青函連絡船6便 [無断転載禁止]©2ch.net
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会社ごとに名前が違うのな。
あさかぜは昔は第●朝香丸。 さんふらわぁがCM打ってた時代もあった
さすが涙の連絡船はわからん 古本 旅と鉄道'86夏号青函連絡船他げと
海の幸ラーメン、乗船口すぐの売店(品物いっぱい)やら懐かしい写真が
北海道第二次特定地方交通線特集やら時代の終わりを痛切に感じる号でもありました 一等(グリーン)室用と二等室用の二つの売店(キヨスク)があったなあ。
別にどっちでも買えたけど
後年、グリーン用の売店はテレビと休憩スペースになってたんだっけか。 絵葉書とか今ではあまり見掛けないような物を売っていたな >>470
機械遺産になったので暫くはスクラップにされる心配は無い
でも、入場者数減ると、どうなるか分からんから、機会がある毎に行く様にはしてる
その後、三角のビルの居酒屋で海を見ながら日本酒 アスパムも15年行ってないがあんきも出す飲み屋はやってるだろうか 再び、全国販売して欲しいね。
http://www.sapporobeer.jp/news_release/0000021921/index.html
http://www.sapporobeer.jp/news_release/0000021921/pdf/20180509hokkaidonamabi-ru.pdf
150歳おめでとう! 北海道による北海道のための「サッポロ 北海道生ビール」が限定登場
http://beergirl.net/sapporo-hokkaido150_n/
実は2018年は、1869年に「蝦夷地」と呼ばれていた北の地が「北海道」と命名されてからちょうど150周年の節目の年!
そんな記念すべき年に北海道といえばこのビールと言っても過言ではない、サッポロビール株式会社(以下、サッポロビール)より
「サッポロ 北海道生ビール」が2018年7月3日(火)に北海道にて数量限定発売されます。
サッポロ、「サッポロ 北海道生ビール」を北海道で数量限定発売
2018/5/9 12:30
発表日:2018年5月9日
「サッポロ 北海道生ビール」を数量限定発売
〜北海道命名150年を記念し、復刻発売!〜
http://www.nikkei.com/article/DGXLRSP479115_Z00C18A5000000/
サッポロビール(株)は、「サッポロ 北海道生ビール」を、7月3日に北海道で数量限定発売します。
本年北海道は、命名150年という歴史的な節目を迎えます。
当社の前身である「開拓使麦酒醸造所」は1876年に北海道に設立されており、当社にとって北海道はゆかりの地です。
この北海道命名150年を記念して、1990年に発売し好評をいただいた「サッポロ 北海道生ビール」を復刻し数量限定で販売します。
この商品は北海道産大麦麦芽と北海道産ホップを使用し、氷点下熟成製法(注1)の中でも、最も低い温度(注2)で熟成させることで、
雑味のないすっきりとしたおいしさを実現したものです。
また、サッポログループでは、命名150年を迎えた北海道に感謝の気持ちを込めて、この商品の売り上げの一部を
「北海道 150年事業」(注3)に「企業版ふるさと納税」(注4)として寄付を行います。
当社は、本商品の発売と寄付を通して、北海道命名150年をさらに盛り上げていきます。 お〜いお〜い北海道
トカップやニッカもあるでよ
釣りバカで飲んでた大法螺は知らん タグボートの模型欲しいな、スクラッチするしかないかな
摩周丸内に模型展示してるんだが 先日の船の科学館の講演会で、十和田丸のほかに青船が展示されてたぞ。 今度の9月は末っ子十和田丸が最後の旅立ちをして30年…。
節目だから久々に青森&函館へ行きたいなー。 サンシャインを見て久しぶりにラッキーピエロに逝きたくなってる >>492
海外製品も含めて、タグボートのプラモって結構あります。
でも国鉄の補助汽船に似ているのって、ないんですよね。 離岸はバウスラスターで出来るとして素早い着岸回頭はタグボートの出番
それを見てゆっくり下船できる時は列車まで時間がある時、指定席でも函館は走る 函館は早くホームに行かないと立ち売りの三平汁が売り切れるんだよな
あれと鰊みがき弁当が自分の定番だった 函館、青森駅での駅弁はとうとう食べる機会が無いまま。
親が「まりも」や「大雪」の食堂車好きで。 >>498
青森側は難しいが、函館側は風にもよるがタグなくてもつけられる。 桟橋に敷設されているフェンダー(緩衝材;主に硬質ゴム)の設計をする時は、
風が船を桟橋に押し付ける方向に吹いていると条件がきつい。
ボラードはどうだったか、忘れた。 青函連絡船のさん橋の緩衝機構については、いろんな本に出てるよ。
表面鉄板で、フェンダーそのものは露出していない。 さすがに古タイヤじゃない罠、縦のゴムみたいなやつだっけか記憶にないな
岸壁の整備も大変だったろうに 宇高連絡船の伊予丸では、第三宇高丸に客室を設けたような形の前積み。
狭い瀬戸内海での運行では、前積みの方が動きやすいから。
紫雲丸では、普通の後ろ積みの船。
ワム型15トン積み貨車なら14両、ボギー車なら6両を積載する。
この積載数でも、当時は用は足りたのかな? さあねえ、青函は貨物型まであったから
戦争と洞爺丸台風では悲劇で失われたりね >>507
洞爺丸に乗船した事がある、って言うと歳がばれるけど、
青函連絡船の車両甲板に出し入れする橋は
航行中も扉は無かったから開けっぱなしだった。
15号台風遭難事故前は
かなりの荒天でもそれで航行をしていて、
波と直角に進路を定めれば安全性は余り損なわれないと意識されていたらしい。
嵐が来る時に港の設備が貧弱な時は、
港外に避難するのは「ヒーヴツー」(風上に向かって波に直角に)の常識。
津軽海峡は連絡船の数に対してそれだけの広い海水面が無かった。
事故の要因はそれ以外にも沢山ある、と後で知った。 >>508
この板私は初投稿ですが、洞爺丸乗船とは凄いですね。
また投稿楽しみにしてます(^^) 生きてるやつが青森にイルカはいないとかえせ知識ばっかり >>512
青函連絡船に乗っていて、
一緒に泳ぐイルカの群れは
陸奥湾で良く見掛けたよ。
・・・悪いがまだ地上で生きている。 長生き乙です
青森を深夜出る便の出港すぐに伴走するから目が良いのかなイルカ イルカは、聴覚が鋭いので、目は関係ないんでわ?
専門家じゃないから分からんけど >>513
うらめしや〜
ワシが乗った洞爺丸は沈んでしもた〜 かつて、翔鳳丸型でも、大荒れで車両甲板に波が打ち付けた事例もあるが、後ろを濡らす程度にしか過ぎなかった。
荒波が打ち付けて、滞留しだすほどまで至ったのは洞爺丸台風での事故が最初だった。
洞爺丸では、排水性の悪い車両甲板の構造だったことも災いし、被害を大きくする要因にもなった。
生き残った洞爺丸型(羊蹄丸(1代)、摩周丸(1代)、大雪丸(1代))では、排水性を向上させる
改造工事を受けた上に、後ろに扉を設けることになった。
図書館の本で読んでわかった結果。 連絡船に接続する列車では乗船名簿の用紙を車内で配布してたんだな
普通車とグリーン車で色が違ってた
今だったら自宅でPDFで印刷して持参も可能で一部の船舶で採用されてる
EXCELファイルだと必要事項を入力してから印刷可能で手書きしなくていい 接続する連絡船は十和田丸云々と車内放送の後レチが小さめの名簿用紙配って回るんだな 乗船名簿は船員法で規定されている
宮島航路は距離が短く適用対象外 >>520-522
青函連絡船への乗船は接続する急行列車の乗客が優先だった。
だから青森・函館から連絡船だけに乗る時は、
少ない配布枚数の乗船名簿用紙を入手するのが大変だった。
函館の湯川温泉や青森の朝虫温泉に滞在して連絡船で帰る客には
旅館の番頭さんが早朝に桟橋出札に行ってそれを入手するのが大仕事だった。
特に年末年始はお盆の帰省時期には大混雑で一苦労。
ちなみに接続する急行以外のローカルの列車からの経験は無いので知らない。 北海道って、終戦直後は都道府県別人口で最大だった
函館青森が栄えた訳だわ >>526
実体験だよ、団塊の世代だから。
洞爺丸にも乗った事がある。
しかもそのあとの昭和天皇皇后両陛下の
北海道への行啓幸でお使いになった
1等船室だったと言う自慢の体験の持ち主。 >>527
>函館の湯川温泉や青森の朝虫温泉に滞在して連絡船で帰る客には
>旅館の番頭さんが早朝に桟橋出札に行ってそれを入手するのが大仕事だった
これは?
番頭さんだったの? 浅虫温泉は遠いねえ
乗り継ぎでしか乗船してなかったから定員の苦労は知らんかった 乗船名簿は家でコピーしたの持参しても大丈夫だった?
偽造防止対策とか特にされてなく青焼きコピーを駅で渡してたみたいである >>528-530
旅館の下足番から宿泊客の色々の世話をする男衆を「番頭さん」と言っていた。
乗船名簿の用紙は乗船する便ごとに枚数が決っていて、
当然便名のゴム印(日付も)と番号が入っていたと思うよ。
しかも乗船乗車券の発売とセットで配布したのでは?
だから用紙は何枚も持ち帰りが出来た訳で無くて、
コピーなんかもっての他だったと思う。
しかも白焼きコピー(昔はXeroxで呼ばれた)が普及し始めたのは、
昭和40年代になってからで、
洞爺丸乗船した昭和20年代はコピーなんて夢の時代・・・
流石に浅虫温泉からは番頭さんが出向くのは大変だから、
青森駅桟橋出札には旅館組合の常駐の係が通っていたのではないだろうか?
(他の温泉のお客の乗船名簿の世話も一緒に) >>531
そんな推測並べられても少なくとも>>528への答えにはなってねえな 乗船名簿なんてデタラメ書いてたな〜
田村正和とかミック・ジャガーとか
乗船前に桟橋で箱に入れるだけだったし >>533
15号台風での洞爺丸遭難以前は、
乗船名簿の記入はほとんどの人が真面目に書いたし、
(隠れた目的で旅行する時は知らん)
その代わり遭難事件の後は、
まさかもう沈没はしないだろうと
いい加減な記入は増えたのだろうな。
宇高連絡船の紫雲丸の事故もあったから。
その後は日本では大きな海難事故は発生していないし・・・ >>530
家でコピーとかお前絶対現役時代しらない世代だろ >>531
乗船名簿とボールペンが一緒に洗面所にぶら下がっていたのを見た事ある
但し普通船室用だけで、グリーン寝台用はレチから貰う必要があった
583系と485系の特急車両のみだったと記憶している
はつかりの場合、浅虫付近で
レチが回収に回ってくるのも当時の光景 「レチ」って何だろう?と、思って調べたら「車掌」の事か 懐かし板に来るくらいの人間でその疑問が出るのは不思議だな
コピーの話もだけどなんか若い人が無理矢理話に絡んで来ようとしてるね 昔を知るのは善い事、知識だきひけちらかして空気壊さぬようにね
救命胴衣のつけ方も見とくんだぞ レチ、レチチは相当にマニアックだけど
カレチさんってそれなりに知られていたように思うが。 使用済みの乗船名簿はどうやって捨ててたんだろうか?
あの当時は個人情報保護法なんてものはなく住所・指名が書かれた紙を平気で燃えるごみとして捨ててた?
流石に海洋投棄はしなかっただろうが
今だったら運行終了後シュレッダーで処理しないと個人情報漏洩の危険性がある 青函連絡船の廃止直前と
昭和30年代でも時代の違いがありそう。
洞爺丸乗船経験の世代にとっては、
「北斗」のC寝台〜連絡船1等船室〜「まりも」特別2等車が頭に。
(123等制の時代)
鉄道3等で旅行する人も、
青函連絡船の3等は車両甲板の下が船室だったから、
『異』級乗車券を買って、青函連絡船だけは2等に乗船するのが通だった。 「異級乗車券」
「車両甲板の下に船室」
もう訳分からん 「車両(搭載)甲板の下に(3等)船室」
洞爺丸遭難事故以降の連絡船は、
大型化した事もあって
123等全ての船室が車両搭載甲板の上の構造に設けられたけど、
遭難事故以前の旧型の青函連絡船では、
3等の船室は乗船入口は勿論桟橋と同じ高さにあったけど、
長い階段を降りた一部喫水線の下にも船室があった。
(上の階に線路が敷かれた車両搭載甲板があった)
それを嫌がって連絡船区間だけは2等の「異級乗車券」を買うのが
津軽海峡を旅する旅慣れた乗客の常識だった。
何しろそうしないと甲板で過ぎゆく浪間も眺める事も難しいのだよ。
洞爺丸転覆事故では12等の乗客も脱出出来ないまま犠牲になったけど、
3等の乗客に至っては外の様子も分からないまま、
いきなり「ポセイドンアドベンチャー」状態で閉じ込められて・・・
一般の客船でも例えば昔の伊豆七島に向かう東海汽船でも
小型船の3等は壁が船底そのままに斜めになって不気味だった。
(学校の行事で乗船して団体だったからしょうがなしで) >>545
「異級乗車券」は上の「車両甲板の下に船室」にも関連して、
何時まで制度があったか知らないけど、
123等、後の12等制度の時に、
元々1等または2等で旅行する乗客が、
鉄道区間でも3等(のちの2等、今の普通車)しか
運転していない区間を挟んで旅行する時に、
乗車券を買う時にその区間を申告して指定すると、
その区間は下級の料金に差し引いて運賃計算して発行される。
本当の金持ちはそんなセコイ事はしないけどね。
昭和30年代頃までは幹線だと普通列車にも半車の2等車がよく連結されていた。
乗車券の地紋が3等は薄赤で、2等は薄青、1等は黄色だったから、
異級乗車券は上の等級の色で発行されたから所持していると鼻が高かった。
連絡船区間の運賃は鉄道区間キロ程通算とは別の等級別運賃だったから、
差額の計算も楽で簡単に「異」級乗車券が買えた。
鉄道区間でも一部だけ12等とする「異」級乗車券が買えて、
下記の様な遣い方が出来た。
(1)特急「つばめ」「はと」にしか無い、最後尾の展望車のデッキで
出発の見送りに答えたいコスい成り金見栄っ張りは、
展望車は1等乗客しか利用が出来ないから、
東京〜小田原位までは1等で後の目的地大阪までは2等の「異」級乗車券を買った。
(2)地方の事業所の幹部社員・家族が転勤で任地を離れる時は、
規定で2等旅費が支給されるから、(今なら飛行機でビジネスクラス?)
いきなり本州方面の接続急行に乗れない駅でも
普通列車の半車2等車に乗り込んで社員の見送りを受けるのが習慣だった。
心ある幹部社員は3等で構わないと言うが、
(乗り換えた先の急行列車では特別2等車に)
庶務の社員がそれでは示しが付かないので是非2等でと懇願して。
そんな時に列車が空いた時期なら始発駅からなら3等でも大丈夫で、
「異」級乗車券を買う事に。
セコい社員は全区間2等の乗車券は乗り換え駅で払い戻ししたりして
「異」級乗車券に買い直して差額をせしめる輩も。
社員や役人の出張でも階級で2等乗車券が支給されるけど、
同様に差額をせしめる奴もいたそうな。
何しろ2等は3等の倍額で1等は更に倍額だったから。
急行料金も等級で違って高価になった。
私の世代の2等乗車券のイメージは、
今で言うグランクラス位の値打ちがあったね。 ちと長いが歴史の勉強だな
さすが船底は知らん、親は船底のが揺れないと言ってたが強がりだったのか 船現物を知らなくても洞爺丸事故の経過やその後の代替船(初代 十和田丸や津軽丸)の構造改善を読めば、三等が船底だったコトは自然と知りそうなもんだがなあ。
知識経験があるから偉いかタコとかじゃなく、末期に自分の見たまま以外まったく関心が無いなら寂しいね。 多分実体験として知らないって意味じゃないかなと読めるんだけど 船底とか書いてるが、実際には船底じゃなくて第二甲板。
車両甲板の1層下で、床面よりちょっと上が喫水線。 高齢者は意固地になりやすいの、分かってるのに
「番頭さん」の件で、執拗に突っ込んだ奴は誰だよ >>546
洞爺丸形なら、三等でも椅子席なら下部遊歩甲板だから、
車両甲板の下まで行かなくても良かったのでは?
車両甲板下の第二甲板にあったのは三等桟敷席だけで、
他の三等施設は下部遊歩甲板にあったはずなのだが。 >>553
好き好んで3等の船底の船室に乗った訳では無い。
その端艇甲板の船室は競争が激しくて。
混んで座れなかった3等急行の旅や、
本州の夜行急行で3等の硬い座席に座って過ごした後は、
青函連絡船の4時間半で寝そべって背筋を伸ばしたり、
洗面や食事と短い休息の時間だった。
だからちょっと余裕がある馴れた旅人は、
差額を払って2等船室に「異」級乗車券を買って乗った。
ちなみに昭和29年で3等が220円で2等は440円。
その差額の価値は当時日雇い労働者の日給が
彼らを通称ニコヨンと呼んだ254円だったから想像出来る。
2等船室なら洗面所も明るくてお湯がたっぷり出るし、
食堂はメニュー豊富で美味いし、売店も花盛り。
1等船室は1780円で高値の花、
ボーイさんもいて何かと世話を焼いて呉れる。
坊っちゃまと呼ばれたは人生でこの1回だけ。 >>551
「船底」は言葉の綾で固定閉鎖の丸窓から外を見ると、
目の前に海水面が広がって港外に出ればちょっとの波で
窓ガラスが洗われる。気分は水没・水面下・船底だよ。
後年アムステルダムで泊った安ホテルが
床が水面下で目の前の運河をボートが通る度に
波が窓下に打ちつけて落ち着かない夜だったよ。
共に「板子一枚下は地獄」とは良く言ったもの。 船底へ行くには乗降時間かかりそうだな
二代目は入口広くて売店があった
そしてマリンガールなる案内の人? >>556
その通り、
接続する急行の3等は自由席しか無かったから、
(函館、青森)桟橋ダッシュで先頭を走るには、
到着時刻より早めに下船口で待ち構えていないと出遅れて大変。
だから下の船室の奥なんかに乗っては最悪。 この人妄想入ってるよね
結局「旅館の番頭さん」の件まともに答えてくれてないし 正論だと思って他レスを真っ向否定する発達の臭いがする
それが嘘だったり >>554
そういう話を聞くための書き込みではなかったんだけどなぁ。
まるで「三等船室全てが第二甲板にある」みたいな>>546の書き込みに対する
「第二甲板以外にも三等船室はあったでしょ」っていう確認のつもりだったのだが…。
これは大事なことだけど、洞爺丸形では「端艇甲板」には船室はなかったよ。
本当に乗ったことがあるなら、知ってて当たり前のことなんだが…。 ここに書き込む諸兄はほとんど、
学生や成人してから専門的な知識も探査吸収しつつ、
乗り船をした経験で語っているのでしょ?
それと幼い頃から小学生位で洞爺丸に乗った経験と
比べるのは無理じゃない?
60年も昔の社会の仕組みは
当時の人しか実感としても語れないし、
歴史として聞き置けば勉強にはなるから。 末期が消防厨房の頃ではあったけど覚えてるものです
十和田摩周八甲田ばかり当たって当時は不運と思ったが青森函館に残って逢えるから今となっては良かった
まだ函館市電の海岸通り線があってニセコ待ちに市電乗り潰したりね 宇高連絡船のホーバーを青函連絡船に転用は不可能
波が荒いのでスカートが破損する危険性が高い
ジェットフォイルがかつてあって1時間40分で結んだが短命だった
ナッチャンReraも短命だったが引き波が強烈すぎて漁業被害が出たのが一因である 八甲田丸や摩周丸の保存に、JR東日本やJR北海道は関わってないの? やー。洞爺丸乗った人の話おもしろいっす。
当時の日雇人夫の日給と乗船するだけの金額が同じってことは
現在だと1万くらいだろうから連絡船乗るだけで1万かかるってわけだ。
俺が最初で最後の連絡船って高校さぼって松前線に乗りたかったんだが
時間的に無理で江差線の途中駅で引き返した思い出が・・・
周遊券の値段が行き帰りの急行券込みで3万行かなかったと
思った。当時は連絡船見納めなはずだが、そんなに人がいたって記憶ないな。今なら葬式鉄がたくさん押し寄せるのだろうが。 連絡船終了後に、一回イベント運航があって
客が1人だけだったって噂聞いた事あるけど
話の出処憶えていないからデマかも ちょっと調べたら
廃止の半年後に復活運航があったのか
列車の接続はしない観光船で夜はホテル!か
当時、話題になった記憶がないけど
この時乗った人、ここにいるのかな 廃止された同年6月から9月まで1日2回運航
この時、一回くらい乗客1人の日があったかも知れないけど
分からない 江差線で折り返した駅思い出した。
わらびたいって駅だったと思う。
夜の便で青森に戻ったが、食堂なんて俺一人だったな。
三平汁と何か名物を食ったな。
その1年後だか2年後に宇高連絡船に乗ったな。
宇野と高松行ったり来たりした。ホバーも乗って食い放題のアイスも
もちろん食った。 大分でホバーの余生に乗った、波しぶきすごかった、空港の陸に上がってからぐるぐる回って遅かった
思えば青函で車運んでたがいつ載せたのやら、5〜6台なら時間はかからんか >>570
ノシ
土日祝は行楽客や青函博がらみの利用者でグリーンを除いてそれなりに埋まってた。
平日1人しか利用者いなかったのって記憶あるけど、夜間のホテル利用者のことで新聞に載ったんだっけかなぁ。
いい場所取ろうと構内からダッシュして乗船口の橋に敷いてる緑色した凸凹マットが滑って大コケしたのも思い出。 >>575
アンコール運航開始と青函博開幕に一ヶ月もギャップがあるからねぇ。
今考えてもやけに早すぎた感があるが、休止期間は三ヶ月以内とか制限があったのかな。 >>575
うわぁ
本当にありがとう
1人乗客のエピソード、記憶違いじゃなかった
でっかい船に1人だけ乗船とか、自分だったら精神的にキツいかも
だとしても、1人だけで乗れたら良い思い出だよなぁ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています