知ってたらおじいさん©2ch.net
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>>469
南海が創業当初、ドイツのある農園から輸入した客車の窓のカーテンに車輪に羽の生えてる絵が書いてあって、南海はその絵の車輪の向きを変えて初代社章として採用した。 >>466
ハグルマソースのマークは南海の社章が元ネタ。
ソース会社の社長が南海の社長と懇意にしていて、自社で売り出すソースのマークを相談した時に、「じゃぁ、うちのマーク使えばええ」という事になった。
その際に羽車の車を鉄道の車輪から大八車の車輪に変えてソースのマークとして採用したそうだ。
>>469
車輪に羽が生えて「飛ぶように速い」という意匠なんだが。 スレ違ですが、仙石線に下馬駅がありますよね・・・おじいさん
そこで、爺さん知っていたら教えてください。
仙台市営バスの塩釜車庫(昭和の時代に廃止になりました=原因は国鉄仙石線の増便・スピードUP)
が廃止時には塩釜市新浜町にありましたが、その前は下馬付近にあったと言う話しを聞きますが現在70歳前後の
人に聞いても分からないという話しが大多数なんで、実際に下馬付近にあった場所を知っている爺さん婆さんがいたならば
現在(現状)のどの地点だったか教えてください。 仙台でなくてスマンが引き続き南海バスの話、和歌山市内も昭和50年まで南海直営、
前年の昭和49年まで車掌が乗務する青とベージュ、緑の旧々?南海バス色が走ってた。
バス車庫は市電の車庫のちょっと北側(カーブの手前)にありましたな。
また紀和駅にも発着場があった。昭和46年以前、国体道路ができていないころは手平から宮前駅、田尻と
あぜ道を抜けて海南へ走ってました。ピンポイントな話ですまぬw 日田彦山線二又トンネル爆発事故の時、トンネルから噴出する炎の勢いとトンネル内に収納されていた弾薬爆発時の爆音
この時の爆音は人間の聴覚を越えるもの凄い音で、福岡や別府まで聞こえた。 大阪の話でスマソ。昔大阪駅の学生班してたツレが、お婆さんにマジで怒られた話。
「兄ちゃん、神戸行くにはどの電車に乗ったらええのか?」 兄「あの5・6番から出る
ブルーの電車ですよ(103系のこと) 婆「兄ちゃん、嘘ついたらあかん! あれは
汽車や! ワシは電車で神戸いきたいんや!」 兄「だから5・6番の・・・・・」 結局
どうやら婆は国鉄は皆、汽車で、婆の電車は阪神・阪急が電車と称したそうな・・・・・ 今になって考えるとその「婆」は大正中期生まれの娘さんだった。中年に差し掛かる
頃は、長崎・広島・糸崎・宇野行きの普通列車はスハ32連で姫路行きは新車投入の
80系300で、神戸行き普通はクロハ69入りの51系・72系の電車になっていたが、
自身の子供には国鉄路線を走る物は皆、「電車」と教えていたのだろうか?(複雑)・・・ 上記の文章の間違いを訂正します。↓
国鉄路線を走る物は皆、「汽車だ」と教えていたのだろうか?(複雑)・・・ 連続して「婆」の話でスマソ。少し鉄の話とはズレるが・・・
上記の年代の頃は、60歳過ぎの女性が交通事故の被害者になり怪我・死亡した場合、
新聞・TVニュースでは63歳の「老女」が車に撥ねられ大怪我をしました。と表示された
男性の場合は「老男」とは表示されなかった。やはり女は「老女」。これでいいのだ。 上記を見て思った。現在でも「伊藤蘭」「風吹ジュン」を老女と表現して、彼女ら乗る
旅行の取材でJR路線車両を「汽車」と発言させれば面白いで・・・・・ きょう、20歳の女子が
麻丘めぐみの
♪わたしのわたしの彼は左きき♪ 知りませんって言ってました。 ピンクレディーのペッパー警部 (S51年)も知らない人が多いかも知れない。
現在と違って当時の警部とは大分偉い人の階級だった。そんな人が町を警邏
するとは到底思えない。寧ろ「ペッパー巡査長」にすべきであったなあ・・・・
曲・歌詞の内容は曽根史郎の「若いおまわりさん」に通じるものがある。
「もしもしベンチで囁くお二人さん、早くお帰り夜が更ける、野暮な説教するんじゃ
ないが・・・」 ← コレ知っていたら曾おじいさん。 SE車、151系、20系、長野2000系「辺り」と同世代。
みんな展示物になってしまった。 俺も、初恋の彼女も転勤族。
俺が越した後、彼女も越して、越しちゃう距離も半端ないから、小学生のガキにはどうしようもなかったな。
新幹線もまだ東海道だけの頃。 12、3年前って何してたっけな?
あ、豊後森のビジネスホテルから、種子島から打ち上がったロケットを、偶然目にして
デジカメの1眼レフで写してた。 40年前の京浜東北線
7+3か6+4かは定かでないが
なんで10両直編成でなかったの
3とか4は将来の転属を見据えた
国鉄のまさかの将来展望だったのか? >>498
南浦和は10両すっぽり入線できるから(あと、東十条も)
その問題は神奈川県内の電留線の話しなの。 なつがさい太郎兄ちゃんと東京から帯広に
ちはるに合いにいくんだって
昭和30年代は東京から帯広まで何日かかったんですか
爺ちゃん教えてください。 茶色い8両時代の京浜東北線は編成中短い17m車?が連結されてた、夏は扇風機のない車両があるのでホームから車内を覗いて扇風機付を確認して乗ったものじゃ 窓は3段式で真ん中が固定、上段が下げ、下段を上げる構造で、たてつけが悪く斜めに止まって動かない窓もあった その3段窓の車、冬季は上・中・下段の隙間から寒風がスースーと入り込み、座席下には
電暖が入っていても、寒い寒い車だった。しかしワシはその煩い泣き叫ぶようなモーター
音が、始動時には体全身に響くようなビリビリ振動、制動時にはゴーッと長い響きに酔い
知れて、わざわざM車を選んで乗っていたのう、懐かしいのう。 「お電話1本でお買い物。簡単で便利なテレホンショッピング。」「メモと鉛筆のご用意を
どうぞ!」 と言いながら、かっての黒電話の薄緑色版機のダイヤル部分に人間の顔が
描いてあり、横から左右の両手が出ていたTVコマーシャル。 多分これは「皆様の上新電機」といっていた頃のジョーシンのCMだったと思う。 毎日平日 午後7時前に5分程度でTV放送していた「ものしり大学・提供はキリンビール。」
その他、下記のTVのCM
白木みのるが主演していた「下呂、下呂、下呂温泉の山形屋でございます。どうですこの
素晴らしい大浴場・・・皆様お揃いで下呂温泉の山形屋へ」
「有馬温泉でのお泊りは楽しさいっぱいの向陽閣で、 有馬兵衛の向陽閣へ〜」
「親子三代、結婚家具は加古屋に決めました」・「リビング、リビングプラザ、カッコヤ」
「ゆったりくつろぐ貴方のイス宝塚温泉、ホテル水明館」「あなたのもう一つのイス、桜橋
バロン、どちらも貴方の取って置きのイスです」 懐かしの国鉄色485系特急電車は、なぜ9両編成が主力でったんですか? >>504
MT比を2:1にしないと板谷峠を自力で登れなかったから JR東海道線山科駅の高架下の歩行者用の通路が駅改札内の通路で、今でも奇跡的に残ってる「京都、大阪、神戸方面」の表記を見て、現在は埋められている階段を登ってホームに上がってた時代 知ってたらおじさんってまた変なおじさんが現れたのかと思ったわ。 錦糸町駅北口のアルカキットなどがある場所に、天沼工場という鉄道車両メーカーがあったこと 153系急行が両国駅から発車してその、153系急行に山口百恵が乗ってたこと。
https://youtu.be/vlsi01dAT9U 名古屋駅は開業当初、「名護屋」という駅名で、翌年、「名古屋」と改称されたこと >>515
45分15秒以降だね
いい日旅立ちだったのかな? 国鉄の最低運賃10円
子ども5円。
東中野からお茶の水まで5円だったよ。昭和30年 駅のホームから線路へ向けて放尿しても誰からも咎められない。
>>507 のように車内で乳房を出して授乳しても奇異な目で見られない
女の裸体は劇場での踊りや、女郎屋で一種の「芸術」的な目で眺めて
楽しむもの。美人を視姦したり、大衆食堂の姉ちゃんの尻を撫でても
セクハラとは言われない。即ち「男一人に、女はトラック3杯の値」だっ
たが常識。 たんツボ
あったよね 白いつぼが駅のようしょようしょに マジ
知っていればおじさん
じゃなくて
おじいさん
だわ
ついていけない >>524
昔々からあった着物姿、赤襦袢のオネエチャン・オバハンが「春」を売っていたお店。 新宿駅で左翼が暴動を起こし、電車や駅構内の施設が破壊された新宿騒乱 >>533
久宝寺停車はキハ35、2両の湊町〜柏原行きで、他は殆どが通過していた。 D51+スハ43系+オハフ13の柳生号・伊賀号シリーズの後に、期間を限定で
日曜日朝に笠置?行きだったか、自転車同伴可能のキハ35の4連の「サイクリ
ング号」が運転された際は、今後はどの線区にも日中、自転車同伴で乗車でき
るようになって行くんだ!と喜んだものだった・・・・・ >>534
奈良行き普通は加美、久宝寺、志紀通過がデフォルトだったね 新今宮駅は、開業当初、南海側に駅は無く、関西線の列車は新今宮駅を通過していた。
南海新今宮駅が設置されて乗換駅となったのは、開業から2年後のこと 小田急の2回脱線した吊り掛け4000と1800の魔の連結 新今宮の話で思い出したんじゃ・・・ 今のホテル経営不況の中、駅の北側に
星野リゾートが大きなホテルを建てておるが、そこは昔、中山太陽堂という有
名な化粧品の工場が有ってのう、「クラブ歯磨」「クラブ化粧品」を作って
おった。昔の映画「朱と緑」の場面で大阪駅に到着するSL列車に乗ってきた
高杉早苗(香川照之の祖母、えろう別嬪じゃ)を高峰三枝子が出迎える場面
が出てきて、それからホーム地下通路を通って改札へ向かうが、壁面に一筆
書きの電飾ネオンサイン「クラブ歯磨」と云うのが飾ってあったのう・・・
それから高杉早苗は大阪駅前からハイヤーに乗って「新大阪ホテル」へ投宿
した。翌日に上原謙(加山雄三の父)が訪ねてきたんじゃ。勿論そのホテル
は今の新幹線の新大阪ではなく、中之島の大阪市役所の5分ほど北西側に聳え
立つ大きな立派なホテルじゃった・・・話が長ごうなってスマンかった・・・ 上記の画面は動画 Shu to midori shu no maki 48分頃から見れる。
とても懐かしいのう・・・・ 大大阪のええ時代じゃった 上原謙、懐かしいですなあ。息子の加山雄三が80超えているんですからねえ。 南海本線の住吉公園行き各駅停車(今宮戎・萩ノ茶屋にも停車) 次の質問に正解できる人は高齢者
@ 実在したのはどれ?
ア 鷲羽山トンネルを通る「鷲羽」
イ 本四備讃線を通る「備讃ライナー」
ウ 板東中学校に通う「板東英二」
A 日本の国鉄でかつて存在したのはどっち?
ア ラックレール区間
イ サードレール区間
ウ ラックレール区間とサードレール区間 山陽電車爆破事件
近鉄奈良線電車爆破事件
横須賀線電車爆破事件
近鉄上本町駅コインロッカー爆破事件 >>543
やべえ。
石田純一やら堺正章やら北大路欣也やら関口宏やらの親父にみんな覚えがある・・ >>549 >>543
佐野周二, 戦前の映画「婚約三羽烏」に上原謙・佐分利信と共演、佐野のアパー
トのベランダから17メートル省電2連・4連が往来するのをぼんやり眺めている。
羨ましいアパートだなァ・・・ 同じく佐野、上原、田中絹代、映画「新道」で
17メートル省電、山手線車内か?が出てくる。他には「蛍の光」夏川大二郎が高
等学女卒業間際の高杉早苗を口説いていると17メートル車(モハ34か?)に
木造電車が挟まれた3連が背景を通過する。各車間の貫通幌は無い!
他には桑野通子(桑野みゆきの母)北見礼子(林与一の母)等の顔が頭をよぎる
危ない危ない。オレも真に老人だ! 佐野周二 一度、大塚のボンカレーのTV CMに起用されていたが、後に松山容子
になった、佐野周二の出演の方が美味しそうだった。 また映画の話で悪いが・・・ 小津安二郎監督作品「晩春」では北鎌倉在住の父娘が揃って
東京方面へ通勤している場面が数分間出てくる。笠智衆・原節子がスカ線のサハ57に乗
って居るが、車窓外の風景が暫く描写されている。車体の揺れ、ローリングが激しい。また
架線柱が複線線路の間に1本立って左右の架線を吊っている何とも古臭い場面が出る。
監督 小津も60歳で逝去したがその画像は現在の85歳相当に見える・・・・ >>548
青大将 の言葉で思い出し、客車特急つばめ・はとに乗車していた「つばめガール
・はとガール」のお姉さんたちの写真を見ると当時の嫁入り前の女性は何故こんな
に太く、老けて見えていたのか,実におばちゃんだ!と不思議で謎だ。昭和42年
の半年間TVドラマ「いつでも君は」は20系客車の食堂車のスタッフの恋愛を描写し
た作品であったが、長沢純・高橋紀子・寺田農 等はそんな老けてなかった。同年
の映画「喜劇 急行列車」の食堂車スタッフ 大原麗子はとてもきれいだった。佐
久間良子はあれで28歳 専務車掌 渥美清の妻役、楠トシエは実齢33歳だ。 オレは例の森元総理の要職ではないから、当時の25歳過ぎの女は女性ではなく、オバチャンとして発言したい。ウチの近所に口うるさい同級生の女が住んでいて何かと
口出ししてきてウザイ。精神的に病んできているので、今度口出ししてきたら、「昔は女は60過ぎたら、交通事故に遭って負傷しても『老女、轢き逃げさる』と新聞に
載ったものだ! もっと自重せえ」と言ってやるつもりで居る・・・・ 横レスだが
被害者の女性
加害者の女
この違いは何だ? 「女」という表現、民法の規定第七百三十二条 配偶者のある者は、重ねて
婚姻をすることができない。 第七百三十三条 女は、前婚の解消又は取消
しの日から六箇月を経過した後でなければ、再婚をすることができない。
「女性」という表現、もう昭和14年の伏水修監督の作品で「東京の女性」
というタイトルで原節子・江波和子(江波杏子の母)立松晃出演で、自動
車のセールスウーマンが先輩、立松の取り合いをする。原節子が19歳と
も思えぬ落ち着いた演技で仕事に励んでいる。当時流行りだした「職業婦
人」の嚆矢だ。終わりの場面は新婚旅行へ旅立つ2人を原が車で併走する。
EF51+W屋根客車の編成が出てくる。もう昭和の始めから女・女性が混用
されていたな。 前556へのレスになっていなくて申し訳ない・・・・ 昔、常磐線の快速が柏駅を通過していた。ホーム自体なかった。
また、野田市からキッコウマンの貨物列車が柏から常磐線に乗り入れていた。
現在まで貨物列車が残っていれば、快速の柏停車は実現しなかったはずだ。
貨物列車が廃止になったおかげで、敷地が生まれ、快速停車が可能になったわけだ。 映画スレへ行け、と言われかねないが保守のためスマソ。
昭和初期の「ダットサン 小型車」が出てくるS12の90分物映画「女医 絹代先生」
27分位より当時28歳だった田中絹代がオープンカー ダットサンを運転している。
その走行効果音をどこから拾ってきたのかは不明だが、とても軽快で良い音を出し
ている。 「鉄」分は3分位に東京青バスから田中絹代が降りた場所の背景に省線
の複々線を木造車を挟んだ3連が出るだけだが・・・ 車のコンパクトな愛嬌と音に
とても聞き惚れた。始めのクレジットに、協力日産自動車東京販売と出る。 身延線の線路は現在のルートで富士駅に入っていたのではなく、
東京方から富士駅に入っていた 阪和線の下り電車が天王寺を発車し、右に大きくカーブし関西線をオーバークロスした
後、R25号線を大きく立派な鉄橋を渡るが、そこには元々大阪市電が平野方面へ延長
される計画があったこと。でなければ大正末期に阪和電鉄建設計画時に於いて、あんな
壮大な橋を掛けるようなことはしない。 戦前〜昭和30年台の80系電車最終製造時までの、電車M車・客車・貨車の
車軸は線路幅の広軌への改軌に備えて、長軸が使用されていたが、改軌は
幻に終った。それが顕著に見れるのは70系・80系のTR48台車だ。台車外
枠と車輪との間には不自然なほどの空間・隙間がある。 上記の「電車M車」は T車の誤りでした。すみません。 奥羽本線福島〜米沢間は直流電化されていて、板谷峠を通過する
キハ181系特急つばさなどの列車補機がEF64だった >>564
板谷峠の交流化が1968年、181系気動車の投入は1970年ではEF64と181系気動車との
接点自体が存在し得ないよ 仙台〜秋田間を北上線経由で結んでいたキハ181系特急「あおば」
共通運用だった「つばさ」の電車化により、急行「きたかみ」に格下げされて廃止 日本初の二階建て電車、近鉄の初代ビスタカー・新幹線100系は実乗したことはあるが、
あと創生期の大阪市電の二階建ては博物館展示の物を・北欧のブラックプールの市電
も二階建て(こればNHKの番組で) しかし下記の物は全く知らなくて、驚愕した。
https://twitter.com/i/status/1380065643366584320
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています