【シ,ハシ,Td,Tb】食堂車・ビュフェ【35,36,37,168】4レ [無断転載禁止]©2ch.net
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【シ,ハシ,Td,Tb】食堂車・ビュフェ【35,36,37,168】3レhttps://mao.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1358611883/
かつてほとんどの特急列車に連結されていた食堂車。
かつて多くの急行電車に連結されていたビュフェ。
新幹線にもビュフェや食堂車が当たり前に連結されていました。
流れる車窓を眺めながらいただく食堂車での食事、
今となってはごく限られた列車でしか楽しめなくなりました。
このスレッドでは、食堂車、ビュフェにまつわる懐かしい話を楽しみましょう。
新幹線や九州ブルトレなど、JR化以降も営業していたものから、
新幹線開業までの東北本線、山陽本線、東海道本線等々の特急列車の食堂車から、
場合によっては戦前の食堂車の話まで、
皆様の記憶と知識等々披露しあいながら語り合いましょう >>707
寝台特急や電車特急と同じで、1等客だけでなく2等客にも使いやすい形の
食堂車が編成の真ん中になってきた時代と重なるね。 等級制廃止で1等がグリーンに変わった時期と、食堂車の連結位置の変更時期はほぼ一致するからな。
その頃を境に食堂車の利用対象も優等客偏重から普通車の客にも幅広く・・・というようになっていった。 昭和44年くらいって庶民の中の上くらいの所得が伸びて
特権階級(越えられない壁)庶民 が崩れた時期。
高度成長始まる35年が三等級→二等級だったし世情と合ってるわけだなぁ。 >708
>709
キハ81の車端部に設けられていた売店は、「はつかり」のキハ81普通車の客を
食堂車に行く時以外は、なるべくグリーン車を通らないようにさせるために設けられたのだという。 そういやキハ81の売店も紀勢線転属後は使用されなくなったとか 712
キハ81の売店は「くろしお」に転用後は車販基地として使用されていたようだが、
シャッターが閉められている時もあり、売店営業は行われていなかったようだ。 >714
満鉄あじあ号の食堂車のメニューは当然、中華料理主体だっただろうね。
あじあ号の食堂車のウェイトレスはロシア人だったらしく、メニューには
ロシア料理もあったかも 中華料理主体とはなってないわなあ。これは一品料理のメニューだが、当時の日本国内の高級レストランに似たようなもの。定食で和定食がある。
ロシア料理もなさそうだ。
http://hakubutukantyou.at-ninja.jp/asiashokudousya.html >>19
1970年代の絵本は新幹線の食堂車から富士山や駿河湾見てたのがあったよ
トンネル多い山陽より利用者も多く景色も良い東海道とは思うが
合理化の考えがないから利用者数や時間帯とか考慮しなかったんだろうな
もともと窓が開かないから優等には食堂車があってるわけだし えっ、当時食堂から富士山見えた?
後から通路側窓つけてからじゃない? >>717 >>718
食堂車ではなく35形ビュフェのことを言ってると思うけどな。
当時のビュフェは食堂車に近いような機能も持っててメニューも結構充実してたし、
しかもセルフサービスではなくサービス係による接客体制をとってたからな。 >>719
日本坂トンネルを出て静岡駅を過ぎると興津トンネルまでの間(旧清水市付近)で
進行方向右側で駿河湾越しに富士山が見える区間があります。
でも、じくっり見たいならやはり在来線だな。 >>719
50年前に婆様とカレーを食って、ウエイトレスのおねーさんが
運んでくれた記憶があるんだが。 157系準急「日光」の車内の売店では、流しはなかったものの電子レンジやコンロもあって、
軽食を調理したり、弁当を温めたりして販売提供してたが、やはり対抗する東武DRCの豪華な車内設備には敵わなかった。 >>722
その売店設備も後年のあまぎ・白根では使用されなかったらしい >723
近鉄12200系スナックカーのスナックコーナーの営業も近鉄系の都ホテルが行っていて、名阪特急や阪伊特急などの長距離特急の車内で軽食提供や車内販売を行っていたが、のちにスナックコーナーは営業廃止されて車販基地になったり、12200系は
車体更新工事の際にスナックコーナーが撤去されて座席が設置されたりした。 >>686
そりゃ姫路には地上設備も乗務員の宿泊所もないもの >>723
温泉特急なら温泉まんじゅうでも売ればいいのに >>678 >>682
元業界人だけど
その京都〜新大阪間でのカキフライの話、宇都宮さんの著書以外からは聞いたことないけどね。
もちろんコーヒー客ならいたし、たまにサンドウィッチが出ることがあったけどカキフライは
超の付くレアケースだと思う。また以後それ用に準備したというのが宇都宮さんらしい。
>>685 >>686 >>689
夜の東京〜西明石→姫路便(翌朝の上りにも同区間便)
平成6年12月のダイヤ改正での東京〜博多便1往復を除いて定期運用0系食堂車営業が休止になるまでは
東京〜新大阪間で食堂車営業していたよ。その後の100系置換後はもちろん売店営業のみだったが。
なお下り、上りとも新大阪での材料積み下ろしのため停車時間が4分あったものの、よほどのことがない限り
同編成だったので一部食材を冷蔵庫に置きっぱなしだったことも。
(翌朝、運用が乱れると大変だった…)
>>719 >>720
富士山と駿河湾だから通称・右富士だね。
当時は山側に窓がなかったけど海側なら見える。
なお右富士は窓位置の関係でビュッフェ客からは見ることができない。 混んでるときは通路で待ってる客の身体しか見えないけどな >>727
その西明石→姫路のひかりの0系食堂車時代
時刻表の表記では食堂車のみでビュッフェ営業が無いことになっていたな
ふつうは食堂車、ビュッフェ両方のマークがついていたのに
(臨時列車やこだまはビュッフェ営業のマークのみ) いいトシをしてあれなんですが、小学生頃に2階建て新幹線の食堂車で何か食べた様な記憶があるんですが
これはビュッフェの可能性もありますか?
それともそんなものはなかった?
もしわかる方がいらっしゃれば回答宜しくお願いします 本格的な食堂車は所要時間5時間以上ないと客が付かないよな
新幹線で食堂車が設置されたのは東京〜博多が当初6時間50分掛かってたため
東北本線系統の特急には大抵付いてたが東北新幹線開業で命脈を絶たれた 食堂車は食事する客2回転、飲み物だけの客4回転が最低ラインだからね。
理想は食事客3回転。 自由席代わりに長居する客対策は全車指定席にするしか方法が無い
急行のビュッフェは最初の頃珍しく冷房が付いてたので夏に長時間涼む客が多かった? >>736
ダメではないだろう。
実際日本の定期列車で、食堂車が付いてる列車が現存しないので。 >>737
しまかぜは定期列車だぞ。
まぁ、どうせ「あんなものは食堂車じゃない」と言うのだろうが。 そもそも定期列車という定義はどっから出てきたんだ
クルーズトレインに関しては各専用スレがあるからそっちでやればいいとして
べつにエモーションやら至福みたいなのも食堂車には違いないぜ?
昔の雑誌の手紙での投稿コーナーなんか北斗星運行開始時に
フレンチディナーコースが中心になることに批判的な投稿もあったし
新幹線帝国ホテルのコースディナーに批判的な奴もいた
でも今となってはどれも懐かしいよい思い出として扱われてるよね
お前らが今嫌ってる今を走る食堂車もいずれそうなってくると思ってるんだが 新幹線開業の数年前に東北特急の食堂車は営業停止してただろ
なにが命脈たたれただよ >>740
前年にあたる1981年8月の時刻表あるけど上野から東北方面に行く定期昼行特急は
あいづとひたち以外全部食堂車営業してたよ
ときの食堂車全廃と間違えてないか? 今のJR東日本だったらレジで会計するときにSuicaで決済可能とかしてただろうな
車内販売ではSuicaが使える >>741
その2ヶ月後の10月改正時に「ひばり」の半数が営業休止になった。
「踊り子」誕生と同じ時。
翌年1982年6月の東北新幹線暫定開業時に「やまびこ」廃止「ひばり」削減で、
残った「ひばり」は全列車食堂車になったが、その後11月の上越新幹線開業が近づくと、
485系は改正準備で編成を替えられ、食堂車のない「ひばり」「はつかり」も出現した。
583系は改正前日の11月14日まで営業してたが・・
>>742
クレジットカードもな。
臨時化された「北斗星」の食堂車では、遅まきながら会計でクレジットカードも使えた。 >>744
探したら10月号も出てきた
ひばり1、2、7、8、10、15、17、19、22、28号に食堂車記号ついてないね
何れにせよ>>740は間違ってるって確認できたね >>744
クレカはどうやって通信してたのか気になる
携帯電話回線でクレジット会社のサーバーと通信できればいいが青函トンネル内とか通信できない区間だとインプリンタを使わない限り決済不可能
最近エンボスレスのクレカがあるがインプリンタ使えない >>745
>>740は数か月前と間違ったのかもしれない。
いずれにせよ82年は、食堂車に波乱があった年だった。
東北・上越新幹線開業で、東北方面の特急食堂車が絶滅したが、「白山」は食堂車復活!
また「やくも」が電車化で食堂車が無くなった。今では車販もなしorz >>748
新幹線の開業で在来線特急が大幅に切られる上に、食堂車も衰退するのが常。
1975年3月の新幹線博多開業で、西日本の在来線特急はもっと凄まじかった。 1982年以前はまだ子供で親に乗せてもらっただけ
大学生になりバイト代注ぎ込んで食堂車へ、と思ったのは
雷鳥や復活した白山、あと北海道のキシ80が限界だったな。 「特急白鳥の思い出」780に書いたけど、
気動車特急で、大阪〜青森・上野が併結の時代に、
両方の編成に食堂車があった。
その前に関西発の九州行き気動車特急「かもめ」が、
京都〜長崎・宮崎を併結していた時代も、
両方の編成に食堂車があった。
関西仕立ての列車だから、
帝国ホテルの受け持ちがあったかどうか分からない。
のちに特急列車で食堂車とブッフェの両方がある列車はあったけど、
併結とは言え食堂車が別々に2両ついていたのは、
これらの「白鳥」と「かもめ」だけだったような、私の記憶では。 >>751
キハ82の初期に片側の発着駅が2つあった列車は、分割併合の関係上双方の編成に食堂車があった。
あと「みどり」が大分・佐世保行きで、こちらも両方のに付いてたような・・
特急で食堂車とビュッフェの両方付いてたのは、在来線では東海道・山陽本線の151→181系
しか記憶にない。後に0系新幹線「ひかり」編成もそうなったけど・・ >>751
白鳥運転開始とかもめ82系化は同時だから「その前に」ではないんじゃねえのかい?
>>752
キハ82系みどりは大阪-博多、新大阪−熊本・大分、新大阪−佐世保・大分の時代がありますが
新大阪−熊本・大分の時代の食堂車は熊本編成だけ、新大阪−佐世保・大分の時代は大分編成だけですね >>754
301円以上で遊興飲食税掛かってたんだな
料飲税・特別地方消費税と名前を変えて2000年3月まで存続してた 吉野家の如くみんながみんな早食いしてくれたら回転率が上がって利益が増えるがグループでのんびり談笑しながらだと時間がかかるよな 新幹線食堂車なんて東京名古屋の2時間で2回転がいいとこだからな
ほとんどが富士山見たがって静岡あたりまで粘る 客単価は安くなるけど回転率を高めようとしたのが戦前の和食堂車とか戦後のビュフェ >>760
それでも0系→100系で、よく25年程度もったもんだ。 早食いする乗客もいたのか?
短距離乗車だと早食いしないと駅に着く前に完食できず食べ残しが多発しそう
立ち食い蕎麦も大抵の人は5分で完食する >>763
自由席の客がコーヒーとかビールで粘ることがあった。 営業とは直接関係ないんだけど、オシ14以降で設置されたクルー用の寝台ってどんなもんだったの?
ググってみてもそれらしい画像がヒットしないのよ。 >>766
分からん
寝台車の一部を従業員向けに割り当てた他は分からん >>766
喫煙室を寝台にするのはあったな。
クルーが多かった時期は、食堂車の椅子を寝やすいように並べてもいた。
ウエイトレスは優先的に>>768 だった。 >>766
カシオペア乗ったとき
5号車一番?の位置、何でないのかな?と思ってて通りかかった時、たまたまクルーが出てきたか、入るとこだったのか
開いていて、
三段ベッドが向かい合わせになってるのを見たような…
あれがクルー用の部屋だったんですかね?? 京都駅で「新幹線懐かしの食堂車プレミアムビーフカレー」なるものが食せる。
https://www.jr-cp.co.jp/restaurants/detail/15?before_action=area_list&floor=2&station=7
Jダイナー東海の頃から京都駅でカレー屋を営業している店。 食堂車に漂う独特のにおい、あれは一体なにだったのだろうか。 短区間だけ乗車なのに食堂車を利用して必死になって早食いした人いる?
のんびりしてると乗り過ごしてしまう
調理時間短縮のためにレンジでチンしたり冷凍食品やレトルト食品とか既製品を使ったりしてるの多かったがななつ星in九州とかは1から仕込み可能 G車アテンダントは車販用端末持ってない。
車販カートと一緒のときだけ端末がある 非常ブレーキでワイングラスが倒れたとか食器が落下した事故が起きたことはある? 急停車で缶コーヒーをこぼしたことがある
それ以降、電車に飲物を持込む時は栓ができるものを選ぶようになった 昔の缶コーヒーのロング缶は倒れそうだな
190の缶は安定してるが 陶器の食器だと割れたときの損害が大きいので末期の新幹線0系のビュッフェは紙皿だった
学校の給食みたいにポリカーボネートにすれば頑丈だが環境ホルモンが問題になった 37は排水をポリタンクに溜める仕様だったので水が使えないので使い捨ての紙皿になった
まあ乗って最初にやることはゴミ袋でホースを作って排水口につなぐことだったが ガキ…本で読んだ知識を語る
ジジイ…リアルな思い出を延々と語る
おっさん…子供の頃は親が「号車移動が面倒」「高くてまずい」と言って連れて行ってくれず
大人になったら食堂車無くなっててorz
はい、俺はおっさんです。食堂車体験は「グランドひかり」「トワイライト」「北斗星」だけ。 53歳だけどオッサンじゃなくどっちかと言うとジジィ側になるんかな
1984-86年の在来線昼行食堂車末期に各地でギリギリ食べまくってた
白山の復活が嬉しかったり、北海道じゃ「おおとり」「オホーツク」とか
丁度大学生になってバイトして旅行出来たからなんだけどね。 58歳ですが、やはりおっさんとジジイの間かな?サシ481/489の雷鳥やしらさぎ、
新幹線の0系の食堂車やビュッフェ、100系の二階建ての食堂車。
その100系では贅沢な気分を味わえた。ただ、寝台車の食堂車を利用する機会が無かった。 >>788
俺が大学に入った時に稼働していた食堂車は168とスシ24だけ
18乞食だった俺は何度も乗れなかった。 50代だと結構リッチ(死語)な若者じゃないと
食堂車堪能は厳しかったかもな。
18きっぷ派は土台無理で最低でもワイド周遊券使わないと
遠出は金掛かった。取りやすい閑散期休めるなら
飛行機のスカイメイト利用もあったが。 788です。自分は恵まれてたかも知れないな・・結構遊びにお金使えたほうです。
〜1984年10月某日 「小布施竹風堂にて栗ぜんざい食す。長電2000系で長野へ
白山6号食堂車でカツカレーが夕食、金属の皿がよく磨かれている」
なんてメモがありました。
https://light.dotup.org/uploda/light.dotup.org582568.jpg
>>789
鳥海は下りは食堂良い時間帯でしたね。高崎→水上で12時代
上りは中途半端なので乗らなかったです。
>>790
100系先行車85年10月デビュー直後、1時間並んで食堂待ったのが忘れられないです。
>>791
少しの世代差で大きく変わる時期かな、と。40代だと小中学生ですしね。
>>792
バイト代を旅行につぎ込めなかったら無理でしたね。スカイメイトは私もお世話になりました。 44歳だが食堂車デビューは小学生
100系の2階建てだった様な
他には出雲の食堂車でコーンスープと他何か1品
小5にはサンドイッチが高過ぎて注文出来なかった思い出 自分は50だけど子供の頃に帰省や旅行でブルトレのオシ14や特急サシ481や581で食べさせて貰った
高校大学になったら興味が機関車、旧客、旧国、ローカルに興味が移って、カメラにレンズにフィルムに金使ったから、周遊券で車中泊、食い物は二の次、立ち食いそばや菓子パンばっかり
それから30年近く経って子供と北斗星のスシ24が最後の食堂車。国鉄の頃の食堂車とは別物だったけど、自分が子供の頃に親にして貰ったことを経験させてあげられて良かった 43歳
西日本民。初食堂車は1983の0系(担当列車が少なかった都H)
中1から単独旅行が許されたが
まだ現役だった九州寝台の食堂車、せっかくあるのに全く利用しなかった
(高い&おいしくない&閑散してて殺風景のイメージ。同世代以上は解るはず)
賑わいを感じる東海幹だけは終焉まで何度も利用
旅で北斗星利用のときは必ず利用
こんなところかな。 みんなの体験談が面白い。
在来で「美味かった」と思ったのはこれが最後
北海道のキシ80
https://light.dotup.org/uploda/light.dotup.org582817.jpg
1993年まで残ったブルトレの最後の3年はダメダメ
調理法が変わったのか味は悪くなり、掃除も行き届いてなく
寂しい印象しかないな。ご飯が炊くんじゃなくパック飯になったんだっけ。 子供の頃親に食堂車に連れて行ってもらったというのが羨ましい。
自分は>>787で書いた通り親がねぇ >>800
そこ大事だね。100系2階で初めて食べたのは彼女との京都旅行の帰りだったな。
当時の京都は今みたいな激混みじゃなく、バス一日券も有効に使えた。 >>773
コーヒーとバターにブイヨンにオニオンが混じった感じ
最近どっかのレストランの外でその匂いを嗅いだが0系食堂車の記憶が蘇った。
日曜夕方の東京発ひかり145号だったがサンドウイッチを買いにビュッフェに行ったら
食堂車待ちの行列が37の客室通路まで伸びていて厨房からの煙が客室内に青く
漂っていたのを匂いと共に印象に残っている。 食堂車は・・・
ひかりで洋朝食とこだまのカレーライスにしらさぎのミックスサンドウイッチにジュース
しか経験がない59歳です。 在来線の食堂車で感じたのはデミグラスソースのような匂いかな。
街の洋食屋みたいな匂い。 ビーフシチューの上にカリカリのベーコンチップが載ってた北斗星
思いつかんかった
家に帰ってやってみた 唯一の食堂車体験が越後湯沢から乗った上りはくたか。
スキー帰りの臨時停車だったから54.10以降だが同時期には既に食堂車が無かった筈。
あれは一体… ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています