知ってたらおじいさん©2ch.net
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>>49
駿遠線の新藤枝駅の跡は東横インになってたが、従業員何も知らなかったな。 根岸線を磯子までの開通前は
桜大(おうだい) 線と命名される予定だった >>213
格下げ後ならよく覚えている
サロ110、キハ26-400ならね
キロハ25(キハ26−300)はさすがに見たことがない
両数少なかったし、地方に配属されてたし
夕方の上野駅で常磐線急行「ときわ・奥久慈」キハ58系に混じるキハ55、26を見るのが好きだった
水ミトにはキハ26-405、406の2両が居た
えんじ色のシートが懐かしい
他にはバス窓のキハ55-19、27など
なぜか55系は常磐線内では先頭に出ることは無かったようだ >>209
野良仕事風貌の切符売りのおばさんは市バス乗り場にも多少いたよ。昭和45年の万博にあわせて
排除されてしまった。切符3枚くれと言うと、親指を舌で舐めてつづりをめくってきぎって売っていた。
親からは、汚いから買うなと言われていたが・・・混んだバスの中で若い車掌から買うのが難しいの
で乗車前におばさんから買うほうが便利だったらしい。御堂筋線からは、旧型車両が颯爽と消えて
ステンレスの7000・8000に変わっていき、風情がなくなり面白くなくなった頃だった。 今は浅草の浅草寺に於いても鳩にやるための豆を売っていないとどこかのカキコで
見たが、昭和38年頃までは天王寺駅のホームの売店で鳩の豆を売っていた。
現在の12・13・14・15・16番乗り場は子ども連れの格好の遊び場だった。
国鉄のストライキのニュースで鳩だけが飛んでいて、他は静寂な風景を映した場面
が定番だった。現在は豆などをホームに蒔くと転倒の原因になるとうるさいだろうナ・ >>214
キハ26-405は座席のモケットを青色に張り替えていたな
(草臥れていたモケットを青色に張り替えただけで車内設備は従前のまま)
キハ26-406は張り替えていないので臙脂のままだったね >>217
ありがd
あれはキハ26-406だったのね
なにしろ昔の事なので記憶が曖昧に
まだ厨房の頃で知識も無かったし、まともな記録もしなかった
当時、撮り鉄連中はSL追っかけで忙しかったらしく、上野界隈はあまり人気は無かった
受験生の俺は遠出はできなかったので近場で鉄ちゃんするしかなかった
駅員さんや乗務員さんも親切だった youtubeに挙がっている動画「指導物語」 (C58蒸気の運転士を育成していくドラマ 昭和戦時
中に千葉機関区で撮影)に出演している俳優・女優の名を識別・言える人。
藤田進・原節子・丸山定夫など、最後は「出征兵士を送る歌」が流れて佐倉駅をオハ31等に
分乗した兵士達が出ていった。 C58同士の併走シーンがよく出てくる。・・・・・ 上記への追加、昭和16年 東宝映画配給 出演 汐見洋・龍崎一朗・北澤彪も
でて来る。最初は投炭練習台でのシーンから・・・ 原節子は皆さんご存知のとおり近年までご存命であった。龍崎一郎は「青い山脈」
で原と同じ学校の教師で共演。映画中の同乗機関助士役の北澤彪は「TV 特別
機動捜査隊」の刑事で出ていた。 藤田指導役機関士の丸山定夫は4年後の広島
公演巡業中に原爆死した。 これらが分れば正に「おじいさん」www 「いつでも日立、どこでも日立 今日も日立のマークといいっしょ〜」のTV
コマーシャルで東海道新幹線ひかり 0系がTV画面を横切り走行している場面。
上記の聖徳太子の千円札の裏面上部にも日立のマークが有ったのが不思議だった。
昭和35年製作の鉄道映画「大いなる旅路」三国連太郎主演でも出征兵士を乗せて
走行中に前方が崖崩れで列車走行不能になり、乗客兵士らに降りて線路を進んで
先へ向かってもらう、その際にも残った乗客が日の丸旗を振って「出征兵士を送
る歌=わが大君に召されたる、命栄えある朝ぼらけ、称えて送る一億の歓呼は高
く天を突く〜」と歌うのが印象的であった。 この映画は先ほどの「指導物語」で使用した客車 オハ31・ナハ22000等とはちがって
丸妻のきれいなオハ35ばかりだったナア・・・ 本来は映画・邦画スレ用だが、このスレ保守のため、また映画ネタカキコでスマソ・・・
映画「お茶漬の味」のだいぶ後の部分では木暮実千代がスイテ・マイテの後方座席に乗
っていて、列車が安倍川を渡り、風景に特徴ある鉄橋トラスが過ぎていく場面がある。
映画「秋日和」ではラストシーンで佐分利信が一等車のボーイを捕まえて電報を広島宛
に打ってくれ。と言うシーンの後、薄緑のナハフ10が折の東淀川橋梁を走り去る。
映画「麦秋」では鎌倉から原節子・笠智衆の親子がスカ線電車内で東京へ通勤する場面、
リベットだらけの車両から外の風景を撮影した場面が数分にわたり映写される。 上記228 スレの保守を兼ねて訂正します。
youtube内の小津安二郎映画「麦秋」は→「晩春」でした。 親子で鎌倉から東京へ出勤
する場面、10分20秒〜 モハ63+サハ48+進駐軍白帯車+諸々の編成で古臭い鉄橋
を渡り、リベットだらけの車体が左右へひどくローリングしながら走行する、車内天井は白
熱灯だ。 youtube 昭和12年作品 主演 佐野周二(関口宏の父) 「婚約三羽烏」では住んでいる
アパートの窓際に座り、外を眺めていると17メートルの旧国車(モハ50かな)が往来する
場面からスタートする。羨ましいところにあるアパートだァ・・・・・ 先年廃線になった三江線が三江北線、南線だった頃に乗った事がある。
寝台急行「出雲」に乗った事がある。
82系の「まつかぜ」に乗った事がある。
急行「夕月」に乗った事がある。
581系「月光」に乗った事がある。
在来151系の「こだま」に乗った事がある。
20系の「はやぶさ」「富士」に乗った事がある。 スレ保守のため、また映画ネタスマソ。
昭和13年頃の旧国編成が少し出てくる。正式名「蛍の光」 高杉早苗・桑野通子・高峰三枝子
始まって24分頃に 通学帰りの高杉早苗18歳(香川照之の祖母)を待ち構えた夏川大ニ郎が
線路傍の公園で求婚する、その背景を17メートル旧国・木造車混結W屋根等が通過する。
のんびりした戦前の東京だ。教師役の桑野通子は桑野みゆきの実母であった。
youtubeでは「蛍の光」ではなく、old long since 1938 で検索しないと出てこない。 山手線の茶色の電車に乗った・・・・・・・・・・・・・・・曾お爺さん
〃 黄色の電車に乗った・・・・・・・・・・・・・・後期お爺さん
〃 緑(うぐいす)色の電車に乗った・・・・・・・・前期お爺さん
〃 運転台にステンレス線が入った緑色の電車に乗った・・おっさん 運転台の速度計指針が
無い・・・(運転士が線路の継ぎ目音と勘で計る。)・・・・・祖祖父
有るが、針が簡易な安物の電流電圧計みたいに左右へ振れる・・・祖父
有るが、丸い盤で空気圧計と同じで針がチッチッチッと小刻みに上がっていく・・父
有るが、丸い盤で空気圧計と同じで針が滑らかに上がっていく・・当人
表示がデジタルで具体的速度が数理で示される・・・子
表示がデジタルで上記と同じで盤全面がカラフル・・・孫
233のまねではないが、これでどうでしょう? >>233
黄色の山手線、よく覚えていますとも!
当時は「やまてせん」と言った
京浜東北線は茶色だった
もちろん、孫いますよ 山手線、中央線etc.とは言わずに、込みで国電、中には省電(省電力ではない、鉄道省の
電車の意)と言っていた人もいたが、省電の人々は既に昇天した。 昭和36年 現在の大阪環状線が完全にぐるぐる回りの運転になったが、それでも皆
癖が抜けずに万博の頃までは城東線、城東線と呼んでいたナ・・・・・城東線の鶴橋
とか寺田町とか、 キハ58+キハ28、2両だけ。
1両は冷房付きの指定席でかなり隙気味、1両は満員暖房車。
50年くらい前の山口線の話。
何ちゅう急行だったけな? 冷房準備工事とかいうのやった山手線の103系が暖かいまま暫く走っていた。 キハ82の初めの頃は、2台組のAU12のキノコが2つだけだった。
冷房能力が不足だったようで、増備には1台入った小キノコが付いた。
初期型には半欠けキノコに1台入れて足していた。 城東線をカキコして思い出したので書きます。昔、大阪万博の頃までは食品屋、
八百屋に「城東パン」という味パンを並べていた。袋や箱に大阪城が書いてあ
り、神戸屋や山崎パンよりも大手だったが吸収合併され消滅し。吸収した会社
も倒産したという。もっと昔、学制改革まで大阪城東大学もあった、大阪城東
商業高校→大学→大阪商大へと名称が変わった。パンは現代のようにバラエテ
ィーに富んでない時代だったので、美味しい方だった。 続き、懐かしくなって調べたら城東パンの工場は八尾市にあった、のちに西湖堂
パンに吸収されたが、その西湖堂も倒産したとのこと。
なんだか城東線、湖西線のような名だナア・・・ 昭和50年代前半まで大阪環状線鶴橋駅北東側に「省線ホテル」という木造2階建ての
安物ホテルがあり夜間は赤ネオンで「省線ホテル」と一筆書きの電気が点いていた。
パンも「国鉄パン」とか「省線パン」と名づけて販売すればヨタが珍しがって買って、ある
程度売れるかもしれない・・・・ 場合によればモハ40や42の形作りでも良い・・・ また、余計なことを思い出した、JR西日本の子会社が阿倍野に作った「ファースト
キャビンステーション あべの荘」が2017年10月28日(土)にオープン。であった。
省線ホテルもモハ42やオハ35の内装で簡易ホテルを作り格安料金で夜行列車
感覚を味わおう。として事業開始すればよい、アムザ1000のカプセルホテルよ
りも人気が出るだろうナ・・・・ 何よりも朝まで寝苦しいのがまた良いのだ・・・ 飯田線湯谷温泉駅の駅舎2階部分は、鳳来寺鉄道の経営する「湯谷ホテル」という旅館だったこと >>167
>>215
宇井無愁の随筆「ケチのすすめ」にその話が出てきたな<切符売りのおばさん
何でも
「四十年の歴史を持つ大阪独特の商売で、7枚売って5円儲かる
千円稼ぐには千四百枚売らねばならない零細この上ない商売
大阪では誰の会葬でも「遠路御苦労さま」と山菓子(香典返し)を渡すのが礼儀であり
それがたいてい市電や地下鉄の回数券だった」
だそうな
その回数券を金券ショップが買い取り、切符売りのおばさんが売ってたのだろう
また
「オバハンは無愛想な窓口より親切で、自動販売機より手早い
客の手もとを見て、間髪を入れずつり銭を出し、「まいどおおけに」と頭を下げてくれる。
このサービス精神によって、オバハンの営業が成り立っているのである。」
とのこと
へぇ〜と思いながらその本を読んでいたが
実際にそういうおばさんたちがいて、切符を買った人たちがいるんですね
そしてもう見ることの無い光景なわけだ
やっぱり鉄道はタイムマシーンだな >>247
そうだった。もんぺをはいていたら田舎の田植え、稲刈りの風貌そのものだった。
田舎と違ったのはもんぺのような柄物ではなかったことだけだ。市バス用は5円
の小券(緑色)が横に3列縦に7列で21片を1枚にまとめた100円分にミシン目
が入っていた。それを親指を舌でペロッと舐めてちぎって売る。何とすばやく上
手に売る。親は汚いから買うなと言う。懐かしい景色だった。その後はワンマン
カーになってもバスの自動券売機で売っていた。その後は赤色の10円券片になり
売っていた。たぶんバス用は女の車掌が車内で扱っていたのと同一のものだった。 >>247
その頃は金券ショップなどは殆どなく、不思議なルート、或いは正規に窓口で大量購入
して売っていたと思われます。言えば現在の年賀ハガキと同じで、当局としては正規の
料金で購入してくれるオバハンは何ら違法な購入者ではなく、一般の良いお客さんでした。
偽物を売っていたのではなく本物でしたから・・・ ただ国際的になろうとした大阪には見た
目が苦しいので排除されたのでしょう。 たとえばあべの橋発のバスが1台来るとする、バス乗り場に40人待っていたとする。
オバハンは待ち列の中ほどまで来て売り出す。20人位がオバハンから買ってていた
ような状況でした。 オバハン儲かったね。現在で言う年齢風貌65歳くらいが多かっ
た。昔の人は現代よりも老けて見えたので50歳位以降が多かったかな。 春を売っ
ているのではないので、オマワリさんの取り締まり対象でもなかった。 当時のツーマンカー時代の女車掌の役割は、乗降時の折戸開閉、次の停留所案内
切符の売払い、のほかに阿倍野橋〜平野方面行きだと阿倍野橋出てすぐに近鉄電
車の踏切を渡るのでそのときには扉を開けて降りて踏切を先に歩いて左右確認して
バスが渡ってからまた乗る。平野まで近鉄南大阪線踏切2回、南海平野線1回の3
回行っていた、結構多忙だった。したがって事前に切符を買っていてくれた方が助か
っていたと思う。 倉吉駅が上井駅だった頃、28-58の急行で交換待ちしていると181系がやって来た。
いろいろあって、結局181系に乗れたのは形式消滅の数年前だったw
DML30HSがヒューンって言ってた。 >>247
回数券についてはこちらを参考に
検索://fuzzyphoto.blog120.fc2.com/ブログ-エントリー-930.html
上のブログ エントリーは半角英文字 往時の志布志駅を知っている。
もっと凄いのは、故大隅線がまだ古江線だった頃を知っている。
更に凄いのは、鹿屋で特攻出撃寸前だった。 >>237
当時の大阪駅の城東・西成線のホームは0番線と呼んでたこと 昔、城東線時代、データイムは大阪行きが天満で発車を待っていて、島式の向かい側の
ホームに天王寺行きが到着すれば、発車していたような記憶が・・・ 朝夕は電車が出て
行くまで大阪駅の手前で待っていたような・・・・
寺田町→天王寺でも同じことのような記憶がかすかにある。それと鶴橋や他の駅の外れ
に平行ポイントが幾つかあった記憶が微かにある。話変わって今思えば停車して客扉開
閉のたびに不思議なつっかい棒のような物が上へ行ったり下へ行ったりが不思議だった。
戸袋窓から見えたその光景は片開き扉のドアエンジンとの連携棒であるのは幼児には理
解できず、不思議な光景だった。 まだ大阪に地下鉄が御堂筋線しかなかった頃、(当時の幼児には地下鉄と言う物が
理解できず、)かなり前から遠くより大きなゴーッという音が聞こえてきて、いざ乗って
みると車窓の外が2〜3分おきに昼になったり夜になったり、全く不思議だった。感動
した。今の子供はそんな感動は無いだろうナ・・・・ 上記の続きカキコ
もう少し大きくなったとき、客用扉の所で立って乗っていたら、扉のところに楕円形の
赤いプラ板に「人指し指を伸ばした絵が」描いて貼ってあり怖かった。ガラス戸の向こ
う側の壁面には縦3列になった不思議な長い物が上へ行ったり下へ行ったりとした。
親に「あれは何だ、と聞くと電話線だ」と言われた。なんで電話線があそこにあるのか
全く理解の外だった。電話線は電力せんと一緒で地面より高い高いところにあるもの
と思っていた・・・・・ 大阪市営地下鉄中央線・谷町線で2両編成の7000形、8000形(のちに30系に編入)が運用されていたこと >>257
幼少の頃、夜に大阪駅〜天王寺まで城東線に乗ったが、京橋〜森ノ宮間の西側車窓に
青白く光った大阪城が大きく映えて見えていた。城公園内の樹木は自分と同じ幼少で
背が低くてよく見えて、青白いのが不気味でとても怖かった。昼に乗った時は怖くなく、
三段窓の電車の車窓風景が未だ目に浮かぶ。今は樹木も大きくなって城は全く見えない。 続き、なぜか不思議なのは、鶴橋駅停車時には乗ってくる乗客は男女問わず、下駄を
カラコロ言わせた下駄履きが多かった。夏季には男の腹巻にステテコ姿も多く見られた。
所謂、未だ「下駄電」だった。
高校生になり通学で鶴橋を利用するようになったが、女子生徒では胸の下まで丈が長
いスカート、(チョゴリ)が多かったが今は全く見られない。 環状線大阪行きが桜ノ宮を出るとすぐに大川の鉄橋を渡るが、西側には古く赤錆びた
断面の小さな鉄橋トラスが残っていた。見た目は子供心にもあまりにも小さく、あんな
所を汽車、車両がくぐっていたのかと、実に謎いっぱいだった。 昭和40年代に阪神ジェットカーも臨時準急で使用されたこと 大阪駅にこだわりのある人が居るようなので、マイナス1番線。 東京がE電なら、大阪はW電かな?
J電にした方が流行ったかもなあ。
50年後、高輪ゲートウェイ駅を知っていたらおじいさんとか言われてたりして。
ほんと、ネーミングセンスねえ連中だ。 だいたい、ゲートウェーなのかゲイトウェーなのかゲートウェイなのかゲイトウェイなのか、
当分ももめるぞ。 >>267
たしかに・・・ 書くのならJR側はそのように決めたと主張するが、現場の泣き屋や
車掌の案内、発音によっては相当もめると思う。自動音声も他におかしいのが多い
し・・・ 「ドア閉まります」も「ダァ 閉まります」のような者も居るし。苦情の嵐を浴び
てしまい、もっと良い駅名にしとけばよかったとJRが反省する日もそこまで来ている
ナwww 昼間の通勤電車は車内蛍光灯が消灯されている
夏場に窓開け協力願いの車内放送 とは言え、安易に駅名変えると高輪ゲッタウェイと言われかねない、とかw >>271
オイルショックの頃でなくても、昔の電車・客車は昼間は車内灯は消灯していた。
山間部を走るローカルでも同じだ、長いトンネル通過の際にはわざわざ点灯・消灯
していた。 通勤電車はエアコンが無い頃は換気のために窓開けを奨励していた
丁度、今頃の時期からだったな。 >>272
頑固さのあまり、カタカナ名に固執するからいけないのだ。「高輪・下駄上井」にすれば
問題は大きく進展する。駒川中野・野江内代・関目高殿・千林大宮・太子橋今市など
長くても愛用されているのは幾らでもある。「尼崎センタープール前」も車掌によっては
「プール前 プール前」と言っている。 カタカナに拘ると「野辺地」を「のへず・のへず」
というようにもなりかねない。 強行派も反対派も全部漢字「下駄上井」で妥協だ!! 九州特急と言ってもJRQの特急ではない。
かつての、九州行きの一群の寝台特急、殊に520mm3段のことである。
夏ならまだ陽のある頃に東京駅を発って、翌朝どころか昼を回ったり、24時間以上かかっ
たり。
同じ列車の上りと、ひと旅で2度すれ違うのである。
夜のうちに移動して翌朝目的地に到着するという、本来の意味での夜行をなしていたのは
せいぜい「あさかぜ」くらいだった。
ステンの専用機EF30に牽かれて関門海底トンネルを抜け、九州の赤い交流機に付け替えて
走り始めると、間もなく電車に道を譲る。
交換ではない、追い抜かせるのである。
最早特急とは名ばかり・・?
寝台特急も、明けて寝台を畳むと通常の自由席特急になる名目なのだが、幸か不幸か、特急
料金を払ってまで、わざわざ地元電車に抜かされる長椅子に乗る変態はそう多くはなかった。 >>274 車内用電源のバッテリー容量が小さかったのか、白熱灯しかなかったから電気食ったのか? 車軸発電機を回すと機関車に負担がかかった ← 思いつきの嘘 >>277
それはバッテリー容量の問題ではないと思う。日本人が昔から培ってきた節約の心、
と思う。知らぬ間に世の中が贅沢に慣れてきてしまったという証にすぎない。
貴台ご提起の問題点からならば、容量が小さいため、夜間走行時も原則消したまま
で、必要時において点灯させていた筈である。(優等車両の減灯は除外) >>278
あなたはとてもユーモラスで面白い人だなァ・・・・・・ 自転車での夜行電車ごっこを
思い出した。 車内電源用の発電機やバッテリーが劣化しやすかったのかもしれないな。
あるいは発電機の能力不足でバッテリーの充電に時間がかかるため、節約して使っていたとか。 >>281
貴方のバッテリー容量の心配の問題においては客車の場合では当て嵌まるかも知れ
ないが、客車でも普通走行中は車軸発電機からの電気供給が主であった。その証拠
として夜間に駅へ停車した途端に、車内灯が僅かに明るくなっていた。(自動的にバッ
テリーからの電源に切り替わった、走行し出すと車内灯は暗くなり、走行速度が上がる
につれて明るくなっていった) 電車の場合は常に架線からの電気を低圧化して供給す
るので、バッテリー容量は気にしない。 これは変電所へ掛かる負担の問題になる。 「昼行灯」(ひるあんどん)を嫌う文化
昼は窓を開けて部屋に光を入れなさいと奨励され、そのように育った世代
電気代の節減を強制されて辟易した時代を経験(電力会社社員が文字通り土足で乗り込んできて強制消灯させられる) 昼は電灯なんか消すのが当たり前、そこにごちゃごちゃ説明など要らない
そういう社会観念が常識として支配していた時代だから。
外から採光すれば済むのに、目の前のランプの灯油がみるみる減っていけば誰にも視覚的に無駄なのが分かるだろう。
車両のバッテリーの充電が乏しくて・・・も理由としては確かにあるが、
この文化を踏まえてのバッテリー容量であったのだろうとも言える。 電気の話は別として、昔はどこの家も昼間は(例外に夜早い時間帯)も家の裏戸は
開けた広げたままで、雨戸を閉めて回るまで開けっ放しだった。蚊や蝿が入って来
ても。戦前〜昭和30年代の映画を見ていても良く分る。 小津安二郎映画「秋刀魚
の味」を見ていても父親(笠智衆)と嫁入り娘(岩下志麻)が結婚式場へ向かうとき
でも2階の部屋の外戸は閉めずに開けっ放しで出て行ったシーンには驚いた。 昭和40年代前半まで、今では信じられない車窓風景があったなあ。
山陽本線を走ってると、山田洋次の映画そのまんま、台船傾けてザザーっと石を落とす光景
が実際にあったし、古くなった船を海上で燃やして処分なんてことを、本当にやってたから
なあ。 >>286
オレも山陽線・呉線の海風景が好きでよく乗りに行った。広島宮島ミニ・山口秋芳洞
ミニ周遊券で、ある日呉線に乗っていて、線路際のトンネルの前付近に墓地があって、
その横の古臭い1m高さの囲いから炎・煙がでていた。あの囲いはウチの田舎の墓
地傍にもあって、町営の火葬場が出来るまでは、親族が1昼夜掛かりで焼いていた
というから唱和52年頃も、まだ焼いている最中だったのかも知れない・・・・ 今から31年前の1月7日は昭和天皇ご崩御の日であった。早朝のニュース速報
でその旨を知ったが、以前から計画していたので、JRの駅で奈良・大和路フリ
ー切符を買って、奈良へ行った。東大寺ではずっと読経が流れ、商店街では早く
も半旗・弔旗が掲げられていた。夕方出発駅に着いたら、みどりの窓口に「当分
の間、フリー切符は発売しません」と掲示されていた。家に着いたら「平成おじ
さん」が額縁を右に抱えたニュースをしていた。JRも崩御への体制対応遅く、
オレも不謹慎だったナ、日頃から危篤・危篤のニュース続きで、実に昭和が終わ
った実感がなかったのもあった。 先ほどの投稿で、31年前→30年前に訂正。
仕事へ銀行へ行くたびに、窓口や壁に「早く陛下のご病状が良くなられますように
お祈りいたします。」というミニスローガンが貼ってあった。前年のクリスマスの頃
からだったと思う。クリスマスツリーにも七夕の短冊のように書いてぶら下げてあっ
た。だから日常的に感覚が麻痺していたと思う。 ディーゼルカーの排気管が客室の真ん中にあって、床に点検扉があった。
いわゆるバス窓の10系は、子供の目にも古びて見えた。
キハ23のが出たときはカッコいいと思った。 キハ28/58も、初期の運転台は曲面ガラスではなかった。 クリームに赤線のキハ55にギリギリ乗った覚えがある。 >>297
オレの中学卒業旅行は大阪発の155系「きぼう」だった。さすが、153系と違って
台車はDT21だった。バネが硬く乗り心地は良くなく、疲れた。「相手がガキ共だと
思って安物の台車を・・」と思った。 小声の一通りの一般乗車向けの車内放送・
主要駅到着前の乗換え案内が流れていたが、重複して「○○中学校の生徒さん〜
〜」という別の声の放送が大きな声で流れていて不思議だった。 >>292
そんなのは平成生まれでも知ってる奴はいくらでもいるぞ >>299
そんな中にキハ23が現れたときの感動は平成生まれにゃ分らん 40を倍にしても80だからまだ人生半分のつもり。
50を倍にするとまず無理そうだから、もう自分の知っている長さは無いと気づく。
60になるとほぼ先代は片付いてるし、次は俺と思う。
その60くらい前の国鉄を覚えてるやつはおじいさん。 日本で初めてエンジンを2台装備したキハ50形気動車。ただし、全長が22mもあった。 ラジオ放送
「朕深く、世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置を以って時局を収拾せんと
欲し、茲に忠良なる汝臣民に告ぐ、朕は帝国政府をして米英支ソ四国に対しその共同
宣言を受諾する旨、通告せしめたり。」を全文暗唱できる人。昭和20年8月15日その日
以降、次第に復員列車、買出し列車が走りだした。・・・・・運賃は無料だったのかな? 同じく、上記の4年前 16年12月8日の放送
「臨時ニュースを申し上げます、臨時ニュースを申しあげます。大本営陸海軍部12月8日
午前6時発表、帝国陸海軍は本8日未明、アメリカ・イギリス軍と交戦状態にい出り。再び
繰り返します。帝国陸海軍は〜〜」を暗唱できる人。
それを切っ掛けととして、優等列車削減やダイヤ削減が積極的になっていった。・・・ 上記の短い4年間なしの間にモハ43改造のモハ64(クモハ31の改称前)やD52戦時
型、凸型EF13の製造、モハ63の製造など色々手間がかけて行われた。凄い人力エネ
ルギーを注いだのだなァ・・・・・と思う。 次の替え歌を歌える人。
「金鵄あがって15銭、栄えある光30銭、朝日は上がって45銭、鵬翼連ねて90銭。
今こそ来たぞこの値上げ、紀元は2600年、ああ一億の民は泣く」 ならば俺はこの歌だ。 (高峰三枝子 湖畔の宿 の替え歌)
「昨日生まれた蜂の子が豚に踏まれて名誉の戦死、蜂の遺骨は何時帰る、
4月8日の朝帰る、蜂の母さん淋しかろ」
「昨日生まれた豚の子が蜂に刺されて名誉の戦死、豚の遺骨は何時帰る、
4月8日の朝帰る、豚の母さん淋しかろ」
「昨日生まれた蛸の子が弾に当って名誉の戦死、蛸の遺骨は何時帰る、
骨が無いから帰れない、蛸の母さん淋しかろ」 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています