知ってたらおじいさん©2ch.net
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>>297
オレの中学卒業旅行は大阪発の155系「きぼう」だった。さすが、153系と違って
台車はDT21だった。バネが硬く乗り心地は良くなく、疲れた。「相手がガキ共だと
思って安物の台車を・・」と思った。 小声の一通りの一般乗車向けの車内放送・
主要駅到着前の乗換え案内が流れていたが、重複して「○○中学校の生徒さん〜
〜」という別の声の放送が大きな声で流れていて不思議だった。 >>292
そんなのは平成生まれでも知ってる奴はいくらでもいるぞ >>299
そんな中にキハ23が現れたときの感動は平成生まれにゃ分らん 40を倍にしても80だからまだ人生半分のつもり。
50を倍にするとまず無理そうだから、もう自分の知っている長さは無いと気づく。
60になるとほぼ先代は片付いてるし、次は俺と思う。
その60くらい前の国鉄を覚えてるやつはおじいさん。 日本で初めてエンジンを2台装備したキハ50形気動車。ただし、全長が22mもあった。 ラジオ放送
「朕深く、世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置を以って時局を収拾せんと
欲し、茲に忠良なる汝臣民に告ぐ、朕は帝国政府をして米英支ソ四国に対しその共同
宣言を受諾する旨、通告せしめたり。」を全文暗唱できる人。昭和20年8月15日その日
以降、次第に復員列車、買出し列車が走りだした。・・・・・運賃は無料だったのかな? 同じく、上記の4年前 16年12月8日の放送
「臨時ニュースを申し上げます、臨時ニュースを申しあげます。大本営陸海軍部12月8日
午前6時発表、帝国陸海軍は本8日未明、アメリカ・イギリス軍と交戦状態にい出り。再び
繰り返します。帝国陸海軍は〜〜」を暗唱できる人。
それを切っ掛けととして、優等列車削減やダイヤ削減が積極的になっていった。・・・ 上記の短い4年間なしの間にモハ43改造のモハ64(クモハ31の改称前)やD52戦時
型、凸型EF13の製造、モハ63の製造など色々手間がかけて行われた。凄い人力エネ
ルギーを注いだのだなァ・・・・・と思う。 次の替え歌を歌える人。
「金鵄あがって15銭、栄えある光30銭、朝日は上がって45銭、鵬翼連ねて90銭。
今こそ来たぞこの値上げ、紀元は2600年、ああ一億の民は泣く」 ならば俺はこの歌だ。 (高峰三枝子 湖畔の宿 の替え歌)
「昨日生まれた蜂の子が豚に踏まれて名誉の戦死、蜂の遺骨は何時帰る、
4月8日の朝帰る、蜂の母さん淋しかろ」
「昨日生まれた豚の子が蜂に刺されて名誉の戦死、豚の遺骨は何時帰る、
4月8日の朝帰る、豚の母さん淋しかろ」
「昨日生まれた蛸の子が弾に当って名誉の戦死、蛸の遺骨は何時帰る、
骨が無いから帰れない、蛸の母さん淋しかろ」 >>307 >>308
の替え歌をTV東京10チャンネルの懐かしの歌声(コロムビア トップ・ライト司会)で
音羽ゆりかご会(小学生)のメンバーが歌っていたのをよく覚えている。
同番組では別の日に「僕は特急の機関士で」というのボニージャックスが歌っていた。
あの子供らも今は還暦を過ぎた頃だナ・・・・・・ >>312 東京12チャンネルとNETを混同してないか? >>310
310をカキコした者です。 「東京12チャンネル」の間違いでした、済みません。 >>310
TV 懐かしの歌声で灰田勝彦が「新雪」の歌 紫煙る新雪の峰振り仰ぐこの心、と
歌っていたが、それが主題歌の昭和17年製作の映画は阪急電車六甲駅北側にある
高羽小学校を舞台としたもので、始まりのシーンは当時の六甲駅に810型2連が
到着して、月丘夢路が下車、歩いて「蓑輪先生」と言って水島道太郎を捕まえるところ
からだった。 続き、「箕輪」は「蓑和田」の間違いでした。映画フィルムが古くあちらこちらで場面
省略されているが、最も見たかった「月丘夢路が阪神電車に乗車して遠目に六甲
の山々を眺めているシーン」が本来は出て来る筈がその巻が消失されてしまった
らしい。当時の六甲山は知る人ぞ知る。所謂禿げ山だったらしいが・・・・
当時は尋常小学校の教員の正式名称を「訓導」といった。始まり場面の出演者名
に 訓導 蓑和田 水島道太郎と出てくる。 >>247
>>249
地下鉄の切符売りのおばさんと同じ頃に姿を消したもの。
無秩序に林立する線路沿いの広告看板。
親の転勤で東京から大阪に向かう夜行寝台の車中で朝どよめきが起きた。窓の外を見ると、山の斜面がびっしり看板でうめくされていた。各々が少しでも目立つことを意図しているのか、向きがてんでばらばらだった。
京都を過ぎたあたりだったと思うが正確な場所は覚えていない。
その後その区間を乗車する機会はなかった。
万博終了後に久々に乗ったその区間の車窓からあの看板を捜したが見つからなかった。
「線路沿いの見苦しい広告看板を何とかしろ。もうすぐ万博だというのに恥ずかしい。」みたいな意見が新聞投書欄に載ったのを見たことはあるが、万博を機に撤去されたのかは不明。
余談。
万博の期間、親戚が大挙してやって来た。
学校の授業が終わってから祖父母を万博会場に案内したなんてこともあった。 スレ維持のため、令和開始でカキコ・・・鉄とはスレチでスマソ
下記の勅語を絵巻物にして解りやすくした物を見た人。かって人権啓発研修で
資料館に展示してあってユニークで欲しかったが、数年後また行った時には無
かった
朕󠄁惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇󠄁ムルコト(雲の上から神様がしずくを垂らして淡路
島を作っている図) 宏遠󠄁ニコヲ樹ツルコト深厚ナリ。
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ(子供たち3人が座敷で父・母に正座してお辞儀している)
億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ演リニシテ
ヘ育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス(学校での授業風景) 爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友に・・
一旦緩急アレバ義勇公ニ奉シ(戦地で鉄砲を持って突撃の図)・・・・・・ 上記なぜか文字化けしてしまった。・・・・・
朕惟フニ我カ皇皇宗國ヲ肇ムルコト(雲の上から神様がしずくを垂らして (雲の上から
2人の神様がしずくを垂らして淡路 島を作っている図)宏遠ニコヲ樹ツルコト深厚ナリ。 >>322・>>323
大阪から京都へ行く途中の田んぼ風景の中に15m位の横看板で「明治のチョコレート」
盾看板というか三角屋根の板製の塔で「テレビはナショナル」とかいろいろあったが、
思えば沿線宅地化でその頃から見なくなったな・・・ 加古川以西付近には「テレビは
ナショナル」「なるほど良い酒 忠勇」があった。 昭和50年新幹線博多開業で乗った
ときは、船場の「根来」「ボタンのミツヅミ」などが切りとおしに立てられていたナ・・・・・ 続き、新幹線新神戸にいたるまでの間に上記の横看板のほか、船場の「フレーバー
伊賀正」もあった。
万国博は大阪在住の同級生は学校行事で1回きりか、良くいっても家族で1回の2回
きりが殆どだったが、田舎の人は我が家へ泊まりっきりで7日も連続で行っていた。
そのころから、田舎の人は「都会の人に遅れまい」と変な妄想に取り憑つかれて、
新婚旅行も卒業旅行も外国行きが圧倒的だったが、実際は大阪人の同級生はそんな
ことをしたのは少数だった。田舎の家の造りが豪華になったのもそのころだった。 1970年の万博会場で思い出すのは、丁度今頃の暑い時期に行くと、方々の広場、
通路で生ごみ臭い匂いが強烈だったことだ、匂いを嗅いだだけでしんどく、頭痛が
した。 女の下手糞な運転で大型のゴルフカートのような車が走っていた。(現在の
女のように上手な運転ではなかった)跳ねられないように・当られないように気を遣
ってヒヤヒヤの会場内移動だった。あの女達も今では70過ぎの「老女」だなァ・・・
113系のスカ色を投入して万博号・エキスポ号を走らせて茨木停車が始まった。
湘南色を見馴れた目には113系のスカ色は斬新だった。 今ではコンビニでもスーパーも普通に付いて来るプラスチック製のフォーク
万博の頃出始めたんだと思うが、なんともはや、フニャフニャで往生したね 大阪市営地下鉄本町駅は中央線開業当初、中央線は一面一線ホームで阿波座〜本町間は単線運転、
御堂筋線ホームとは改札外連絡、朝潮橋駅付近に港検車場と大阪市電港車庫があった。 >>329
万博で思い出すこと。
当時、南海沿線に住んでいた。
普段連絡切符(定期券を除く)を扱っていない駅でも万博会場までの直通切符を買えたこと。
あの切符がなかったら御堂筋線の自販機は大変なことになっていたであろう。
冷房車(7000系)が登場したこと。
(戦前に南海が日本初の冷房電車を導入したことは後で知った。)
万博会場内のモノレールの車内アナウンス。
「次は日本庭園。降りようかどうか迷っている方、ためらわずに降りて下さい。」
無料なのでだらだら乗っているのが問題みたいな記事を見たような気がするが、記憶曖昧。 昔の場面描写法 特に映画などで
大阪へ来た・・・ 大阪城天守閣をアップ・通天閣をアップ(シンボルだった)
どこかへ用事で旅行、場所の移動・・・・ボーッと言うSLの牽く客車列車の走行場面
之を無言場面で暫く映す。特に「大阪へいった、○○へ来た」とナレーションしない。
何故だか昔も今もトイレへ大用便・小用便で入って出てくる場面は描写しないなァ・・・ 2時間ドラマだと、
国内線の飛行機が飛び上がる、あるいは降りて来る。
降りて来る時は「金 沢」ってテロップがでる。
今なら、E7走らせて「金 沢 駅 Kanazawa st.」を撮る。
いきなり七尾あたりのタイアップ旅館、ホテルの場合もある。 2004年というと、もう15年も前か。
東北太平洋沿岸の諸都市も健在だったんだな。
「決定版 列島縦断 最長片道切符の旅」 近鉄大阪線から信貴線に直通する上本町−信貴山口の準急があったこと。
さらにひいじいちゃんの世代だと高安山−信貴山門にも電車が走ってたのも知ってるだろうな。 東北山線でSLが牽く旧客車走っていたころ&気動車が走っていたころおれは生きていた。
鉄道が走らなくなってから
代替輸送で国鉄バスが松島〜仙台まで走るようになった。
昭和30年代後半の話しね。 大船駅山側にあった単軌鉄道遺跡の上に
トリコロールカラーの欠陥走行物体が動いていた時代
当局に指導される直前、知らずに乗ってしまった 他にも有ったかも知れないが、オレが覚えているのは、かって大阪駅とその北側に
あった(現在のヨドバシカメラ)大鉄局建物の間の広い道路上(横断歩道上とその西
側20m位)に互い違いにかみ合わせて凸凹型の茶色い鋼鉄製物体が一条に埋め
込まれていた上をを皆多くの人が意味も知らずに踏んで歩いていた。その鋼鉄体の
正体は知る人ぞ知る。それはかっての横川〜軽井沢間でED42が噛みあわせてい
たラックレールだった。 軽井沢と言えば、日本三大外国人避暑地は
軽井沢と野尻湖
で、もうひとつはわいの生家のある
宮城県宮城郡七ヶ浜町花渕浜高山なのです。
明治の時代から土地が(当時の価格で6万で)999年貸出されてんだよ。
で、日本三大と言うわりには一番無名の避暑地なんです。
仙台湾に面した太平洋を一望できる綺麗な(風光明媚)ところで
東北の湘南とも言われています。
おい、おまいら綺麗なお姉さんの〇〇姿を見るなら、絶対この夏は
海水浴に来いよ(昔は外国人と地元民の遊泳場所がロープで入れなくて
日本人侵入禁止」じゃったが、このごろはそれもなくなった。
被災地応援の為にも来てけさいん。 準急東海に乗った。
親が先頭車輌に連れて行ってくれた。
前面展望状態だった。
運転手が「XX進行(記憶曖昧)」と指差し確認をしていた。
格好良かったなあ。
ところどころに建設中の線路が見えた。
新幹線だと親が教えてくれた。 上記の新幹線のお話で思い出した。新幹線開通前に毎日毎日ニュースTV解説番組
でこの度できる新しい鉄道とはどんなものか、と詳しく説明をしていた。線路の実物を
置いて従来の物より1回り大きい60sだとか、軌間が広い1435mmだとか、他の時事
ニュースは何も理解不能で頭に残らずとも、この件だけは幼児であったにも拘わらず
鮮明に覚えている。あとは吉伸ちゃん誘拐事件だけ・・・ 東海形と聞いて、
91が浮かぶのはお爺さん
153が浮かぶのはお爺さんの可能性大
185が浮かぶのは後期おっさん >>310
>>313-314
>>317
>>321
「題名のない音楽会」は当初、東京12チャンネルで放映していた 上記のカキコで思い出した。鉄道・列車が出てくる映画主題歌。続きを歌えれば正に
にあなたは年金受給の老人。いずれも映画ではオハ35・オハ61が出てくる。
「白い夜霧の灯りに濡れて、別れ切ないプラッとホーム、ベルが鳴るベルが鳴る」
「しばし別れの夜汽車の窓よ、言わず語らずに心と心、またの遭う日を」
「何も言わずにこのままそっと、汽車に乗ろうと思ったものを、駅の喫茶の公衆電話」
「惚れて惚れて、惚れて居ながら行く俺に旅を急かせるベルの音、つらいホームに」
3段窓の茶色いモハ72が出てくる。
「あなたを待てば雨が降る。濡れて来ぬかと気に掛かる、ああビルの畔の」 ALLIED FORCES CAR
U.S.ARMY SECTION
イエローボール
復興整備車、復興整備電車 前にもカキコした113系の「万博号」「エキスポ号」に加えて、波動輸送用オハ12系に
よる「ノーキョウ列車」が多数運転された。ツアーの募集主体となった農協が旅行業
の免許を取得していたのだろうか? >>355
の続き、都はるみ 好きになった人 (映画 さよなら列車)
「さようなら さようなら 元気でいてね 好きな2人はいつでも逢える たとえ別れて」 いや〜びっくりした
30分でまた満タン感になったので
膀胱がおじいさんになったのかと思ったら
ほんとにほぼ満タンだった
腎臓大丈夫かな? 普通の百貨店のおもちゃ売り場の鉄道模型コーナーで売られていた3線式Oゲージ
模型、3線Oゲージ・KTMのHO・メリクリンHOが並行してショーケースで陳列して
あった。Oゲージ基本セット(EB電機+トランス+12本組円形レール)で4000円位
だった。Nゲージは未だなかった。 メルクリンの線路付き道床がハイカラに見えた。 千歳線 苗穂〜東札幌 直流1500V電化(定山渓鉄道所属車乗入用設備) 仙山線の電化区間
・陸前落合〜熊ヶ根 交流 20kV 50c/s
・作並〜山寺 直流 1500V 旧国鉄指宿線に乗った
旧国鉄古江線に乗った
旧国鉄日之影線に乗った
細島線(日豊本線支線)に乗った >>372
知ってたら、というかなかなかマニアックな駅ですね。。。 旧国鉄三江北線に乗った
現役の豊後森機関庫を知っている
備後落合駅前の旅館に泊まったことがある >>372
>>374
その前身は、新津田沼(2代) 飯田線豊川駅の旧駅舎の3階の演劇場で映画や落語、漫才を見たり、同駅舎2階のデパートで買い物した。
湯谷温泉駅駅舎2階に併設されていた旅館に泊まった。 >>377
それ、おじさん世代でも実体験あるでしょ! >>371
利府支線のまえの東北本線山線を知っています。
昭和35年頃だったと記憶してますが、利府丘陵の現在の三陸道春日パーキングあたりは
SLが足掻き足掻き登っていたんです。よってその地点は低速走行になってましたので乗客が
飛び乗ったり降りたりできたんです。のちにディーゼル列車になってからはそのような光景は
見られなくなりました。そして山線は廃止になり松島から仙台まで国鉄バス(青バス)が走り、春日から
塩釜までは宮城バス(赤バス)が走りだしました。 鹿児島本線小倉駅はかつては西小倉駅付近にあり、博多駅の位置も開業当初は現在の場所ではなかった 横黒線、橋場線、生保内線を知っている
黒沢尻駅、尻内駅、北福岡駅を知っている 昭和37年に 弁天町にオープンした交通科学館(後 科学博物館へ改称)へいった。
大きなパノラマの大レイアウトが朝になり昼になり夕方になり夜になったが、模型列車
が脱線、停止ばかりしていた。それよりも子ども心に驚いたのは、架線を張って集電
走行する模型だった。 後日、阿倍野の近鉄百貨店の特設会場でメルクリンの列車
が架線集電で走行して、驚き、魅入っていた。帰宅して親に「架線走行の模型が欲し
い」と連日駄々をこねた。 >>386
386をカキコしたものです。それから33年の月日が流れて、ある日日本橋の模型店
ぽちで宇都宮のマルエス模型が廃業したのか、在庫処分を買い取ってきたのか、
メルクリンの車・線路M式が大量にあった。線路定価1本500円が100円(新品)
架線柱が10本で500円・左右ポイントが1組1500円 之は逃すまいと連日通い
詰め、大量に「大人買い」した。架線だけがなかったので、阪急百で30cm500円
で定価買いして組み立て走行させた。 昼間でも架線とパンタが擦れると小さな
青白い火花が散る。非情に愉快だったが、家が狭くなり走行させていない・・・・ 昔は電車と言えば直流に直流モーター、交流の場合はわざわざ直流に整流してから直流
モーターであった。
一方、代表的な照明であった蛍光灯は交流でないと点灯出来なかった。
それが今や、電車と言えば交流誘導モーターにVVVF、照明の主流となったLEDランプは
直流で、損失の大部分は整流回路の放熱である。
サイリスタチョッパはおじさん?おじいさん? むかし、ラジオを聞いていたらビックニュースが飛び込んできました。
その内容は、仙台市にJR東日本の本社機能ができるという信じられない
ビックりなニュース(瞬間的)でしたが、なんのことはなく時間差で内容が詳らかになった。
仙台市にJR東日本の地域本社を置くっう話しだったんだ。
いまや爺になってしまった若者はガックシしたよ(笑)。 なぜに、蛍光灯には安定器っうすばらしいむだな部品が付いているの
むかしのはなしだけど、いまは電子回路に置き換わっているけどもね。 JNRのNが取れて、もう30年以上なんだな。
山手の貨物線をデッキ付きの機関車が走ったり、新宿駅に181系がたむろしていた頃が、
ついこないだのような気がするのに。 一見、小型の蛍光灯だと思いきや、実は白熱灯・・・・・関西の私鉄でよく使われていた「管球」 >>393
おれもあの管球がすきだった。一番最後を覚えているのは、阪神国道路面電車の物だ。
明るくなく、暗くなくとても趣があった。透明管で愉しかった。言ってしまえば夜店などで
使われていたクリヤ電球60ワットの細長い形のようなものだったナ・・・・・・ >>394
続いてカキコでスマソ、スレチだが「好きだった」で思い出した。鶴田浩二の歌「好きだった」
〜好きだった 好きだった 嘘じゃなかった 好きだった。そんな一言あのときに 言えば良か
った。 ボデーにすがって泣きじゃくる。天井の明かりをぬくもりを 忘れられずにいるのなら〜
>>393 のカキコに感謝! 良く鮮明に乗車状況を思い出しました。43年前を。ありがとう。 >>393
関西で最後まで菅球使ったのは叡電デナ21だっけ? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています