
摩周1965.6.30 羊蹄1965.8.5 十和田1966.11.1
渡島丸型6-2(渡島・日高)廃船・2(それ以外)車載客船化(十勝丸型)
十勝丸型0+4(十勝・空知・石狩・檜山) ifでは
渡島丸型6-4(十勝・空知・石狩・檜山)車載客船化(十勝丸型)
こっちが正しい
すまそ ジェットフォイルゆにこん、ナッチャンレラ共に、青函航路の高速化が失敗に終わったのは
経済性の他にも漁業補償の問題が有ったのさ。
高速船が故に陸奥湾内での引き波が凄く、養殖筏の損傷の原因となった。
それで漁民と揉めて立ち行かなくなった。 関根浜港からゆにこん・ナッチャンレラを運航すれば問題なかった >>175
ifはないでしょう。
乙便、丙便維持のため、客船は5隻必要。
石狩、檜山の改造は一時しのぎで、その改造当時から連絡船は廃止前提だったから。 息子(3歳)がママと図書館に行って借りてきたのが青函連絡船のDVD。なぜに?渋いな、、、、
DVD見た後積み木で作った『ふね』の上にプラレール載せて『れんらくせん』してた。 >>179
十勝についてはそのまま廃船になり、大雪を延命処置
渡島丸型初期3隻と残り津軽丸型4隻を本州側港を三厩近くへ移転することでの航路短縮と掛け合わせ、
新型車載客船を3隻建造して合計7隻を置き換える
おそらく北海道側の圧力で三厩近くまで東北新幹線が延伸させられる >>182 三厩まで高速道路も造らないとなあ。港に高速道路の建設費考えたら、コスパ悪そう。まあ、青函トンネル造られなくても青函連絡船は衰退の途を辿るだけだろ。 青函自動車道トンネル
規制だらけでムリだな
電気自動車専用なら大丈夫かな 青函海峡の最も狭い所に橋をかける構想もあったような。 トンネルもう1つ造るにしても、東京モノレールのように沈埋トンネルにするとか…技術的問題は知らんけど 青函連絡船末期の連絡船運用維持コストは、今の騒がれている青函トンネルの維持運用コストの1/5
建設費は莫大だが、それなりによいわけ(トータルでは1/1.95)
青函連絡船を維持・修繕していた函館ドックへどれだけ金がつぎ込まれていたのかは、青函連絡船が減船されてからの函館市の歴史が示す通り
三厩付近−函館間 1隻あたりの運航回数を考慮すれば、1日3往復で5隻運用として15往復
これは史実の最終時よりも2往復少ない17往復(8隻。もう入渠時代船が不要になった1988年からは7隻)
1・2は続行が必要で、新津軽丸2隻と石狩丸2隻を使用
新津軽丸A・Bと石狩丸A・B 00-04-08-12-16-20-00 一部貨物(ただし旅客営業することも)
新津軽丸ないし石狩丸C 本02-北06-本10-北14-本18-北22-本02 全便貨物
おそらく新幹線で上野−三厩付近片道5時間弱(1987〜1989年開業時点)なので、
1(00) 新幹線・白鳥あと北海道側特急利用客のみ
3(04) 1便のあふれ 石狩丸側は貨物便
5(08) 夜行列車 石狩丸側は貨物便
7(12) 新幹線
9(16) 新幹線
11(20) 新幹線 石狩丸側は貨物便 >>187 新幹線、連絡船接続で東京・函館間6〜7時間かかるんでは絶対に飛行機に対抗できないって。 >>187 この場合、江差線が青函連絡ルートから外れるから同線の衰退も早まるんだろうね。
今頃は函館・木古内間の存続も危うくなっているんだろうな。 >>188
飛行機と張り合う気がないから減便したわけで
ただ、当時は冷戦時代で、北海道はソ連との内通者が多くいたため、北海道の機嫌をあまりにも損ねると反乱をおこされてしまう
>>189
こればっかりはわからん
貨物需要が高まれば三福航路のフェリーを大型化され、運航率を高められてしまうため、北海道側も(渡島)福島へ連絡船岸壁を設けて対抗するかもしれない
ただ、札幌がアレだから、たぶん道路整備と引き換えに廃止となるのだろうね >>190 >北海道はソ連との内通者が多くいた
ジョークだということはわかりました。
>北海道側も(渡島)福島へ連絡船岸壁を設けて対抗
連絡船の港、幾つもいるのかね?これもジョークですね。 >>191
まあジョークと思っていた方が君の身のためだろうね 三厩とか福島とか、津軽海峡の地理を知らない奴が寝言言ってるな。
地図は見てるけど地形図は見てないんだろうな。
おそらく、連絡船現役時代を知らないゆとり君だろう。 >>195
→>>164
>青函トンネルを作らないと決めていたなら航路短縮のため、
>今別漁港浜名地区と福島町字吉岡の北側を結ぶことになる
>どちらともそこそこ遠浅なので大規模な浚渫が必要 >>197
→>>164
循環させるならそれなりのソースが必要ですね 歌の歌詞にもなった苫小牧発仙台行きフェリーというのは、青函連絡船のライバル? 青函トンネル開業の際
最初のように森蘭航路へ航路変更すれば、それなりに需要があったと思う 鉄道貨物自体競争力がないんだから、函館だろうと室蘭だろうと需要がないことは変わらない。
ちなみに、青森〜室蘭は東日本フェリーの便があったが、「森欄」ではなく「青蘭航路」と言った。 森蘭というから、噴火湾横切って森と室蘭を結ぶ航路と思った。利用者いないだろうな。 青蘭航路って呼び方なかったっけ?
東日本フェリーが1日2往復運航していたよ。
青函トンネル開業直後の頃、18切符の旅行では使い勝手の良い
航路だったなぁ。はまなすに乗るほどお金掛からないし、午前中には
札幌に着けたからね。 時代が古すぎて解りませんな。
青蘭航路は昭和末期の夏休みに夜行に乗ったが、長い時間大揺れしたことと近くのお姉さんのイビキがスゴくて萎えた記憶がある。 >>206
函館に鉄道がないのに
標茶に鉄道がある加佐登? >>208
後半 忘れてた。あとさのぼり 跡佐登
というらしいけど川湯温泉駅近くの字名です そんな計画あったんだ
コロナショックで、市街地の計画はあてが外れただろう
それでも、函館市のポテンシャルは高い
空港、港、温泉、歴史的建築物 1月に函館行ったけどどこもかしこも中国人だらけ
摩周丸では見かけなかったけどね いつも思うけれど、中国国内の方が見るところ沢山ありそうに思う
函館とか、中国から態々来るほどのところか
個人的には函館何十回も通ってるけど >>215
トイレとか食事する場所が不衛生
サービスがいまいち
待つ人のマナーが悪い
食べ方のマナーが悪い
一人一人が自覚すれば済む話なんだが、
それが出来ないから日本に来る 石狩丸はいろいろ手を加えられてあちこち動いた末、比較的早くに生涯を閉じたよね。
檜山丸は火災が起きたところまでは同じだが、沈没したor解体されたと著述によりなぜか最期が分かれてる。
真実はどちらなんだろう。 グリーン指定席で爆睡で眠ってしまったら、車掌は起こさずに検察しなかった
とてもありがたかったよ >>206
現在では使われていない書体の漢字もありますね…。
初めて見る人にとっては、中国語の書体の漢字かと思ってしまいますね。
戦争映画では、現代人も読みやすくするように、現在で使われている
書体の漢字に直されていることを考えてみれば…。 >>223
青函連絡船のことを書いているのであれば、車掌ではなく船員では? >>195
連絡船はゆとりが生まれる前に廃止されたが、
ロスジェネも乗りに行ける年齢じゃなかったよ 洞爺丸。
座礁転覆では4本煙突が海底に突き刺さったと聞いた。
引き揚げ時、その煙突も回収されたのだろうか。
と、マニアックな疑問が昔からフツフツと沸く俺。 煙突は取り外し式だったはずだから、刺さるほどの強度があったのかなぁ? いまだに海底に沈んでる青函連絡船があるんだっけ?
戦艦大和やタイタニックみたいに調査できないのかな? 洞爺丸台風や、昭和20年7月の空襲で沈没した船体が海底に残されているのでは?
そうそう、空襲はたまたま75年前の今日だ。7月14、15。 >>234
まずは合掌…。
浅い港内近辺で空襲・台風15号で転覆沈没したのは、そのままではぶつかるから引き揚げられたみたいね。
台風15号ではバラバラになった第11青函丸以外は船内捜索して遺体収容したとか。
貨物船はその後復旧して10年くらい使ったのにはちと驚きましたが。 十勝丸ね。
函館山沖で一瞬で転覆沈没したと。
引き揚げて昭和45年までスチーム船として現役だった。
ドック入りして無火点検の際は暗い船内、怖かっただろうなあ
俺なら無理ー >>234
鬼畜米軍。
鉄道も兵站輸送しているので軍の一部と言われれば仕方ないが、無抵抗な船舶に対して機銃を雨霰に浴びせて撃沈させるのは国際法違反に準ずると思う。
青函連絡船の戦災記録については八甲田丸の売店で白い航跡と言う本を買った。 諸先輩に質問です。
87歳になる実父は昔、青函連絡船で風呂に入ったと言ってるんだけど、
洞爺丸型には浴槽付きの風呂ってあったの?
津軽丸型にはシャワーだけだったし。給湯7分間でしたね。 >>237
無抵抗?
とんでもない。
当時の青函連絡船は武装されていて、海軍警戒隊員が
乗り込んでいて反撃していましたよ。
先制攻撃するようなことはありませんでしたが。
「白い航跡」を読んだのにそれが解らない? >>239
特等や一等は浴槽があったようだ。
二等以下に共同浴室があったかどうか迄はわからん。
初代十和田丸以降は浴室が無くなったらしい。
※船員用はわからん。
まああの重労働では有った方が有難いんだろうが、真水使用という制約があるからなあ。 >>241
情報ありがとうございます。やはり上級船室にはあったのですね。
って事はウチのオヤジはカネの無い若い時に上級船室に乗ったって事か。
信じられん、、、 >>240
各種の本をよく読んでごらん。
四青函だけ武装はなく、海軍警戒隊員も乗船していなかった。 やはり無防備
一部対空気銃武装は別の船舶だったか
太平洋戦争末期なんて海防艦すら無力だったし >>239
洞爺丸型では、特別室用と一等用の浴室が上部遊歩甲板前部にあった。
二等用は別料金を払って入る方式の風呂があった。
>>241
乗組員用の浴室は、旧十和田丸までは甲板、機関、事務それぞれのの士官用、部員用で計6カ所もあった。
津軽丸型では、士官用1、部員用2の計3カ所まで減らされた。
連絡船は清水をひんぱんに補給できるんで、清水の風呂で、お湯もふんだんに使えた。 >>243
突然四青函に限った話にすり替えないでよ… >>245
更に詳しく有難うございました。
なるほど、二等でも設備自体は有ったと。
車両甲板横と車両甲板下の3等には流石に無かったわけですね。
それにしても洞爺丸型には興味あるなあ。。 NHKの短編映画「青函連絡船」に、二等浴室の映像が出ている。 外人が12時間位かけて泳いで渡ったとかNHKで言ってた 津軽海峡横断泳リザルト
https://ocean-navi.com/channel06/
リタイヤや悪天候による中止も含め、ここ十数年間に
津軽海峡を泳いで渡った(渡ろうとした)人たちのリスト。
意外に人数が多くてビックリ。
世界中から泳ぎに来てるんだなぁ。