【竿灯】20系固定編成客車スレ04【日本海蔵王】©2ch.net
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20系固定編成客車を真面目に語るスレです
前スレ後半がああいうことになったので
雰囲気一新のためにスレタイの方式を少し変えました >>57
佐世保編成が基本編成だったことがあったな。
東京発のころの「雲仙・西海」も佐世保編成が基本編成だった時代があったと思う。
41年10月改正時は、「さくら」は長崎編成が基本編成、「雲仙・西海」は荷物車を含む前半分が佐世保行、
後半が長崎行で、食堂車は後半の長崎編成に連結していた。
ただ「さくら」の場合、基本編成がカニ・ナロネ22・ナロ20・ナシ20×1にナハネ×3とナハネフ×1、
付属編成がナロネ21×1・ナハネ×5にナハネフ×1と、付属編成のほうが総定員が多かった(41.10時点)。 >>36
ナハネフ20/21とナハネフ22/23は別運用だったけど
14系と24系の14形と24形の2段ハネ車も15形と25形の
2段ハネ車と別運用組と同一運用組に分かれていたな カニ22は64トンとか異常に重いどころか停車中に大量の電力を吸い取るために架線溶断事故多発した?
EV-E301系でも停車中の大電力対策で充電箇所は剛体架線にしてる 2基のMG回すのにそんなに
電気吸うのかな?
それ考えるとMGって無駄な電気
食ってたんだな…と思わされる カニ22と言えば新幹線博多開業前の昭和49年の夏頃から次々と検査切れで休廃車となるマヤ20に変わってはやぶさ.あかつき1.7号の長崎編成の電源車として同年春に彗星の24系化に伴う余剰車を使って50.3改正直前まで運用されていたのは一般にあまり知られていない >>61
カニ22は直流電化区間では架線から給電、交流電化区間や非電化区間ではディーゼル発電機で動かすことで
経済性とディーゼル発電機の運転騒音の減少を図った車輛です。
当初は“はやぶさ”に使用する計画だったようですが・・・。
しかし、重量が50t強と重たかったため、最高速度で走れるのは東海道本線・山陽本線・鹿児島本線熊本以北だけという致命的な弱点や
下関でエンジンを入れたり切ったりパンタグラフを上げたり下げたりと面倒な作業があったことから、
二種類の電源を積むよりも一種類の方が運転途中の面倒な切り替えが不要で重量が軽くて済むので
両区間に対応できるディーゼル発電方式に一本化されたのです。
カニ22ももっと小型、軽量化が図れていれば、あれほど早期に当初の目的を断念して引退することも無かったでしょうけど。 >重量が50t強と重たかった
そんなに軽くないんですけどね。ED74とほとんど変わらないという 但し カニ22 51だけはMG関係の機器を極力省略してマニ20の予備としてはやぶさの運用に回せる処置をしていました。 マヤ20に代わり長崎区に貸出されたカニ22は2.3.51.53の4輌。その後2.53は50.3ダイヤ改正向けにカニ25に改造されて長崎区に残り3.51は青森区に所属復帰している。 >>67
今まで漠然としてて意識してなかったけど
全備重量がD型電機に匹敵する客車ってスゲェよな 今の技術でカニ22作ったら
軽くなる上に
性能も高くなるんだろうな
でももう客車は新造されないんだろうな…orz 瀬戸にパンタ付きのラウンジカーあったな
SIVのやつ >>65
のちのスハ25は直流区間限定だったからな
そもそもスハ25の登場した理由が宮原にカニを回すのも理由の一つだった カニ22と云えば昭和51年10月のゆうづるの24系化の時にてっきり廃車になると思われたカニ22 1が盛アオから北オクに転属になり北陸.北星に使われることになった。上野駅で北陸のカニ22 1に出くわしたが北陸のバックサインを見て似合わない感じだった。 朝日新聞朝刊の連載小説吉田修一の国宝で、主人公が長崎から大阪に行く列車でさくらが使われた。
時代は昭和40年代初頭なので20系なのは間違いないが、文章も束芋の挿し絵も二段寝台。
物事が伝わらなくなるってこんなことなのかと思った。 坂道のアポロンもツッコミ所が多かったな
ちゃんと20系描こうとしてる姿勢は買うけどさ GW最終日。昔なら春季あさかぜ51号が運転されていた時期だ。新幹線博多開業前各区からの寄せ集めで組成されて春夏冬と運転されていたが毎回どんな編成か楽しみだった。日頃見掛けないマニ20カニ22やナハネフ20ナハネフ21等が来ると嬉しかったものだった。 >>64
マヤ20は改正直前には運用に入っていなかったみたいだな 20系は文字マークと絵入りマークどっちも似合っていた 昔は食堂車もタバコ吸い放題だったから
煙でもうもうだったナシ20 s昭和45年まで増備されたのに
昭和46年には寝台幅が70cmになり
昭和49年には二段B寝台が登場しちゃうんだよな >>86
昭和30年代の20系、特に「あさかぜ」は「動く最高級ホテル」といっても大げさではなかった。
なにしろナロネ・ナロの利用者は政財界の大物や有名芸能人・プロスポーツ選手のどれかだったんだから
普通車とは明らかに客層が違う
そして20系は昭和30年代が黄金時代だったが・・・。
新幹線がない・飛行機も未発達だけでなく、1958年11月当時、高速道路までも日本にはまだ存在しない。 日本の道路の舗装化はかなり遅れていた。
なにしろ当時の日本は貧乏国だったのと、日本の道路は欧米諸国と異なり、馬車交通等を経なかったため、著しく遅れていた。
そのため当時の道路事情は主要国道でさえ、舗装されている区間は非常に少なかった。
昭和33年の舗装率は国道27.3%、都道府県道4.3%、市町村道0.6%、全体で1.7%。あとはすべて未舗装だった。
舗装区間が劇的に増加するのは昭和40年以降の話
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/image/hpaa196201/fb4.17.9.gif
http://www.npa.go.jp/hakusyo/s48/s480600.html
http://www.taikasha.com/doko/chapt33.htm
ちなみに「首都高速道路」京橋 - 芝浦間の開業は1962年12月20日、「名神高速道路」栗東IC - 尼崎IC間の開業は1963年7月16日である。 >>90
万年Bクラスのプロ野球チームはB寝台で移動だった >>91
新幹線とまって在来線の座席車で移動した
某チームあったろw >>84
マヤ20は昭和49年中に全て運用離脱。改正前まではカニ22ではやふさ、あかつき1、7号に運用された。 >>86>>88
ヨン・サン・トウ辺り迄が全盛期と言えるだろう。ヨン・サン・トウでは電車寝台が本格的に進出、14系寝台登場迄の主体になる。段々20系の寝台幅への風当たりが強くなってくる。 電気機関車EXに載ってるがEF58代走牽引で元空気ダメ引き通しがなく空気ばねパンク状態で運行させたって今じゃ考えられない
碓氷峠なら兎も角平坦線ではストップゴムで支える格好になってゴツゴツする上にブレーキ増圧が使えず95キロ制限だった?
現代のボルスタレス台車は空気ばね破裂に備えて内部に摺動部があるとはいえこういった運転は不可能 カニ22だけど、登場時期が門司〜博多が電化の後で、尚且つその区間が直流電化だったら、
電動発電機だけの搭載で「あさかぜ」用として活躍できたかも知れん。 >>96
MR管引き通しも
増圧機能やブレーキ電磁指令機能がなければ
(早い話がBPのみ)
速度制限はもっと遅かったはず ナシ20の日車製、サイドの間接照明がいいな。オシ14がデビューして
旧来のファンがその簡素化に嘆いたのも解かる希ガス。。
steam.fan.coocan.jp/train/20.htm >>100
ただ、ナシ20でも後期型になるとFRP製の椅子、窓上照明の廃止、片持ち式のテーブル、
調理室の外吊りドアなど、横引きカーテン以外は簡素化の傾向が強くなってるけどな。 >>97
151系が、編成給電用の電動発電機を両端の制御車に一基ずつ、
尚且つ食堂車にも専用の小型発電機を一基を積んで、
全てを稼動させても、架線を溶かすほどまでにならなかったのは、
編成にパンタグラフが六基あって集電を分散できたから?
カニ22は、151系より長い編成への給電をパンタ二基による集電で
賄おうしたのが無茶だったのだろうか? >>100
オシ14の内装を星空バーかレトロバータイプにすればよかったかも >>103
俺、電気的なこと機械的なことは全く無知なんで、ご教授願えるかな?
なぜ151系だと架線が溶けず、カニ22では溶けたのか? >>105
パンタの数じゃないかな
少なければそれだけ電流が集中するから… >>102 >>105
元々MGはたいした容量じゃないから。まぁカニ22のMGの容量知らないけど
DGと同じなら250kVAかな。2基で500kVA
66は3990kW、カニ22の容量で架線切れるなら、66は発車の度に架線切るよ
架線切れたのは別の要因でしょ。雨の日の長時間抑止って過去ログにあったような
その頃だと蒸機も混在しててススが架線について、それが原因で架線切れたりパンタ壊してたらしいね 貝塚公園のナハネフ22、大丈夫か。
目標金額まで、全然募金が届かないようだが・・・
https://greenfunding.jp/lab/projects/1726 だから福岡市役所にナハネフ22は鉄道記念館に
収容してもらえるように、
朽ちてからでは取り返しがつかないので早く
交渉したほうがいい…と忠告したのに… ナロネ20は、一人用ルーメットと、二人用区分室じゃなくて、
ルーメットにして、室内をサンライズのシングルツイン風にすれば良かったのに
と思うことがある。 >>112
それだと洗面台のスペースが取れないのでは? そもそも「はやぶさ」用に製造された蟹なのに重量オーバー
って八代以南も鹿児島本線なんですけど
ながさき本線より規格が下って何なの? >>114
熊本より南は輸送量落ちたというのもあるがその乙線規格でも上等な部類になってしまったからな1950年代までは
(軸重16tの車両自体は乙線扱いを補強して入線させたり甲線でも入線しなかったりの例でアレだが)
カニ22に関しては実態として製造の名義がはやぶさ用だったと捉えるのが妥当かと… はやぶさで試運転までやったけど、結果適さないということで、さくら向けにしたんだよ 前にも書いたけどカニ22 51は後にMG関連の機器を極力降ろしてマニ20の予備として使えるようにしたんだ。 >>110
貝塚公園のナハネフ22 1007、十数年前に車内に入ったが歩くとやたらミシミシ音がする台枠など腐食してるだろうしクレーンで上げると崩れるのではないか? 元九州朝日包装の市長は優秀だからな、気持ちは解るけど >>122
血液型A型ですか?
「皮肉」って言葉を御存じですか? >>114
何せ東京〜西鹿児島のロングランだし、電化区間で電動発電できれば、
軽油の節約にもなるしって発想も当時の国鉄あったんじゃないかな?
そんで作ってはみたもののっていう >>125
そそ
直流架線下では経済的
だけど、車重が重すぎて、かつ荷室も小さすぎたから6両のみで終了 昭和30年代の車両は、
発想と当時のテックレベルが
マッチして無かった物もあるんだよね
今の技術で作れば実用的な物に
なるんだろうけど、
当時の技術だとあれが精一杯
だったんだよね… 現代ならカニにバッテリーと回生ブレーキとインバーターと直噴EGで武装だろうか 20系客車は鋳鉄制輪子でありながら増圧することで110キロ対応にしたが長距離走行も相まってブレーキシューの摩耗が半端じゃないくらい凄くて頻繁に交換しなければいけなかった?
レジン化は最後まで行われなかった
12系客車からレジンにすることで増圧しなくても110キロ運転可能になった >>129
その替わりフラットに悩まされることになったが… >>128
回生ブレーキは台車にモーター
組まないとならんから
某社の幽霊カニになるな…
E27のカハフの発電機セットは
エンジンが500kW×2で
しかもかなり背が低く作られてるから
片側に二弾重ねにして
空いた空間に交直流対応の
SIVセット積めば
(25000V対応なら)青函トンネル含め
非電化区間含め日本全国行けますよね カニ22の様に発電機と荷物室を一つの車両に詰め込むんじゃなくて、
電源車と荷物車で分離して運用・・・・ってことも考えた上で
結局、当時の国鉄はカニ22を造ったんだろうなあ。
以下、完全に俺の妄想だが・・・。
荷物車(マニ21)は他の20系客車と一緒に東京〜九州を走破。
電源車の方は、直流電化区間と非電化(または交流電化)で交替。
・東京〜当時の直流区間の西端駅:電動発電機とパンタグラフを搭載した電源車マヤ20(仮)
・上記の西端駅〜九州島内:旧客改造の電源車マヤ21(仮)
・・・なんて運用になってたら趣味としては面白かったと思う。 >>132
マヤ20は蒸気牽引の九州島内
走行しか考慮していないから
足回りも旧客のままだったし
(イレギュラーで東京まで来たこともあるみたいだが)
本格的に東京まで回してくるなら
足回りとかも改造しないと
だめだろうな… >>132
東海道・山陽線内用でMGの電源車そのものは比較検討されたものの
下関構内の入換作業複雑化、荷物載せ替えと時間伸ばす要素にもなるんで没にされた
(仮に電源車と荷物車分離したら編成がさらに伸びかねないし客室側を合造にするのもね…)
もっとも星氏や卯ノ木氏の回想なり当人が記したもの見てもカニ22計画は島技師長が特に推し進めた辺りでまあ >>132-133
マヤ20ができたのは「みずほ」大分行き、「さくら」佐世保行きができたのがきっかけ
20系は固定編成客車ですので、分割してしまうと電源車の無い大分方面行きは
何らかの方法がないと冷房もなにも使えない状態になってしまいます。
そこで製作されたのが旧型客車オハシ30形から改造したマヤ20と呼ばれる簡易電源車。
なぜ「簡易」なのかというと、分割後の短編成の電源がまかなえれば十分なので、
発電機の能力を本務用の半分程度にしているためだ。
特に20系運用時、九州側の車両基地に予備車が1両も無かったことなどから、
関係者の中では、ディーゼルエンジン故障のリスクがある電源車が不足することに対する危機感は相当なものがあった。
なにしろ当時の日本のディーゼルエンジン技術がカスだったのに、無理して国産技術のものにしたからね・・・。
マヤ20は全車両に電力を供給することが可能なカニ21、カニ22、マニ20に比べたら
半編成分くらいしかサポートできず、足回りがTR23のままのポンコツなので高速運転には適しないという構造であったが、
関係者の間では、「予備車がある」という安心感を得たそうである。 中途半端な知ったかでドヤ顔かよ
後はチラシの裏にでも書いてろ まあ20系に限った話じゃないが、九州ブルトレとか途中駅で切り離される付属編成って、
折り返しの間、整備で電源が必要な場合ってどうしてたんだろ?
留置線の脇とかに発電機があって、そういうのから給電してたのかな?
あと基本編成と連結しても空調はすぐに効く訳じゃないから、
発車して暫くは、夏は暑くて、冬は寒かったんだろうなあ。 >>137
その通り、九州側の各客車区には20系用のH型制動試験機があるだけ。はやぶさ.みずほの付属編成が博多落としだった時に経験したけど基本編成に連結してやっと室内灯がついて空調が効きはじめる。 >>135
昭和40年(1965)10月から門司(客)にカニ22 51を緊急時の予備車で置いてたよ。門司(客)の鹿児島本線上り線側の最端にいつも留まってたね、ヨンサントウで大ムコに行っちゃったけど。 >>135
24系でカニ25が出来たのも分割併合のため >>140
でもカニ25はマヤ20と違って本務電源車としても使ってたな。
25形編成にカニ25が繋がってたのはなかなかシュールだったね。 北斗星に50系改造の電源車あったけど
余ってなかったんかな
時期的に >>137
20系化直後のさくらは付属編成の空調を博多の構内で予冷(予熱)していたという
記述を見た覚えがあるが何にあったか思い出せない >>142
J東とJ西の波動用に残ってただけで北斗星に回せるのは無かった。 >>146
考えられるのは
地上電源があった
位では? >>144
24系の電源車自体が余裕がなかったからな
スハ25も電源車の捻出が絡んでいた >>150
ナハネ20…102.105.121.139.142.216.219.227.229.230.233.234.236.238.239.247.301.302.304.305.362。 ナハネフ22…14.17.25。 ナハネフ23…3。 >>91
昭和30年代の西鉄ライオンズはナロネとナハネに乗れたのは監督・翌日の登板するエース投手、4番打者のスタメン入り選手だけ、
それ以外のベンチ入り補欠選手は、20系の3等座席車で列車の床に新聞紙を敷いて寝ていた。 >>152
レギュラーの野手も四番以外は座席車かよ… >>153
大体特急は指定が基本で特定特急券すら出てない時代じゃないか九州特急にハザがあった頃は ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています