懐かしの西武線 第3編成 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>850
いちいちマウント取らないと生きていけませんか? >>850
だからわざわざ転用の可能性を残してあった東武51008Fの例を引っ張り出したんだけど。
東急5000系列も東武50000系列も車体の基本設計は同じで、寸法違いだろ?
西武が2000登場当時どういう直通車を想定していたか知らないけど、2000の基本設計は、それを流用できるようにしてあったかもって「可能性」を言っただけだが。
ついでに言えば
>車両性能、それに車両のサイズ
こんなものは地下鉄に限らず、どこでもその路線に要求される条件を満たすことが必要とされるけどな。
トンネルの寸法を大きめにして通路を確保してあれば地下鉄でも正面貫通路が必要ない事だって知っているよ。 突っ込まれそうだから書いておくわ
東武50000 0代は途中から寸法が地下鉄対応に変わってるんだよな 旧2000系登場時の鉄道ファン新車ガイドには
将来地下鉄乗入れを意識した云々って書き方なんで
現実的な実現性でなく単に将来を感じさせるデザインにしたかっただけでは?
ガラパゴス化してる在来車にそれっぽいのが全く無い状況だったので・・・
登場経緯はホームが6両しかない各停の乗降時間短縮なのだから。 >>854
地下鉄対応じゃなくて田園都市線地下区間対応だな >>850
西武の2000系は営団乗り入れ協定・車輌仕様に沿って製造されていますよ。
後年、ネット上に当時の資料文書が暴露されてました。 じゃ有線直通もこいつにすればバカ殿作らずに済んだのに 1980年代直通開始予定だったが、プロ沿線民対策と工事遅延で直通開始があまりに遅すぎた。
地下直車両の方式は電機子チョッパや更にVVVFが当たり前になりはじめた時代に入ってしまい、
営団からは「界磁チョッパはTQ8500で最後にしたい・・・」的なプレッシャーもあったのだろう。
真新しく新規設計で6000系を新造するしかなかった。 >>857
なってないって。
なってりゃあの車体寸法はありえない。
その「ネット上に当時の資料文書が暴露」が怪しい。 >>848
東急8500ばかり槍玉に挙げられるけれど西武2000も外観はともかくアコモデーションも車内騒音も大差ないじゃんと初めて乗ったとき思ったものだ >>861
実際の音量は変わらないかもしれないね。
東急8500は共演の営団8000との差が激しすぎた
加えて二子玉、三茶、渋谷、表参道を通る車両としての品格が…
東横の東急8000系と違って田都8500は走りがじゃじゃ馬なんでね。
西武2000は701系列に囲まれてた分まだ高級車扱い
高速時煩い位で加減速はソフト且つFS372はTSより上等
通るエリアも馬場と新宿の端っこなんでもとより期待値が違うかと。
2000系が仮にY線乗り入れ車なら同じ扱いにされてたかも。 >>861-862
地下区間は音が響くし乗る人が多い事もあって、さらにうるさく感じられる事が多いのかも。 デントは最高90km/hだからメトロの75km/hとは騒音の次元が違う 二子玉 氾濫原砂利採取場、
三茶 スラム、
渋谷 花街、
表参道 貧民窟の入口
如何様にでも騙せる >>862
あの頃の営団8000は爆弾ドア、閉鎖的なイメージの小窓のドア、痛そうなネコのドアステッカー、あの頃あまり見なかった派手な真っ赤なシートモケット等どことなく怖いイメージがあった 当時子供だった頃の感覚では、営団6000系、7000系、8000系は、前面展望もできない上に
ドア窓が上の方に小さくあるだけで外の景色もよく見えないから、ビジネスマンしかターゲットに
していない、自分の様な子供が乗るべきではない路線の車両なんだなという印象が強かった。 赤電〜旧101系の前面展望は最高だったな
仕切り窓、前面窓、どちらも低いので、子供にも優しかった 駅のホームに発車案内表示器が無くて、勿論車両側面にも行先表示器が無かった時代って、
通過運転する列車がある区間の優等停車駅って恐怖ですね。
途中駅に行く人って、ホームに下りたときに列車が停まっていても、乗っていいかどうかわからない。賭けだな。
西武の場合、当時は殆どがターミナルまで行くってのがあったんだろうけど、昼間準急しかなかった時代にしても、
石神井公園なんか日常的に「ホームに下りたら電車が停まっていたけど、乗っていいかどうかわからない」が発生してたんですね。
大泉学園より西では「取り敢えず乗ってみて、車内の放送を聞いて途中で降りる」が出来るけど、次駅から先が通過運転区間でそこに目的地がある時はそれが出来ないもんね。
江古田・練馬・保谷・清瀬・所沢の下りホームには「こんどの電車は」って書かれた幕式表示器があったけど、その他は昭和50年代後半に所謂パタパタが付くまで一切ホームの表示器が無かったですからね。
寧ろ石神井公園ーひばりヶ丘・鷺ノ宮・上石神井の上下ホームとか、大泉学園・保谷・所沢・田無の上りホームとかの方が必要とされていたように思う。
やっぱり誤乗頻発だったのかな。電動幕にした2000でさえ側面幕付けないんだもんな。 その昔、ホームには一日中立ち番の駅員がいて(もちろん交代制)、時にはうるさいくらい頻繁に放送していた(今度の電車は〜、◯番線の電車は〜、など)。
夕方ラッシュの池袋が典型で、5・6番ホームの突き当たりにあったブースから、目の前のスイッチで流すホームを選択しながらずーっと案内していた。
それと、お客さん自体も放送をよく聞いている人が多かった。便利な物が無きゃ無いでなんとかなってた。
あと、種別が今ほど多種じゃなかったってのもある。1970年代までは、専用車の特急を除き普通・準急・急行しかなかった。
1980年に入ってから、快速急行・通勤準急・通勤急行・快速ができたが、朝夕のラッシュ時限定や行楽向けだったし、通過駅のある列車では車内放送でこれまたしつこいくらい案内してた。
なので、今考えるほど大変ではなかった。 池袋5番線後ろの放送所もうないの?
西武線池袋20年くらい行ってないや >>872
全駅に終日いたのですか?
気の利かない駅員だったら駄目だな。あと自分が知りたいタイミングで種別を言ってくれなかった場合も駄目だ。
快速急行・通勤準急・通勤急行に相当する列車自体は1980年代以前からありましたね。
名前が無いだけで。
そういう点では余計に質が悪い。
例えば朝の、急行とのちの通勤急行、準急とのちの通勤準急、放送ではどう区別していたのか。
口でただ種別を言うだけではそれぞれ「急行」「準急」で区別が付かない。
「ひばりヶ丘石神井公園停車の急行」「東久留米保谷大泉学園石神井公園停車の急行」では長過ぎでしょ。 >>874
80年代後半は池袋線は様々な種別名があった割に、新宿線は朝ラッシュ時に上石神井通過やら鷺ノ宮通過やらといった急行も存在しました。前者が拝・遊始発、後者が本川越始発だったかな。
ほとんどの人が高田馬場か西武新宿が目的地だったので、単に急行としか呼ばれてなかったケースが大半だったかと。
田無や上石神井では、「次は〇〇に停まります」ぐらいなら言ってたかも。それでトラブル防げるでしょ。 >>875
そうですね。そこは単純だから分り易いですね。
池袋線の準急も、朝間上り練馬停車/その他練馬通過だった時代、
朝は「練馬停車の準急池袋行き」練馬通過に切り替わった直後の時間帯は「練馬通過の準急池袋行き」と強調していましたね。
「通勤準急」が「準急」と呼ばれていた時代、朝間練馬停車の準急は無かったのでここも「石神井公園停車/通過」で区別できたでしょう。
ただ急行は複雑だなと。 ほおんいや〜
ほおんいや〜 です
・・・ってアナウンスの駅員さん有名だったよな その時代その時代で変わっていくものよ。今から見れば不便に思えるものも、当時はそれが当たり前だったから不便と思わない。
変わっていく中で不便と思われたら便利になるし、わかりにくいと思われたらわかるようになる。ただそれだけのこと。
今便利と思われているものも、将来から見たら「不便だなあ、よくこれでやってたなあ」と言われるかもしれないし。
現在の物差しは、今の時代でしか使えないのよね。過去のものをその物差しで測ろうとしたって測れないし、未来も同じ。
そして、過去を不便と思うか思わないかはその人の感覚だからね。 同じような音でも東急のは8Ⅿ2Tで運転も荒々しいから
体感的なかんじがかなり違う 東急8500は田都で昔6M2Tもあり快速運用もあったと記憶してるが
同じく後に東横の8000系も6M2Tになりスペックは同じだが
8500の走りに暴力性があるのは減流値の違いかな?
それでも東横8000系は軽快で西武2000系なんて話にならん 32tほどのオースステン車体と40tのでっぷり肥満体スチール車体じゃ違うんだよ >>876
昔は練馬には
準急は停まらなかったと
爺が言う。 練馬の準急終日停車なんて90年代に入ってからだから最近に感じてしまう >>884
爺様の時代にあった準急豊島園だけは停まったんじゃないか 最盛期の渡辺美里コンサートや全国高校生クイズ選手権の開催日とか、日中時間帯に
臨時増発された急行西武球場前行きも練馬停車してたな。 >>884 戦後一時準急が練馬に停まっていたと別の爺が答える。
昭和33年頃
準急 池袋・練馬・以遠各駅
急行 池袋・練馬・石神井公園・以遠各駅(通勤時間帯のみ)
昭和34年9月改正
準急 池袋・練馬・豊島園(平日朝間下りのみ)
準急 池袋・練馬・石神井公園・以遠各駅(昼間も運転 名称変更)
昭和38年頃
準急 池袋・練馬・豊島園(平日朝間下りのみ)
準急 池袋・練馬・石神井公園・以遠各駅
昭和38年12月
準急 池袋・練馬・豊島園(平日朝間下りのみ)
準急 池袋・石神井公園・以遠各駅←準急練馬通過の時代に
昭和40年代後半
準急 池袋・練馬・豊島園(平日朝間下りのみ)
準急 池袋・石神井公園・以遠各駅
準急 池袋・大泉学園・以遠各駅(平日朝間上り一部)←通勤準急の祖先誕生、今の通勤準急が準急と呼ばれていた時代
昭和55年改正
準急 池袋・練馬・豊島園(平日朝間下りのみ)
準急 池袋・練馬・石神井公園・以遠各駅(平日朝間上りのみ)←練馬停車の準急復活
準急 池袋・石神井公園・以遠各駅
通勤準急 池袋・大泉学園・以遠各駅
でもね、武蔵野鉄道時代の準急はやっぱり練馬は通過、あそこも通過、あの有名な駅は停車、と仏さんが言ってる。 >>887
でも西武球場前発の準急池袋行きは練馬通過したり、
西武球場前発の普通上石神井行きは下山口通過したり、
でも西武球場前発の下山口通過の所沢行きは準急所沢行きだったり、
まるで難解な時代。 東上線だって準急は池袋・成増間無停車が基本だし(ラッシュ時上りのときわ台停車が1975年頃まであったが)、距離的に石神井公園まで基本的に通過とするのは合理的だと思うが。地下鉄乗り入れで練馬乗換客が増えるまでは。 普通は地下直乗り換え駅は急行停車に格上げだよね
和光市や代々木上原みたいに 練馬始発も練馬止まりもなく
直入れは近くとも石神井迄は強制的に行き来するし
直入れにも優等もあるのだから練馬準急すら停まらんで良いよ 東横特急も最初は中目黒通過だったなぁ(遠い目)
自由が丘の緩急接続時にしつこく構内アナウンスしてた 西武鉄道の政治的戦略により、自社線として奪い取って工事した区間の末端、小竹向原が乗換駅です。
分岐駅でありながら練馬は途中駅というポジション。 >>891 和光市や代々木上原と違って、地下鉄直通の練馬折り返しが練馬駅の構造が原因で無理ということを考えないとなあ。
練馬に池袋行き急行止まらせて地下鉄乗換え客を集中させる意味ないだろ。石神井公園と練馬に分散させればよし。 千鳥停車といい西武は客を分散させることに快楽を見出す体質 >>896 地平駅だった頃の東武伊勢崎線北千住のように、地下鉄直通への乗り換え客が集中しホームが危険なほど混雑するのが望ましいんですか? ジジイな俺が子供だった頃(昭和40年代後半)、土曜日の午後に「急行 狭山湖」ってのがあってな、練馬停まってたんだよ。クモハ351+クハ1411がよく来てたんだよ。 東長崎は側線を通過したなんて話も聞いたことがある。狭山湖急行。 ベタな話だがあの側線は黄色+赤の701昼寝場所の印象が一番鮮烈 夕方に起きだして池袋向かったね
カーブの中にある無茶な渡り線がまた凄まじかった 159F赤電イヴェントも黄を繋げて東長崎展示会もして欲しかった レッドアロー貸切8連最寄駅乗車で遠足行ってた世代で
見れたはずのレッドアロー10両は見たことがない。
狭い期間だったろうけど定期運行あったのかな? 50年近く前の東長崎って、ホーム途中に分岐器があって、かなり抉られてたよね。
JR三島駅の伊豆箱根への連絡線みたいに。 東長崎と言えば池袋寄りの曲線部渡り線。
制限50とかだったと思う。 >>911
下り70上り65分岐25だったかと
ツリカケがいた頃は確か50だった 制限といえば、停車駅直前の閉塞もしくは場内信号、昔は必ず黄信号で制限55だったな。そして出発信号は必ず赤信号。 そういえば制動は二段階だったね
それでか駅間短い富士見台ー中村橋は55kしか出さなかったような
昔から西武は信号機の数がやたら多かった
その頃はアナウンス各駅停車でも掲示は普通だったっけ? 今の小田急みたいなのを停留所でもやってた感じですか 保谷の下り、今は閉塞減速、場内注意、出発停止、と3段階で停まるけど、
昔はいきなり場内注意、出発停止の2段階停車だったな。
場内信号手前まで通過列車と同じく飛ばして走ってた。
注意現示の1つ手前の閉塞信号機は減速でなかったの? 下り保谷駅の手前って、G YG YG Y R(出) のようにYGが連続してなかったか?
あと別な分岐器の手前の閉塞区間なんだけど、先行列車が遅延しているとタイミングによっては、
G YG YY R で急減速する場所もあるね。 黄が連続してる箇所もあった。江古田上り待避線とか。
あと青の次がいきなり黄黄のところもあった。豊島園発上りとか。 昔の西武線の線路、カーブ区間は定尺を交互にしていたなあ(カーブ手前まで左右共同じ、カーブ開始地点から右もしくは左に12.5m入れて反対は定尺、終了地点で反対に12.5m入れて直線で同じに戻る)。
あれ、どういう意図があったんだろ?他線ではそんな繋ぎ方していた記憶がない。 タタッタタン タタッタタン タタッタタン タタッタタン タタッタタン タタッタタン タタッタタン タタッタタン タタッタタン タタッタタン タタッタタン タタッタタン
タタ タタッタタン >>921
> 他線ではそんな繋ぎ方していた記憶がない
こんなことが言えるほど曲線観察してたんだな ロングレールが普及する前は結構な音出しながら走ってたから、曲線区間で音が変わるのは誰でも気付いた。
保谷の大カーブとかでの音が懐かしす。 マジレスすれば、線路の左右のジョイントを分散させて屈曲ズレ防止かと。 ここの音でも確認できるね
http://www.asahi-net.or.jp/~mg5h-cd/sound2.htm
余談だがこのページにある名鉄HL車モ3716の力走はぜひ聞いておくべき >>924
>保谷の大カーブとかでの音が懐かしす。
俺は椎名町〜東長崎かな。途中に渡り線があるから余計に印象に残ってる。
椎名町出発→加速→ノッチオフで速度制限の減速→緩解で曲線進入→>>922のリズム→途中でポイント通過→直線に戻って左分岐ポイント通過→ホーム進入で減速→停車 実現しなかったが
レッドアローは仮に失敗したら通勤電車に実質改造(車体載せ替え)するつもりだったって本当? 何で知った?
元記事は元職員の人なのだから本当なんだろう >>929 その通り。
東武1800も足回りは8000とほぼ共通だし、製造費用節約するには大量生産されている通勤型からの
足回り流用を図った方がよい。
国鉄103に比べれば西武101や東武8000の方が足回り、特に台車に金をかけているから特急車への流用が可能だったわけだが。 だって、車体が通勤型か特急型かの違いだけで、台枠より下はMG除いて全く同じだもの。 MGは別モノだったのか。当時の101は非冷房だったから? レッドアロー走らせたのは一つの賭けだったんだろうな。
日光や箱根に比べて秩父は観光開発が進んでなかったし、有名な温泉地や歴史的建造物もない。
ハイキング急行なら乗るが特別料金払っ飯能や秩父まで特急に乗るか、精々60〜80分程度の移動に
と疑問視する声も多かったのでは? 101系のMGは、非冷房車は12kVA、4連冷房車は150kVA(ブラシレスは140kVA)、6連は120kVA。それに対して5000系は110kVA。
冷房装置の能力が違うからねえ。101系は1両1基あたり42,000kcal(分散式は8,500kcal×5基)だけど、5000系は28,000kcal。 そういえば、10000系もなんだかんだで、101系の系統だな
101系や5000系の機器が流用されてるし
台車は改造されてるけど基本的には同じもの
そんな事情もあって、富山地方鉄道に譲渡された5000系は箱だけで
国鉄485系の解体部品で賄った
西武に国電払い下げの歴史がなかったら、もっと大変だったろうな
101系流用で当初4両4編成くらいなら賭けというほどでもないだろう…
〜〜
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/rail/1614170906/
152 名無し野電車区 (ワッチョイ 5f98-yAnI) sage 2021/09/06(月) 07:41:10.65 ID:QTae2TfL0
青梅線に有料の行楽輸送が定着しなければ
東がブチ切れて全廃するかね
そうなったら日向和田・沢井・御嶽・古里あたり
「行楽シーズンの帰りは積み残される」が当たり前になるだけだろうに
174 名無し野電車区 (ラクッペペ MM3e-4Y1C) sage 2021/09/11(土) 16:15:14.83 ID:3ds23dXGM
>>152
定着見込めるなら西武が早くに乗り入れ参入してたろう、5000系時代に…
西武新宿〜高田馬場〜上石神井〜小平〜萩山〜小川〜拝島〜青梅〜御嶽〜奥多摩
185 名無し野電車区 sage 2021/09/14(火) 05:39:35.27 ID:bj6F8yD2
>> 184
萩山は遊園地、球場への客が新宿方面から乗る事も考えられるが、小川の国分寺線は必要無い
所沢方面からの客には小平に来てもらえばいいし、国分寺側からの客などほぼいない
有料特急なのだから極力連続停車は避けるべきであり、玉川上水通過なら小川も当然不要
有料特急を走らせるなら間に各停を増やさなければいけないのは仕方ない事なのだが?
>>937
失礼、違ってたんだ
そう言えば京王5000にも、レッドアローと全く同じクーラー載せた編成あったね
(初期型、後期型ともに) 西武5000系の冷房装置は初期型がFTUR-375-203A、後期型がFTUR-375-203C。
京王5000系の冷房装置のうち、203Aの外観に似ているのがFTUR-375-202、203Cの外観に似ているのがFTUR-375-206。
いずれも日立製の冷房装置。 >>529
また2年前の書き込みに追記だが
1C6M設計ということは、VVVF試験の検討段階では色々な案があったが、
最終的にあくまで試験のため故障時対応を考えて101の4000化に伴う余剰車を改造して、301のサハを差し替える形での試験に決定したという可能性はあるのではないだろうか
1C6M設計なら、当初は4連で試験(3M1T相当で両先頭は連結面側のみM台車、中間2両にVVVFを搭載と妄想)する計画があったとも考えられる
同時期に新2000で新型台車の試験も実施してたし、当初は東武10080みたいな試作車でも作る案もあったのかね?
(2000系列以前のことをよく知らないのでどういう経緯でああなったかは不明だが新2000の4連が3M1Tの例もあり) 2197‐2198に関しては、恐らく初代VVVF試験車の台車を活用するためにVVVFになった可能性は?
(主電動機を取り付ける部分とかが交流モーター用に改造されていたために元の仕様に戻すことができず、かと言って捨てるのは勿体ないから仕方なく2両だけVVVFになったという感じ)
当時は所工が現役だったからあり得そうな話 幻の7000だが帯色は4000と同じで前面は名鉄1000に類似(恐らく通常の低運転台車両に運転台の高さを合わせる予定だった?) 2097はギクシャクが酷かったという話も
新501も同様(501のどこがいけなかったのは知らないが) 新501系はメカは新101系なのに連結相手が701系列というのがな
新101系も4連は701系列と連結していたが、4連と2連ではやはり勝手が違うものなのか うまく言えないけど、4連はTc2輌がある分編成重量当たりの出力が低く、501系よりマイルドなショックだったのではないか、と。 新501系は新101系と違って、限流値をデチューンしないで701系と連結してたんじゃなかった? レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。