|。 ̄\ EF58 37/ ̄。| [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
前スレがまだ終着駅に到着していません
宜しくお願いいたします >>1
あらためてスレ立て乙です、ありがとう。
ゴハチ住人の皆さんのキャッシュカードの暗証番号またはナンバープレートは絶対「5861」だなw >>4
> >>1
>
> ゴハチ住人の皆さんのキャッシュカードの暗証番号またはナンバープレートは絶対「5861」だなw
俺のは違うね
お召し原理主義者じゃあないので >>前スレ1000氏
2017年8月現在で、ほぼ完全な形で残っているカマを挙げたんよ。
122は157の中で今も生き残っているとも解釈できるけどね。
思わず、93も書きそうになってしまい、
「あっ・・・そうか」と寂しい気持ちになったわ・・・ 157を最後に見かけたのは廃車回送だった。
その後携帯が3台変わってるわ。 >>4
残念ながら違います、俺は「5888」でしたが現在のキャシュカードも
クレカの暗証番号は15年以上前からEF58の番号ではありません。
想い出に残ってる4桁の臨時列車の列番ですよ・・・秘密ですけどw どなたか35号機の過去スレを貼って下さいませm(__)m 俺が小学生の頃(84年頃)は竜華に腐るほどいたな
新宮夜行の客車引っ張ってた あの頃、豚鼻と白ゴムはゴミ扱いされてたような気がす。
66は別枠扱いだったけど。
あと、150が大阪駅で撮影会状態で昼寝してた。 自分は国鉄末期の中学生の時にEF58にハマった口だけれど、
竜華はシールドビーム王国、浜松は黒Hゴム王国、
米原と宮原は原型小窓が比較的多いという印象だった。
たしかに前面窓Hゴムは表情がマヌケっぽくて違和感を覚えたが、
唯一89号機だけはHゴムでもかっこよかった印象がある。
やはり、ヒサシ付きと茶色車体に黒ゴムの相性が良かったのかも、あくまでも個人の感想だけどね。
当時は鉄道ジャーナル社の61号機が表紙の『永遠の機関車and電車』がバイブルでしたわ。 >>18
白ゴムというかHゴム全般がゴミ
66はつらら切りあったけど原型大窓だったからな。新宮で39と並んでて発狂した覚えが そんな白Hゴム機の中で唯一77号は好きだった
いつも小奇麗な米原機な所為もあるがその白さが際立ってた ttp://www.jnr-photo.com/EF58/ef5865c.JPG
ゴハチの一体型ヒサシって、何かに似てるなぁ・・・と考えていたら思い出したわ。
桑田の息子に似ているw
ttp://pine7.com/wp-content/uploads/2017/04/b7c8baf811c5307d071ac2614d178b61-274x300.png 東機の68号機は80年代はとっくに黒Hゴムになっていて
凡庸なゴハチだったけどこいつも大窓の時代があったんだよ
なあと思ってた。ネットの時代になったお陰で72年頃の
画像が見れるけれど窓下のグリップが銀に塗られてた?
磨き出されてた?でちょっと不思議な印象。 最近ゴハチのお面だけ見つかったなTwitterで見たよ。 個人所有にしてはよく維持出来てるよね
屋根もあるし 個人の持ち物にとやかく言っては悪いけど、普段は月1で洗車とワックス、
十年に1度塗装すれば良い状態保てるのではなかろか?
JRが販売する時に塗料データもらっておくとか出来たはず。
それかマンセル値指定で調色してもらうか。
あと先考えないで保管してボロボロの悲しい姿になってしまう
例が多い。
と言っても上の人のは手を入れればまだ復活出来そうだね。
屋根付きのお陰で下地の状態良さそうだ。 全機紹介してるサイト見てきたらKW3Dワイパーの時代には付いてた
WP35化の時に外されたんだろうね 111ってカバーついてた覚えないな。昔はついてたんだね
米原は原型小窓にピカピカのヒゲ。ヒゲだけでも磨けばいいのに ああ俺も耄碌した。下関転属時111だけはワイパーカバーなかったんだ。
あったのは112と113だった。昔は111にもあったんだね。あと宇都宮の
黒H電暖の103も米原時代はワイパーカバー付きだったのも興味深い。
103は新製後20年近く米原で大事にされてさらにEG化されたから
末期の宇都宮の釜の中でも状態は随分よかった記憶がある。 いやそれは109だね。109も状態よかったね。
宇都宮で状態悪いのは57年改正後ひと足はやくなくなったという
理解は正しいだろうか 宇都宮は末期はオールHゴムのデンダンゴハチなどPFと一緒!
小窓もあり蒸気吹く東海道筋がホントのゴハチ!などとアホな高校生のオレは
ほざいていたが、別に冬以外関係ないし、客車が12系とかだったら
冬でも関係ないしまだまだ頭の未熟な高校生だった。
昭和48年あたりから見るとEG化もそうだけど山陽新幹線延伸によって
大窓 小窓の 西の方のゴハチが転入して来て元からの宇都宮釜と混ざって
面白かったんやね。
北と西のゴハチって接点無さそうだけど品川新鶴見での宇都宮と宮原の
重連回送とかおもしろいのもあったね。 昭和55年頃、塾主催の会場テストを終えた帰りに乗った電車を横から抜いてった荷物列車。
割りとトップナンバーが牽いてた記憶がある。
ガキだから、ボロ揃いだなー、なんで貨車も繋がってるんだろう?と思ってた。
58もだが、荷物列車も消えるとは思わなかった。 >>40
大宮で全権受けてたゴハチは
'76年あたりから急速にHゴム化が進行してった印象がある
鷹取は可能な限り原形残すけど必要なら徹底的に更新改造するって印象 小学低学年の昭和50年頃上野東京方面行くとちょくちょくゴハチ
がいたけどあれは創臨と客車回送とだったのかな。1度は社会科見学のバス
の中から有楽町あたりのガードくぐった時58がいるか?と思ってみたら
ほんとにいた。ゴハチが格好いいというのは近所の何歳か上のあんちゃんの
仕込みだけど、昭和59年頃の末期ほどのクレイジーさはないけど、
あの時点で結構ゴハチは注目されてた。あの頃自由に動けてゴハチを
追えてれば大窓機を写真に撮れてた残念というのは50前後のおっさん世代の
価値観かね? >>43
痛いほどに共感してしまう
まだ形態に詳しくなかった頃に何気なく撮ったのが53号だった事がある
ピンボケも甚だしくて大後悔時代 大宮工場でHゴム化進めた職員は、、死刑にせよ! なんちゃって。
内側からホームセンターで200円くらい売ってるコーキング材打ち込めばいいじゃんって思うんだがなあ 外側も刷り込むくらいなら許してあげよう。 組合関係ないでしょ。最後の方は新製時Hゴムだし。コスト削減
見た目以外デメリットないからな。
61も最後って言われた60年だったかの全検でブタ鼻、Hゴムになるんじゃないかって噂流れたな
結局、水切りがまっすぐになっただけだっけど その噂聞いた。噂に尾ヒレがついて尾灯も外側交換式、とか。
68とかなんで外側交換式だったんだろうな。
Hゴムもなんで西は白で東は黒だったのか疑問はいくらでもあるな。 納入業者に特に色の指示はしなかったのかもしれないね 他スレ見たけど、
Hゴムって、黒のほうが石油製品で劣化が少なく性能が良いみたいだね。
一方の白ゴムは天然ゴムで劣化が早く、黒ゴムが大半を占めるようになった理由だとか。
> Hゴムもなんで西は白で東は黒だったのか疑問はいくらでもあるな。
おそらく、当時東のほうが優遇されていて、試験的に新しい黒ゴムを導入していたのかもねぇ。
黒ゴムって頑丈だけど、見た目はどうしてもいかついから、白→黒ゴム化された国鉄車両はどうしても違和感を覚えるが、
ゴハチに関しては茶色塗装の89号機は黒ゴムが違和感なく一番似合っていた印象。 名機だが、現役30年以下の車両が大半だったね。PF 66 64は長持ちしたなあ。 昭和61年がゴハチ定期運用の終わりとすると
最後の昭和33年製造61-33=28 28年しか使われなかった
ことになる。実際は高崎の175とかは57年引退だから
57-33=24年、24年今から遡ると29-24=5 平成5年
EF200が平成2年-5年の製造とあるから、丁度ゴハチの
年数で見るとEF200が今後数年で全機廃車という勘定に
なるね 何となくだけれど、昭和25年〜昭和31年ころに製造された鉄道車両は概ね短命なイメージがある。
ナハ10、キハ55、80系電車、70系電車、72系電車、そしてEF58・・・
いずれも民営化前にほとんどお亡くなりになっているんだよね。
まぁ、戦後の物資不足と、試作車な的要素が強いという部分もあったんだろうけどね。
これらの過渡期の車両があったからこそ、のちに103系、113系、キハ58といった長寿車両が登場したようなものかな。
そういう意味では民営化後も数両生き残ったゴハチは長生きした方なのでは? 川鉄定年になったおいちゃんが言ってたけど、
高度成長期に鋼板の質が随分良くなったって 007は二度死ぬ
EF58 61は二度生きた。1954-1984 1985-2008
ロクイチは台枠亀裂と言うけれど、状態良いまま
廃車されたゴハチの台枠がのこってればまだ走れた
んじゃないかね? >>60
エンジン載せ換えてもまだ元の車って感じだけど
ハコ換えしたらもう別の車だよね 61 って1983年に一旦死んだの?
知らなかった EF58やEF15は国鉄末期の客車列車や貨物の削減の影響を一気に受けた感じがするな
逆にEF65やEF64、EF81、あとED76なんかは、技術的に安定していたのと、旅客会社では
電機を新製するほどの需要が無かったのも大きいかと 63 俺は58だけど、主観的な書き方だけどね、荷物列車代走や波動輸送用とは
言え実際に需要があって運用されてたのが1984年まで、あとはファンに
需要があるからとかイベント用動態保存チックに使われるようになったのが
85年からの第2の人生。後半は言い方悪いけど無ければ無いでべつに
PF使えば良いだけで大して困らんという感じ。SG使うのやめたのが84年
だったと思う。84年春先、あれはお座敷仕業の終わりだったのか田町で
SG思い切り吹き上げてたの見たのが俺的にはロクイチの第一の人生
の区切りと感じてます。 >>65
> 63 俺は58だけど、主観的な書き方だけど
>
> 84年春先、あれはお座敷仕業の終わりだったのか田町で
> SG思い切り吹き上げてたの見たのが俺的にはロクイチの第一の人生
> の区切りと感
ああ、そういうことですか
ビックリした
てっきり、1983年にも61は台枠やっちゃったのかと思って
1983年は浪人中で鉄雑誌もほとんど読んでなかったものでね ゴハチのお面、銭湯にある郵便ポストみたいな形に成ったのって何号機? 少し考えてみたけど左右一体型ヒサシの事かな?
8、15、16、17、20、62、65、81の8両 下関の集中配置の直前まで広島のゴハチが1両いたような気がして
調べたら一体型ではなく普通のつらら切りの63だったんだね。
ってか山陽筋だからほんとにひさしという役割だったのか。
59年1月東京まで上がったという話聞いたけどこれがほんとの
最後の運用だったんだろうねえ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています