青函連絡船6便 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>801
上のレスに毛足が長かったってあったぞ。 普通座席とグリーン自由座席は、確かひとりあたりの面積が違ったはずだ。
カーペットが違うのと、あと、たしかチャチな枕があったのでは? マージャン室みたいなのあったよね、娯楽室みたいなの。 「我が良き船よ」
1番
♪銅鑼を鳴らして 奴が出る〜 腹に貨物を 積み込んで〜
北の旅情がしみ込んだぁ〜 乗船名簿を手にもって
あぁああー 青函連絡船 おまえ今頃 あの海の上で
俺とおんなじ あの波見つめて なに思う〜
2番
♪旅のあの娘に声かけしては どこに泊まるのあのYH(ユース)?
語り明かせば函館の 灯火(ともしび)迎えにやってくる
あぁああー 青函連絡船 旅の始まり明日はどこの地
道内線路を 乗り歩きながら 旅をするー 4月、深夜なのに青森出航間もなく桟敷席窓の外にはイルカが並走、程なくそれも暗く見えなくなって寝てしまった イルカの伴走ってどういう習性なんだろうね?
陸奥湾の棲息研究はされてるけど、群れをなしてフネに近づくのは排除の威嚇行動なのかな。 イルカのマークは昭和50年代以降かねぇ
今見ても秀逸ですな 各船のイラストマーク、船員さんが描いたものだったいうことを、先日出た道新刊の本で初めて知った。
黒岩さん的な人が他にも居たんだね。 あ、Jトレだったかな。
同じ頃に買って読んだからごっちゃになってる。多分Jトレだ。 >>814
クマさんのマークのが可愛かったね 大雪丸だっけか 四つ葉牛乳売ってたなー エントランスに自販機あった。 おお そう言えば函館の桟橋でお酒注文したらおばちゃんが一杯だけ酌してくれたのはビックリ >>816
クマって猛獣なのに可愛いイメージ
子グマから飼うと人に慣れるらしい 犬(オオカミ)でも、ライオンでも、ウシでも、馬でも、キツネでも、鳥でも、小さい頃からずっと(特に親や仲間と離して)育てれば馴れるもんだ。馴れた親と一緒なら野生より人間との距離は近くなるけど。
ちなみにアイヌがイヨマンテ(っつったっけ?)で使う熊は、子熊の時から人間と一緒に育った馴れた熊な。野生ではない。
ところで、グリーンと普通は乗船口が違ったと記憶しているけど、中入れば繋がってるでしょ?
あれ、グリーン持ってたら普通乗船口から乗ってもおkだったの? >>823
とくに問題なく、普通乗船口入ってすぐの階段上ればグリーン。
グリーンのタラップは出航5分前で上げてしまうから、それ以降に乗ろうとすれば寝台客もグリーン客も普通船室の舷門から入ることになる。
>>824
船内の牛乳は自販機で、最後の頃は四角パックだった。 北海道から帰る時に台風か何かで大幅に遅れて寝台
発車してしまい 青森で旧客のグリーン車だけの特別列車で上野まで帰った記憶が。おそらく1970年前後。連絡船が満席で階段に座っていた記憶もある。 そういう国鉄の良さ、サービスにどれだけの経費がかかっていたか。
乗客数は前の列車に乗れなかった人だから収入的には0だし、乗務員の手配、余計な列車が走ることによる、わずかではあろうが車輌や線路への負担、リネン類の交換。もちろん折りかえしは空で回送だろうし。
国鉄魂を感じるね。
当事者でなければ、それを放漫経営だと言うヤツもいるんだろうけど。 まあでも今なら大体交通機関もあるし、宿泊施設も充実してるけれど
当時はそうじゃないから国鉄が始末つけるしかなかったという事情があると思うよ
連絡船が満席だったわけで、それだけの客が青森駅に滞留したら大パニックだわな
国鉄魂とかはあまり関係ないと思うよ
JRになってからも青森や秋田の雪で白鳥が運休だっやりすると
富山あたりから救済臨出したりしてたじゃん 話が脱線するけど 用意された車両は
確かスロ62 で座席の下の一段高いヒーターが夏なのに熱くて
お土産が暖かくなった記憶が。
巨大な座席灯が印象的だったなー
払い戻した特急と寝台料金は上野に迎えに来た親がしっかりと没収しました。(全部グリーンで親もおったまげてた) >>829
自車発電機の真上だったとか?
いわば“キロ”の始まりだものねぇ。
全車両Gというと見た目にはお座敷列車っぽいな。 もしも、翔鳳丸、飛鸞丸が生き残っており、洞爺丸台風級の大荒れに見舞われたら…。
北見丸、日高丸のような海難事故に陥っていただろう。
※翔鳳丸の車両甲板後部開口部は広いため、荒波が打ち付けると、一気に海水が入る。 眼下に下北半島、当機は着陸体制に入りますとアナウンス
船に揺られていた時代はゆるかったのか長時間耐えていたのか、飛行機だと大切な儀式を忘れた気になるな 私も函館に行くときは100%飛行機になってしまったな。
下り便で東向きにおりるときなど、青森から津軽海峡をそのまま北上してくれるときもある。
函館発の上り便は秋田のほうに向かってしまうのでいまいちおもしろくないが。 >>818
この講演会って一元さんでも行ける感じ?
常連さんばかりで初めての人が入りにくい雰囲気はない? 3日に青森駅へ行ってきた。八甲田丸は休館だったけど青空の中で静かに佇んで津軽海峡を見つめている姿に感動した。 すっかり変わってしまって駅周辺だけど、青函連絡船が運航していた時とそのままだったものの一つがあった。
「あ お も り 駅」とひらがなで書かれた本屋の上の駅名板‥‥。 あの頃はその横にサンポットだったかの暖房ボイラーの宣伝板があったっけ。
ガランとした駅のホームはやはり寂しかったけど。 >>836
往時の賑わいは無いからな
青森駅からフェリー出す訳に行かんのかねぇ >>837
ベイブリッジの下をくぐれんだろう?
いずれにしても、トラックとかがあそこまで乗り入れるのはちょっと… むしろアプローチ道路が無いから。
大トラやトレーラーが国道から街中を昼夜とわず通られたらタイヘン。 まぁ、もともと何もない所に町を造ったようなものでしたからねぇ。 かと言って、弘前が栄えるかと言うと
まぁ、他の街より寂れてないがって程度 道民からすると通過点な青森函館
函館はサブ北島GLAYだが青森は誰だろう 淡谷のり子、吉幾三、田中義剛(評判悪い)辺りか
青森市内に記念館とか無いんでは
函館以外、都市が無い道南と
それなりに人口が分散してる青森じゃ違うだろう そう考えるともうチョイ栄えてても罰は当たらないと思うんだよね > 青森
なんなんだろうな >>846
>そう考えると
どう考えたんだ?
本州の果てだから仕方がないよ
山口だってあんなもんだし >>844
青森、函館はすでに通過点ですらなくて、飛び越し点。 >>845
>淡谷のり子、吉幾三、田中義剛
南部出身のキャラメルヤクザを混ぜるなと津軽人の怒りの声が聞こえる 生還連絡船が現役のころはゆく年くる年の中継現場として使われてたよな、青森駅 雪の青森駅は、年越しの良い絵になっただろう
横浜港みたいに、年越しの汽笛鳴らしたんだろうか でも、青森港だったら00時05分に長声二発、00時10分に長声一発が聞けたはず。 写真集に船上からの初日の出とサロンに置かれた鏡餅のものがあったのが印象的だなあ ブリッジの操舵スタンドの脇か、海図台にも鏡餅が置かれてた。
終航間際の頃は見なかったが、以前は船によっては古株のクオーターマスターがするめを
上手にドライヤーであぶって伊勢海老の供え飾りを作ったりしてたものだ。 大晦日、元旦を含む年末年始は、全部走るのは乙便だけ、甲便、丙便は沖泊で間引き、
貨物船も沖泊。走る船も空船ばかり。
客便は普段と変わらず、しいて言えば船内放送が大晦日、元旦に合わせてちょっとアレン
ジされるくらいか? 小型船で走行する
中型船や大型船は思うように動けないので、決して近づかない。
船舶は日本であっても基本は右側通行。
だから、大型船とすれ違う際には、お互いに右に舵をとって避ける。
46リンク+ ◆BotWjDdBWA 2018/07/25(水) 20:28:23.77ID:gG5bAjJV
栃木県からの接続でもRadiko.jpは東京判定になる…。
優れた地域判定ができるサイトなら、きちんと栃木県栃木市の判定になるのに、どこかがおかしいぞ…。
※Radiko.jpの地域判定の精度が糞仕様なだけかな?
IP アドレス:
106.73.238.65
ホストネーム:
M106073238065.v4.enabler.ne.jp
ドメイン
enabler.ne.jp
プロバイダー (ISP):
KDDI CORPORATION
国:
Japan (日本) - [ Wikipedia]
地域:
Tochigi (栃木県) - [Official Site] [ Wikipedia]
都市:
Tochigi
風力何メートルかの風が吹いていて多少揺れるかもしれませんがご安心ください、と言う船内アナウンスはちょっと怖かった。 安心して下さい
揺れませんよ
って言ってほしいよね 退職して年齢を重ねた
青函連絡船乗組員だった方々は、
函館や青森の市内に固まって住んでおられるのだろうか?
彼らが通う居酒屋なんかで話を聞いてみたい気がする。 青森にはほとんどいないな。
青函連絡船の本拠は函館で、現役時、みんな函館に住んでたから。
青森にいるのは、青森出身で実家に帰った人だけでしょう。 50系な。
当初は旧客を駆逐した悪役だったのに、50系さえ懐かしい愛おしい。 >>870
俺八甲田接続のしか乗ったことないから海峡は100パー14系座席車 奥羽本線の各駅
今は電車なんだな
スマンが鉄分低いので細かい事分からん
東北本線の廃線後歩いたけど、あれもよう分からんかった
昔乗った夜行は、彼処を走ってたって事なのか >>871
50系以外の海峡があるなんて廃止されてから知った。かなり鉄道から離れていたからだけど。 >>872
去年、東武の「SL大樹」で乗った。
懐かしさで涙が出そうだった。 50系=タラコ色の列車
14系=ブルートレイン
個人的には「海峡」はブルートレインのイメージ
車内販売があった >>870
その50系を駆逐したにっくき仇が701系 それがさ、今の若い鉄ヲタって、701に萌えているんだよな。 >>868
青函船舶鉄道管理局が函館にあったからな ニセコや利尻で頑張った車両がまだ走ってるんだな感>14系海峡
トンネル位置表示がなくて少しつまらん 船籍港は、国鉄時代は「東京」でJR化後は「函館」でしょう。 ガキの頃は帰省時に宇高連絡船によく乗ったが、あの1時間ですら長く感じてた。
青函って4時間だっけ?想像を絶するよね。子供には地獄だっただろう。 1986年の夏休みに青春18きっぷで青森〜函館間を4日間くらい連日2往復(深夜便の
船中泊含む)して殆ど船内で過ごしていたのが懐かしい。当時は大学2年生だったが
青函連絡船に乗る事が目的の旅だったけど当時がなつかしい。 連絡船のコインシャワーが懐かしい。
フリチンになって、そして・・・みんなやっただろう! 子供には4時間は長い
特に、ほぼ水平線しか見えない時間帯 深夜便は桟敷(席だってね)で横になって放送が流れたらもう対岸て感じ
昼間は後部デッキのベンチでぼやっとハの字の航跡眺めてて長く感じた 初めて青函連絡船に乗ったのは1975年高校二年生に訪れた修学旅行の北海道だったが、
青森早朝到着の「ゆうづる1号」で接続便が八甲田丸だった。9月下旬の台風シーズンで
青函連絡船は陸奥湾から津軽海峡に入ると時化の影響を受けて船は動揺、キヨスク売店の
お土産は崩れて売店はシャッターを閉めて閉店。それでも当時は船と言えば湖の観光船・
久里浜〜金谷や川崎〜木更津のフェリーしか乗ってないため、青函連絡船のような大型船に
乗るのは初めてなので珍しくて船内探検して席には一度も座らなかった。
帰路は大雪丸利用で食堂の利用も自由だったため、グリル大雪でラーメンを食べてから
サロン海峡で珈琲を飲むという当時の高校生にとっては破格の出費でしたが、いい想い出に
なりました。
自分は北海道に行く時は学生時代は急行八甲田や社会人になると寝台特急ゆうづる・
はくつる利用が多く帰路もそれらの接続で移動したため、深夜便の乗船回数が少なく、
1985年から3回しか乗船機会がなくてそれが心残り。 昭和から平成になる直前の昭和62年に国鉄はJRになり、そして昭和63年に青函トンネルと瀬戸大橋が開通して
北海道と四国が地続きになって寝台列車が直通するようになったんだったな。そして青函・宇高の両連絡船も廃止になった。
その翌年に昭和が終わり平成に。本・島直通寝台列車の瀬戸、北斗星、トワイライトエクスプレスは平成の鉄道の象徴だったが、
青函直通寝台列車は平成と共に役目を終え、次の新時代まで残ったのはサンライズとなった瀬戸(出雲)だけ。
新時代に生き残る寝台列車が日本でこの1つだけになるとはな・・。 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。