知ってたらおじいさん©2ch.net
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>>267
たしかに・・・ 書くのならJR側はそのように決めたと主張するが、現場の泣き屋や
車掌の案内、発音によっては相当もめると思う。自動音声も他におかしいのが多い
し・・・ 「ドア閉まります」も「ダァ 閉まります」のような者も居るし。苦情の嵐を浴び
てしまい、もっと良い駅名にしとけばよかったとJRが反省する日もそこまで来ている
ナwww 昼間の通勤電車は車内蛍光灯が消灯されている
夏場に窓開け協力願いの車内放送 とは言え、安易に駅名変えると高輪ゲッタウェイと言われかねない、とかw >>271
オイルショックの頃でなくても、昔の電車・客車は昼間は車内灯は消灯していた。
山間部を走るローカルでも同じだ、長いトンネル通過の際にはわざわざ点灯・消灯
していた。 通勤電車はエアコンが無い頃は換気のために窓開けを奨励していた
丁度、今頃の時期からだったな。 >>272
頑固さのあまり、カタカナ名に固執するからいけないのだ。「高輪・下駄上井」にすれば
問題は大きく進展する。駒川中野・野江内代・関目高殿・千林大宮・太子橋今市など
長くても愛用されているのは幾らでもある。「尼崎センタープール前」も車掌によっては
「プール前 プール前」と言っている。 カタカナに拘ると「野辺地」を「のへず・のへず」
というようにもなりかねない。 強行派も反対派も全部漢字「下駄上井」で妥協だ!! 九州特急と言ってもJRQの特急ではない。
かつての、九州行きの一群の寝台特急、殊に520mm3段のことである。
夏ならまだ陽のある頃に東京駅を発って、翌朝どころか昼を回ったり、24時間以上かかっ
たり。
同じ列車の上りと、ひと旅で2度すれ違うのである。
夜のうちに移動して翌朝目的地に到着するという、本来の意味での夜行をなしていたのは
せいぜい「あさかぜ」くらいだった。
ステンの専用機EF30に牽かれて関門海底トンネルを抜け、九州の赤い交流機に付け替えて
走り始めると、間もなく電車に道を譲る。
交換ではない、追い抜かせるのである。
最早特急とは名ばかり・・?
寝台特急も、明けて寝台を畳むと通常の自由席特急になる名目なのだが、幸か不幸か、特急
料金を払ってまで、わざわざ地元電車に抜かされる長椅子に乗る変態はそう多くはなかった。 >>274 車内用電源のバッテリー容量が小さかったのか、白熱灯しかなかったから電気食ったのか? 車軸発電機を回すと機関車に負担がかかった ← 思いつきの嘘 >>277
それはバッテリー容量の問題ではないと思う。日本人が昔から培ってきた節約の心、
と思う。知らぬ間に世の中が贅沢に慣れてきてしまったという証にすぎない。
貴台ご提起の問題点からならば、容量が小さいため、夜間走行時も原則消したまま
で、必要時において点灯させていた筈である。(優等車両の減灯は除外) >>278
あなたはとてもユーモラスで面白い人だなァ・・・・・・ 自転車での夜行電車ごっこを
思い出した。 車内電源用の発電機やバッテリーが劣化しやすかったのかもしれないな。
あるいは発電機の能力不足でバッテリーの充電に時間がかかるため、節約して使っていたとか。 >>281
貴方のバッテリー容量の心配の問題においては客車の場合では当て嵌まるかも知れ
ないが、客車でも普通走行中は車軸発電機からの電気供給が主であった。その証拠
として夜間に駅へ停車した途端に、車内灯が僅かに明るくなっていた。(自動的にバッ
テリーからの電源に切り替わった、走行し出すと車内灯は暗くなり、走行速度が上がる
につれて明るくなっていった) 電車の場合は常に架線からの電気を低圧化して供給す
るので、バッテリー容量は気にしない。 これは変電所へ掛かる負担の問題になる。 「昼行灯」(ひるあんどん)を嫌う文化
昼は窓を開けて部屋に光を入れなさいと奨励され、そのように育った世代
電気代の節減を強制されて辟易した時代を経験(電力会社社員が文字通り土足で乗り込んできて強制消灯させられる) 昼は電灯なんか消すのが当たり前、そこにごちゃごちゃ説明など要らない
そういう社会観念が常識として支配していた時代だから。
外から採光すれば済むのに、目の前のランプの灯油がみるみる減っていけば誰にも視覚的に無駄なのが分かるだろう。
車両のバッテリーの充電が乏しくて・・・も理由としては確かにあるが、
この文化を踏まえてのバッテリー容量であったのだろうとも言える。 電気の話は別として、昔はどこの家も昼間は(例外に夜早い時間帯)も家の裏戸は
開けた広げたままで、雨戸を閉めて回るまで開けっ放しだった。蚊や蝿が入って来
ても。戦前〜昭和30年代の映画を見ていても良く分る。 小津安二郎映画「秋刀魚
の味」を見ていても父親(笠智衆)と嫁入り娘(岩下志麻)が結婚式場へ向かうとき
でも2階の部屋の外戸は閉めずに開けっ放しで出て行ったシーンには驚いた。 昭和40年代前半まで、今では信じられない車窓風景があったなあ。
山陽本線を走ってると、山田洋次の映画そのまんま、台船傾けてザザーっと石を落とす光景
が実際にあったし、古くなった船を海上で燃やして処分なんてことを、本当にやってたから
なあ。 >>286
オレも山陽線・呉線の海風景が好きでよく乗りに行った。広島宮島ミニ・山口秋芳洞
ミニ周遊券で、ある日呉線に乗っていて、線路際のトンネルの前付近に墓地があって、
その横の古臭い1m高さの囲いから炎・煙がでていた。あの囲いはウチの田舎の墓
地傍にもあって、町営の火葬場が出来るまでは、親族が1昼夜掛かりで焼いていた
というから唱和52年頃も、まだ焼いている最中だったのかも知れない・・・・ 今から31年前の1月7日は昭和天皇ご崩御の日であった。早朝のニュース速報
でその旨を知ったが、以前から計画していたので、JRの駅で奈良・大和路フリ
ー切符を買って、奈良へ行った。東大寺ではずっと読経が流れ、商店街では早く
も半旗・弔旗が掲げられていた。夕方出発駅に着いたら、みどりの窓口に「当分
の間、フリー切符は発売しません」と掲示されていた。家に着いたら「平成おじ
さん」が額縁を右に抱えたニュースをしていた。JRも崩御への体制対応遅く、
オレも不謹慎だったナ、日頃から危篤・危篤のニュース続きで、実に昭和が終わ
った実感がなかったのもあった。 先ほどの投稿で、31年前→30年前に訂正。
仕事へ銀行へ行くたびに、窓口や壁に「早く陛下のご病状が良くなられますように
お祈りいたします。」というミニスローガンが貼ってあった。前年のクリスマスの頃
からだったと思う。クリスマスツリーにも七夕の短冊のように書いてぶら下げてあっ
た。だから日常的に感覚が麻痺していたと思う。 ディーゼルカーの排気管が客室の真ん中にあって、床に点検扉があった。
いわゆるバス窓の10系は、子供の目にも古びて見えた。
キハ23のが出たときはカッコいいと思った。 キハ28/58も、初期の運転台は曲面ガラスではなかった。 クリームに赤線のキハ55にギリギリ乗った覚えがある。 >>297
オレの中学卒業旅行は大阪発の155系「きぼう」だった。さすが、153系と違って
台車はDT21だった。バネが硬く乗り心地は良くなく、疲れた。「相手がガキ共だと
思って安物の台車を・・」と思った。 小声の一通りの一般乗車向けの車内放送・
主要駅到着前の乗換え案内が流れていたが、重複して「○○中学校の生徒さん〜
〜」という別の声の放送が大きな声で流れていて不思議だった。 >>292
そんなのは平成生まれでも知ってる奴はいくらでもいるぞ >>299
そんな中にキハ23が現れたときの感動は平成生まれにゃ分らん 40を倍にしても80だからまだ人生半分のつもり。
50を倍にするとまず無理そうだから、もう自分の知っている長さは無いと気づく。
60になるとほぼ先代は片付いてるし、次は俺と思う。
その60くらい前の国鉄を覚えてるやつはおじいさん。 日本で初めてエンジンを2台装備したキハ50形気動車。ただし、全長が22mもあった。 ラジオ放送
「朕深く、世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置を以って時局を収拾せんと
欲し、茲に忠良なる汝臣民に告ぐ、朕は帝国政府をして米英支ソ四国に対しその共同
宣言を受諾する旨、通告せしめたり。」を全文暗唱できる人。昭和20年8月15日その日
以降、次第に復員列車、買出し列車が走りだした。・・・・・運賃は無料だったのかな? 同じく、上記の4年前 16年12月8日の放送
「臨時ニュースを申し上げます、臨時ニュースを申しあげます。大本営陸海軍部12月8日
午前6時発表、帝国陸海軍は本8日未明、アメリカ・イギリス軍と交戦状態にい出り。再び
繰り返します。帝国陸海軍は〜〜」を暗唱できる人。
それを切っ掛けととして、優等列車削減やダイヤ削減が積極的になっていった。・・・ 上記の短い4年間なしの間にモハ43改造のモハ64(クモハ31の改称前)やD52戦時
型、凸型EF13の製造、モハ63の製造など色々手間がかけて行われた。凄い人力エネ
ルギーを注いだのだなァ・・・・・と思う。 次の替え歌を歌える人。
「金鵄あがって15銭、栄えある光30銭、朝日は上がって45銭、鵬翼連ねて90銭。
今こそ来たぞこの値上げ、紀元は2600年、ああ一億の民は泣く」 ならば俺はこの歌だ。 (高峰三枝子 湖畔の宿 の替え歌)
「昨日生まれた蜂の子が豚に踏まれて名誉の戦死、蜂の遺骨は何時帰る、
4月8日の朝帰る、蜂の母さん淋しかろ」
「昨日生まれた豚の子が蜂に刺されて名誉の戦死、豚の遺骨は何時帰る、
4月8日の朝帰る、豚の母さん淋しかろ」
「昨日生まれた蛸の子が弾に当って名誉の戦死、蛸の遺骨は何時帰る、
骨が無いから帰れない、蛸の母さん淋しかろ」 >>307 >>308
の替え歌をTV東京10チャンネルの懐かしの歌声(コロムビア トップ・ライト司会)で
音羽ゆりかご会(小学生)のメンバーが歌っていたのをよく覚えている。
同番組では別の日に「僕は特急の機関士で」というのボニージャックスが歌っていた。
あの子供らも今は還暦を過ぎた頃だナ・・・・・・ >>312 東京12チャンネルとNETを混同してないか? >>310
310をカキコした者です。 「東京12チャンネル」の間違いでした、済みません。 >>310
TV 懐かしの歌声で灰田勝彦が「新雪」の歌 紫煙る新雪の峰振り仰ぐこの心、と
歌っていたが、それが主題歌の昭和17年製作の映画は阪急電車六甲駅北側にある
高羽小学校を舞台としたもので、始まりのシーンは当時の六甲駅に810型2連が
到着して、月丘夢路が下車、歩いて「蓑輪先生」と言って水島道太郎を捕まえるところ
からだった。 続き、「箕輪」は「蓑和田」の間違いでした。映画フィルムが古くあちらこちらで場面
省略されているが、最も見たかった「月丘夢路が阪神電車に乗車して遠目に六甲
の山々を眺めているシーン」が本来は出て来る筈がその巻が消失されてしまった
らしい。当時の六甲山は知る人ぞ知る。所謂禿げ山だったらしいが・・・・
当時は尋常小学校の教員の正式名称を「訓導」といった。始まり場面の出演者名
に 訓導 蓑和田 水島道太郎と出てくる。 >>247
>>249
地下鉄の切符売りのおばさんと同じ頃に姿を消したもの。
無秩序に林立する線路沿いの広告看板。
親の転勤で東京から大阪に向かう夜行寝台の車中で朝どよめきが起きた。窓の外を見ると、山の斜面がびっしり看板でうめくされていた。各々が少しでも目立つことを意図しているのか、向きがてんでばらばらだった。
京都を過ぎたあたりだったと思うが正確な場所は覚えていない。
その後その区間を乗車する機会はなかった。
万博終了後に久々に乗ったその区間の車窓からあの看板を捜したが見つからなかった。
「線路沿いの見苦しい広告看板を何とかしろ。もうすぐ万博だというのに恥ずかしい。」みたいな意見が新聞投書欄に載ったのを見たことはあるが、万博を機に撤去されたのかは不明。
余談。
万博の期間、親戚が大挙してやって来た。
学校の授業が終わってから祖父母を万博会場に案内したなんてこともあった。 スレ維持のため、令和開始でカキコ・・・鉄とはスレチでスマソ
下記の勅語を絵巻物にして解りやすくした物を見た人。かって人権啓発研修で
資料館に展示してあってユニークで欲しかったが、数年後また行った時には無
かった
朕󠄁惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇󠄁ムルコト(雲の上から神様がしずくを垂らして淡路
島を作っている図) 宏遠󠄁ニコヲ樹ツルコト深厚ナリ。
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ(子供たち3人が座敷で父・母に正座してお辞儀している)
億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ演リニシテ
ヘ育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス(学校での授業風景) 爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友に・・
一旦緩急アレバ義勇公ニ奉シ(戦地で鉄砲を持って突撃の図)・・・・・・ 上記なぜか文字化けしてしまった。・・・・・
朕惟フニ我カ皇皇宗國ヲ肇ムルコト(雲の上から神様がしずくを垂らして (雲の上から
2人の神様がしずくを垂らして淡路 島を作っている図)宏遠ニコヲ樹ツルコト深厚ナリ。 >>322・>>323
大阪から京都へ行く途中の田んぼ風景の中に15m位の横看板で「明治のチョコレート」
盾看板というか三角屋根の板製の塔で「テレビはナショナル」とかいろいろあったが、
思えば沿線宅地化でその頃から見なくなったな・・・ 加古川以西付近には「テレビは
ナショナル」「なるほど良い酒 忠勇」があった。 昭和50年新幹線博多開業で乗った
ときは、船場の「根来」「ボタンのミツヅミ」などが切りとおしに立てられていたナ・・・・・ 続き、新幹線新神戸にいたるまでの間に上記の横看板のほか、船場の「フレーバー
伊賀正」もあった。
万国博は大阪在住の同級生は学校行事で1回きりか、良くいっても家族で1回の2回
きりが殆どだったが、田舎の人は我が家へ泊まりっきりで7日も連続で行っていた。
そのころから、田舎の人は「都会の人に遅れまい」と変な妄想に取り憑つかれて、
新婚旅行も卒業旅行も外国行きが圧倒的だったが、実際は大阪人の同級生はそんな
ことをしたのは少数だった。田舎の家の造りが豪華になったのもそのころだった。 1970年の万博会場で思い出すのは、丁度今頃の暑い時期に行くと、方々の広場、
通路で生ごみ臭い匂いが強烈だったことだ、匂いを嗅いだだけでしんどく、頭痛が
した。 女の下手糞な運転で大型のゴルフカートのような車が走っていた。(現在の
女のように上手な運転ではなかった)跳ねられないように・当られないように気を遣
ってヒヤヒヤの会場内移動だった。あの女達も今では70過ぎの「老女」だなァ・・・
113系のスカ色を投入して万博号・エキスポ号を走らせて茨木停車が始まった。
湘南色を見馴れた目には113系のスカ色は斬新だった。 今ではコンビニでもスーパーも普通に付いて来るプラスチック製のフォーク
万博の頃出始めたんだと思うが、なんともはや、フニャフニャで往生したね 大阪市営地下鉄本町駅は中央線開業当初、中央線は一面一線ホームで阿波座〜本町間は単線運転、
御堂筋線ホームとは改札外連絡、朝潮橋駅付近に港検車場と大阪市電港車庫があった。 >>329
万博で思い出すこと。
当時、南海沿線に住んでいた。
普段連絡切符(定期券を除く)を扱っていない駅でも万博会場までの直通切符を買えたこと。
あの切符がなかったら御堂筋線の自販機は大変なことになっていたであろう。
冷房車(7000系)が登場したこと。
(戦前に南海が日本初の冷房電車を導入したことは後で知った。)
万博会場内のモノレールの車内アナウンス。
「次は日本庭園。降りようかどうか迷っている方、ためらわずに降りて下さい。」
無料なのでだらだら乗っているのが問題みたいな記事を見たような気がするが、記憶曖昧。 昔の場面描写法 特に映画などで
大阪へ来た・・・ 大阪城天守閣をアップ・通天閣をアップ(シンボルだった)
どこかへ用事で旅行、場所の移動・・・・ボーッと言うSLの牽く客車列車の走行場面
之を無言場面で暫く映す。特に「大阪へいった、○○へ来た」とナレーションしない。
何故だか昔も今もトイレへ大用便・小用便で入って出てくる場面は描写しないなァ・・・ 2時間ドラマだと、
国内線の飛行機が飛び上がる、あるいは降りて来る。
降りて来る時は「金 沢」ってテロップがでる。
今なら、E7走らせて「金 沢 駅 Kanazawa st.」を撮る。
いきなり七尾あたりのタイアップ旅館、ホテルの場合もある。 2004年というと、もう15年も前か。
東北太平洋沿岸の諸都市も健在だったんだな。
「決定版 列島縦断 最長片道切符の旅」 近鉄大阪線から信貴線に直通する上本町−信貴山口の準急があったこと。
さらにひいじいちゃんの世代だと高安山−信貴山門にも電車が走ってたのも知ってるだろうな。 東北山線でSLが牽く旧客車走っていたころ&気動車が走っていたころおれは生きていた。
鉄道が走らなくなってから
代替輸送で国鉄バスが松島〜仙台まで走るようになった。
昭和30年代後半の話しね。 大船駅山側にあった単軌鉄道遺跡の上に
トリコロールカラーの欠陥走行物体が動いていた時代
当局に指導される直前、知らずに乗ってしまった 他にも有ったかも知れないが、オレが覚えているのは、かって大阪駅とその北側に
あった(現在のヨドバシカメラ)大鉄局建物の間の広い道路上(横断歩道上とその西
側20m位)に互い違いにかみ合わせて凸凹型の茶色い鋼鉄製物体が一条に埋め
込まれていた上をを皆多くの人が意味も知らずに踏んで歩いていた。その鋼鉄体の
正体は知る人ぞ知る。それはかっての横川〜軽井沢間でED42が噛みあわせてい
たラックレールだった。 軽井沢と言えば、日本三大外国人避暑地は
軽井沢と野尻湖
で、もうひとつはわいの生家のある
宮城県宮城郡七ヶ浜町花渕浜高山なのです。
明治の時代から土地が(当時の価格で6万で)999年貸出されてんだよ。
で、日本三大と言うわりには一番無名の避暑地なんです。
仙台湾に面した太平洋を一望できる綺麗な(風光明媚)ところで
東北の湘南とも言われています。
おい、おまいら綺麗なお姉さんの〇〇姿を見るなら、絶対この夏は
海水浴に来いよ(昔は外国人と地元民の遊泳場所がロープで入れなくて
日本人侵入禁止」じゃったが、このごろはそれもなくなった。
被災地応援の為にも来てけさいん。 準急東海に乗った。
親が先頭車輌に連れて行ってくれた。
前面展望状態だった。
運転手が「XX進行(記憶曖昧)」と指差し確認をしていた。
格好良かったなあ。
ところどころに建設中の線路が見えた。
新幹線だと親が教えてくれた。 上記の新幹線のお話で思い出した。新幹線開通前に毎日毎日ニュースTV解説番組
でこの度できる新しい鉄道とはどんなものか、と詳しく説明をしていた。線路の実物を
置いて従来の物より1回り大きい60sだとか、軌間が広い1435mmだとか、他の時事
ニュースは何も理解不能で頭に残らずとも、この件だけは幼児であったにも拘わらず
鮮明に覚えている。あとは吉伸ちゃん誘拐事件だけ・・・ 東海形と聞いて、
91が浮かぶのはお爺さん
153が浮かぶのはお爺さんの可能性大
185が浮かぶのは後期おっさん >>310
>>313-314
>>317
>>321
「題名のない音楽会」は当初、東京12チャンネルで放映していた 上記のカキコで思い出した。鉄道・列車が出てくる映画主題歌。続きを歌えれば正に
にあなたは年金受給の老人。いずれも映画ではオハ35・オハ61が出てくる。
「白い夜霧の灯りに濡れて、別れ切ないプラッとホーム、ベルが鳴るベルが鳴る」
「しばし別れの夜汽車の窓よ、言わず語らずに心と心、またの遭う日を」
「何も言わずにこのままそっと、汽車に乗ろうと思ったものを、駅の喫茶の公衆電話」
「惚れて惚れて、惚れて居ながら行く俺に旅を急かせるベルの音、つらいホームに」
3段窓の茶色いモハ72が出てくる。
「あなたを待てば雨が降る。濡れて来ぬかと気に掛かる、ああビルの畔の」 ALLIED FORCES CAR
U.S.ARMY SECTION
イエローボール
復興整備車、復興整備電車 前にもカキコした113系の「万博号」「エキスポ号」に加えて、波動輸送用オハ12系に
よる「ノーキョウ列車」が多数運転された。ツアーの募集主体となった農協が旅行業
の免許を取得していたのだろうか? >>355
の続き、都はるみ 好きになった人 (映画 さよなら列車)
「さようなら さようなら 元気でいてね 好きな2人はいつでも逢える たとえ別れて」 いや〜びっくりした
30分でまた満タン感になったので
膀胱がおじいさんになったのかと思ったら
ほんとにほぼ満タンだった
腎臓大丈夫かな? 普通の百貨店のおもちゃ売り場の鉄道模型コーナーで売られていた3線式Oゲージ
模型、3線Oゲージ・KTMのHO・メリクリンHOが並行してショーケースで陳列して
あった。Oゲージ基本セット(EB電機+トランス+12本組円形レール)で4000円位
だった。Nゲージは未だなかった。 メルクリンの線路付き道床がハイカラに見えた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています