懐かしの西武線 第3編成 [無断転載禁止]©2ch.net
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今は新しい「列車情報装置」というのに変わっている
どこがどう進化したのかは詳しい人よろしく あめ あめ あめはなんの あめ あめ あめあめあめあめ
早朝5時台の401系2連準急西武新宿行きを見て笑ったのをふと思い出した
今日のイベントは忘れてた
昨日録画したスマイルチャージを見て「やっちまったー!」
かわら版も見てたのに「アホー」だ 赤電のシートはずっと座っていると低温火傷しそうなくらい熱かった
たぶんサーモスタット機能のようなもんは付いてなかったんだろうな
まあ小学生で半ズボンだったせいもあるけど 6000試作で側面の表示器がLEDになってた時期があるらしいが
同時期の京王8000/東急2000/福岡市営2000が途中の増備車から行先がLEDになったので、当初は西武6000についても増備車でLED行先に変更を検討しそのための試験をしたんだろう
結局、LED行先は6000増備車には採用されず、本採用は20000までお預けになったけど 確か6004辺りまで出た頃だったな
6201と6401
池袋停車中は2段表示になって、下段に停車駅が流れる モハ146(三菱VVVF試験車)の走行音音声が発掘された模様… モハ146(三菱試験車)は1C6Mだった模様
(VVVF:MAP-186-15V21)
でも、装置形状は見るからに新京成8800のVVVFとそっくりだったため、誤値とも考えられる
(新京成8800は1C4M)
これで2197-2198の機器が146からの転用というのは誤りであったことを確認
(2197-2198はMAP-168-15V36で、1C8Mだった) >>526
聴いてみたどあれ狭山線?
出発時超低速で分岐器通過して、急曲線区間、塗油器の音。
モーター音の割に客室内の音が小さく録音されているから、妻の窓を開けて外の音を録ったのかな。
しかし、次駅が下山口だとすると分岐器の音が聞こえないのが矛盾。
車内での音は初めて聴いたので小感動。
停車中に目撃したのと、踏切で出くわしたのが僅か乍らの体験、
101/301の爆音と対照的な凄く静かなモーター音で通り過ぎて行ったのが印象的だった。
>>527
>2197-2198の機器が146からの転用というのは誤り
初めからわかっているんだよ
あれ新品だもん
>モハ146(三菱試験車)は1C6Mだった模様
(VVVF:MAP-186-15V21)
145(日立) 146(三菱) それぞれ1C4Mでしょう? だが、当時の電気車の科学では1C6Mと記されていた
ただ、2M分カットして使用してた可能性も否定できない
ちなみに145は1C8Mで4M分カットして使用してた可能性
というのも、同時期に改造された東急8799のVVVFと装置形状がほぼ同じだったため
(東急は8799-0802で1C8M)
1C4Mなら東急9000タイプの装置形状になる筈 >>526
どこで聴けますでしょうか。お願いします。 >>528
出発後分岐器を2箇所通っているような気がするので、西所沢からの下りだとするとやはりおかしいんだよな。
他に8両が走れる区間で超低速急曲線の後80km/hくらいになる所ってあるっけ? ちなみに145-146の試験主電動機は170kW
2197-2198は155kW(こちらはメーカーこそ違ったが、6000と同じ出力) 幻の車両にハイデッカー車だけでなく制御付自然振り子式特急車の構想まであったらしい
ちなみにハイデッカー車は冷房装置が搬入された段階で計画が中止になったとか 亀レスだが
>>265
新501がギクシャク酷かったというのは詳細不明だけど 池袋1番か
駅構内や山手跨線橋改修前はあんなゆっくり走っていたんだな
忘れていた 2番線への分岐は8番ポイントで25km/h制限だったな
今も残る8番って清瀬下り出発くらいか >>538
旧池袋1番は、分岐側が制限25km/hのやつだった。
大昔の石神井公園、大泉寄りの中線への分岐器なども。 145-146は89年3月改造、同年3〜11月にかけて試験、90年4月廃車とある そんな長い期間走ってたんだっけあれ
その割に乗ることなかったな
新宿線を主に利用していた頃か? 145-146はしょっちゅう運用外れたりしてたよ。
末期は籍だけ残ってて使われてなかった。 >>543
やはりM車が偏った構成が災いしたのか? ちなみに2097Fは当初VVVF車のみの4両で落成したが、そのままの状態で使われることはなく別編成(編成不明)と組み替えてまで暫定編成にしてたらしい >>544
V試験中は、6M2Tになる事を避けるために、307*308か301-7*301-8のどちらか(多分ハイフンの方だったと思う)を
付随車扱いで使っていた。全Mとして使った事もあるかもしれないけど。
>>545
2071Fね。
暫定4両で落成して、ほどなく2071-2171-2172-2098で狭山線、残りは池袋線で普通に使われてたけど、
残りの97Fが完成して編成替えを解消。 2098の電流計が直流用だったので2097-2197-2198-2098では編成を組めなかった 惜しいのは2097Fの追加4両をVVVFで作らなかったこと そこは将来の2000の更新を見据えての試験だったのではと
結局あのガックンガックンに懲りて2000はチョッパのまま更新
701族のように更新/未更新で運用を分けるのも嫌がったんだな 6101Fが4連で試験してた時期があったらしいから、当初は比較試験するつもりだったんでは?
(>>545でも書いたが当初は2097FもVVVF車のみの4両だった) >そのままの状態で使われることはなく別編成(編成不明)と組み替えてまで暫定編成にしてたらしい
自分で書いてるが・・❔・¿・・・? >>553
ここBBS_UNICODE=changeだから >>551
似たような東急8799-0802-0718-0818は同8000系列のVVVF化(結局中止)を見据えての試験を兼ねていたが jtrainの新刊
西武鉄道OB座談会 貨物列車運行の実際
という記事が掲載されてる で結局 2097 2197 2198 2098 で走った事あるの?
シウテも含めて 大晦日元日の終夜運転をやらなくなってたのを知らなかった
本数が少なくてホームで待っているのが寒かった思い出しかないけど 9000は新101本線撤退から約5年後に廃車開始してることを考えると、
NRA同様に抵抗のまま使い倒して廃車の方が無駄にはならなかったと思ったことがあるが、6M4Tが電力食い過ぎと判断されたのか?
(10000は4M3T、4000が最大4M4T) 6M2Tを当たり前のように走らせてたんだからそんなことないでしょ 新101本線撤退から約5年後に廃車開始になるまで実質101 10両8本が減ることもなく1日中池袋線を蔓延って走り回っていたことを考えると
阿鼻叫喚の地獄だな >>459
でも、6000/9000の時はまだVVVFが高価だったから仕方ないか… もしかすると9000のVVVF化は3000が先に廃車になるためというのが半分だった可能性?
つまり本線系通勤型の抵抗制御消滅より先に界磁チョッパ廃車を回避するため 9000はVVVFの価格が下がるまでの繋ぎで導入したのかと思っていたが、単に所沢の余剰人員の仕事確保の為だったのか 281 282 1201 201 202 101-201 101-202 1202
401 402 1701 701 702 701-1 701-2 1702
1709 709 710 701-9 701-10 1710 423 424
425 426 1801 801 802 1802 429 430
1227 227 228 1228 283 284 285 286
433 434 431 432 1805 805 806 1806 501 502 403 404 1255 255 256 1256 287 288 1203 203 204 101-203 101-204 1204
1121 121 122 101-21 101-22 1122 289 290
1125 125 126 101-25 101-26 1126 291 292
1129 129 130 101-29 101-30 1130 271 272
269 270 1205 205 206 101-205 101-206 1206
293 294 275 276 1141 141 142 1142
1123 123 124 101-23 101-24 1124 295 296
273 274 1171 171 172 1172 279 280
1127 127 128 101-27 101-28 1128 277 278 435 436 1213 213 214 101-213 101-214 1214
1215 215 216 101-215 101-216 1216 437 438
1715 715 716 1716 503 504 405 406 407 408 1785 785 786 701-85 701-86 1786
427 428 1803 803 804 1804 407 408
409 410 505 506 1717 717 718 1718
どこが界磁チョッパなんだよ
電制すら 411 412 1703 703 704 701-3 701-4 1704 1705 705 706 701-5 701-6 1706 413 414 581 1581 1582 591 1591 592 1592 582
つくればおもしろかったのにな 2097はまさに匙を投げるかのように潰されたよね
余程評判が悪かったのか? 2097 2197 2198 2271 2272 2371 2372 2072
2071 2171 2172 2098 583 1583 1584 593 1593 583
571系6両固定 先日の9108F4両の武蔵丘行き回送。見ようによっては、新101系による初期型101系の牽引回送。
279F 255F
117F 131F 133F 139F 207Fの何れか4両
種車当時の台車等ではないであろうけれども。 279 280 と 1255 255 256 1256
組み換えまで恐らく繋げたことないな 255Fと
117F 131F 133F 139F 207Fも
果たして繋がった事があったか
無いのもあっただろうな
255Fは登場後直ぐシク線に行ったから >>583
583 1583 1584 593 1593 584 589 1589 1590 599 1599 590
571系6両固定 大昔、701が4両編成だったころ、モハ786だったかのパンタがPS13で、大雪の時にも他の701系に比べて大雪でもパンタ降りなくて平気で運用してた記憶あり。国鉄特急こだま151系もPS13だった時期があったが、西武701はそれよりもずっと後に一時PS13だった。 9000は小田急だったら車体新製から10年未満でも躊躇なく廃車にしてたかもしれないが…
(小田急は90年代は抵抗制御車を更新していたが、00年代以降に3000の大量導入で抵抗制御車を更新から10年未満だったものを含め全淘汰された) 京王3000もかなり遅い時期までPS13使ってたよね。
ステンレスの近代的な車体に戦時設計似合わねーと思ったもんだ 京王は旧5000系のクハにスポーク車輪を使用している車両があった。台車はイコライザー式ではなかったが、何となく西武と一脈通じる感もある。 クハ701って登場時はブレーキシリンダーが台車ではなく床下に直接付いていたって、本当ですか? >>597
国鉄から譲渡されたイコライザー台車を改造したTR11Aを使っていたからな。 なんか昔の西武の車両って書類上は新造車でも機器は流用が多いな
むしろ所工が閉鎖される前は6000系が特殊なだけだったのか >>599
多いというより、ほとんどそうだった。
初代レッドアローも二代目に機器が引き継がれたので、
富山に行った車体は国鉄485系の機器を使ったそうだ。 田無事故で廃車になった旧2000でも再利用可能部品は新2000増備車に流用されてそうだな >>600
つまり有楽町線乗り入れが無かったら、所工がある内は直流モーター車オンリーで、VVVF導入が阪神/西鉄よりも更に遅くなっていた可能性があったということか >>586
117と207は55改正後の一旦池袋線定住が崩れた際に
新宿線には配置された事あるから255とはあるんじゃないかな NRAは池袋線の置き換えが1年遅ければ車体のみ譲渡(足回りはSVOのものに交換)もできたと思ったが今はそんな改造技術がないだろうから… >>594
まさか、税制上の耐用年数(減価償却期間)を知らないのかね?
これを無視した放漫経営では、会社が成り立たないよ
財務的には、減価償却が終わる13年以上に設定しないと問題あり!
13年未満で電車を廃棄処分すると、特別損失として計上しなければならない
上場企業で下手にそんなことしたら、経営問題になりかねないし
<税制上の鉄道車両減価償却期間>
・11年:DL、気動車
・13年:電車
・18年:蒸機、電機
ttps://news.mynavi.jp/article/trivia-140/ >>608 車両更新と旧型車の機器を流用した車両新製とを594が混同しているから、話にならないんだろう。GHQ統治下の頃、許認可を得るために実質は後者なのに、前者の名目で通した例はあるが。 >>608 税制上と会計上の耐用年数が異なる場合は税効果会計で対応することがあるから、税制上の耐用年数未満で車両廃棄しても経営に対する影響は緩和されるのでは?
国鉄は初期の新幹線0系を10年位で廃車していたし。
で、西武もやっていた木造車台枠流用で鋼体化改造と称して造られた西武311系の一部、車両更新扱いだから税制上の耐用年数の始点は木造車で新製された時点としていたのだろうか?
この20m版1411形同様、「質より量」ボロ電西武を代表する車両だった。 当時唯一の貫通路付きだったから、こいつが見れた日はラッキーだった。 リベット打ちされた車両もあったよな。
赤電10両編成の付属編成で先頭を走ってた。
そういえば、この頃の付属編成は、
今とは反対の上り方向(池袋寄り)だった記憶があるけど、
どうだった? 351と組むのは上り向きが1411
451と組んでるのは下り向きが1411が多かったような気がす こんなリベットだらけのゴツゴツしたのが先頭に一両だけくっついていて、事故か故障で予備車を引っ張り出してきたと思っていたガキの頃 でも、結構な頻度で走ってたな
子供ながらも、ASカーより好きだった 古いバスの運転席の様に、ポールで仕切ってるだけだった乗務員室(←正確には室になってないw) >>616
クハ1411だっけ?
運転士は運転室に居るから良いけど、車掌はどこに立っていたの? >>617 車掌が運転室に立っていて不味いことでもあるのか? 流石にあの空間にポツネンってことはなかったろうけど、
通勤ラッシュ時、乗客をかきわけないと進行方向左手のドア操作ができないな 半室運転台だが、先頭又は最後部になる場合は、運転台のある方から逆の方まで紐で仕切り立ち入り禁止にする方式になってなかったか?
運転士又は車掌がいないときは、運転台だけ仕切るんでは。 半室運転台だけど、残りの部分は腰の高さくらいの横棒で仕切られてたから、満員でも車掌さんもドア操作できたよ。 半室運転台だが、進行方向最前部右側にも非常ブレーキなどの機器類がなかったっけ。運転士や車掌いないときは、鍵かけておくけど あの構造だと朝ラッシュの満員時は車掌さんも余り居心地よろしくなかったろうね 80年代半ばまで半鋼製の73系、78系を池袋、浅草で使っていた東武はイメージダウン甚だしかったが
西武の方も80年代まで1411を新宿線で使っていたんだよな
1411の方が東武73、78系列よりも古めかしかったが、一編成のうちの1両だから悪評も伝わらなかったのかな 平成に入ってからも吊掛車走らせてた東武も大概だけどな >>621
仕切りが棒しか無いから、最後部の場合で痴漢をされても車掌が目の前だから助けを求めやすかったんでは!?
>>622
丸ハンドルの手動ブレーキがあったと思う
多摩湖線用351の中間車も多分1411で、運転席を取っ払って運転室ドアも開かなかったが窓はそのままで開けられた
末期は車体更新で窓を埋められてたと思う >>627
西武は本線の池袋線・新宿線では走ってなかったのでは?
東武は本線の東上線・伊勢崎線で走ってたし。 一般の利用者は性能のことなんて分からないのだから
早い時期から、足回りには金を掛けず車体だけは新しくしていた西武の方が賢かった でも、西武は601系で一応カルダン駆動だぞ
東武はその24年後にもまだ吊掛車の車体更新(5000系グループ)をしてたわけだし >>631
東武は2000系がその前年に登場しているからなあ >>633
カルダン駆動採用自体は、東武のほうが早いのはそのとおりだけど、
西武は、カルダン車(601系)の登場後は、吊掛車のまま(車体)更新したものはないはずだよ。 >>635
おじゃまします
411系→401系の改造は、吊掛式からカルダン式への更新ですよ。 西武は、本線に関しては、冷房化のついでに
吊掛→カルダンへの機器更新が結構早かった
701系、801系だけではなく、401系、新501系みたいな改造車もあったし おっと、701系と801系は冷房化の話で一緒にしちゃったので、
忘れて頂戴
カルダンのパイオニア601系電動車は系列分断されて、
6連(4M2T)化される701系に組み込まれたんだっけ? >>636
>>635は411系そのものの話、つまりは登場時の話をしているのでは? 411など西武の吊り掛け車、脚回りは古い部品の寄せ集めで東武7800よりも旧式だから、更新の際にカルダン駆動化して台車含め取り替えたんでは?
東武も7300の再更新はしなかったし >>616
今でも、路面電車や新交通はバス同様に半室構造
>>620-622
時代の流れか、半室や片隅式とかを知らない人が増えたのだろね >>626
それは、サハ1311(1313、1314、1336)の3両
先行してサハ化した13と14は、当初の相手はクモハ371(371、374-376)の4両
多摩湖線(南線:国分寺〜萩山)は、国分寺駅の有効長が
再開発による移設以前は、17m級3両が限界(でもはみ出し状態)で、20m級は2両まで >>641
最近の地方向け車両はみんな半室開放運転台だな。 >>636
401系改造時の話でなく、411系登場時の話。
すでにカルダンの701系や801系の製造しているのに、平行して機器流用(一部は車籍も更新車扱いあり)の吊り掛け車作ってたんだよ。 >>645
この驚愕の「見た目に騙された!」と言う体験は、1980年代当時の京王でも健在でしたね。
晩年は動物園線で増結の運用をしていたので、たまに乗りましたよ。
加速中も車内アナウンスが聞き取れる様、放送音量が大きくされていて全てが煩かったw
そうそう、国鉄には103系の見た目をした吊り掛けと言うのもあったな。 >>646
72系か。
後でカルダン化されて103系に組み入れられたのも、411系と似たような歩みだな。 >>646
> 103系の見た目をした吊り掛け
あれは最後には本物の103系になったけど、
運転席後ろ側とか、台車の位置とか、微妙な違和感を醸し出してた。
111/113系の見た目をした吊り掛けもあったっけ。
都電の車体更新車も今やカルダンVVVFに機器更新されて、
吊掛音が聴けなくなったなぁ。 古谷村の埼京線車庫を通りかかった時、
高運で非冷房の103なんてあったっけ・・・? と小一時間
旧国からの改造だとは思わんかったよ。 田んぼが広がってて古谷村と呼びたくなるよね
いい意味で >>649
車で夜、車庫周辺を走った時、車庫だけが明るくて見入ってしまい、丁字路が見えにくくて田んぼに落ちそうになったことがある >>648
あれは本物に化ける際
制御・動力系のみ103系余剰予備部品を活用
それ以外の機器は、主に101系等の廃車発生品・・・
なので、一応形式上103系のつもりだが?
完全には成りきれてはいない
(所詮103系モノマネをアップデートしただけ) >>651
だったら南古谷村と呼ばないと
古谷村はもっと北の方だ >>653
101系からの編入車だっているんだから気にしない 車輌の端っこの貫通扉の無い方の窓が開けられたが、あの仕様は黄色い車輌まで?? 西武411→401
国鉄79600,72970→103-3000
小田急4000
三兄弟 >>657
サンクス!
コロナウイルス騒ぎで電車には乗らないけど、西武電車を毎日見ていると、側窓をちょこっと開けて換気しているから、連結部もガバッと開けられたらなと思ったんで フードコートと言えば西武池袋駅の地下改札のイメージ 今年の夏は冷房無しの窓全開で通勤電車が走るか?
千鳥停車の通勤急行、通勤準急みたいのはやめて、飛び石停車で乗客を分散させ扉の開閉を増やす
それか混雑の少ない埼玉郊外は急行並みに停車駅を減らし、池袋線は所沢から、新宿線は田無から共に各停で東上
東京メトロの東西線快速のようにしないかね〜
スレ違いかスマソ すなっくらんど懐かしいな!
高校の時、部活終わった帰りに腹が減りすぎて、うち帰ればメシあるのに
寄り道して二食丼食ってたわ。 地下通路が出来る前の西武池袋、2階の連絡通路にあったイカ焼きそばが激ウマだったって。
バラック時代の西武新宿、改札近くの立ち食いラーメンも激ウマだったって。 >>665
俺はサービス丼という名のモツ煮込み丼をよく食ってた
西武池袋改札内のスナックインではコロッケライスかとん汁ライスだな >>647
仙石線から来たんだっけ?仙石線では半自動扉だったから、ドアに取っ手が付いたままだった様な。
>>636
台車は新しいものにしたけど、コンプレッサーが古いままだったんだよね。 >>671
川越線でも必要だったから
キハ35系の押し釦式から退化しちゃったけどな 制動時にクハから長くヒーンって感じの音、不快でなくずっと聞いていたい感じ
701系赤電が多かったが覚えとる?黄色い電車はこの音は無かった
今思えばイコライザー履いたクハだったのかな
とはいえ1411では聞いたことない
1411はポールダンスゾーンがあってよかったわな >>673
赤電ということから、一瞬AEブレーキの電磁弁からの排気かと思ったが、
1411で聞いたことがない、というからちがうかも。 >>674
空気系でなく摩擦系の音で、あえて近いのは曲線通過時
極稀に出る、とんでもなく高音域のものが似てる感じ
音源もさがせず文字だと表現難しいものだけど
その音は高速ー中速域が多く停止間際には消えていたので
AEなので路面スリップってあり得ますかね?
TR系は間違いで、逆にFS履いたのだけ圧が効き過ぎたとか? 昔は急カーブの手前に塗油器があってチチッチチッと独特の音を立てていたものだ
今もところどころにあるけど音がしないね としまえんも廃園か。時代も変わるのぉ
模型列車に踏切があった頃を覚えてる世代 >>683
昔は立派な駅舎があった記憶もあるのだが。
それとも当時の俺が小さかったから、何もかも
大きく立派に見えただけだったのか… 駅舎あったよ
サイクロン乗り場の北側、今のコークスクリューの辺りかな としまえんと言えば、何と言っても「アフリカ館」だよな…
あれがなくなってからは行く気も起きないし、園そのものがなくなる
と言われても改めて行こうって気も起きない。 『史上最悪の遊園地』
のポスターを見た時はぶっ飛んだ
「父さん早く帰ろうよ」と子供が言ってるフレーズを今も覚えてる 練馬〜豊島園折り返し時代にヘッドマークも付いてたね。とし博。 日中の小川駅は国分寺線と拝島線の接続が悪くて20ー30分待った記憶がある
今もそうなんだろうか
自社線同士なのに乗り換えが不便だったのは、萩山駅か小平駅まで行って乗り換えろということだったんだろうか >>692
今もそうだけど、拝島線も国分寺線も多摩湖線も線路が複雑に絡んでいる故に
ダイヤの自由度がとても低いんだよ。 東久留米駅の東側、落合川を渡る鉄橋の横に西武鉄道の用地があって、橋脚の名残みたいのもあり、民家を挟んだその先には高圧電線の鉄柱が建つ遊歩道もある
最近は電線を地下に埋めたのか何かわからないが、鉄柱を撤去しだしている
あんなところに引き込み線があったのは聞いたことがないが、ひばりヶ丘団地方面に遊歩道が向かっているから、昔なにかがと勘繰ってしまう >>695
なるほど!
図書館は今は予約貸出のみで閲覧が出来ないんで、自分で調べようがなかったから、どうもありがとうございました。 ひばりヶ丘団地の西側に向かう高圧鉄塔の遊歩道て、まさに引込線の跡ぢゃね? >>692
その代わりと言っちゃなんだが、昔はバス路線が充実していた
所沢駅ー国分寺は4系統有ったハズ
本数は >>693 萩山で拝島方面と西武遊園地方面の分割併合が無くなったことが、少しはダイヤ自由度の改善に寄与してるんではないか?
かつては拝島行き4両+西武遊園地(旧・多摩湖)行き2両の赤電が走っていたものだが。 >>701
俺の小さい頃は、昼間だと拝島行き2連+多摩湖行き2連が普通で、拝島行きが4連になるのはレアだった。
その頃国分寺線は一日中4連で混んでいて、拝島線は2連でも空席が余裕であった。
最寄り駅が小川だったので、両線を比べてなんでこんなに落差があるんだろうかと思っていた。 80年代初頭になると拝島行きは単独4両だったな
あの時代の拝島国分寺線と言ったら、何と言っても車内改札(笑) 沿線に住んでた85年頃は6両が多かったような?
Wikipedia見ると88年8両、97年10両と凄い成長だな >>687
その頃、CD出したよね?
私はB型の女よ
こうと決めたらテコでも動かない
タブーもブタもあるもんか
ゴーイング マイウェイ
わかる!?
みたいな歌詞 >>703
車内改札は80年代の池袋線池袋口でも昼間やってたよ。
>>704
新宿線に10両固定編成(6000系9000系)が入ったのに関係してますね。
10両が入る蔵が上水にしかなく、初めは回送で出入庫してたけど、編成本数が増えるとそれもやがて限界になりますから。
どうしても営業列車での出入庫が必要になります。 ハイキング快急に所沢から乗ってきたのはよく見た。車内改札。 効果あったんですか?
自分は遭遇した経験がないっす あの時代東飯能も拝島もノーラッチで通り放題だったからね 池袋線のは2人組くらいで来ていたね。
定期券の区間外「から」乗車するときは有効区間まで買わずに乗車するのが半ば公然化していたから、
通勤時間帯以外に車内改札をするのはそれだけでも効果があっただろろう。
無人駅/券売機非設置駅以外の乗車は車内発券料を徴収すれば効果倍増。 >>710
もう時効だけど、ハイキングの帰り、初乗り運賃で乗り、定期でおりてたな。 >>241
西武って車両には極力金を掛けない代わりに、長編成化など駅設備の充実は早かったけど、一番金が掛かったのは複線化だそうですね。 池袋線の複線化って新宿線や東武東上線に比べて進展が遅かったような。
71年頃西武秩父秩父まで乗ったとき入間市から単線になったのを見て、東上線は東松山まで複線化されているから東上線の勝ち!と思った。
東上線沿線に住んでたが、池袋線沿線にある親戚の家に行くときによく利用してたので、どっちがボロいか、どこまで複線か、電車の本数どっちが多いかなど比較していた小学生の頃。 飯能〜吾野は実質秩父線。
まあ速攻で複線にしても増発するほど輸送量上がってないと意味ないが 飯能まで全線複線化されたのが2001年。短絡線造る予定だったから、八高線の下くぐって飯能駅までの区間は単線のままでよいと考えてたのか? >>722
もううろ覚えになって来たのだが、それは名目上飯能迄全線複線化の年?、それとも実質飯能迄全線複線化の年?
2001年だと確か名目上だよな >>725 2001年のが名目上というのなら、池袋・飯能間で実質単線だったのはどこの区間? 笠縫がどんどん西に移動して行って、最後は飯能駅の場内で単線になる形になっていた。
つまり笠縫信号場の下り出発信号機が最後は飯能駅の場内信号機になった。
この時点で笠縫信号場は廃止されたので池袋ー飯能間全線複線化と言う事になるけど・・・名目上、
実際には飯能駅の停車場内に単線区間が残っていた。
これが解消された時が実質の池袋ー飯能全線複線化。
変電所の辺りで単複接続になっていたのは最後の笠縫?それとも飯能場内?
単複接続の場所とか年代とかもう忘れちゃった。2001年は実質複線化だっけ?
東北本線の青森駅が似たかんじですね。 >>728
>わからない
>無意味
かわいそうに・・・ 上手く表示されるかわからないが
笠縫信号場(所)現役時代・・・笠縫―飯能間単線時代
――駅間―→←―笠縫信号場(所)-→←――――――駅間―――――→←――飯能駅――
笠縫 下り場内信号機か
信号場区域標 笠縫 下り出発信号機 飯能 下り場内信号機
↓ ↓ _
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ↓ / ̄ ̄線路沢山
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
↑ ↑
| 笠縫 上り場内信号機か信号場区域標
|
笠縫 上り出発信号機か信号場区域標があった?
◎信号機は説明に必要なもの以外省略 池袋―飯能 一部単線最終形・・・笠縫信号場(所)廃止 名目上は池袋−飯能間が全線複線化されたことになる。
―――――――――――――駅間――――――――――-→←―――飯能駅――――
飯能 下り場内信号機
| 飯能 下り場内信号機
↓ _ |
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ↓ / ̄ ̄線路沢山
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
この後飯能駅の用地を拡張して構内改良工事を行って本当の池袋−飯能間全線複線化 今の姿になる >>729 だからさ、2002年1月1日の時点で池袋、飯能間で飯能駅構内の一部でもいいから、単線区間が残存していたことを証明する資料出せよ。それが2001年迄に完全複線化されていなかった事実を証明するわけだろ >>732
>資料出せよ
なぜ?
>>725のはじめの1行読めないの?
>2002年1月1日の時点で池袋、飯能間で飯能駅構内の一部でもいいから、単線区間が残存していた
>2001年迄に完全複線化されていなかった
誰もそんなこと言っていないが?
いっだったかと聞いているのだが?
仮に自分で調べたとしてお前に命令されて教えてやる謂れも無いが? 会社要覧'98~'99(1998年9月)を見ると
「元加治〜飯能間の複線区間を延伸し、同区間の単線部分は飯能駅構内の一部を残すのみとなりました」とあり、
路線図からも笠縫が消えているな。
NEKO MOOK 1876 の年表だと
「*印のある項目は編集部調べ」
「1998年3月26日 笠縫信号場廃止*」
「2001年12月6日 笠縫~飯能間複線運転開始*」
と不可解な表記になっているが、
これから察するに
1998年3月26日に笠縫信号場が廃止されて >>731 の形になり、
2001年12月6日に飯能駅構内の改良工事が完了したと言う事だな。「笠縫~飯能間複線運転開始」は編集部の表現がおかしいな。
ピク716 の 2001.12.15の配線図も飯能構内が複線化されている。 駅以外の信号場で単線になる部分には速度制限の緩い#16ポイントが使われてるのが西武線の特徴 wikiの笠縫信号場の廃止年月日が間違えているから直しておけよ >>739
灰色ゴムは締まりがなく感じたな
最後の頃は正面窓、貫通扉窓、行先種別表示窓
側面サッシ窓、扉窓、扉の戸当たり
で黒と灰色が混在しててみっともない感じがした あめ あめ あめは あぶの あめ あめ あめあめあめあめ 木下恵介アワーの思い橋
TBSの昭和48年のドラマで秩父を舞台にしてるが、
西武秩父駅とレッドアローが度々でる。
松坂慶子と藤岡弘が若い 西武鉄道かわら版11月号の多磨駅リニューアル工事中の記事を見た。
なんと構内踏切がいまだに残ってたのかよ!
多磨墓地駅の時代以来、多摩川線に乗っていないので、東京でこの時代まで残っていたことに驚いた。
ということは、他の駅にも構内踏切が残っているんだろうか?
今も『リアル懐かしの西武線』が味わえる? 構内踏切でもいい
寧ろ相対式ホームに橋上駅舎は邪魔
柵1枚壁1枚向こうへ行くのに高く階段を昇り降りする必要性は全く以って無ッthiング
相対式ホーム駅は地上駅舎+跨線橋がベスト
次点が構内踏切 >>744
> 東京でこの時代まで残っていたことに驚いた
隣の白糸台駅にまだあるけど
23区内の柴又駅、亀戸天神駅、東あずま駅にも残ってるんだから別に驚くことじゃない >>745 練馬高野台や中村橋が構内踏切だったら…?恐怖だけど。
まあ、本数多くないし通過列車ないから構内踏切のままでも安全保たれるんだよな。 井荻も近年まで残ってたよね
みんな改札通らずに環8の踏切から直接ホームへ入ってたっけ(笑) >>746
西武沿線に住んでいても多摩川線は西武の鉄路と繋がってなくて中央線の支線みたいだから35年以上乗ってないもん
鉄ヲタじゃない人間にとっては驚きだよ
京成線も寅さん好きなら柴又辺りは行くだろうけど、ここも36年前に行ったきりだわ >>745
東急は相対式ホームでも上下線それぞれ改札口を作って構内踏切廃止したな >>750
それに跨線橋か地下道を併設する近年までの形がべスト。
椎名町、東久留米、中井、下井草、多磨は改悪。
元々島式+跨線橋だった江古田は仕方ないが 武蔵藤沢は能がなさすぎ。
新宿線は元々構内が狭いから、上下両方に駅舎設置が難しい駅もあるのだろうけど。
武蔵関、西武柳沢も島式から相対式にするときに橋上駅舎化だし。
池袋線は椎名町、桜台、中村橋、富士見台、秋津、稲荷山公園、仏子が相対式で両側に駅舎か。
東久留米、西所沢は島式から相対式にしても下り線側には駅舎 改札が設置されなかったな。
西所も改悪はご免。 >>751 橋上駅舎にすることによって橋の部分を自由通路にできるという大きなメリットがあるよね。入場券買わずに駅の向こう側まで移動できる。 >>752
橋上駅の自由通路ができても、
ついでに10両対応のために踏切が元あった場所からなくなってしまえば、
地元の人間からすると何なんだろうと思う。
おかげで椎名町は車での南北間の移動が全くできなくなった。 >>753 開かずの踏切を残したいのかね?
安全上も踏切減らしたいし、車は迂回して立体交差の所を通ってもらうべきなんでは?
そりゃ鉄道路線の連続高架化ないし地下化が理想的だけど。 >>754
椎名町の(旧)池袋9号踏切に関しては、デメリットが思いつかないんだよ。
それほど開かずの踏切じゃなかったからな。
事故はほとんど隣の池袋8号踏切と2つ先の椎名町2号踏切で起きる。
立体交差は山手通りがあるけれど、首都高ランプのために交差点は作れないので、
思ったような場所に出るルートがない。
歩く人も減ったという印象もある。
構内の自由通路を使う人もあまり見かけないねぇ。
まぁ、踏切自体は残ったけど、場所が離れて使いづらいんだよ。
各駅停車しか止まらない駅にいまさら10両対応は必要なんだろうか。
そりゃ必要なんだろうけど、全列車が前2両分手前で停まってるのを見てるとねぇ。
スレチな話ですまんね。 >>755 ホーム両端が踏切だったら、どちらかの踏切を解消ないし移動させて、先頭車の前頭部が踏切にかからないようにする改良を施すのが普通だよなあ。
踏切内に電車が入り長時間踏切が開かないと渋滞原因になるわけだし。
まあ、鉄オタの個人的趣味の話は別の所でやってくれ >>755
どうせ過疎だからいいんだよ
池袋9号踏切の(旧)なら懐かし板の範疇じゃないか 橋上駅舎化される前の椎名町駅とその周辺の踏切の話は構わんけどね。
こっちも71年の橋上駅舎化以前の清瀬駅のホーム及び配線の情報を探してるんだが。
今、清瀬市50周年で70年頃の写真が駅掲示されてるんだが、その写真によると北側の駅舎と上り線の間にもう一本線路があったらしい。
この頃はホームは島式一つだけだったのか?駅舎とホームの間は構内踏切で結ばれていた。 >>758
1961(昭和36)年の空中写真を立体視してみると、
確かに北側の駅舎と島式ホーム上り線の間に線路があるのが確認できる。
しかも、構内踏切を見ると、もう一本側線があるようにも見えるけど、どうだろうね。
https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=421694
https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=421132
椎名町も昭和20年代までは島式ホーム+構内踏切で、今でも線路敷に名残があるよ。 >>759
このサイトは自分も好き。いい時代になったなとネットの良さを痛感したサイト。
それまでは航空写真を探すのは大変だった。自分はこっちを使う。
https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1
清瀬も椎名町と同じく敷地の形が不自然だから調べた事あるけど、島ホームの位置は現在のホームの池袋寄りから更に池袋方の上下線間にかけて、
丁度中2線になっている辺りなんだよな。
今ホームのない所にまでホームがあった。
ホームが移動している駅は他に(1面2線時代の)保谷、狭山ヶ丘。どちらも島式だが開業時のホームではない。
昭和36年清瀬は確かに上り本線の北側に2本線路が見えるな。
清瀬で不思議なのは、1号踏切西方の上り本線の北側に不自然に空いている線路用地。 >>760
そもそも多磨墓地が多磨霊園になった時改称しろよ >>762
あの頃の都民はみんな多磨墓地
多磨霊園なんて通じない
近くを通るは30m道路
東八道路なんて通じない あのころの区民はみんな十三間道路
目白通りなんて通じない
あの頃の区民はみんな水道道路
新青梅街道なんて通じない
あの頃の区民はみんな成増街道 土支田街道
環八通り 笹目通り? 新青梅街道の下にも東村山浄水場からの水道本管が通ってる
現代の玉川上水 1411形って20m501形501~519や451形より製造が前だけど、それらの車両が完成するまではどうやって使っていたのですか?
1M2Tの3両とか?
それとも1411が登場するまでの西武って電動車が多かったのでしょうか?
311系だってそんなに電動車ばかりが多かったわけでもないし、逆にクハ代用のモハがあったっていうくらいですし。 クハ代用のモハか
燃費悪かったろうな
伊達に重いだけでー クハだけ作ったってどうしようも無いじゃん
並行して作ってたサハ1501形は前期形も20mウィンドシル・ヘッダー無しなのに1411はどうしてシル・ヘッダーつきなんだろうね
ある方が作るの簡単だったのかな >>772 20mの501が本命だが、17mの351(411初代)電動車とトレーラーの2両ユニットをサブとして導入し、ラッシュ時と昼間閑散時の編成車両数増減に対応しやすくする。
サブのトレーラーはなるべく安く済ませたい。長期間使うことは考えない。そんな発想、条件で1411が造られたのでは。
他の私鉄もそうだが、当時はラッシュ時と昼間の乗客数の差が大きかった。大学の郊外移転や新設で沿線に大学が増えるのはまだ先の話。 サハ1501も初期のものは木製屋根、板張り床で古臭かったな 車両足りない、だが資金不足という時代の産物だろ。
性能十分ではないがロクサンを入れるか、ロクサンが扱いづらかったら安上がりの新車を造るか、更には旧型車のトレーラーと新型の電動車を組み合わせた編成にするか
最後のは京王が2000系で行った方式。 だったら>>770にあるように元々電動車が多かったの?
1411と平行して同数のモハ(クモハ)を導入しなければ1M2Tになるな。
>>773 >>775
1411は20mの2代目501~520が製造される前に登場している。
最終増備車は時期が重なっているかもしれないが。
つまり1411が落成した時点では編成を組む411初代(後の351)はない。
501~520初代→411~430初代→351~370はサハ1501~1520とMcTTMc編成を組んだままの時期。
少し遅れて17mモハ玉突き用の2代目501~520が落成する。
まして451と編成を組んだ1411なんてどうやって使っていたのやら。 >>775
ウィンドウシル ウィンドウヘッダー付きって安上がりだったの?
並行して作るなら同じ工作をした方が簡単そうに思えるのだが そうではないのか 溶接機械や資材が十分足りてたかという問題もあるのでは? 外見を気にして裏から補強か表からの違いで
知るヘッダーは必要だろう 昭和30年代のいわゆる軽量車体の車両では内部も含めてシル・ヘッダーは無くなったと言われているけどね
ではなぜ501系では内側なのに1411では外側だったの? >>779
で結局電動車はどうしてたの? ああ、501が内側にシル・ヘッダーが入っているタイプだったかどうかは知らないけど 779だがクハ55のコピーでちゃちゃっとつくったんじゃないの
と思ったが国鉄クハ55に帯のないのも居るし自信ありません 451は、当初1411型と組むためクモハばかり30両作られたと何かで読んだ覚えがある >>784
クハ1411型と組むために作られたのは最初の20両。
その後は451系だけでMc-T-T-Mcとして作られたり、あるいは311系の両端Mに挟まれる形のサハ2両×数組が作られた。
ちなみに、クハ1451型(後のクハ1471型)が作られたのは、551系後期〜601系と製造時期が重なる1962-63年。 >>785
>311系の両端Mに挟まれる形のサハ2両×数組
それ旧武蔵野の301形でしょ? >>785
あれは371が導入されて整理の後あぶれたクモハ371とクハ1411を組ませるために451と組んでた編成から捻出したんだよな
その代替として不足するクハ1451(後の1471)を新製した
一部は改造で対応だっけか >>787
西武3扉車で、落成から廃車まで編成替えも改番も一切関係無かったのって、
801系位だろ。 301系は?
あ、でも4両先行落成→後日8連化があるか。 >>791
元来101系301番台だったんじゃね? >>791
301系の場合
最初は言うとおり101系として4連で製造
→改番しないまま形式・系列だけ301系に
→その後8連化
という流れ。 301系も4連だった頃、形式クハ1101と書かれていた編成もあった >>796
あの当時の西武で30年走ってたんだから、十分すぎるほど恵まれてるだろ。
あと、以下のようにいろいろと恵まれてもいたし。
・赤電最初の(改造ではない新製での)空気バネ台車(クハ)
・赤電最初の交流MG
・赤電で真っ先に客用扉のステンレス化
・全社冷房改造実施 インダイレクトマウント台車は継ぎ目の音がよく響いたな 乗り心地の善し悪しが分からないまま個のと史になった FS067の頃は、まだ車輪が波打車輪じゃなかったから、なおさら金属音が響いたよな。 カキン☆ 同級生で昇格(冷房化)と降格(釣り掛けとペア)と早死に(後期のクハ)と運命が分かれた601系。
西武初の新性能車だが… 新性能って言ったって、クハのみで見たら551系以前とそんなに変わらなかったからな。 601系がああいう運命を辿ったのは、新性能で少数派だったからでしょう。
もっと数があれば、中間車を召し上げられることはなかったと思うよ。 >>797
>赤電で真っ先に客用扉のステンレス化
は恵まれているように感じない
Hゴムガラス支持は却って格好悪く感じたし、ステンレス地より色を塗ってある方がいい。
鋼製車体にドアだけステンレス無塗装って西武独特で異様。(相鉄にもあったが)
ステンレスドアでなぜHゴムガラス支持に戻ったのかも疑問だし、551で一旦アルミハニカムドアになったのに、なぜ601や1563~1572で鋼板ドアに戻ったのかも疑問。 アルミハニカムドアは、軽量だったから故に風によるバタつきの音が、鋼製やステンレスに比べてうるさかったから、というのをどこかで読んだ記憶がある。 西武鉄道は大手鉄道会社で、戸閉時のガタ抑えの装着は遅く、なんと平成以降! 旧501のプレスドアじゃない片開きドアと、その隣にあった2段の車側灯が思い出に残る
⊂⊃
○
みたいなやつ 2段窓全開で池袋に着くと、5回に1回はその窓から乗り込む乗り込むオサーンがいてw
確か701とか101の非冷房とかだったと 赤い電車の開扉表示の車側灯 楕円と円 何の違い?
451 楕円
551 円
571 楕円
601 円
701 円
411前期 楕円
411後期 円
801 円
円になったり楕円に戻ったり
扉と同じだな
鋼板(~451)から アルミになったり(551) 鋼板に戻ったり(1471増備車 571 601) またアルミになったり(701 411 801)
Hゴム(鋼板)から 押さえ金になったり(アルミ) Hゴムに戻ったり(ステンレス初期) また押さえ金になったり(ステンレス後期) 関東鉄道のディーゼルカーに中古っぽい両開きステンレスドアが付いてた
そして車内には西武所沢工場の板が
関鉄は金が無くて赤電の中古ステンレスドアを転用したんだなと思ってた
当時は無塗装ドアはステンレスしかないと思ってたけどアルミもあったのね
アルミだったらスマソ >>806
自分も子供の頃から「ステンレスでHゴムは野暮ったくてダサく、塗装でも金属押さえのドアの方がスマート」と思ってる。
ステンレスドアでHゴムに“戻った”ように見えるけど、単にアルミハニカムドアの構造都合で?金属押さえになってただけとか?
んでその後のステンレスでは安価なHゴムから採用、なのかな…
側灯にしてもドアにしても試行錯誤してたのかね。 地味だけど技術の結晶といえる
こういうところに光が当たってほしい 椎名町駅が島式ホームだった頃の写真あり
泉麻人 絶対責任編集 東京深聞 《東京近郊 気まぐれ電鉄》
昭和おもいで電車(その4)『ローズピンクの西武池袋線』:東京新聞 TOKYO Web
https://www.tokyo-np.co.jp/article/94727 >>815
なんでこんな写真は残ってるのに隣の上り屋敷駅の写真は一枚も無いんだろう
どんな駅だったんだろうな >>815
本文中で言われている車両は571系じゃなくて451系だよな
>>816
確かにホームに停車中の車両を撮った写真しか見たことないな 上り屋敷 「西武農業鉄道」で検索してみな
(^〜^)ああ^〜 うんこ漢字ドリルに
うんこを[てつどう]で運んだ
西武[てつどう]はうんこを運んでいた
ってないのかね? >>608
亀レスだけど
それだとE231の6ドアやE331、都営10-300R先頭などはどうなるんだ? >>529
1年以上前の書き込みに追記するのもあれだが
日立/三菱共に1C8M用の試作品を搭載していて両方を1C4Mで同時に使用する試験と
どちらか一方を1C8Mで使用する試験の2通りを行っていた可能性があったとも思えてきたが… 違うメーカーの主電動機と組み合わせて試験になるの? >>823
多分そう
というより他社では制御装置と主電動機のメーカーが一致しない例が少なくない
(例として都営5300はVVVFは三菱設計だけど、主電動機は東洋設計だった) >>241
ああ、だから小田急や東武は早期に20m4ドア新性能車を導入できたのか
西武も63割り当て車があったら状況は違っていた? >>826
あまり状況は違わなかったと思う。
1960年代〜70年代前半で言えば、東武の北千住、小田急の登戸や下北沢に相当する、
・終点より手前で大量に降車があり、かつ
・その駅より更に終点方面へ乗り通す客がまだ大量にある
という条件を満たす駅、つまり乗降時間をできるだけ短く抑える必要のある途中駅が西武には無かったから。
西武はとにかく池袋や高田馬場まではほぼ乗車の一方で、
・池袋線は大量に降りる池袋が終点だし、
・新宿線は高田馬場で両側ホームで速やかに大量に降車させることができ、かつ、降りた後は西武新宿まで乗り通す客が少なかった。
だから、その面でもむりくり4扉車を導入する必然性が少なかった。 >>826 西武には事故や火災で破損し払い下げを受けた63形を復旧させた車両、401系(初代)が入ってますが。私鉄向け割り当てではないが。 東武や小田急も車両不足だから、やむを得ず10年程度しか持たない粗製乱造の63形割り当てを受け入れたわけで。
入れてみると使い勝手が悪いから手放した名鉄のケースもある。 標準軌の山陽仕様もあった?
よく入線できたと感心した。 >>241を書いたのは俺だけど、西武に63形の「割り当て」があったとしても
やっぱり結果は大して変わらなかったと思う。
63形をもらってもその後の車両の作り方が同じなら、史実同様に20メートル
3扉車が主流になったと考えられるから。
そこに63形準拠にする理由はなかったと考えられる。 でも初代401のうち、モハ1両はわざわざ所沢で63準拠で新製したんだよな・・・ >>831
割り当てを辞退した理由として、当時走っていた17m車を地方へ譲渡しなければならず、車両を増やしたい西武にとっては不要だった、と文献で読んだことがある。 701・801・旧101系は、方向幕が1つの枠内で種別用と方向用とで分かれていたらなぁ…。 >>835
幕が手動だから、クルクル回す腕の筋肉が・・・ >>835
701系が誕生した時代だと、関東私鉄・地下鉄で方向幕と独立した種別幕を持つ車両を作っている所は
まだ殆どなかったはず。
(都営と東武と京急くらい、後2者はやっとそれぞれ8000系と初代1000形で導入したばかり)
方向幕の導入が早かった京王や小田急でさえ、種別表示は幕ではなく板だったし。 東武8000のは本来運行番号表示
多分6号線直通用 うわ、10両なのに冷房付きは後ろの2両だけかよ
…ってのがあったかな? >>839
それでサボ受けデフォルトで装備してたのか >>839
東武8000系は地下鉄乗り入れを全く考慮していないが…。
でもあの車両の種別幕が元々は運番表示だったのは事実。
運番表示と言えば、2000系の運番表示はなんで付けたんだろう?
あれこそ地下鉄乗り入れは不可能だし。
やっぱりデザイン上の処理(左右対称にした)だったのかなぁ? >>842
そうか?
西武2000と同じで公式には何ら発表されていないが、小改良で直通車に流用できる設計にしてあるようにしか見えんがねえ。
実車も改造すれば対応できるようにしてあったとかでないの?
51008Fだっけか?本来地上用の。あんな感じで。
都営6000のデザインが東武8000にそっくりなのが気になるんよ。
営団7000と東武9000に通じるんだよな。 >>841
前面ドアのサボ受けは東上線用だけじゃね?
>>843
8000系登場時点で地下鉄乗り入れ構想なんて無いからねえ スレチだが
東武の幻の三田線直通車は8000の車体に2000の機器を組み合わせたものになる予定だったとか >>843 西武2000登場時の鉄ピクの記事にあったけど、将来の地下鉄乗り入れ用車両はまた別に造るとあったよ。 2000系をそのまま地下に入れたら、国鉄103系並の熱垂れ流し迷惑列車になってたろうな >>847
東急8500系と似たりよったりな性能だから精々爆音汚物言われるくらいかと >>843
まさか、前面に貫通路があれば地下鉄に乗り入れられると勘違いしてない?
地下鉄乗り入れには機器配置や車両性能、それに車両のサイズに防火規定
といった細かい規定があるってことを、鉄ヲタなのに知らないの?
だから東武8000系を地下鉄に乗り入れさせようとしたら、機器類全部作り替えに
なるし、場合によっては車体も全部載せ替えになっちゃうよ。
つまり、地下鉄乗り入れを全く考慮していない線内設計ってこと。
西武2000系も同じ、こちらの場合は車体幅が引っかかって物理的に地下鉄に
乗り入れできないですよ。もちろん性能面や機器配置面もアウト。
西武2000系が前面貫通路付なのは、旧2000系を設計した時代はまだ新宿駅
地下乗り入れ構想が生きていたから、新2000系の時代は新宿線地下急行線
計画があったからと考えられていますよ。 >>850
いちいちマウント取らないと生きていけませんか? >>850
だからわざわざ転用の可能性を残してあった東武51008Fの例を引っ張り出したんだけど。
東急5000系列も東武50000系列も車体の基本設計は同じで、寸法違いだろ?
西武が2000登場当時どういう直通車を想定していたか知らないけど、2000の基本設計は、それを流用できるようにしてあったかもって「可能性」を言っただけだが。
ついでに言えば
>車両性能、それに車両のサイズ
こんなものは地下鉄に限らず、どこでもその路線に要求される条件を満たすことが必要とされるけどな。
トンネルの寸法を大きめにして通路を確保してあれば地下鉄でも正面貫通路が必要ない事だって知っているよ。 突っ込まれそうだから書いておくわ
東武50000 0代は途中から寸法が地下鉄対応に変わってるんだよな 旧2000系登場時の鉄道ファン新車ガイドには
将来地下鉄乗入れを意識した云々って書き方なんで
現実的な実現性でなく単に将来を感じさせるデザインにしたかっただけでは?
ガラパゴス化してる在来車にそれっぽいのが全く無い状況だったので・・・
登場経緯はホームが6両しかない各停の乗降時間短縮なのだから。 >>854
地下鉄対応じゃなくて田園都市線地下区間対応だな >>850
西武の2000系は営団乗り入れ協定・車輌仕様に沿って製造されていますよ。
後年、ネット上に当時の資料文書が暴露されてました。 じゃ有線直通もこいつにすればバカ殿作らずに済んだのに 1980年代直通開始予定だったが、プロ沿線民対策と工事遅延で直通開始があまりに遅すぎた。
地下直車両の方式は電機子チョッパや更にVVVFが当たり前になりはじめた時代に入ってしまい、
営団からは「界磁チョッパはTQ8500で最後にしたい・・・」的なプレッシャーもあったのだろう。
真新しく新規設計で6000系を新造するしかなかった。 >>857
なってないって。
なってりゃあの車体寸法はありえない。
その「ネット上に当時の資料文書が暴露」が怪しい。 >>848
東急8500ばかり槍玉に挙げられるけれど西武2000も外観はともかくアコモデーションも車内騒音も大差ないじゃんと初めて乗ったとき思ったものだ >>861
実際の音量は変わらないかもしれないね。
東急8500は共演の営団8000との差が激しすぎた
加えて二子玉、三茶、渋谷、表参道を通る車両としての品格が…
東横の東急8000系と違って田都8500は走りがじゃじゃ馬なんでね。
西武2000は701系列に囲まれてた分まだ高級車扱い
高速時煩い位で加減速はソフト且つFS372はTSより上等
通るエリアも馬場と新宿の端っこなんでもとより期待値が違うかと。
2000系が仮にY線乗り入れ車なら同じ扱いにされてたかも。 >>861-862
地下区間は音が響くし乗る人が多い事もあって、さらにうるさく感じられる事が多いのかも。 デントは最高90km/hだからメトロの75km/hとは騒音の次元が違う 二子玉 氾濫原砂利採取場、
三茶 スラム、
渋谷 花街、
表参道 貧民窟の入口
如何様にでも騙せる >>862
あの頃の営団8000は爆弾ドア、閉鎖的なイメージの小窓のドア、痛そうなネコのドアステッカー、あの頃あまり見なかった派手な真っ赤なシートモケット等どことなく怖いイメージがあった 当時子供だった頃の感覚では、営団6000系、7000系、8000系は、前面展望もできない上に
ドア窓が上の方に小さくあるだけで外の景色もよく見えないから、ビジネスマンしかターゲットに
していない、自分の様な子供が乗るべきではない路線の車両なんだなという印象が強かった。 赤電〜旧101系の前面展望は最高だったな
仕切り窓、前面窓、どちらも低いので、子供にも優しかった 駅のホームに発車案内表示器が無くて、勿論車両側面にも行先表示器が無かった時代って、
通過運転する列車がある区間の優等停車駅って恐怖ですね。
途中駅に行く人って、ホームに下りたときに列車が停まっていても、乗っていいかどうかわからない。賭けだな。
西武の場合、当時は殆どがターミナルまで行くってのがあったんだろうけど、昼間準急しかなかった時代にしても、
石神井公園なんか日常的に「ホームに下りたら電車が停まっていたけど、乗っていいかどうかわからない」が発生してたんですね。
大泉学園より西では「取り敢えず乗ってみて、車内の放送を聞いて途中で降りる」が出来るけど、次駅から先が通過運転区間でそこに目的地がある時はそれが出来ないもんね。
江古田・練馬・保谷・清瀬・所沢の下りホームには「こんどの電車は」って書かれた幕式表示器があったけど、その他は昭和50年代後半に所謂パタパタが付くまで一切ホームの表示器が無かったですからね。
寧ろ石神井公園ーひばりヶ丘・鷺ノ宮・上石神井の上下ホームとか、大泉学園・保谷・所沢・田無の上りホームとかの方が必要とされていたように思う。
やっぱり誤乗頻発だったのかな。電動幕にした2000でさえ側面幕付けないんだもんな。 その昔、ホームには一日中立ち番の駅員がいて(もちろん交代制)、時にはうるさいくらい頻繁に放送していた(今度の電車は〜、◯番線の電車は〜、など)。
夕方ラッシュの池袋が典型で、5・6番ホームの突き当たりにあったブースから、目の前のスイッチで流すホームを選択しながらずーっと案内していた。
それと、お客さん自体も放送をよく聞いている人が多かった。便利な物が無きゃ無いでなんとかなってた。
あと、種別が今ほど多種じゃなかったってのもある。1970年代までは、専用車の特急を除き普通・準急・急行しかなかった。
1980年に入ってから、快速急行・通勤準急・通勤急行・快速ができたが、朝夕のラッシュ時限定や行楽向けだったし、通過駅のある列車では車内放送でこれまたしつこいくらい案内してた。
なので、今考えるほど大変ではなかった。 池袋5番線後ろの放送所もうないの?
西武線池袋20年くらい行ってないや >>872
全駅に終日いたのですか?
気の利かない駅員だったら駄目だな。あと自分が知りたいタイミングで種別を言ってくれなかった場合も駄目だ。
快速急行・通勤準急・通勤急行に相当する列車自体は1980年代以前からありましたね。
名前が無いだけで。
そういう点では余計に質が悪い。
例えば朝の、急行とのちの通勤急行、準急とのちの通勤準急、放送ではどう区別していたのか。
口でただ種別を言うだけではそれぞれ「急行」「準急」で区別が付かない。
「ひばりヶ丘石神井公園停車の急行」「東久留米保谷大泉学園石神井公園停車の急行」では長過ぎでしょ。 >>874
80年代後半は池袋線は様々な種別名があった割に、新宿線は朝ラッシュ時に上石神井通過やら鷺ノ宮通過やらといった急行も存在しました。前者が拝・遊始発、後者が本川越始発だったかな。
ほとんどの人が高田馬場か西武新宿が目的地だったので、単に急行としか呼ばれてなかったケースが大半だったかと。
田無や上石神井では、「次は〇〇に停まります」ぐらいなら言ってたかも。それでトラブル防げるでしょ。 >>875
そうですね。そこは単純だから分り易いですね。
池袋線の準急も、朝間上り練馬停車/その他練馬通過だった時代、
朝は「練馬停車の準急池袋行き」練馬通過に切り替わった直後の時間帯は「練馬通過の準急池袋行き」と強調していましたね。
「通勤準急」が「準急」と呼ばれていた時代、朝間練馬停車の準急は無かったのでここも「石神井公園停車/通過」で区別できたでしょう。
ただ急行は複雑だなと。 ほおんいや〜
ほおんいや〜 です
・・・ってアナウンスの駅員さん有名だったよな その時代その時代で変わっていくものよ。今から見れば不便に思えるものも、当時はそれが当たり前だったから不便と思わない。
変わっていく中で不便と思われたら便利になるし、わかりにくいと思われたらわかるようになる。ただそれだけのこと。
今便利と思われているものも、将来から見たら「不便だなあ、よくこれでやってたなあ」と言われるかもしれないし。
現在の物差しは、今の時代でしか使えないのよね。過去のものをその物差しで測ろうとしたって測れないし、未来も同じ。
そして、過去を不便と思うか思わないかはその人の感覚だからね。 同じような音でも東急のは8Ⅿ2Tで運転も荒々しいから
体感的なかんじがかなり違う 東急8500は田都で昔6M2Tもあり快速運用もあったと記憶してるが
同じく後に東横の8000系も6M2Tになりスペックは同じだが
8500の走りに暴力性があるのは減流値の違いかな?
それでも東横8000系は軽快で西武2000系なんて話にならん 32tほどのオースステン車体と40tのでっぷり肥満体スチール車体じゃ違うんだよ >>876
昔は練馬には
準急は停まらなかったと
爺が言う。 練馬の準急終日停車なんて90年代に入ってからだから最近に感じてしまう >>884
爺様の時代にあった準急豊島園だけは停まったんじゃないか 最盛期の渡辺美里コンサートや全国高校生クイズ選手権の開催日とか、日中時間帯に
臨時増発された急行西武球場前行きも練馬停車してたな。 >>884 戦後一時準急が練馬に停まっていたと別の爺が答える。
昭和33年頃
準急 池袋・練馬・以遠各駅
急行 池袋・練馬・石神井公園・以遠各駅(通勤時間帯のみ)
昭和34年9月改正
準急 池袋・練馬・豊島園(平日朝間下りのみ)
準急 池袋・練馬・石神井公園・以遠各駅(昼間も運転 名称変更)
昭和38年頃
準急 池袋・練馬・豊島園(平日朝間下りのみ)
準急 池袋・練馬・石神井公園・以遠各駅
昭和38年12月
準急 池袋・練馬・豊島園(平日朝間下りのみ)
準急 池袋・石神井公園・以遠各駅←準急練馬通過の時代に
昭和40年代後半
準急 池袋・練馬・豊島園(平日朝間下りのみ)
準急 池袋・石神井公園・以遠各駅
準急 池袋・大泉学園・以遠各駅(平日朝間上り一部)←通勤準急の祖先誕生、今の通勤準急が準急と呼ばれていた時代
昭和55年改正
準急 池袋・練馬・豊島園(平日朝間下りのみ)
準急 池袋・練馬・石神井公園・以遠各駅(平日朝間上りのみ)←練馬停車の準急復活
準急 池袋・石神井公園・以遠各駅
通勤準急 池袋・大泉学園・以遠各駅
でもね、武蔵野鉄道時代の準急はやっぱり練馬は通過、あそこも通過、あの有名な駅は停車、と仏さんが言ってる。 >>887
でも西武球場前発の準急池袋行きは練馬通過したり、
西武球場前発の普通上石神井行きは下山口通過したり、
でも西武球場前発の下山口通過の所沢行きは準急所沢行きだったり、
まるで難解な時代。 東上線だって準急は池袋・成増間無停車が基本だし(ラッシュ時上りのときわ台停車が1975年頃まであったが)、距離的に石神井公園まで基本的に通過とするのは合理的だと思うが。地下鉄乗り入れで練馬乗換客が増えるまでは。 普通は地下直乗り換え駅は急行停車に格上げだよね
和光市や代々木上原みたいに 練馬始発も練馬止まりもなく
直入れは近くとも石神井迄は強制的に行き来するし
直入れにも優等もあるのだから練馬準急すら停まらんで良いよ 東横特急も最初は中目黒通過だったなぁ(遠い目)
自由が丘の緩急接続時にしつこく構内アナウンスしてた 西武鉄道の政治的戦略により、自社線として奪い取って工事した区間の末端、小竹向原が乗換駅です。
分岐駅でありながら練馬は途中駅というポジション。 >>891 和光市や代々木上原と違って、地下鉄直通の練馬折り返しが練馬駅の構造が原因で無理ということを考えないとなあ。
練馬に池袋行き急行止まらせて地下鉄乗換え客を集中させる意味ないだろ。石神井公園と練馬に分散させればよし。 千鳥停車といい西武は客を分散させることに快楽を見出す体質 >>896 地平駅だった頃の東武伊勢崎線北千住のように、地下鉄直通への乗り換え客が集中しホームが危険なほど混雑するのが望ましいんですか? ジジイな俺が子供だった頃(昭和40年代後半)、土曜日の午後に「急行 狭山湖」ってのがあってな、練馬停まってたんだよ。クモハ351+クハ1411がよく来てたんだよ。 東長崎は側線を通過したなんて話も聞いたことがある。狭山湖急行。 ベタな話だがあの側線は黄色+赤の701昼寝場所の印象が一番鮮烈 夕方に起きだして池袋向かったね
カーブの中にある無茶な渡り線がまた凄まじかった 159F赤電イヴェントも黄を繋げて東長崎展示会もして欲しかった レッドアロー貸切8連最寄駅乗車で遠足行ってた世代で
見れたはずのレッドアロー10両は見たことがない。
狭い期間だったろうけど定期運行あったのかな? 50年近く前の東長崎って、ホーム途中に分岐器があって、かなり抉られてたよね。
JR三島駅の伊豆箱根への連絡線みたいに。 東長崎と言えば池袋寄りの曲線部渡り線。
制限50とかだったと思う。 >>911
下り70上り65分岐25だったかと
ツリカケがいた頃は確か50だった 制限といえば、停車駅直前の閉塞もしくは場内信号、昔は必ず黄信号で制限55だったな。そして出発信号は必ず赤信号。 そういえば制動は二段階だったね
それでか駅間短い富士見台ー中村橋は55kしか出さなかったような
昔から西武は信号機の数がやたら多かった
その頃はアナウンス各駅停車でも掲示は普通だったっけ? 今の小田急みたいなのを停留所でもやってた感じですか 保谷の下り、今は閉塞減速、場内注意、出発停止、と3段階で停まるけど、
昔はいきなり場内注意、出発停止の2段階停車だったな。
場内信号手前まで通過列車と同じく飛ばして走ってた。
注意現示の1つ手前の閉塞信号機は減速でなかったの? 下り保谷駅の手前って、G YG YG Y R(出) のようにYGが連続してなかったか?
あと別な分岐器の手前の閉塞区間なんだけど、先行列車が遅延しているとタイミングによっては、
G YG YY R で急減速する場所もあるね。 黄が連続してる箇所もあった。江古田上り待避線とか。
あと青の次がいきなり黄黄のところもあった。豊島園発上りとか。 昔の西武線の線路、カーブ区間は定尺を交互にしていたなあ(カーブ手前まで左右共同じ、カーブ開始地点から右もしくは左に12.5m入れて反対は定尺、終了地点で反対に12.5m入れて直線で同じに戻る)。
あれ、どういう意図があったんだろ?他線ではそんな繋ぎ方していた記憶がない。 タタッタタン タタッタタン タタッタタン タタッタタン タタッタタン タタッタタン タタッタタン タタッタタン タタッタタン タタッタタン タタッタタン タタッタタン
タタ タタッタタン >>921
> 他線ではそんな繋ぎ方していた記憶がない
こんなことが言えるほど曲線観察してたんだな ロングレールが普及する前は結構な音出しながら走ってたから、曲線区間で音が変わるのは誰でも気付いた。
保谷の大カーブとかでの音が懐かしす。 マジレスすれば、線路の左右のジョイントを分散させて屈曲ズレ防止かと。 ここの音でも確認できるね
http://www.asahi-net.or.jp/~mg5h-cd/sound2.htm
余談だがこのページにある名鉄HL車モ3716の力走はぜひ聞いておくべき >>924
>保谷の大カーブとかでの音が懐かしす。
俺は椎名町〜東長崎かな。途中に渡り線があるから余計に印象に残ってる。
椎名町出発→加速→ノッチオフで速度制限の減速→緩解で曲線進入→>>922のリズム→途中でポイント通過→直線に戻って左分岐ポイント通過→ホーム進入で減速→停車 実現しなかったが
レッドアローは仮に失敗したら通勤電車に実質改造(車体載せ替え)するつもりだったって本当? 何で知った?
元記事は元職員の人なのだから本当なんだろう >>929 その通り。
東武1800も足回りは8000とほぼ共通だし、製造費用節約するには大量生産されている通勤型からの
足回り流用を図った方がよい。
国鉄103に比べれば西武101や東武8000の方が足回り、特に台車に金をかけているから特急車への流用が可能だったわけだが。 だって、車体が通勤型か特急型かの違いだけで、台枠より下はMG除いて全く同じだもの。 MGは別モノだったのか。当時の101は非冷房だったから? レッドアロー走らせたのは一つの賭けだったんだろうな。
日光や箱根に比べて秩父は観光開発が進んでなかったし、有名な温泉地や歴史的建造物もない。
ハイキング急行なら乗るが特別料金払っ飯能や秩父まで特急に乗るか、精々60〜80分程度の移動に
と疑問視する声も多かったのでは? 101系のMGは、非冷房車は12kVA、4連冷房車は150kVA(ブラシレスは140kVA)、6連は120kVA。それに対して5000系は110kVA。
冷房装置の能力が違うからねえ。101系は1両1基あたり42,000kcal(分散式は8,500kcal×5基)だけど、5000系は28,000kcal。 そういえば、10000系もなんだかんだで、101系の系統だな
101系や5000系の機器が流用されてるし
台車は改造されてるけど基本的には同じもの
そんな事情もあって、富山地方鉄道に譲渡された5000系は箱だけで
国鉄485系の解体部品で賄った
西武に国電払い下げの歴史がなかったら、もっと大変だったろうな
101系流用で当初4両4編成くらいなら賭けというほどでもないだろう…
〜〜
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/rail/1614170906/
152 名無し野電車区 (ワッチョイ 5f98-yAnI) sage 2021/09/06(月) 07:41:10.65 ID:QTae2TfL0
青梅線に有料の行楽輸送が定着しなければ
東がブチ切れて全廃するかね
そうなったら日向和田・沢井・御嶽・古里あたり
「行楽シーズンの帰りは積み残される」が当たり前になるだけだろうに
174 名無し野電車区 (ラクッペペ MM3e-4Y1C) sage 2021/09/11(土) 16:15:14.83 ID:3ds23dXGM
>>152
定着見込めるなら西武が早くに乗り入れ参入してたろう、5000系時代に…
西武新宿〜高田馬場〜上石神井〜小平〜萩山〜小川〜拝島〜青梅〜御嶽〜奥多摩
185 名無し野電車区 sage 2021/09/14(火) 05:39:35.27 ID:bj6F8yD2
>> 184
萩山は遊園地、球場への客が新宿方面から乗る事も考えられるが、小川の国分寺線は必要無い
所沢方面からの客には小平に来てもらえばいいし、国分寺側からの客などほぼいない
有料特急なのだから極力連続停車は避けるべきであり、玉川上水通過なら小川も当然不要
有料特急を走らせるなら間に各停を増やさなければいけないのは仕方ない事なのだが?
>>937
失礼、違ってたんだ
そう言えば京王5000にも、レッドアローと全く同じクーラー載せた編成あったね
(初期型、後期型ともに) 西武5000系の冷房装置は初期型がFTUR-375-203A、後期型がFTUR-375-203C。
京王5000系の冷房装置のうち、203Aの外観に似ているのがFTUR-375-202、203Cの外観に似ているのがFTUR-375-206。
いずれも日立製の冷房装置。 >>529
また2年前の書き込みに追記だが
1C6M設計ということは、VVVF試験の検討段階では色々な案があったが、
最終的にあくまで試験のため故障時対応を考えて101の4000化に伴う余剰車を改造して、301のサハを差し替える形での試験に決定したという可能性はあるのではないだろうか
1C6M設計なら、当初は4連で試験(3M1T相当で両先頭は連結面側のみM台車、中間2両にVVVFを搭載と妄想)する計画があったとも考えられる
同時期に新2000で新型台車の試験も実施してたし、当初は東武10080みたいな試作車でも作る案もあったのかね?
(2000系列以前のことをよく知らないのでどういう経緯でああなったかは不明だが新2000の4連が3M1Tの例もあり) 2197‐2198に関しては、恐らく初代VVVF試験車の台車を活用するためにVVVFになった可能性は?
(主電動機を取り付ける部分とかが交流モーター用に改造されていたために元の仕様に戻すことができず、かと言って捨てるのは勿体ないから仕方なく2両だけVVVFになったという感じ)
当時は所工が現役だったからあり得そうな話 幻の7000だが帯色は4000と同じで前面は名鉄1000に類似(恐らく通常の低運転台車両に運転台の高さを合わせる予定だった?) 2097はギクシャクが酷かったという話も
新501も同様(501のどこがいけなかったのは知らないが) 新501系はメカは新101系なのに連結相手が701系列というのがな
新101系も4連は701系列と連結していたが、4連と2連ではやはり勝手が違うものなのか うまく言えないけど、4連はTc2輌がある分編成重量当たりの出力が低く、501系よりマイルドなショックだったのではないか、と。 新501系は新101系と違って、限流値をデチューンしないで701系と連結してたんじゃなかった? 詳しくは知らないけど新501は401ベースにはできない事情があったのかな… 俺もN501だけ701系列と合わなかったのが不思議でならない
N101の2連と701は然程ギクシャクしない
N501とN101の2連は抵抗器箱数も4連と違って一緒なんだよね
>>946
西武の勿体無い精神でありそうだけど
N2000が当時、将来あるであろう更新時にV化画策し
過渡期の併結を実験ってことはない? 501+401+701の8m2t組み合わせに問題がある? >>954後半
昔からその説出てるけど、結果からすると、それが最も合理的な理由でしょ?
>>551にも書いてある。
もしかしたら旧2000の更新時も視野に入れていたかもしれない。
時期的に数年後から始まっているからね。
で結局やめたんでしょ。
チョッパとVVVFの併結はよろしくないと言う事で。
運用分けるのもメンドクセ―と。 >>945
VVVFが1.5M設計ということは
クモハ(0.5M)-モハ-モハ-クモハ(0.5M)? >>555
仮に東急8000系列がVVVF化されていたとしてもメトロ7000/8000みたいにどこかのタイミングで置き換えになってたかもしれないが 307Fの145V試験組込みって501+701や2097Fのような
大きなギクシャク無かったような気がする >>960
それは性能の異なる車両を丁度中間に組み込んでいたからと推測
2097FのVVVF搭載も飯能方ユニットではなく中間ユニットだったら違った可能性も ふと思った
西武が京王7000・8000/小田急8000・1000のような足回り換装を含めた更新をやらないのは2197‐2198で懲りたからか?
(9000/6000地下鉄対応車の足回り換装は特殊事情として) >>960
中間サハを置き換えたVVVF=2Mが両サイドの抵抗制御=2Mに挟まれた6M2Tだったからじゃない? 直巻150kw系の進段とV試験仕様の加速が偶々合致に一票 V化試験やった307Fって、301-7と301-8は単に仮T化しただけで、主電動機やらなんやらのM車機器は積んだままだったんだっけ?
それとも、主電動機だけ下ろしてあとはそのままだったんだっけ? >>969
VVVF車にトラブルがあった時には直ぐに使用出来る様になっていた旨を、何かの本で読んだ事がある。 307Fはどちらかと言うと阪急2250Fに近い
阪急2250FもT車を置き換える形でVVVF車を挿入してたからね 警笛
なう
らる
すさ
ない
って看板なら東長崎〜椎名町にあった 電子笛はあの看板掲げた人が設計したようなのかも
いま掲げていないのは電子笛で満足したかご高齢で亡くなられたか 昭和病院そばの青梅街道踏切の少し東側、線路両側が農地で、いつも人一人分柵が外されて勝手踏切作られていたな。
あそこももうそんなことなくなったので、農家のおじいさん引退されたかお亡くなりになったのだろうな。
ああいうのは代が変わらないと無くならないと言ってた。
昔は自分の家の庭先で自由に通ってたものが、線路を通してやった為に自分たちが通れなくなったということだと、中々納得してもらえないって。
生まれた時から線路があったんだとしないものだとか。 >>978
他の出入り経路があるんだから致し方ない
補償もあったろうし
他に出入り経路がないならちゃんと正式な踏切設置になるだろ
名鉄や京成にある4種のように 東長崎〜椎名町には線路敷地内に植木鉢とか置いている家もあったね 秋津駅が清瀬駅になるかもしれなかった。清瀬と秋津の中間付近に清瀬駅ができていた可能性も。清瀬市郷土博物館の展示見てきた。 清瀬駅の秋津方、丁度引き揚げ線横、上り線の北に不自然に空いている用地何なのか教えて。 次スレのテンプレ
タイトル:懐かしの西武線 第4編成
内容:
懐かしの西武鉄道の話題を引き続きよろしくお願いします。
前スレ
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/jnr/1505802297/ 次スレは必要か
なくてもいい
このスレで終わりにしよう
過去を振り返るのはもうやめよう
未来を向いて生きていこう 四十数年前、西武では大変珍しい車両であった2000系第1編成も、横瀬回送になってしまったそうですね。
やっぱり2000系も登場時は秩父まで試運転したのでしょうか。
だとすると最初と最後の秩父線。 四十年も経つと、珍しいものも珍しくなくなるものですね。
特殊な車両だった2000系も、西武では当たり前の車両になっていた。
後から製造された車両が続々廃車されていく中、まるで不死身かのように走り思われていた2001~2002の編成も、遂に廃車となってしまいましたね。
いくときは突然やってくる。 でも特別旧2000系に思い入れはありません。
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