知ってたらおじいさん©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
スレ維持のため、令和開始でカキコ・・・鉄とはスレチでスマソ
下記の勅語を絵巻物にして解りやすくした物を見た人。かって人権啓発研修で
資料館に展示してあってユニークで欲しかったが、数年後また行った時には無
かった
朕󠄁惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇󠄁ムルコト(雲の上から神様がしずくを垂らして淡路
島を作っている図) 宏遠󠄁ニコヲ樹ツルコト深厚ナリ。
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ(子供たち3人が座敷で父・母に正座してお辞儀している)
億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ演リニシテ
ヘ育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス(学校での授業風景) 爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友に・・
一旦緩急アレバ義勇公ニ奉シ(戦地で鉄砲を持って突撃の図)・・・・・・ 上記なぜか文字化けしてしまった。・・・・・
朕惟フニ我カ皇皇宗國ヲ肇ムルコト(雲の上から神様がしずくを垂らして (雲の上から
2人の神様がしずくを垂らして淡路 島を作っている図)宏遠ニコヲ樹ツルコト深厚ナリ。 >>322・>>323
大阪から京都へ行く途中の田んぼ風景の中に15m位の横看板で「明治のチョコレート」
盾看板というか三角屋根の板製の塔で「テレビはナショナル」とかいろいろあったが、
思えば沿線宅地化でその頃から見なくなったな・・・ 加古川以西付近には「テレビは
ナショナル」「なるほど良い酒 忠勇」があった。 昭和50年新幹線博多開業で乗った
ときは、船場の「根来」「ボタンのミツヅミ」などが切りとおしに立てられていたナ・・・・・ 続き、新幹線新神戸にいたるまでの間に上記の横看板のほか、船場の「フレーバー
伊賀正」もあった。
万国博は大阪在住の同級生は学校行事で1回きりか、良くいっても家族で1回の2回
きりが殆どだったが、田舎の人は我が家へ泊まりっきりで7日も連続で行っていた。
そのころから、田舎の人は「都会の人に遅れまい」と変な妄想に取り憑つかれて、
新婚旅行も卒業旅行も外国行きが圧倒的だったが、実際は大阪人の同級生はそんな
ことをしたのは少数だった。田舎の家の造りが豪華になったのもそのころだった。 1970年の万博会場で思い出すのは、丁度今頃の暑い時期に行くと、方々の広場、
通路で生ごみ臭い匂いが強烈だったことだ、匂いを嗅いだだけでしんどく、頭痛が
した。 女の下手糞な運転で大型のゴルフカートのような車が走っていた。(現在の
女のように上手な運転ではなかった)跳ねられないように・当られないように気を遣
ってヒヤヒヤの会場内移動だった。あの女達も今では70過ぎの「老女」だなァ・・・
113系のスカ色を投入して万博号・エキスポ号を走らせて茨木停車が始まった。
湘南色を見馴れた目には113系のスカ色は斬新だった。 今ではコンビニでもスーパーも普通に付いて来るプラスチック製のフォーク
万博の頃出始めたんだと思うが、なんともはや、フニャフニャで往生したね 大阪市営地下鉄本町駅は中央線開業当初、中央線は一面一線ホームで阿波座〜本町間は単線運転、
御堂筋線ホームとは改札外連絡、朝潮橋駅付近に港検車場と大阪市電港車庫があった。 >>329
万博で思い出すこと。
当時、南海沿線に住んでいた。
普段連絡切符(定期券を除く)を扱っていない駅でも万博会場までの直通切符を買えたこと。
あの切符がなかったら御堂筋線の自販機は大変なことになっていたであろう。
冷房車(7000系)が登場したこと。
(戦前に南海が日本初の冷房電車を導入したことは後で知った。)
万博会場内のモノレールの車内アナウンス。
「次は日本庭園。降りようかどうか迷っている方、ためらわずに降りて下さい。」
無料なのでだらだら乗っているのが問題みたいな記事を見たような気がするが、記憶曖昧。 昔の場面描写法 特に映画などで
大阪へ来た・・・ 大阪城天守閣をアップ・通天閣をアップ(シンボルだった)
どこかへ用事で旅行、場所の移動・・・・ボーッと言うSLの牽く客車列車の走行場面
之を無言場面で暫く映す。特に「大阪へいった、○○へ来た」とナレーションしない。
何故だか昔も今もトイレへ大用便・小用便で入って出てくる場面は描写しないなァ・・・ 2時間ドラマだと、
国内線の飛行機が飛び上がる、あるいは降りて来る。
降りて来る時は「金 沢」ってテロップがでる。
今なら、E7走らせて「金 沢 駅 Kanazawa st.」を撮る。
いきなり七尾あたりのタイアップ旅館、ホテルの場合もある。 2004年というと、もう15年も前か。
東北太平洋沿岸の諸都市も健在だったんだな。
「決定版 列島縦断 最長片道切符の旅」 近鉄大阪線から信貴線に直通する上本町−信貴山口の準急があったこと。
さらにひいじいちゃんの世代だと高安山−信貴山門にも電車が走ってたのも知ってるだろうな。 東北山線でSLが牽く旧客車走っていたころ&気動車が走っていたころおれは生きていた。
鉄道が走らなくなってから
代替輸送で国鉄バスが松島〜仙台まで走るようになった。
昭和30年代後半の話しね。 大船駅山側にあった単軌鉄道遺跡の上に
トリコロールカラーの欠陥走行物体が動いていた時代
当局に指導される直前、知らずに乗ってしまった 他にも有ったかも知れないが、オレが覚えているのは、かって大阪駅とその北側に
あった(現在のヨドバシカメラ)大鉄局建物の間の広い道路上(横断歩道上とその西
側20m位)に互い違いにかみ合わせて凸凹型の茶色い鋼鉄製物体が一条に埋め
込まれていた上をを皆多くの人が意味も知らずに踏んで歩いていた。その鋼鉄体の
正体は知る人ぞ知る。それはかっての横川〜軽井沢間でED42が噛みあわせてい
たラックレールだった。 軽井沢と言えば、日本三大外国人避暑地は
軽井沢と野尻湖
で、もうひとつはわいの生家のある
宮城県宮城郡七ヶ浜町花渕浜高山なのです。
明治の時代から土地が(当時の価格で6万で)999年貸出されてんだよ。
で、日本三大と言うわりには一番無名の避暑地なんです。
仙台湾に面した太平洋を一望できる綺麗な(風光明媚)ところで
東北の湘南とも言われています。
おい、おまいら綺麗なお姉さんの〇〇姿を見るなら、絶対この夏は
海水浴に来いよ(昔は外国人と地元民の遊泳場所がロープで入れなくて
日本人侵入禁止」じゃったが、このごろはそれもなくなった。
被災地応援の為にも来てけさいん。 準急東海に乗った。
親が先頭車輌に連れて行ってくれた。
前面展望状態だった。
運転手が「XX進行(記憶曖昧)」と指差し確認をしていた。
格好良かったなあ。
ところどころに建設中の線路が見えた。
新幹線だと親が教えてくれた。 上記の新幹線のお話で思い出した。新幹線開通前に毎日毎日ニュースTV解説番組
でこの度できる新しい鉄道とはどんなものか、と詳しく説明をしていた。線路の実物を
置いて従来の物より1回り大きい60sだとか、軌間が広い1435mmだとか、他の時事
ニュースは何も理解不能で頭に残らずとも、この件だけは幼児であったにも拘わらず
鮮明に覚えている。あとは吉伸ちゃん誘拐事件だけ・・・ 東海形と聞いて、
91が浮かぶのはお爺さん
153が浮かぶのはお爺さんの可能性大
185が浮かぶのは後期おっさん >>310
>>313-314
>>317
>>321
「題名のない音楽会」は当初、東京12チャンネルで放映していた 上記のカキコで思い出した。鉄道・列車が出てくる映画主題歌。続きを歌えれば正に
にあなたは年金受給の老人。いずれも映画ではオハ35・オハ61が出てくる。
「白い夜霧の灯りに濡れて、別れ切ないプラッとホーム、ベルが鳴るベルが鳴る」
「しばし別れの夜汽車の窓よ、言わず語らずに心と心、またの遭う日を」
「何も言わずにこのままそっと、汽車に乗ろうと思ったものを、駅の喫茶の公衆電話」
「惚れて惚れて、惚れて居ながら行く俺に旅を急かせるベルの音、つらいホームに」
3段窓の茶色いモハ72が出てくる。
「あなたを待てば雨が降る。濡れて来ぬかと気に掛かる、ああビルの畔の」 ALLIED FORCES CAR
U.S.ARMY SECTION
イエローボール
復興整備車、復興整備電車 前にもカキコした113系の「万博号」「エキスポ号」に加えて、波動輸送用オハ12系に
よる「ノーキョウ列車」が多数運転された。ツアーの募集主体となった農協が旅行業
の免許を取得していたのだろうか? >>355
の続き、都はるみ 好きになった人 (映画 さよなら列車)
「さようなら さようなら 元気でいてね 好きな2人はいつでも逢える たとえ別れて」 いや〜びっくりした
30分でまた満タン感になったので
膀胱がおじいさんになったのかと思ったら
ほんとにほぼ満タンだった
腎臓大丈夫かな? 普通の百貨店のおもちゃ売り場の鉄道模型コーナーで売られていた3線式Oゲージ
模型、3線Oゲージ・KTMのHO・メリクリンHOが並行してショーケースで陳列して
あった。Oゲージ基本セット(EB電機+トランス+12本組円形レール)で4000円位
だった。Nゲージは未だなかった。 メルクリンの線路付き道床がハイカラに見えた。 千歳線 苗穂〜東札幌 直流1500V電化(定山渓鉄道所属車乗入用設備) 仙山線の電化区間
・陸前落合〜熊ヶ根 交流 20kV 50c/s
・作並〜山寺 直流 1500V 旧国鉄指宿線に乗った
旧国鉄古江線に乗った
旧国鉄日之影線に乗った
細島線(日豊本線支線)に乗った >>372
知ってたら、というかなかなかマニアックな駅ですね。。。 旧国鉄三江北線に乗った
現役の豊後森機関庫を知っている
備後落合駅前の旅館に泊まったことがある >>372
>>374
その前身は、新津田沼(2代) 飯田線豊川駅の旧駅舎の3階の演劇場で映画や落語、漫才を見たり、同駅舎2階のデパートで買い物した。
湯谷温泉駅駅舎2階に併設されていた旅館に泊まった。 >>377
それ、おじさん世代でも実体験あるでしょ! >>371
利府支線のまえの東北本線山線を知っています。
昭和35年頃だったと記憶してますが、利府丘陵の現在の三陸道春日パーキングあたりは
SLが足掻き足掻き登っていたんです。よってその地点は低速走行になってましたので乗客が
飛び乗ったり降りたりできたんです。のちにディーゼル列車になってからはそのような光景は
見られなくなりました。そして山線は廃止になり松島から仙台まで国鉄バス(青バス)が走り、春日から
塩釜までは宮城バス(赤バス)が走りだしました。 鹿児島本線小倉駅はかつては西小倉駅付近にあり、博多駅の位置も開業当初は現在の場所ではなかった 横黒線、橋場線、生保内線を知っている
黒沢尻駅、尻内駅、北福岡駅を知っている 昭和37年に 弁天町にオープンした交通科学館(後 科学博物館へ改称)へいった。
大きなパノラマの大レイアウトが朝になり昼になり夕方になり夜になったが、模型列車
が脱線、停止ばかりしていた。それよりも子ども心に驚いたのは、架線を張って集電
走行する模型だった。 後日、阿倍野の近鉄百貨店の特設会場でメルクリンの列車
が架線集電で走行して、驚き、魅入っていた。帰宅して親に「架線走行の模型が欲し
い」と連日駄々をこねた。 >>386
386をカキコしたものです。それから33年の月日が流れて、ある日日本橋の模型店
ぽちで宇都宮のマルエス模型が廃業したのか、在庫処分を買い取ってきたのか、
メルクリンの車・線路M式が大量にあった。線路定価1本500円が100円(新品)
架線柱が10本で500円・左右ポイントが1組1500円 之は逃すまいと連日通い
詰め、大量に「大人買い」した。架線だけがなかったので、阪急百で30cm500円
で定価買いして組み立て走行させた。 昼間でも架線とパンタが擦れると小さな
青白い火花が散る。非情に愉快だったが、家が狭くなり走行させていない・・・・ 昔は電車と言えば直流に直流モーター、交流の場合はわざわざ直流に整流してから直流
モーターであった。
一方、代表的な照明であった蛍光灯は交流でないと点灯出来なかった。
それが今や、電車と言えば交流誘導モーターにVVVF、照明の主流となったLEDランプは
直流で、損失の大部分は整流回路の放熱である。
サイリスタチョッパはおじさん?おじいさん? むかし、ラジオを聞いていたらビックニュースが飛び込んできました。
その内容は、仙台市にJR東日本の本社機能ができるという信じられない
ビックりなニュース(瞬間的)でしたが、なんのことはなく時間差で内容が詳らかになった。
仙台市にJR東日本の地域本社を置くっう話しだったんだ。
いまや爺になってしまった若者はガックシしたよ(笑)。 なぜに、蛍光灯には安定器っうすばらしいむだな部品が付いているの
むかしのはなしだけど、いまは電子回路に置き換わっているけどもね。 JNRのNが取れて、もう30年以上なんだな。
山手の貨物線をデッキ付きの機関車が走ったり、新宿駅に181系がたむろしていた頃が、
ついこないだのような気がするのに。 一見、小型の蛍光灯だと思いきや、実は白熱灯・・・・・関西の私鉄でよく使われていた「管球」 >>393
おれもあの管球がすきだった。一番最後を覚えているのは、阪神国道路面電車の物だ。
明るくなく、暗くなくとても趣があった。透明管で愉しかった。言ってしまえば夜店などで
使われていたクリヤ電球60ワットの細長い形のようなものだったナ・・・・・・ >>394
続いてカキコでスマソ、スレチだが「好きだった」で思い出した。鶴田浩二の歌「好きだった」
〜好きだった 好きだった 嘘じゃなかった 好きだった。そんな一言あのときに 言えば良か
った。 ボデーにすがって泣きじゃくる。天井の明かりをぬくもりを 忘れられずにいるのなら〜
>>393 のカキコに感謝! 良く鮮明に乗車状況を思い出しました。43年前を。ありがとう。 >>393
関西で最後まで菅球使ったのは叡電デナ21だっけ? 「北はアムール 南は熱河 東やポクらの 西満州里 築く絆はおいらの鉄路
明日のスパイク どこへ打つ」 南満州鉄道愛唱歌 続き 「明日の塒か 嘆くな女房 蒙古風吹く 砂漠の果てで 枕並べて枕木抱いて
嬉し仲間と月を見る」
「月は無くともレバーは光る 黒い炭さえ真っ赤に燃える 熱い想いをレールに
乗せて 飛ばしゃ荒野は荒吹雪」 満州映画「迎春花」 主演 李香蘭 木暮実千代 で終わりの場面 1:06分頃から
大連駅に特急あじあが到着、車内で2名やり取りする風景が出てくる、当時 木暮は
23歳(今の子と違い偉い老けてるナァ・・・・ youtubeで出てくる貴重な場面。 >>393-394
両口管球って言うらしいね
>>397
同時期に嵐電のモボ121やク201も引退 要するにこういうの?
レトロな建築物に使用されている照明器具で使っているランプで
タングステン電球っうのがある。
たしか、日本では東京大田区の某ランプ屋さんが作っている。 ネットでくぐると「両口管球」でよく似た物がいっぱい出てきた。何本か買って家の中に
取り付けて愉しもうと思ったが、1本4500〜5500円位する。アキラメロン、だなァ・・・ >>404
原理的にはそんな感じで、用途に応じ管内面の処理が違う
・クリア :透明ガラスでフィラメントが見える
・フロスト:白色のシリカを塗布、光の透過・拡散させて眩しさを軽減
・半光 :上記クリアの内面半分に反射鏡
関西の電車でよく使われていたのは、どう見てもフロスト
https://twitter.com/mobo105/status/1096740826078601216/photo/1
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>406
現実的には、直管蛍光灯で3波長形電球色の代用かな?
両口管球で一番長いのは305mmだから、蛍光ランプだとFL10の330mmが近いね
ただし、太さがだいぶ違って管径は両口32mm、FL10 25.5mm
器具はトラフ形を並べればそれらしくなるし
ランプはNECのライフルックHGX(FL10EX-L-X)だと電球色の発色いいよ >>408
その5000系も、ほとんどが東西線に転属。1981年の出来事。
同じ営団ネタだと、方南町支線(Mb)は最初、旧東京高速鉄道の100形で運用されていた。 営団地下鉄千代田線6000系の試作車は、最初、東西線で走行試験が行われた 西鹿児島駅(現 鹿児島中央)に壁画のようなものが有ったような気がするんですが、ご記憶の方いらっしゃいませんか? 山陽本線181系特急「しおじ」「うずしお」などに連結されていたパーラーカー改造車クロハ181の
グリーン個室を利用したが、室内はかなり傷んでいた。 >>410
5039F〜5048Fまでだね
5連×2の10連5本があった
固定化されてて中間代用車は先頭に出ることはなかった
のちに一本だけ7+3に組み替えられ、3連は北綾瀬支線共用となるが、いくらもしないうちに東西線へ >>347
豚双六の大越基の出身地やね。
小学生が臨海学校で大挙して来るなら行きたいねえ(笑) 大阪市営地下鉄谷町線東梅田〜谷町四丁目間開業当初、7000形・8000形(のち30系に編入)が投入されたが、程なくして、御堂筋線から転属してきた50系に置き換えられ、7000形・8000形は谷町線から撤退した。 昔は怖かったドアステッカー。
小田急のとか。
でも逆も存在した。
「ドアを手で開けてください」ステッカー。
20系客車に貼ってあった。
旧形国電にもあったらしい。
旧形客車はどうかな?
「ドアを手で」の書体が年季入った感じ 冬場を除いて、旧客のドアがまともに閉まっていた覚えがない。
手すりを掴んでぶら下がりゴッコやってたくらいだから。 阪神電鉄で関西汽船連絡特急「うずしお」が運転されていた。 >>420
キロ80 幅が無く背が高い。 キハ58 幅が広いが平べったい。それだけだ. ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています