知ってたらおじいさん©2ch.net
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>>450
関西の話でスマソ。オレの持っているS3年発行の大大阪市街図では大阪駅が
右から「於ほさか」 京橋「きゃうはし」 西九条「にしくぜう」 となって居る。他は
現在と同じだ。 山本富士子・佐田啓二主演の映画(S30年代作品)では
内容が戦前の設定で京都駅の柱取付の駅名標が「きゃうと」となっていた。
昔は「今日」を「けふ」と書き、「京」を「きゃう」と書いた違いが分からん・・・・! 下十条が「しもじふでう」だから二条はおそらく「にでう」
王子は「わうじ」 福知山駅から河守まで北丹鉄道という経営難の非電化ローカル私鉄が走っていた >>434
その頃は東急田園都市線から来た
列車の終端が永田町駅で
ホームを線路方向に真ん中で仕切って
片方の線路だけで折り返し。
(青山一丁目が終点の列車が多かったような)
単線区間は青山一丁目〜永田町だったっけ? 昔の鉄ピク誌に誰かが掲載していた記事。
鴨長明の方丈記「ゆく川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず」 これは鉄チャン流に
解せば、車体のデザインが同じ事の繰り返しをしているという事。元の特急用スハ32は狭窓
の連続だったが、オハ35系→広窓に、スハ44系→狭窓に モハ151系→広窓 新幹線0系
→広窓、後期0系→狭窓 100系→広窓 300系→狭窓 他に昭和初期のモハ52の流線
車体や張上げ屋根をも例に挙げていたナ・・・・・ >>457 懐かしく思い出したので「方丈記」をクグッた。
(続き)よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。 (中略) 人の住まひは、世々を経て
尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。人も多かれ
ど、(中略) 朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。
「流行と言うのは常に変化している。新しいデザインと思った物が昔流行しただけだ
った」 電車も客車も木製に返り、機関車も蒸気時代が再来するかも知れない・・・・ >>456・457
確かに456・457のいう通りだと思う。国鉄キハ43000型や流線型C55もモハ52同様
当時の波に乗った形で張上げ屋根だった。 戦中・後の食パン電車から長らく続いた
屋根形状も221系から張上げ屋根にした。S54年登場の京阪神新快速117系の塗色も
結局はモハ52流電の焼き直しだった。戦前・後の電車1M1T方式もMMユニットにな
ったのがまた1M方式だ。 電車のサロではサロ75・85の広窓がサロ153で狭くなり
また152で広くなっていたなァ・・・・ 大阪環状線も昨日の201系引退でオール3扉車運用になり、戦前のモハ41・クハ55の
再登場だ、ラッシュ時にこんな物に乗る日が来るとは夢にも思わなかった。(ホームドア
設置起因もあるが)山手線や京阪の5扉に始まり→各線区6扉へ進むと思っていた。
現在環状線に乗る時、オレはモハ41やモハ51セミクロスを彷彿しながら乗っている。 上記の続き、
他人のツイを流用でスマソが、オレはこのツイが大好きだ。環状線に乗っていると玉造駅
から工場帰りの学徒動員生や薄茶色の軍服兵士が乗り込んでくる錯覚に襲われる。
(pic.twitter.com/ThHkgP0fR6) 藤田加奈子 2018/9 分
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>462の最下段 は無視してください。システムが勝手に書きました。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
下から2段目( )内のアドから画像が出ます。 2018/9/12の分
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 天王寺駅のホーム売店で鳩用の餌豆を買って蒔いて、バタバタと鳩が遠くから集まってきた。
現在の11番12・13番は西端が行き止まりだった。 南海難波駅のホームはかつて、現在のホームのある階より1つ下の階にあった。
阪急梅田駅は、かつて現在の阪急百貨店梅田店の所にあった。
京阪守口市駅前の京阪百貨店は、京阪電鉄守口工場跡地に作られた。 他にもあったらスマソ。オレの知っているのは、南海天下茶屋駅地平ホーム時代だけだ。
一番西側ホーム難波行きホーム北端の地下道階段付近に「羽車ソース」という大きな
宣伝看板が貼ってあった。そのマークも旧南海の社章と非常によく似ていた。もしかして
南海系列の会社かと思っていた。 さっきクグッて調べたが、和歌山市内に工場があり
株式会社「ハグルマ」として現存し、マークも昔と変わらずだ・・・・・ 車に羽はえてるあのマークって
動いてる実物あったらなにげに
怖い気がする、顔のないお化けみたいで 南海バスのバス停にも羽車マークが大きく書いてあったな。
ちなみに、あのマークは英語ではウィングド・ウィールと言うらしいな。 >>467
何故あんな奇妙なマーク・社章を考案したのかと思う。あんな重たい物に羽を付けた
がるのか理解できない。「ハグルマ 封筒」なる物も出てきた。かって「ヨコハマタイヤ」
でタイヤの内に人面が書いてあるのも気色悪い。とのカキコもあったが、羽車印は更
に気色悪く、昔のオカマを見ているようだ。まだ「歯車」に羽を付けた方がましだ・・・・ >>469
南海が創業当初、ドイツのある農園から輸入した客車の窓のカーテンに車輪に羽の生えてる絵が書いてあって、南海はその絵の車輪の向きを変えて初代社章として採用した。 >>466
ハグルマソースのマークは南海の社章が元ネタ。
ソース会社の社長が南海の社長と懇意にしていて、自社で売り出すソースのマークを相談した時に、「じゃぁ、うちのマーク使えばええ」という事になった。
その際に羽車の車を鉄道の車輪から大八車の車輪に変えてソースのマークとして採用したそうだ。
>>469
車輪に羽が生えて「飛ぶように速い」という意匠なんだが。 スレ違ですが、仙石線に下馬駅がありますよね・・・おじいさん
そこで、爺さん知っていたら教えてください。
仙台市営バスの塩釜車庫(昭和の時代に廃止になりました=原因は国鉄仙石線の増便・スピードUP)
が廃止時には塩釜市新浜町にありましたが、その前は下馬付近にあったと言う話しを聞きますが現在70歳前後の
人に聞いても分からないという話しが大多数なんで、実際に下馬付近にあった場所を知っている爺さん婆さんがいたならば
現在(現状)のどの地点だったか教えてください。 仙台でなくてスマンが引き続き南海バスの話、和歌山市内も昭和50年まで南海直営、
前年の昭和49年まで車掌が乗務する青とベージュ、緑の旧々?南海バス色が走ってた。
バス車庫は市電の車庫のちょっと北側(カーブの手前)にありましたな。
また紀和駅にも発着場があった。昭和46年以前、国体道路ができていないころは手平から宮前駅、田尻と
あぜ道を抜けて海南へ走ってました。ピンポイントな話ですまぬw 日田彦山線二又トンネル爆発事故の時、トンネルから噴出する炎の勢いとトンネル内に収納されていた弾薬爆発時の爆音
この時の爆音は人間の聴覚を越えるもの凄い音で、福岡や別府まで聞こえた。 大阪の話でスマソ。昔大阪駅の学生班してたツレが、お婆さんにマジで怒られた話。
「兄ちゃん、神戸行くにはどの電車に乗ったらええのか?」 兄「あの5・6番から出る
ブルーの電車ですよ(103系のこと) 婆「兄ちゃん、嘘ついたらあかん! あれは
汽車や! ワシは電車で神戸いきたいんや!」 兄「だから5・6番の・・・・・」 結局
どうやら婆は国鉄は皆、汽車で、婆の電車は阪神・阪急が電車と称したそうな・・・・・ 今になって考えるとその「婆」は大正中期生まれの娘さんだった。中年に差し掛かる
頃は、長崎・広島・糸崎・宇野行きの普通列車はスハ32連で姫路行きは新車投入の
80系300で、神戸行き普通はクロハ69入りの51系・72系の電車になっていたが、
自身の子供には国鉄路線を走る物は皆、「電車」と教えていたのだろうか?(複雑)・・・ 上記の文章の間違いを訂正します。↓
国鉄路線を走る物は皆、「汽車だ」と教えていたのだろうか?(複雑)・・・ 連続して「婆」の話でスマソ。少し鉄の話とはズレるが・・・
上記の年代の頃は、60歳過ぎの女性が交通事故の被害者になり怪我・死亡した場合、
新聞・TVニュースでは63歳の「老女」が車に撥ねられ大怪我をしました。と表示された
男性の場合は「老男」とは表示されなかった。やはり女は「老女」。これでいいのだ。 上記を見て思った。現在でも「伊藤蘭」「風吹ジュン」を老女と表現して、彼女ら乗る
旅行の取材でJR路線車両を「汽車」と発言させれば面白いで・・・・・ きょう、20歳の女子が
麻丘めぐみの
♪わたしのわたしの彼は左きき♪ 知りませんって言ってました。 ピンクレディーのペッパー警部 (S51年)も知らない人が多いかも知れない。
現在と違って当時の警部とは大分偉い人の階級だった。そんな人が町を警邏
するとは到底思えない。寧ろ「ペッパー巡査長」にすべきであったなあ・・・・
曲・歌詞の内容は曽根史郎の「若いおまわりさん」に通じるものがある。
「もしもしベンチで囁くお二人さん、早くお帰り夜が更ける、野暮な説教するんじゃ
ないが・・・」 ← コレ知っていたら曾おじいさん。 SE車、151系、20系、長野2000系「辺り」と同世代。
みんな展示物になってしまった。 俺も、初恋の彼女も転勤族。
俺が越した後、彼女も越して、越しちゃう距離も半端ないから、小学生のガキにはどうしようもなかったな。
新幹線もまだ東海道だけの頃。 12、3年前って何してたっけな?
あ、豊後森のビジネスホテルから、種子島から打ち上がったロケットを、偶然目にして
デジカメの1眼レフで写してた。 40年前の京浜東北線
7+3か6+4かは定かでないが
なんで10両直編成でなかったの
3とか4は将来の転属を見据えた
国鉄のまさかの将来展望だったのか? >>498
南浦和は10両すっぽり入線できるから(あと、東十条も)
その問題は神奈川県内の電留線の話しなの。 なつがさい太郎兄ちゃんと東京から帯広に
ちはるに合いにいくんだって
昭和30年代は東京から帯広まで何日かかったんですか
爺ちゃん教えてください。 茶色い8両時代の京浜東北線は編成中短い17m車?が連結されてた、夏は扇風機のない車両があるのでホームから車内を覗いて扇風機付を確認して乗ったものじゃ 窓は3段式で真ん中が固定、上段が下げ、下段を上げる構造で、たてつけが悪く斜めに止まって動かない窓もあった その3段窓の車、冬季は上・中・下段の隙間から寒風がスースーと入り込み、座席下には
電暖が入っていても、寒い寒い車だった。しかしワシはその煩い泣き叫ぶようなモーター
音が、始動時には体全身に響くようなビリビリ振動、制動時にはゴーッと長い響きに酔い
知れて、わざわざM車を選んで乗っていたのう、懐かしいのう。 「お電話1本でお買い物。簡単で便利なテレホンショッピング。」「メモと鉛筆のご用意を
どうぞ!」 と言いながら、かっての黒電話の薄緑色版機のダイヤル部分に人間の顔が
描いてあり、横から左右の両手が出ていたTVコマーシャル。 多分これは「皆様の上新電機」といっていた頃のジョーシンのCMだったと思う。 毎日平日 午後7時前に5分程度でTV放送していた「ものしり大学・提供はキリンビール。」
その他、下記のTVのCM
白木みのるが主演していた「下呂、下呂、下呂温泉の山形屋でございます。どうですこの
素晴らしい大浴場・・・皆様お揃いで下呂温泉の山形屋へ」
「有馬温泉でのお泊りは楽しさいっぱいの向陽閣で、 有馬兵衛の向陽閣へ〜」
「親子三代、結婚家具は加古屋に決めました」・「リビング、リビングプラザ、カッコヤ」
「ゆったりくつろぐ貴方のイス宝塚温泉、ホテル水明館」「あなたのもう一つのイス、桜橋
バロン、どちらも貴方の取って置きのイスです」 懐かしの国鉄色485系特急電車は、なぜ9両編成が主力でったんですか? >>504
MT比を2:1にしないと板谷峠を自力で登れなかったから JR東海道線山科駅の高架下の歩行者用の通路が駅改札内の通路で、今でも奇跡的に残ってる「京都、大阪、神戸方面」の表記を見て、現在は埋められている階段を登ってホームに上がってた時代 知ってたらおじさんってまた変なおじさんが現れたのかと思ったわ。 錦糸町駅北口のアルカキットなどがある場所に、天沼工場という鉄道車両メーカーがあったこと 153系急行が両国駅から発車してその、153系急行に山口百恵が乗ってたこと。
https://youtu.be/vlsi01dAT9U 名古屋駅は開業当初、「名護屋」という駅名で、翌年、「名古屋」と改称されたこと >>515
45分15秒以降だね
いい日旅立ちだったのかな? 国鉄の最低運賃10円
子ども5円。
東中野からお茶の水まで5円だったよ。昭和30年 駅のホームから線路へ向けて放尿しても誰からも咎められない。
>>507 のように車内で乳房を出して授乳しても奇異な目で見られない
女の裸体は劇場での踊りや、女郎屋で一種の「芸術」的な目で眺めて
楽しむもの。美人を視姦したり、大衆食堂の姉ちゃんの尻を撫でても
セクハラとは言われない。即ち「男一人に、女はトラック3杯の値」だっ
たが常識。 たんツボ
あったよね 白いつぼが駅のようしょようしょに マジ
知っていればおじさん
じゃなくて
おじいさん
だわ
ついていけない >>524
昔々からあった着物姿、赤襦袢のオネエチャン・オバハンが「春」を売っていたお店。 新宿駅で左翼が暴動を起こし、電車や駅構内の施設が破壊された新宿騒乱 >>533
久宝寺停車はキハ35、2両の湊町〜柏原行きで、他は殆どが通過していた。 D51+スハ43系+オハフ13の柳生号・伊賀号シリーズの後に、期間を限定で
日曜日朝に笠置?行きだったか、自転車同伴可能のキハ35の4連の「サイクリ
ング号」が運転された際は、今後はどの線区にも日中、自転車同伴で乗車でき
るようになって行くんだ!と喜んだものだった・・・・・ >>534
奈良行き普通は加美、久宝寺、志紀通過がデフォルトだったね 新今宮駅は、開業当初、南海側に駅は無く、関西線の列車は新今宮駅を通過していた。
南海新今宮駅が設置されて乗換駅となったのは、開業から2年後のこと 小田急の2回脱線した吊り掛け4000と1800の魔の連結 新今宮の話で思い出したんじゃ・・・ 今のホテル経営不況の中、駅の北側に
星野リゾートが大きなホテルを建てておるが、そこは昔、中山太陽堂という有
名な化粧品の工場が有ってのう、「クラブ歯磨」「クラブ化粧品」を作って
おった。昔の映画「朱と緑」の場面で大阪駅に到着するSL列車に乗ってきた
高杉早苗(香川照之の祖母、えろう別嬪じゃ)を高峰三枝子が出迎える場面
が出てきて、それからホーム地下通路を通って改札へ向かうが、壁面に一筆
書きの電飾ネオンサイン「クラブ歯磨」と云うのが飾ってあったのう・・・
それから高杉早苗は大阪駅前からハイヤーに乗って「新大阪ホテル」へ投宿
した。翌日に上原謙(加山雄三の父)が訪ねてきたんじゃ。勿論そのホテル
は今の新幹線の新大阪ではなく、中之島の大阪市役所の5分ほど北西側に聳え
立つ大きな立派なホテルじゃった・・・話が長ごうなってスマンかった・・・ 上記の画面は動画 Shu to midori shu no maki 48分頃から見れる。
とても懐かしいのう・・・・ 大大阪のええ時代じゃった 上原謙、懐かしいですなあ。息子の加山雄三が80超えているんですからねえ。 南海本線の住吉公園行き各駅停車(今宮戎・萩ノ茶屋にも停車) 次の質問に正解できる人は高齢者
@ 実在したのはどれ?
ア 鷲羽山トンネルを通る「鷲羽」
イ 本四備讃線を通る「備讃ライナー」
ウ 板東中学校に通う「板東英二」
A 日本の国鉄でかつて存在したのはどっち?
ア ラックレール区間
イ サードレール区間
ウ ラックレール区間とサードレール区間 山陽電車爆破事件
近鉄奈良線電車爆破事件
横須賀線電車爆破事件
近鉄上本町駅コインロッカー爆破事件 >>543
やべえ。
石田純一やら堺正章やら北大路欣也やら関口宏やらの親父にみんな覚えがある・・ >>549 >>543
佐野周二, 戦前の映画「婚約三羽烏」に上原謙・佐分利信と共演、佐野のアパー
トのベランダから17メートル省電2連・4連が往来するのをぼんやり眺めている。
羨ましいアパートだなァ・・・ 同じく佐野、上原、田中絹代、映画「新道」で
17メートル省電、山手線車内か?が出てくる。他には「蛍の光」夏川大二郎が高
等学女卒業間際の高杉早苗を口説いていると17メートル車(モハ34か?)に
木造電車が挟まれた3連が背景を通過する。各車間の貫通幌は無い!
他には桑野通子(桑野みゆきの母)北見礼子(林与一の母)等の顔が頭をよぎる
危ない危ない。オレも真に老人だ! ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています