もしもあの鉄道路線が廃止されていなかったら?
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
もしもあの鉄道路線が廃止されていなかったら?の"もしも"を語るスレです。 >>21
エスパルスドリームプラザが出来てからその話は度々耳にするけど、
出来たばかりならともかく20年近くたった今ではどうだろうねぇ >>25
もし戦後も存続してたらキハ58系の大阪直通の急行が運行されてただろう。
大阪−三田では急行丹波に併結し、列車名は「ありま」を名乗ってたと思われる。
グリーン車1両と普通車3両の全車指定席急行として満員の盛況を誇っていたが、
中国道開通と国鉄運賃値上げで利用者が激減し、1976年には普通車の一部が自由席になり、
1978年には全車普通車自由席の2両編成、有馬線内は普通列車化と斜陽化したのち、
1980年10月のリストラダイヤ改正で大阪直通そのものが廃止・・・という感じになってただろう。 >>28
電化で有馬路快速運転して盛り返すだろうな。 有馬線
福知山線に合わせたダイヤだったし、直通運転出来ればそれなりに需要はあっただろうね
https://i.imgur.com/OAlvbTo.jpg >>20
あの区間は踏切をなくしたい行政の圧力で廃止に追い込まれた 北陸鉄道 加南線
→曲線改良で大阪方面からの気動車乗り入れ。
大聖寺で分割、2両程度だがキハ58の急行が山中温泉まで直通。
国鉄と線路が繋がっていない山代線が不利になるから、北鉄新動橋駅を改良して跨線橋での乗り換えができるようにして、単行運転のできる新性能車を投入し、山代温泉へ…
…と、ここまで書いて、やっぱり大聖寺対動橋の喧嘩は避けられなかったのかなぁ。
LRT方式で残ってでもいれば、国道沿いの低規格路線でも改良が効いたかもしれないし、温泉の衰退も避けられたのでは…
なんて、勝手な妄想だけど。 定山渓鉄道&夕張鉄道
路線網を拡大したり合併したりすれば北海道の大手私鉄になれてたかも知れない 定鉄は東急系列だから東急が沿線開発してたかも >>34
その失敗の轍を踏んだのが、他ならぬ>>33の北陸鉄道!
元々別々の会社を合併させ、国鉄以外の石川県内の交通網勢力をほぼ独占したのは良いが、線区がバラバラに離れていて連絡網が成立せず、コストや人員配置が分散して統率が取れず、一つ一つの線区は短距離で盲腸線同然。
結局は殆どの路線が廃止されてしまった。 >>34 定山渓鉄道、札幌都心乗り入れしないと存続難しかったのでは?
札幌市地下鉄南北線のルートに近くなるが、真駒内から地下鉄(通常の鉄輪方式)に相互乗り入れしていたら・・京都市営地下鉄東西線と京津線のような方式になるが。 >>37
そこは自前の線路持つのをイメージしてたわ 東武鉄道熊谷線(熊谷〜妻沼)。
利根川を挟んで西小泉まで連絡していたら、あの特急カメ号と、高崎線のオーバークロスと曲線の改良などは必要だったかもしれないけど、埼玉の悲願、高崎線に対する『横の』交通網の一つ、そして埼玉と群馬を繋ぐルートとしてそれなりに機能していたのではと妄想は尽きない。 岡山臨港鉄道
廃止されなければ築港地区が活性化していただろう。 >>39
東武伊勢崎線沿線と熊谷を結ぶルートは途中で行田市を通る秩父鉄道(羽生〜熊谷)がICカード使用不可だから、
もし通じていたらシフトしていた人がおそらくいただろうね。 >>40
59.2改正までに大元止まりの運行体系が改善できなかったのが原因
OR側は国鉄に対して
旅客の岡山、貨物の岡山操への片乗り入れの要請を断られた(1980)時点で
事実上、余命が断たれた状態
ほかにも
岡山市は、1983年策定「岡山市交通基本計画」において
臨港線を存続させ岡電との相互乗り入れするプランがあった >>42つづき
ORが1970年代後半に検討した岡山乗り入れプランでは?
・臨港線は全便が岡山直通(平均26往復、30分ヘッド)
・乗務員は大元で引継せず岡山まで乗務する
・臨港線設備の近代化(CTC化、駅施設改良、留置線延長等)
・気動車を国鉄から譲受(保守・検査等も国鉄に委託)
・設備投資は岡山県・岡山市による資金援助が前提 >>42 岡山・大元間の宇野線を完全複線化しないと難しかったのでは?
県や市は臨港乗り入れよりも宇野線複線化の方が優先課題だったんだろ。 旧西武鉄道村山線が全線開通していたら、
わが武蔵村山にも鉄道があったのに… ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています