知ってたらおじいさん©2ch.net
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ALLIED FORCES CAR
U.S.ARMY SECTION
イエローボール
復興整備車、復興整備電車 前にもカキコした113系の「万博号」「エキスポ号」に加えて、波動輸送用オハ12系に
よる「ノーキョウ列車」が多数運転された。ツアーの募集主体となった農協が旅行業
の免許を取得していたのだろうか? >>355
の続き、都はるみ 好きになった人 (映画 さよなら列車)
「さようなら さようなら 元気でいてね 好きな2人はいつでも逢える たとえ別れて」 いや〜びっくりした
30分でまた満タン感になったので
膀胱がおじいさんになったのかと思ったら
ほんとにほぼ満タンだった
腎臓大丈夫かな? 普通の百貨店のおもちゃ売り場の鉄道模型コーナーで売られていた3線式Oゲージ
模型、3線Oゲージ・KTMのHO・メリクリンHOが並行してショーケースで陳列して
あった。Oゲージ基本セット(EB電機+トランス+12本組円形レール)で4000円位
だった。Nゲージは未だなかった。 メルクリンの線路付き道床がハイカラに見えた。 千歳線 苗穂〜東札幌 直流1500V電化(定山渓鉄道所属車乗入用設備) 仙山線の電化区間
・陸前落合〜熊ヶ根 交流 20kV 50c/s
・作並〜山寺 直流 1500V 旧国鉄指宿線に乗った
旧国鉄古江線に乗った
旧国鉄日之影線に乗った
細島線(日豊本線支線)に乗った >>372
知ってたら、というかなかなかマニアックな駅ですね。。。 旧国鉄三江北線に乗った
現役の豊後森機関庫を知っている
備後落合駅前の旅館に泊まったことがある >>372
>>374
その前身は、新津田沼(2代) 飯田線豊川駅の旧駅舎の3階の演劇場で映画や落語、漫才を見たり、同駅舎2階のデパートで買い物した。
湯谷温泉駅駅舎2階に併設されていた旅館に泊まった。 >>377
それ、おじさん世代でも実体験あるでしょ! >>371
利府支線のまえの東北本線山線を知っています。
昭和35年頃だったと記憶してますが、利府丘陵の現在の三陸道春日パーキングあたりは
SLが足掻き足掻き登っていたんです。よってその地点は低速走行になってましたので乗客が
飛び乗ったり降りたりできたんです。のちにディーゼル列車になってからはそのような光景は
見られなくなりました。そして山線は廃止になり松島から仙台まで国鉄バス(青バス)が走り、春日から
塩釜までは宮城バス(赤バス)が走りだしました。 鹿児島本線小倉駅はかつては西小倉駅付近にあり、博多駅の位置も開業当初は現在の場所ではなかった 横黒線、橋場線、生保内線を知っている
黒沢尻駅、尻内駅、北福岡駅を知っている 昭和37年に 弁天町にオープンした交通科学館(後 科学博物館へ改称)へいった。
大きなパノラマの大レイアウトが朝になり昼になり夕方になり夜になったが、模型列車
が脱線、停止ばかりしていた。それよりも子ども心に驚いたのは、架線を張って集電
走行する模型だった。 後日、阿倍野の近鉄百貨店の特設会場でメルクリンの列車
が架線集電で走行して、驚き、魅入っていた。帰宅して親に「架線走行の模型が欲し
い」と連日駄々をこねた。 >>386
386をカキコしたものです。それから33年の月日が流れて、ある日日本橋の模型店
ぽちで宇都宮のマルエス模型が廃業したのか、在庫処分を買い取ってきたのか、
メルクリンの車・線路M式が大量にあった。線路定価1本500円が100円(新品)
架線柱が10本で500円・左右ポイントが1組1500円 之は逃すまいと連日通い
詰め、大量に「大人買い」した。架線だけがなかったので、阪急百で30cm500円
で定価買いして組み立て走行させた。 昼間でも架線とパンタが擦れると小さな
青白い火花が散る。非情に愉快だったが、家が狭くなり走行させていない・・・・ 昔は電車と言えば直流に直流モーター、交流の場合はわざわざ直流に整流してから直流
モーターであった。
一方、代表的な照明であった蛍光灯は交流でないと点灯出来なかった。
それが今や、電車と言えば交流誘導モーターにVVVF、照明の主流となったLEDランプは
直流で、損失の大部分は整流回路の放熱である。
サイリスタチョッパはおじさん?おじいさん? むかし、ラジオを聞いていたらビックニュースが飛び込んできました。
その内容は、仙台市にJR東日本の本社機能ができるという信じられない
ビックりなニュース(瞬間的)でしたが、なんのことはなく時間差で内容が詳らかになった。
仙台市にJR東日本の地域本社を置くっう話しだったんだ。
いまや爺になってしまった若者はガックシしたよ(笑)。 なぜに、蛍光灯には安定器っうすばらしいむだな部品が付いているの
むかしのはなしだけど、いまは電子回路に置き換わっているけどもね。 JNRのNが取れて、もう30年以上なんだな。
山手の貨物線をデッキ付きの機関車が走ったり、新宿駅に181系がたむろしていた頃が、
ついこないだのような気がするのに。 一見、小型の蛍光灯だと思いきや、実は白熱灯・・・・・関西の私鉄でよく使われていた「管球」 >>393
おれもあの管球がすきだった。一番最後を覚えているのは、阪神国道路面電車の物だ。
明るくなく、暗くなくとても趣があった。透明管で愉しかった。言ってしまえば夜店などで
使われていたクリヤ電球60ワットの細長い形のようなものだったナ・・・・・・ >>394
続いてカキコでスマソ、スレチだが「好きだった」で思い出した。鶴田浩二の歌「好きだった」
〜好きだった 好きだった 嘘じゃなかった 好きだった。そんな一言あのときに 言えば良か
った。 ボデーにすがって泣きじゃくる。天井の明かりをぬくもりを 忘れられずにいるのなら〜
>>393 のカキコに感謝! 良く鮮明に乗車状況を思い出しました。43年前を。ありがとう。 >>393
関西で最後まで菅球使ったのは叡電デナ21だっけ? 「北はアムール 南は熱河 東やポクらの 西満州里 築く絆はおいらの鉄路
明日のスパイク どこへ打つ」 南満州鉄道愛唱歌 続き 「明日の塒か 嘆くな女房 蒙古風吹く 砂漠の果てで 枕並べて枕木抱いて
嬉し仲間と月を見る」
「月は無くともレバーは光る 黒い炭さえ真っ赤に燃える 熱い想いをレールに
乗せて 飛ばしゃ荒野は荒吹雪」 満州映画「迎春花」 主演 李香蘭 木暮実千代 で終わりの場面 1:06分頃から
大連駅に特急あじあが到着、車内で2名やり取りする風景が出てくる、当時 木暮は
23歳(今の子と違い偉い老けてるナァ・・・・ youtubeで出てくる貴重な場面。 >>393-394
両口管球って言うらしいね
>>397
同時期に嵐電のモボ121やク201も引退 要するにこういうの?
レトロな建築物に使用されている照明器具で使っているランプで
タングステン電球っうのがある。
たしか、日本では東京大田区の某ランプ屋さんが作っている。 ネットでくぐると「両口管球」でよく似た物がいっぱい出てきた。何本か買って家の中に
取り付けて愉しもうと思ったが、1本4500〜5500円位する。アキラメロン、だなァ・・・ >>404
原理的にはそんな感じで、用途に応じ管内面の処理が違う
・クリア :透明ガラスでフィラメントが見える
・フロスト:白色のシリカを塗布、光の透過・拡散させて眩しさを軽減
・半光 :上記クリアの内面半分に反射鏡
関西の電車でよく使われていたのは、どう見てもフロスト
https://twitter.com/mobo105/status/1096740826078601216/photo/1
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>406
現実的には、直管蛍光灯で3波長形電球色の代用かな?
両口管球で一番長いのは305mmだから、蛍光ランプだとFL10の330mmが近いね
ただし、太さがだいぶ違って管径は両口32mm、FL10 25.5mm
器具はトラフ形を並べればそれらしくなるし
ランプはNECのライフルックHGX(FL10EX-L-X)だと電球色の発色いいよ >>408
その5000系も、ほとんどが東西線に転属。1981年の出来事。
同じ営団ネタだと、方南町支線(Mb)は最初、旧東京高速鉄道の100形で運用されていた。 営団地下鉄千代田線6000系の試作車は、最初、東西線で走行試験が行われた 西鹿児島駅(現 鹿児島中央)に壁画のようなものが有ったような気がするんですが、ご記憶の方いらっしゃいませんか? 山陽本線181系特急「しおじ」「うずしお」などに連結されていたパーラーカー改造車クロハ181の
グリーン個室を利用したが、室内はかなり傷んでいた。 >>410
5039F〜5048Fまでだね
5連×2の10連5本があった
固定化されてて中間代用車は先頭に出ることはなかった
のちに一本だけ7+3に組み替えられ、3連は北綾瀬支線共用となるが、いくらもしないうちに東西線へ >>347
豚双六の大越基の出身地やね。
小学生が臨海学校で大挙して来るなら行きたいねえ(笑) 大阪市営地下鉄谷町線東梅田〜谷町四丁目間開業当初、7000形・8000形(のち30系に編入)が投入されたが、程なくして、御堂筋線から転属してきた50系に置き換えられ、7000形・8000形は谷町線から撤退した。 昔は怖かったドアステッカー。
小田急のとか。
でも逆も存在した。
「ドアを手で開けてください」ステッカー。
20系客車に貼ってあった。
旧形国電にもあったらしい。
旧形客車はどうかな?
「ドアを手で」の書体が年季入った感じ 冬場を除いて、旧客のドアがまともに閉まっていた覚えがない。
手すりを掴んでぶら下がりゴッコやってたくらいだから。 阪神電鉄で関西汽船連絡特急「うずしお」が運転されていた。 >>420
キロ80 幅が無く背が高い。 キハ58 幅が広いが平べったい。それだけだ. それよりも、製造当初からのスハ32系の床下水タンクは中央(通路下)ではなく、片側に
寄っており(座席下)、カバーも大きく非常に存在感があった。 関西地方の話でスマソが・・・ 未だ福知山線にDD51+旧客が走っていた頃、
梅田地下街の丸い柱のあちこちに色々な壁新聞が貼ってあったが、それと共に
「我々の仕事・電車の運転は非常に危険で怖い思いの連続だ!!使用者側は
何とか対処しろ!! 阪神電鉄労働組合」と貼ってあった。確かに梅田を出て
からも至る所に地平部分、見通しの悪いカーブや踏切が多く残っていた。
自転車で街路の曲がり角を減速せずに向こう見ずで、阪神電車運転士ごっこ
をよくやって雰囲気・スリルを堪能していたナァ・・・・・ 続いて阪神電車の話だが、未だ梅田〜姫路の直通特急が無く、梅田〜高速神戸・須磨
浦公園間特急(西宮・芦屋・御影・三宮・元町だけの停車)は西宮に到着するやいなや、
ホーム外の職員用小踏切・通路を通ってオバチャンが小カゴにおしぼりを入れて持参
して運転士に手渡す。運転士は主に顔をぬぐってからオバチャンに返してから再出発
していた。本当に風情が有ってよき時代だった。喫茶店・スナックでおしぼりを受け取っ
て阪神特急の運転士気分を味わっていた。・・・・・・ いつからか無くなった。 阪神電鉄に2両編成のステンレスカーのジェットカーが在籍していた 大阪環状線の西側区間では、大阪臨港線直通のD51牽引の貨物列車が走っていて、
天王寺駅関西線ホームを通過するD51牽引の百済行貨物列車。
D51は無煙化により、DD13やDD51に置き換えられた。 >>429
貨物列車ではないが、下記のブログ・ページにて下段の方で天王寺駅進入のC58客レ
が画像で入っている、一度ごらんあれ。小学生の頃、昼間のTVで見た
→ 「これは凄い鉄映画!(当たりや大将の鉄シーン)」 >>270
関西の一部私鉄では今でも昼間に車内蛍光灯は消灯している。 >>401
の言う様に知っていたら故人 かも知れない、が次の動画「東京の女性」S14作品
原節子・江波和子(江波杏子の母)主演 (3/3の終わり部分 26;00分位〜)
(昭和初期 車のセールスウーマンの原節子が思いを寄せる同僚を妹、江波に取ら
れてしまい。新婚旅行に旅立つ2人を見送るという話)
多分上野発の急行 EF56+W屋根スハ32連を車で追いかけて併走する原節子。
未だ当時19歳というのにしっかりしてる。街の様子も現代とあまり変わらないナア・・・ ゴメン。{東京の女性」 3/3の26;00分〜は 23:00分〜 でした。 >>400 で述べた「迎春花」(インチュホワ)中の李香蘭も木暮と同じ23歳。
「東京の女性」の江波和子も19歳。(27歳で夭折) 今のAKBの子らと
と違って落ち着いて居るナァ・・・・・ 阪和線、新快速が速かったのは言うまでもないが、快速も引けを取らない俊足ぶり。
堺市、鳳、和泉府中、熊取、和泉砂川、5駅停車で53分。
南海もなんば〜和歌山市特急は新今宮、堺、岸和田で54分。1001系自由席(料金不要)に座って
爆走を楽しめたいい時代。 阪神・JR・阪急線が併走する西宮・芦屋・神戸市内の車窓からは緑の青々とした
六甲の連山の風景が目を癒してくれるが、昔は殆どの部分が禿山だった。
昭和13年7月の阪神大風雨災害の原因ともなり、植林に尽力しだした。 食パンの改造電車が不具合を連続的に起こし
ダイヤに大きな影響をきたしたので、JR東日本では
東北線仙台地区・福島地区に701系を新造導入しました。 兵庫県の明延鉱山にあった鉱山専用鉄道は、鉱山関係者以外は運賃1円で乗車できたことがあった あくまでも知ってたらおじいさん(乗ってたらではなく)
日満連絡線 熱河丸 うすりい丸 鴨緑丸 など 東京発門司行の列車と連携だった
が一部は神戸の東灘(操)から貨物線経由で第1突堤へ到着 船に乗り換え出来た。
勿論、門司からでも船に乗り換え可能だった。 >>340
昭和43年まで停車していたのか。知らなかった。
南海沿線に住んでいたが、高野線はあまり乗ったことがなかったので。
南海線の男里川転落事故なら覚えている。
事故後、家族でみさき公園に行ったときのこと。羽倉崎車庫に事故車輌が係留されいるのを目撃した。あちこちからひそひそ話が聞こえてきた。傷だらけでボコボコになった先頭車輌が今でも記憶に残っている。 知っていたら お爺さん ではなく、超高齢おぢさん。
駅内の公衆トイレ(大用)便器で「インド式」の物。丸直径80cm、深さ15cm位で内に
普通レンガ大の足載せ用踏み台が有るだけ。排便中に水を流すとダイナミックに渦巻
きながら中心の穴に吸い込まれていく。白の陶器製ではなく、黒のFRP製だった。
それはそれは豪快で自分も流れて行きそうだった。大阪駅・岡山駅でS53年頃にて
お世話になった。 >>450
関西の話でスマソ。オレの持っているS3年発行の大大阪市街図では大阪駅が
右から「於ほさか」 京橋「きゃうはし」 西九条「にしくぜう」 となって居る。他は
現在と同じだ。 山本富士子・佐田啓二主演の映画(S30年代作品)では
内容が戦前の設定で京都駅の柱取付の駅名標が「きゃうと」となっていた。
昔は「今日」を「けふ」と書き、「京」を「きゃう」と書いた違いが分からん・・・・! 下十条が「しもじふでう」だから二条はおそらく「にでう」
王子は「わうじ」 福知山駅から河守まで北丹鉄道という経営難の非電化ローカル私鉄が走っていた >>434
その頃は東急田園都市線から来た
列車の終端が永田町駅で
ホームを線路方向に真ん中で仕切って
片方の線路だけで折り返し。
(青山一丁目が終点の列車が多かったような)
単線区間は青山一丁目〜永田町だったっけ? 昔の鉄ピク誌に誰かが掲載していた記事。
鴨長明の方丈記「ゆく川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず」 これは鉄チャン流に
解せば、車体のデザインが同じ事の繰り返しをしているという事。元の特急用スハ32は狭窓
の連続だったが、オハ35系→広窓に、スハ44系→狭窓に モハ151系→広窓 新幹線0系
→広窓、後期0系→狭窓 100系→広窓 300系→狭窓 他に昭和初期のモハ52の流線
車体や張上げ屋根をも例に挙げていたナ・・・・・ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています