知ってたらおじいさん©2ch.net
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日本初の二階建て電車、近鉄の初代ビスタカー・新幹線100系は実乗したことはあるが、
あと創生期の大阪市電の二階建ては博物館展示の物を・北欧のブラックプールの市電
も二階建て(こればNHKの番組で) しかし下記の物は全く知らなくて、驚愕した。
https://twitter.com/i/status/1380065643366584320
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>567 >>569
日没後は番小屋に吊るした長い棒の先に付いた白熱電球のカンテラを振っていた。
家の玄関灯に丁度良いと思うので、あのカンテラが欲しい。ヤフオクで探しても、
なかなか出て来ない。「鉄道標識灯」でクグれば、ポイント用標識灯ばかりだ・・・・・ >>539
>小田急の2回脱線した吊り掛け4000と1800の魔の連結
実際に4000+1800に乗っていました
4000のモーター音がうるさいほど大きかったです
朝の急行は8両、夏は冷房の関係で5000系主体の準急を選ぶ人もいましたね 加山雄三の父殿が活躍してるの
知ってるってことは、このスレ50代どころか100才とか平気でいそうだな。 つい最近の事だったかと思うんじゃがのう・・・国鉄の各駅・ホームに大きなポスター
「discover japann」とか「夫婦の年齢合計で100歳以上ならば大幅割引」(上原謙・高
峰三枝子)のポスターが貼ってあったのは・・・・ 佐野周二・佐分利信は写真さえ早
うに見かけなくなっておったんじゃが・・・ 上原謙は「男性かつら」のTVCMにも出て
おったのう・・・ 因みにオレはその頃、大学生か社会人3年生位じゃった。 思い出してクグッタら「フルムーン夫婦グリーンパス 夫婦合計で88歳以上で同一
行程で適用、入籍の如何は問わず」1981年発売じゃったのう・・・・ >>573
え!その当時大学生ってことは
90才前後ってこと? >>575
何しろ昔の「鉄チャン」は古いもの)女は除く)なら何でも好きでのう。古い映画・
音楽、ナツメロ、軍歌・・・ ワシは今夏から厚生年金を受給する歳なんじゃ・・・・ >>576
特養に勤めている彼女はなんと軍歌を知っている。
先日右翼の宣伝カーが軍歌を流しながら走っていたら、「この歌知っている」
入所している90歳くらいのおじいちゃんがCDで聞いているので覚えてしまったとか。 >>577
その右翼の車の走行も殆ど見かけなくなってしまったなァ・・・静かで良いが。或る
サイトに「人間は14歳位に聞いた音楽が一生心の中に残る」とあった。俺の中学の
頃はコロムビアトップライト司会の「懐かしの歌声」・大久保怜の「帰ってきた歌謡曲」
をよく見ていたので、また旧国電車のMT30・MT40の音と共に今でも心の底に残っ
ている。 >>577さんへ 578をカキコした者だが、彼女に聞いといて欲しい。各軍歌の歌いだし。
@「花も蕾の若桜、五尺の命引っ下げて、国の大事に殉ずるは、我ら学徒の本分ぞ」
A「丘にはためくあの日の丸を、仰ぎ眺めるわれ等の瞳、いつかあふるる感謝の涙」
B「主は召されてみ国の勇士、わたしや銃後の花嫁御寮、主の形見の可愛い青馬に」
彼女、ご存知かな? これを聞いていれば相当の爺さんだ・・「鉄」の話でスマソかった。 また映画の話で悪いのう。満鉄のあじあ号が最後に出てきて木暮実千代と李香蘭が
しばし客車の中で「どちらが大連に残るか」と話をするが、発車時刻が迫り、結局は李
香蘭が降りて見送る。大連駅入線はパシナの牽くあじあ号だが車内はどう見ても違う
ように思うが車内は大きく広い。映画の最初のシーンは李香蘭がアイスホッケーをし
ている。異国情緒たっぷりの映画だ。 S18年満映製作「迎春花」インチュホワ 折角のこのスレ保持の為にもう少しカキコするがスマソ・・ワシは古い物が好き
で満州の小国旗を持っておるが、旗日(祝日)に「日の丸」と共に表玄関に掲げ
たいと思うが近所の人がどう思うか・・気になって実行できん。ついでに「あじあ
号」写真を拡大コピーして貼ろうかのう・・ ついでに「君も行かう、北支の新天地
へ、満蒙の開拓に」も・・・・ このtubeで見れる「迎春花」の主人公 李香蘭は22歳 木暮実千代は23歳だ
とてもしっかり大人びているというか、老けているのう・・・今のAKBの娘
らとはえらい違いじゃ・・・ 満州の小旗じゃが、俗に言う五色旗で黄色の基本色に左上部4分の1に上から
赤・青・白・黒が配色されておる。知る人は知るが、知らぬ人は新興宗教(池田
犬○先生)の三色旗の熱狂信者と誤解されるのが怖くてのう・・・躊躇するんじゃ。 かっての阪神電車特急は梅田を出ると、西宮までノンストップだった。
その次の停車は阪神芦屋だ。尼崎のややこしい線路配置をそんなに
スピードを落とさずに通過していた..。西宮に着くと、運転士を目掛けて
10m程はなれた番小屋のようなところから手篭を下げたおばちゃんが
幅50cm位の電車目前の踏み切りを渡り、ホームに上がって乗務員扉
の窓越しに布おしぼりを渡して、それで運転士は顔と首周りを拭いて、
返してから、再度運転に励んでいた。その風景はとても面白かった。
いつ頃から始まったのだろう・・・・・
.
、 その頃の阪神梅田駅の乗り場案内看板は「特急電車・特急・急行電車・急行
普通電車・普通」ではなく「特急車・急行車・普通車」と表示されていた。慣れぬ
目には奇異だった。 もうその最後の頃は野田〜淀川〜姫島〜千船〜杭瀬〜大物〜尼崎〜出屋敷
〜プール前〜武庫川間は高架になっていた。大阪市営地下鉄御堂筋線運転の
真っ暗い中、たまに白熱電球が点灯しているだけの見通しが悪い中に加えて、
動物園前を出て、大国町直前の90度急カーブや難波・梅田進入のカーブ運転
の方が恐怖で気を遣う、トンネル内への無断侵入者を轢く危険が高いのに・・・
大交労組は何も要求に挙げなかったのかな・・・と思った。 >>579
ラインで聞いてみました。
残念ながら全部知らないそうです。その方がよく聞くのは
@エンジンの音ゴウゴウと
Aさらばラバウルよ
B朝だ夜明けだうしおのいぶき
Cここはお国の何百里
Dどこまで続くぬかるみぞ
Eじょしゅうじょしゅうと人馬は続く
などだそうです。 >>587 さん
どうも有り難うございました。いい彼女ですね。そこまで覚えて居られるとは・・・・
貴方もそこまでご記入下さりたいした方です。敬服!!
その爺さんは当時としてはごく普通の方ですね。私が記した歌はあまり一般的では
無い歌で、CDにもあまり入っておりません。爺さんの程度(失礼!)が知りたかった
のです。忙しいのに申しわけなかったです。 >>587さん
歌の題名です・・・・
@エンジンの音ゴウゴウと (加藤戦闘隊)
Aさらばラバウルよ (ラバウル小唄)
B朝だ夜明けだうしおのいぶき (月月火水木金金)
Cここはお国の何百里 (戦友)
Dどこまで続くぬかるみぞ 続き 雨降り続く鉄兜)題名忘却
Eじょしゅうじょしゅうと人馬は続く (麦と兵隊)
などだそうです。 >>590 さんへ どうも有り難う。度忘れしました。
歌詞が軍歌の中では最短の歌でしたね。 現在開催が揉めに揉めている東京五輪だがこんな歌を思いだした。
「は〜 あの日ローマで眺めた月が、今日は都の空照らす。5年経ったら又逢いましょ
と、固い約束夢じゃ無い。ちょいとそら夢じゃ無い。オリンピックの顔と顔〜」
その頃オレは子供だったのでその意味が皆目分らなかった。 しかし良く分かったの
は今のTVが毎日毎日新型コロナについて解説しているように、こんな番組をやって
いた。 司会者「今度できる新型特急はどんなのですか?」 解説者「今までの
軌道幅よりも更に広くて、レールも1mあたり60kgと大きいのです」とスタジオ画面
に車輪と線路を置いて説明していた。これは子供心に拘らず非常に理解できていた
のが今になってとても不思議・・・・・・ 592に続く、スマソ。
あの頃は幼いながらに出場選手の名前、顔をよく覚えたなァ・・・・
アベベ、君原、円谷、重量挙げの三宅兄弟(三宅宏美の父) バレーボールの
大松監督等々・・・ 特に三宅が出ていた場面は今でも昨日のように目に浮ぶ。 ところが不思議なことにあれ依頼色々な冬季のオリンピックの際にさえ
500円等の記念硬貨を発行していたが、現在はその雰囲気さえも微塵も
ない。電車ボデーの半分ずつを色違いに塗り分けていた昭和15年当時
のようなことをしろとは言わないが・・・ 本当にやる気が有るのか? そうだな。記念切手の発行のPRも全く見かけないな。年賀状さえ使用の
3ヶ月前から予約取りをしてるのにな。オリンピックほんまにする気あ
るんかいな。 木製窓、特に3段窓の車窓の外に見える北千住のおばけ煙突群、大阪城等
他の乗客の迷惑を考えなければ、好きな場所の窓をどこでも開けられた。 阪神電鉄の西九条〜三宮間で運転されていた「西大阪特急」 関東の方には申し訳ないが、153系新快速の姫路駅到着前の乗換え案内。
「ご乗車お疲れ様でした、間もなく終着姫路です。乗換えのご案内を申し上げ
ます。山陽線普通電車の岡山行きは5番のりば、赤穂線周りの岡山行きは
6番のりば、姫新線普通列車の津山行きは西1番のりば、播但線普通列車
和田山行きは東1番のりばへお回り下さい。新幹線は橋を渡って新幹線の
りば、次の東京行き上りひかり○○○号は・・・・」 新快速はすべて姫路止め、
姫路には東1・2番 西1番。2番があった。懐かしい・・・・・ 姫路駅には、播但線の支線の飾磨港線が発着していた西7番線もあった >>599
昔の新快速は停車駅も少なくて快適だったね。
下りの姫路行きの西明石通過も懐かしい。 新快速153系は1両毎にトイレ・洗面所があり、とても豪華だった。京都方面から電
車が大阪に到着しても乗客が半数以上入れ替わり、どこにでも好きな所に座れた。
2人でワンボックスを占領できたことも多々あった。座席の転換をしないので目前
に他人が座っても、間隔を確保できたのでゆったりしていた。 車内の化粧板は薄
紫・ラベンダー色で、上品な気分を味わえた。 昭和55年の春に新快速用に新造された117系の留置展示会(大阪駅1番線)が行
われた。車内は茶色木目のデコラ化粧板で、窓はぶ厚かった。こんなのに置き換
えるのかと思うと非常に淋しかった。 後日置き換えて実運行に入り乗ってみると
モーター音がワーンワーンと煩かった。 >>603
新幹線停車駅は2つ(京都、姫路)しか止まらなかった時代ですね また関西限定の話をカキコでスマソが・・・よく通学に利用したのが、大阪8;30分発の
福知山線普通列車篠山口行きで尼崎に8;39分に着く、その横を大阪8;32分初の西
明石行き旧国が同時到着するので、それに乗り換えて神戸市内の学校へ行っていた。
ガラベンが残るクモハ51010に乗っていて気が付いたのが、旧国は窓枠を手を離し
ても一気に下に落ちてしまわないように、枠の左右に見えぬように隠して板巻きのバネ
が貼りつけてあり、窓間の柱上部で巻いて固定してあった。また枠の内側に真鍮製の
丸コロも付いていた。本当に昔の電車は凝った造りをしていたのだなァ・・・・ 昔、テレビのCMで、岩下志麻出演のオッペン化粧品のキャッチコピーで『海岸通り
のぶどう色』とよく流れていた。あれは本当は欧州スペイン、ポルトガル辺りのイメ
ージで作られたそうだが、『鉄』のオレはいつも須磨海岸沿い付近を走行している
73・72系の7連が目に浮んでいた。 昭和51年、京都〜大阪間で運転されたC571牽引による京阪100年号
撮り鉄が東海道本線の線路内に入り込むなどして、沿線には多くの見物人が集まっていた
その上り列車が線路内に入り込んでいた男児と接触して、男児は死亡。
牽引機のC571は高槻で電気機関車に付け替えられ、列車は京都まで運転された。 S47年の秋 京都〜姫路間に運行されたC62+12系客車の「白鷺号」は何事も
なく無事に終わったのにね。 12系で思い出したが、紀勢線の臨時急行きのくに
51号の客車の所属標記を見て驚いた「盛モカ」とあった、はるばる盛岡から借り
て運行していた。 あと100円引き特急「しおじ51号」12系使用も懐かしい。 >>600
飾磨港行のりました
キハ47の2両、ガラガラというわけではなく、思ったより人が乗っていて少しびっくり
本当に駅のはずれという感じでした
飾磨港駅は、思ったより立派な駅だった記憶です >>612
その昔は客船の乗り継ぎとかもあったんですかね。 >>612 姫路駅 旧西7番『本当に駅のはずれという感じでした 』
H18年3月の高架切替前に地平の姫路駅へのお別れ撮り鉄に行ってきた。
旧西7番線は本当に寂しい西の外れで、3両が停まればいっぱいで、高さ
もまるで路面電車の停留場のようでした。 また、姫路駅で思い出した。 映画の話でスマソ・・・ 松竹映画「女の園」 現在
はtubeで見れないが・・田村高広・高峰秀子・岸恵子主演で最後のシーンは高峰
秀子がお城の天守閣の窓からハンカチを振り、田村がC59の牽く客レの最後尾
車から手を振って別れを惜しんでいる。その車両がオハフ33丸妻だったり、オハ
フ61だったりとごろごろ変わるのがケッタイだ。現在のような高い建物もなく、市
川橋梁を渡る列車からは、天守閣で振るハンカチが良く見えていた。
駅前の大手前通りが未舗装だった。 飾磨港線は新日鐵絡みの貨物有きだったからね
C11重連で1000トンけん引していた程だったから >>616 そうだったね。広畑には大きな工場があったね。山陽電車の網干付近には
昔、製塩のための(稲藁を逆さに吊るしたところに塩水を垂らし、乾かして作る)塩田
が広がっていたのを覚えている。 子供の頃、親戚へ連れて行かれる時に、姫路駅前から龍野まで神姫バスに乗った
が、現在の大手前通りを通らずに、1本東にある暗いアーケードのある御幸通りを
ゆるゆる通って国道2号へ出ていたのを覚えている。当時はバスも小型の(犬バス)
だったので可能だったのだろう。 その後覚えているのは「ヒガシマル醤油」のTVの
CMでで山陽本線を走る黒い貨物列車が出てくるのを楽しみにしていた。 特に、日曜日の昼に放送されていた大久保怜司会による「素人名人会」
の際は必ずこのCMが流れていた。しかし何故醤油の工場は「本竜野」
近くに有るのに、CMでは『山陽本線、龍野の〜云々』と言いながら、貨
物列車が出ていたのだろう・・・・・不思議だった。 学生の頃、ディスコで踊るのが流行し、同学年の者が大挙して行っていたが、
俺は「あんな所に行くよりは、姫路〜岡山間90分の80系電車のMT40
の唸り音、起動・制動時のビリビリ・ゴーッ音を楽しむ方が何十倍も面白い
のに!!」と思い、一度もディスコへは行かなかった。特に断面の狭い船坂
トンネルを通過するときは車内が台風の暴風状態と共に駅間の長い上郡〜三
石のノッチ力行連続は最高だった。小遣いを貯めては大阪から度々乗りに行
っていた。「小説 雪国の文中でトンネルを抜けるとそこは雪国だった」の
如く、姫路を抜けるとそこは別世界だった」のだ。 或るとき、それで岡山に到着した。その車両がホームから去ったあと駅の放送が
「間もなく快速広島行が入線到着します」と流れた。多分153系だろうと思って
いたら。クハ86の全面3枚窓他6連だった。ぜひともこれに乗って行きたかったが、
財布の中身と時間(夕方)の問題が絡んだので、後ろ髪引かれる思いで、下りの
姫路行きに乗って帰ってきた。 >>620
鉄ヲタがディスコやクラブに行くなんて昔も今も考えられないね。 >>622
丁度その頃「トップレス喫茶」が流行り出していた。後輩が間違って入店
してしまった。「デート喫茶」も然りだった。俺ら3人のした話は終始
『鉄話』だった。高い代金、コーヒー1杯1000円・デート喫茶9000円は罰と
して後輩に支払わせた。デート喫茶の汚いネエチャン3人は呆れていた・・・ 国鉄宇品線
晩年は通勤定期券・通学定期券所持客しか乗車できず、時刻表にも宇品線は掲載されなくなっていた 昔、広島旅行をした時、宇品線のホームを探そうと到着前に車窓を見ていたら、
知らぬ間に主に下り優等車発着に使う1番ホームに着いてしまった。余程気を
付けて置かないと目に入らないホームだったのには驚いた。 556 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2018/03/10(土) 01:38:18.94 ID:FZiA9sdL
駅弁が最初に売られたのは明治18年7月16日、おにぎり2つにタクアン2きれで5銭・・・
駅弁での幕の内は明治22年に姫路駅からで、そこから色んな駅で各名産品を使った駅弁が次々と誕生したってこないだEテレの趣味どきっ!お弁当大百科でやってたな
駅弁ならでわの各地のバラエティは確かに楽しいもんね >>626
姫路駅のラーメン風そばはいつからですか? >>627
姫路一回しか行った事ねえからわがんね
学生時代の友人に姫路の人いていろいろ案内してもらって楽しかったな >>627
現在のまねき軒の駅そばは何時からかわからない。俺の幼児時代は固い思い陶器の
大衆食堂のような器に入っていたのを食った覚えがある。今のように美味しくなかった。
現在のようにプラ製の器に入って美味しくなったのはS40年代と思う。あの味は何杯
食っても美味しい。まるで麻薬でも入っているのかと・・・それに引き換え福知山駅に
あった鬼そばは値段が鬼のように高価で、美味しくなかった。 福知山の駅そばは偉そうに「鬼そば」とメニューに書いてあったが、出て
きたのはそこらへんの素そばで、おまけに40年前で400円だった。正に
値段から して正に『鬼そば』だった。そこへいくと姫路のそばは280円で何度
も食いたくなる不思議なそばだった。容器を持って車内で食っても怒ら
れない。ウチにもそのプラ容器が2ツある。10年程前だったか、どこ
さメーカーが「姫路の駅そば」と銘うってカップラーメン的な物を出
したので食ってみたがあんなに美味くはなかった・・・・
やはり姫路1番と3番の間にある中通過線をEF60+黒貨物が通過す
る音を聞きながら食べるのが最高だったナァ・・・・・・ 清水港線の清水駅も、相当の駅外れにありました
知っている通勤客(実際は通学客)は、迷わないんだろうけど 今から丁度4年前のこの時期に戦前のタカラジェンヌ・女優の月丘夢路さんが
逝去された。阪急電車の六甲北側にある高羽小学校と生徒が舞台となる映画
「新雪」、歌でも灰田勝彦の「新雪」(紫けむる新雪の峰ふり仰ぐこの心〜)
映画は当時の六甲駅に2両の820型が着き、主役の月丘の他に、水島道太郎
=教師(当時は訓導と称した)が下車するところから始まる。オレはこの歌が
大好きだ。本来映画中では月丘夢路が阪神電車に乗り、車窓から六甲連山を眺
めているシーンがあったはずだが、ソ連で見つかった原版にはそれが欠落して
いた。阪神の小型車と乗客の月丘夢路、見たかったナァ・、
153系新快速の内装の薄紫・ラベンダー色と車窓から少し離れた武庫川橋梁
から見えた六甲連山のイメージがよく調和していた >>636
突っ込みどころ満載だわな
まずこの映画「新雪」は1942年製作でその時代に800や810なんぞがいる筈もなし
そもそも阪急に820型なんてのは存在しない >>637
スマヌ、スマヌ今DVDで確認したら900型だった。ウロ覚えはイカンね。 >>639 暖房車「スヌ」「マヌ」
中学の頃、関西線の竜華に留めてあったこの類の車に無断で乗ってみたら、なんと
B6機関車ような車輪無しボデー前半分が入っていた。非常に驚いたが、何が何だ
か理解できなかった・・・ 泉北高速鉄道は、開業当初は泉ヶ丘が終点だったが、当時は泉北ニュータウンは
まだ造成中で、団地も幹線道路も何もなく、深井駅周辺は田園地帯、
電車は何もないところを走っていた。 千葉の北総線もそんな感じだったね
開業当初の小室駅の地の果て感 >>641 済みませんが一寸お尋ねさせて頂きたいですが、30年程前には
難波〜新今宮まで乗ったときは、「この電車は泉北ニュータウン方面
光明池行き準急です」とアナウンスを行っていましたが、現在でも「ニ
ュータウン」と言う語は使用しているのでしょうか??
私は「難波〜天下茶屋経由〜天王寺」の定期券と「新今宮〜美章園」の
定期券を買って通勤しておりました。まだ定期券は手書き・スタンプ・
運賃計算は算盤の時代で南海1521型にはお世話になりました。 東北や北陸の大雪が原因で、関西発九州ブルトレが運休した事。 644 様 早速にどうも有り難うございました。南海に乗らなくなって随分
久しいので知りませんでした。ヤンタンもやり変えたし、高齢者が多くなり
坂道も障がいになりだしたし、果たしてニュータウンなのかな?と思って
おりました。 厚くお礼いたします。 いえいえ。お役に立てたのでしたら何よりです。
多摩ニュータウンもまだニュータウンですし、「新開地」や「〇〇新田」のように
何かあって改名するまで延々とニュータウンなのではないかと思います。 車内にテレビ付きの特急車両を登場させたのは、京阪電鉄ではなく、
京成電鉄で特急「開運号」にテレビ付き車両が連結されていた >>599 スレ保守のため
姫路駅到着関係の車内放送で申し訳ないが、80系各停上り電車で15時半頃だったか、
『次は終着姫路、姫路でございます。5番のりばに着きます、乗換えのご案内を致します、
神戸、大阪方面へおいでのお客様、新快速は運転を終了しております。快速電車をご利
用ください。明石まで各駅停車、明石から快速になります大垣i行きは降りられましたホー
ム反対側、4番のりばから、〜云々〜』 昔は3時を過ぎると新快速は無かった・・・・ 姫路〜大阪間は新快速なら1時間15分のところが、113系快速になると1時間45分
かかった。時間だけでなく、車両の台車、揺れも悪くなる。この差の疲れは大きかった。
広島・岡山から上りで大阪へ帰るなら、時間を考えて行動しなければならなかった。 また山陽線ネタでスマソが、昭和48年頃、遵法闘争華やかなりし頃、元々、
三ノ宮・元町・神戸・兵庫付近は快速でもゆるゆると走っていたが、よく途中
で立ち止まってしまっていた。(俗に、窓から手や顔を出してはいけませんと
注意書きが有ったが) オレは113系の窓から手を伸ばして架線柱を触った
り叩いたりして喜んでいた。現在ではそんなことは不可能だ。
大阪駅でダイヤが乱れたとき5番・6番ホームにに姫路方面快速が並んで
停車した時、駅の鳴き屋同士が放送で公に喧嘩していた。(どちらを先に発
車させるかと) 結局は5分を置かず出発した。 >>649
> 昔は3時を過ぎると新快速は無かった・・・・
嘘
153系時代の上り新快速は姫路15時45分発大阪17時02分着がラスト 子供の頃、奈良のドリームランドへ連れていってもらった。奈良〜油坂
を歩いていたら車高の高い、車輪、床下機器丸見えの大きな長い車両が
通り過ぎていった。見慣れていないので巻き込まれそうで非常に怖かっ
た。京阪京津線は短いし、名鉄電車は知らなかったし・・・丁度、阪堺
電車の姫松〜帝塚山4丁目位の雰囲気の場所だった。 阪和線の区間快速は、かつては、直行という電車だった 153系電車の客室窓枠はアルミサッシであったが、実はこのアルミ枠の内部には
少し細い同型の木枠が詰まっていた。強いて言えば木枠の窓を分厚い固いアルミ
ホイルを巻いていたような構造である。その証拠に昭和57年に広島地区で廃車に
なったものを徳庵にある近畿車輛の空き地で解体していたのを上下枠一式拾って
きてみて驚いた。どうりで走行中にガタピシとあまりうるさくなかったと思った。 同解体場所には色々なパーツ等が転がっていた。トイレ内の三角コーナー汚物
入れやデッキにあった大きな(下関駅とかいた)アルミのゴミ箱、東海型ベンチレ
ーター等々。 下から実物を見ていると小さいが、落ちているのを持ってみると以
外に大きく重たい、汚いので持ち帰りはやめておいた、 阪和線の新快速なら、乗ったことがある
停車駅は鳳だけだった頃です 東京神田須田町 万世橋駅前に 広瀬中佐の銅像があったと祖父から聞いた。 >>659
轟く砲音 飛び来る弾丸
荒波荒ふ デッキの上に
闇を貫く 中佐の叫び
杉野は何処 杉野はいずや
偉大な軍人さんもいたんだね >>660
よく覚えて居られ間すね。敬服!! しかし、杉野兵曹長は生きて居られたそうですね。 映画「大空の決戦へ」 (若鷲の歌)のシーンの中で原節子が弟を見舞いに
きた海軍兵士たちに「私も須田町であなた方の行進を応援していたのよ」と
言っている場面に 広瀬中佐の像が立っている 「鉄」の話でなくスマソ・・・ 映画「大空の決戦へ」に於ける配役 少年飛行7兵の指導役=高田稔
高田稔は当時の人気女優、入江たか子と実際に高原療養所(結核病院)
で「月よりの使者」のロケを行った。同じく 山本富士子も菅原謙二と
高原療養所で、同題の映画ロケ。 「江ノ島エレジー」でも 江ノ島海岸の
結核療養所で久我よし子が看護婦役を演じている。空気感染の可能性が
大きいのに拘らず、当時は何の予防服も着ずに患者に接していた。
海岸沿いにパラソルを立てて、患者に寄り沿って本を読んであげていた。
江ノ島療養所は現在のサーフィンの格好場となっているところに幾つか
存在した。その名残りは他の診療科の病院として残っている。実の江ノ電
沿線だ。現在世界中で大騒ぎしている病気への扱いとはえらい違いだ・・・ アニメ映画「風立ちぬ」でも舞台は結核療養所だなァ・・・
上記の各カキコ中、誤打ち込みが有るのは本当にスマソ・・・ 南満州鉄道 特急あじあ(大連〜ハルピン)はイメージ的には画像に良く出て
くる「パシナ」が全区間を牽引したことになっているが、新京(満州国の首都)
以北は「パシロ」が牽引していた。路盤が弱かったため。俺は超老人だ・・・ 昭和40年代 153系電車の車両が不足したので、客車のスハ43をサハ153へ
改造する構想があった。しかし重いだろうなあ・・ 昭和52年だったか、オレが大学3年の或る日、東海道線 甲子園口〜立花間の
武庫川橋梁を渡り終えた外側線走行中の上りコンテナ貨物が脱線、転覆した、
もう少しで、後続していた内側線を走行中の新快速153系が巻き添えになると
ころだった。オレはまだ学校内に居てこれから帰宅しようとしていて、青くなっ
た。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています