古き良き時代の近鉄電車 3号線 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
引き続き、古き良き時代の近鉄電車を語るスレです。
今回で3号線となります。
前身会社や関連会社、乗入会社の話題も可能でございます。
前スレ
古き良き時代の近鉄電車 2号線 [転載禁止]©2ch.net
http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1447780164/ 近鉄は何で昭和39年頃辺りに一般車の塗装を順次800/820系色のマルーンレッドに統一したのかわからん。 評判は悪くなかったが白系はやはり車体汚れが目立ったから。 >>14
緑色は地上作業者(特に保線関係)からの視認性の問題があったからでは。
小田急の荷電はその理由で昭和46年頃ピンク(国鉄の赤13号と同色)に変った。 マルーンレッドは旧型車にも結構似合っていたし
統一した方が塗料の発注や管理がしやすくなるということもあったのでは? 19
近鉄マルーン一色が濃すぎて、少し明るい色にするためではないか
阪急でも更新車は車体上部に白いラインが入ってるし 3200新造をアピールしたかったんだろうな
近い将来京都地下鉄に乗り入れるぞ!
この際、一般車を全て塗り替えてしまえ、みたいな感じで
養老線は忘れ去られた感じだったが
新車は連結部が白かったのも懐かしい
再塗装でマルーンレッドに >>16
名鉄もこの時期同様の理由で緑色を廃止していて、一部はライトパープルという妙な色に変えている。
こちらはパノラマカーの人気が絶頂だったのでほどなく殆ど赤に塗り替わったが。
だったらおけいはんは何故緑色が健在のままだったのという疑問はどうしても残る。
近鉄や名鉄や小田急に比べれば確かに市街地部分を走る割合は多いけど、中書島〜樟葉間などは一部高架化されたとは言え未だに周辺は基本田園地帯のままだぞw >>14
>>16
>>22
名鉄も近鉄と似た経緯で塗装統一したのかい。
しかし良く言えば統一、悪く言えば塗装統一までに迷走した感じだな。 >>19
1980年代に入って世相が変わったから。
まぁ明るい、軽い雰囲気が好まれ出したからね。
マルーン一色ではやや重たい感が強かったし。 >>24
それしきの理由で省力化から逆戻りって本末転倒じゃん。
あと、いくら白を足しても
そもそもあの赤の色目自体が暑苦しい >>26
それが80年代の空気なんだから仕方ない、流行なんてそんなもんだよ。
それに80年代半ばバブルになると無駄が美徳的という、
省略化とは真逆の流れになる。 京急も80年代800や2000で赤に白帯から一挙に白い部分を増やしたんだよな。
近鉄通勤車も3000ステンレスから何となく赤一色から
脱出しそうなそういう気配はあった。 80年代当初車体に白色を積極的に使おうという風潮があったからな。
それまでは新幹線や京王、小田急が続いて関西私鉄は皆無だった。
国鉄185系がその流れを象徴するものだろう。
それに車の世界でも白いハイソカー(死語)が全盛期になるんだよ。 昭和62〜平成2くらいのあの時代を
単に「80年代」って言うのは大雑把すぎてしんどい
バブル期って表現するほうがまだまし 全てが暗かった70年代後半が終わって1980年で空気が変わった。
更に1984年末位からバブルに向かう空気になった。
これはリアルタイムでないと判らないよね。
名阪ノンストップも78年位が一番底辺だよ。 >>31
名阪の底はもう少し前じゃないかな?
76年11月に国鉄の大幅運賃値上げがあって、その後は回復傾向にあったから。
78年暮れには30000系がデビューして当初は伊勢志摩特急主体の運用だったけど、好評且つ車両の運用上の都合もあって名阪に投入される機会も増えていった。 今は鉄道好きで有名だが、この頃ネクラという言葉を
流行らせたのはタモリなんだよな。
世間では鉄道マニア(オタクという言葉はまだ無い)は
その代表のように扱われてたw >>30 70年代後半の近鉄、そんなに暗かったか?
名阪ノンストップは最悪の時期だったが、伊勢志摩特急は京都行きと難波行きの併結10連が走ってた頃。
この時期に名古屋線と京都・橿原線乗ったけど、バブル期ほどの派手さはないとはいえ、余裕ある感じだった。 >>32
たしかに76年の国運賃値上げ以降徐々に回復しつつあっただろうけど
80年代に入ってもしばらくは利用が伸び悩んでいた阪奈特急と名阪甲は共通運用が組まれていたし
本格的に回復してきたのは80年代中盤以降じゃないかな。 名阪甲は81年は2連運用は解消したよ。
中盤には休日とか6連も走ってたしな。 >>31
>>32
>>35
12410が作られ、11400が更新されたころが復調の兆し。
それまでほとんど2連だったのが、徐々に3連が増えていった。
80年代半ばころは3〜4連だったかな、アーバン投入前の86年3月に撮った写真に、
名阪甲で運用される11400*3連がある。 >>33
今でもオタはキモいと思われているよ
大概服装とか髪型に無頓着だし野球とか下手 昔の鉄オタは大抵野球好きだよ、特に関西私鉄ファンはデフォ。
それに80年代以前は男がファッションにこだわる事なんて
今よりずっと少ないからな。音楽系も汚い奴ばっかだし
体育会系なんて臭い汚いで論外だしな。
80年代以降は明るさを求めるあまり、鉄道趣味のような真面目な世界を
暗いとバカにするようになったんだよ。 >>39
鉄オタより、運動部系のほうがはるかにモテてたとおもうが
本命が主流だったバレンタインに、チョコもらうのは男臭い柔道部等も含めて運動部系
鉄オタはこっそりもらっていたのかも知れないが 運動神経のいい奴はモテるが男がファッションに拘るのは邪道、という時代。
ファッションでも当時ヤンキー文化だし。
大体運動部は殆ど坊主だしな、それに柔道部は全然モテてなかったぞw
文系は大半刈り上げ黒縁眼鏡だが清潔感はあった。
マジメな奴多かったから暗いとされたんだしな。 野球部は人数多い分鉄道マニアも多かったぞ。
屋敷なんてガチだしな。小久保も昔は鉄道ファンに投稿してる位だ。
大体当時はSLやブルトレブームもあっただろ。 >>37
アーバン登場直後も名阪甲で11400の運用あったよ。
確か午後の名古屋行き。
11522に乗った覚えがある。 アーバン登場と同時に甲特急の120km運転開始
11400などは120km対応を見送り、ではなかったか? アーバン登場までの80年代、名阪甲に11400が比較的よく充当されていたイメージがあるけど
あれは3連が当時の名阪甲の需要に見合っていたからなのかな。 >>36
解消されたのは1980年だな。
決定版近鉄特急にそう書いている。
全列車2連を取りやめたのも1977年1月だしな。 >>27-28
逆に西武では窓周りのグレー塗装をやめて黄色1色にしてるんだがな…。
京成もツートンやめたしな。 >>35
有料の阪奈特急は登場当時こそ客が少なかったけど(それで当初は2連でも事足りた)、
80年代以降は通勤ライナー的な特急として特に平日朝晩の利用が急増したからな。 >>47
黄色なんて思いっきり明るい色だと思うが。 >>46
全列車2連ってなんだろう?
10100は登場以来廃車まで名阪甲にはずっと途切れず運用に入ってたよ。 >>51
1976年の一時期は名阪甲は終日2両編成で車両も京都・奈良線用の18200まで
入ってきていた。10100が入っていたのは名阪乙。 近鉄の黄金期は1985年〜1994年だと思う
1985年に都ホテル大阪や近鉄劇場開業
1988年にアーバンライナー登場、近鉄百貨店あべの店大増床
1989年に近鉄バファローズリーグ優勝
1994年に志摩スペイン村開業、伊勢志摩ライナー登場
その後2008年くらいまでが近鉄グループどん底時代 >>52
盆暮れ正月などの混雑時には10100が入っていたんじゃないかな。
1977年なら8月に、10109の名阪甲に当たったことがある。
1978年8月だと、名古屋線所属の11400の3連が名阪甲に入っていた。
終日名阪甲→N2両をつないで賢島特急(名伊甲主体の運用)
を繰り返していた。(NはN21〜N25の名古屋線所属車) >>52
1976年3月以降は10100が運用されたのは殆どが名伊とか阪伊だったと思うけどな。
乙特急以外にも賢島行き甲特急の運用なんかにもよく入ってたし。 >>51
決定版近鉄特急の記事では1976年変更で10100は名阪甲特急の運用から外れたと書いてあったぞ。
しかしこの年の秋の悪名高き伝説の国鉄の運賃の大値上げで近鉄特急に客が戻り全列車2連の名阪甲特急では満席積み残しを出すことが多発したから急遽1977年の変更で早くも全列車2連をやめて一部3連〜4連に増やしてる。 決定版もガセ多いよ、大体写真入れ替わったり単純ミスも多い。
現実は10100は運用外れていなかったしな。 >>55
10100は1976年3月改正で名阪乙は朝晩に、
名阪甲には多客を中心に定期的に運用されていたのは実見している。
当時自宅から大阪線が見える環境だで
写真でも記録してたから間違いないはず。 76年3月改正は青山新線開通後初めての改正で
車両異動も流動的だったんだよ。10100も晩年だが改造が加えられたり
名阪甲も本数が削減されたので改正当初基本が二連になったが
実際は春夏休みや休日主体の運用に入れられていたんだろう。
当時の近鉄は基本的に増結や変更は日常的だしな。 当時はまだ国鉄運賃が高騰する前だったから名阪ノンストップも終日2両が常態化してたけど、
1975年にスト権ストで国鉄が8日間止まった時とかは全盛期並みに6両で走ったこともあったし、
新幹線が補修工事で半日運休した日の午前中なんかも増結や4連車への変更など臨機応変にやってたからな。 10100系は晩年は阪奈特急や京奈特急、京橿特急の運用にも入っていたようだが、
3両編成での運転が多かったようだ 逆に長編成だと1976年の改正時点では上本町18時代が
10100重連+12200の8両運用阪伊乙であった。
また名古屋16時発が10100運用に代わっていた事が多い。 >>62
77年8月に乗った118が前からS6V18V1だった スナックカーがスナックコーナーを営業していた頃は、そこのメニューの中華ランチは
美味かったらしいが、晩年はその中華ランチは無くなり、まずいカレーライスくらいしかなかったらしい 残念ながら過去の近鉄関連の資料本の信憑性は
かなり怪しい部分が多いのも事実なんだよな。
公式と言っていいはずの鹿島氏を始め、
書き手の主観が反映されすぎている。
未だに名阪特急はアーバンライナー登場で復活したなんて書いてる
バカ本も出てる位だし。 鹿島本のシュリーレン推しとか
本によって違う12410・12600の愛称など >>65
鹿島氏、RPの特集で2200新の雨樋の件からファンにブチ切れていたな。 wikipediaを参考文献にするマヌケもいるしな >>68
三好氏の本もWikiを参考文献の1つに挙げているなw
>>59-60
あとは国鉄のストとか新幹線の若返り工事や事故の際にも3連以上があったらしい。
しかし全列車2連が原則なのを取りやめて基本が3連以上の列車が正式に復活したのは>>56にあるように1977年1月18日のダイヤ変更が正しい。 南大阪線の大阪市内が地上時代の動画や画像が少ないんだよな
直上高架とかいろいろ面白そうな点があるのに >>71
輸送量だろ。それまでノンストップが
スナックニ連で走ってたとか平気で書いてる本もある。 そもそも1967年以降で3連以上がイレギュラーを除く定期で名阪甲にまったく入っていなかった期間ってあるの?
12000・12200の登場によって名阪甲の運用に入る10100系18編成中12編成(だったか?)にスナックコーナーが設置されたわけだから
少なくとも10100は常に何往復かは運用に就いていたのではないのかな? >>70
ポケ判でいろいろ撮ってある
この先もしブログ作って載せたときはここで言うよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています