そろそろみんなが忘れてそうな事@鉄道懐かし板 8
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
銀座線といえば、地下鉄ではなく都電の1系統だったこと 西武新宿線の上井草駅近くにあるサンライズ本社前にも踏切があった事
井荻駅にも似たような所もあるが、昔は踏切があったかは不明 銀嶺号と言うとバブル当時のゲレンデスキーよりも、60〜70年代の山スキーや冬山登山といったイメージだな。スキー担いで登って山の中を滑って降りてくる。 バブル当時はシュプール号かな。
関西発で北陸大糸線経由で白馬なんてのも気動車使ってわざわざ走らせていた。 そのうち、「びゅうプラザなどという施設があったこと」
と言われるようになるんだろうなあ。
箱根駅伝で田町の旧びゅうプラザ前を通ったときにそう思った。 「田町と品川が隣接駅同士だった事」
と言われる日も来る。 >>825
あれ銀座線って言い出したの誰なんだ?
本通線だよな 小林旭が恋の山手線を歌っていたころは
日暮里の隣に田端があったんだよなあ。 小田急江ノ島線急行の藤沢〜片瀬江ノ島間は各駅停車が基本だった事 京津線800系が水色ベースだったこと・・・
っていう日が近付いている? >>589
映画館のロマンスシート(アベック席)が語源
>>819
サハ813-500はロングで新製されたことも忘れ去られてたぁ 本州と九州(除・沖縄)の40府県のうち、奈良県以外からは東京への直通列車があった事。
上越新幹線開業前までの話。 >>844
東海道新幹線開業まで急行大和あったぞ
本当か嘘か視点どうかそれはさておき、どんどん不便になってる事間違いないな
2023年金沢福井〜関西も乗り換え必須w それは基本的に、大和西大寺・大和八木・松阪・伊勢市・宇治山田・鳥羽・志摩磯部、と停車して、
名伊や阪伊の甲特急と乙特急の中間的存在だった事。
で、この特急は、「伊勢中川に特急が停まるのは、あくまで名阪接続のため」
と示してたように思える。 ホームの端にあった、螺旋のタブレットキャッチャー覚えてる? >>846
あと寝台車が1両だけ和歌山線を通って和歌山市駅まで行っていた >>851
窓を開けてるとたまに謎のしぶきが飛んできたこと。 >>844
上越新幹線開業で東京への直通列車が無くなった県ってあったっけ?
ないような
>>846
急行大和がなくなったのはいわゆるヨンサントオの時
でも「伊勢」「那智」「大和」を「紀伊」に統合しただけで東京と奈良の直通列車はなくならなかった
王寺までで湊町までは行かなくなったけど
紀伊の王寺編成が無くなるのは1972年3月15日改正の時
東海道新幹線開業までじゃなくて山陽新幹線岡山開業までだな 今も秩父や熊本で活躍している元都営三田線6000形が1969年度のローレル賞受賞車両だったこと >>854
「越前」が金沢―福井間廃止(「能登」に改称)で、福井県が東京と直通できなくなった。 >>856
ああ確かに
でも後に福井行復活してますよね >>850
京急本線日ノ出町〜黄金町の沿線にあった
日ノ出町、初音町付近の違法飲食店街や
大岡川をはさんで対岸(末吉町)にあった違法劇場 特殊飲食店とかいう春を売っていたお店
<特飲街の種類>
赤線=半ば公認の特飲街(遊廓街)
青線=非公認の特飲街(銘酒屋街、表向きは飲み屋街) 東京―博多間で最も速い「ひかり」は、
名古屋・京都・新大阪・岡山・広島・小倉
のみ停車だった事。
それでも博多開業当初は6時間56分かかってたけど。 東海道・山陽線不通の煽りで、「あかつき」が迂回運転した。 >>860
黄金劇場
ttps://web.archive.org/web/20120905045041/http://www.koganetheater.jp/page002.html
ようは「やらせてくれる」ストリップ小屋
対岸のちょんの間が閉鎖された後も、しばらく営業してたんだけど?
嬢を監禁していた事が発覚して・・・ 「ひかり」を追い越す「ひかり」
なる現象が見られた事。
山陽新幹線内の停車駅数の違いのせいで。 それが、新大阪以西で、岡山・広島(・小郡)・小倉のみ停車の
「ひかり」に追い越されるシーンがあった。
実態としちゃ、「ひかり」が「こだま」を追い越してるって事と同じだったが。 >>861
当時の新大阪−博多の所要時間は今の新大阪−鹿児島中央の所要時間とほとんど同じだった L特急、なるものの存在。
猫も杓子もこれに指定した結果、存在意義がなくなっちまって、ついに消滅。
物事には程々という事が肝心だという見本に…。 ネルソン・マンデラ葬式でインチキ手話を披露していた謎の黒人。 >>869
それ東海の須田氏は「目的達成したので卒業」って見解出してたぞ。
ちなみに須田氏はエル特急の発案者でもある。 当方に言わせりゃ、あれは卒業なんかに非ず、破綻(崩壊)だ。
L特急に関しては、「ゴーマルサン」の頃位の状況に留めておくべきだった。
その時にしたって、1日4往復の「あやめ」が指定されてたんだから、形骸化は見え始めてたが。
これの3年半後の「ゴーサントー」以降は、完全にL特急の当初のコンセプトを逸脱する有様になってた。
「数自慢」なんてすっかり忘れ去られて、1〜3往復の列車までこれに指定されるようになったから、
”差別化”の意味がなくなっちまった。 ♪ 花の東京のど真ん中〜 クルリ回れば山手線〜…の、「やまてせん」読み。 >>873
「やまのてせん」に改称されたのは、根岸線が開通して、
山手駅が山手線内と誤解されないようにするためだろう。 福岡市地下鉄に方向幕を装備した電車が走っていたこと。 >>874
戦前から読みは「やまのてせん」だったのが戦後進駐軍向けにローマ字併記する際
「YAMATE」としてしまって以来「やまてせん」が広まってしまった。
山の手とは低地だった江戸城周りに対して武蔵野台地上の高い土地のことで
そこに開通させたからその線名になった。 山手駅開業で変わったのは電車先頭の行き先表示が「山手」から「山手線」になったことかな
まあローマ字表記も「YAMATE」から「YAMAMOTE lINE」に変わったけど 「嘗てJRのロングシート車は、大都市圏の通勤通学輸送のために存在してた事」
ってなる時代が、すぐそこまで来てるんだな。 >>875
筑肥線は博多起点で、伊万里まで1本に繋がった路線だった事 名鉄本線の新岐阜(現・名鉄岐阜)駅は
かつて国鉄岐阜駅の近くにあったこと
その当時、各務原線の方は長住駅と称していた
http://tsushima-keibendo.a.la9.jp/gifu/gifu-tram3.html 丸ノ内線の車両(方南町支線の元銀座線車両を除く)は、デッドセクションでも停電しなかったこと 神戸市営地下鉄に山手線が存在していることは忘れられてそう。
もっと忘れられてるのは南海に山手線が存在したこと。 山手線と京浜東北線が、複々線化の後も、
田端―田町間で同一路線上を走行するケースがあった事。
その頃、京浜東北線は終日各駅停車だった事。 東京メトロ東西線は、開業当時より3両→7両→10両というふうに編成が伸びていったが、
7両から10両になる過渡期に8両、9両という変則的な編成があったこと >>888
D51の番号列挙し終わる前に書き込みできなくなっちまうじゃねーか。 東西線の10両化に絡んで、301系の一部の先頭車は、
運転台の窓ガラスを埋められた事。 >>892
対象車両(K1とK2編成の中間閉じ込め4両)は
運転台の機器を撤去改造後も、形式や記号番号の変更はされなかったこと
【M'c→M'o】
クモハ300-1、-3、
【Tc→T】
クハ301-1、-3、
※車号の末尾-1がK1、-3がK2 E257系「あずさ」(11両編成)の2号車は、”クモハE257”だった事。
あの車両の運転台は正規のもので、回送運転台ではなかった。 >>889
編成両数がわかるように、
黄色=ハチミツ=8
緑色=きゅうり=9
赤色=トウガラシ=10
の色で運用番号のSを色分けしていたこと 201系900番代では、唯一番号が揃っていたMM’ユニット(モハ200・201−901)が
サハ(M→T901,M’→T902)に改造されちまった事。 新幹線200系が、「元の12両編成に2階建1両挿入した13両編成で走行した」。
という時期があった事。 103系1000番代と1200番代は、実は先頭車のATC機器だけの違いだった(らしい)事。 >>901
1200番台は編成の組み方がイレギュラー
当時の5号線規格に合わせ、偶数向き先頭車がクモハ102(M'c)
この形式の新製車はクモハ102-1200番台のみ >>901
客室窓が1200番台はユニットサッシだったはず。 走るルンですと名高い701系に喫煙車(トイレ近く)があったこと >>903
実は第1編成のみ1000番台と同じ隅丸窓 当方が所持してるガイドブックの場合、
モハ102・103については、1000番代と1200番代がいっしょくたになってる。 103-1000と1200、中間車も律儀に番台区分を変えてたよな。
ATCの違いだけなら先頭車だけ番台区分変えれば済むような気もするけど。 その場合、クモハ102とユニットになるモハ103の扱いがどうなったかが気になるが。
「クモハ102-1201+モハ103-10**」
なんて事になったのかどうか。 >>907
運用線区の特性上、床下機器配置が多少異なる
103-1200は301と共通運用のため、整備の都合上蓄電池の搭載車など
>>908
上記の都合上、基本的に
103-1200同士でM-M'ユニットを組成(除籍後の入替車等を除く)
ユニットに縛られない組成には、103地上車や301と組み合わせもある
・10連化時、サハ103-0を組成(そもそも、三鷹地下用には新製サハが無かった)
・301と103の5+5や、検査時10連の片割れと5連の混成など 183系は、
「電動車の形式の奇数・偶数は、パンタグラフの有無で決めるのではない」
と証明してた事。
0番代…モハ183がパンタグラフ付、1000番代…モハ182がパンタグラフ付 常磐線快速が利用客増で103系の15両編成化した時、
車両が足りないので千代田線乗り入れ各停用1000番台はもちろん
総武、京浜東北、山手各線からもかき集め、そのままの色でエメラルド色と混結してたこと。
しまいにはエメラルドグリーン・スカイブルー・ウグイス色の三色編成まで登場したこと。 常磐快速の混色は国鉄時代にもありその頃は刑事ドラマで事件を解くトリックにも使われた >>911
ムーンライトながらに使われてた183系は8M2Tの強力編成だったこと。サハが無いのでオール普通車で組んだらこうなってしまった。 専ブラで書いたらアンカーがづれちゃった。
>>910ね。 かつてNETで放映されていた「みどりの窓口」という番組(のちの「レール7」) 昔の時刻表には、「〇〇駅に新たにみどりの窓口が開設されました」
なる記載があった事。 以前は、時刻表の索引地図で、北海道の各支庁の代表駅も二重の四角の表記になってた事。
函館とか旭川なんかも札幌と同じ記号だった。 >>915
1965-1985に、NET→ANBの関東ローカルで放送された
国鉄提供による15分枠の鉄道情報番組
内容は、運行状況、指定券発売状況、現業の広報等
月〜土の帯番組としては1983春改変まで
以降は以下の体裁に変更(番組終了の1985春改変まで)
・月〜金は「おはようテレビ朝日」内の1コーナー扱い
・土のみ従来どおりの独立した番組
諸事情により、1985春改変で放送局をANBからTXに遷り
事実上の後継番組「レール7」としてリニューアル >>918つづき
TXの「レール7」(1985-1991)は
当時、TX朝の帯番組「おはようスタジオ」の放送枠を縮小させた部分でスタート
内容は基本的に「みどりの窓口」を継承してるものの
・月〜金は従来通りの情報番組
・土は事実上の旅行番組
1987春の分割民営化によりJR東の提供
ttps://www.youtube.com/watch?v=gbih7VCcccA
ttps://www.youtube.com/watch?v=LNP3ws0M4ZU
1991春改変にて番組終了
週一の旅行部分のみ「列車でいい旅」に継承される もう、「〇〇元年11月11日」「同2年2月22日」のような日でも、
「1(2)並び」の日付が入った切符は買えない事。
よっぽど奇特な鉄道会社に当たれば別だろうが。 >>910
「パンタグラフは電動車に搭載されるとは限らない」
781系はT車(クハ、サハ)にパンタグラフが載っていた >>921
781系のクハ780・サハ780はパンタグラフだけでなく変圧器・整流器も積んでいたので
MM'ユニットのM'車のモーターが無い車両と言ったほうがいいかもしれない。 >>922
>M'車のモーターが無い車両
モーターがない時点でM表記はおかしいから レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。