青函連絡船6便 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>1
次スレ立ち上げ乙
函館に向けて出港
Ring up engine→港内操船から航海中の巡航状態へ >>2
野暮なツッコミだとは思うが6便なんだから青森行きじゃないのか? 舫い綱を降ろせ(レッコーショアライン)!
全速前進(フルアヘッド)!
この専門用語がわかるのも、船舶に詳しくなったからな…。 やっぱ青函連絡船に詳しくなると船舶のことも詳しくなると? 青函連絡船の出航時の「蛍の光」はもちろんいいけど、港に到着するお知らせの頃に流れる「エーゲ海の真珠」も良かったよね。
函館なら「さあ、これから北海道の旅だ!」と想い
青森なら「旅ももうすぐ終わるか‥‥」の感傷の想い。
あくまで本州から渡道するものの場合だけど。 >>7
自分は坂本幸四郎さんの著書で洞爺丸事故を読んでから、気象について知識を広げたな。
子供向けの学習漫画を読み返すとなるほどこういうことか…、って20いくつにもなってから理解できたものだ。
その事がツーリングや外出時に天気を読む勘を養わせてくれたよ。 そうですか。
青函連絡船は俺たちにとって学習道場でもあるわけだよね。 青函無線アンテナが道内特急にはついていた(らしい)が運用の詳細ご存じの方はいますか こないだ坂城の169系を見に行ったら、青函連絡船に乗せるために付けられたと思われる車体下のフックがいまだにあった ♪ばかばかしいひと時がうれしい オーオ オーオ オオ♪ ここ、本当おっさんしかいないよな
あの日の少年は何処へ行ったのか あの日の少年の頃は半ズボン履いてたな…
ハーフパンツじゃなくて ドラエもんに出てくるのび太はいまだに半ズボンだけどな 白ブリーフに半ズボン履いたら
あの日の少年に戻れるかも知れない そして白のランニングシャツに麦わら帽子。
あの頃は夏休みが楽しかったよね 楽しかったが
麦わら帽子にランニングシャツで連絡船に乗らんわ 拓郎の”夏休み”かい? いいね!
夏休みと言えば北海道
北海道に行くには青函連絡船
それが俺たちの青春だった あの頃は非冷房の旧客や50系やキハでも暑さは気にならなかったし
当たり前にあった喫煙車のタバコの臭いも気にならなかったな
今はどっちもダメだけど… だなぁ
あの頃は誰に気兼ねなく自由にタバコが吸えた。
今の日本はどうにかしている。 都会の道は缶ジュースの蓋と吸い殻だらけだったけどな 今の日本は清潔すぎると思う。
汚いほうが免疫つくから健康のためにもいいはず。 当時、ゴジラ対ヘドラとかやってたじゃん。
ヘドラって良いなって思わなかった? >>24
それーでもー
ヤッーてるー
なつやーすーみー なんで青函トンネルなんて作ったんだろう?
青函連絡船の寿命を縮めただけじゃん? 583系寝台特急 ゆうづる はくつる (B寝台)
青函連絡船 八甲田丸 大雪丸 摩周丸 羊蹄丸 十和田丸(桟敷席(普通船室))
80系気動車 北斗 おおぞら おおとり 北海 >>35
>青函連絡船の寿命を縮めただけじゃん?
そこに意義があるんだよ
津軽海峡船で渡るのと鉄道トンネルで列車で行くのとじゃ
安全性、安定性等で大きな違いがあるでしょう >>37
俺たちは安全性や安定性なぞ求めていない。 連絡船は戦さ船じゃない。
船乗りへの冒涜だ、馬鹿者め。 >>35
貨物用に連絡船が復活すれば良いよ
その方が安く付くし 今日ぶらりと横浜大桟橋行ったら、夕方に飛鳥Uとにっぽん丸が立て続けに出航する日だった。
飛鳥Uは単音の「ブゥーーーッ!」の大味な声だったが、にっぽん丸は十和田丸そっくりの「ボゥォーッ!」というまことにキレイな和音だった。
後進出航の短3笛なんだけど、連絡船およびジャパニーズ・ドリームのいた日々を思い出してウルッときましたわ。
またこの声を聴きに行くとしよう。 横浜大桟橋
良いけど、歩くの疲れる
今の青森港は横浜港の小型版の様な感じ 山手のドルフィンは 静かなレストラン
函館のFMいるかスタジオに喫茶店が併設されてて、連絡船が見えたかは覚えてないや
もう十数年行ってない、卒論でコミュニティFM第一号のいるかをリサーチさせて頂いて以降、
数回港を見ながら独りでお茶してました 山手のドルフィンは静かなレストランってユーミンじゃね(°▽°)
青函連絡船とは全然関係ないよ
ギガワロス チョwwwwwwwww >>48、>>49
このような価値のあるものを大事に保管にしているのは素晴らしいことです。 プロペラなら係留当時からあるが、何年も経った今さらアンカーを? 8月12日放映のNHKスペシャル「本土空襲 全記録」の録画を、つい今見てビックリ。
米軍が撮影した青函連絡船空襲の映像が、しかもカラーで流れてた。
このスレで話題になっていないから、取り上げられていないものかと思ったら…。
車両甲板がむき出しの車両渡船だったので、やられているのは第一青函丸か第二青函丸
ってことまではわかる画像だった。なお船体色は戦時警戒色だった。
かたちはどうあれ青函丸形のカラー動画があったなんて… >>54
後年の着色、もしくはカラー復元技術(色合いが解るものと比較等)
いずれにせよ、ありがたいよね >>56
Youtubeに上がってるから見てこい。
33分20秒。 天塩川温泉駅降りたことあったっけ、俺?
学生時代、天塩川温泉か東六線降りたことがあるんだがどっちだったか思い出せない
付近に民家はなかった気がする >>62
学生時代にお前のことを豊富温泉で見たよ。
豊富駅で下車したんじゃないのか? >>63
真冬の豊富温泉は良かった。温泉は油っぽかったけど 若い頃だけど青函連絡船で函館に渡り函館から「おおぞら」で旭川まで行き、旭川の駅前でテントで一泊したあと鈍行で稚内に行った。 >>66
カニ族ですよね?
僕もカニ族でした。大きなリュックを背負って。
とても懐かしいです。
”ふきのとう”の”初夏”という曲覚えてますか?
僕がカニ族してた頃の話です。
北海道には学生時代に何度か行きましたが、
初めて札幌の地下鉄に乗った時にはちょっとした
カルチャーショックを受けましたね。
タイヤがゴム製。東京の地下鉄とは違い、
ものすごく静かで近未来を体現した気分に
なりました。
今となっては懐かしい思い出です。 >>66
カニ族のころだと、北海道ワイド周遊券利用ですかね?
あのころは急行自由席が基本で、特急券は別途購入だったから特急なんて金持ちしか乗れないもんだと思ってた。 初夏は1975年の曲だから当時は周遊区間内でも急行自由席のみだね 鉄道博物館で「青函連絡船教室−通信士の仕事編−」を開催
■日 時 2017年8月26日(土)13:00〜15:30
■場 所 2Fスペシャルギャラリー前 特設スペース
■協 力 青函連絡船史料研究会
主なイベント内容
・青函連絡船の歴史についてのご紹介
・青函連絡船の通信士の仕事についての紹介
・モールス信号体験コーナー
http://www.railway-museum.jp/news/pdf/20170818_2.pdf >>70
やったね〜
このスレのみんなで押しかけようぜ!
レッツゴー! >>68、>>69
66だけどやっぱり長旅は疲れるからね。
家庭教師とかのアルバイトで資金は潤沢にあったので
函館から旭川までは特急を取ったよ。
北海道ワイド周遊使いながら適材適所で特急に乗ってた。 >>67
北海道に行ったときにはまだふきのとうはレビューしていなかったかな。
そのかわりに加藤登紀子の知床旅情がメガヒットしてたよ。
ユースホステルでみんなで大合唱した思い出がある。 ふきのとうの初夏は懐かしい
俺が札幌の高校を卒業して上京した年の歌
北海道ではトウモロコシのことをとうきびと呼んでいた
上京して初めて出来た彼女にとうきび食いたいとねだったら、はぁ? という顔をされて以来その彼女とは音信不通 >>70
行きたいけど、大井のイベントがあるからパス 北海道といえばキャプテン・ビーフハートのbat chain pullerだな
夜行列車の走行音のリズムとマッチしてた 自分がユースホステルよく使ってた頃は、ふきのとうといえば風来坊なんですよね…
単に自分が薄学か、或いは世代差か。 84〜85年頃、航海中の連絡船夜行便のトイレが水浸しになってたことがあったけどあれは何なの?
たしか中3のころだったが最悪の結末を考えて怖かったぞ >>79
風来坊を知っているだけでもご褒美ものです。
ふきのとうファンとしてはマジ嬉しいよ。 千春や五十嵐浩晃世代なんでイルカのマークがついた後かな イルカのマークがついたのは青函連絡船廃止の10年くらい前ではなかったでしょうか。
比較的最近のことだと記憶してます。
五十嵐浩晃はペガサスの翼しか知らない。
今どうしてるんだろう。 >>81
僕はもっと下の世代です。
リュックもカニ族みたいな横型ではなく縦型。
ICIスポーツで買いました。
シュラフはデュポンのダクロンフォロフィル製。
テントはモンベルの超軽量テント。
僕の時代は松原みきの真夜中のドアが流行っていました。
ただ、先輩方のようにみんなで大合唱というのはありませんでした。 ↑
それでいいんだよ。
青春時代に青函連絡船に乗って北海道に渡ったという事実は共有している。
それが大事。
たとえ流行歌が違うとしてもだ。 >>69
北海道と九州に関してのワイド周遊券のみ1981年から自由周遊区間内で
特急の自由席が利用できたのでそれ未満はワイド周遊券で特急には乗れ
なかったです。 >>54
戦災による鉄道被害なら
こちらへ
鉄道と戦争 [無断転載禁止]©2ch.net
http://mao.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1502585383/
八甲田丸見に行ったときに、
「白い航跡 青函連絡船戦災史」 北の街社 絶版
を買いました。
平和の尊さ、青函連絡船の戦禍を知るには貴重な書籍 >>87
戦争は嫌だよね。
当時の青函連絡船にイージスシステムを搭載していれば
外国からの攻撃に専守防衛で応戦できたのかもしれない。 で、明日の鉄道博物館の青函連絡船教室に行くやつはいるわけ?
俺は彼女とデートがあるから無理。
行ったらスレに詳細を報告してね!! >>89
当時は憲法的にも戦時中と言うことを考えても専守防衛である必要はない >>89
連絡船もやられっぱなしではなく
一応対空機関砲は武装していたらしいね
焼け石に水だったけど >>93
Really ?
Please attach the evidence. ネ申降臨ダゾ
HOKUSEIDOなる会社のだがググってもないので
一枚ダブってるみたいだがマンドクサいので各自たのむ
ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org1350086.jpg.html
ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org1350087.jpg.html
ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org1350088.jpg.html
ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org1350089.jpg.html ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org1350090.jpg.html
ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org1350091.jpg.html
ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org1350093.jpg.html
ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org1350095.jpg.html
ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org1350096.jpg.html 因みに昭和55年な
ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org1350097.jpg.html
ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org1350098.jpg.html
ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org1350100.jpg.html
ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org1350101.jpg.html
ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org1350102.jpg.html なんだ、絵葉書か。
最近、観光地の土産で「絵葉書」って減ったよなぁ。
やっぱりスマホで撮ってメールで送る、またはスマホの中で保存再生する時代だから、
「絵葉書」なんて必要ないんだろうね。
でも需要は小さいながらもあるようで、観光地の街にある写真屋に行くと細々と売って
いるんだよね。
そういうところではこれまでの絵葉書にない独特の写真もあって面白い。
スレ汚し失礼。 >>101
絵葉書は安いし、小さな額に入れて飾れるので外国観光客から
人気と景勝地が多い観光地のお土産屋さんから聞きました。 昔は旅の記念にスタンプ
駅、史跡名勝だけでなく、
旅館や案内所、
果ては車掌専用のスタンプまであった。 絵はがきとは言え船内売店で直接買った絶版を1200dpiで時間掛けてスキャンしたのに反応が残念だなあ >>104
>>96で「ネ申」とか自称しなければよかったのでは? でも、貴重な資料を見れるだけでも、オレの様な当時を知らない若造には
ありがたいですよ 鉄系の人に冗談は通じにくいか。感謝の催促する訳じゃないけどうp主的に役立ってるか気になりまして
イルカマークのあるなし混在の時期ですね。はつかり11号ー十和田丸(購入箇所)ー北海で札幌へ王道16時間パターンでした >>108
ここ年齢層高い人多いからねぇ
私も感謝しているYo ハガキサイズの額(無印等で売ってる)に
部屋に飾る用に旅行先で絵葉書買う事はある
キーホルダーとかの方が使わないと思う 往きは売店で道内時刻表を買い、帰りは観賞用まりも買った JR時代の姿を再現した模型を連絡線8船分出してたら売れそう 北海道みやげにも栄枯盛衰あるよな。
ニポポ人形、木彫りの熊、わかさいも、北見薄荷、すずらん、まりも、ホワイトチョコレート、
North fox in Hokkaido のキタキツネキャラもの、夕張メロンもの、鳥獣保護区、
富良野ラベンダーもの、
時代的にこんな流れかな? ホワイトチョコレートはほんとにないね
わかさいもはまだあるじゃんw 幸せの黄色い〜
ゆっくり走ろう北海道
おーいおーい北海道
北海道の家〜
賞味期限偽装? >>115
六花亭のホワイトチョコは一口サイズのが主流になったけどまだある。板のもサイズ小さくなって売ってる。 >>116
ゆっくり走ろう北海道は1970年頃だったと思うけど内地から来たやつらが飛ばすんだよね。
一般道を高速道路並みに。
そして北海道は全国一位の交通事故死者数になった。
それで生まれたステッカーが”ゆっくり走ろう北海道” >>114
北海道の土産は熊の木彫りが定番だったよね。
俺もついつい北海道旅行するたびに木彫りの熊を買ってた。
鮭加えたやつ。家に五個くらいあったんじゃないかな?
知らぬ間に捨てられてしまっていたけど。 あと、阿寒湖行くとついうっかりまりもを買っちゃんだよね。
なんで買っちゃうのか分かんないんだけど。なぞ。
ついでに買ってたのがまりも羊羹。 あとはお勧めというわけではないんだけどハスカップジュエリー。
比較的新しいお菓子だと思う。
女子に買っていくと必ず喜ばれる一品。 網走刑務所に滞在している人たちが作成したニポポ人形は大切に保管してます。 >>119
熊の木彫り風のプラスチック容器に入ったバター飴なんてのもあった
メーカー倒産で過去帳入りだが >>123
情報ありがとう。
熊の木彫り入りのバター飴は食べたことないなあ。
バター飴と言えば、俺にとっては雪印の缶に入ったバター飴が印象深い。
あとトラピストバター飴というのもあったよね。
トラピストバター飴と聞くと多岐川裕美の聖獣学園を思い出します。
全然関係ないのですが・・・ いやでも今は観光活性化という名目で、各地を廻ってスタンプラリーという企画を
やっているところが増えているからな。スタンプラリーを完遂するとオリジナルグッ
ズが貰えたりする企画をやっていたりする。 でおまえらは鉄道博物館の青函連絡船教室には出席したのか? >>128
鉄道博物館と青函連絡船っていまだにつながりあるのかな? >>129
それがわからないから出席するように指示を出したわけじゃん。 北朝鮮 弾道ミサイル発射の兆候
青函連絡船が狙われないことを祈るのみ 北朝鮮を迎撃するとかすれば面白いんだけど。
宇宙戦艦ヤマトのイメージ。
宇宙客船洞爺丸。
そういうセンスが日本政府にあれば、クール
ジャパンで日本は生きていけると思う。 >>139
宇宙客船洞爺丸には波動砲がついている。
波動砲の威力はオーストラリア大陸クラスの物体を破壊することができる。
宇宙客船洞爺丸が出動すれば水爆搭載ミサイルなんて楽勝で破壊が可能だ!! >>142
被害が拡散しないようにシールドするから大丈夫! 函館港の摩周丸と青森の八甲田丸にSM3、イージスショア、THAADを配備しよう >>114
土産といえば我が家には着色したログハウスで引き出しを開ければ知床慕情のオルゴールが鳴るやつがあるな。
連絡船の売店で買ったやつ。
あとは定番のメダルが何枚もw
鉄道路線網入りのハンカチもあった希ガス。 お土産と言ったら函館トラピスト修道院のバタークッキー >>144
いいね!
摩周丸、八甲田丸。
そして海底から洞爺丸が宇宙客船として復活する。
これだけ揃えば日本は大丈夫だ(^_-)
レッツラゴン! 津軽海峡冬景色の中で、主人公が青函連絡船に乗るけどどの連絡船に乗ったかわかる人いる? >>148
それを烈車戦隊トッキュウジャーで入れて欲しかったんだよ。
鉄道連絡船の要素を何故考えなかったんだ?
鉄道連絡船が出るかと思ってワクワクしてトッキュウジャーを見ていたのに失望させられたよ。 >>150
じゃあ言わせていただきますけどあなたはその企画をテレビ朝日に提案しましたか?
自分が動かないと何も変わらないよ。
日本女子バレーの中田監督も自分で考えて行動しないとダメだと言っている。 レッツラゴンの時点で完全藁い狙いレスだからおおらかに
銅鑼が鳴り蛍の光、エンジン音がうるさくなって
少し右に動いてイルカと共に前進するのだよ >>152
イルカに乗った少年のつもり?
笑えるんだけどwwwwww ♪あなーたがふねを〜 選んだのはー
♪わたしへのー 思いやりー だったのーでしょ〜かー
♪別れのテープは 切れるものだとなぜ
♪きづーかなーかったの でしょ〜かー
…このイルカじゃないって? 「連絡船内での関西弁の銀箱座談会」という言葉を思い出した。
SLブーム最盛期の青函連絡船を象徴する風景‥‥。 東京オリンピックに向けて摩周丸と八甲田丸を整備して東京湾ナイトクルーズ用に復活させたら海外から来る人達にも受けると思う。 >>161
だよね。
みんなが湧きワイワイと会話を楽しんでるときに場をしらけさせるやつ。
英語では、Wet blanketとかParty poorというんだけどそう人って現実社会でもきっと嫌われ者だよね。 >>149
ゆうづるがバンバン走ってた時代だし、朝5時半か7時半頃の便じゃないかな。
それにしても駅や岸壁で海鳴りが聞こえるようじゃ、現実には欠航しちゃうんじゃないかなーと今は思う。 >>163
ゆうづる、はくつる、八甲田、十和田
主人公はどれに乗っていたのでしょうか? ゆうづるもはくつるも好きだったな。
白地に青のライン。素敵でした。 >>164
急行津軽っぽい
吉幾三の「雪國」に出てくる列車も気になる
だいたい演歌に出てくる列車は下り列車だよね
あゝ上野駅だけは上り列車を歌っている
木綿のハンカチーフは東へ向かう列車なので
やはり上り列車? 吉幾三の里帰りご用達列車
東京で大成功したから津軽なんか乗らずに青森便のファーストクラスかな? 石川さゆりだって当時はゆうづるに乗ってたんじゃないのかな?
津軽海峡冬景色大ヒットだし。 私の髪の毛が 抜けているのは
加齢なんかじゃないわ 隠したりしない
ただ都会の絵の具に染まらないで帰って
何のスレやら >>171
当時乗ってたら、車内パニックだろう
特に地方では芸能人が珍しがられた時代なんだから 都会なんか車内に有名人いても驚かない。
てか、気づかない。
陛下が皇太子だったころ、一人皇居を抜け出して山手線だかに
乗ったこともあるし。 下りエスカレーターで中井精也の直後に立ったら髪の毛がウザ(ry 今来てる台風18号はかの台風15号マリーの進路に似てるな。
今日は九州西方でモタモタしてるのに、明日からは楔が外れたように日本海を一気に北上するだろう。
日本海をずっと北上…つまり明後日の海峡は危険半円に入るわけで…。 >>177
枕崎台風じゃない?
上陸日も17日だし >>175
学習院高等科の校門で学校のまわりを学友何人かで散歩してくるという話になって
お付き一人と学友数人と歩き始めて目白駅に向かっちゃったんだよ
お付きは一人だし当時連絡手段無いから付いて行くしかなかった
銀座の喫茶店で学友の一人の友人の女子高生と集まって駄弁ってるところを御用 太平洋フェリーも新日本海フェリーも欠航だね。
シルバーフェリーは運行するみたい(最終の苫小牧発は早発) 青函連絡船だったらどんな暴風雨でも決行だったのに。
今のフェリーはあの頃の青函連絡船を見習ってほしい。 いやいや、青函フェリーも津軽海峡フェリーも平常運航のようだよ。
青函航路は地形的にも守られているよね。
外洋に出て行くのとは違うでしょ。 洞爺丸の転覆もあったのを忘れてはいけない、船長の判断ミス或いは錨の構造に原因があると言われてるが。生まれる前のことだが叔父が乗った後の帰りに事故があったそうだ >>185
青函連絡船が本州と北海道の間の唯一の輸送機関であるうえ、
台風の進路予測の技術が未成熟な時代だった。
そんな時代に時代に、過去の経験則では推し量れない未曽有の
台風が来たのだから、船長の判断ミスといいうのは酷だと思う。
問題があったのは、錨の構造ではなく、車両甲板の船尾に海水の
侵入を遮断する扉がなかったことだ。 >>185
その洞爺丸が宇宙客船洞爺丸として蘇る計画があると聞いたけどその進捗状況は?
洞爺丸が復活すれば北朝鮮の弾道ミサイルも木っ端みじんに粉砕してくれるはず。 そう言えば29年前の1988年9月18日は青函連絡船の臨時運航の最終日でしたね。 台風18号、洞爺丸台風と同じ進路?
今、津軽海峡横断中 青函フェリーに桟橋使わせてくれれば徒歩客にとっては非常に便利だし、青森駅に昔の旅情みたいなのも戻って来るんだろうがな >>192
岩内大火は洞爺丸遭難報道の影に隠れて当時はあまり全国には知られていなかった 俺がイメージする宇宙客船洞爺丸の乗組員
船長 戸塚宏
機関長 鳥羽一郎
戦闘班長 豊田真由子
生活班長 山尾志桜里
航海班長 白石康次郎
船医 天野篤 >>199
jr化前後に10回程しか乗ったことはないんだがそのうち1回だけグリーン自由席に乗ったことがあって
そのときのBGMが心地よくってもう一度聴きたい
印象的な曲だったから聞けば一発でわかると思うんだが、曲名がまったくわからないんだよなー
普通席ではBGMが流れてた記憶がないからグリーンだけのサービスだったのかね >>203
んなこと言われても おいらは普通船室桟敷席しか乗ったことないからグリーン席のことはわからん。
だけどおいらは桟敷席が好きだった。
ゴロンと寝れるから楽ちん。 多分、港に近づいた時のBGM
イージーリスニングみたいな >>205
港に近づいた時のBGMとイージーリスニングって目的が180度違うと思うんだが大丈夫だったんか? こんなのがありましたけど(人様のブログ)
>青函連絡船で使われていたBGM用8トラテープ
https://blogs.yahoo.co.jp/seikan_ferry/12941247.html
このような出港時、入港時の放送用BGMではなく
おもいっきり航行中に流れてました 夜行便で目覚まし代わりに、小鳥の声がピヨピヨ入った曲が流れていたような。 航行中のBGM
本当に記憶にない
もし、新幹線のグリーン車でイージーリスニング流れてたら嫌だと思う
船の場合は良いのか? みんなシャワーはやっぱり浴びた?
当時は列車内シャワーはほとんどなかったから船とはいえ貴重な施設だったから必ず使ったな。寝台は‥‥試しに一回だけ。 >>211
君が今いる時代は平安時代だ。
青函トンネルはおろか青函連絡船すら就航していない。
青森にたどり着くのに時間がかかるのは当然だし場合によってはたどり着くことができない場合もある。
津軽海峡を甘くみないでほしい。 >>201
宇宙客船洞爺丸の就航の時期と乗組員
の公募開始時期を教えてください。 青函連絡船の船体規模のフェリーで座席主体のフェリーってある? >>219
佐渡汽船のときわ丸が今の国内では近いスケールじゃないかな。
夜行じゃないから寝台も無いし。 >>219
sサンクス
佐渡汽船を忘れてた
ジェットフォイルばかりイメージが強くてフェリーは印象が薄かったんだけど
5000トン級のそこそこ大型だったんですね
太宰治の小説に出てくるおけさ丸って名前はまだ残ってますね
当時のは488トンとか。。。 >>222
そういう初歩的な間違いするなよー
マジムカつく。 なぜ見ればすぐわかる安価ミスでムカつくのかはわからんが桟敷席で横になってると出港直前から
グオオとディーゼルの音振動が五月蝿く響いたのは覚えてるような
BGMは記憶にないがトイレの芳香剤的なやつなんだろね >>218
就航時期は北朝鮮情勢を見極めて決定される。
ただし、その時期は公開されない。
乗組員の募集は行なわれない。
船長以下、数名の幹部が乗組員を決定する。 JR貨物の機関車スレで
青函貨物問題の話題で白熱?している フェリーだとどのくらいまでネット使えるの?瀬戸内海ならほぼ全域?
船は青函のほかは短距離いくつかと八丈島ぐらいしか乗ってないな
暇見つけて阪九か新日本海あたり乗ってくるかな >>230
船乗りはネットなんかしないさ。
海を眺めながら加山雄三の曲を口ずさむだけ。
ただそれだけ。 破れた網はとりさし網か
今日で洞爺丸台風から63年、慰霊祭があるとNHKで言ってた >>232
満を持して宇宙客船洞爺丸が海底から現れればいいのだけど・・・ 洞爺丸は座礁したんだから沈んで無いんでは?
(詳しくは知らん) >>234
なんで夢も希望もないことを言うんだろう?
しらけた気持ちになる。 撃沈された青函連絡船を潜って見に行った人はいないのかな? >>236
人がたくさん死んでる事件を茶化しているのに、なにが夢だ希望だなんだ
しらけたとか以前の話だろ 因みに
宇宙戦艦ヤマトは、不遇の戦艦が全人類の為に復活する、戦艦大和の鎮魂の物語 因みに
宇宙客船洞爺丸は、不遇の客船が全人類の為に復活する、客船洞爺丸の鎮魂の物語 >>234ごめん、>>232だったm( _ _ )m 試される大地
試してみたけど、やっぱり無理でした。 明治維新以降、大量の内地人が北海道にやってきたから、蝕まれているんじゃないのかな?
アイヌ民族が北海道(蝦夷)を支配した江戸時代までが絶頂期だったような気がする。 HTBニュースの資料映像で津軽丸形に地平から乗船するカットがあった。
別カットには臨港線にありがちな倉庫→キハ82・80→踏み台使って下車する人々の画で合わせても数秒。
これって八雲辺りの土砂崩れの代行輸送なのか航路外クルーズか気になる。
倉庫は函館の中央埠頭に現存するものとよく似てる。
当時は中央埠頭にも臨港線が延びてたから特急車が入れなくもないんだろうけど、
函館・有川の両桟橋を使わない理由が見当たらないし室蘭の映像だったのかな。 >>251
映像をアタッチしてくれませんか?
具体的な情報を与えてくれないとみんなコメントできないと思いますよ。
老婆心ながら警告(イエローカード)です。 >>253
著作権侵害しろなどとは申しておりません。
掲載する場合は著作者の許可を取ってください。
これは常識です。 ↑
こういうやつがいるとスレが過疎るんだよね。
二度と来なければいいんだが・・・ 青函連絡船時代を知っている先輩諸兄に敬意を示さない知ったかぶりが湧く
↓
当然荒れる 揚げ足取りはやめて>>252の謙虚さに真鍋
青函航路以外にもいざと言う時役立ってた訳だ 青函連絡船で楽しい話はないよ
苦しいことばかりだった >>262
桟橋を使わずに地表からなら、艀じゃないの? >>262
カニ族っぽいの映っていたよ。白黒だったけど。 昭和48年8月5日に、乗船者殺到で函館桟橋だけでは旅客が捌ききれなくて、
乗りきれなかった旅客を急遽有川桟橋へバスや臨時列車で運んで、有川発着
の貨物便(津軽丸形運行便)に乗せたという記録がありますよ。
この日は青函連絡船の歴史の中で、輸送人員最高を記録しています。 >>267
なんでその日だけ旅客が殺到したの?
普通、乗客数は函館から青森に向かう場合は北斗、
おおぞら、おおとり等の乗車数、青森から函館に
向かう場合はゆうづる、はくつる等の乗車数に
相関すると思うけど・・・ >>269
これらが何を意味しているのかピント来ないがとりあえずありがとう。 台風で前日まで欠航が続いたとか?
まあ、画像中にある「台風」ってのは、洞爺丸のことだと思うが。 >>271
そんなに混んでるなら函館空港から飛行機に乗ればいいじゃん? 昭和48年だぞ。
飛行機に乗るなんて、かなり特別なこと。
庶民がとっさに思いつき、支払いできる代替手段じゃない。
それに飛行機が1便飛んだって、連絡船1隻の10%の
人間しか運べない。 >>268
夏休み中の日曜日だからでしょう。
当時は現在と違って、社会人が「盆休み」として長期の夏休みを取れる時代じゃなかったから
多くの人が日曜日を絡めて3〜5日間程度の旅に出るから、行楽シーズン中の人の移動が
分散しにくかった。
調べてないけど、この日行楽客が殺到したのは青函航路だけじゃないと思う。
また、前の週や次の週の日曜日も、有川から客を乗せる程でないにしてもかなりの人出だった
と思うよ。 >>274
わからない。
青函連絡船というのは函館駅(あるいは青森駅)に到着した列車の人たちを青森駅(あるいは函館駅)に運ぶための船じゃないの?
であれば、当然、連絡船の乗船人数は函館駅に到着した列車の乗車人数に相関するはず。
青函連絡船に乗れない人が出るほど混雑するのかが理解できない。 連絡船が欠航する位なら飛行機も飛ばないんぢゃねーかな
当時の函館は150人クラスの便が1日数本位だしねえ
とにかくそれだけ大切な交通だったんだねぇ 去年、73歳(当時)のおじいさんが津軽海峡を泳いで渡ってたよね。
青函連絡船が混んでるなら泳いで渡ればいいのに。 >>276
当時は、函館駅や青森駅に到着する列車の定員より、連絡船の定員の方が少ないよ。
函館駅に着く列車の自由席が通路まで一杯の混雑なら、連絡船に積み残しが出るのは
ある意味当然。 昭和48年はベビーブームの絶頂時で、
実家に帰って出産が多かったんだろう >>279
そこそも列車の定員なんてあってないようなものだけど
船はそうはいかないからねえ >>279
だけど青函連絡船乗って青森に着いた後の列車のチケット買ってるはずだろう?
オンタイムの連絡船に乗らないとその人たちは東京に帰れないし莫大な損失になるので君の仮定はあり得ないな( ^ω^ ) >>282
接続列車の指定券持ってる人は優先ってのはこのスレじゃ常識じゃないのけ? >>283
そういや当時の時刻表にそんな但し書きがあったな。 連絡船の指定券>接続列車の指定券>○特の乗船名簿所持者>それ以外
って優先順位だったような記憶がある 連絡船乗車の方は車掌が通りました際に乗船名簿のご記入願います。ご乗船予定の船は十和田丸です。
のアナウンス後レチが・・・
まあなんだガキの頃羽田千歳線ジャンボに乗ってプラモ貰ったりもしてるが >>288
JALの四代目の制服が好きだった。ミニスカートで可愛かったよね。
アテンションプリーズで紀比呂子が着てた制服。
あの頃は良かったよね。 >>288
押し入れ探してたらDC-8のプラモが出てきた(笑) >>287
緑と白はグリーンと普通船室の差で、優等列車内で配布される乗船名簿はそれと別に○特の表示があった。
トラベルミンの広告付きだったな >>291
なんかそう言うのあったな
少しずつ思い出してきた >>292
トラベルミンあったな。今思えば「乗り物酔い=船酔い」に絡めてたのか。 トラベルミンバスの遠足ではいつも呑んでた、中身は普通の精神安定剤だと大人になって知る
ミニスカはハナエモリだっけか交通博物館に歴代JALスッチー制服飾ってた >>291
しかしその時点で広告見せられても買えるのか? >>294
へ〜、トラベルミンってそうなんだ。
知らないうちに精神安定剤飲んでるのは怖いね〜。
ミニスカ制服は良かったよ。
紀比呂子も可愛いかった。
そのあとの代の制服は囚人みたいな感じだったよね。 >>295
その時点では買えないんじゃないかな?
きっと、その時は買えずに船酔して、次に連絡船に乗る時は同じ轍を踏まないように買う人が多かったんじゃない? >>297
やっぱりそうだよねえ
トラベルミン自体は有名だけどそれがエーザイ製品ってのは知らん人多いよね
何でCMしないんだろ? >>297
高校の修学旅行の時に未開封を一箱持参したけど、帰りの連絡船が大時化で同級生達に配って空になった。
自分は乗船前に飲んでおいたので平気だったがトイレの前には青い顔した連中が屍累々。 うちの近くのドラッグストアだとセイブ錠ってのが一押しらしくレジ横に置いてある だけど船酔いするようじゃ本物の青函連絡船オタクとは言えないな。
酔い止めの薬飲んで乗船とかファンとは言えないよ。 ベテランの船乗りだって、大荒れの時には船酔いするくらいだから気にするな。 >>304
五代目。
囚人みたいな感じの制服だった。
四代目のあの可愛い制服からなぜ?
あの頃がJALの終わりの始まりかもしれない。 このスレは青函連絡船のスレ。
飛行機の話はやめてもらえませんか? 脱線もいいぢゃないか
さて車輌搬入ー固定はフルでどれ位時間かかるのだろうか >>308
底抜け脱線ゲームは脇ワイワイとして面白かったよね(^_-) 16歳の時に初めて乗った青函連絡船で船好きになり、今では長距離フェリーから2泊
程度のショートクルーズまで乗船してるけど船に酔った事が殆どない(但し小さな船は
酔う事がある)。17歳の時に高校の修学旅行で利用した青函連絡船3便で船酔いした
事があるけど青函航路接続列車の、ゆうづる2号(13M)が生まれて初めて乗った寝台特急
で興奮して寝ずに朝まで起きていたので寝不足による体調不良だったのかも知れない。 >このスレは青函連絡船のスレ。
>飛行機の話はやめてもらえませんか?
函館で飛行機がらみの話ははずせないだろうが。
ばんだい号事故
ベレンコ中尉亡命事件 五島軒や路面電車、競馬もあるでよ
煮込みの味が落ちちまうぞ、と言う居酒屋映画もあった 鉄道の日だったのになんの報告もして来ない。
それでも鉄ちゃんを名乗りますか?
皆さんにはがっかりです。 なんの有益な情報ももたらさない>>314さんにはがっかりです。 正しくは船ちゃん、磯野フネだろうな
観光だと夏が多い利用、冬の函館や小樽の街は坂が多くて内地の靴だと転びまくる
一見影に見える氷が一番怖い >>315
意味不明ですね。
私は管理する側ですから。 >>321
それ、それですよ。
銀河鐵道管理局です。 数年前流れた中国で座礁させられてる大雪丸ってまだいるの?
ほかの連絡船は全滅? 摩周丸はエンジン外して艀扱いだが八甲田丸はどうなんでしょ
その摩周丸集客に苦戦してるが船の科学館時代の羊蹄丸みたいな昭和の函館展示(新横浜ラーメン博物館的な)すればどうJARO 大雪丸は昔よく乗った。
函館までおおとりに乗って函館から青森まで大雪丸。
青森から上野まではくつる。
古き良き思い出です。 久しぶりに海峡ラーメン食べたくなってきた。
海峡ラーメンってどこで食べることができるの? >>328
摩周丸はエンジンを外したんじゃなくて、コンクリートを流し込んで不動にしたと何かで見た気が。 昭和をテーマにした展示も全国で様々な形で行われてきていて、いささか食傷気味だな。
まあ人が北海道、こと函館を観光する際の抑える要所要所で摩周丸は外れているんだろ
う。まあ、シーポートプラザ時代、あっちの倉庫街とかもベイエリアと称して若者の拠点に
した事もあったが長続きはせんかったからな。 >>332
コンクリート云々はデマだと聞いた。
八甲田でも、エンジンはそのままで手は加えられていない。
プロペラを外し、舵が固定されていることで2度と動けないことは自明。 実は摩周丸がエンジン外したのは船内で聞いた
そして駅前の六花亭の入ってるビルの店で海峡ラーメン食ったのは以前スレにレスった >>335
都内で海峡ラーメン食べれるとこないの? >>335の海鮮ラーメンは>>337みたいな塩だった
海峡ラーメンは塩+味噌だったのかなぁ、醤油+味噌だと思ってた
自宅で薄めの醤油ラーメンに味噌合わせるとあのラーメンの色と味(怪しいけど)な感じじゃ >>334
湖ならエンジンもスクリューも付けたまま廃船扱いにしてもいいらしい 私はサッポロ一番塩ラーメンにワカメをまぶして海峡ラーメンと称しています。 サッポロ一番塩らーめん+わかめ焼豚+味噌についてはどうかなあ、それっぽい感じにはなるかな
函館市場の観光食堂は高くて豪華でコレジャナイ感あるね、最近だと函館逝って通うのはラッキーピエロになっちゃう 津軽海峡の最も深いところで140メートルってことは新日本海フェリーあたりの船だと垂直に沈んでも船体の80メートル程は水上に出てるってこと?
浅いな 三厩〜福島は浅いんじゃないか、その東側は240m位あるとか
青函トンネル物語だっけな、地質調査やブラキストン線が違った話を昔読んだっけ 下北半島の方は深い
空襲で撃沈された連絡船はサルベージ可能? >>347
そのうち、講演できる人もいなくなるんだよな 第二次世界大戦・太平洋戦争の戦時下を知っている老人もめっきり少なくなっていますからね。
昔の青函連絡船、宇高連絡船を知っている人も居なくなるのも時間の問題。 元乗組員方も現地近隣以外はもう交流も途切れ途切れみたいだしね。
数年前に摩周の船長が急逝された際はローカルニュースながら記事になってたが、他の語り部も失われつつあるはずで。 さしもの俺もタービンの時代は本で知るまでだし誰かアーカイブ、っても北には体力が 北国はここ数日大荒れだけど、津軽海峡フェリーは頑張って走ってる。
『平常運航しています』…そのことだけで胸が熱くなる俺もトシだなあ。 某氏のブログによると、鉄道ジャーナルも取材にきてたとか・・・ 青函連絡船資料研究会の人たちがこのスレに来て語ってくれればいいのに >>356
営業運航が始まると振動や騒音が目立って酷評された船も、生を受けた時は華々しいものだな。
わずか9年で用済みになるとは想像もつかなかったろう。 >>358
でも古川氏の本だったかには、元々次の新型船が出るまでのピンチヒッターとして割り切られた
みたいなことが書いてあったと思ったけど…。 短期間でも立派に役目を果たした十和田丸@、か
当時は洞爺丸台風被害もあり輸送力が逼迫してたんでしょう >>356
初代の十和田丸は、南極観測船宗谷で使うような2ストロークディーゼル機関であったため、
エンジン音と振動が激しく、利用客からは不況であった話がある。
大型船のディーゼル機関は、ドカンドカンといった感じのロングストロークの爆音。 最新の大型船舶用はユニフロー型2ストだが、宗谷のはどんなのだったのだろう
タービンが売りだったらしい連絡船だけに五月蝿さは特に目立ったのか
津軽丸型は振動はそこそこでもデッキの音は結構ガーとしてたような >>362
羊蹄丸解体前の船内ツアーに参加した時に
川崎MANエンジンはターボ音がかん高くてちょくちょく故障した、
三井B&Wエンジンは音も故障もそこまででもなかった
と元乗組員の人に聞いたな。
自分は青函航路廃止後の生まれなので航路使ったことないけど、
珍しい大型船の高速ディーゼルサウンド(本当は中速ディーゼルに分類されるらしいけど)楽しんでみたかった。
定時運航のためとはいえ、こう見えて8つもエンジン積んでるとか、羊の皮を被った狼ですよぉ >>364
現役時代の青函連絡船乗った事無い人が
このスレにいるのは驚き(良い意味で) 羊蹄丸がお台場から今治に回航されたときも、追っかけてる奴に連絡船時代には
産まれてなかったと思われる若いのがチラホラ混じってたよ。 津軽丸型は5500馬力×8基のディーゼルエンジン、シャフトは4本かな
一年間無停止でギネスに載ったらしいお 一年間無停止
乗船してる時は疑問に思わなかったが、殆どピストン輸送
現役時代の錆びだらけの画像も納得 >>369
川崎MANエンジンがV16
三井B&WエンジンがV12 整備のためにローテーションしてるから、航行中に8基(左右各4基)すべてが常に動くわけじゃないよ。 >>372
荒天時は場合により8基稼働するんだっけ? >>368
津軽丸型、渡島丸型のエンジンは1600馬力✕8台。
>>373
気象じゃなくて遅れで運転台数は決まる。
荒天でも、さほど遅れなければ通常通り4〜6台で走っていた。 >>374
ただ、荒天時は念のため点検作業は中止して、全部のエンジンをいつでも稼働できるように
してあるって話でよかったよね? ガガガがガルガルガルになりそろそろ出航、ドラと螢の光にイルカが伴走し桟橋を斜めに離れるんですな
着岸はタグボートにしっかり回してもらう、バウスラスターのみより速く確実なんでしょう
そして函館桟橋マラソンが始まる・・・ >>376
主機の検修は多くの場合乗組でなく検修班や業者がやったはずなんで、荒天云々とは
あまり関係ない。計画的にやるものなので、荒天時に8台稼働可とは限らない。
7第とか8台使うのは、荒天時よりむしろ接続列車が遅れて発生した遅れを取り戻すとき。 >>377
大型船はそんなトラックや路線バスみたいにあからさまに響かない。
排気音がシュルシュルと前後の煙突から聞こえてはくるが。
それから港内にはイルカもアザラシもおらん。 煙突出口の近くはバリバリすごいよ、一番高い甲板から後部甲板まで降りればゆったり
桟敷に寝てると振動が変わって発進だな、とわかるしイルカは出航数分後にはなんか飛んでる、冬でも深夜でも元気なのが
ただ毎回十和田丸Aと摩周丸、昼は八甲田丸ばかり当たって外乗ってない
じゃあマリンガールでも冷やかしに行きますか 便所が水浸しだったことが何度もあるけどなんでああなるの?文系のせいかよくわからないんですよね そんなレベルじゃなくトイレ全体が1〜2センチ浸水してた 海に垂れ流し管に津軽海峡にはいないセイウチ詰まってたんじゃね 意外とシャワー使った事ある人少ないんだな。
船なら当たり前だけど当時の鉄道(連絡船)利用でシャワー使えるのがなかったから楽しかった。 >>380
出港数分後じゃあ、まだ港内だからいるかはいないよ。
いるかが出るのは海峡中央部。
それも、ひんぱんに出るもんじゃない。 羊蹄丸ってお台場に係留し続けることはできなかったの? >>388
フネ館本体が建物の老朽化(ということになってる)により続けられなくなった。
そうなると年間三千万もの維持費を出せる主体がいない。
あそこは公営ではなくS川さんの法人が大元だからね。 RMライブラリ221控車のすべて
ニッチな需要にマッチでーす
知識だけでガアガカ突っ込むのは好きじゃないが 可動橋に機関車を入れない為という控車なわけだが、それでは数ある蒸機や電機を運ぶ際はどうしてたんだろうね?
シロクニとかとてつもない重さじゃん。 >その目的は、可動橋先端部から船体にかけて重量の重い機関車がのると、
>通常ヒーリングポンプで船がその分沈み込んだ分を修正するが、
>可動橋と船体接続部は、傾斜の変化により踏面が不安定になり、
>その不安定な可動橋や接続部踏面上で入替機関車が直接駆動力や制動力をかけると
>空転・滑走して脱線や激突の危険が生じるためであり、
>可動橋の強度上の理由とする俗説は誤りである。
>実際C62でさえ青函連絡船により航送されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/控車 >>392
お〜、ありがとう。
控車の章にそういう記事があったのかあ。
あれだけ立派な鉄橋並みの枠なのに変だなと思ってたよ。 今年の紅白歌合戦の紅組のトリが「津軽海峡・冬景色」
やっぱ根強い人気があるな >>394
連絡船も上野発の夜行列車ももうないのに不思議だよね 最後の年末年始から30年だし、当時の映像を蔵出しでバックにしてくんないか期待してしまう。
そういや年越しの祝笛は連絡船でも盛大に鳴らしてたのかな。 山下達郎のクリスマス・イブ
東京発のシンデレラエクスプレスの画像がだぶる。 今、まさに北海道新幹線に乗って札幌に向かってるんだが、津軽海峡は北海道に渡って山間部から
ちらりとしか見えないんだよなぁ
函館市民は喜んで居るかもしれないが
新幹線が出来て在来線が減ったので不便になった。
今朝、東北新幹線の設備故障があったけどはやぶさ5号だけ定刻発車は凄いな… >>398
あー、西に行く新幹線があるね!
それなら、「ビーアンビシャス」とか「花咲く旅路」とかがあるかな? >>396
連絡船は年越しの汽笛などは、一切鳴らさない。 愚痴らず平和に行こうず
陸奥湾奥にイルカいるのはマジだぜ >>392
「沈み込んだ分の修正をする」というのは誤解を招く表現だな。
正確には、機関車の重量で船体の喫水が「沈み込んだ(?)」分は修正されない。
ヒーリングは傾斜の補正だけで、トリムの調整は別。
「可動橋と船体接続部〜」のところとか、「可動橋の強度〜」の表現はほぼ正しいが、そのため入換の機関車は主桁までは普通に乗り入れるが、補助桁に入ってはいけないことになっていた。
航送する機関車などは中線の船尾側に搭載することになっていた。もちろん火は落とした状態。 >>406
遅いだけで車両はのぞみと変わらないじゃん グリーンで口開けて寝てると安くて楽>ぷらっとこだま
車輛の可動橋もそうだが人様が乗り移る太いベルトコンベアみたいな橋もごつかった、鉄人28号のリモコンみたいなので操作してた ぷらっとこだま
考えた事あるけれど、のぞみグリーンにしてしまう
安いのはいいけど予約が面倒
そのくせ夜行バスは予約して乗るけど >>408
鉄人のリモコンみたいなので操作するのは可動橋だな。
人が乗降するのはタラップで、さん橋の各タラップ脇の油圧装置の操作スタンドで動かしてた。 のぞみの感覚に慣れちゃうと、ひかりに乗って豊橋とか止まると、は?ってなるよwww
ましてやこだまなんて各駅だろ、いくらG車だとはいえなあ。それに車販もないし。
ちょっと聞きたいんだけど、Nじゃない700系のトイレて和式? 全部グボッ吸い込み式じゃねーの
連絡船は海水垂れ流しかねぇ >>413
連絡船は、第三補機室にし尿処理装置を積んでいた。
羊蹄丸の船内見学で説明してたよ。 カキはじめ貝当たりの原因がノロ、人糞由来と聞いて。連絡船は海に優しいな し尿処理装置は、法規制で装備しなければならなくなったから建造後に取り付けられたんじゃなかった?
津軽丸型の建造当初はついていなかったはず。 青函カーフェリーの所要時間3時間なんだ
青函連絡船は4時間だったけど
船の性能上がったのかな? >>414
500系
700系
800系
の一部に有る 敵は運賃バカ高いとしても新幹線相手に頑張らんとな
連絡船3時間50分は若干余裕も考えてんだろう >>421
青函フェリーは4時間だよ。
津軽海峡フェリーは3時間40分。 青函フェリーと津軽海峡フェリーがあったのか
ごっちゃにしていた
どっちかが大間発着 東日本フェリーの後裔が津軽海峡フェリーだよね。
函館は船首着けだから、二度も旋回を要する上り便が時間食いそうだが同じ時間なのか。 >>425
どっちも基本は青森発着だが…
津軽海峡フェリーに「大間航路もある」という表現が正しいね。
>>426
厳密には、津軽海峡フェリーはかつて貨物専用だった道南自動車フェリーだけどね。
東日本フェリーが潰れたときに、道南自動車フェリーが青函航路と大間航路を引き取って
津軽海峡フェリーになった。
俺は青森〜室蘭航路が好きだった。
若い頃(90年代)、18きっぷで北海道行くときによく使ったよ。 基本的に、往時の青函連絡船も、現在のフェリーもどちらも母港は函館で、函館発着という
のが認識として正しいと思う。青森は寄港先のひとつにすぎない。
津軽海峡フェリーは函館−青森、函館−大間。
青函フェリーは函館−青森で、こちらは複数社(確か共栄と北日本)の共同運航。 でも、津軽海峡フェリー青函航路のブルードルフィン姉妹は、船籍港は青森なんだよね。
マーメイドとハピネスは函館なんだけど。
大間港の「大函丸」も、船籍港は大間。
自治体の援助の絡みでもあるのかな? >>431GJ
天賞堂から1/500各種再発されてるみたいよ 1988年3月13日と9月19日は終生忘れ得ぬ日となりました。
誰にも等しく30年の流れは過ぎてきた。
自分の人生、ただいま荒天運航中。 >>436
人生は立ち止まって進路確認はあれど、流れを見合わせるわけにはいかんぞ。 >>433
青森、函館から夜行列車が消え
青函トンネルに新幹線
在来線で北海道に行けなくなる
本当にこんな時代が来るとは・・・ >>437
避泊とかドック入りとかあってもいいのでは? >>432
JR化後まで運航した8隻のJRバージョンを再現したモデルも出してもいいのでは >>441
横長でないJRマークのファンネルは貧相でみっともない。 煙突だけかね、中曽根ムカつくからJNR
青函トンネルの名札もなんの因果か中曽根・・・ 今日、NHKの「首都圏ネットワーク」で青函連絡船の特集が。
http://www4.nhk.or.jp/P350/ 30年前の今頃は八甲田丸の船中に居た。
時の流れははやいものだ ダーッシュダーッシュダンダンダダン♪
ダーッシュダーッシュダンダンダダン♪
ダーッシュダーッシュダンダンダダン♪
三平汁〜ぅダァーシュゥ♪ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) 久須志道踏切で長々待ってると、引き出されたコンテナがガチャガチャと操車場へ向かう。
入れ替わるように盛岡からはつかりがゆっくりと到着…というタイミングがあったな。
定期終航後の春は駅付近がホントに静かになっちゃった。 青森に行くと八甲田丸、棟方志功美術館、駅前の市立図書館しか見ないな
他に青森盛り上げる資源ある?アスパムは無理ゲー 青森って、何もないよな。
八甲田丸もすすけてるし。 だって、津軽と南部の緩衝地帯として、もともと何もない所に港町を作ったわけですから。
港としての重要性が下がれば、県庁所在地の役割しか残らないわけで。国立総合大は弘前だし。 桟橋がなくなったら向こうに薄らさむい海があるだけのつまらない駅周辺だったな、青森駅 函館駅ってなんであんなにカーブしているかと言うと、
桟橋連絡への名残だったのね。 連絡船講演会に逝った人はいませんか?
質問とかもできるのでしょうか、回答は知ってる限りとして 青函連絡船現役時代
青森駅は24時間営業でコンビニより、都会の雑踏みたいに賑やかだった。
連絡船側の乗船待合室も冬場も暖かくてホームレス来ても大丈夫… >>462
今回は行けなかったけれど、毎回質問する時間は多く取っています >>458
青森、食いモンは旨いよ
郷土料理の居酒屋とか
つまらない街だけど ホタテの刺身フライあんきもホヤに地酒
食いものはいいね 八甲田丸
ねぶた会館
十和田湖
岩木神社
昨年のGWに青森旅行したけどいいとこだったわ 個人的好みはあるだろうけど、それは言い過ぎだろう
ねぶた祭りとか一度見れば充分だとは思うが 八甲田丸がある以上、連絡船ファンなら好むと好まざるとにかかわらず訪れることになる街ではある 昔は駅前でリンゴを買ったとか言うが俺には青森函館共乗り換え中継駅だったから昭和の記憶は鉄道施設しかないな
青森は八甲田丸が楽しく観光がすくない、函館の摩周丸は模型展示と休憩所位だが北方民族の博物館やらレンガ倉庫街やら観光がいい 往年程ではないが、今でも駅前でりんご売ってる店はある
夏になると青りんご(王林などではなく赤くなる前に捥いだりんご)を売ってる
早起き出来るなら、青森駅前の朝市は今でもある
函館の朝市は観光客向けだが、青森駅前は本当の朝市
十和田湖も函館山も中国人観光客だらけだけど
誰も来なくて寂れるより良いと思う 青森は一見観光客がまばらに見えたけど、市場がすごい賑わってて驚いたわ 駅から歩いて5〜10分位の建物の中
ネタを選んで調理してもらってその場で食べる感じだったかな 函館では倉庫街の真下、見えるところにいるハゼを無視とか勿体無いと思う 青函フェリーに
はやぶさとあさかぜって名前の船があるんだな 会社ごとに名前が違うのな。
あさかぜは昔は第●朝香丸。 さんふらわぁがCM打ってた時代もあった
さすが涙の連絡船はわからん 古本 旅と鉄道'86夏号青函連絡船他げと
海の幸ラーメン、乗船口すぐの売店(品物いっぱい)やら懐かしい写真が
北海道第二次特定地方交通線特集やら時代の終わりを痛切に感じる号でもありました 一等(グリーン)室用と二等室用の二つの売店(キヨスク)があったなあ。
別にどっちでも買えたけど
後年、グリーン用の売店はテレビと休憩スペースになってたんだっけか。 絵葉書とか今ではあまり見掛けないような物を売っていたな >>470
機械遺産になったので暫くはスクラップにされる心配は無い
でも、入場者数減ると、どうなるか分からんから、機会がある毎に行く様にはしてる
その後、三角のビルの居酒屋で海を見ながら日本酒 アスパムも15年行ってないがあんきも出す飲み屋はやってるだろうか 再び、全国販売して欲しいね。
http://www.sapporobeer.jp/news_release/0000021921/index.html
http://www.sapporobeer.jp/news_release/0000021921/pdf/20180509hokkaidonamabi-ru.pdf
150歳おめでとう! 北海道による北海道のための「サッポロ 北海道生ビール」が限定登場
http://beergirl.net/sapporo-hokkaido150_n/
実は2018年は、1869年に「蝦夷地」と呼ばれていた北の地が「北海道」と命名されてからちょうど150周年の節目の年!
そんな記念すべき年に北海道といえばこのビールと言っても過言ではない、サッポロビール株式会社(以下、サッポロビール)より
「サッポロ 北海道生ビール」が2018年7月3日(火)に北海道にて数量限定発売されます。
サッポロ、「サッポロ 北海道生ビール」を北海道で数量限定発売
2018/5/9 12:30
発表日:2018年5月9日
「サッポロ 北海道生ビール」を数量限定発売
〜北海道命名150年を記念し、復刻発売!〜
http://www.nikkei.com/article/DGXLRSP479115_Z00C18A5000000/
サッポロビール(株)は、「サッポロ 北海道生ビール」を、7月3日に北海道で数量限定発売します。
本年北海道は、命名150年という歴史的な節目を迎えます。
当社の前身である「開拓使麦酒醸造所」は1876年に北海道に設立されており、当社にとって北海道はゆかりの地です。
この北海道命名150年を記念して、1990年に発売し好評をいただいた「サッポロ 北海道生ビール」を復刻し数量限定で販売します。
この商品は北海道産大麦麦芽と北海道産ホップを使用し、氷点下熟成製法(注1)の中でも、最も低い温度(注2)で熟成させることで、
雑味のないすっきりとしたおいしさを実現したものです。
また、サッポログループでは、命名150年を迎えた北海道に感謝の気持ちを込めて、この商品の売り上げの一部を
「北海道 150年事業」(注3)に「企業版ふるさと納税」(注4)として寄付を行います。
当社は、本商品の発売と寄付を通して、北海道命名150年をさらに盛り上げていきます。 お〜いお〜い北海道
トカップやニッカもあるでよ
釣りバカで飲んでた大法螺は知らん タグボートの模型欲しいな、スクラッチするしかないかな
摩周丸内に模型展示してるんだが 先日の船の科学館の講演会で、十和田丸のほかに青船が展示されてたぞ。 今度の9月は末っ子十和田丸が最後の旅立ちをして30年…。
節目だから久々に青森&函館へ行きたいなー。 サンシャインを見て久しぶりにラッキーピエロに逝きたくなってる >>492
海外製品も含めて、タグボートのプラモって結構あります。
でも国鉄の補助汽船に似ているのって、ないんですよね。 離岸はバウスラスターで出来るとして素早い着岸回頭はタグボートの出番
それを見てゆっくり下船できる時は列車まで時間がある時、指定席でも函館は走る 函館は早くホームに行かないと立ち売りの三平汁が売り切れるんだよな
あれと鰊みがき弁当が自分の定番だった 函館、青森駅での駅弁はとうとう食べる機会が無いまま。
親が「まりも」や「大雪」の食堂車好きで。 >>498
青森側は難しいが、函館側は風にもよるがタグなくてもつけられる。 桟橋に敷設されているフェンダー(緩衝材;主に硬質ゴム)の設計をする時は、
風が船を桟橋に押し付ける方向に吹いていると条件がきつい。
ボラードはどうだったか、忘れた。 青函連絡船のさん橋の緩衝機構については、いろんな本に出てるよ。
表面鉄板で、フェンダーそのものは露出していない。 さすがに古タイヤじゃない罠、縦のゴムみたいなやつだっけか記憶にないな
岸壁の整備も大変だったろうに 宇高連絡船の伊予丸では、第三宇高丸に客室を設けたような形の前積み。
狭い瀬戸内海での運行では、前積みの方が動きやすいから。
紫雲丸では、普通の後ろ積みの船。
ワム型15トン積み貨車なら14両、ボギー車なら6両を積載する。
この積載数でも、当時は用は足りたのかな? さあねえ、青函は貨物型まであったから
戦争と洞爺丸台風では悲劇で失われたりね >>507
洞爺丸に乗船した事がある、って言うと歳がばれるけど、
青函連絡船の車両甲板に出し入れする橋は
航行中も扉は無かったから開けっぱなしだった。
15号台風遭難事故前は
かなりの荒天でもそれで航行をしていて、
波と直角に進路を定めれば安全性は余り損なわれないと意識されていたらしい。
嵐が来る時に港の設備が貧弱な時は、
港外に避難するのは「ヒーヴツー」(風上に向かって波に直角に)の常識。
津軽海峡は連絡船の数に対してそれだけの広い海水面が無かった。
事故の要因はそれ以外にも沢山ある、と後で知った。 >>508
この板私は初投稿ですが、洞爺丸乗船とは凄いですね。
また投稿楽しみにしてます(^^) 生きてるやつが青森にイルカはいないとかえせ知識ばっかり >>512
青函連絡船に乗っていて、
一緒に泳ぐイルカの群れは
陸奥湾で良く見掛けたよ。
・・・悪いがまだ地上で生きている。 長生き乙です
青森を深夜出る便の出港すぐに伴走するから目が良いのかなイルカ イルカは、聴覚が鋭いので、目は関係ないんでわ?
専門家じゃないから分からんけど >>513
うらめしや〜
ワシが乗った洞爺丸は沈んでしもた〜 かつて、翔鳳丸型でも、大荒れで車両甲板に波が打ち付けた事例もあるが、後ろを濡らす程度にしか過ぎなかった。
荒波が打ち付けて、滞留しだすほどまで至ったのは洞爺丸台風での事故が最初だった。
洞爺丸では、排水性の悪い車両甲板の構造だったことも災いし、被害を大きくする要因にもなった。
生き残った洞爺丸型(羊蹄丸(1代)、摩周丸(1代)、大雪丸(1代))では、排水性を向上させる
改造工事を受けた上に、後ろに扉を設けることになった。
図書館の本で読んでわかった結果。 連絡船に接続する列車では乗船名簿の用紙を車内で配布してたんだな
普通車とグリーン車で色が違ってた
今だったら自宅でPDFで印刷して持参も可能で一部の船舶で採用されてる
EXCELファイルだと必要事項を入力してから印刷可能で手書きしなくていい 接続する連絡船は十和田丸云々と車内放送の後レチが小さめの名簿用紙配って回るんだな 乗船名簿は船員法で規定されている
宮島航路は距離が短く適用対象外 >>520-522
青函連絡船への乗船は接続する急行列車の乗客が優先だった。
だから青森・函館から連絡船だけに乗る時は、
少ない配布枚数の乗船名簿用紙を入手するのが大変だった。
函館の湯川温泉や青森の朝虫温泉に滞在して連絡船で帰る客には
旅館の番頭さんが早朝に桟橋出札に行ってそれを入手するのが大仕事だった。
特に年末年始はお盆の帰省時期には大混雑で一苦労。
ちなみに接続する急行以外のローカルの列車からの経験は無いので知らない。 北海道って、終戦直後は都道府県別人口で最大だった
函館青森が栄えた訳だわ >>526
実体験だよ、団塊の世代だから。
洞爺丸にも乗った事がある。
しかもそのあとの昭和天皇皇后両陛下の
北海道への行啓幸でお使いになった
1等船室だったと言う自慢の体験の持ち主。 >>527
>函館の湯川温泉や青森の朝虫温泉に滞在して連絡船で帰る客には
>旅館の番頭さんが早朝に桟橋出札に行ってそれを入手するのが大仕事だった
これは?
番頭さんだったの? 浅虫温泉は遠いねえ
乗り継ぎでしか乗船してなかったから定員の苦労は知らんかった 乗船名簿は家でコピーしたの持参しても大丈夫だった?
偽造防止対策とか特にされてなく青焼きコピーを駅で渡してたみたいである >>528-530
旅館の下足番から宿泊客の色々の世話をする男衆を「番頭さん」と言っていた。
乗船名簿の用紙は乗船する便ごとに枚数が決っていて、
当然便名のゴム印(日付も)と番号が入っていたと思うよ。
しかも乗船乗車券の発売とセットで配布したのでは?
だから用紙は何枚も持ち帰りが出来た訳で無くて、
コピーなんかもっての他だったと思う。
しかも白焼きコピー(昔はXeroxで呼ばれた)が普及し始めたのは、
昭和40年代になってからで、
洞爺丸乗船した昭和20年代はコピーなんて夢の時代・・・
流石に浅虫温泉からは番頭さんが出向くのは大変だから、
青森駅桟橋出札には旅館組合の常駐の係が通っていたのではないだろうか?
(他の温泉のお客の乗船名簿の世話も一緒に) >>531
そんな推測並べられても少なくとも>>528への答えにはなってねえな 乗船名簿なんてデタラメ書いてたな〜
田村正和とかミック・ジャガーとか
乗船前に桟橋で箱に入れるだけだったし >>533
15号台風での洞爺丸遭難以前は、
乗船名簿の記入はほとんどの人が真面目に書いたし、
(隠れた目的で旅行する時は知らん)
その代わり遭難事件の後は、
まさかもう沈没はしないだろうと
いい加減な記入は増えたのだろうな。
宇高連絡船の紫雲丸の事故もあったから。
その後は日本では大きな海難事故は発生していないし・・・ >>530
家でコピーとかお前絶対現役時代しらない世代だろ >>531
乗船名簿とボールペンが一緒に洗面所にぶら下がっていたのを見た事ある
但し普通船室用だけで、グリーン寝台用はレチから貰う必要があった
583系と485系の特急車両のみだったと記憶している
はつかりの場合、浅虫付近で
レチが回収に回ってくるのも当時の光景 「レチ」って何だろう?と、思って調べたら「車掌」の事か 懐かし板に来るくらいの人間でその疑問が出るのは不思議だな
コピーの話もだけどなんか若い人が無理矢理話に絡んで来ようとしてるね 昔を知るのは善い事、知識だきひけちらかして空気壊さぬようにね
救命胴衣のつけ方も見とくんだぞ レチ、レチチは相当にマニアックだけど
カレチさんってそれなりに知られていたように思うが。 使用済みの乗船名簿はどうやって捨ててたんだろうか?
あの当時は個人情報保護法なんてものはなく住所・指名が書かれた紙を平気で燃えるごみとして捨ててた?
流石に海洋投棄はしなかっただろうが
今だったら運行終了後シュレッダーで処理しないと個人情報漏洩の危険性がある 青函連絡船の廃止直前と
昭和30年代でも時代の違いがありそう。
洞爺丸乗船経験の世代にとっては、
「北斗」のC寝台〜連絡船1等船室〜「まりも」特別2等車が頭に。
(123等制の時代)
鉄道3等で旅行する人も、
青函連絡船の3等は車両甲板の下が船室だったから、
『異』級乗車券を買って、青函連絡船だけは2等に乗船するのが通だった。 「異級乗車券」
「車両甲板の下に船室」
もう訳分からん 「車両(搭載)甲板の下に(3等)船室」
洞爺丸遭難事故以降の連絡船は、
大型化した事もあって
123等全ての船室が車両搭載甲板の上の構造に設けられたけど、
遭難事故以前の旧型の青函連絡船では、
3等の船室は乗船入口は勿論桟橋と同じ高さにあったけど、
長い階段を降りた一部喫水線の下にも船室があった。
(上の階に線路が敷かれた車両搭載甲板があった)
それを嫌がって連絡船区間だけは2等の「異級乗車券」を買うのが
津軽海峡を旅する旅慣れた乗客の常識だった。
何しろそうしないと甲板で過ぎゆく浪間も眺める事も難しいのだよ。
洞爺丸転覆事故では12等の乗客も脱出出来ないまま犠牲になったけど、
3等の乗客に至っては外の様子も分からないまま、
いきなり「ポセイドンアドベンチャー」状態で閉じ込められて・・・
一般の客船でも例えば昔の伊豆七島に向かう東海汽船でも
小型船の3等は壁が船底そのままに斜めになって不気味だった。
(学校の行事で乗船して団体だったからしょうがなしで) >>545
「異級乗車券」は上の「車両甲板の下に船室」にも関連して、
何時まで制度があったか知らないけど、
123等、後の12等制度の時に、
元々1等または2等で旅行する乗客が、
鉄道区間でも3等(のちの2等、今の普通車)しか
運転していない区間を挟んで旅行する時に、
乗車券を買う時にその区間を申告して指定すると、
その区間は下級の料金に差し引いて運賃計算して発行される。
本当の金持ちはそんなセコイ事はしないけどね。
昭和30年代頃までは幹線だと普通列車にも半車の2等車がよく連結されていた。
乗車券の地紋が3等は薄赤で、2等は薄青、1等は黄色だったから、
異級乗車券は上の等級の色で発行されたから所持していると鼻が高かった。
連絡船区間の運賃は鉄道区間キロ程通算とは別の等級別運賃だったから、
差額の計算も楽で簡単に「異」級乗車券が買えた。
鉄道区間でも一部だけ12等とする「異」級乗車券が買えて、
下記の様な遣い方が出来た。
(1)特急「つばめ」「はと」にしか無い、最後尾の展望車のデッキで
出発の見送りに答えたいコスい成り金見栄っ張りは、
展望車は1等乗客しか利用が出来ないから、
東京〜小田原位までは1等で後の目的地大阪までは2等の「異」級乗車券を買った。
(2)地方の事業所の幹部社員・家族が転勤で任地を離れる時は、
規定で2等旅費が支給されるから、(今なら飛行機でビジネスクラス?)
いきなり本州方面の接続急行に乗れない駅でも
普通列車の半車2等車に乗り込んで社員の見送りを受けるのが習慣だった。
心ある幹部社員は3等で構わないと言うが、
(乗り換えた先の急行列車では特別2等車に)
庶務の社員がそれでは示しが付かないので是非2等でと懇願して。
そんな時に列車が空いた時期なら始発駅からなら3等でも大丈夫で、
「異」級乗車券を買う事に。
セコい社員は全区間2等の乗車券は乗り換え駅で払い戻ししたりして
「異」級乗車券に買い直して差額をせしめる輩も。
社員や役人の出張でも階級で2等乗車券が支給されるけど、
同様に差額をせしめる奴もいたそうな。
何しろ2等は3等の倍額で1等は更に倍額だったから。
急行料金も等級で違って高価になった。
私の世代の2等乗車券のイメージは、
今で言うグランクラス位の値打ちがあったね。 ちと長いが歴史の勉強だな
さすが船底は知らん、親は船底のが揺れないと言ってたが強がりだったのか 船現物を知らなくても洞爺丸事故の経過やその後の代替船(初代 十和田丸や津軽丸)の構造改善を読めば、三等が船底だったコトは自然と知りそうなもんだがなあ。
知識経験があるから偉いかタコとかじゃなく、末期に自分の見たまま以外まったく関心が無いなら寂しいね。 多分実体験として知らないって意味じゃないかなと読めるんだけど 船底とか書いてるが、実際には船底じゃなくて第二甲板。
車両甲板の1層下で、床面よりちょっと上が喫水線。 高齢者は意固地になりやすいの、分かってるのに
「番頭さん」の件で、執拗に突っ込んだ奴は誰だよ >>546
洞爺丸形なら、三等でも椅子席なら下部遊歩甲板だから、
車両甲板の下まで行かなくても良かったのでは?
車両甲板下の第二甲板にあったのは三等桟敷席だけで、
他の三等施設は下部遊歩甲板にあったはずなのだが。 >>553
好き好んで3等の船底の船室に乗った訳では無い。
その端艇甲板の船室は競争が激しくて。
混んで座れなかった3等急行の旅や、
本州の夜行急行で3等の硬い座席に座って過ごした後は、
青函連絡船の4時間半で寝そべって背筋を伸ばしたり、
洗面や食事と短い休息の時間だった。
だからちょっと余裕がある馴れた旅人は、
差額を払って2等船室に「異」級乗車券を買って乗った。
ちなみに昭和29年で3等が220円で2等は440円。
その差額の価値は当時日雇い労働者の日給が
彼らを通称ニコヨンと呼んだ254円だったから想像出来る。
2等船室なら洗面所も明るくてお湯がたっぷり出るし、
食堂はメニュー豊富で美味いし、売店も花盛り。
1等船室は1780円で高値の花、
ボーイさんもいて何かと世話を焼いて呉れる。
坊っちゃまと呼ばれたは人生でこの1回だけ。 >>551
「船底」は言葉の綾で固定閉鎖の丸窓から外を見ると、
目の前に海水面が広がって港外に出ればちょっとの波で
窓ガラスが洗われる。気分は水没・水面下・船底だよ。
後年アムステルダムで泊った安ホテルが
床が水面下で目の前の運河をボートが通る度に
波が窓下に打ちつけて落ち着かない夜だったよ。
共に「板子一枚下は地獄」とは良く言ったもの。 船底へ行くには乗降時間かかりそうだな
二代目は入口広くて売店があった
そしてマリンガールなる案内の人? >>556
その通り、
接続する急行の3等は自由席しか無かったから、
(函館、青森)桟橋ダッシュで先頭を走るには、
到着時刻より早めに下船口で待ち構えていないと出遅れて大変。
だから下の船室の奥なんかに乗っては最悪。 この人妄想入ってるよね
結局「旅館の番頭さん」の件まともに答えてくれてないし 正論だと思って他レスを真っ向否定する発達の臭いがする
それが嘘だったり >>554
そういう話を聞くための書き込みではなかったんだけどなぁ。
まるで「三等船室全てが第二甲板にある」みたいな>>546の書き込みに対する
「第二甲板以外にも三等船室はあったでしょ」っていう確認のつもりだったのだが…。
これは大事なことだけど、洞爺丸形では「端艇甲板」には船室はなかったよ。
本当に乗ったことがあるなら、知ってて当たり前のことなんだが…。 ここに書き込む諸兄はほとんど、
学生や成人してから専門的な知識も探査吸収しつつ、
乗り船をした経験で語っているのでしょ?
それと幼い頃から小学生位で洞爺丸に乗った経験と
比べるのは無理じゃない?
60年も昔の社会の仕組みは
当時の人しか実感としても語れないし、
歴史として聞き置けば勉強にはなるから。 末期が消防厨房の頃ではあったけど覚えてるものです
十和田摩周八甲田ばかり当たって当時は不運と思ったが青森函館に残って逢えるから今となっては良かった
まだ函館市電の海岸通り線があってニセコ待ちに市電乗り潰したりね 宇高連絡船のホーバーを青函連絡船に転用は不可能
波が荒いのでスカートが破損する危険性が高い
ジェットフォイルがかつてあって1時間40分で結んだが短命だった
ナッチャンReraも短命だったが引き波が強烈すぎて漁業被害が出たのが一因である 八甲田丸や摩周丸の保存に、JR東日本やJR北海道は関わってないの? やー。洞爺丸乗った人の話おもしろいっす。
当時の日雇人夫の日給と乗船するだけの金額が同じってことは
現在だと1万くらいだろうから連絡船乗るだけで1万かかるってわけだ。
俺が最初で最後の連絡船って高校さぼって松前線に乗りたかったんだが
時間的に無理で江差線の途中駅で引き返した思い出が・・・
周遊券の値段が行き帰りの急行券込みで3万行かなかったと
思った。当時は連絡船見納めなはずだが、そんなに人がいたって記憶ないな。今なら葬式鉄がたくさん押し寄せるのだろうが。 連絡船終了後に、一回イベント運航があって
客が1人だけだったって噂聞いた事あるけど
話の出処憶えていないからデマかも ちょっと調べたら
廃止の半年後に復活運航があったのか
列車の接続はしない観光船で夜はホテル!か
当時、話題になった記憶がないけど
この時乗った人、ここにいるのかな 廃止された同年6月から9月まで1日2回運航
この時、一回くらい乗客1人の日があったかも知れないけど
分からない 江差線で折り返した駅思い出した。
わらびたいって駅だったと思う。
夜の便で青森に戻ったが、食堂なんて俺一人だったな。
三平汁と何か名物を食ったな。
その1年後だか2年後に宇高連絡船に乗ったな。
宇野と高松行ったり来たりした。ホバーも乗って食い放題のアイスも
もちろん食った。 大分でホバーの余生に乗った、波しぶきすごかった、空港の陸に上がってからぐるぐる回って遅かった
思えば青函で車運んでたがいつ載せたのやら、5〜6台なら時間はかからんか >>570
ノシ
土日祝は行楽客や青函博がらみの利用者でグリーンを除いてそれなりに埋まってた。
平日1人しか利用者いなかったのって記憶あるけど、夜間のホテル利用者のことで新聞に載ったんだっけかなぁ。
いい場所取ろうと構内からダッシュして乗船口の橋に敷いてる緑色した凸凹マットが滑って大コケしたのも思い出。 >>575
アンコール運航開始と青函博開幕に一ヶ月もギャップがあるからねぇ。
今考えてもやけに早すぎた感があるが、休止期間は三ヶ月以内とか制限があったのかな。 >>575
うわぁ
本当にありがとう
1人乗客のエピソード、記憶違いじゃなかった
でっかい船に1人だけ乗船とか、自分だったら精神的にキツいかも
だとしても、1人だけで乗れたら良い思い出だよなぁ >>578
すまん。
今wikiで調べたが湯ノ岱だな。
遠い記憶の彼方だからごっちゃまぜ。
金も時間も制約ありまくり(今もそうだけど。)だから江差線完乗できないまま廃線になり。本来の目的の松前線も時間で乗れなかった。 3月が熱狂的なお祭り模様だったせいか、アンコール運航はどうしても冷めた扱いが多いんだよね。
年表でも何も触れないとか。
だけど日に2往復便とはいえ各船には正統なクルーが乗り組み、タグや地上要員の皆さんが支えた紛れもない青函航路だったのですよ。
末っ子の十和田丸が回航で大トリを飾ったけれど、別れを告げる涙声はずっと忘れない。
なお、東奥日報1988年9月20日朝刊には、写真との二段ながら回航便出航の光景が掲載されている。
桟橋の光景や乗組員の切ない心情をまとめた秀逸な記事だけど、さすがにバックナンバーは無いだろうなぁ…。 アンコール運航とか復活運航ではなく、正式には「暫定運航」というのだそうだ。 >>582
当時大学生だった自分は復活運航も東京から通いました。JR東3日間乗り放題15000円のE Eきっぷがあったからね。バイト料をつぎ込みました。
6月初めの青函博が始まる前は本当に空いていて、後部桟敷は基本閉鎖していました。
食堂やサロンも売店も普通に営業していたし、シャワーも使えました。
洗面所のカランがカーテンで区切られて、今で言えばシャンプードレッサーみたいに改造されてました。また、案内所で売っていたD型硬券のデザインは変わっていました。
6月3日の1便は出航式があったけれど、ガラガラでした。6月中は空いてて、ブリッジだけでなく、気軽に車両甲板や総括制御室とか見せてくれたし、航行中に船尾扉を開けてくれたりしてくれました。
7月位から船内ツアーって形になってたけど、航行中の船尾扉を開けるのは運輸省に言われてダメになってました。やってた便もありましたが。
羊蹄丸の車両甲板には3月13日22便の黒板がそのままになっていて、清水50t、乗用車◯台(台数は忘れました)、さようなら、と書いてありました。
夜はくつろぎカードで十和田丸も羊蹄丸も泊まりました。企画券で9月18日の最終日まで一斉に売り出したんだけど、1ヶ月前からと思ってる人が多かったのか、あっさり取れたんで、びっくりしました。
9月18日の4便はシャッターが開く前から並んでみどりの窓口に走ってグリーン船室が取れたのは嬉しかった。
回5001便は青森で見送りました。自力で動いている連絡船を見たのはそれが最後でした。ちなみに動いてる連絡船は羊蹄丸の回航が最後です。
長い思い出話ですみませんね。 海峡編成はトンネルで潜ってる場所が表示されたりトンネル壁に残像で絵が出る演出があったが
それすら昔になった、新幹線が逆に遠い存在 北海道新幹線な
あれほど、地元のニーズ無視した交通機関も珍しい >>584
レスありがとうです。
船尾扉半開はRJ誌の1988.09月号の羊蹄丸レポにも紹介されてましたが、指導を食らったとは当時は知りませんでしたね。
貴兄が乗られた最終4便を安方岸壁で待ち受けましたが、旋回すると船尾扉は半開しており明かりが煌々と灯された空の車両甲板が印象に残っています。
「これで最後だから!」で夕凪の陸奥湾を眺めたんだろうな、と想像してました。
この日曜夜も船上ホテルがあって回航が翌日になったのは当地の住民として幸いでした。
待合所のベンチを積み込んだのはそこそこ知られていますが、乗船案内パネルにはきちんと十和田丸の船名と照明が入っていました。
乗客のいない回航でも最期まで函館行きとして送り出す…はなむけと心意気だったのでしょうね。 >>588
新幹線、在来線特急共に中国人が多数
外国人パスが有るから殺到するんだろうな >>590
外国人専用パス廃止
日本人専用パスを作れば良い
高速1000円効果と同じになる。
中国人が増えても日本人客が逆に減るし… >>586
函館駅と青森駅の間の移動が大変になったともいえるからな 青函フェリーは駅から遠いのかな
海を渡った感が渡道のミソだったからトンネルは便利であっけなく > 海を渡った感が渡道のミソだったからトンネルは便利であっけなく
そこを解ってくれる乗り鉄が、年上の人でも減っちまった。
「北斗星」に乗って目が覚めたら北海道!って、「つまんねー」って思ったのは俺だけか?
(実際に乗ってみてつまらなかった)
まだ新幹線と特急で乗り換えながら行った方が楽しかった。
今も北海道に乗り鉄で行くときは、青森と函館で乗り換えすることをマイルールにしてる。
現在だとどうしてもフェリーになっちまう。 青森駅と函館駅からフェリー乗れればな
もう何度目だろうか、この愚痴
後、本線を第三セクターにして、経営分離するのも何なんだろう
鉄道から自動車へ主要交通機関変えるなら、自動車の利便性高める様にするべきだが、それも無い
地方の交通インフラについて、長期的な展望が、まるで感じられない 「日韓トンネル」物流利益は年間2253億円 対馬・壱岐経由で利用・収支予測 日帰り圏拡大 新たな観光需要
最終更新:7/6(金) 0:58
長崎新聞
7/5(木) 12:47配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180705-00000007-nagasaki-l42
韓国から対馬・壱岐を経由して九州へ至る「日韓トンネル」構想について、西南学院大の野田順康(としやす)教授(開発論)が利用・収支予測をまとめた。
物流は年間営業利益を2253億円と試算。
旅客は試算から外したが、「日帰り圏が韓国南部と九州・中国地方に形成され、新たな観光需要が期待される」とした。
野田教授は元国土交通省国土計画局総合計画課長。日韓トンネルの検討もしたという。
今回は日韓トンネル実現九州連絡協議会などから調査依頼を受けた。
2020年着工、30年供用開始と想定し、総貨物輸送量を韓国、ロシア、中国との間の輸送実績から推計した。
国交のない北朝鮮は韓国との人口比などを基に算出。
これに英仏海峡トンネルの利用状況を反映させ、3276万トン、655万TEU(1TEUは20フィートコンテナ1個)とはじいた。
この量を運ぶには鉄道18万両が必要となる。1両当たりの通行料金は英仏トンネルが約45万円のため、距離に比例し約5倍の225万円と設定。
年間収入は4095億円、営業利益は英仏トンネルの利益率を適用し2253億円とそれぞれ見込んだ。
建設に向けた資金調達と返済の方法も検討した。建設費を10兆円と想定。このうち4兆円を出資で賄い、着工3年後と6年後に
それぞれ3兆円ずつ融資(利率1%)を受けることで確保する。
30年の供用開始から元利均等償還すれば35〜50年後に完済すると予想した。
野田教授は「東アジアの平和と安定が実現し、十分な出資とソフトローン(貸し付け条件の緩やかな借款)が供給されれば実現可能」としている。
日韓トンネルは戦前から構想があり、1980年には大林組がユーラシア・ドライブウェイ構想の一環として提唱。
現在は国際ハイウェイ財団(東京)が対馬、壱岐、佐賀県唐津の3市内で調査用斜坑工事を進めている。 >>596
中国と韓国の間に北朝鮮があるだろう
政治的に安定しないと無理 青函連絡船では、いわゆるごろ寝できるじゅうたん席は正式いは「座席」、または「じゅうたん席」、椅子のところは「椅子席」と言っていた。
規程やマニュアルなどもすべてそのようになっており、少なくとも乗組員は桟敷などとは言わない。 所要時間3時間50分だが寝台あったんだな
ただ夜中や早朝に移動とかあって睡眠時間が十分とれなかった? 寝台、通は往復取って、折り返しでは起こさないでもらったものだよ。
折返し便が客扱いしてないとダメだけど。 >>559
>>601
1974年から1988年まで青函連絡船に乗ってきたけど絨毯の
席は桟敷席って言われてたよ。事務長も船内放送で桟敷席と
いう名前で述べてたし、交通公社の北海道時刻表でも青函連絡船
見取り図のページに桟敷席という記述があった(1976年頃)。 >>596
中国の高速道路で、開通と同時に崩壊するダンボール戦機の高速道路という洒落にならない事例があったくらいだからね。
製造技術の未熟さが災いし、開通したと同時に落盤事故でおじゃんになるだろうな? >>604
私も同じ頃青函連絡船に乗務していたが、規程、マニュアルのほか、図面でもじゅうたん席は「座席」となっていた。
ただ、「座席」でわかりにくいこともあったので、そのようなときは「じゅうたん席」と言っていた。
お客さんの間でどう呼んでいたかは知らないが、正式には「座席」が正しい。 グリーン桟敷は指定だから座席なのかな
救命胴衣とか仕切りがいろいろありそう >>609
折角貼ってくれたけど、肝心のところがボケて見えない 一般の旅客の間で「桟敷」という言葉が使われていたというのはともかくとして、
正式名称が「座席」だというのは八甲田丸や摩周丸に行ってみてもわかる
>>600は「朱色5号って何?タラコだろ」って言っているのと似たようなものでは? >>608
グリーン船室、普通船室ともに「座席」と言われていた。 グリーンの座席って何が違ったの?
絨毯がふかふかとか? 椅子よりカーペット座席のが倍位なんだな
寝転べる座席?ばかり使ってた 座席より椅子席のほうが一人あたりの占有面積が大きいってことだね。 グリーン指定席の深く倒れる独立シートは良かったね。
大揺れの際には座敷に寝そべってるより楽だったような。 幸い縦によぉーっと揺れるだけの静かな航海しか知らん
時化の航海は如何だったでしょうか 焼山沖でのぼせるときはピッチングとローリングのまざったような揺れが続き、船首を波に突っ込むと「ドーン」という音と振動、数秒遅れて「ザーッ」とかき上げた波が降ってくる。
30分〜1時間ものぼせたあとに落とすと、揺れが変わる。 >>624
今もカーフェリーならどこでも味わえるよ。
水と鉄の塊がぶつかると、こんなにズシンズシンするかと驚かされますな。
船尾にいると時折プロペラが海面に出てしまい、ブーーン!と空回り音が響くこともある。 【皇室】秋篠宮妃“紀子さま”と“美智子さま”の『異常性』〔心理学悪用編:小室眞子さま〕★2
ICU大学時代、山守さんも小室さんも同じスキー部員だったとの話。
そのスキー部に眞子様もいた事実。
少ない人数のスキー部内で男を、とっかえひっかえの眞子様。
しかも小室さんに乗り換えた後、山守さんも居るスキー部で活動継続。
小室さんに騙されたとかいう風潮は、あまりにもおかしい。
2012年の留学中に英国で知り合ったアジア人や日本人とも関係を持って・・・(以下略)
詳細は、以下のスレッドでどうぞ!!
〔2chのスレッド〕:https://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1532735877/
〔記事元〕:http://www.laf.im/yahoo_co_jp-news-20180703 青函航路の場合、海峡部を越えれば何とかなるからな。
陸奥湾に入ったーとか、松前半島の影に入ったーとか
ホッとする瞬間。 ボーイング747の出現で青函連絡船が斜陽化したよな
1980年のダイヤ改正で函館中心から航空機利用による千歳空港を中心としたダイヤに変更された
しかし今度はボーイング747が4発エンジンで燃費が悪くほぼ同一定員で平屋で双発エンジンのボーイング777に置き換えられ国内からは引退して世界的にも減少してる 青函連絡船じゃなくて、鉄道そのものが斜陽化したんだよ。
すでに長距離旅行の手段として、その役目が終わっている。 飛行機に乗りたくない人にとってはやはり鉄道に頼りたいが、近場すらお金かかるようになったのはねえ…。 都市近郊の通勤路線以外は無用の長物。
消え去る運命といったところか? >>633
JRの本音は、新幹線網使っての旅客・貨物輸送、大都市近郊区間、リニア、
関わるのはこれだけにしたいんだよ。
残りは国道バイパス、遊歩道、にでもしとけってね。 >>634
新幹線貨物は、今のところ実現していないのは何故? >>635
大型物資を大量に運べない
貨物輸送により、旅客輸送ダイヤに支障をきたす >>635-636
貨物ターミナルを今から建設しようにも適当な用地が見つからないだろう。
あと、コンテナの規格をどうするか。 青函連絡船は2000円で行けたのに北海道新幹線で高騰してしまったな
運賃が年々高騰している
青春18きっぷオプション券は金額的にフェリーと変わらないが使ってる人いるのか? 安い運賃で昔みたいに上野から寝台特急(はくつる、または、ゆうづる)に乗って、青函連絡船で津軽海峡を渡り、おおぞら、おおとり、北斗で札幌に行きたい。
叶わない願いだけど。 >>638
利用費の高騰=かさむ維持メンテナンス費用って現実問題もあるからなあ。
ならばこそ様々な種別列車を走らせて、誰でもウェルカムって姿勢が欲しいものだが…。 おっさんですが、45年前の今日あたり、初めての北海道旅で急行「八甲田52号」(だったかな)で青森に着き、初めての連絡線に乗船しました。「八甲田丸」でした。思えばこの年が連絡線の輸送人員が最大だったんだな。 往時知ってると、今の青森駅、脱け殻みたいで唖然とする。 青森駅は単なる通過点で、駅周辺の記憶はほとんどないな。
駅には用がなくて、さん橋待合室は泊りも含めてすごく多用させてもらった。
1席ずつに区切られていない長いシートは仮眠に最適、冬は暖房が聞いて暖かく、洗面所もお湯が出て、夏は開け放した窓から潮風が心地よかった。
何便か見送ってのんびりして、その間に普段なじみがない貨物船の入港もゆっくり見られた。 函館さん橋の椅子は1席ずつに区切られたFRPのやつで、しかも夜、2便が出ると待合室を追い出された。 青森は下りて階段上がって右行けば近かった
平成も後になって八甲田丸に再開するんで初めて青森駅出た
函館はニセコ待ちで途中下車したもの >>648
函館って畳敷きのエリアが無かったっけか。記憶違いかも >>648
そうなのか?
おいら函館で一晩過ごしたけど。
たしかに椅子では横になれなかったな。 青森駅の女性待合室は畳敷だったような
函館駅のは記憶にない 青森の桟橋待合室にお土産やさん(キヨスク)とコーヒースタンドあったなあ。
あそこって考えてみると桟橋の先っぽの方でほとんど周りは湾内なんだよね。
暴風雨の時なんかちょっと場所的に怖かった。 いや、青森さん橋の位置は、西側は舟入澗、その先は油槽所、東側は1岸のスペースの先は安方倉庫(その後、最後の時期だけアスパムなど)だったので、まわりが湾内ということはない。 全体的に見れば、しいて突き出していたのは3岸程度だろう。 >>652
時期とか年代で違うのでは?
大昔はターミナル駅で寝泊まり可能だったみたいだし >>653
子供の頃、金魚ねぶた買って貰った思い出 >>655
周りに建物が無い待合室は風当たりがあるから“湾内”って感覚を覚えたんじゃないかな。
青森の街自体が陸奥湾の南端だしね。
厳密に防波堤内だから外だからって定義つけなくてもよいと思う。 八甲田丸や摩周丸の保存に今のJRは関わってないの? >>660
かかわっとらんよ。
函館はJRが撤退して何年になるか・・・?
お荷物になるものはいらないんだよ。 >>661
八甲田丸の車内にはJRの車両がたくさんあるのだが >>662
元JRの車輌な。
あるからって、だからどうしたって?
八甲田丸も摩周丸も、今現在どこが管理しているのかを言ってるんだろ? >>662
元JRの車輌な。
あるからって、だからどうしたって?
八甲田丸も摩周丸も、今現在どこが管理しているのかを言ってるんだろ? 雨がすごかですね。
このままでは、”テケミ”せざるを得ませんな。
連絡船の船乗りなら、この略号が通じる。 >>666
あのぉ〜
風が弱くなってわずかに日がさして来たんですけど・・・ 台風が去ったと誤解して出航、七重浜の悲劇に至る運命であった
遭難方々へ南無阿弥陀仏、ご供養 津軽とあけぼのは連絡船との接続悪かったと
J-Trainに書いてあった 連絡船待合室で、ゆっくりしたいので、接続良過ぎるのも考えもの >>670
奥羽沿線重視で役割が違うからね。
航路接続はいわば余技。 八甲田も連絡船待ち一時間位あったかねぇ
津軽は待ち悪くて使った事ないな >>672
だけど大阪からのでも接続悪いパターンが多かったんだよなあ
日本海の二本目のと白鳥くらいだものまともな接続の奴は 非常時の貨車の海洋投棄の実験したことがあるが今だったら実験後に投棄した貨車を引き上げないと海洋汚染の問題が起こりそう
それも鉄製の傘を貨車に取り付けて非常時に海に投げ落とすことで水圧で引っ張り投棄するという豪快なものだった
昔は船内で出たゴミも海に捨ててたとか今じゃ考えられない >>670
そりゃ書いてあるだろな。
元々が秋田・青森の地元向け列車だからな。
ゆうづるにだって、東北向け(北海道連絡を考えていない) 送信しちまった。
ゆうづるにも東北向け列車があったんだから。 トンネル開業後も「はまなす」に接続しない最終はつかりは走り続けた(時刻は少し繰り上がったが)
1便ありし頃は乗り場や名簿記入とか定番の案内に加えて、奥羽線方面白鳥号は明朝だから桟橋待合室へ行くように放送されたもんです。
トンネル開業後は当然それらは渡道客と共に無くなったけど、国4を行き交うトラックを眺める夜汽車風情はずっと好きだったな。 青函博記念で八甲田丸船長の名前入りポスターが家に貼ったまま。昭和63年8月15日の日付。
ただ昔からの疑問が。
この船長が青函トンネル開通の番組にも出ていたのだが、その時は違う船名の船長と紹介されていた。何度も見たから間違いない。
船長っていくつもかけ持ちとかしてたんでしょうか?あるいはテレビ出演時は他の船、サイン当時は八甲田丸の船長になっていた?それともサイン用に八甲田丸船長に扮していたのかな? >>680
連絡船の船長って列車長みたいなものじゃね?
新幹線の列車長も常に同じ車両担当じゃないみたいな 青函博のときの八甲田丸だったらK船長だろ?
青函博当時、青森桟橋長兼展示船の船長。
63年1月までT丸乗り組み船長。その後船員区船長。
T丸の前はH丸だったか?
船長でも、貨物船→客船、組別ではC→B→Aと席次が上がるたびに、ほとんどの場合船も変わるから異動は多いよ。 とくに、3月13日以降はJR北海道に残った人たちだけだったし、乗組員の乗務も船も終航前とは違ってた。 >>683
そうです。Kさんです。
異動は多かったみたいなんですね。
レスありがとうございます。 K山さんは1月に大雪丸が引退して以降、乗り組み船長休暇時の代務やメディアの取材対応もされてたよね。
今はつべから削除されたが「新・日本の駅(番外編) 青函連絡船」1988.03.11本放映?にもホスト役をされてる。
津軽丸船内で産まれた子が数年前に事故で亡くなったことに沈痛な顔をされてた。
後年、横浜大桟橋へジャパニーズ・ドリームを見送りに行った際、ブリッジのK山さんに手を振ったらにこやかに帽を振り返してくださったな。 k山さんは齢83かな。
ご健在ですか?
長崎でお世話になりました。 ちなみに今もつべで見られる動画に大雪丸のがあり、青森出港後のクルー紹介放送で『本船の船長はS田XXX、事務長は…』というのがあります。
このS田船長こそアンコール運航で十和田丸に乗り組み、最後の函館行き回航5011便の大トリを務めた方です。
(新聞には実名掲載あり) >>686
代務で乗るのに乗組船長の代務、と限定することはなかった。
相手が乗組船長でも専属船長でも、休暇を取った「船長」の代務で乗る。 >>689
何年ごろの動画でしょうね?
Sさんが大雪に乗っているなんて、S60年以前? 今度の台風21号は強いまま海峡西〜日本海を北上しそうですねえ。
予想天気図を見ると必ず青函連絡船遭難に思いを馳せてしまう。
しかし今でもカーフェリー会社は、いつまで走らせようか止めようかを悩む立場に変わりはない。
どうかフネに関わる総ての人々がただただ無事にありますように! ナッチャンreraは短命だったな
ジェットフォイルも消えた
高速船は水の抵抗が大きくてどうしても燃費が凄まじく悪化してしまうので運賃が高くなってしまう
小笠原TSLがぽしゃってしまったのは燃料費高騰のため >>693
水の抵抗が少ない船形そのものはとうの昔に出来てる。
波高が年がら年中変わる海域では高速を発揮できず、投資効果が得られないからだ。 ナッチャンReraは引き波が洒落にならない位凄くて漁業被害出てしまった 高いカネ払って時間を買う需要のない地域、ってことだね。
いまや、青函フェリーがいちばんいいんじゃない? >>693-694
インキャット社製の高速船は、荒れる海には向かないからね。
それでもなんとか高速フェリーをやろうとしたけど、リーマンショックがなぁ…
>>696
それは「ゆにこん」時代の話では? >>697
青函フェリーって最近新しくなったんだっけ? 高速船は、ジェット機と同様に燃料どか食いだからな…。
水の抵抗を乗り越えて、船足を36ノットや48ノットなどと速くすると、燃料消費量が多くなる。
ガスタービンエンジンはターボプロップエンジンを船舶に使うようなもの。
エンジンの排熱を周りにある海水で冷却する手立てが要る。 >>702
別に、海水冷却なんぞ連絡船当時のディーゼルエンジンも同じや。
特記するほどのことではない。 道内の交通機関が全麻痺の中、青函のカーフェリーはいち早く動き出したな。
輸送艦おおすみも向かうそうだが、海を渡る手段の多様性は再検討すべきと思うたわ。
関空なんかしばらくは船便頼りになるのでは? >>705
どれか択一ではなく複合や融合させたリカバリー手段をってこと。
新幹線は真っ先に動いたものの、在来線は滞ってる。
本州側にもどこかの駅で足止め食らってる貨物列車がいるわけで。 関空のタンカー衝突の事故で「走錨」というワードをよく聞くたびに洞爺丸台風で遭難した各船のことを思い出した。 >>707
別に今でも多様な手段があって択一じゃないだろ
リカバリ手段はたくさんある
鉄道貨物の船への積み替えなんて必要分は普通にやってるだろ 道産たまねぎは最盛期(今)6割が鉄道輸送なんだと
臨時にトラックを至急手配してるらしいがそれでも遅れるってNHKが
青函フェリー臨時収入か 走錨とは、錨を引きずって流されること。
荒波に流されて走錨すると、ウインドラスでのアンカーチェーンの回収が困難になるため、
海難事故の要因になる。
錨を下ろす際、ウインドラスの冷却と制御がうまくいかないと、摩擦熱で煙が上がり、
最悪の場合、船首で火災に陥る。
※鉄製品がぶつかりあうため、火花が散るんだった…。
キハ40系で非常ブレーキを使用した時でも車輪と制輪子の間に火花が散るのと同じ。 三味線に皮を提供したぬこの肉はどうしたのだろう
やっぱりローストですかね 自衛隊がなっちゃんチャーターして北海道へ物資輸送
て言うか、ニュースはなっちゃんがどんな船なのか説明するべき 大洗〜苫小牧間のフェリーも災害支援に大活躍だってね。
青函連絡船が残っていたらどうなっていたか… 貨物列車が動かぬうちは滞留して、旅客輸送ができるだけ。 青函連絡船が残っていても、活躍の場はないな。
本州からの臨時輸送はフェリーかRoRo船持ってくれば済む話。 >>716
苫小牧発仙台行きフェリーは誰かの歌にあったな サイコロネタはループするな
チェリッシュのはつかり号は北国へのが好き >>721
よく知らんのだが、チェリッシュによれば、はつかり号は夜行? 2002年と言ったら、16年も前の話
生まれた子が、高校生に成長してるくらいの年月 青森に着くのは日付が変わってからだもの。
フネに乗り換えたら一寝入りするわけだし、まだまだ旅は続くのだ。
上にも書いたが到着前のアナウンスは独特の言い回しだぞ。 窓の雪景色がきれいに見えるのは確かに明日の朝になるだろうな
北海道渡ってからだけど
チェリッシュによればっていうけどあれって荒木とよひさの作詞だぞ >>728
荒木とよひさって結構有名な作詞家だよね? >>729
JR西の社歌の作詞家だな
ヒット曲いっぱいあるよね
全く売れなかった曲もたくさんあるけど
はつかり号は北国へは後者 こんなやり取りをしてると、やはり北国行き新幹線は「はつかり」であるべきだよな。
愛称発表時に違和感ガッカリ感を覚えた人は一万はいるはず。 青森開業時点で「はやぶさ」ゴリ押しだからな。
ましてや札幌開業は北海道主体で決めるから「はつかり」は望めない。
公募しといてなんてザマかと。 「国電」→ゴリ押しで「E電」→定着せずに愛称消滅みたいなもん? 公募一位が通らないなんて昨日今日始まったことでもなかろうに >>711
本気で書いてる?
釣り?
走錨したら、やるべき事は早く風に立てる事と、捨錨だ
ウインドラスは関係ない >>733
「かむい」か「ほくと」かもね
函館山線並行だから
「ほっかい」「おおとり」もありか
しかし、平仮名にするとかっこ悪っW
いい加減新幹線愛称のカタカナや漢字も解禁してほしい 「カムイ」って響きが格好良いよな
意味的には列車の名前には大袈裟過ぎるけど
「シャクシャイン」とかダメなのかな
これも響きが格好良い 公募一位で決めるルールにすると
「田代」とかになりそう リンク
「だめです!船が傾きすぎていてクレーンを動かせません!」
この意味は、船が傾きすぎると、救命艇のダビッドを動かせなくなるという意味。
救命艇のボートダビットは、重力で落ちるような仕組みになっている。
したがって、船が傾きすぎると、ダビットが降りなくなってしまう。
その理屈は、模型の船で試してみればわかる。 >>738
「きらら」になったりして。
もちろん397号もできる。 今年も、いや最期の二日間から30年の歳月が経つんだな。
3月の定期終航には及ばないものの、青森発臨時3便羊蹄丸は左舷各デッキからこぼれるほどの人々を乗せて去っていった。
そして夕暮れの中、臨時4便十和田丸がゆっくりとふくうら丸の援けを受けながら最後の青森着岸。
それを待っていたように青函博会場から花火が上がり全ての閉幕を知らせていた…。
3月と違い即日回航はせず、この夜も船上ホテルを営業したのは幸いでした。
翌19日(月)1040にふくうら丸が、1200に十和田丸が歴史的な船出をしていったのです。 アキバIMONで書籍海峡の鉄路青函連絡船・道新刊げと
歴史を時系列に追った本ですな 補助汽船かあ 「ふくうら丸」 2000本おめでとう(関係ない)
なぜか「かつとし丸」が印象に残っている。葛登支(かつとし)岬からの命名なんだよね。 乗船中、いつでも乗組員の美人女性から性感マッサージが受けられる性感連絡船ができればいいんだけど… 青函連絡船ご利用の方に申し上げます、接続便は青森0時35分発1便、十和田丸です。お乗り換え時間があまりございませんのでご注意ください。
これから車掌が乗船名簿をお配りします。連絡船ご利用の方はご記入の上・・ 憶えてないんだが、接続列車から乗船する場合と
連絡船待合室から乗船する場合って、同じ列に並ぶんだったろうか
通称「桟敷」の方が人気あったから、前例で駆け足でないと、居場所が確保できなかった
魚の干物に、マヨネーズと醤油付けて食べるのと
発砲スチロールの容器に入った味噌汁
セトモノの容器に入って釜飯弁当
茶葉で淹れるお茶、冷凍ミカン
今では当たり前になった、ファンタの350ミリ缶
当時は北海道限定で、連絡船内に自販機があった >>754
接続列車からしか青函連絡船に乗ったことないけど、列車が駅に着くとすぐに連絡船の桟敷席目指して死にものぐるいで走った記憶がある。
悠長に並んでた記憶なんて全くないよ。 >>754
列は同じだったはず。
青森駅から連絡船に乗るときは、改札→ホーム→連絡船待合室だから青森発の客か接続列車の客かは区別できない。
列が何本かあったのは、先発便と次発便のそれぞれグリーン船室と普通船室の列じゃなかったかな? >>757
追悼記帳
9月26日は台風の特異日、だったかな、
こちらでは伊勢湾台風になるが。
先日の関空もだが、走錨しだすと何ともならんのだろうなあ。 婆さんの姉が洞爺丸。爺さんがハガキを50枚出して青函トンネルの試乗会の1番列車に当たって乗った。 何度も洞爺丸の模型を使って、当時と同じ波浪を再現した波でやっても座礁してしまう。
座礁後、左側から波を食らわした後、右舷のビルジキールが水槽の底に接触して、復元力を失って転覆する様子。
図書館で読んだ青函連絡船洞爺丸事故についての本から。
船舶は、起き上がりこぼしの原理で、ちょっとくらいなら傾いても元に戻ろうとする。
だが、傾きがある限度を超すと、復元力が効かなくなり転覆してしまう。
特に重心が高い船の方がちょっとした傾きでも転覆しやすいということがわかってきている。 >>745
だから、机の上での計算や理論だけでは、十分に求めることはできない。
電気配線だってそうである。
電気配線をシミュレーションするソフトウェアだってある。
リンク
「シーカー修正機を使って、デタラメに書いた電気配線の回路図を
修正した結果、きちんとしすぎて、何が何だか分からない…。」 洞爺丸台風に伊勢湾台風に
9月の末ってのがな
運よく助かっても寒くて凍え死にそう >>762
それは『座礁してしまう』ではなく『座礁するだけで転覆には至らなかった』ないかな?
そこで流砂を模すために毛布を沈めたら、ようやくビルジが引っ掛かって船体が倒れたという結果。
積載貨車が倒れたのも傾斜にトドメを刺した。 >>765
重量級の寝台車マイネフ38が船内で横転したとか? 車両甲板には横転するスペースはないよ。
すぐ壁にぶつかる。傾く程度。 >>767
傾いたいるだけとはいえ、固定具が切れるほどの状況ならば、車体の重量は殆どが
壁に掛かっている状態で、それが船を横転させる方向へ押す力になる。
だから、視覚的には傾いているだけでも、力学的には「倒れた」と言える状況。 あおもーりー あおもーりー
あおもーりー あおもーりー お疲れ様でした 終着 あおもりです
駅出口は 到着した列車の 後ろの方向です
(この間に連絡列車の案内 奥羽線 津軽線など)
北海道方面 連絡船にご乗船の方は
到着した列車の前の方向にお進みください
今度の連絡線は ○時○分 出航 ○○丸です >>766
ナ・・・・
オ・・・・重い
ス・・・・・すごく重い
マ・・・・・ますます重い
カ・・・・・・・かなり重い
だっけ?
貨車のムラサキと違って覚えにくい >>771
コホナオスマカ
コは小型車?
ホはボギー? >>765
生き残った元乗組員の中には、貨車緊締具の鎖が切れる音を聞いたと言っていたな…。
緊締具は、貨車がずり落ちないように留めるための鎖やワイヤー。
宇高航路では、気象・海象が穏やかで、かつ航海時間も短いので、
よほど荒れない限りは貨車緊締具の出番は無かった。 船の揺れで貨車が脱線しないよう車止めに連結器とブレーキホースがあったんだな
ブレーキを掛けておいて車両をロックさせることが出来るが電気指令式ブレーキは間にブレーキ読み替え装置積んだ控車を入れない限り使えない
電気指令式ブレーキ車を航走した事例を聞かない >>754 >>755 >>756
特急列車からの接続客には車内でマルトク(〇の中に特の文字)の名簿が
あらかじめ配られていて、それ以外の客よりも優先的に乗船できた。
マルトク以外に接続列車の指定券を持っている客も優先された。
すべての便で適用されていたかはわからないが、多客期に混み合う深夜便で
桟橋で乗船を待つ列をしり目にマルトクの名簿で優先的に乗船したことがある。 >>776
そうだよなぁ
接続列車から跨線橋走って、通称「桟敷」確保した思い出がある そりゃ仮にも連絡船なんだから、接続列車の指定とってるのに満員で乗船できませんとはいかないだろ。 「しらゆき」から連絡船で北海道に渡ったけど、
「はつかり」「みちのく」「白鳥」の客が優先だったなあ。
こちらの行列を尻目にさっさと乗船していった。
目的の便に乗れるかヒヤヒヤだった。 昭和50年代以降は、満員なんて年末年始と5月連休前半の特定日のほかは、、終航間際くらいしかなかった。
あとは客室はガラガラで空気運んでた。
もっとも、青函連絡船は貨物が重要で、旅客はついでみたいなものだったけど・・・。 >>778
青森までの列車が普通列車なら満員の場合は後回しになったはず
その場合、乗車券類有効期限を一日延長と接続列車の指定席変更は手数料なし(満席の場合はグリーンにしてくれたが、あくまでも特例) 今でもそうだろうが、青函間だけの旅客需要なんて少数だろうから、優先度は低くて当たり前だったのだろう。 距離と時間が長いせいか「東京からのお客(さん付け無し)がいちばんエライ!」というヒエラルキーがあからさまだよな。
宇高連絡船には優先権どうこうは無かったのにね。 昭和40年代迄の栄光の時代ではあるなぁ
外廊下で寝てた担ぎ屋のおばちゃんなんかは空いてる便(早朝以降の)乗ってたて事か 担ぎ屋家業からして朝市で仕入れて昼に行商するんだろうが、朝の便は夜行接続で混んでいそう。
廃止前の昼前便しか乗ったことないから知らんが。 朝の便はそんなに混まない。
やっぱり混むのは真夜中に出て早朝に着く11便、1便、12便、2便。
その深夜便も、最後の頃は常時客扱は1便、2便だけになっちゃってたよね。 末期改造船の石狩丸・檜山丸も乗って見たけど、旅客サービスが少なくなってたのが寂しかったね。まあ客数も減ったし、食堂や寝台がなくても仕方なかった。
シャワーはあったよね 船楼甲板の自動車格納庫の船首側、弘済会の部屋のとなりだっけ? 35年位前、夏休みアルバイトしてたな。売店食堂で。 >>790
弘済会って、乗組員の組別とか交代とまったくちがうんでしょ? 乗組員の勤務はわからないけど、弘済会は2往復と3往復の2パターンだったよ。
ちなみに乗組員の食事は弘済会の職員が作っていた。 【世界教師マ@トレーヤ】 ニート親子共倒れ、トレーダーはビルから投身自殺、貧富ダブルノックアウト
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1539828384/l50
株式をギャンブルにして企業経営を不安定にして失業者を増やした投機家は、その報いを間もなくうける! >>784
宇高の場合は乗船時間が短いのと通勤通学需要もあったからね >>784
八戸からだろうが博多からだろうが同じだぞ ゆうづるから乗り継ぎで、まずやることはシャワーを浴びてそのあと食堂で海峡ラーメン味噌味を食べると北海道へのテンションが上がるんだよな
それからは座敷で雑魚寝 寝台で寝て、連絡船で寝て、、、
合間は食って、、、
まさかゆうづるはグリーン席じゃねえだろうし。 寝台車のグリーン車は謎だった
寝台券取れなくて、乗った事あるけど 船の中ってリクライニングシートか畳で雑魚寝じゃ無かった? 俺は津軽丸型しか知らんがさすがカーペットだったぞ
グリーンと普通桟敷の違いがいまいちわからん、面積とかあるんだろうな、きっと >>801
上のレスに毛足が長かったってあったぞ。 普通座席とグリーン自由座席は、確かひとりあたりの面積が違ったはずだ。
カーペットが違うのと、あと、たしかチャチな枕があったのでは? マージャン室みたいなのあったよね、娯楽室みたいなの。 「我が良き船よ」
1番
♪銅鑼を鳴らして 奴が出る〜 腹に貨物を 積み込んで〜
北の旅情がしみ込んだぁ〜 乗船名簿を手にもって
あぁああー 青函連絡船 おまえ今頃 あの海の上で
俺とおんなじ あの波見つめて なに思う〜
2番
♪旅のあの娘に声かけしては どこに泊まるのあのYH(ユース)?
語り明かせば函館の 灯火(ともしび)迎えにやってくる
あぁああー 青函連絡船 旅の始まり明日はどこの地
道内線路を 乗り歩きながら 旅をするー 4月、深夜なのに青森出航間もなく桟敷席窓の外にはイルカが並走、程なくそれも暗く見えなくなって寝てしまった イルカの伴走ってどういう習性なんだろうね?
陸奥湾の棲息研究はされてるけど、群れをなしてフネに近づくのは排除の威嚇行動なのかな。 イルカのマークは昭和50年代以降かねぇ
今見ても秀逸ですな 各船のイラストマーク、船員さんが描いたものだったいうことを、先日出た道新刊の本で初めて知った。
黒岩さん的な人が他にも居たんだね。 あ、Jトレだったかな。
同じ頃に買って読んだからごっちゃになってる。多分Jトレだ。 >>814
クマさんのマークのが可愛かったね 大雪丸だっけか 四つ葉牛乳売ってたなー エントランスに自販機あった。 おお そう言えば函館の桟橋でお酒注文したらおばちゃんが一杯だけ酌してくれたのはビックリ >>816
クマって猛獣なのに可愛いイメージ
子グマから飼うと人に慣れるらしい 犬(オオカミ)でも、ライオンでも、ウシでも、馬でも、キツネでも、鳥でも、小さい頃からずっと(特に親や仲間と離して)育てれば馴れるもんだ。馴れた親と一緒なら野生より人間との距離は近くなるけど。
ちなみにアイヌがイヨマンテ(っつったっけ?)で使う熊は、子熊の時から人間と一緒に育った馴れた熊な。野生ではない。
ところで、グリーンと普通は乗船口が違ったと記憶しているけど、中入れば繋がってるでしょ?
あれ、グリーン持ってたら普通乗船口から乗ってもおkだったの? >>823
とくに問題なく、普通乗船口入ってすぐの階段上ればグリーン。
グリーンのタラップは出航5分前で上げてしまうから、それ以降に乗ろうとすれば寝台客もグリーン客も普通船室の舷門から入ることになる。
>>824
船内の牛乳は自販機で、最後の頃は四角パックだった。 北海道から帰る時に台風か何かで大幅に遅れて寝台
発車してしまい 青森で旧客のグリーン車だけの特別列車で上野まで帰った記憶が。おそらく1970年前後。連絡船が満席で階段に座っていた記憶もある。 そういう国鉄の良さ、サービスにどれだけの経費がかかっていたか。
乗客数は前の列車に乗れなかった人だから収入的には0だし、乗務員の手配、余計な列車が走ることによる、わずかではあろうが車輌や線路への負担、リネン類の交換。もちろん折りかえしは空で回送だろうし。
国鉄魂を感じるね。
当事者でなければ、それを放漫経営だと言うヤツもいるんだろうけど。 まあでも今なら大体交通機関もあるし、宿泊施設も充実してるけれど
当時はそうじゃないから国鉄が始末つけるしかなかったという事情があると思うよ
連絡船が満席だったわけで、それだけの客が青森駅に滞留したら大パニックだわな
国鉄魂とかはあまり関係ないと思うよ
JRになってからも青森や秋田の雪で白鳥が運休だっやりすると
富山あたりから救済臨出したりしてたじゃん 話が脱線するけど 用意された車両は
確かスロ62 で座席の下の一段高いヒーターが夏なのに熱くて
お土産が暖かくなった記憶が。
巨大な座席灯が印象的だったなー
払い戻した特急と寝台料金は上野に迎えに来た親がしっかりと没収しました。(全部グリーンで親もおったまげてた) >>829
自車発電機の真上だったとか?
いわば“キロ”の始まりだものねぇ。
全車両Gというと見た目にはお座敷列車っぽいな。 もしも、翔鳳丸、飛鸞丸が生き残っており、洞爺丸台風級の大荒れに見舞われたら…。
北見丸、日高丸のような海難事故に陥っていただろう。
※翔鳳丸の車両甲板後部開口部は広いため、荒波が打ち付けると、一気に海水が入る。 眼下に下北半島、当機は着陸体制に入りますとアナウンス
船に揺られていた時代はゆるかったのか長時間耐えていたのか、飛行機だと大切な儀式を忘れた気になるな 私も函館に行くときは100%飛行機になってしまったな。
下り便で東向きにおりるときなど、青森から津軽海峡をそのまま北上してくれるときもある。
函館発の上り便は秋田のほうに向かってしまうのでいまいちおもしろくないが。 >>818
この講演会って一元さんでも行ける感じ?
常連さんばかりで初めての人が入りにくい雰囲気はない? 3日に青森駅へ行ってきた。八甲田丸は休館だったけど青空の中で静かに佇んで津軽海峡を見つめている姿に感動した。 すっかり変わってしまって駅周辺だけど、青函連絡船が運航していた時とそのままだったものの一つがあった。
「あ お も り 駅」とひらがなで書かれた本屋の上の駅名板‥‥。 あの頃はその横にサンポットだったかの暖房ボイラーの宣伝板があったっけ。
ガランとした駅のホームはやはり寂しかったけど。 >>836
往時の賑わいは無いからな
青森駅からフェリー出す訳に行かんのかねぇ >>837
ベイブリッジの下をくぐれんだろう?
いずれにしても、トラックとかがあそこまで乗り入れるのはちょっと… むしろアプローチ道路が無いから。
大トラやトレーラーが国道から街中を昼夜とわず通られたらタイヘン。 まぁ、もともと何もない所に町を造ったようなものでしたからねぇ。 かと言って、弘前が栄えるかと言うと
まぁ、他の街より寂れてないがって程度 道民からすると通過点な青森函館
函館はサブ北島GLAYだが青森は誰だろう 淡谷のり子、吉幾三、田中義剛(評判悪い)辺りか
青森市内に記念館とか無いんでは
函館以外、都市が無い道南と
それなりに人口が分散してる青森じゃ違うだろう そう考えるともうチョイ栄えてても罰は当たらないと思うんだよね > 青森
なんなんだろうな >>846
>そう考えると
どう考えたんだ?
本州の果てだから仕方がないよ
山口だってあんなもんだし >>844
青森、函館はすでに通過点ですらなくて、飛び越し点。 >>845
>淡谷のり子、吉幾三、田中義剛
南部出身のキャラメルヤクザを混ぜるなと津軽人の怒りの声が聞こえる 生還連絡船が現役のころはゆく年くる年の中継現場として使われてたよな、青森駅 雪の青森駅は、年越しの良い絵になっただろう
横浜港みたいに、年越しの汽笛鳴らしたんだろうか でも、青森港だったら00時05分に長声二発、00時10分に長声一発が聞けたはず。 写真集に船上からの初日の出とサロンに置かれた鏡餅のものがあったのが印象的だなあ ブリッジの操舵スタンドの脇か、海図台にも鏡餅が置かれてた。
終航間際の頃は見なかったが、以前は船によっては古株のクオーターマスターがするめを
上手にドライヤーであぶって伊勢海老の供え飾りを作ったりしてたものだ。 大晦日、元旦を含む年末年始は、全部走るのは乙便だけ、甲便、丙便は沖泊で間引き、
貨物船も沖泊。走る船も空船ばかり。
客便は普段と変わらず、しいて言えば船内放送が大晦日、元旦に合わせてちょっとアレン
ジされるくらいか? 小型船で走行する
中型船や大型船は思うように動けないので、決して近づかない。
船舶は日本であっても基本は右側通行。
だから、大型船とすれ違う際には、お互いに右に舵をとって避ける。
46リンク+ ◆BotWjDdBWA 2018/07/25(水) 20:28:23.77ID:gG5bAjJV
栃木県からの接続でもRadiko.jpは東京判定になる…。
優れた地域判定ができるサイトなら、きちんと栃木県栃木市の判定になるのに、どこかがおかしいぞ…。
※Radiko.jpの地域判定の精度が糞仕様なだけかな?
IP アドレス:
106.73.238.65
ホストネーム:
M106073238065.v4.enabler.ne.jp
ドメイン
enabler.ne.jp
プロバイダー (ISP):
KDDI CORPORATION
国:
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地域:
Tochigi (栃木県) - [Official Site] [ Wikipedia]
都市:
Tochigi
風力何メートルかの風が吹いていて多少揺れるかもしれませんがご安心ください、と言う船内アナウンスはちょっと怖かった。 安心して下さい
揺れませんよ
って言ってほしいよね 退職して年齢を重ねた
青函連絡船乗組員だった方々は、
函館や青森の市内に固まって住んでおられるのだろうか?
彼らが通う居酒屋なんかで話を聞いてみたい気がする。 青森にはほとんどいないな。
青函連絡船の本拠は函館で、現役時、みんな函館に住んでたから。
青森にいるのは、青森出身で実家に帰った人だけでしょう。 50系な。
当初は旧客を駆逐した悪役だったのに、50系さえ懐かしい愛おしい。 >>870
俺八甲田接続のしか乗ったことないから海峡は100パー14系座席車 奥羽本線の各駅
今は電車なんだな
スマンが鉄分低いので細かい事分からん
東北本線の廃線後歩いたけど、あれもよう分からんかった
昔乗った夜行は、彼処を走ってたって事なのか >>871
50系以外の海峡があるなんて廃止されてから知った。かなり鉄道から離れていたからだけど。 >>872
去年、東武の「SL大樹」で乗った。
懐かしさで涙が出そうだった。 50系=タラコ色の列車
14系=ブルートレイン
個人的には「海峡」はブルートレインのイメージ
車内販売があった >>870
その50系を駆逐したにっくき仇が701系 それがさ、今の若い鉄ヲタって、701に萌えているんだよな。 >>868
青函船舶鉄道管理局が函館にあったからな ニセコや利尻で頑張った車両がまだ走ってるんだな感>14系海峡
トンネル位置表示がなくて少しつまらん 船籍港は、国鉄時代は「東京」でJR化後は「函館」でしょう。 ガキの頃は帰省時に宇高連絡船によく乗ったが、あの1時間ですら長く感じてた。
青函って4時間だっけ?想像を絶するよね。子供には地獄だっただろう。 1986年の夏休みに青春18きっぷで青森〜函館間を4日間くらい連日2往復(深夜便の
船中泊含む)して殆ど船内で過ごしていたのが懐かしい。当時は大学2年生だったが
青函連絡船に乗る事が目的の旅だったけど当時がなつかしい。 連絡船のコインシャワーが懐かしい。
フリチンになって、そして・・・みんなやっただろう! 子供には4時間は長い
特に、ほぼ水平線しか見えない時間帯 深夜便は桟敷(席だってね)で横になって放送が流れたらもう対岸て感じ
昼間は後部デッキのベンチでぼやっとハの字の航跡眺めてて長く感じた 初めて青函連絡船に乗ったのは1975年高校二年生に訪れた修学旅行の北海道だったが、
青森早朝到着の「ゆうづる1号」で接続便が八甲田丸だった。9月下旬の台風シーズンで
青函連絡船は陸奥湾から津軽海峡に入ると時化の影響を受けて船は動揺、キヨスク売店の
お土産は崩れて売店はシャッターを閉めて閉店。それでも当時は船と言えば湖の観光船・
久里浜〜金谷や川崎〜木更津のフェリーしか乗ってないため、青函連絡船のような大型船に
乗るのは初めてなので珍しくて船内探検して席には一度も座らなかった。
帰路は大雪丸利用で食堂の利用も自由だったため、グリル大雪でラーメンを食べてから
サロン海峡で珈琲を飲むという当時の高校生にとっては破格の出費でしたが、いい想い出に
なりました。
自分は北海道に行く時は学生時代は急行八甲田や社会人になると寝台特急ゆうづる・
はくつる利用が多く帰路もそれらの接続で移動したため、深夜便の乗船回数が少なく、
1985年から3回しか乗船機会がなくてそれが心残り。 昭和から平成になる直前の昭和62年に国鉄はJRになり、そして昭和63年に青函トンネルと瀬戸大橋が開通して
北海道と四国が地続きになって寝台列車が直通するようになったんだったな。そして青函・宇高の両連絡船も廃止になった。
その翌年に昭和が終わり平成に。本・島直通寝台列車の瀬戸、北斗星、トワイライトエクスプレスは平成の鉄道の象徴だったが、
青函直通寝台列車は平成と共に役目を終え、次の新時代まで残ったのはサンライズとなった瀬戸(出雲)だけ。
新時代に生き残る寝台列車が日本でこの1つだけになるとはな・・。 >>897
俺は北海道方面も含めて、寝台特急は思ったより長生きできたと思ってるけど。
九州ブルトレが21世紀を迎えられるとは思ってなかったし、北斗星やトワイライトも
90年代の間に新車にならなかったことで、2010年代まで持つとは思ってなかった。
サンライズは、瀬戸より出雲の方が廃止できないのだろうなと思って見てる。 上野駅からゆうづるorはくつるに乗り、青森駅で青函連絡船に乗船。
函館駅からおおぞらorおおとりor北斗に乗るのが当時の定番だった。
北海道から東京に向かうときはその逆。
当時がなつかしい。 >>904
自分は貧乏だったので八甲田or十和田から連絡船、函館からはニセコだったな。
就職で札幌から東京に移り住んでからは帰省に道南ワイドが使えるので道内は特急に乗ったが。 >>905
俺はもっと貧乏だったので、18きっぷ片手に上野を朝イチの黒磯行き普通列車で
出発して、鈍行乗り継いで夜に青森に到着して101便か1便に乗ってたな。
でも後で計算したら、道内で夜行だけ急行に乗ったり、友人と2冊目の18きっぷ
を共同購入したりして、ワイド周遊券での旅より金が掛かっていたことが判明…。 思い出はプライスレス、とかカッコいい事言ってみるテスト 北海道は周遊券だったな。夜行急行多かったし。青函連絡船乗りに行くときは18切符だったけど
黒磯発一ノ関行の旧客あったよな。上野555発使って全部旧客で青森まで行ったこともあった >>907
思い出はいつも綺麗だけど、それだけじゃお腹が空くよな >>904
はくつる ゆうづる 顔が良かったよね
月光も同じ顔してた おいおいなんだか貧乏なやつばっかだな。
おれは北海道に行くときも東京にもどるときも飛行機だった。
ダグラスDC-8かボーイング727のどっちかだったな。
もちろんスカイメイトだけどね。 >>902
基地が西出雲だしどうしても片方消すなら瀬戸だけどね >>914
YS11は鹿児島発与論行きに乗った。
台風が近づいてる時で凄い揺れたよ。 >>917
どういたしまして。お役に立てて何よりです。
青函連絡船、それに接続するJNRもことでわからないことがあれば何なりとご質問してください。
このスレの連中は雑魚ばかりなので、私は今後も正しい青函連絡船やJNRの実話をお話していくつもりです。
ご愛読よろしくお願いいたします。 何せ、ちょっと 渡道して 乗っただけの異邦人、なんで
YSは羽田ー三宅島で乗った、台湾からの買い戻し機だった 今更ながら青函連絡船について学ぶ為の書籍を探しているのですが、
JR北海道の"青函連絡船 栄光の航跡"は最適でしょうか
他におすすめ書籍がありましたら、ご教示いただければ幸いです >>921
青函連絡船ものがたりはどうでしょうか。
宮脇俊三の文、黒岩保美さんの絵で、
子供でも分かりやすく紹介されています。
復刊ドットコムにまだ在庫があると思います。 すみません調べたら在庫切れになっていました。
Amazonや福音館書店にも復刊の在庫は無いようです。 >922-923
ご丁寧にありがとうございます
調べたら図書館に蔵書がありましたので、今度拝見してみます >>921
坂本幸四郎著「青函連絡船」が良いかと思います。
今ならヤフオクで出品ありますよ。
あとはインターネット上に勉強になるサイトがいくつかありますよ。
個人運営のサイトなのでリンクは貼りませんが。
「青函連絡船 歴史」で検索してみると良いかと。 >>925
書籍に限らずネット上でも情報収集してみます
ご教示くださりありがとうございました 年史だと、
航路沿革史(S14・30年)
五十年史(S32・50年)
青函連絡船史(S45・60年)
航跡(S53・70年)
栄光の航跡(S63・80年)
と、だいたい10年ごとに出ています。
中には入手困難なものもありますが、一般に販売されてた栄光の航跡あたりが入手しやすく
無難なように思います。
ネット上のものは、かなり思い込みによる間違いが多く、内容もこれらの本、あるいは上前純
一郎「洞爺丸はなぜ沈んだか」あたりの受け売りが多く、本で読まれたほうが確かです。 また2時過ぎだ、北海は指定だから焦らず函館までもう一眠り
船乗りさんありがとう トンネル開通記念式典を複雑な眼差しで見つめる関係者の姿が忘れられない
開業すれば自分達の仕事がなくなるから手放しで喜べない事くらいは子供心にもわかったのだ 青函トンネル開業日が青函連絡船の最終日だった。
青函トンネル一番列車に乗って、青函連絡船の最終便に同じ日に乗れた。
なぜこうなったんだろうね? >>932
不測の事態に備える意味合いもあったろうね。
全国の鉄道は繋がっているという意識はまだ残っていた。
今ならトラブルあっても「不通ですから」のひと言(他人事)で終了。
まあ、開業直前まで使っていた青森の控車とかを函館に回収する必要もあったんだけど、どうせ臨時便出すなら当日なら乗せた方が少しは稼げるし。 >>932-933
なるほどそういうことだったのか。
納得しました。 最終日、「臨時便」と言ってたものもすべて最初から計画運航で、
特別に走ったわけでもなんでもなかったんだが・・・ 青函連絡船での自動車航送は1988.3.13の前日くらいで打ち切ったんだっけ? オークションに出てくる青函連絡船の日誌類って、なんで八甲田丸のものばかりなんだろう。
八甲田丸から流出してるのかな? 今まで大事に保管していた元乗組員が亡くなったとか… 今日の朝の連ドラ「なつぞら」見た奴、ここにいるか?
昭和29年代末か30年代初頭の時代に、十勝地方に午後にいる人が
「今からここを出て、明日の朝一番の連絡船に乗る」のは不可能だと
思うのだが…。 >>943
昭和33年10月改正時のダイヤだと、準急狩勝〜アカシアで帯広1551→函館613というのがありますね。
でもそれ以前だとどうですかね… 406レ
帯広発12時台になるけど
戦前から朝一の青函連絡船に間に合っていたよ
帯広発15時台で間に合う様になったのは
1955年(昭和30年)から
https://i.imgur.com/efeWe6Z.jpg
https://i.imgur.com/n4DHNgS.jpg 調べていただき、ありがとうございます。
調べ直したら、該当シーンは昭和30年の設定なので、>>945氏の言うように
ギリギリ可能ですね。
だけど、物語の展開を見ていると該当シーンはもっと遅い時間と思う。
登場人物の一人が東京から主人公を訪ねて十勝の農場にやってきて、用件
を済ませてその日のうちにお暇するという内容だから。
農場が十勝の何処なのかという問題もあるし(帯広近郊らしいが)。 北海道を関東一都六県くらいのスケールに考えてるんだろうね。
津軽海峡(大間〜戸井)を手漕ぎ舟で渡る小説もあったくらいだし。
坂本幸四郎さんの著書で荒唐無稽さを検証する章は面白かった。 >>950
函館から大間にある家々が見えるんだっけ。
坂本さんの著書を読む前に「ありえねー」って思ったよ。
現地見ないで書いちゃったんだろうな。
それが映画になるほどのヒット作になっちゃったと。
まぁ、推理小説なんて無理や無茶がないと成立しないから。 >>951
『大間の自宅から対岸の屋根が…』だったかな。
作者は後書きかインタビューかなんかで「地図を眺めて創作意欲を掻き立てた」という。
これについて坂本さんが「●●氏が見た地図スケールはいくつなのか気になる」という突っ込みかつイヤミも痛烈でしたな。
関東でたとえれば海ほたるから木更津市街の家並みを肉眼で眺める…それより距離があるわけで。 とりあえず松前藩の舟は渡ってたんだろうけど
厳しい海峡なのは違いない、マグロが鍛えられる位の海だ 「飢餓海峡」の設定も台風の中小舟で海峡越えたんだしなあ。 問題は、洞爺丸のセットを使って、荒波のシーンを作れるかどうか…。
日本の映画のことだから、どうせ、今市な映画に決まっている。
機関室に大量の海水が侵入して、蒸気タービンが焼き付きで停止するシーンとか…。
洞爺丸の資料に基づいた再現ができるかどうか…。
じゃ、アニメで再現してみるか…。
ギンコ
「左エンジンの蒸気圧を落とすな!エンジンを止めるな!」
その後、苦しそうな音を立てながら振動していた左エンジンが煙を上げて止まってしまった。
リンクは「右エンジンは大丈夫か」と聞いてきたが、そのうちに右エンジンも煙を上げて止まってしまったという。 循環水ポンプの電動機が冠水したため、左発電機が故障し、その結果、
左エンジンの潤滑や冷却がうまく行かなくなり、故障に陥ったわけだ。
自動車のエンジンで言うなら、ラジエーターが故障してオーバーヒートで焼き付きを起こすようなもの。 90年代頃に、NHKのテレビドラマで洞爺丸事故シーンが
あったって聞いたことがあるけど…。
当時テレビを全然見てなかったからよく分からない。 エンジンの無い小舟で北海道から青森へ渡る場合
潮流で流されるの想定して、松前から下北半島目指せば可能なんでは
実際にやってみないと、何とも言えないけど
上手く潮流に乗れば、殆ど漕がずに対岸に着ける
…様な気がする 干満のタイミングによって海流も変わるから、速ければ太平洋へ流れてしまうし遅ければゆるゆると下北へ漂着するのもありえる。 50年位前になるが、青函連絡船に乗って東京に行ったな。
就航のドラの音とシャケ弁当とお風呂が懐かしい。
東京で年末、帰省するのに列車指定席が取れず12月30日の
夜行急行八甲田自由席で混んでいてしばらく立っていた。
盛岡付近で座れた。連絡船は座席で寝ていた。 50年位前になるが、青函連絡船に乗って東京に行ったな。
就航のドラの音とシャケ弁当とお風呂が懐かしい。
東京で年末、帰省するのに列車指定席が取れず12月30日の
夜行急行八甲田自由席で混んでいてしばらく立っていた。
盛岡付近で座れた。連絡船は座席で寝ていた。 >>964
晩年は続航していたのは甲便、乙便だけで、丙便のあとに貨物船が続航していたのは昭和50年代後半まで。 最盛期最大30往復 昭和47年3月(定期28往復。貨物繁忙期に限り30往復)
昭和48年8月5日 旅客輸送超過のため、有川桟橋発着の津軽丸型使用の貨物便に旅客を乗船
(有川−函館間バス輸送。後にも先にもこの1日だけ。ちなみに最大2隻合計4往復あるけど使われた便は不明)
↓
25往復 昭和53年10月?
↓
21往復 昭和57年11月
↓
17往復 昭和59年2月 有川閉鎖
↓
0往復 昭和63年3月
↓
2往復 昭和63年6月3日
↓
0往復 昭和63年9月18日(終了) 青函連絡船の終航は昭和63年3月13日で、それ以降の暫定運航は「青函連絡船」には含まれんよ。 3月は定期運行の終了=メインの運輸機能の終了ではあった。
でもアンコール運航と呼ばれた暫定だろうと、れっきとしたクルーと地上要員の方々が最後の日まで事故も無く任務をまっとうされたのだよ。
「最後は3月の1回こっきり、それ以外は認めん」の価値観もけっこうだし、3月以後の記載がない年譜・通史の書籍も実際多い。
しかし自分は涙声と長い汽笛で青森に別れを告げた回航便の姿は、最後まで青函連絡船だったと考えている。
これからも。 まあ連絡船より海峡のが便利になったが海峡廃止に新幹線で不便になった
青函フェリーは車はじめ需要あるだろうか フェリーは絶対的に料金が安いから
地元の需要がある
新幹線は料金高いから、乗る人は限られる >>969
青函間ローカル客は、所要時間より価格で移動手段を選んでいるよ。
かなり以前からそういう層からは、青函トンネルは敬遠されている。
絶対数が少ないのは確かだが。 一方、本四備讃線は快速マリンライナー無双で高速バスはないとか まあ、
青函間の客 → フェリー
遠方から道内の客 → 飛行機
物好きか、新幹線に乗ることが目的の客 → 新幹線
この住み分けはかわらないだろう。 鉄道を使うことがかえって敷居の高い贅沢に感じるとはなんてことだ…。 昔、波が高く揺れた時に乗船したことがあり
船内風呂の湯が波打っていたことがある。
床で雑魚寝してたが船酔いしかけた。 >>975
それ、冬の日本海航路なら今でもごく普通に体験可能。 >>975
晩年の青函連絡船には旅客用の風呂はなかったんだが。 「床で雑魚寝」
突っ込むとしたら、こっちじゃなかろうか >>977
50年前の青函連絡船には、普通にあったと思う。たぶん
東日本フェリーだったかも。苫小牧ー仙台便も乗っていたからね。
>>978
当時は、A・Bベットのほか、座席シートと雑魚寝できる広間が
あってね毛布・まくらも常備されていた。
指定席は取らず広間か座席で寝ていたね。
深夜も津軽海峡観るのも良かった。 >>979
A・Bベット???
そんなものはなかったぞ!
あったのは、等級制の時代の1等寝台と
モノクラス後の「青函連絡船の寝台」だ。 青函連絡船はシャワーはあったど湯船は無かったと思う
床って言うか、通称「桟敷」で、正式名称はスレの上の方に出てた筈 蒸気船に浴室なんてあったとしても雑魚寝する三等客は近寄れもせんじゃろ。 >>979
50年前の青函連絡船に旅客用の浴室はありません。
浴室は船内に3カ所ありましたが、乗組員用で旅客は使えなかった。
旅客が使えたのは、3カ所あったシャワー室のみ。
寝台は1種類だけ、50年前だったら津軽丸型の客貨船だけにあった。
そのほかはグリーン指定席(椅子席のみ、旧1等)、グリーン自由席(椅子席、
座席(じゅうたん席)、旧2等)、普通船室(椅子席、座席)。
寝台以外は毛布なし。
まくらはグリーン座席にはあった。
50年前頃の青函連絡船は、当時のフェリーと比べるとちょっとお粗末な客室
設備だった。
記憶にあるのは、青函連絡船ではなく苫仙間のフェリーでしょうね。 たとえ幼少期だろうと汽車旅行で乗ったフネと、大衆車で4or7号をはるばる走って乗ったカーフェリーか定かでないなんてあるのか。 >>983
>50年前頃の青函連絡船は、当時のフェリーと比べるとちょっとお粗末な客室
>設備だった
そりゃあ長距離フェリーと比べたらそりゃそうよ >>986
長距離フェリーと比較するまでもなく、当時並走していた東日本フェリーと比べても
相当見劣りしてたんじゃない? 今、40歳ですが小学校3年の時に青函連絡船の復活運行で羊蹄丸に乗りました。
行きは北斗星6号。小樽から倶知安までc62 ニセコに乗って、函館から青函連絡船復活運行から583のはつかりで盛岡。
って旅程でした。今でも鮮明に覚えています。多分、僕らの世代が青函連絡船を知っている最期の世代なんだろうなぁ。 >>988
6号は上りなので、もし日暮れに上野を出た3本目なら5号かな?
数泊はしたのだろうけど話題の列車を盛り込んだ濃い旅程ですな。
夏休みのプラン立てたお父上(?)も最後の機会とリキ入れたんだろうねえ。
どうかその記憶や写真を大切にしていってください。 >>987
じゃないって言われてもな
具体的に比較してくれ このスレもアスパムが見えてきたな。
はい、翼角15度。 防波堤かわしてスターボード、1岸送迎場。
右舷後方からタグが追走。 >>971
但し冬季のフェリーは時化など気象海象面での問題もあるので、
冬場だけ新幹線を利用する客もいる。 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
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