廃線跡をたどる
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線路の残る路線、道になってしまった線、断片的な遺構の残る線、等々。
語り合って面影を繋いでいきましょう。 馬返から始まった話なので、ケーブルカーか路面電車しかありえないんじゃ。 >>42
明智平を馬返と間違えたと思ったんじゃね? >>37
平成の初めにカスミには仕事で行ってたが、その頃には道床のバラストしか無かったな。
>>38
Wiki見たら昨秋から解体開始とあるね。
オフシーズン中にドライブインを建て替えってことかいな。
ケーブル駅跡までもぶっ壊すと基礎工事がたいへんそうだが…。 壊すのはレストハウスか。
>>36
一瞬、トイレだけが残った駅舎を想像してしまったw 旧東海道線赤沢トンネル
上りあさかぜのナハネフ22の車掌室横の窓を開けて、ヒュン、ヒュン、ヒュン、ヒュッのリズム・・夏の朝、海が青かった。
廃線後20年ほどして、写真を撮りに行ってみた。
カテドラルを思わせる結構壮大な廃墟だった。 日豊本線細島支線
10年少し前は、日向市駅もまだ高架ではなく、道路になった廃線跡が構内から自然に曲がって
続いていた。
細島駅手前の短い橋梁は外されていたが、まだ川岸に置かれ、橋脚も残っていた。 奥多摩の東京都専用線
まだ名目は休止なんだろうか?
2000年頃、境川から小河内ダムまで歩いてみた。
途中トンネル出水有り、明かり部路盤崩壊有り、ニホンカモシカにも遭遇(熊でなくて良かった)。 古い話で恐縮だけど…
昭和50年頃、北鉄加南線の廃線跡を歩いた時は、まだ所々レールと枕木をを剥がした後の路盤が残っていた。
河南付近の元線路端に、「氣笛」と、古い自体で書かれた標識が立っていて、どれだけ引っこ抜いて持ち帰りたい気持ちに駆られたか…。
北鉄で割と後まで残った小松線(昭和60年廃線)に、この標識が最後まで使われていた。 昔、京都から小松まで仕事でちょくちょく行ってた。
ある日は北陸道走らず電車で小松まで行ってレンタカー借りた。
初めてな得意先訪ねると工場兼自宅、妙に前の歩道が広い。
「ああ、ここ汽車走ってたんですよ」と教えてくれた。
そしてレンタカー。
やけにだたっ広い空き地にポツンと営業所。
後で尾小屋鉄道の駅跡と知った >>50
尾小屋、懐かしいですね。
吉竹から遊園地前まで歩きました。
その「遊園地前」だけど、あれほど駅名と実際のギャップに驚いた場所は後にも先にもなかった!
後で知ったのですが、遊園地は単なる計画だけだったようです。
余談だけど、小松は地元では「ま」にアクセントを置くんですね…。 >>11
道路に埋まった線路が一部見えるところがあるみたい >>46
真鶴の辺りでしたっけ?
あのトンネル、立ち入りできるんですか? プリウスを軌道自動車にして赤錆びた線路の残ってる廃線跡で実験すればいい。
たとえば、工場への引き込み線や、港のヤードとか。 昭和の終わりに青森市に住んだとき、複線電化(東青森経由)前の旧線跡をチャリで辿った。
早くに遊歩道や公共施設が建てられたせいか、レンガの橋台くらいしか名残は無かったな。
東京でいえば小さな商店や民家に挟まれた小名木川線みたいな場所なんだよね。
そんな所を長編成のDCはつかりや重連蒸機の20系はくつるが、ガンガン行き来してたなんて信じられなかったな。 廃線跡って今と昔を繋いでる感じがしていいんだよなぁ
単に鉄道が好きなのかもしれない
はっきりと残ってるよりも、うっすら昔の面影が感じられるレベルで残ってるのがしみじみする 森林鉄道が高度を稼ぐ多重オメガループが好きだ。
遠山にある奴は登山道入口の駐車場になっており、一部をたどることができる。
ただし、森の中はヒルの一大生息地で頭上から降ってきたりするらしい。
俺は無知な状態で崩落箇所まで遡ったが、そうと知ってからは足がむかねぇw 20年以上前網走でレンタカーを借り湧網線廃線跡を辿ったことがある
今カーリングで話題の常呂も通っていた線でっところどころまだ線路が残っていた
佐呂間駅跡には駅舎もまだあった
湧別駅も取り壊し寸前の駅舎も残っていた みんな、絶対行ったことある西武安比奈線、とうとう撤去作業が始まったな。
もう一度行くなら今のうち。 >>61
今は自転車道になってるところかな。
高校時代の吉田知那美選手は常呂から網走まで片道30キロを自転車で遊びに行ってたって。 すごい!よく分かりましたね。ありがとうございました、 >>45
>一瞬、トイレだけが残った駅舎を想像してしまったw
宗太郎駅を連想したわ。 >>64
廃止後に文化財登録されて名鉄所有のまま保存されてるのかぁ。
改めてwki見たらレールバス運転てずいぶん長かったんだな…。 なんか関係ないとこで、物凄く有能な地図サイトが・・・
地質図Navi
https://gbank.gsj.jp/geonavi/geonavi.php
表示選択→データ表示→地形(山マーク)→「鉄道地質」
で2017年の路線図表示、下のバーで年代調整
1950年→2017年の全国鉄道路線図が。。。
国鉄・私鉄に路面まで、更に駅位置まで
流石に貨物線とか専用線とかはないですが ちょっ・・・凄いページだな。
地質図ナビ自体は知っていたけど鉄道オーバーレイは知らなかった。
ためしに1951年を見ると、大糸線や紀勢本線が全通していない。
しかし中央本線の塩嶺トンネルがあるw。尼崎港線がない。
軽便では近鉄法隆寺線がある。旧大和鉄道線も健在でこのエリアの鉄道密度が凄い。
驚いたのは田口線の鮎淵駅で、釣りシーズンだけの臨時駅なので地形図には載ってない筈。
もうひとつ。本郷軌道があるw 当時現役の人車軌道と言われるが。
国土地理院も、旧版地図まで詳細を公開しないかな。今は概要がボヤっと見えるだけ。 草木湖の水位が下がってきたというけど、草木駅の痕跡は出てきてるかな?
ブラタモリで特集してほしいが。 場所は下の方だから、普通の夏の水位低下レベルでは見えないはず
草木湖の水を抜く!くらいしないと 錦秋湖も草木湖も山行が平沼先生が過去に暴いてくれてるな。
草木湖は自分も貯水率20%未満の時期に行ってみたが、それでも駅跡付近は水があったし沈澱泥だらけで何も判らなかったよ。 >>55
隣の金町じゃなくて?
三菱製紙の専用線があった時代に使っていた留置線だね。 921 : 名無しでGO![] 投稿日:2008/11/15(土) 17:41:15 ID:TUgZwtmoO [1/2回(携帯)]
千葉の愛宕山の麓の寺門って地区の山中にで1067mm軌間のレールが200m近くひかれてるの見つけたんだが
該当する未成線ないよね?
一体なんだろ、SLホテルかなんかの残骸?
↑こんな書き込みを見つけたんだが、これがその後どのような結末になったのか調べても出てこなかった
一緒に貼られた画像などもあったようだがリンク切れ
誰か知ってる人いないか? 覚えている。
現地に行くという人柱が出てから後は判らない。 >>81
すまん、URL貼ろうとしたらNGワードに引っかかった
>>82
検索するとその辺りまでは出てくるんだが、その後どうなったのかまでは分からなかった こんな山奥かあ
国道410号から分岐した山道しかない
こりゃあ観光ついでとかじゃなく本腰入れないと探索できないだろうなあ >>82
その言い方、なんかコワイ
俺、その場所なら2〜3時間で行けるから行こうと思ってたけど、
違うモノ発見したらどうしよう・・・ 数年前、寸又峡温泉バス停付近で駐車場脇の千頭森林鉄道?の展示車両を偶然発見。まだ健在かな。
その奥何箇所かに鉄道跡のような緩いカーブの小道もあって草をかき分けつつ歩けた。 つい先日見たわw
屋根もあり人里離れているせいか保存状態は良い。 >>87
廃線跡をさかのぼっていくと、もう何両か飾ってある所を見れるよ みんなは東急東横線跡(桜木町〜)はどう見ているのかな >>91
ニューヨークの高架貨物線廃線跡みたいにするのかな? スレを維持できそうにない関連ネタは寄生するしかない。
どーぞ。 少ないだろうけど専用軌道跡なら…だね。
ここはデータの羅列ではなく、廃線の前後を知ってたり現地を歩いたリアルなレポを書くスレだから。
書籍で紹介されてたが、行ってみたら工事されて遺跡が無くなってた(泣)…てのも歓迎ですな。 道になってしまった線は良くて最初から道だった場合は駄目なのか? >>101
いいんじゃないの?
ただ、本当に当時を知る人同士しか、共有する楽しみがないかもね。
何せ痕跡が殆どわからないだろうから。 何も痕跡がないとなると、もはや廃線「跡」とは言えないのかも 東京の銀座通りに都電がありましタァ。それは事実ですが痕跡はありません。
と、いうネタで他人が喜ぶかどうか、だろうねw
自己判断を。 あと、遺構はよく残っているけど、廃線が戦前(例として善光寺白馬電鉄)なんて場合も、楽しみを語るというより、考古学調査みたいに感じるな。 倉吉線
廃線後、数年間はレールは一部撤去、駅ホームなどはそのまま放置されていたが、
現在はレールは大部分が撤去されて線路跡は道路や遊歩道などになり、また西倉吉などの駅跡は公園やバス乗り場などに変わっている。
倉吉線唯一の山守トンネルは現在も残っていて、この付近はレールや橋梁も残されているが、山守駅跡はサイクリングロード化されている 日本鉄道(=東北線)宇都宮〜矢板とか官鉄の関ヶ原〜米原付近も早い時期にルート変更されたよね。
人海戦術でこしらえたものを十年そこらでよくも「やっぱこっちで」的に切り替えたものだ。 じゃ大仏線
稼働 明治33〜39年 だけの本線
いまも遺物あり >>112
大仏鉄道 で 検索してごらん。
京都府側はかなり残ってる。 今日は築地市場の最終日
日比谷公園のイベントに行ったついでに線路の遺構を探すのも良いかも >>108 碓井馬車鉄道の廃止が明治26年、千住馬車鉄道の普通馬車営業廃止が明治29年。
早期に開通した官営鉄道路線に並行する馬車鉄道、人車鉄道調べれば、これよりもっと早く廃止された路線もある可能性。
馬車鉄道から軽便鉄道、更には軌道に転換したような場合を「廃止」というべきかが問題となるが。東京馬車鉄道という大物があるので。 実際に自分で行って見た風景・どう感じたくらいはやっぱり書こうよ。 赤城山の上に行けば、赤城登山鉄道ケーブルカーの廃線跡がよくわかる。
特急「りょうもう」との接続輸送で結構な数の利用者が見込めるのではないかと思ったが、麓の駅が不便すぎたのが問題だったそうで。 山麓側は大間々の街を抜けて122から左折するとガクンと上がって、さらに県道から外れて到達するまでひたすら上り詰めなんだよ。
当時のバスじゃオーバーヒート必至だったんじゃないかな。
赤城温泉のある南面からのつづら折り道が古そうだし、旅人や修験者が行き交う街道筋とは思えない。
利平茶屋なんて昔からある地名なのかねえ。 廃線跡にスポットを当ててくれた故宮脇俊三先生マンセー >>123
先駆けは同じく故人となられた堀淳一さんだよ。 >>124
「消えた鉄道」っていう本を書いた先生かな?(そんなに厚い本じゃない)。 >>125
そう、「消えた鉄道を歩く」だったかな。
文庫本サイズで全6篇(箇所)くらい。
それを読んで当時近場だった奥羽本線矢立峠旧線・旧国道をバイクで探ったものです。
SL末期はこんな山の中を通ってたのか…と雰囲気は味わえたな。
はるか後に“山行が”のレポにはまったのは言うまでもなくw >>126
自分が持ってるのは「消えた鉄道・レール跡の詩」という新書版?の本で、〔そしえて〕というところから出版されたものです。
久しぶりに読みたくなってきたなぁ・・・ 1960年代〜80年代の国鉄は、
1.非電化のまま新ルート化(場所により数年してから電化)
2.旧ルートのまま電化、数年してから新ルート化(+複線化)
3.一気に複線電化+新ルート化
4.電化済みだが新ルート化(+複線化)
こんなんであちこちに廃線跡ができたが、蒸気機関車が無いと記録もなかなか表に出ないよね。
特に2.のケースは中央本線や羽越本線にあるわけだが、中平信号場を行く「しなの」や五十川付近の海沿いを走る「いなほ」や「白鳥」の写真は見たことがない。 松前線
1990年代に松前を訪れた時は、まだ赤い鉄橋が残っていたが、今はその鉄橋も撤去されたらしい 一気にメジャー趣味にしてくれたのはやっぱり宮脇先生だよ いずれにせよ、大先輩たちに対する感謝は尽きないですね 1968年に付け替えられた、総武本線の物井〜佐倉間も、
>>128で言うところの3番に当てはまるんだろな…。
まあ、付け替えた際に529メートル短縮したのに、
営業キロは付け替え前のまま、今日に至るんだよ。
営業キロも実態に添っていれば、佐倉〜錦糸町間は50キロジャストになって、
運賃は勿論、特急券や快速グリーン券も安くなったんだが、当時の国鉄ときたら…。(~_~;) >>133
Googleマップの航空写真見たら、驚いたことに物井側のわずかな痕跡がスポットになってる。
「歩く」の何巻かに野っ原の中を行く汽車が写ってたが、今でもほとんど耕作地とは…いやはや。 >>134
途中の築堤のあたりにはレンガの橋台跡と説明板もありますね。 >>137 筑波鉄道真壁駅だったと思うが、20年少し前、行ったときはこんな感じだった。
今は、サイクリングロードが延びて、整備されているが。その当時は整備されていたのは筑波駅付近までだった。 >>138
真壁駅は交換施設付きで、駅自体は集落の中にあったから、何かの勘違いじゃ?
>>136は鹿島鉄道の坂戸駅
ttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Sakado_sta_katetsu.jpg >>139 20年前、真壁駅が草ぼうぼうだったってことよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています