【169系】碓氷峠の思い出 その5【EF63】【EF63】
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国鉄随一の難所であった碓氷峠の思い出を語るスレです。
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【489系】碓氷峠の思い出 その4【EF63】【EF63】 [無断転載禁止]©2ch.net
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/jnr/1497453544/ 電気代が凄い事になってただろうな
アプト式時代は回生ブレーキが使えたが粘着切り替え後は電圧変動で空転の危険性があるために発電ブレーキを使ってて陽炎が出てた いつものことだけど違うよ
なんでいつもいつも間違った知識でレス出来るんだろうか いまの技術だったら上り側で溜めた充電を下り側のモーター駆動させてどれくらいの距離使える
んだろうね。
バッテリーだって比重の重いやつをドンと積めるだろうし。元はと積んでいたウエイトのマージンも
あるわけだし。 上越線は直流電化だけEF16で回生ブレーキ採用していたな
回生ブレーキは交流電化のみかと思っていた ED61で回生を使ったけどイマイチよろしくなかったみたいだよね。
故・山之内秀一郎氏の著書だと当時は回生ブレーキ技術が確立されてないし、製作を急ぐこともあって手堅く発電ブレーキを推したとあった。
上層部にはそう報告説明したのに、島英彦技師長からは回生にせよと指示が来て面食らったとか。
最終的にどうやって翻意させたかは著書では尻切れなんだけど…。 >>812
改造機だけどEF67を忘れてるよ。
回生ブレーキというと、ED78+EF71を思い出すなぁ。
碓氷峠とはまた違った山越えで、印象に残る。
ED78が揃うまで、交流試作機が改番されて生き残ってたんだよね。 >>814
なに言ってるかわからん
板谷は直流の頃は64使ってて、交流電化に切り替えたときに78と71になったんだけど
ED94のことを言ってるな901になって20年近く使ってた
>>813
なんて本?
というか、島英彦って誰? >>815
板谷峠と仙山線(こっちは元交流試験線)をごっちゃにしてるんじゃね>>814は >>815
>>818
最後の行、改行し忘れたわ。
あくまでED78(と旧ED45)の話で、もちろん板谷の話じゃないよ。 >>815
英彦じゃないや、島秀雄さんだわ。
これは功績のある故人に失礼してしまった。
山之内さんの著書とは「新幹線が無かったら」という本ね。
粘着化の頃はテスト運転に何度も立ち会って恐い思いしたことも綴られてる。
ヨコカル廃止については『時代の流れで仕方ない』と当時副会長の立場の書き方をされてるけど、それなりの強い思い入れはあったんだろうなあ…
。 鉄道博物館や美術館など多くの文化施設の休館が相次ぐ中、幸いにしてというべきか、ここ文化村
の営業時間などの変更はない。それは来場者数が少ないのもあるが、全体的にゆったりとしたスペ
イスなレイアウトになっており、のどかで自然な空気を満喫出来るからではないだろうか。
政府から自粛要請が出ているにも関わらず、なおもマスクや消毒液を徹底するからと営業を強行す
る業者も依然多く存在しているが、文化村に関しては、そういったある意味軽微な予防対策も十分に
値するくらい、いわゆる空間に余裕のあるスペイスなのではないだろうか。
日差しも暖かくなり、遊歩道も散策にちょうどいい季節になった。
私は運転免許を返上してしまったので、車を使っての移動が出来ないのだが、まだ返上せず免許を
所持していたなら、車で文化村を訪れていたかもしれない。 碓氷峠鉄道文化むら
4月15日(水)から5月中旬頃まで休園 急行「越前」最後の夏となる6月中旬の梅雨入りする前に
友達ら4名で丸山の直線で上り越前を撮影しに行った事がある
夏至まで10日あまりあったけどトライX3倍増感で何とか写せた >>824
うわぁ、時代を感じる!
急行の越前にトライX、増感… >>824
1982年の6月は夏至付近の日曜日でもある6月20日の前夜から横川入りして
旧客夜行の越前と妙高他をバルブ撮影して駅舎で仮眠後、暗い中撮影地まで
歩いて待機したけど梅雨による雨と暗くて写真の上がりは最悪でした。
日の出時刻ばかり気にして梅雨入り前を選ばなかった自分達は負けでしたわ。
その後碓氷峠には臨客入線(ジョイフルトレインより臨時急行信州・軽井沢・妙高
の12系や14系の3重連ばかり追いかけてた)のおり、訪問したけど1993年3月に
急行能登が489系になってからは同地へは訪れていない。 越前乗った事あるけど、軽井沢で機関車の付け替えをすることなんて全然頭の中になかったな。
いや、当時鉄道ジャーナルは買っていたし、Nゲージも少しやっていた。
あの頃の横軽って、特に話題になるような事もなかったんじゃないかな。電化、新型機関車の投
入、、もちろん新幹線の話も全くなかったしな。 1982年中1の夏、夜行で母の田舎の上田に行ってみたかったが叶わなかったのを思い出す。
中学生がそんな時間に着いてなにをすると、説教食らって。 その「当時」がいつのことか知らんが
国鉄最急勾配では知られてたし
峠の釜めしも名物として定着
日常的に名所だった
Nゲージは乗工社のEF63キットがあったくらいか
関水EF65を改造するやつw 残念ながら、115系1000番台3連の無動力でしか経験がないわぁ
一度、協調+パンク状態を経験してみたかった ガタガタガタガタダダンッダダダンッ!ガタガタガタガタ・・・・ 93年に能登電車化は残念だったね。
翌94年でもスキー臨時がまだあって
妙高81号の12系、シュプール野沢つき
14系8連が続行という美味しい冬だった。
飯山線にもDD16で客車とか凄い時代。 >>834
その代わり62の状態がかなりヤバかったけどな
煽りマガにも62ぶっ壊れて高崎まで63で走り、高崎ー上野はPFが牽引した程だけどな 重連じゃなかったろうけど、
下り側(列車側)の単機(上り側運転席)で運行は出来なかったんじゃなかったっけ? 死重はずさないで高崎まで,それも客車を牽引か
まさに想定外の使い方だな ATS?の縛りができる前は高崎とか大宮で検査するのに単回してたの? >>838
回送や試運転で第2エンド側での本線運転はしている EF63は横軽で酷使したのは事実
だから、路線廃止になって良かった >>835
87年にごっそり抜けた残りだしな
抜けた方は東海道・山陽で果てた
>>842
残る前提なら更新しただろ >>843
東海道で初めて見た時は「あれぇ??」と目を疑った 59.2からでしょ、62が東海道いったの
63が高崎までは初めて聞いた
出来るのかね、それ。高二からなにか持ってくればいい話だと思うけど
EF71があけぼの牽いて郡山はあったな >839 も言ってるけど、死重を外さず横軽から出る、ってのがにわかに信じがたい、、
大宮に行くたびにわざわざ死重を外していたくらいなのに 死重外さないで75キロ出したんかな。
OSRは切るの当然として、実際は
もっと出てもメーター振り切ってはやばいでしょ。 実際は横川で死重を外したロクサンに付け替えたとか? >>845
EF71は補機ってわけではないからね
50系客車との組み合わせが結構お気に入り
流石に牽引2両とかいうのはもったいないと思ったけど 廃止直前の旧客5重連の時は
何が原因だったのだっけ 歯車比だけならEF60、EF62と一緒たから、ウエイトハンデを外せば平坦路を飛ばすくらいはできるだろうけど、
そんなドリフのコントみたいにホイホイ外せる代物じゃないからねぇ、、 >>838
軽井沢以遠の架線の霜取りを63にやらせていたことがあった。 へえぇ!
続かなかったのは軌道への影響があったのか、単に63に副業させてる暇がなくなったか、、 OSRって単機の場合は「低」ですよね?
例えば115の3両もつけば旅客列車だから「高」ですよね?
単機の場合、荷がないわけだから停止不能の懸念はないわけですよね?
だったら、単機の場合「高」でよくないんですか?
被牽引車の制動力に依存しているとすれば、下り勾配運転においての63の存在意義に矛盾が生じます。
なぜか、自分は人生の半分をむかえてもこれが理解できないんですよ。
どなた様か教えてください m(_ _)m 車輪制動による非常ブレーキがかかるような事態の場合、
単機よりも、車輪の数が圧倒的に多い牽引時のほうが、やはり制動力は高いのでは?
流石に貨物列車は重いということもあるから、旅客列車よりは低く抑えられているけど、
貨物列車といえどその非常ブレーキ時は、単機の場合より早く止まれる印象があるよ。
たとえば、EF200牽引の貨物列車
https://www.youtube.com/watch?v=IQilrwW4G6E
EF210牽引の貨物列車
https://www.youtube.com/watch?v=FBDaUszXCz8
DF200牽引の貨物列車
https://www.youtube.com/watch?v=m2aVd14eNEU
あくまで印象によるものなので、確かなことはわからないけど、
単機のほうが滑り出したら止まらないと思う。 発電制動が正常に動作してれば単機のほうがすぐ止まるよ
力行加速も勿論とんでもなく早い。
発電故障の非常時の場合や空制でも制輪子異常等ある場合
被牽引編成側に助けられることがあるからという話じゃないかな。 回答ありがとうございます。
「抑速」と「停止」は切り離して個別に考えればよいわけですね、おそらく。 あとは転落事故やったのがEF63+EF62の回送でのことなんで以後機関車回送も低速扱いになったとかじゃなかったかな 思ったんだが、電車の場合、横軽区間は無動力車、つまり客車編成のような扱いになっていたんだな。
下りの場合でもモーターは動力車として作動していなかった。ブレーキだけ63より制御されていた。
そりゃそうか。機関車のノッチ制御で電車のモーターを駆動するにはいろいろ違いがあるからな。
しかし、62など(てか62くらいしかないか)の場合、協調運転をしていた。その為、62の運転士は63の
運転士に交代していた。交代する必要なんてあったのかな。この区間を運転する運転士がコロコロ
変わっていて勝手を把握しきれいないとか。 >>864
「62の運転士は63の運転士に交代していた」って、連結した63の運転士が62の方に移動するってことですか?
「横川〜軽井沢間は横川機関区の運転士に交代していた」ではなくて? 本務機と補機との無線交信でやり取りする区間は、碓氷峠亡き後はセノハチ、石北本線の峠越えで行っていたな。 >>864
169とか189,489等は協調運転してたが その運用構想的に言えば、旅客列車はロクサン1両とかじゃなかったっけか? いっぽうでキハ57列車を1両だけで推してる写真もあったな。
ムック本「碓氷峠」のメカニズムページあたり。
その当時は助士はいたんだろうけどトラブったら終わりだよね。 横軽って助士乗せてたか?
42の時代だって乗ってた?
変則四重連だと総勢8人の動力車乗務員とかヤバくねぇか? >>875
1992年の鉄ピク誌にあった回想録では機関士4人+助士3人とかあったな。
新線建設時期の第26Tから出てくるED42の写真をどこかで見たが、軽井沢側(運転台の無いほう)に立ってる人が写ってた。
たぶん縦曲線で見通しがきかない場所なので、助士さんが前方監視をしてたんじゃないかと。 >>875
>>877
本務機(横川方)と、列車を挟んだ第3補機(軽井沢方)に2人乗務と書かれたものもあった。
現在みたいに効率最優先なら考えられない事だけど、まぁそもそも横軽間自体が非効率、無理やり幹線を通したわけだから。 事情がよくわからないのはDC白鳥やキハ57でED42が横川方に4連していて、軽井沢方に第三補機をつけてない下り列車。
基本とおりついてる写真もあった。
客車より貧弱な連結器だし、かなり負荷がかかったと思うんだけどね。
後年の板谷峠での「つばさ」みたく、ある程度エンジンを吹かしてた? 昔、貨物列車には車掌車がついていたよね。
貨物列車は停車駅も少なく、運行時間が長いわけだけど、貨物車掌って車掌車の中で
相当暇だったと思うんだよね。いまみたいにネットがないからスマホなんか見れないし。
昼寝なんて余裕だろうし、読書でもしてたのかな。デッキに出てたばこもよかったかもし
れない。 デッキに出ずともタバコは車掌室で桶!
話はかわるけど、貨物列車の緩急車で横軽間は使用禁止のクルマがあったよね。
軽いので押し上げた場合浮き上がって脱線しやすくて、ワフのいくつだったか形式は忘れた・・・。 坂本衛さんの車掌マル裏乗務手帳と車掌マル真乗務手帳ってもう絶版かな。
別タイトルでより抜き版みたいのも出たが、やはりオリジナルの2冊が詳しくて良いです。 調べたらEF63に関しては1971年1月から一人乗務開始という資料がヒットした >>883
手元に資料が無いので記憶頼りになって悪いが、
競合脱線をしたのはワフ35000か29500、
ヨについては、2段リンク車が禁止だったと思う。
だから横軽専用車としてヨ3500(長いバネの1段リンク車)が残されていた。
(ヨ3500は2段リンク化でほとんどヨ5000になっていた)
ヨ3500の中には、比較的新しい溶接車体の車両もあった。
>>881
列車の組成状況+後方監視や、組成方の整理など、駅ごとに駅員さんに挙手はしていたと思う。
RJの列車追跡シリーズで、コンテナ列車の車掌室に乗って、
隅田川から東札幌まで行くやつがあったが、
管理局によっては居眠り等のチェックが入ったとの事。
それよりも、居眠りできる乗り心地ではなかったと思う。
長々すまぬ 山岳路線用鉄輪式リニアモーターの実験線にしても良かったのに
粘着の概念が無いので碓氷峠を楽々登ってしまう
リニア地下鉄は60‰まで許容で横浜市営地下鉄グリーンラインは58‰がある リアクションプレートを白山用に上野〜金沢まで敷くの?
アプト時代に逆戻りの特殊装備化じゃないか
まあ、アプトみたいに粘着式より著しく走行抵抗が高いわけじゃないから、リニア化する場合の走行性能上の問題はなかったろうけどな それこそ費用対効果を考えたらありえん、、
身も蓋もないけどな >>890
実験線なんだからそりゃあ儲かるはずないだろう 実験線なら電機メーカー構内の実験線で十分でしょう。
しかし、リニアでも60‰までなのか。それ以上は設計上必要無かったんだろうけど。グリーンラインって山岳路線なのか! 実験線なら電機メーカー構内の実験線で十分でしょう。
しかし、リニアでも60‰までなのか。それ以上は設計上必要無かったんだろうけど。グリーンラインって山岳路線なのか! トンネルからセンター北の駅に上がってくる電車見てると凄い急勾配なのよくわかるよ 中山駅が地下で川和町駅が高架だから自分で高低差作っちゃってるだけ 埼京線大宮のスロープでも30だか33‰だもんなあ。
現代の首都圏で58はスゴいし明治に67‰の路を選んだ碓氷はやっぱ偉業すぎる。 京阪京津線も粘着66.7だわな
ここも偶然碓氷と同時期1997/10に廃止
現存区間が61なのも凄いが そもそも、鉄道に関する技術上の基準を定める省令(旧:普通鉄道構造規則)で許容される最高勾配が35‰となったのは、
御茶ノ水-秋葉原の総武緩行線にある33‰を目安としたとされてるけど、
これも電車だったから、というのもあるんだろうね。
これを超える場合は全部特認ということになるのかな?
>>892
リニアであっても、保守のことを考えると、60‰でもきついので、
都営大江戸線では、後から作られた環状部はもっと緩やか(47‰@Wikiペディア)になってる。
実際のところ、急勾配の路線って、保守はどうやってるんだろう? 秋葉原の話をしてて、
IDが後ろからもうすこしでAKIBAだったw >>898
設計けん引重量500t未満か電車専用の本線路が35‰だったね
>これを超える場合は全部特認ということになるのかな?
軌道建設規定では
>第十六条 本線路ノ勾配ハ千分ノ四十ヨリ急ナルコトヲ得ス但シ特殊ノ箇所ニ於テハ千分ノ六十七迄ト為スコトヲ得
とあるから「特殊ノ箇所」で法令通り 軽井沢を筒石や土合みたいな地下ホームにする案もあった >>902
箱根登山鉄道認可当時の規程がググっても出て来ないのよね
まあ多分特認だと思うが >>901
乗降の手間もさることながら、碓氷峠から西側は火山地帯だから深々と掘るのは無理だろうなぁ。
安房峠トンネル工事みたいにガスや蒸気が噴出…したかも。
だいいち軽井沢には御用邸もあるから地下駅なんてよろしくないしね。 碓氷峠というのはちょっと特殊で、
群馬県側は急峻で600mほどの高低差があるけど、
長野県側はほとんど高低差がない登りきった場所なので、
軽井沢駅をかなり西に移転(または地下駅に)しない限り、峠自体を超えるトンネルとはならず、
どうしても新幹線のような無駄に長いトンネルになってしまう。 廃線を懐かしむなんて後ろ向きな趣味ですねー♪って新入女子社員に言われたよ……(´・ω・`) レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。