知ってたらおじいさん©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
JR東海道線山科駅の高架下の歩行者用の通路が駅改札内の通路で、今でも奇跡的に残ってる「京都、大阪、神戸方面」の表記を見て、現在は埋められている階段を登ってホームに上がってた時代 知ってたらおじさんってまた変なおじさんが現れたのかと思ったわ。 錦糸町駅北口のアルカキットなどがある場所に、天沼工場という鉄道車両メーカーがあったこと 153系急行が両国駅から発車してその、153系急行に山口百恵が乗ってたこと。
https://youtu.be/vlsi01dAT9U 名古屋駅は開業当初、「名護屋」という駅名で、翌年、「名古屋」と改称されたこと >>515
45分15秒以降だね
いい日旅立ちだったのかな? 国鉄の最低運賃10円
子ども5円。
東中野からお茶の水まで5円だったよ。昭和30年 駅のホームから線路へ向けて放尿しても誰からも咎められない。
>>507 のように車内で乳房を出して授乳しても奇異な目で見られない
女の裸体は劇場での踊りや、女郎屋で一種の「芸術」的な目で眺めて
楽しむもの。美人を視姦したり、大衆食堂の姉ちゃんの尻を撫でても
セクハラとは言われない。即ち「男一人に、女はトラック3杯の値」だっ
たが常識。 たんツボ
あったよね 白いつぼが駅のようしょようしょに マジ
知っていればおじさん
じゃなくて
おじいさん
だわ
ついていけない >>524
昔々からあった着物姿、赤襦袢のオネエチャン・オバハンが「春」を売っていたお店。 新宿駅で左翼が暴動を起こし、電車や駅構内の施設が破壊された新宿騒乱 >>533
久宝寺停車はキハ35、2両の湊町〜柏原行きで、他は殆どが通過していた。 D51+スハ43系+オハフ13の柳生号・伊賀号シリーズの後に、期間を限定で
日曜日朝に笠置?行きだったか、自転車同伴可能のキハ35の4連の「サイクリ
ング号」が運転された際は、今後はどの線区にも日中、自転車同伴で乗車でき
るようになって行くんだ!と喜んだものだった・・・・・ >>534
奈良行き普通は加美、久宝寺、志紀通過がデフォルトだったね 新今宮駅は、開業当初、南海側に駅は無く、関西線の列車は新今宮駅を通過していた。
南海新今宮駅が設置されて乗換駅となったのは、開業から2年後のこと 小田急の2回脱線した吊り掛け4000と1800の魔の連結 新今宮の話で思い出したんじゃ・・・ 今のホテル経営不況の中、駅の北側に
星野リゾートが大きなホテルを建てておるが、そこは昔、中山太陽堂という有
名な化粧品の工場が有ってのう、「クラブ歯磨」「クラブ化粧品」を作って
おった。昔の映画「朱と緑」の場面で大阪駅に到着するSL列車に乗ってきた
高杉早苗(香川照之の祖母、えろう別嬪じゃ)を高峰三枝子が出迎える場面
が出てきて、それからホーム地下通路を通って改札へ向かうが、壁面に一筆
書きの電飾ネオンサイン「クラブ歯磨」と云うのが飾ってあったのう・・・
それから高杉早苗は大阪駅前からハイヤーに乗って「新大阪ホテル」へ投宿
した。翌日に上原謙(加山雄三の父)が訪ねてきたんじゃ。勿論そのホテル
は今の新幹線の新大阪ではなく、中之島の大阪市役所の5分ほど北西側に聳え
立つ大きな立派なホテルじゃった・・・話が長ごうなってスマンかった・・・ 上記の画面は動画 Shu to midori shu no maki 48分頃から見れる。
とても懐かしいのう・・・・ 大大阪のええ時代じゃった 上原謙、懐かしいですなあ。息子の加山雄三が80超えているんですからねえ。 南海本線の住吉公園行き各駅停車(今宮戎・萩ノ茶屋にも停車) 次の質問に正解できる人は高齢者
@ 実在したのはどれ?
ア 鷲羽山トンネルを通る「鷲羽」
イ 本四備讃線を通る「備讃ライナー」
ウ 板東中学校に通う「板東英二」
A 日本の国鉄でかつて存在したのはどっち?
ア ラックレール区間
イ サードレール区間
ウ ラックレール区間とサードレール区間 山陽電車爆破事件
近鉄奈良線電車爆破事件
横須賀線電車爆破事件
近鉄上本町駅コインロッカー爆破事件 >>543
やべえ。
石田純一やら堺正章やら北大路欣也やら関口宏やらの親父にみんな覚えがある・・ >>549 >>543
佐野周二, 戦前の映画「婚約三羽烏」に上原謙・佐分利信と共演、佐野のアパー
トのベランダから17メートル省電2連・4連が往来するのをぼんやり眺めている。
羨ましいアパートだなァ・・・ 同じく佐野、上原、田中絹代、映画「新道」で
17メートル省電、山手線車内か?が出てくる。他には「蛍の光」夏川大二郎が高
等学女卒業間際の高杉早苗を口説いていると17メートル車(モハ34か?)に
木造電車が挟まれた3連が背景を通過する。各車間の貫通幌は無い!
他には桑野通子(桑野みゆきの母)北見礼子(林与一の母)等の顔が頭をよぎる
危ない危ない。オレも真に老人だ! 佐野周二 一度、大塚のボンカレーのTV CMに起用されていたが、後に松山容子
になった、佐野周二の出演の方が美味しそうだった。 また映画の話で悪いが・・・ 小津安二郎監督作品「晩春」では北鎌倉在住の父娘が揃って
東京方面へ通勤している場面が数分間出てくる。笠智衆・原節子がスカ線のサハ57に乗
って居るが、車窓外の風景が暫く描写されている。車体の揺れ、ローリングが激しい。また
架線柱が複線線路の間に1本立って左右の架線を吊っている何とも古臭い場面が出る。
監督 小津も60歳で逝去したがその画像は現在の85歳相当に見える・・・・ >>548
青大将 の言葉で思い出し、客車特急つばめ・はとに乗車していた「つばめガール
・はとガール」のお姉さんたちの写真を見ると当時の嫁入り前の女性は何故こんな
に太く、老けて見えていたのか,実におばちゃんだ!と不思議で謎だ。昭和42年
の半年間TVドラマ「いつでも君は」は20系客車の食堂車のスタッフの恋愛を描写し
た作品であったが、長沢純・高橋紀子・寺田農 等はそんな老けてなかった。同年
の映画「喜劇 急行列車」の食堂車スタッフ 大原麗子はとてもきれいだった。佐
久間良子はあれで28歳 専務車掌 渥美清の妻役、楠トシエは実齢33歳だ。 オレは例の森元総理の要職ではないから、当時の25歳過ぎの女は女性ではなく、オバチャンとして発言したい。ウチの近所に口うるさい同級生の女が住んでいて何かと
口出ししてきてウザイ。精神的に病んできているので、今度口出ししてきたら、「昔は女は60過ぎたら、交通事故に遭って負傷しても『老女、轢き逃げさる』と新聞に
載ったものだ! もっと自重せえ」と言ってやるつもりで居る・・・・ 横レスだが
被害者の女性
加害者の女
この違いは何だ? 「女」という表現、民法の規定第七百三十二条 配偶者のある者は、重ねて
婚姻をすることができない。 第七百三十三条 女は、前婚の解消又は取消
しの日から六箇月を経過した後でなければ、再婚をすることができない。
「女性」という表現、もう昭和14年の伏水修監督の作品で「東京の女性」
というタイトルで原節子・江波和子(江波杏子の母)立松晃出演で、自動
車のセールスウーマンが先輩、立松の取り合いをする。原節子が19歳と
も思えぬ落ち着いた演技で仕事に励んでいる。当時流行りだした「職業婦
人」の嚆矢だ。終わりの場面は新婚旅行へ旅立つ2人を原が車で併走する。
EF51+W屋根客車の編成が出てくる。もう昭和の始めから女・女性が混用
されていたな。 前556へのレスになっていなくて申し訳ない・・・・ 昔、常磐線の快速が柏駅を通過していた。ホーム自体なかった。
また、野田市からキッコウマンの貨物列車が柏から常磐線に乗り入れていた。
現在まで貨物列車が残っていれば、快速の柏停車は実現しなかったはずだ。
貨物列車が廃止になったおかげで、敷地が生まれ、快速停車が可能になったわけだ。 映画スレへ行け、と言われかねないが保守のためスマソ。
昭和初期の「ダットサン 小型車」が出てくるS12の90分物映画「女医 絹代先生」
27分位より当時28歳だった田中絹代がオープンカー ダットサンを運転している。
その走行効果音をどこから拾ってきたのかは不明だが、とても軽快で良い音を出し
ている。 「鉄」分は3分位に東京青バスから田中絹代が降りた場所の背景に省線
の複々線を木造車を挟んだ3連が出るだけだが・・・ 車のコンパクトな愛嬌と音に
とても聞き惚れた。始めのクレジットに、協力日産自動車東京販売と出る。 身延線の線路は現在のルートで富士駅に入っていたのではなく、
東京方から富士駅に入っていた 阪和線の下り電車が天王寺を発車し、右に大きくカーブし関西線をオーバークロスした
後、R25号線を大きく立派な鉄橋を渡るが、そこには元々大阪市電が平野方面へ延長
される計画があったこと。でなければ大正末期に阪和電鉄建設計画時に於いて、あんな
壮大な橋を掛けるようなことはしない。 戦前〜昭和30年台の80系電車最終製造時までの、電車M車・客車・貨車の
車軸は線路幅の広軌への改軌に備えて、長軸が使用されていたが、改軌は
幻に終った。それが顕著に見れるのは70系・80系のTR48台車だ。台車外
枠と車輪との間には不自然なほどの空間・隙間がある。 上記の「電車M車」は T車の誤りでした。すみません。 奥羽本線福島〜米沢間は直流電化されていて、板谷峠を通過する
キハ181系特急つばさなどの列車補機がEF64だった >>564
板谷峠の交流化が1968年、181系気動車の投入は1970年ではEF64と181系気動車との
接点自体が存在し得ないよ 仙台〜秋田間を北上線経由で結んでいたキハ181系特急「あおば」
共通運用だった「つばさ」の電車化により、急行「きたかみ」に格下げされて廃止 日本初の二階建て電車、近鉄の初代ビスタカー・新幹線100系は実乗したことはあるが、
あと創生期の大阪市電の二階建ては博物館展示の物を・北欧のブラックプールの市電
も二階建て(こればNHKの番組で) しかし下記の物は全く知らなくて、驚愕した。
https://twitter.com/i/status/1380065643366584320
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>567 >>569
日没後は番小屋に吊るした長い棒の先に付いた白熱電球のカンテラを振っていた。
家の玄関灯に丁度良いと思うので、あのカンテラが欲しい。ヤフオクで探しても、
なかなか出て来ない。「鉄道標識灯」でクグれば、ポイント用標識灯ばかりだ・・・・・ >>539
>小田急の2回脱線した吊り掛け4000と1800の魔の連結
実際に4000+1800に乗っていました
4000のモーター音がうるさいほど大きかったです
朝の急行は8両、夏は冷房の関係で5000系主体の準急を選ぶ人もいましたね 加山雄三の父殿が活躍してるの
知ってるってことは、このスレ50代どころか100才とか平気でいそうだな。 つい最近の事だったかと思うんじゃがのう・・・国鉄の各駅・ホームに大きなポスター
「discover japann」とか「夫婦の年齢合計で100歳以上ならば大幅割引」(上原謙・高
峰三枝子)のポスターが貼ってあったのは・・・・ 佐野周二・佐分利信は写真さえ早
うに見かけなくなっておったんじゃが・・・ 上原謙は「男性かつら」のTVCMにも出て
おったのう・・・ 因みにオレはその頃、大学生か社会人3年生位じゃった。 思い出してクグッタら「フルムーン夫婦グリーンパス 夫婦合計で88歳以上で同一
行程で適用、入籍の如何は問わず」1981年発売じゃったのう・・・・ >>573
え!その当時大学生ってことは
90才前後ってこと? >>575
何しろ昔の「鉄チャン」は古いもの)女は除く)なら何でも好きでのう。古い映画・
音楽、ナツメロ、軍歌・・・ ワシは今夏から厚生年金を受給する歳なんじゃ・・・・ >>576
特養に勤めている彼女はなんと軍歌を知っている。
先日右翼の宣伝カーが軍歌を流しながら走っていたら、「この歌知っている」
入所している90歳くらいのおじいちゃんがCDで聞いているので覚えてしまったとか。 >>577
その右翼の車の走行も殆ど見かけなくなってしまったなァ・・・静かで良いが。或る
サイトに「人間は14歳位に聞いた音楽が一生心の中に残る」とあった。俺の中学の
頃はコロムビアトップライト司会の「懐かしの歌声」・大久保怜の「帰ってきた歌謡曲」
をよく見ていたので、また旧国電車のMT30・MT40の音と共に今でも心の底に残っ
ている。 >>577さんへ 578をカキコした者だが、彼女に聞いといて欲しい。各軍歌の歌いだし。
@「花も蕾の若桜、五尺の命引っ下げて、国の大事に殉ずるは、我ら学徒の本分ぞ」
A「丘にはためくあの日の丸を、仰ぎ眺めるわれ等の瞳、いつかあふるる感謝の涙」
B「主は召されてみ国の勇士、わたしや銃後の花嫁御寮、主の形見の可愛い青馬に」
彼女、ご存知かな? これを聞いていれば相当の爺さんだ・・「鉄」の話でスマソかった。 また映画の話で悪いのう。満鉄のあじあ号が最後に出てきて木暮実千代と李香蘭が
しばし客車の中で「どちらが大連に残るか」と話をするが、発車時刻が迫り、結局は李
香蘭が降りて見送る。大連駅入線はパシナの牽くあじあ号だが車内はどう見ても違う
ように思うが車内は大きく広い。映画の最初のシーンは李香蘭がアイスホッケーをし
ている。異国情緒たっぷりの映画だ。 S18年満映製作「迎春花」インチュホワ 折角のこのスレ保持の為にもう少しカキコするがスマソ・・ワシは古い物が好き
で満州の小国旗を持っておるが、旗日(祝日)に「日の丸」と共に表玄関に掲げ
たいと思うが近所の人がどう思うか・・気になって実行できん。ついでに「あじあ
号」写真を拡大コピーして貼ろうかのう・・ ついでに「君も行かう、北支の新天地
へ、満蒙の開拓に」も・・・・ このtubeで見れる「迎春花」の主人公 李香蘭は22歳 木暮実千代は23歳だ
とてもしっかり大人びているというか、老けているのう・・・今のAKBの娘
らとはえらい違いじゃ・・・ 満州の小旗じゃが、俗に言う五色旗で黄色の基本色に左上部4分の1に上から
赤・青・白・黒が配色されておる。知る人は知るが、知らぬ人は新興宗教(池田
犬○先生)の三色旗の熱狂信者と誤解されるのが怖くてのう・・・躊躇するんじゃ。 かっての阪神電車特急は梅田を出ると、西宮までノンストップだった。
その次の停車は阪神芦屋だ。尼崎のややこしい線路配置をそんなに
スピードを落とさずに通過していた..。西宮に着くと、運転士を目掛けて
10m程はなれた番小屋のようなところから手篭を下げたおばちゃんが
幅50cm位の電車目前の踏み切りを渡り、ホームに上がって乗務員扉
の窓越しに布おしぼりを渡して、それで運転士は顔と首周りを拭いて、
返してから、再度運転に励んでいた。その風景はとても面白かった。
いつ頃から始まったのだろう・・・・・
.
、 その頃の阪神梅田駅の乗り場案内看板は「特急電車・特急・急行電車・急行
普通電車・普通」ではなく「特急車・急行車・普通車」と表示されていた。慣れぬ
目には奇異だった。 もうその最後の頃は野田〜淀川〜姫島〜千船〜杭瀬〜大物〜尼崎〜出屋敷
〜プール前〜武庫川間は高架になっていた。大阪市営地下鉄御堂筋線運転の
真っ暗い中、たまに白熱電球が点灯しているだけの見通しが悪い中に加えて、
動物園前を出て、大国町直前の90度急カーブや難波・梅田進入のカーブ運転
の方が恐怖で気を遣う、トンネル内への無断侵入者を轢く危険が高いのに・・・
大交労組は何も要求に挙げなかったのかな・・・と思った。 >>579
ラインで聞いてみました。
残念ながら全部知らないそうです。その方がよく聞くのは
@エンジンの音ゴウゴウと
Aさらばラバウルよ
B朝だ夜明けだうしおのいぶき
Cここはお国の何百里
Dどこまで続くぬかるみぞ
Eじょしゅうじょしゅうと人馬は続く
などだそうです。 >>587 さん
どうも有り難うございました。いい彼女ですね。そこまで覚えて居られるとは・・・・
貴方もそこまでご記入下さりたいした方です。敬服!!
その爺さんは当時としてはごく普通の方ですね。私が記した歌はあまり一般的では
無い歌で、CDにもあまり入っておりません。爺さんの程度(失礼!)が知りたかった
のです。忙しいのに申しわけなかったです。 >>587さん
歌の題名です・・・・
@エンジンの音ゴウゴウと (加藤戦闘隊)
Aさらばラバウルよ (ラバウル小唄)
B朝だ夜明けだうしおのいぶき (月月火水木金金)
Cここはお国の何百里 (戦友)
Dどこまで続くぬかるみぞ 続き 雨降り続く鉄兜)題名忘却
Eじょしゅうじょしゅうと人馬は続く (麦と兵隊)
などだそうです。 >>590 さんへ どうも有り難う。度忘れしました。
歌詞が軍歌の中では最短の歌でしたね。 現在開催が揉めに揉めている東京五輪だがこんな歌を思いだした。
「は〜 あの日ローマで眺めた月が、今日は都の空照らす。5年経ったら又逢いましょ
と、固い約束夢じゃ無い。ちょいとそら夢じゃ無い。オリンピックの顔と顔〜」
その頃オレは子供だったのでその意味が皆目分らなかった。 しかし良く分かったの
は今のTVが毎日毎日新型コロナについて解説しているように、こんな番組をやって
いた。 司会者「今度できる新型特急はどんなのですか?」 解説者「今までの
軌道幅よりも更に広くて、レールも1mあたり60kgと大きいのです」とスタジオ画面
に車輪と線路を置いて説明していた。これは子供心に拘らず非常に理解できていた
のが今になってとても不思議・・・・・・ 592に続く、スマソ。
あの頃は幼いながらに出場選手の名前、顔をよく覚えたなァ・・・・
アベベ、君原、円谷、重量挙げの三宅兄弟(三宅宏美の父) バレーボールの
大松監督等々・・・ 特に三宅が出ていた場面は今でも昨日のように目に浮ぶ。 ところが不思議なことにあれ依頼色々な冬季のオリンピックの際にさえ
500円等の記念硬貨を発行していたが、現在はその雰囲気さえも微塵も
ない。電車ボデーの半分ずつを色違いに塗り分けていた昭和15年当時
のようなことをしろとは言わないが・・・ 本当にやる気が有るのか? そうだな。記念切手の発行のPRも全く見かけないな。年賀状さえ使用の
3ヶ月前から予約取りをしてるのにな。オリンピックほんまにする気あ
るんかいな。 木製窓、特に3段窓の車窓の外に見える北千住のおばけ煙突群、大阪城等
他の乗客の迷惑を考えなければ、好きな場所の窓をどこでも開けられた。 阪神電鉄の西九条〜三宮間で運転されていた「西大阪特急」 関東の方には申し訳ないが、153系新快速の姫路駅到着前の乗換え案内。
「ご乗車お疲れ様でした、間もなく終着姫路です。乗換えのご案内を申し上げ
ます。山陽線普通電車の岡山行きは5番のりば、赤穂線周りの岡山行きは
6番のりば、姫新線普通列車の津山行きは西1番のりば、播但線普通列車
和田山行きは東1番のりばへお回り下さい。新幹線は橋を渡って新幹線の
りば、次の東京行き上りひかり○○○号は・・・・」 新快速はすべて姫路止め、
姫路には東1・2番 西1番。2番があった。懐かしい・・・・・ 姫路駅には、播但線の支線の飾磨港線が発着していた西7番線もあった >>599
昔の新快速は停車駅も少なくて快適だったね。
下りの姫路行きの西明石通過も懐かしい。 新快速153系は1両毎にトイレ・洗面所があり、とても豪華だった。京都方面から電
車が大阪に到着しても乗客が半数以上入れ替わり、どこにでも好きな所に座れた。
2人でワンボックスを占領できたことも多々あった。座席の転換をしないので目前
に他人が座っても、間隔を確保できたのでゆったりしていた。 車内の化粧板は薄
紫・ラベンダー色で、上品な気分を味わえた。 昭和55年の春に新快速用に新造された117系の留置展示会(大阪駅1番線)が行
われた。車内は茶色木目のデコラ化粧板で、窓はぶ厚かった。こんなのに置き換
えるのかと思うと非常に淋しかった。 後日置き換えて実運行に入り乗ってみると
モーター音がワーンワーンと煩かった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています