|。 ̄\ EF58 37/ ̄。| [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>65
> 63 俺は58だけど、主観的な書き方だけど
>
> 84年春先、あれはお座敷仕業の終わりだったのか田町で
> SG思い切り吹き上げてたの見たのが俺的にはロクイチの第一の人生
> の区切りと感
ああ、そういうことですか
ビックリした
てっきり、1983年にも61は台枠やっちゃったのかと思って
1983年は浪人中で鉄雑誌もほとんど読んでなかったものでね ゴハチのお面、銭湯にある郵便ポストみたいな形に成ったのって何号機? 少し考えてみたけど左右一体型ヒサシの事かな?
8、15、16、17、20、62、65、81の8両 下関の集中配置の直前まで広島のゴハチが1両いたような気がして
調べたら一体型ではなく普通のつらら切りの63だったんだね。
ってか山陽筋だからほんとにひさしという役割だったのか。
59年1月東京まで上がったという話聞いたけどこれがほんとの
最後の運用だったんだろうねえ。 その辺に関してはRF1984-11に詳細が出てた
63号がつらら切りタイプになった理由は特に無いとの記述 ゴハチの思い出は尽きない面々が集うこのスレ。何号機まで行くか楽しみでもあるね。
番号で形態や所属区が昨日の様に蘇る車輌はゴハチならでは。
YouTubeに良くぞ撮ってくれましたみたいな動画を見つけると一気にあの時代にタイムスリップするなあ…。 >>74
175までいくのに何年かかるだろう・・・ 76の画像の81の尾灯がデカくて怖い。
以前は米原箱入り娘美人ちゃんだったのにねえ >>76
ほんと、そうだね。雰囲気がまるで異なる。
Hゴム化されても、ヘッドライトがシールドビームに
なっていないのは救いともう。 実機のナンバープレートの写真と比べると結構違いがあるね
もしかして旧車体のか? 上にもあるけど84年頃、ロクイチをブタ鼻、白Hゴム、尾灯デカ目、
SG撤去という改造の噂があった。おそらくひき続いてお召、保存機
的に使い続ける事を考えて部内で検討されてたんだろうと思われる。
個人的にはロクイチの踊り子とか一生懸命撮ってた時期もあったし
磨きあげられた時は見事だけど、若干食傷気味ではあった。 >>84
今見ると尾灯デカ目とSG撤去以外は妄想度が高い噂だね
大宮工ではSB化は性能試験のみだったし既に黒ゴム移行してた時期だしね
その頃の61は前面窓の縁に細く薄くコーキング追加してるように見えたが
どうだったのかな? コーキングは注意して見たことないけど、経年30年で何ともない
という事はなかったでしょうね。
昭和59年9月だったかお召で、下りを学校サボって撮影
撮影後途中でEF5889のサロンエキスプレス撮って、登校し
クラスメートはお前、この時間まで休んだんなら、普通来ない
やろ?とか冷やかされて、放課後、単機での回送を撮影。
御料車は現地止まり、機関車だけ東京機関区に戻ったんですね。
尻側に本社機関車課長?らしきホワイトカラーなお方が疲れた
顔で乗っておられた。 そして翌々日だったか朝、登校前に単機での回送を撮影。
放課後のホームルーム中あと何十分でお召だとワクテカ。
終わったら速攻で駅に走り間もなく本列車現れ無事撮影、
警備の警官も一人いたかな?大してうるさくなかった。
通過後原宿まで追いかけて、日章旗畳んだ回送撮影。
ゆっくり発車していく御料編成見て改めてピカピカ具合が
印象に残る。
とはいってもやはりロクイチは皆撮ってるから記録は
いくらでもあるしって言うんで、やはり自分は東海道筋の
SGの煙もくもく吐いた、重油の排気臭い一般色のゴハチ荷物が
1番ゴハチらしくて好きだったなあ 誰か西(米原・宮原・広島・下関)のゴハチのナンバープレート譲ってくれる人いませんか?
80〜100万位なら出せます。 84年のロクイチお召の時授業途中でサボって見に行ってすごい怒られた。小学生だから
カメラは無く見ただけだがそれが人生で見た唯一のお召。 ファン的にはお召の日は忌引にして登校日から
外してくれるとありがたかった。在校生総出で
日の丸振って天皇陛下ばんざーいは勘弁だが どうして35号機と36号機は一緒に落成したのに最終配置区が長岡二区と米原区に分かれてしまったのだろうか?
36号機は米原区には珍しくボロガマのまんま使い続けてたし、まぁマニア的に見れば36号機の庇の曲がり具合がハンドメイド製作の作りをしていて
最高なんだがw
でもやっとスレタイナンバーから新ゴハチのナンバーに成ったわけでwww
37号機から175号機まで作り続ける事に成る訳だが、
最終ロッドのゴハチは、なんだかC57の4次形みたいだなw
つまり形態は似ているが別モンw あっ下関集中配置時代の36号機の話は、一様ゴハチさよならイベントと言うことで割愛して考えています(笑) ←を潰した束東日本のバカ野郎(T_T)
せっかく原型小窓に戻したのにorz
でも現役時代青大将カラーに成った事が無い件! ←を潰した束東日本のバカ野郎(T_T)
せっかく原型小窓に戻したのにorz
でも現役時代青大将カラーに成った事が無い件! ↑ショックのあまり2度も書いてしまったんですね。 94は黒Hのボロ釜のイメージ
90は上野で暗い北陸10系急行牽引のイメージ
91はビヤホール
95は原型小窓だったけど地味な印象
↓96は米原の美人ちゃんのような気がしたが
宮原だったっけ? 97号機の記憶が全く無いと思ったら廃車年月日がS56.2.5〔広島〕だからだったんだ
昭和56年じゃまだ中学生だから遠征も出来ないし、全く記憶に無いのも無理ないなぁ。
30年使用しないでお役御免になった短命な機関車 99は良く覚えてるよ宮原区の58で銀河で良く東京まで来ていたよ。
でも白H、外嵌め式テールライトの不細工な顔だったなorz
キリ番の100号機は小郡駅構内で突然壊れてそのまま廃車
端正な顔立ちの美人さんだったなぁ100号機は。 99は下関に行ってから竜華だったっけ?下関生き残りで竜華行ったのがいたハズ
だが四十番代のどれかだったかな?竜華はワックスかなんか塗りたくって変に
ピカピカの時があったが何だったんだろう。外ハメ式尾灯に豚鼻白Hゴムでは
あったけど竜華は宇都宮EGさえなくなったあとの最後のゴハチの楽園だったなあ。関東の俺には85年3月が実質ゴハチ最後で手の届かないところに行ってしまった感じ。
竜華は85年の年末とかでもSG炊いて...はなかったか12系引いてたんだもんね。 >>95
96は宮原→米原
但し移動は53.10頃じゃなかったかなぁ。
P改造は米原に移動してから。
当時の米原の運用はP装備は不要だったが、なぜか取り付けた。 >>98
97号機は宮原から広島に転属したと同時に休車になり、その後廃車になってしまった悲劇のゴハチなのです。これはおそらく、広島運転所に到着した際に検査をしていたら台枠に亀裂が発生しているのが見つかったので、走行不能と判断されたからだと思えてなりません。 >>100
下関から竜華に転属したのは44号機ですよ。 66なんか酷使しまくって40年以上現役。
なんて堅牢な釜なんだろう。 66って書くからEF5866かと思ったw
66号機は40年も使用してないよね?前照灯をLP402に戻したのに廃車だなんてorz
高崎撮影会は神会だったね、なにせ66号機と122号機が並んでツバメのヘッドマークで
93号機も来ていたね。
66号機をあの時返さずに高崎に残しておいたら、廃車には成らなかったかもな。 66が大窓のままだたってのは伊達や酔狂だったのかねえ。
客車もそうだけど、昭和四十年頃になって耐久性はぐんとあがったよね。
それもゴハチの頃までの蓄積があったからなんだろうけど。
レス番絡み 102は宇都宮の小窓時期?かなり変な形だった。四隅が異様に
丸くHゴムのような形だけど形が小窓 改造小窓ってヤツらしいね
Hゴム化の前段階みたいな感じで元が大窓の70号機がよく知られてるけど
小窓機に施工する例もあったみたいでさらに左右別々な例も あの頃の差異は図面があっても工場での現場判断で若干ちぐはぐなものができることがあったな 47号機の解体写真がアップされてたけど、最初にエアフィルターとナンバープレートだけ
先に外されていたけど、そうすると47号機のナンバープレートのみ何処かに実在するんだね? その頃は職員が持って帰ったりしてたんじゃない?役得ってやつ 前スレと前々スレのタイトルを見て、側窓の多い変形機のスレと思いこんで
いたのですが、EF58全般のスレだったのですね。
それにしても、誰かが書いていましたが、スレタイの表記センス抜群ですね。 いや、そもそも新58は35号機から、
31号機まではデッキ付きの旧58とEF13との車体振替
32〜34は欠番(EF18)
35、36号機は旧デッキ付き58の車体で完成していたため側窓の数が多い。
このスレタイのナンバーからやっと標準型スノープラウ台座が付いた見慣れてる58となった。 鉄道ファン1984年1月号は頁がバラけるほど読んだ
華やかな姿からグロ画像まで盛り沢山
同年11月号と合わせてオススメ >>118
日立製作所は全て自社生産
58じゃないけど、EF15の生産シーンの映画もある
ロクイチのモーターのことなら全検の際に循環予備品と交換している
一説には元は広島区のEF15に使われていたものとも モーター換装、それこそ>>115の言ってるRFに載ってると思ったら'92-2だった
全検じゃなくてそれこそ換装目的の臨検 産業用途だとモーターをモートルとか言ったりするけど鉄道だと
それはないのかな。
ゴハチは走り出す時電車の吊り掛け駆動の奴と同じ音がしてたね。 2006年に上越線をいっぱい走った時の水上のお休み中はのんびり撮影できてたな
寝っ転がって超ローアングルで撮ったりしたよ
近づいたりさわったりもしてけど、今じゃ文化財や美術品みたいな扱いになちゃったよ 台枠に問題あったら、たとえ構内であっても動かすことはしないだろう。つまりガセだったということだ 台枠に問題あったって話、そもそもソースはどこから出た話なんだろうか 今は亡き93号機をドナーにしたと一時期噂になっていたけど、真偽のほどはいかがなもんだろうか。 >>131-134
単機走行は可能だか、牽引走行不可との噂があった >>136
田端→大井工は自力回送してたから走行はできてたんで、他車と連結不可と言われてたのだろう 大井撮れんかった奴等が職員にロクイチなんか出すな!と暴言、職員、来年からは出しません
だとさorz >>125
1行AA系のスレタイがあんまりないもんな
他はEF66スレと模型板のKATOスレくらい? 61は鉄博に入れていいのでは?宮内庁にお伺いする必要もなかろう 既出ならスマンけど、61号機左側の「逆さ日立」はやっぱり眉唾物の伝説だったわ。
今日、今更ながら本屋で「昭和天皇 お召し列車全記録」を偶然見つけて衝動買いしたんだが・・・
その105ページに、東京駅9番線でお召し初使用の61号機をご覧になる陛下の写真に、「もともな日立」が写っている。
当時の東京駅9番線はホームが左側、61も1エンド側が先頭(EF58ものがたり「下」178〜179ページ)だから、まず間違いはない。
どの時点で文字が間違って付けられたか、手持ちの資料では判らないのが残念・・・ すまん、ミスった
「もともな日立」→「まともな日立」 >>143
そう、公式側。
公式側の逆さ日立(鍋蓋とも言うらしいが)の件は以前から知っていたんだが・・・
けど、「完全なものは縁起が悪い」などと言うゲン担ぎで「そんなことするか?」と半信半疑だった。
かといって今まで製造間もない頃の写真資料も、不鮮明だったり非公式側だったりして断定できる資料も無かった。
ま、若干の不確定要素はあるにせよ(状況証拠的な別々の写真が根拠のため)、一応この件については白黒ついた感じだね。 >>145
それ非公式側でなかったか
ちな現役晩年の全検で
剥がせる物全部剥がして徹底的に修繕した時
やっと正しい日立に直された >>146
もう一度調べ直したけど、「逆さ日立」は左側、公式側で間違いない。
確か96年の赤城お召し前の入場で正規の日立に直している。
非公式側は落成時の公式写真(EF58ものがたり「下」183ページ)では、やや不鮮明ながら「立」の字左側の上下間隔はまともに見える。 >>141
日立の鍋蓋が直された96年のお召は、赤城お召じゃなくて両毛お召やね
自分も気になって手持ちの資料を調べてみたら、プレスアイゼンバーンの
「EF58」の192Pに1955年10月11日撮影の公式側の形式写真があった
この時点では鍋蓋は正規の向きっぽい 逆にどうして「完全なものは縁起が悪い」などという、後付けの俗説が生まれたのかが気になってきた。
よく考えてみれば、採算度外視までして仕上げた製品に、それこそ自社の看板である日立の文字を、わざと間違えた状態にするわけないし。
そんな縁起を担ぐなら、車内の見えない場所でやればいいことだしね。
>>149
プレスアイゼンバーンの「EF58」は持っていないな・・・
結構高い本じゃなかった? 神聖視されてた
そこへ何故か間違えて貼り直された
陽明門の逆柱の例もある
後付けで誰かが言い出したが
それが言い訳だったか冗談だったか
「ぼくのかんがえたかせつ」だったかは不明
ともかく真しやかに広まった
といったところか?
ただし間違えて貼り直されたのが凡ミスなのか
案外本当に呪術なのかは分からない EF58の撮影は「フィルムの無駄づかい」?
https://trafficnews.jp/post/82605
58メインの記事ではないが、当時58を撮らない人が今になって後悔してるって聞いたことある 東海道沿線民だけど、EF58は来たら撮っていた。
フレートライナーや専用貨物もまだ撮っていた。
あまり撮らなかったのは2軸貨車を連ねた列車や113系。
2軸貨車を連ねた列車(地域間急行・快速・普通貨物など)でもEF60は撮影対象だったが、
EF65一般型牽引は結構スルーした。
正直多少悔いが残っている。 EF58置き換えのEF62をスルーした
勿論10年余後には大後悔よw 最後は竜華?の大窓機で名を馳せた66号機が昭和30年に踏切事故で廃車になってたかもしれあいことを知った。知らなかったわ〜
1955年 (昭和30年)5月17日2時19分
東海道本線原 - 東田子の浦間の植田踏切で京都発東京行修学旅行列車
(列車番号3138・EF58 66+客車11両・乗客837名)の機関士が立ち往生していた
在日アメリカ合衆国軍のトレーラーを発見。
列車は非常制動を掛けたが間に合わず衝突。120mほど走行し停車した。
衝突のショックで大破したトレーラーの荷台に搭載されていた揮発油を原料としたペンキに引火した。
火は編成中3号車に組成されていたスハ32 266に延焼。
さらに機関車と客車4両を全焼、1両を半焼させた。 深夜の事故にもかかわらず、機関士・機関助士・車掌・乗客・周辺住民が連携し後部6両は切り離されて延焼を回避した。また乗務員による乗客の避難誘導により重傷2名・軽傷31名を出したものの、死亡者は出なかった。
被災車両は大きく損傷したものの、全車廃車とならず以下の修復作業を実施。
EF58 66:浜松工場で甲修繕を施工。 この火災で最悪の事態をまぬがれたのは、桜木町火災の教訓を活かすことができたからなのだろうか。 66の件はじめて知ったよ。よく大窓のままで修繕されたね。 >>163
昭和30年だからじゃね?
あと、10年時代が進んだときに同じ事があっても同じようには修理されずに
酷いことになっていたかと 調べてみた。
EF58 71 から小窓で落成 昭和29年
164からHゴムで落成 昭和33年
という事みたいだから昭和30年だと小窓への
端境期という感じだね。EF5858みたいに落成数年でHゴム化された気の毒なのに比べるとラッキーだったのか。しかし電気機関車の全焼ってイメージがわかない。ケーブル類は焼けたと
してどこまで再利用出来るものなんだろうか•́ω•̀)? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています