【最南端】南薩鉄道・一草目【薩摩湖】
か細い軌道の上を赤いディーゼルカーが走る
夏は草がのびて吹上浜・薩摩湖駅間では枕木が砂丘に埋もれるのでバラストは撒かない
加世田駅構内には二軸気動車や崩れそうな木造客車が放置されたまま
そんな噛めば噛むほど味が出る最南端の非電化ローカル私鉄について横揺れ激しく語り合いましょう
※知覧線・万世線も忘れずに 先輩諸氏が横揺れの激しさについて語っておられるが鹿児島市電(500・600・800形)で慣れてたから(自分としては)余り感じなかった 南薩鉄道を買収した鹿児島交通(の親会社)岩崎●●なら考えられますね
ただ1968年に(一度は)鉄道廃止を提案しておりますので売却を諦め補助金狙いに軌道修正した節ありですが
軌道が悪いだけに 補助金もらって申し訳程度にバラストまいて極限まで人員削って
余った金は指宿や霧島の観光施設に使ったとか
噂されてたことが廃止時の記事にかかれたとか C12てのは50トンもあって、鉄道省じゃ最小クラスでも地方私鉄だとこんな大きな機関車そうは見ない
それを複数台購入したんだから、輸送量がそれなりにあったんだよね 漏水激しく崩落の危険ありと判断され廃止の一因ともなった毘沙門トンネル
2017年10月 未だ健在なり 戦後、身の丈を無視した新造車購入が三州自動車(岩崎家)に買収された原因とも
1952年のキハ100形と、1954年のキハ300形に
挙句の果ては1961-62年の36BBH(通称:DD1200)形 戦時中、吹上浜や知覧に臨時飛行場が造られたりしているんだから、軍需輸送のためにはC12クラスが要るだろう。線路がガタガタであっても、多少の無理を承知で重い貨物列車を走らせた時代。 南薩のC12は戦後3年経ってから2両増備してるな
どうして >>11 農産物等の貨物輸送が増えたからでは?
ガソリンが配給でトラック輸送がままならす、かつ食料増産が緊急課題だった頃だろ 戦時中に導入したC12タイプでは(繁忙期の)所定両数が足りずに鉄道省からC12一両を借り入れていた
(C12タイプを運用していた加世田以北に関しては)事前にレールを取り換えカーブ区間では枕木に軌間狂いを防止する補強材が取り付けていた
補強材は1971年の貨物輸送廃止後もDD1200形が牽引する(保線)工事列車の為に路線廃止時まで取り付けられていた 1961年当時、岩崎系第二地方紙「鹿児島毎日新聞(→鹿児島新報)」によると
http://saykuroki.net/free31.html
2月10日:「鹿児島-枕崎を50分」南薩鉄道を高速化 西駅・日吉間に直線コース
日置から直接西鹿児島に乗り入れる新線
3月3日:「鹿児島市内は地下鉄で」南鉄、高速鉄道で検討
交通営団の協力の下に市内区間の高架と地下の両案で検討 >>14
鹿児島空港の候補地に上がったり、吹上浜開発にやる気あるときは
色々案出してたが後は放置や極端な切り詰めで廃線を早めた 昭和56年頃、寺田裕一さんが某誌で「(鉄道関係の)職員は全員40歳以上。このままでは嫌でも限界が来そうな気がする」みたいなことを書いていましたな。 昭和50年代当時、現場の若い方?でさえ
新卒でも昭和20年代後半から30年代初頭の入社だろうね
翌年(1982・昭和57年)末に
昭和58年に枕崎線全線廃止の方針を本社(経営陣)が発表
でも、かなり以前から廃止(鉄道撤退)の検討していたから
職員の高齢化は避けられない
合理化による加世田以南の一閉塞化時点で、枕崎線廃止は目前だったかと ttp://nakachan.na.coocan.jp/nansatu%20sinbun.htm
ttp://nakachan.na.coocan.jp/nansatu%20sayonara%20nansatu.htm
廃止時の記事のまとめ
かなり踏み込んでるな もう知覧線をリアルタイムで御存知の皆様も少なくなりました、かく言う自分も廃止後に生まれた
だからこそ知りたい事がたくさんある、惜しむらくは昭和60年頃まで残っていた知覧駅を見なかった(見られなかった)事だ 戦争時は知覧の特攻基地の報道班員だった
高木俊郎の「知覧」て本で廃線後の知覧駅出てきたな
昭和50年辺りに再訪したみたいだが昔のままだったみたい >>21
戦時中?
ずいぶん遅い時刻まで走ってたんだね
鉄道しか輸送手段が無かったせいか 1985年
廃止後の加世田トンネルで椎茸栽培してたのか
岩崎は幾らで貸していたのだろう
でも数年で止めたんだね 地元の皆さんが藪を伐採して頂いたお陰で「上日置駅」スイッチバック時代引き上げ線の線路が約半世紀ぶりに陽の目を見ました
軌間を計りましたらピッタリ1067mm、感激感動しました 島原鉄道南目線が健在の頃に何度か通いましたが南薩鉄道を知る者にはあれでも超近代化鉄道でしたね
立派な駅舎、自動信号、頑丈な軌道
ですから南薩鉄道はまさしく異次元の世界
それが桃源郷であった訳ですけどね 南薩鉄道回顧展が期間限定で開かれております
場所は日置市さつま湖近くの「吹上砂丘荘」です
入場無料、御観覧のついでに宿舎内の立ち寄り湯も御利用下さい 利用客はやはり伊集院から遠くなるほど少なくなってたわけ? >>32
基本的にはそうですね
やはり国鉄幹線に近いエリアは乗降客が多いですし西鹿児島からの直通列車も走っていましたので 桜島YHが廃業を決めました
南薩鉄道愛好家諸氏には懐かしい吹上浜YHも遠い昔となりにけり 間もなく廃止から35年目の春です
思えばハイティーンだった小生も五十路となりました
伊集院、日置、伊作、加世田、枕崎
かつての主要駅も様変わりしてしまいました 関西にある某模型店の御主人さま
自転車道は吉利・永吉付近を近所の御高齢者の皆さんが朝夕の散歩に使っております
が他の区間は人気も無く雑木や竹の枝が伸びて(やや)サイクリングには不向きな状況になりつつあります
白亀陸橋付近は辛うじて2000年頃の状態を保っていますが あの赤い気動車が走らない平成が間もなく終焉を迎えます
この30年間に鉄道跡は変貌はげしく痕跡探しも苦労が増しています
因みに加世田の小湊に九州最後となったうどん自販機が健在です
廃線巡りの際には是非とも御賞味ください 時代は令和となりましたが私たちの南薩鉄道は永久に不滅です >>39
亀だけど阿久根商店かい?
バーガー自販機はもう無いの? >>43
回答遅くなり恐縮です
はい「阿久根商店」です、バーガーは休止となって久しいです >>45
おお、ご丁寧に有難うございます。
バーガー自販機休止になってしまっているのですか・・・
当方関東住みで鹿児島交通線知識でしか知らないのですが
興味あったので覗いたら興味深いレスが有ったので。
鉄壊板で自販機バーガー&麺類自販機の話が出来るとはw 廃止前は保線が1人しかいなく、枕崎〜伊集院を1人で歩いていたとか。
その保線の方も廃止前日にリストラされ、廃止日には立ち会えなかったとか。
保線の費用はすべてグループのホテル建設費に消えた模様 オークションで記念展の時に販売された缶バッジやクリアファイルを売るのは止めましょう
惨めなだけですよ ついに…RMライヴラリー
南薩鉄道・下巻 買った
もちろん最初に買った上下巻を保存用とし徹底的に読み込む「ボロボロ」になってもいい
気持ちで買った訳だが表紙のキハ300形を見ていると…初志が揺らぐ
まるで南薩鉄道の軌道だ
揺れ揺れ、揺れ揺れ 男はつらいよ 寅次郎真実一路
いまBSテレ東でやっとるで こんなスレ有ったのね
短尺レールの交互継手
凄まじいジョイント音+頻繁に鳴る警笛
多くの音持ってるけど
ここのが一番やかましい
対して、車掌のおとなしい放送が好対照
……次は阿多でございます…… >>55
録音しに行ったの?
貧乏私鉄ならではの保線の悪さなんだろか >>56
録鉄…昔はそんな名前付いてなかったけど
乗鉄…昔はそんな名前付いてなかったけど
するときは、基本マイク持っていった
博多から夜行有明で伊集院、連絡バスで日置
日置〜加世田間でキハ300で録音しながら
加世田〜枕崎バス、枕崎〜西鹿児島
この後、鹿交線は廃止された
録鉄的に、いい環境だけど
これほど凄まじい音、揺れを体感出来る路線は他には無かった
枕崎にキハ100が幽閉されてたけど
乗ってみたかった
仲間の
鹿島のキハ600は何回か乗ったけど、静かでイマイチだったけど >>54
キャンプ場のダルマ?
とロープウェイ?
どっちも鹿児島交通の多角経営だったのかね >>61
さすが趣味人は凄いな
これだけ調べてあるんだ 加世田市は平成の合併で「南さつま市」となったが、南さつまはないよな
南さつま市は旧薩摩郡の南端ではなく旧川辺郡と旧阿多郡から成っている
県内には「さつま町」というのもあるが、同町の南端と勘違いされる恐れがある
これこそ僭称地名だ
かといって「加世田市」のままでは1ヶ所だけに限定されてしまう
南さつま市は「阿多市」に改称すべきだ
ついでにさつま町も僭称地名なので「宮之城町」に戻すべきだ 加世田駅前には観光バスが整然と並んでいた
みんな綺麗で手入れが行き届いていた
鉄道との格差を感じた 薩摩湖なんてあるんだ
>薩摩湖(さつまこ)は、鹿児島県日置市吹上町中原にある湖沼である。古くは中原池と呼ばれていた。東シナ海から吹上浜を隔てて約1.5キロメートル内陸にある。吹上浜の砂丘により海が区切られて取り残された、砂丘湖あるいは海跡湖である。
知らなかったので池田湖の別名なのかなと
薩摩半島の東寄りで南薩鉄道沿いではないけど 最近は台風がよくくっどん大丈夫けな、南薩線が無くなってもう30年くらい
たっどん、あの洪水が無ければもうちょと南薩線も長生きしたかも、
もう一度南薩線が走る姿を見たかど、今オイは東京におっどん毎朝電車で
ギュウギュウ寿司詰め、疲るっど、南薩線みたいなほのぼのしたディーゼル
に乗りたか。 東京はちょっと線路に人が入っただけで電車ストップ、
ギュウギュウ電車に閉じ込められたオイは死にそうじゃど、子供ん時は
万之瀬川の鉄橋を歩いて渡った事もあったどんディーゼルが止まることは
無かったど、田舎が懐かしか・・・。 こんな南の果ての小さな小さな超ローカル非電化私鉄にイチャモン付ける馬鹿は西濃鉄道へ行ってみろ、あれより更にローカルな私鉄だったんだから そろそろヤバいと友人に聞かされて昭和58年の5月に乗車
直後の6月に大雨で休止になったからギリギリセーフだった
伊作や加世田での撮影記録は大切に保管 >>74
> 死ぬまで未公開のまま保管してろ
お前はもう死んでるけどな ボロ鉄道に比べバスは高水準なデラックス車両だったのも過去の話
あちこちから買い集めた中古を爺さん運転手がかっ飛ばす、車齢20年超えたものばかりで
30年になりそうなのも居る。鹿交バスの平均車齢と運転手平均年齢はどれくらいだろ
余所で稀に居る若いのと女性を見たことが無い、車は小綺麗に手入れはされているけど もう持たないと言われ始めてから結構長生きできたと思ってた 初めの方にもどなたか書いておられるがすでに昭和40年代から経営方針は鉄道からバスへ転換されていたので
延命させる発想はなかったことでしょう >>16
俺も記憶がある
子ども心にもヤバさを感じさせる何かがあった
胸騒ぎがしたもん 朝でも一時間に一本しか来てくれないから使えないわな