【月光型】581/583系スレ【寝台電車】 [無断転載禁止]©2ch.net
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今年2017年に兄貴分の485系一族と共に消えた月光型寝台電車の581/583系スレでございます。 >>23
俺も、ボンネット=クハ481、200番台=クハ483、300番台以降=クハ485で良いと思ってたけど、
そうか、そうするとクハが都合6種類もある489系の方で付番に困っちゃうからだったのか。
489系じゃなくて487系にしておけば486〜489を使えたのにな。 581新製時、図面は出来たけど試作が間に合わなくて幻になった
A寝台/G車の寝台/座席の図面ってどこかで公開(掲載)されたことあったけ? ク
ソ
コ
テ
さ
ん
は
高
齢
童
貞
で
す そいつらしきレスの見当たらないスレに、なんでレスするの? はくつるで一時期1両が寝台ではなくて指定席扱いで運行されていたな ゆうづるの全車座席車運用は
寝台・座席転換作業における
人的要因故と言われているが
彗星等の関西対九州間の寝台
電車で見られた、編成中の内
4両座席車や1両座席車運用は
50・3で一挙に廃止された
旧客急行利用者の救済措置? >>26
キャンブックスの「581・583系物語」(福原俊一・著)によると、
計画段階では、ロネ⇔ロザの転換でなく、編成端のクハネ+サハネを
クロ+サロと交換することで対応しようという案もあったとのこと。 >>26
>>31
昼間のリクライニングシートと夜間のベッドを両立させるには現代の飛行機の上級クラスのようにフルフラットしか選択肢はないような気がする。 >>32 二階建てにして全席フルフラットにするってのは?
E231の二階建てグリーン車をベースにして改造し・・? 583系は、青函トンネルに入ったことないですよね。
できれば、はくつるを函館まで直通できれば、
それなりに需要はあったと思うけれど、
JR東日本は、全く考えなかったのだろうか。
それとも保安装置設置が困難などの理由で、
改造は断念せざるを得なかったのだろうか。 はくつるは海峡1号接続だったけど
はくつると海峡1号両方運転するほどの需要は見込めなかったんだろうね 583系が函館に行かなかった理由の一つに、
寝台転換作業が大変だったという事情もあったのかもしれませんね。 あの当時既に583系の寝台転換作業を運行中にするなんてのは端から考慮外だった思うよ 客車寝台も含めある時期から省力化で解体しなくなったね
もっとも2段化の進んだ客車と違って3段のままの電車寝台にあまり長時間乗せるのはまずいだろうから、わざわざ函館延長することはちょっと考えにくい話だね そもそも583系は出来た時から車内での寝台転換作業は想定してなかっただろ?
一時期きりしまとかでやってたけど例外だわな >>37
函館じゃ、それをやる業者がいない。
国鉄時代なら、何とかしたかも知れないが。
となると函館へ行った583系は、夜の折り返しまで函館で寝てるしかない。
当時、583系は昼の「はつかり」も持っていたから、函館で昼間寝かしておく訳にいかなかった。 >>41
青森まで帰ってくるんじゃね
まあそうすると盛岡まで一往復くらいしか出来ないと思うけど
ところで当時のはくつる、ゆうづるとはつかりって共通運用だった? 140km/h化はしないとしても、もうぼろいのに海峡線の為にATC載せたりしないだろ 長距離をこなす客車と違って、運転区間(所要時間)の関係で寝台転換作業が必要なかった。
昼夜行兼用で効率性の問題もあるし、客車とは対称的な扱いだったのではないか。 >>44
寝台転換作業必要な時間帯も寝台特急として走ってたら
昼夜兼用型の意味がないものなあ
昼は昼行特急として走ってくれないと
それでも鹿児島電化や宮崎電化の時点では速度の点で長距離走らす意味もあっただろうけど
青函トンネル開通の頃は最早そんなことに意味はなかったし
そもそもあの当時特急としての設備的には583系は威張れたもんじゃなかったから
積極的に使う存在でもなかったわな >>42
寝台状態の583系を、白昼堂々青函間を回送?
現実的ではないけど、ネタとしては面白い話だな。 学生時代俺は英語が得意なのが大いに役に立ったのだが、
思い出して見ると、上野駅20番線他の地上ホームの
583系のみちのくとはつかりがの方向幕のアルファベットと
FORという英単語がそのきっかけだな。ユーイーナンバーと
書いて上野なんだなとおぼえたのが昭和51年の9歳頃だ。 昭和50年代前半の青森の人は新婚旅行で
東京近辺に行くという定番はあったのかな?
式のあとにはくつるゆうづる、とか、
一泊してはつかりやみちのく、とか。
その頃結婚したらしき新婚さんが
583系に乗るとこの写真があった。 いくら北とうほぐのド田舎民っても、ハネムーンをトンキン程度にしないでしょ
トンキンから新幹線かブルトレ乗って、九州の大分と宮崎辺りだろな
この頃大量結婚してた団塊連中のハネムーンメッカは九州だったし 青森の車が上野往復(さらに東大宮とかまで往復)したら何キロ走ることになるのか、考えてみたまえよ。 昭和50年頃…東北の人は伊豆半島、熱海&箱根周辺だったハズ
そんな話を聞いたことあったよ。 >>40
小1(昭和50)の時に東京〜大分へ引っ越し移動の際
名古屋・大阪・山口の親戚ん家に泊りながら移動中に581系に乗った
その時に座席から寝台への換装を走行中にやってた記憶が有る
いままで乗ってたのは金星かと思ってたが4月〜5月の間だったから
臨時運用のきりしまっぽいね 魔太郎が来るの何巻だったか、旅に出た魔太郎が583系の夜行列車に乗り、寝台の解体シーンがある。
藤子A先生、どこで情報仕入れたんだろう?w 団体列車ではボックス単位で発売してただろうな
特急型のくせにボックス席で見知らぬ人と顔を合わせる事になる
デビュー当初の253系成田エクスプレスは特急型のくせにボックス席で大不評を買ってしまい後年集団見合い型に改造された(スーツケースを座席下に置けるようにカンチレバーシートだったため回転できなかった) 家電品で60Hz用は60Hzでしか使えないが50Hz
用は60Hzでも使えるんだね。583系も50Hz使用
前提で使ってたという事か 違った 583系は50Hz前提で作っていたから
60Hzでも使えたという事かな、だ。 なぜ581月光デビューの際の昼行ペア列車が
同じ区間を走るはとではなく、効率の悪い
大分行のみどりだったのだろう?
ハネムーンの多い日豊特急に一等車なし、
ボックスシートを充当した意図やいかに? >ハネムーンの多い日豊特急
大分行きで宮崎には行かないんですが 博多行きの昼行列車なら1等車が必要だったとかじゃね? 日豊本線沿線住人だけど彗星とペア運用にちりんは
ガキのころ青いにちりんと呼んでたけど
2〜3年で消えた記憶がある >>61 大分行きで宮崎には行かないんですが
当時の旅行雑誌や時刻表を見れば、
大分も新婚旅行の起点であることが
分かると思います。 581 583系が昼夜であまり活用されなかったのは組合の反対が強かったからというのはホントなんかね。
極端な話
A______B
2000発→700着
1900着←2000発
700発→2000着
1900着←700発
みたいな運用出来れば一番効率はいいんだけ
どね。
今の航空会社ジェットスターなんかこれに近い運用してる。昼間国内線で3往復位して夜に片道3時間位の中国や台湾往復して早朝また国内線に入る。 2000発→700着 → 所要 11時間 折り返し時間 13時間
1900着←2000発 → 所要 23時間 折り返し時間 12時間
700発→2000着 → 所要 13時間 折り返し時間 11時間
1900着←700発 → 所要 12時間 折り返し時間 1時間
どこが効率的なのか全く分からん 2000発→700着
1900着←800発
2000発→700着
1900着←800発
だった スマン 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) >>69
583系なら予備考慮しなければ3編成で足りる
485系と20系客車だとそれぞれ2編成、計4編成必要 実際のところ当時の大分の新婚旅行の入り数ってどんな感じだったんだろうね? >>70
583系の場合、最も効率的な折り返し時間を3時間として、運転時間が9時間程度となる列車が選定されていた
>>72
無知な自覚もないのですね >>73
>>72がドヤ顔で具体的な数字と共に示してくれると思うよ
しばし待とうや >>74
運転時間+折り返し時間×2=24だから確かにそれだと効率いいけど
でも実際は月光の場合新大阪-博多で9時間半くらい
向日町や南福岡への回送入れると10時間以上かかってるよね? >>76
運転時間が9時間程度、距離にして700km程度が583系の本来の目的が達成できる運用だと、当時の鉄道ファンの猪口氏の583系の
輸送計画に関する記事にハッキリ書いてある
現実には少し長めで
博多1945→月光(ヨ)→545新大阪930→みどり→1935大分(ヨ)930→みどり→1945新大阪2330→月光(ヨ)→920博多
という運用になったが >>77
つまり理想と現実にギャップがあったと
だとすると
>583系の場合、最も効率的な折り返し時間を3時間として、運転時間が9時間程度となる列車が選定されていた
というのは違うわな
選ばれたのは月光なんだから
とここまで書いて気付いたのだが
もしかして「選定」って「想定」と書こうとして間違えたの?
それならおかしくないけど 別に間違えてないよ
「程度」をどのくらいの幅と見るかでしょ 博多〜新大阪は電車化でも9時間では走れないのは分かっていたわけだし、「選定」ではなく「想定」が正しいのならば
そもそも583系は月光に投入されることはなかったということになる すまぬ、「はと」が当時でも博多〜新大阪間を約8時間半で走ってたのを忘れてた
>>80の一行目、「9時間では走れないのは分かっていた」のところは取り消します
ということは、583系の投入区間の選定としては間違っていなかったことになる
それが新幹線との乗り継ぎの利便性確保や夜間の保守間合い確保など何らかの理由により、「月光」の到達時間は
昼行特急の「はと」よりも1時間半程度、意図的に延ばされていたことになる ひょっとして雁行する客車の特急寝台列車を追い抜かないように、鹿児島線内や山陽線内でわざとスジを寝かせていたのかもしれない >>84
もっと前にID:A5wqJ2Jtは破綻してるけどな ググってみたら1970年10月時点では583系「月光1号」は完全に20系客車「彗星」の続行だな
他の583系「月光2号」「きりしま」「明星1・2号」も20系客車の寝台特急とほぼ同じ所要時間になってるね
夜行急行列車を途中の主要駅停車中に追い抜いてるが、寝台特急同士の追い抜きは一切ない
「きりしま」 新大阪1730→大阪1735-1738→姫路1852-1853→岡山2004-2008→広島2230-2235→…→西鹿児島0819
「あかつき1号」 新大阪1832→大阪1830-1833→姫路2001-2002→岡山2113-2117→広島2335-2340→…→西鹿児島0917・長崎0721
「彗星」. 新大阪1928→大阪1933-1936→姫路2058-2059→岡山2207-2212→広島0030-0035→…→都城1150
「月光1号」 新大阪1938→大阪1942-1945→姫路2103-2104→岡山2211-2216→広島0038-0047→…→博多0535
「明星1号」 新大阪2028→大阪2032-2035→姫路2156-2157→岡山2307-2312→広島0130-0135→…→熊本0725
「あかつき2号」 新大阪2128→大阪2133-2136→姫路2257-2258→岡山0007-0012→広島0230-0235→…→西鹿児島1211・佐世保0932
「月光2号」 新大阪2225→大阪2229-2232→姫路2354-2354→岡山0107-0112→広島0330-0335→…→博多0752
「明星2号」 新大阪2228→大阪2232-2235→姫路2358-2359→岡山0111-0117→広島0334-0340→…→熊本1013 1970年10月時点の583系使用列車の運転時刻
同じ編成を使用しているが夜行は明らかにスジが寝ている
(夜行)
「きりしま」 新大阪1730→大阪1735-1738→姫路1852-1853→岡山2004-2008→広島2230-2235→…→西鹿児島0819
「月光1号」 新大阪1938→大阪1942-1945→姫路2103-2104→岡山2211-2216→広島0038-0047→…→博多0535
「明星1号」 新大阪2028→大阪2032-2035→姫路2156-2157→岡山2307-2312→広島0130-0135→…→熊本0725
「月光2号」 新大阪2225→大阪2229-2232→姫路2354-2354→岡山0107-0112→広島0330-0335→…→博多0752
「明星2号」 新大阪2228→大阪2232-2235→姫路2358-2359→岡山0111-0117→広島0334-0340→…→熊本1013
「金星」. 名古屋2242→大阪0110-0114→姫路(運転停車)→岡山0328-0332→広島0545-0549→…→博多1005
(昼行)
「はと1号」 新大阪1035→大阪1039-1042→姫路1145-1146→岡山1246-1250→広島1457-1501→…→博多1901
「つばめ」 名古屋0915→大阪1134-1137→姫路1240-1241→岡山1343-1347→広島1556-1600→…→熊本2136
「しおじ2号」 新大阪1225→大阪1229-1232→姫路1335-1335→岡山1438-1440→広島1657-1700→…→下関1938
「はと2号」 新大阪1328→大阪1332-1335→姫路1439-1440→岡山1540-1543→広島1749-1753→…→博多2156 そりゃ山陽新幹線つくらなければいけないほど需要がひっ迫してたからだろ。
特に貨物。
あと月光みどりなら大阪側は東海道山陽北陸山陰から列車が来るが、大分なら
全然来ないし、南福岡もまだ余裕はあるんじゃね? 77氏の
博多1945→月光(ヨ)→545新大阪930→みどり→1935大分(ヨ)930
←ここで一晩寝てしまうのが惜しい。組合が保守点検時間確保する為すぐに折り返しを認めなかったという事じゃないのかな?
→みどり→1945新大阪2330→月光(ヨ)→920博多 >>89
「月光」に加えて新大阪〜大分にも夜行寝台電車を同時に運転するには4編成が必要だが、1967年10月の581系運転開始時には
12両編成3本+予備車8両(モハネ4両、クハネ2両、サハネ1両、サシ1両)の計44両しか新製されていない
1968年3月に6両を追加新製して12両編成4本+予備車2両(クハネ1両、サシ1両)の布陣にはなったが、これでは予備車が足りず
大阪〜大分間の寝台電車の毎日運転は不可能 こんなイメージ
夜は南福岡と向日町にある編成がお互いに移動して入れ替わる
昼は向日町と大分にある編成がお互いに移動して入れ替わり、残る南福岡の編成は必要な検査と修繕、車両の差替えを行う
博多(南福岡) 新大阪(向日町) 大分
夜 ○→ ←○ ○
昼 ○ ○→ ←○ 車体重量の重さは限流値アップでカバーしてるんだな
485系が440Aに対して583系が460A
上越の183系がもっと凄くて500Aだった 1967年当時の検査体系は要検が1年6ヶ月毎(距離制限なし)、全検が3年毎なので、1968年3月の追加新製分の6両は工場入場の
予備という性格が強そうだな
月光・みどりの往復の運用でも3日で2850kmも走るとなると、1年ちょっとで国鉄末期の要検の距離期限40万kmに達してしまうんだな
>>92
そういう面でも酷使してたんだね 向日町の583系方向幕のマスキングテープが出てたんだな
一度1月下旬に大阪駅のお土産売り場で見つけたが
実家+旅行にいく時だったので「荷物になるし、まあ旅行後に買うか‥」となって
それっきり見かけずorz
PCに取り込んでNゲージに使えれば‥と思ったのだが
よく考えたら大した荷物にもならなかったのだが 昼夜問わず酷使されて走行距離が485系やブルトレと比べて半端じゃないくらい多くなって20年未満で廃車になったの結構多かった
419系は当初新車投入までのつなぎで使い捨てのつもりだったがどういう訳か延命N40工事が行われて2010年まで活躍して583系より期間が長かったのがあるのが意外 クハネの前位寄りに客用ドア付けた意味がわからん
モハネ582との間にドアが無いため末期はドアが無い箇所がある旨のアナウンスを頻繁にしてたが知らない客はドアを探して客室内を右往左往する客が多かったのか?
485系とはドアの位置が全車逆である しばしば議論されることだが、揺れる車端部を客室に充てているという点では
485系のレイアウトは優等車両としてあまり褒められない。
583系は、使用が集中する朝晩を考慮して各車にトイレが2つ必要だった。
これをデッキと一まとめにすると、床下ではステップと汚物タンクと台車で場所の奪い合いになり、艤装が成立しない。
そのためデッキを前位へ持っていったと思われる。
のちの715・419系改造でも、ステップ付き乗降扉の増設は台車(まくらばり)を避けて行われている。 シュプール号で583系に485系のモハユニット挿入してた事があるが編成が凸凹どころかドアの位置が逆だった
駅での乗車位置案内や車内での降り口の案内に苦慮しただろうな 昔はホームの吊り下げ案内板をずらせば済む万事アナログな時代だったし、
デッキの前後が変わることは485系の上りクハやブルトレの緩急車で普通にあったので、
別にどうということはなかった。
運行管理システムと連動した電光案内やホーム柵と共存せねばならない現代とはやはり感覚が違う。 >>86-87
当時は労使関係の問題もあった。春闘時に国鉄ストが年中行事だった。
そのため583系夜行の速度を上げたくても動労が応じなく、20系寝台特急と似たような
速度にせざるを得ない実情があった。 >>109
そうじゃなくて特急同士で追い抜いたら利用が偏るし客から苦情が出るからだろ 雁行が一番本数増やせるんだよな。山陽は列車密度高いし
ゆうづるは客車と電車の差を上手く利用してたけど >>110
順序を変えればいいだけの事。最盛期のゆうづるのようにするのも不可能ではなかっただろう。 >>112
知ったかはそれくらいしにしときな
当時の山陽線のダイヤを見れば実にバカなことを言ってることに気付くぞ >>111
対北海道輸送と対北東北との輸送という二つの目的を持ち、全列車ともに運行区間が同一で全区間が電化されていたゆうづると、
行き先がことごとくバラバラで九州内に非電化区間が数多く残っていた関西夜行特急群を同一視してる時点でアホそのものだよな
7往復あったゆうづるでもゆうづる同士の追い抜きは一切なかったっていうのにな 山陽線は勾配を避けた建設時のルート選定が影響してR600前後のカーブが非常に多く、
特急が走るようになっても100km/h以上まで引っ張れる区間が少なかった。
ヨンサントウで20系が110km/h改造されても、
関西発の直流区間は元の95km/hで十分とされ、EF65PではなくEF58があてがわれた。
もっとも常磐線も当時は線区最高速度95km/hで、20系を牽くEF80も最高100キロだった。
戦前から用地買収があった山陽と違い、東北本線は新幹線の予定がなかったこともあり
ヨンサントウで重点的に複線化・新線化が進められ一気に在来線一の高速路線になった。 >>116は昨日のID:lgpXV/NGかな?
頭でっかちの知識だけを他人にひけらかす癖に、人のは無しを聞けない欠陥人間の典型的な鉄ヲタの香りがする うん、「だった」「なった」と断定してばかりだよね。
まさに、
でっていう。(by ヨッシー) この系統の奴は聞いても答えてくれないし、そもそもレスを返さないだろ いや、でもID:NHJaG5HXの心の広さに脱帽。
ほんと、そうなりたいと思う。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています