【竿灯】20系固定編成客車スレ04【日本海蔵王】©2ch.net
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20系固定編成客車を真面目に語るスレです
前スレ後半がああいうことになったので
雰囲気一新のためにスレタイの方式を少し変えました 竿灯なんてあったなそういや
板谷末期の写真でも時間的にあんまり出てこない列車ではあるが 向こうのスレの>>13の話題だけど
20系+12系の方式がそれほど多くなかったのは
やはり何らかの事情があったのだろうか >>5
向こうのスレも見たが車両の都合は勿論東日本の場合は寝台列車化が進んでたし
寝台車増減を伴う混雑対策や勾配区間の制限、さらに新幹線開業待ってた都合というのがあるんじゃないか
その後の話になるが津軽は57・11以降の2年半で混雑対策や車両需給の影響を受けて
旧十和田編成の20系→14系座席→14系寝台混結→再度座席のみという変遷たどるし 80年代に入ってから追加で併結改造しても
あとどのくらい使えるか‥を考えたら
12系(14系座席車)+14系混結でいいやん、と考えたんじゃない?
ところでRMM増刊の「20系客車」を買ったヤツはいるかな? >>6
津軽はさらに583系座席→485系座席→583座席で臨時化で
583系座席→583系座席+寝台というスタイルになっていって
おがも20系になって結構後に臨時化されて
その時に20系寝台のみになって
その後14系座席+24系寝台になった >>6
越前と妙高は碓氷峠の関係が関係してそう
あときたぐには14系や583系の時にも連結される
ほど需要のあるA寝台の問題があったのでは 1000・2000番台の改造が始まる前の1976年時点でナロネ21は100/150番台で6両、500/550番台で6両が余剰廃車
1000・2000番台の改造とほぼ同時期の1977〜79年にナロネ21のうち16両をナハ21へ改造
当時のナロネ21の活用状況を見るとA寝台需要が1000・2000番台化のネックだったとは到底考えられないのでは >>10
ロネを連結するほどの寝台需要があるなら20系+12系にすることもないと判断しただろうし
その上で>6や>7のような線区や寿命を勘案してという感じかな >>11
1978年6月号に20系の格下げ使用の方式について次の3パターンに分けられるとの記述があった
全車20系寝台車で組成する「銀河」方式
余剰のナロネ21を座席車に改造したナハ21を組み込んだ全車20系で組成する「十和田」方式
寝台車の比率が低いため12系と20系の混結で組成する「かいもん・日南」方式
1978年10月改正では、寝台車の連結両数が多い「だいせん2・3号」は「十和田」方式で、寝台車の両数が少ない
「さんべ」と「ちくま」は12系との混結方式で近代化される予定との記述もあった
12系混結用の20系の連結両数は、スハフ12の給電能力の関係からスハフ1両あたり最大3両までだったはず >>12
確か12系から給電するのは3両までで
どれも3両以内に収めているから
他に担当できる列車があまりなかったとも言える カニ21の中にはカヤ21にするために保留車扱いにされた車両もあったはず 未改造の中でも26、27なんて1970年9月落成なのに
下関あさかぜ→あけぼの→運用離脱→1985年11月廃車で実働10年
不憫すぎる >>15
ここのグループをすべてカヤ化しても良かったのに >>16
そういうことはお前ん家のNゲージでやってろ ところで20系臨時特急が臨時急行化になった時どう思ったの? 客車のキモチ?
臨時特急がお時間そのままで臨時急行化したのは、旧型3段寝台では寝台料金ボッタクリだからと寝台料金は下げずに急行化で実質値下げをする
為だけど。 見てる側としては時代の流れ的に妥当だと思ったよ
寝台幅52cmって一般的な寝具の半分の幅しかない訳だし 20系は座席→寝台や寝台→座席の改造はあるけど
寝台同士の改造はほとんどないんだな(A→B B→Aのような) 今考えると12年に渡って製造され続けたってのに驚くよね
1970年は大阪万博で輸送需要が高かったからかな >>25
12年といっても、社会環境が大幅に変わった時代の12年だからな、当初の設計がいかに時代に先行していたかと。
製造開始時は山陽本線ですら満足に電化されていない時代、輸送の主力は蒸気機関車、
客車の車内も多くは白熱灯照明ニス塗り車内の薄暗いもの、そんな中で20系ブルートレインは別世界の乗り物だった。
さすがに最終増備期では何かと陳腐化した部分が出てたな。
43.10対応分あたりで新系列に移行していれば、と思う事があるが、やっぱ無理だったんだろうなぁ・・・ 昭和47年頃、向日町運転所に撮影に行ったんだけど(当時小学生)
なぜか「日本海」も「つるぎ」もナハネフ23が最後尾だった。
珍しい車両が撮影出来て子供心に嬉しかったが、
今考えると分割もないのになぜって疑問が湧いてくる。
事情通の方がいたら教えてください。 さくらの最後尾が切妻(形式は憶えてない)になっている東京駅での写真をどっかのサイトで見た気がする。
時々そんなことがあったのだろう。 余ってきた頃は、ナハネフ22よりは23の方が使い勝手がいいから優先的に使われたんだろう。
末期のおがなんかはカニの次位と最後尾に使ってたしな。
東は23しか持ってなかったっけ
22は最後尾限定だが23は中間もOKだからな。
編成がナハネ、ナハネフオンリーになって車掌室が後ろにしかないのは不便だしな >>25
20系客車が登場した1958年当時、一般家庭どころかオフィスなどでもエアコンが普及する前、
1970年でも10%以上も普及していない。当時エアコンがある家はお金持ちの家だけだ
そういうわけで少なくとも家庭用エアコンが普及していない時代なら20系の設計は通用した 「つるぎ」の運転開始は1972年10月、当時は青森の20系で運転
この時点の青森運転所配置の20系緩急車
ナハネフ20 2・3・4
ナハネフ21 1・3・4
ナハネフ22 1・19・20・504・505
ナハネフ23 15・16・17
使用車種は「日本海」「つるぎ」がナハネフ20/21、「ゆうづる」2往復がナハネフ22、「あけぼの」がナハネフ23 ナハネフ20/21はナハネフ22/23より定員が少ないため運用は完全に別になってた
定員の多いナハネフ22/23が、ナハネフ20/21の代わりに「日本海」「つるぎ」へ充当されたことがもしかして
あったのかもしれないが、ナハネフ20/21が6両中4両使用なので代走はほぼなかったのではないか
となると>>28が見たのは「ナハネフ23」ではなく「ナハネフ21」ということになる >>35>>36
付け加えれば昭和47年7月品川区20系編成統一の為あけぼの8号車のナハネフ23(15〜17)が品川区へ瀬戸7号車のナハネフ21(51〜53)が青森区へ振替転属している。 >>14
カニ21 14ですね。ゆうづる24系化の後に盛アオで長い間保留になっててカニのまま北オク転属になったけど改造されないまま廃車になってしまった。 当時は「あけぼの」需要よりも宇高連絡需要のほうがはるかに高かったということだな >>36
分析ありがと。
小学生やったからナハネフ23と21の違いも知らんかったわ。 西鉄ライオンズのナインが日本シリーズで巨人に勝った時に
福岡へ帰る「あさかぜ」の車中で祝杯をあげて
食堂車のビールを全部飲んでしまった、という話を聞いた事がある >>30
予備車が少なかったからですね。あさかぜ・さくら・はやぶさ・みずほの4特急が出揃った時点で品川区ナハフ20が8輌使用で予備1輌、昭和47年3月の新幹線岡山開業後の時点でナハネフ22が12輌使用で予備2輌でギリギリだったから〜 >>39
あくまでも南シナ20系の編成統一,合理化が狙いで、あさかぜを除く他の列車のF号車をナハネフ23に統一して列車遅延時の振替運用を容易に出来るようにした次第。結果的にナロネ22があさかぜに集約されてこの時俗に言う殿様あさかぜの出現となりました。 >>44
このナロネ22は殿様あさかぜに連結される前ははやぶさとあかつきに連結されていたんだよな
ちなみにあかつきにA寝台個室が再び連結されるようになるのは
出雲3.2号のシングルデラックスが転用された時までかかった 結局定員の多いナハネフ23を需要の多い列車を担当している品川へ集約したってことですね 合理化ってのは国鉄のやりたいことを実現した結果であって、根本的に楽したい組合の要求を呑んだ結果では
ありません >>47
最近は勘違いした労組が多いこと多いこと…
日本海側の寝台は新潟の労組だか支社に
潰されたってのが通説だし… >>48
実際、労働環境改善に深夜勤務廃止ってあったからな プレミア見れない
ブンデス見れない
CLEL見れない
週刊誌でヌケねえちきしょう
同和のクズ共死ねクソ共がざまあみろ気違い共
ほれ気違い共もっともっとドア閉めろ通れ
それしか能のない能無し共がざまあみろ地獄に落ちろ >>42
20系「あさかぜ」をはじめとした寝台特急はプロ野球西鉄ライオンズの関係者の利用が利用機会が異様に多かった模様。
用途は長期遠征用。特に東京への移動は100%確実に「あさかぜ」や「はやぶさ」での移動だったようだ。
ちなみに関西遠征のときには特急「かもめ」での移動が多かったという
つまり、プロ野球選手はシーズン中はずっと超遠距離通勤。特に一番西の端っこの西鉄ライオンズが過酷だった。
今でこそ、選手は新幹線や飛行機が使えるが、
かつてのプロ野球選手の長期遠征は鉄ヲタでもやりたくないレベルのハードさだった。
関東で試合の後は関西で試合をしそれから福岡へ帰還、という日程の繰り返しをしていたようだ。
しかも寝台車に乗れたのは監督と一部の選手数名だけで、それ以外は普通車だったそうだ。
特にかつての西鉄ライオンズは福岡が本拠地だったから、1度遠征に出れば、最低2週間は旅暮らし。長いときは20日間も続いた。
だから西鉄の選手の引退の理由には「遠征の体力が続かなかった」という人が意外と 多い。
↓は当時の話。
http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=011-20130708-01
http://dk4130523.hatenablog.com/entry/2014/10/29/011701
http://ameblo.jp/yonehashi-k-office/entry-11805138110.html
http://fcmuseum-arima.blogspot.jp/2016_08_01_archive.html
http://ameblo.jp/yonehashi-k-office/theme-10080173184.html
ちなみに、当時の西鉄の選手は、食堂車では絶対にアルコールを飲んでいた。
理由は起きていたら疲れるため、何が何でも寝るためには酒の力が必要だった。 連敗した西鉄は、その日の夜行列車で福岡へ戻る。ジャイアンツの選手たちも同じ汽車に乗っている。
汽車に乗り込むなり、食堂車を占拠したのは西鉄ライオンズの選手たちだった。ビール、ウイスキー、日本酒……飲みたいだけ飲み、かつ、食った。
藤本(引用者注:藤本哲男さん)のところに特急列車の乗務員がやってきた。
「もう、食堂車は閉めなければなりません」
「……」
「この列車に積み込んだ酒、食料を全部たいらげちゃったんですよ、ライオンズの選手たちが」
車掌がそういうのだった。
そして、藤本は当時の金で5万数千円の請求書をつきつけられたという。
昭和33年の日本シリーズで2連敗した西鉄は飲みまくったにもかかわらず3連敗した。厄落としには食堂車では足りなかったらしい。そこで、もっと飲んだ。すると4連勝した。
「景気付けに俺たちが中洲で飲んでやったからだ」筋金入りの西鉄ファンは、いまでもそう信じている…らしい。 20系のさくらは長崎編成と佐世保編成が最初は逆だったんだよな >>57
佐世保編成が基本編成だったことがあったな。
東京発のころの「雲仙・西海」も佐世保編成が基本編成だった時代があったと思う。
41年10月改正時は、「さくら」は長崎編成が基本編成、「雲仙・西海」は荷物車を含む前半分が佐世保行、
後半が長崎行で、食堂車は後半の長崎編成に連結していた。
ただ「さくら」の場合、基本編成がカニ・ナロネ22・ナロ20・ナシ20×1にナハネ×3とナハネフ×1、
付属編成がナロネ21×1・ナハネ×5にナハネフ×1と、付属編成のほうが総定員が多かった(41.10時点)。 >>36
ナハネフ20/21とナハネフ22/23は別運用だったけど
14系と24系の14形と24形の2段ハネ車も15形と25形の
2段ハネ車と別運用組と同一運用組に分かれていたな カニ22は64トンとか異常に重いどころか停車中に大量の電力を吸い取るために架線溶断事故多発した?
EV-E301系でも停車中の大電力対策で充電箇所は剛体架線にしてる 2基のMG回すのにそんなに
電気吸うのかな?
それ考えるとMGって無駄な電気
食ってたんだな…と思わされる カニ22と言えば新幹線博多開業前の昭和49年の夏頃から次々と検査切れで休廃車となるマヤ20に変わってはやぶさ.あかつき1.7号の長崎編成の電源車として同年春に彗星の24系化に伴う余剰車を使って50.3改正直前まで運用されていたのは一般にあまり知られていない >>61
カニ22は直流電化区間では架線から給電、交流電化区間や非電化区間ではディーゼル発電機で動かすことで
経済性とディーゼル発電機の運転騒音の減少を図った車輛です。
当初は“はやぶさ”に使用する計画だったようですが・・・。
しかし、重量が50t強と重たかったため、最高速度で走れるのは東海道本線・山陽本線・鹿児島本線熊本以北だけという致命的な弱点や
下関でエンジンを入れたり切ったりパンタグラフを上げたり下げたりと面倒な作業があったことから、
二種類の電源を積むよりも一種類の方が運転途中の面倒な切り替えが不要で重量が軽くて済むので
両区間に対応できるディーゼル発電方式に一本化されたのです。
カニ22ももっと小型、軽量化が図れていれば、あれほど早期に当初の目的を断念して引退することも無かったでしょうけど。 >重量が50t強と重たかった
そんなに軽くないんですけどね。ED74とほとんど変わらないという 但し カニ22 51だけはMG関係の機器を極力省略してマニ20の予備としてはやぶさの運用に回せる処置をしていました。 マヤ20に代わり長崎区に貸出されたカニ22は2.3.51.53の4輌。その後2.53は50.3ダイヤ改正向けにカニ25に改造されて長崎区に残り3.51は青森区に所属復帰している。 >>67
今まで漠然としてて意識してなかったけど
全備重量がD型電機に匹敵する客車ってスゲェよな 今の技術でカニ22作ったら
軽くなる上に
性能も高くなるんだろうな
でももう客車は新造されないんだろうな…orz 瀬戸にパンタ付きのラウンジカーあったな
SIVのやつ >>65
のちのスハ25は直流区間限定だったからな
そもそもスハ25の登場した理由が宮原にカニを回すのも理由の一つだった カニ22と云えば昭和51年10月のゆうづるの24系化の時にてっきり廃車になると思われたカニ22 1が盛アオから北オクに転属になり北陸.北星に使われることになった。上野駅で北陸のカニ22 1に出くわしたが北陸のバックサインを見て似合わない感じだった。 朝日新聞朝刊の連載小説吉田修一の国宝で、主人公が長崎から大阪に行く列車でさくらが使われた。
時代は昭和40年代初頭なので20系なのは間違いないが、文章も束芋の挿し絵も二段寝台。
物事が伝わらなくなるってこんなことなのかと思った。 坂道のアポロンもツッコミ所が多かったな
ちゃんと20系描こうとしてる姿勢は買うけどさ GW最終日。昔なら春季あさかぜ51号が運転されていた時期だ。新幹線博多開業前各区からの寄せ集めで組成されて春夏冬と運転されていたが毎回どんな編成か楽しみだった。日頃見掛けないマニ20カニ22やナハネフ20ナハネフ21等が来ると嬉しかったものだった。 >>64
マヤ20は改正直前には運用に入っていなかったみたいだな 20系は文字マークと絵入りマークどっちも似合っていた 昔は食堂車もタバコ吸い放題だったから
煙でもうもうだったナシ20 s昭和45年まで増備されたのに
昭和46年には寝台幅が70cmになり
昭和49年には二段B寝台が登場しちゃうんだよな >>86
昭和30年代の20系、特に「あさかぜ」は「動く最高級ホテル」といっても大げさではなかった。
なにしろナロネ・ナロの利用者は政財界の大物や有名芸能人・プロスポーツ選手のどれかだったんだから
普通車とは明らかに客層が違う
そして20系は昭和30年代が黄金時代だったが・・・。
新幹線がない・飛行機も未発達だけでなく、1958年11月当時、高速道路までも日本にはまだ存在しない。 日本の道路の舗装化はかなり遅れていた。
なにしろ当時の日本は貧乏国だったのと、日本の道路は欧米諸国と異なり、馬車交通等を経なかったため、著しく遅れていた。
そのため当時の道路事情は主要国道でさえ、舗装されている区間は非常に少なかった。
昭和33年の舗装率は国道27.3%、都道府県道4.3%、市町村道0.6%、全体で1.7%。あとはすべて未舗装だった。
舗装区間が劇的に増加するのは昭和40年以降の話
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/image/hpaa196201/fb4.17.9.gif
http://www.npa.go.jp/hakusyo/s48/s480600.html
http://www.taikasha.com/doko/chapt33.htm
ちなみに「首都高速道路」京橋 - 芝浦間の開業は1962年12月20日、「名神高速道路」栗東IC - 尼崎IC間の開業は1963年7月16日である。 >>90
万年Bクラスのプロ野球チームはB寝台で移動だった >>91
新幹線とまって在来線の座席車で移動した
某チームあったろw >>84
マヤ20は昭和49年中に全て運用離脱。改正前まではカニ22ではやふさ、あかつき1、7号に運用された。 >>86>>88
ヨン・サン・トウ辺り迄が全盛期と言えるだろう。ヨン・サン・トウでは電車寝台が本格的に進出、14系寝台登場迄の主体になる。段々20系の寝台幅への風当たりが強くなってくる。 電気機関車EXに載ってるがEF58代走牽引で元空気ダメ引き通しがなく空気ばねパンク状態で運行させたって今じゃ考えられない
碓氷峠なら兎も角平坦線ではストップゴムで支える格好になってゴツゴツする上にブレーキ増圧が使えず95キロ制限だった?
現代のボルスタレス台車は空気ばね破裂に備えて内部に摺動部があるとはいえこういった運転は不可能 カニ22だけど、登場時期が門司〜博多が電化の後で、尚且つその区間が直流電化だったら、
電動発電機だけの搭載で「あさかぜ」用として活躍できたかも知れん。 >>96
MR管引き通しも
増圧機能やブレーキ電磁指令機能がなければ
(早い話がBPのみ)
速度制限はもっと遅かったはず ナシ20の日車製、サイドの間接照明がいいな。オシ14がデビューして
旧来のファンがその簡素化に嘆いたのも解かる希ガス。。
steam.fan.coocan.jp/train/20.htm >>100
ただ、ナシ20でも後期型になるとFRP製の椅子、窓上照明の廃止、片持ち式のテーブル、
調理室の外吊りドアなど、横引きカーテン以外は簡素化の傾向が強くなってるけどな。 >>97
151系が、編成給電用の電動発電機を両端の制御車に一基ずつ、
尚且つ食堂車にも専用の小型発電機を一基を積んで、
全てを稼動させても、架線を溶かすほどまでにならなかったのは、
編成にパンタグラフが六基あって集電を分散できたから?
カニ22は、151系より長い編成への給電をパンタ二基による集電で
賄おうしたのが無茶だったのだろうか? >>100
オシ14の内装を星空バーかレトロバータイプにすればよかったかも >>103
俺、電気的なこと機械的なことは全く無知なんで、ご教授願えるかな?
なぜ151系だと架線が溶けず、カニ22では溶けたのか? >>105
パンタの数じゃないかな
少なければそれだけ電流が集中するから… >>102 >>105
元々MGはたいした容量じゃないから。まぁカニ22のMGの容量知らないけど
DGと同じなら250kVAかな。2基で500kVA
66は3990kW、カニ22の容量で架線切れるなら、66は発車の度に架線切るよ
架線切れたのは別の要因でしょ。雨の日の長時間抑止って過去ログにあったような
その頃だと蒸機も混在しててススが架線について、それが原因で架線切れたりパンタ壊してたらしいね 貝塚公園のナハネフ22、大丈夫か。
目標金額まで、全然募金が届かないようだが・・・
https://greenfunding.jp/lab/projects/1726 だから福岡市役所にナハネフ22は鉄道記念館に
収容してもらえるように、
朽ちてからでは取り返しがつかないので早く
交渉したほうがいい…と忠告したのに… ナロネ20は、一人用ルーメットと、二人用区分室じゃなくて、
ルーメットにして、室内をサンライズのシングルツイン風にすれば良かったのに
と思うことがある。 >>112
それだと洗面台のスペースが取れないのでは? そもそも「はやぶさ」用に製造された蟹なのに重量オーバー
って八代以南も鹿児島本線なんですけど
ながさき本線より規格が下って何なの? >>114
熊本より南は輸送量落ちたというのもあるがその乙線規格でも上等な部類になってしまったからな1950年代までは
(軸重16tの車両自体は乙線扱いを補強して入線させたり甲線でも入線しなかったりの例でアレだが)
カニ22に関しては実態として製造の名義がはやぶさ用だったと捉えるのが妥当かと… はやぶさで試運転までやったけど、結果適さないということで、さくら向けにしたんだよ 前にも書いたけどカニ22 51は後にMG関連の機器を極力降ろしてマニ20の予備として使えるようにしたんだ。 >>110
貝塚公園のナハネフ22 1007、十数年前に車内に入ったが歩くとやたらミシミシ音がする台枠など腐食してるだろうしクレーンで上げると崩れるのではないか? 元九州朝日包装の市長は優秀だからな、気持ちは解るけど >>122
血液型A型ですか?
「皮肉」って言葉を御存じですか? >>114
何せ東京〜西鹿児島のロングランだし、電化区間で電動発電できれば、
軽油の節約にもなるしって発想も当時の国鉄あったんじゃないかな?
そんで作ってはみたもののっていう >>125
そそ
直流架線下では経済的
だけど、車重が重すぎて、かつ荷室も小さすぎたから6両のみで終了 昭和30年代の車両は、
発想と当時のテックレベルが
マッチして無かった物もあるんだよね
今の技術で作れば実用的な物に
なるんだろうけど、
当時の技術だとあれが精一杯
だったんだよね… 現代ならカニにバッテリーと回生ブレーキとインバーターと直噴EGで武装だろうか 20系客車は鋳鉄制輪子でありながら増圧することで110キロ対応にしたが長距離走行も相まってブレーキシューの摩耗が半端じゃないくらい凄くて頻繁に交換しなければいけなかった?
レジン化は最後まで行われなかった
12系客車からレジンにすることで増圧しなくても110キロ運転可能になった >>129
その替わりフラットに悩まされることになったが… >>128
回生ブレーキは台車にモーター
組まないとならんから
某社の幽霊カニになるな…
E27のカハフの発電機セットは
エンジンが500kW×2で
しかもかなり背が低く作られてるから
片側に二弾重ねにして
空いた空間に交直流対応の
SIVセット積めば
(25000V対応なら)青函トンネル含め
非電化区間含め日本全国行けますよね カニ22の様に発電機と荷物室を一つの車両に詰め込むんじゃなくて、
電源車と荷物車で分離して運用・・・・ってことも考えた上で
結局、当時の国鉄はカニ22を造ったんだろうなあ。
以下、完全に俺の妄想だが・・・。
荷物車(マニ21)は他の20系客車と一緒に東京〜九州を走破。
電源車の方は、直流電化区間と非電化(または交流電化)で交替。
・東京〜当時の直流区間の西端駅:電動発電機とパンタグラフを搭載した電源車マヤ20(仮)
・上記の西端駅〜九州島内:旧客改造の電源車マヤ21(仮)
・・・なんて運用になってたら趣味としては面白かったと思う。 >>132
マヤ20は蒸気牽引の九州島内
走行しか考慮していないから
足回りも旧客のままだったし
(イレギュラーで東京まで来たこともあるみたいだが)
本格的に東京まで回してくるなら
足回りとかも改造しないと
だめだろうな… >>132
東海道・山陽線内用でMGの電源車そのものは比較検討されたものの
下関構内の入換作業複雑化、荷物載せ替えと時間伸ばす要素にもなるんで没にされた
(仮に電源車と荷物車分離したら編成がさらに伸びかねないし客室側を合造にするのもね…)
もっとも星氏や卯ノ木氏の回想なり当人が記したもの見てもカニ22計画は島技師長が特に推し進めた辺りでまあ >>132-133
マヤ20ができたのは「みずほ」大分行き、「さくら」佐世保行きができたのがきっかけ
20系は固定編成客車ですので、分割してしまうと電源車の無い大分方面行きは
何らかの方法がないと冷房もなにも使えない状態になってしまいます。
そこで製作されたのが旧型客車オハシ30形から改造したマヤ20と呼ばれる簡易電源車。
なぜ「簡易」なのかというと、分割後の短編成の電源がまかなえれば十分なので、
発電機の能力を本務用の半分程度にしているためだ。
特に20系運用時、九州側の車両基地に予備車が1両も無かったことなどから、
関係者の中では、ディーゼルエンジン故障のリスクがある電源車が不足することに対する危機感は相当なものがあった。
なにしろ当時の日本のディーゼルエンジン技術がカスだったのに、無理して国産技術のものにしたからね・・・。
マヤ20は全車両に電力を供給することが可能なカニ21、カニ22、マニ20に比べたら
半編成分くらいしかサポートできず、足回りがTR23のままのポンコツなので高速運転には適しないという構造であったが、
関係者の間では、「予備車がある」という安心感を得たそうである。 中途半端な知ったかでドヤ顔かよ
後はチラシの裏にでも書いてろ まあ20系に限った話じゃないが、九州ブルトレとか途中駅で切り離される付属編成って、
折り返しの間、整備で電源が必要な場合ってどうしてたんだろ?
留置線の脇とかに発電機があって、そういうのから給電してたのかな?
あと基本編成と連結しても空調はすぐに効く訳じゃないから、
発車して暫くは、夏は暑くて、冬は寒かったんだろうなあ。 >>137
その通り、九州側の各客車区には20系用のH型制動試験機があるだけ。はやぶさ.みずほの付属編成が博多落としだった時に経験したけど基本編成に連結してやっと室内灯がついて空調が効きはじめる。 >>135
昭和40年(1965)10月から門司(客)にカニ22 51を緊急時の予備車で置いてたよ。門司(客)の鹿児島本線上り線側の最端にいつも留まってたね、ヨンサントウで大ムコに行っちゃったけど。 >>135
24系でカニ25が出来たのも分割併合のため >>140
でもカニ25はマヤ20と違って本務電源車としても使ってたな。
25形編成にカニ25が繋がってたのはなかなかシュールだったね。 北斗星に50系改造の電源車あったけど
余ってなかったんかな
時期的に >>137
20系化直後のさくらは付属編成の空調を博多の構内で予冷(予熱)していたという
記述を見た覚えがあるが何にあったか思い出せない >>142
J東とJ西の波動用に残ってただけで北斗星に回せるのは無かった。 >>146
考えられるのは
地上電源があった
位では? >>144
24系の電源車自体が余裕がなかったからな
スハ25も電源車の捻出が絡んでいた >>150
ナハネ20…102.105.121.139.142.216.219.227.229.230.233.234.236.238.239.247.301.302.304.305.362。 ナハネフ22…14.17.25。 ナハネフ23…3。 >>91
昭和30年代の西鉄ライオンズはナロネとナハネに乗れたのは監督・翌日の登板するエース投手、4番打者のスタメン入り選手だけ、
それ以外のベンチ入り補欠選手は、20系の3等座席車で列車の床に新聞紙を敷いて寝ていた。 >>152
レギュラーの野手も四番以外は座席車かよ… >>153
大体特急は指定が基本で特定特急券すら出てない時代じゃないか九州特急にハザがあった頃は >>154
補欠含めて40人移動するんだから40人中寝台で寝れるには9人、あとは座席車というのは妥当だろう
寝れるのはチーム内のランクが上がってから >>157
あちこちに貼るのはいいけど
ブルトレ(客室)は再開しないんじゃねえの?
前回の管理者は開始当初、解説ページまで作ってブルトレをものすごく売り出してたけど、
先にブルトレだけ供用中止にしてしまったくらいだもの。 >>160
ナハネ20営業再開しないんじゃ、関ロッジ再開する意味ないじゃん! うん。
だから、営業再開って貼りまくってる人
ブルトレ供用再開可否の確認もせずに
意味ねえのにな、って言いたかったのよ あくまで単なる宿泊施設としては
旧東海道関宿に位置してるから、そういう方面では利用あるらしい
(それでも赤字だったみたいだけど)
俺らが価値を感じる部分は
まったく貴方のいうとおりで
20系宿泊だけど。 でも今どき宿泊場所の設備としてあの狭いベッドが通用するのか、という問題はある
実際現地で見てから普通の部屋に変えてもらう客もいたということだし 寝台幅52センチは夜行バスと同じくらいか
ルーメットはA寝台より高く北斗星のロイヤルに匹敵するかと思いきや部屋が狭かった(座席の背もたれを倒すとベッドになる)上に高いってw
現在の水準ではあの設備ではB寝台扱いにして安価にするはず >>166
夜行のハザで一夜明かすこと思えば
三段52センチでも快適 >>165
多分専有面積はトワイライトとかの
シングルツインとほぼ同じだと思う >>165
ルーメットの狭い空間の中でゆったり感を感じさせた設計は高く評価されるべきだろう。寝台をたたんだ後の座席の掛心地の良さはなんともいえなかった。 >>165
大体1960年頃にルーメットに乗るのは今でいえば国際線ファーストクラスに乗るような感覚。
1等寝台個室など、選ばれた階層の人しか乗ることが許されなかった時代だったからな。
55年前は皇族・旧華族・大臣・高級官僚・大企業経営者・大物芸能人といった面々しか乗れなかった。 そういった現代脳で苦言されてもな。
168も言ってるとおり、便利や快適になってからの現代世界で物心ついた奴が、
前時代のことを現代視点のままで語るほどバカらしいことはない。それでも謙虚ならば救いようもあるが、ユトリにはそんな自覚すらもない。 >>168
167までのやりとりに対しての反応がズレてる。
まず、そもそもがブルトレの話だろが。
関ロッジという宿泊施設は全てブルトレではないんだが?
あんたのいう面は、ブルトレ希望の宿泊客に対しては宿泊可能だった当時は予約時にいちいち予約客に確認してるし >>171
そこまでルーメットをあげつらう事もないだろう。 >>175
ちゃんと時代背景を踏まえて話してるだろ
東海道新幹線が開業してからは世の中が急速に変化してく訳だしね >>165
>>172
なにもしらないくせに偉そうなこと言うな、厨房
行間から滲み出る雰囲気からすれば
お前、10代だろ??いいこと教えてやる。
昭和30年代のことは近代史・現代史だからな、大学試験で出るぞ
昭和30年代の出来事くらい知らないと、試験で落ちるぞ 20系が出た昭和30年代のこと知らないで語る奴がいるとは・・・
まあ無理はない。今から半世紀以上昔、日本がまだ高速道路なんて無い貧乏国であり、
ソビエト連邦が巨大な共産主義イデオロギーモンスターだった時代だからな >>171
平民だけど昭和37年にはやぶさのルーメットに乗らせていただいた。 便利で快適になったのは確かだが、
あふれる乗客を捌くために様々な
列車が車両をかき集めて目一杯の
ダイヤで運行を確保する。
そんな熱い時代が懐かしい。 開放A寝台の居住性や設備ってナロネ21とのちのオロネ14や24とそれほど違いはなかったのか? >>183
冬季は座席下のヒーターの熱がこもって下段は暑かったな。その後の車両は知らん。 >>183
寝台使用時は特段の変わりはない。昼間の座席状態で言えばオロネ14.24は寝台の昇降装置があるので各席に仕切りある。その点オロネ10.ナロネ21は仕切りを完全にたたんであるので開放感がある。 >>185
オロネ10.ナロネ21も上段跳ね上げ時の上段寝台の幅分の仕切りは残ってたわな まあ細かい違いにこだわれば色々と切り口はありますな。。w
ただ、プルマン式の仕様ってそれほど形式によってブレる訳でなく
寝台車の歴史を正統に引き継いできたyね。 >>188
プルマン式はレール方向に寝れるのが何より。特に鉄にとっては(笑) >>165
Q:20系客車がなぜ「動くホテル」「走るホテル」なんですか?
実車を大宮の鉄道博物館で見たんですが、相当にベッドは狭そうでそれも三段です。
特に一番上は這って入るのがやっとのように見えますけど・・・・・。
A:今でこそ、カプセルホテルよりも陳腐な設備ですが、この20系客車が登場したのは1958年です。
1958年11月当時、冷暖房があるホテルや旅館はあったことはあったんですが
「帝国ホテル」レベルの 最高級グレードのホテルや最高級旅館のみに限定されていました。
当時、家庭用エアコンなんて影も形も無かった。職場にも冷房が存在しないのが当たり前です。
企業でも冷房を設置してるところは極めて珍しく、 この頃冷暖房が入っているのは
大都市の映画館、銀行、デパートくらいなものでした。 一般家庭では扇風機があれば良い方であった
昭和33年当時は路線バスでも冷房がついていないのが普通。
自家用車でも冷房付きなんて輸入したアメリカ車だけ、しかも1ドル=360年の時代に
40%という強烈に高額な関税が設定されていた時代だったのです。
当時の特急列車の多くは3等車は扇風機で涼み、展望車・2等車と食堂車だけ冷暖房付きなんてのはザラでした。
出張族でも、昭和30年代は特急料金と寝台料金を会社が出してくれるのは社長・重役クラスだけでしたし・・・。
事実上乗れたのは政財界の大物や有名芸能人・プロスポーツ選手・超一流芸能人といった面々しか乗れなかった。
大抵の一般庶民は、冷房が無い旧型客車で長距離を移動するのが当たり前だったのである。
昭和30年代の人達から見れば、20系客車誕生は「四季島」「ななつ星」「瑞風」クラスの車両が登場した以上に衝撃的だったのです。
なお、昭和33年当時の物価は大卒初任給 約13000〜14000円、かけそば1杯 25円、牛乳180cc 14円、生ビール1杯 80円
当時の3000円は約55000円相当です
こういった時代に2000円以上の出費は目の玉が飛び出るほど高額でした >>189
寝台列車乗ったらビールやら楽しんでから就くことが多かったが
胃の中の液体の揺れ方はプルマン式(レール方向に横になる)のほうが圧倒的に不快だったな。 簡易電源車マヤ20と佐世保さくら編成や大分みずほ編成に萌える今日この頃
後期に製造されたカニ21は、両端切妻、車幅は旧型客車と同様の裾絞りナシ、
・・・という実用一点張りな外観にして欲しかったぞ、と。 ↓の基地外はどう見ても>>194だな
446 名前:回想774列車[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 20:38:07.38 ID:oqGOAbEE
>>317
一応は特急用だし電源車は必要だろw
オハネフ両端に車掌室なら、ただカニ24の100番台も、
もう他の24系と外観を合わせず、両端切妻、車幅は50系客車と同様の裾絞りナシ、
塗装は青20号で帯ナシ・・・という実用一点張りな外観が良かったなw
パッと見には「あれ?ブルトレにマニ50が連結されてる?」と勘違いさせる様な
マヤ20を連結した佐世保さくらを彷彿させる様な編成を見せて欲しかったw
まあ編成美に拘るヲタには大不評だったろうがなw 20系の全長(カニを除く)は何メートルですか?
あと鉄道模型NゲージのKATOの20系はスケールモデル(140分の1?)ですか?
どうもKATOの20系は全長が短いように感じますが >>198
実車長は連結面間で20.5m
模型の大きさに関しては
メーカーに聞いてくれ 増備編成を考えるときに、分割併合を考えてマハニ20といったような
車両で、編成当たり2両で使う考えは、なかったのだろうか? エンジンの騒音で客車には出来ないでしょ
コンパクトに床下に吊るせるようになって14系に出来た >>202
当時はまだエンジンの消音技術が手探り状態だったから無理だったはず >>202
キハ81はボンネットに電源ユニット突っ込んでたし、キハ181も床上だったから、出来ないことはないね
分割列車がもっと多かったらそれもあったかも知れないけど、気動車特急が床下で出来てたし
客車も冷房化で床下エンジン積むようになってたから、14系は必然なんじゃ 【ナハネフ22】20系固定編成客車スレ04【ナハ22】 [無断転載禁止]©2ch.net
http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1484675181/
27 :回想774列車:2017/04/27(木) 07:59:35.14 ID:n/T3KqAf20系の全長(カニを除く)は何メートルですか?
あと鉄道模型NゲージのKATOの20系はスケールモデル(140分の1?)ですか?
どうもKATOの20系は全長が短いように感じますが >>202
分割運用が決まった時、そういう案(マハニ20)も挙がったろうが、
ディーゼル発電機を積むと、必然重量が増してスハニ20とかになり、
1〜2両減車しなくちゃならなくなるからってのもあって、
当時の需要を考えるとその案は採択されなかったんだろうなあ。
それに分割は九州内だけだから。
多少手間でも簡易電源車ってことになったんだろう。
14系登場の頃は、国鉄が客荷分離進めてたし、フレキシブルな運用が出来そうってことで、
緩急車に発電機を積む設計になったんだろう。
その後、「きたぐに」の北陸トンネル火災事故で床下エンジン発電は見直しとなり24系が登場。
客荷分離も取り止めとなって再び電源車に荷物を積み込む運用も復活する訳だけど。
もし事故がなければ、全てが14系に取って代わられたのだろうか? 14系と24系の併結スタイルが
24系編成のみだけど客荷両方運べる上分割併合もできるだったかも 20系では発電機を荷物車に積むことで騒音減を客車から遠ざけて
静粛性を確保したのに、14系は緩急車の床下にディーゼルエンジン積んで
ガラガラ騒音巻き散らして発電・・・
って現場的には分割・併合が楽になって良かったかも知れんが
明らかにサービスダウンだよなあ。
特急電車も同様に、ボンネットクハやクハネ581までは発電機を車端に置いてたのに、
電気釜タイプからは「小型化に成功したんで床下に移して定員確保!」とか
「グリーン車にスタンバイMG積んでガラガラうるさくするよw」とかやってたし 輸送力が逼迫してていかにして定員を確保しようかと躍起になってた当事の事情すらも頭にないのか…
やれやれだな
列車が設定できない、そもそも座席が確保できず乗れないってのが大きなサービスダウンなのも頭にないんだろう そもそも五月蝿いのはMGじゃなくてCPなんですがねえ >>209
481の100番台と489のボンネットのMGは床下なんだけど
>>211が言ってるけどMGや床下エンジンより時折動くCPの方が気になるんだよな 20系の3本帯と2本帯混在編成はあまり写真が多くないな CPで思い出したけどカニ21→カヤ21改造用のCPは181系のボンネットに入ってたものを転用
というのに、引退するスター選手からの手向けのように感じて泣けた。 同じ年にデビューして共に新時代の幕開けを感じさせたし
電車称号改正前は20系名乗ってたから20系コンビなんて呼ばれたらしいね 94年の春臨の急行あおもりは当初20系の設定の予定だったけど
突然583系に変わったみたいだけどどうして
突然変更になったのだろうか そういえば20系の定期列車はB寝台のみの編成がほとんどなかったよな だおせんはB寝台と座席車だったね
天の川はA寝台2両も繋いでたから需要の違いだったんだろうな 220は特には書いてないけど
「定期寝台特急」目線なのではと推測 http://i.imgur.com/aKIfvXs.jpg
喜劇急行列車のハネの内装。
もう今から見ると寒々しくて病院みたいな
陰気な雰囲気にびっくり。
でも当時はこれでデラックスだったんだよね。
冷房もガンガン効いていて >>224
電車急行の二等車や旧客の二等車で
長距離乗り通す事思えばね… >>222
急行でもA寝台か座席車は付いていたから
定期だとB寝台のみの列車はないかも 224 喜劇 急行列車 は映画の題名ね。
昭和40年代は渥美清とかフランキー堺が
鉄道職員の鉄道モノの映画がいくつもあって
貴重な鉄道資料だよね。
俺が幼稚園児の頃鹿児島に帰る婆さん送りに
東京駅まで行ったけど、あの内装では豪華さよりも重厚さと怖さを感じたのも無理はないと
思う。 >>224>>228
そりゃ昭和30〜40年代は冷房が「無い」のが当たり前で「ある」ほうが普通じゃなかった時代だからな
だが20系が登場する映画で自信をもっておすすめできる映画は「大いなる驀進」だよ。 これ以前の古い車両は当時の感覚でいえば
木質系でガタピシして古臭いという感じじゃないかな?
この車内は寒々しいというよりも近代的という感じじゃないか? 長距離列車の2等車の蛍光灯化が進んだのが昭和30年代末、
それまでは薄暗い白熱電灯にニス塗り(しかも黒ずんだ)車内だった。
当時、2等車で蛍光灯付きで明るい車内はナハ11とオハ36くらい、ナハ10がやっと蛍光灯化、
スハ43系もやっと近代化改造(蛍光灯化・内装更新)を始めたくらいじゃなかったかな。
現在残っているといえばJR東のオハニ36と大井川の一部くらいか。
昔の古臭い木造家屋と鉄筋コンクリートの家の差くらいの感じだった。 はい、大いなる驀進も見ましたよ。
列車ボーイが各車両に乗っているなんて
如何にも昭和30年代ですね。鉄道が多くの
若者にきちんととした職場を与えていたのに
感銘受けた次第。
現代でも最低限の寮社宅完備で住居費の負担を無くし月給15万だけど正職員の身分保証ありで
頭数採用したら少子化止まるんでないでしょうか、と思ったんだけど、関係ない話ですね。
とにかく大勢で列車の運行支えてる感じがいい。 >>232 田舎から出てきた多数の若者を低賃金でこき使ってた時代だからなあ
戦前の大企業のオフィスにもいた給仕の列車版なわけで、大抵は非正規雇用。
給仕やボーイ以外の雇用が増え、そちらの方が条件よかったから減少した。 「大いなる驀進」について・・・。
本作は20系客車の特急「さくら」が舞台という設定だが国鉄の全面協力は大きく、映ってる列車やその車内は、セットではない。
20系客車だけでなく、EF58特急色や山陽本線のC62、東海道本線の80系湘南電車などがゾロゾロ登場する
かつて鉄道がメインの交通手段だった時代の記録として本作は間違いなくトップクラスの作品だと思います。
http://shop.toei-video.co.jp/products/detail.php?product_id=16099&transactionid=5fd3b3fb057d43a3571bcb58e73083c08ce4fc97
↓↓がワンシーンだが、この映像だけでも見る価値はある
https://pbs.twimg.com/media/CIMmI5BUEAAT8NQ.jpg
https://pbs.twimg.com/media/CIMmI5HUsAA8z-Y.jpg
あと昭和30年代は、今のように軽くて、取り扱いが簡単で、いくらでも撮り直しができる4K/60P対応デジタルカメラが普及しているわけでもないからな
当時、高画質カラー映像を撮影しようとしたら、重くて取り扱いが面倒で撮り直し不可能だから「撮影のプロしか扱えないカメラ」のフィルムカメラしかなかった
・・・だからこそ「大いなる驀進」の価値は高い あの映画、いかにもな大物政治家&秘書、いちいちコーラス効かせて歌う若手社員などの時代性がじわじわくる。
それと、ネタでやったのか、C62 129?というプレート。
ワクチン運ぶ看護婦さんが一番美人さんだと思う。 〜驀進 の車掌三國連太郎、釣りバカ日誌の
スーさん、若いね〜 1960年映画とあるから
20系も出てまだ2年でサッシもピカピカ。
劇中出てくるEF58
92、97、101、116、128、154号機の中で
宮原101原型小窓 128白Hゴム
宇都宮 116 154 どちらも黒Hゴム EG機
なため1段安かったけれど116には20系用の
元空気だめ管がついてた記憶、〜驀進の
名残ですね。宇都宮EGブラザーズ >>238
ツッコミ所満載だな
映画の撮られた時期と晩年のゴハチを一緒くたに語らんでくれ 狩勝のナロネ22、屋根もなく
自然災害でいつかはなくなるんだろうな。
早く見に行こう。 SL牽引やうばざくらは元空気ダメ引き通し改造施工前だったから出来た荒業なんだな
110キロ対応化改造で旧型客車との併結は不可能となった >>241
「山陽本線「さくら」・「あきよし」衝突事故」が発生して20系客車の予備車がなくなったから、一時しのぎのために思いついた方法だからな・・・。 あれ、冬だったから10系を機関車側にしてるけど、夏だったら逆に20系側に機関車つければAREB改造しても出来ただろ
まぁ実際は冷房無しで特急とかはやらんだろうけど
配給や回送なら旧客と20系の併結列車なんかいくらでもあったからな 元空気ダメ菅を繋がない場合は75km/h制限だっけ? オレが高校大学で、福岡の親戚の家泊まり歩いてた頃、行き帰りは飛行機、新幹線、ブルートレインと選り取りみどり。ブルートレインでは乗れるならやはり始発のが気持ち良いてんでなるべくあさかぜ。そしてあさかぜも2425と
再度博多始発になった20系も選べた。ウーム見るのは20系だがいざ自分が乗るとなると、52センチはなあと悩んでると、叔母さんが、あんた何時のキシャで帰ると?、と。オレ、臨時で面白い列車が走るからそれに乗ろうか考えてる。 叔母さん、そりゃ、クルマがよかとな?
オレ、いや、寝台が狭い 苦笑。 叔母さん、ほう、そうな ち 毎度変わっちょーねこの子はって顔された。結局70センチにしましたすみませんすえ すみませんすみません
頑張って52センチにしなかったのを今
少し後悔しとります >>247
日本語になってないから読めないのは不思議じゃないよ 24系25型と20系のあさかぜ選べたけど
乗るぶんには70センチ寝台の24系25型
の方がいいと思って20系に乗らんかった
のを少し後悔、という話ですたい。訳分からん
くてはらかかんごとお願いしちょきます。 >>244
95キロ制限だが空気ばねパンク状態で走行することになるはず
本来20系牽引非対応のEF58が代走牽引してたの電気機関車EXに載ってたな
碓氷峠以外で空気ばねパンク走行は極めて異例 >>251
ホント?
電源車はカヤじゃなくてカニなの? >>245
30年前のの夜行バスは4列しかなかったですもんね。
それだけ14系が出てくるころには
日本人の体格が良くなったという事でしょうか。
ところでA寝台でいう発想はなかったんですか? 40年前の夜行バスは補助席含めて
6列シートだったな 自己解決した
電気機関車EX vol03 のpp4にある、EF58-138[宮原]が牽く「20系あさかぜ」のことだね
日付は1974年3月29日、区間は山陽本線庭瀬〜中庄間
短区間リリーフのようだ >>251
> 95キロ制限だが空気ばねパンク状態で走行することになるはず
BPだけだと空気ばねパンク状態で95キロ運転だとさ。
脳味噌幼稚園児の新説かな? ひょっとして20系客車の空気バネのエアはAREB化改造時に機関車からMRを通じて供給される仕組みに変更されていた
ことを知らんのか…? 小説「張込み」より
「張込み」は、2人の刑事が、東京目黒で起こった二人組の強盗殺人のうち、まだ捕らわれていない殺害犯を追って、列車で九州へ向かうところから、物語が始まる。
東京駅から乗車しなかったのは、顔見知りの新聞記者に見つかるとまずいと思ったからである。当然、汽車は満員である。2人は通路に新聞紙を敷いて、
尻を下ろして一夜を明かした。京都で下岡がやっと座れ、大阪で、柚木も腰をかけることができた。太陽が上る中、2人とも、欲もトクもなく眠りこけた。
岡山や尾道の駅名を夢うつつのうちに聞き、はっきり目が覚めたのは、広島あたりであった。岩国で駅弁を買い、昼食とも夕食ともつかぬ飯を食った。
物語の冒頭、20数行でこれだけのことが語られ、当時の列車事情がよくわかる。
映画化は、昭和33年1月封切り、松竹映画(橋本忍脚本、野村芳太郎監督、大木実、高峰秀子、田村高広出演)で、これはDVDで観られる。
原作冒頭の列車の旅を、映画でもタイトルが出る前、えんえん12分間にわたって描き、それだけでも、当時の鉄道事情がうかがえる貴重な資料である。
松竹映画「張込み」 の長〜い導入部
https://www.youtube.com/watch?v=-7p3OYYH7lA
舞台になった列車は急行「さつま」急行「筑紫」、特急「はやぶさ」の先代にあたる。
1956年11月に「急行筑紫」を改称して誕生した列車である。
東京21:45発、翌々日鹿児島5:46着の気が遠くなるような超長距離列車だった。
「急行筑紫」は、博多行きとして残った。ロケは、「急行筑紫」の1車両を借り切って、行われたという。
http://ameblo.jp/kyuzho/entry-11709963126.html
昭和33年10月、全車冷暖房完備の20系特急「あさかぜ」が東京⇔博多間を走るまで、
旅は楽しいものでも快適なものでなく、ケツが悲鳴をあげる劣悪な環境で苦痛に満ちたものだった。 >>258
それ、何かに書いてあったけど、嘘だよね
ただ長編成だと供給量がたりなくなってブレーキ作動したり不緩解で走れなくなる。10000系と一緒
>>243でも書いたけど、20系でもカヤなしとかP改なしの東機の58牽引の配給とかいくらでもあったから >>251
>>258
絶対インチキ情報を掴まされてんな
カヤ21がコンプレッサー積んだのは空気バネのためじゃない 嘘だのインチキだのと言うだけで一向に具体的に違う点が示されない件 >>264
>>262で理解できないならもういいよ。そうやって煽りだけくれてればいいんじゃね 14系はスハネフ、24系はカニとオハネフに空気バネとドアエンジン用の圧縮空気を作るベビコンを搭載
(トワイライトはオハネフが1両だけのためサロンカーにもベビコンを搭載)
14系・24系は組成の際に各車間をブレーキ管ホースと空気バネ主管ホースで接続
では、工場入出場や配給でオハネ25を単独で回送する場合、オハネ25の空気バネは作用する?しない? 12系はスハフにCPを搭載、空気バネとドアエンジンにエアを供給
12系2000番代はMR管を追加、機関車よりMRを介して空気バネとドアエンジンにエアを供給
では、スハフのエンジンを停止したまま回送する場合は各車の空気バネは作用する?しない? では、AREB化済の20系の空気ばねがBPからも供給可能だというソースくらい出せるよね?
そもそも20系はコキ10000系とは違い通常運転で他系列との混結を全く想定していないし、空気ばねが動作しなくても走行に支障はないのに、そんな機能つけてどこで使うの? >>262
>ただ長編成だと供給量がたりなくなってブレーキ作動したり不緩解で走れなくなる。10000系と一緒
貨車については運転作業要領という規程の中に、空気バネ台車付貨車の連結制限として「空気バネ台車付貨車
(コキ10000系、コキ71形式、72形式)を元空気ダメ管引通しを使用しないで列車に連結する場合は、6両までとすること。」
と明確に定められている
20系が10000系と一緒というならば客車についても同様の制限が定められているはずだが、そのような規程は一切ない
故障等により電磁給排弁付の自動空気ブレーキを使用する客車において電磁給排弁が作動しないときは、運転速度を
95km/h以下とするという制限は規程で定められているがな
>20系でもカヤなしとかP改なしの東機の58牽引の配給とかいくらでもあったから
運転作業要領の指導事項に「元空気ダメ管ホースの連結方」として下記のように書かれている
(2)機関車と客車の間(後部補助機関車との間を除く)
次に掲げる列車は連結する。ただし、回送列車又は短区間を運転する列車等で列車設定の際、指定した列車は連結しない。
ア 20系客車で組成した特別急行列車
(注)急行列車用の20系客車には大型の空気圧縮機を備えており、機関車からの給気を要しないように改造してある。
イ 50系客車で組成した列車(50系客車とマニ50形式客車で組成した列車を含む)
ウ 列車設定の際指定した列車 >>270
>ただし、回送列車又は短区間を運転する列車等で列車設定の際、指定した列車は連結しない。
これはなに。「空気ばねが動作しなくても走行に支障はない」らしいからいいのかw >>271
そういう解釈以外ないよね
>短区間を運転する列車等
これは関門間だけ担当する機関車の連結時とかが該当するな
短区間であればたとえ繋がなくても空気バネが動作するだけのエアが供給空気ダメに十分残ってるだろうから 多勢自演も含むと思うが
また吊るし上げか。
ここの常在民はドキチだよ 前に書き込んだけどね、昭和47,8年頃
70近いバア様が鹿児島に帰る時に母親と
東京駅まで見送りに行ったんだけど
20系の雰囲気が怖くてね、電源車のごう音
とか、ドアのステップ燈?とか、寝台車=
死んだ車の響きとか。怖くて車内に入れなかった。でもバア様は満面の笑みで帰って行った。
若い頃満州にいて1000キロ2000キロの座席車での移動などしょっちゅうだったろうから
20系での移動などは天国みたいなものだった
のかなあ いや究極は昭和20年のソ連国境近くからの
引揚で氏名偽っての命懸け。多分貨車かなんか
だったろうし、いつロシア人や朝鮮人から
乱暴狼藉収奪されるか分からない決死行
だったらしいから、例えナハネであっても
極楽極楽だったろう。 自分から言い出したことへの疑問は突き放し、ルールを出した人にはレッテル張りしてるようじゃ、以後何を言おうが説得力はない 運転作業要領だが、客車列車の組成の項には下記のような記載がある
12系、14系又は24系客車と貨物車(12系、14系又は24系客車と同等のブレーキ装置を備えた貨物車を除く)とで
列車を組成するときは、客車を列車の後部よりに連結すること。
上記の組み合わせの場合は共にBP引通しによるブレーキ方式の車両だが、ブレーキ性能が極端に違うので規程で組成の
際の連結順序について制限をかけている
つまり、自動ブレーキを使用して運転する列車で、ブレーキの応答性能が異なる車両を連結する場合は、応答性能が良い
車両を列車の後部よりに連結した方が列車として安定して走行できるということを示している
これを踏まえると>>243にある「機関車+AREB付20系+10系客車」の編成は、SGの引き通しの有無は別にしても安定走行
の観点から可能な限り避けるべき組成順序ということになる >>272
冗談かと思ったら空気バネに空気無しで支障ないとか本気で言ってるのか
>>277
14系や24系のCLと違って、20系は電磁弁と増圧使わなきゃいい話
そもそも 示している の部分は持論だよね。上の空気バネもそうだけど勝手な解釈がプラスされてるんだよね
それがダメなら12系+20系も毎回方転しないといけないし、50系+旧客はどっちが後ろだったんでしょうかね
転配なんかで電車や気動車を貨物ぶら下がりにしてたのは、連結器や車両の強度が理由って聞いたような
気がするけど、新系列客車もそれが理由じゃないのかね。
そろそろ自称中の人が現れて解決してくれw >>278
空気バネが故障したときに規定により速度制限がかかる車種がいくつかありますが、あえて書かないでおきますね
なお20系や12系、14系、24系はその中には含まれておりませんのであしからず
勝手な解釈というなら、それを否定する相応のソースを出せばいいだけの話ですよ
>>277を勝手な持論だというのなら、それを否定する根拠を示せばいいだけの話です
12系と20系で組成の順序に制約が出るだろという事は、ブレーキ性能に極端な差があると認識しているということで
しょうから、その根拠を示した方がよろしいかと思いますよ
50系+旧客の編成順序についても触れてますが、その制約はブレーキ性能の違いとは全く別の理由ですよね?
>14系や24系のCLと違って、20系は電磁弁と増圧使わなきゃいい話
それは前よりにつなげばAREBを使えると言った>>243に言ってください >勝手な解釈というなら、それを否定する相応のソースを出せばいいだけの話ですよ
重複につき行ごと削除で >転配なんかで電車や気動車を貨物ぶら下がりにしてたのは、連結器や車両の強度が理由って聞いたような
>気がするけど、新系列客車もそれが理由じゃないのかね。
電車・気動車と機関車・客車・貨物車を連結する場合の制約についても規定で定められてますが、全く違いますね
あえて書きませんが シッタカがドヤ顔で自説披露を競い合うスレになったのはいつから? >>279
243も278も自分なんだけど、併結できるって書いただけでAREB使うって書いてないんだが
ブレーキに差があって安定した走行できないって言ってるのはおまえなんだが
ブレーキに差があったら安定して走行できないから避けるのに、空気バネに空気供給できなくても走行するんだね
勝手に解釈して思い込んで発狂する癖があるんだね
あえて書いておきますね ソースも示さずに感覚だけで発狂してるアホはもうスルーでいいよ 66あさかぜくんといい、気持ち悪い人のすくつ(な ですね。 >>285
とうとう横軽の知見と対策を根本から否定することまで言い始めたようですし、それがよさそうですね
過去の苦い教訓から定められてる運転のルールを無視して独自の持論を展開し続けるとか、知識が土台から全く異なる方のようですので、あとは傍観することにします ひょっとしてここの住民って当初の20系客車の空気バネのエアは制動用のエアと共用していたけど
カーブだらけの区間を走ると空気ばねにエアーが取られて制動力が落ちるという問題が露呈したから
AREB化改造時に仕様がごっそり変更されていたことを知らんのか…? ・空気バネに空気いれなくても走行に支障はない
・自動ブレーキでエアー取られると制動力が落ちる
現代は凄いことになってるな。時代は流れてる >>288
解ってないのは意味不明なことを言っている直近の約1名だけな 紀勢線を12系が走るとき
やはり揺れで空気ばねが
やたら空気を食うから
BPの供給だけでは追い付かず
MRも繋いでいたって話あったよね >>291
12系は空気バネのエアの供給元はBPじゃなくてスハフ12に搭載のコンプレッサだぞ 話題を変えるけど
20系の通常編成は結局完全な自動ドア化がされなかったけど
後から自動ドア化できなかったのだろうか >>294
まだ緩い時代だったし、14系24系で置き換えれば十分だったんしょ >>294
出来ないことはなかったけどやらんかっただけやろ >>295
東北・上越新幹線開業するまで上野口に旧客の定期運用が多数あったしね >>293
残念
例外もあったのだよ
これは機関車側からのコラムだが
しっかり紀勢線の12系の事が書いてある
http://i.imgur.com/Loy168J.jpg >>298
もともと12系の空気バネのエアはスハフ12のコンプレッサからMR管を介して各車へ供給される仕組みなんだから、
>>293はBP管経由というのを否定しただけでEF58からMRへの並列供給については別に否定してませんが 紀勢線の58をP型改造したのって元々は50系が投入予定だったからの様な。
結局は12系が余りつつ有ったので12系になっちゃったと。
紀勢線の普通客車って4〜5両だったから12系のCPで充分な気がするんだけどね。まぁ初期型が多数居たから足りん可能性は有るかも知れんが。 655 名前:名無しさん@線路いっぱい[sage] 投稿日:2017/05/20(土) 00:31:17.79 ID:AH2EaRin
紀勢本線 12系1000番代
ttp://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/017/226/763/a44f21ad89.jpg
ttp://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/userstorage/000/017/226/764/38331a3f92.jpg
ttp://a-kato.sak●ura.ne.jp/sblo_files/rail/image/EF60508.jpg
ttp://jnr-photo.com/EF60/EF60500/ef60504d.JPG
ttp://www.jnr-photo.com/EF58/ef58147a.JPG
ttp://www.kanorail.com/EF58/EF58170_118-17N.jpg
ttp://www.kanorail.com/EF58/ef58147koza106_20N.jpg
ttp://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-9c-92/mototetu104/folder/291548/88/1721588/img_0?1174820325
657 名前:名無しさん@線路いっぱい[sage] 投稿日:2017/05/20(土) 00:50:18.03 ID:AH2EaRin
興味深いのは国鉄時代の竜華の配置
1000番代はスハフ12-1000とオハフ13-1000だけでオハ12-1000の配置が1両もない >>288
20系の主要設計変更点と改造点(RP No.444)より
さくら用(33年度債務負担) ※ASブレーキ車
・空気バネがパンクした状態で高速走行を行っても安全性に問題ないことがわかったため、空気バネ警報装置を撤去した。
・バネ用空気ダメの圧力低下を防止するため、小型電動空気圧縮器(ベビコン)を荷物車以外の全車種に取り付けた。
41年〜42年 20系全車にAREB化改造実施
・供給空気ダメ圧力を高めるためMR管(元空気ダメ管)の引き通しを併施した。
あけぼの用(44年度3次債務) ※AREBブレーキ車
・MR管の使用が可能となったため、圧縮空気を空気バネに送るための小型空気圧縮機を撤去した。
51年〜53年 カニ21のうち18両をカヤ21へ改造
・空気バネ等に圧縮空気を供給する必要があるため、救済措置として電動空気圧縮機C3000A(181系電車の廃車発生品)
をカニ21に搭載して元空気ダメ管に圧縮空気を供給できるようにした。 >空気バネがパンクした状態で高速走行を行っても安全性に問題ないことがわかったため、空気バネ警報装置を撤去した。
AREBクンの知ったかが改めて裏付けられた形だな
MR供給によるベビコン撤去まで書かれてるし >脳味噌幼稚園児の新説かな?
結局>>256のこれは壮大な自己紹介だったわけだw >>305
それじゃ「よんさんとお」前後の20系特急全盛期には空気ばねパンク状態で
95キロ運転していた列車がたくさんあったんだね。
寡聞にしてそんなの乗ったことないからどんな乗り心地だったの、教えてよ。 空気ばねパンク状態で95キロ運転していた列車がたくさんあったなんて
寡聞にしてそんなの聞いたことないからどこから聞いたの、教えてよw いつか書いたんだけど昭和49年夏休み、
あさかぜ51号東京から乗って小倉だかで
降りた時に最後尾のナハネフの尾灯の
周りに金属の赤い輪っかがついていたのが
強烈に印象に残っているんだけど、
六歳児の記憶違いかなあ。
臨時用に盛アオ車が使われたことも
あるらしいけど、回送の時使われた輪っかが
そのまま付けられて運用されたなんてことは
ないかな? 画像で見ると初期車のナハネフ
は輪っかが青く塗りつぶされてるようにも
見えるんだけど。因みに自分が乗ったナハネは
通路の天井が有孔ボードみたいになってた。 これだけソースを示されても素直になれないところは正に脳味噌幼稚園児だなw あさかぜ51号 で検索すると出てくるサイトに
49年8月の時刻表載せてる方がいるけれど、
あさかぜ51号が出たすぐあとにディーゼルの
急行が2本続いてる。いい加減な母親だから、
折尾までなのにこのどちらかの急行に乗っちゃって、車掌に何か言われてた記憶が蘇った!
素直に急行料金払ったか、子供三人連れてた
母親に車掌が同情して誤乗扱いで折尾まで
乗せてくれたかは定かでない。ただ母親弁護
すると筑豊線沿線民は小倉からはディーゼル
に乗ればよいという感覚がある。スレ違いすまん。 >>310
あの円板は昭和40年に規定改正で要らなくなったらしいけど
9年たっても着いてるのがあったんだろうか? >>313
S40年代には見てないね
40年代初めはまだあったにしろ
49年どうだろう 310ですが検索してたら、例の円盤は、
折り畳み式で折り畳まないと赤色で列車
最後尾を示し、折り畳むと車輌のまわりの
色と同じ色になる、とあります。
昭和40年の規定改訂で普段折り畳んだまま
で運用していて検査や塗り替え時も赤い
部分はそのままにしていて当日何らかの
理由で折り畳まない状態になったとは
考えられないかな。関係無いだろうけど、
あさかぜ51号は東京駅機回しではなく、
神田側からホームに入線してました。
今の小湊鐵道のキハ200の円盤見ても
ああこれこれ、と思うから間違えないと
思うんだけどなあ >>311
空気ばねパンク状態の列車が走り回ってたソースもついでに教えてよ。 脳味噌幼稚園児クン、今度は自分から言い出したことのソースを他人に求め始めました
決して 途中送信スマン
決してこの方には関わらない方が良いかと思います
時間の無駄ですから >>310
あの円盤が付いてないと20系客車に見えないと自分は思う。
差し当たりそう思うのは20系だが、人によっては他の車輌も挙がるだろう。 はい、キハ20とかも味がありますね。
昭和49年頃のあさかぜ51号はナハネフ22 501
とかナハネフ20 3とか、昭和33年製の最初期車があさかぜに出戻っていて面白いですね。 ナハフなどの当初からの座席車は20系定期運用終了まで使ってもよかった気がする >>118
国鉄高砂工場で旧型客車を吊り上げたら
豪音をたてて崩壊したって言うのがあったな >>325
全金ですらない、内装はハードボード(木くずを固く板にして表面に化粧フィルムを貼ったもの)が標準。
火をつければよく燃える。 >>326
そうなんかビックリ
そういや北陸トンネルもこれだっけか ホリデーパルにナシ20を使用する話がどこかのスレにあったけど
それは本当なんだろうか 1977年10月の運用離脱後も最終増備の25〜29が下関に居たはずだけど
1981年夏運行の駅STATION号にも使われてないし
整備費用の問題があったのかも >>328
当時のRJ誌のトピックス欄に
「広鉄局が20系を改造して団臨専用車を云々」というニュースが出ていたとき
「ナシ20をサロンカーに‥」と書いていた記憶が
(厨房だったが「ナシ20なんて残ってるのか?」と思ったのでなんとなく覚えている) ナシ20の連結期間より
食堂車があまり連結されなくなってきたころの
オシ14・オシ24・スシ24の連結期間の方が長いんだよな >>328
広鉄では1977年10月以降保留車(厚狭駅疎開留置)になっていたナシ20(21.25〜29)から改造する計画だったが本社の許可が下りず代わりに当時南シナで予備車に余裕のあったオシ14を回した次第。 >>326>>327
昭和46年(1971)下り雲仙2号火災事故、ナハ10 54全焼が実例。当時ニュースで視て余りの焼け方に驚いた。 ハードボードとはよく安い本棚に使われているMDF材の一種かな?
床の下地材で高密度の堅くてくっそ重いボードなら今でも普通に
住宅建材としてあるね >>322
新幹線開業で、座席車利用客を新幹線に誘導するために寝台改造した。全車寝台化はそれがきっかけ。
しかし昭和50年代から国鉄が値上げを繰り返し、寝台特急の利用率が振るわなくなったのは、
全車寝台化で設備の選択肢がなくなった原因があるので、確かにそれはある。
特に昭和55年10月改正以降、山陽本線の夜行列車が寝台特急オンリーになったが、
九州方面のワイド・ミニ周遊券の移動ルートは山陽本線に限られていたので苦難があった。 >>331
ナシ20はあさかぜに始まり、あさかぜで終わった期間が1958年10月〜1978年1月なので20年足らず。
オシ14は1972〜1999年、オシ24は1973〜2006年、スシ24は1988〜2015年なので、確かにw >>336
ナシ20はその後に臨時などにも連結されていたこともないからな
ちなみにスシ24は1987年に数回団体列車に使用されて
2015〜2016の特別なトワイライトエクスプレスでも使用されていた 1970年までナシ20の増備しておきながら
1975年3月改正で東京口以外の食堂車連結廃止で余剰車大量発生
落成から7年で廃車とか酷いのもある >>331>>336>>337
スシ24の種車は1971〜74年製造だから、もっと活躍してる
サシ489-4→スシ24 2が最長で45年間活躍
(白山廃止〜改造まで2年半ほど休車だが) >339
サシ489がスシ24に改造して、結局45年も使用されたのは、
新車導入となると、保健所に最初から手続きし直しとなり
それが面倒だったからではないかな。 >>340
ただ単に新車なんて作る状態でなくて
オシは一応使ってて余裕ないから
サシ489から無理矢理作っただけ ここは20系のスレなんだけどな
20系の食堂車は、基本構造はオシ17型と大差ないもので、電気レンジと、業務用冷蔵庫が設置されていた。
昭和30年代、冷蔵庫の普及率はわずか1%。今や生活に欠かせない冷蔵庫ですが、
50%を超えたのは10年後の昭和40年。さらに10年後の昭和50年になって、ようやく1世帯に1台になります。
昭和30年代当時、冷凍食品は今ほどメジャーじゃなかった。 冷凍食品とセットで使われる電子レンジが本格的に普及するのは、1980年代以降です。 >>338
ナシ20は1両も他の車両に改造された車両がないんだよな
その上にあさかぜ運用終了後に営業はしなくても臨時列車や団体列車に連結されたこともない 初の完全電化食堂車だよね
従来は氷冷蔵庫に石炭レンジで運用が大変だったみたいだしね
電子レンジに関してはオシ16やサハシ153の功績だからスレチかな 大いなる驀進で車掌と列車ボーイが食堂で
超大盛りのカレー食べてるシーンがあるけど
実際に食堂車って食材を余裕のよっちゃんで
たらふく積載してたんだろか? >>347
まかないは本来ならハチクマライス
だろ? >>346
20系客車は当時の最新技術を投入した冷暖房完備のハイテク客車だからな
しかも当時「車内でビフテキ(死語)が食える」これだけで有り得ない
そりゃ利用者多数の人気列車にはなるだろう
・・・信じられないかもしれないが、1958年当時の家庭用冷蔵庫の普及率は、3%。
1955〜1960年頃、家庭で食べるご馳走の代名詞と言えばすき焼きだった。
要するに、牛肉や豚肉というのは、かなりの贅沢品だったのだ。 このドアは半自動です
開く際にはレバーを引いて下さい >>349
>信じられないかもしれないが、1958年当時の家庭用冷蔵庫の普及率は、3%。
家庭と比べても意味ないけどな
あくまで食堂なんだから >>349
戦後は電気冷蔵庫はともかく、氷の冷蔵庫はあったでしょ
氷屋が毎日来ていたって話を聞いた時は驚いた。 カニ25はカニ21の後期車を使用していれば
もっと長く使用できただろうな 1975年3月改正で分割併合がある明星・あかつきを25型化することになり、当時構想があった15型を1978年10月改正で投入するまでの
繋ぎとして、マヤ20と同様の位置付けで2両だけ改造されたんだから、最初から長く使う気など全くなかったでしょ
運用・保守する側から見れば異端車は種類も数も少ない方が良いに決まってるんだし >>355
位置付けはマヤ20と同じでも実際の使用ではカニ25もカニ(カヤ)24と同じく本務電源車としても使われたのがマヤ20との違いだね。 >>357
マヤ20は1963年11月に臨時あさかぜの電源車として東京まで上ったことがある >>346
20系の食堂車の登場で一番の恩恵を受けたのは西鉄ライオンズのナインだった。
大阪に移動した西鉄ライオンズの選手、長時間の移動となれば、腹が減る。旅と言えば駅弁だが、10時間の長旅で出されたのは、人造米の駅弁1つ。人造米は、麦やとうもろこしなどのでんぷん質から作った米状の食品で、米ではない。
衛生管理が今よりもずっといい加減だった大昔、球団からは「車中買い食い禁止令」が出ていた。
変なモノを食べて腹を壊すのを防ぐためだが、ある遠征で豊田泰光選手が球団から出された弁当だけでは腹が減ったから、こっそり下関駅で途中下車し、うどんとかまぼこを頬張った。
それが原因で、食中毒に。翌日の試合には何とか出場したものの、腹が痛くてはプレーに身が入るはずがない。結局、試合に負けた。
電気冷蔵庫がある20系登場で「車中買い食い禁止令」は解除された模様 >>360
鶴見事故による途中折り返しで沼津特発となった20系みずほと20系あさかぜが追突事故を起こし双方の車両が破損
この追突で被災を免れた20系車両を組み合わせて「あさかぜ」として運転したが、その際に電源車として組み込まれて上京 >>362
昭和28年(1953年)、米の配給不足と国民の栄養失調を補うために「人造米」が出回るようになった。
これは小麦粉やでんぷんなどを混ぜ合わせ、米の形に整えたもの。
米価格の高騰などから一時は普及したが、その後、安定して米が供給されるようになると、
食卓におけるシェアは次第に縮小していった。 >>362
そりゃ、今とはまるで時代が違う
昭和33年、厚生省が「栄養白書」の中で日本人の4人に1人が栄養不足であると発表した。
当時の日本はまだ貧乏国だった。 米の形にわざわざするのが凄いよな
団子かなにかの形で主食すればいいのではと
思ってしまうが、精神的にご飯粒にこだわったんだろか >小麦粉やでんぷんなどを混ぜ合わせ、米の形に整えたもの。
その手間を考えたら米を作る方が経済的、効率的な気がするんだが(笑)
現代人の感覚か… >>357
>>360
カニ25は向日町に転属して本務電源車を担当することもたびたびあったからな >>369
米が欲しい時に機械やなにかから米を作れるのなら苦労はしねえわな。 >>370
1両だけな
もう1両は改造後3年で廃車 カニ25-1は結果的に20系一族の中で定期の特急運用についていた最後の1両ということになるのかな? >>374
昭和55(1980)年10月最後の20系定期特急あけぼのが24系化後も彗星.明星に運用され奇異な運命だがそういうことになりますね。 >>375-376
カニ25になったとはいえ元は20系だからな 「20系」じゃなく「20系一族」だからな
と言うことでおkなのかな? カニ25-1
ttp://blogs.yahoo.co.jp/vgb3dx/62926784.html
1981.7.26 6028レ(明星4号)大阪駅
ttp://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-01-96/vgb3dx/folder/1561094/84/62926784/img_0?1412322882.jpg >>379
当時俺はカニ25は25形用の電源車と思ってて雑誌で実車の写真見てナンジャコリャと思ったのを思い出す。
カニ25という形式はカニ24-100が名乗ったらしっくりくると思ったね。
1981年ということはテールマークは絵入りになってるはずだけどカニ25は文字のままなんだな。
でもこの明星、なんか手書きというか手作りチックな感じ。
ついでにいえばこの当時関西〜九州ブルトレの25形使用列車でカニ24が使われてるのは見たことない。
カヤ24もしくはこの画像のようにカニ25がデフォだったのだろうね。 コロタン文庫のブルートレインの本を買ったのが1981年
大阪にカニ25なんてあるんだーと思いつつ未だに走ってる
ような気がする。しかし粗末なテールマークだね。絶縁テープ
でも貼り合わせて書いたの?みたいな。
昭和35年の初期車の貴重な生き残りではあったわけだが あとマヤ20が包帯巻いた日本軍の傷痍軍人みたいに見えて
痛々しいと思うのは俺だけ? >>368-369
現代でも米粒状の擬似ライス(コンニャク)があるんだから、
時代ガーってのはちょっとちがう カヤ21には一部しかJRマークが付けられなったけど
なぜなんだろうか >>384
解体するのかな?
それとも、どこかで保存? >>385
民営化にあたって車両に対するJRマーク貼り付けの指定リストに入ってなかったから >>386
もう車体がボロボロだろうから
運び出せないだろうし
展示するにも内装が完全に違うから
資料にもならないし
解体するにしてもアスベスト使ってるから
普通に解体するのとはわけが違うからな
難しいね >>388
JR東海だけ後年崩壊した
113系で一回り小さいJRマーク(他のJRはスカ色に合わせて大きさを決めてたため湘南色では塗り分け線と被った)とか新幹線で大型JRマークやめて小型JRマークとか >>335
単純にブルートレイン増発による「20系」寝台車の不足からだと信じていたが。 >>338
急行用の座席車に改造とかもできなかったのだろうか 運用の都合で最近もたまにあるやろ
山手線の6扉車とか >>338>>394
落成から7年で廃車=ナシ20(22.23)昭和43年大ムコ新製配置 昭和47年10月盛アオ転属。昭和49年ゆうづる、あけぼの食堂車欠車処置により取り合えず広セキに転属するが転属後は一度も運用されることなく昭和50年廃車。 >。394
'75念の時点では急行に転用とかまだ考えられてなかったのではないかな
座席車に改造と言うが足回りは流用出来るけど車体はほぼ新製になるし >>335 >393
当時の鉄道関連の雑誌で、新幹線との料金のバランスをとるためという
記事があったと思う。
要するに在来線夜行特急の実質値上げによる増収策に他ならない。 >>397
75年当時20系の急行転用を躊躇したのは比較的短距離の北陸.北星.安芸(音戸)を特急に格上げしたことで明らかだろう。. >>400
最初から食堂車を組み込まない形での20系特急新設はこの時が最初で20系を使った特急新設の最後となった。 >>402
始発が大体21時から22時台で到着が6時から7時台従来ない形の短距離寝台特急でした。 ナハネの53cm幅って自分の布団で測ってみたが狭いなw 片側は壁だし圧迫感がハンパなかったはず。
でもデビューから60年代にかけては、これでも冷暖房完備だし若干座高も旧型よりはあったから
特急車両として君臨できたんだろうな。。 つるぎは食堂車連結してたが営業してたんかね?
当時の時刻から推測すると上下とも直江津―新潟の2時間くらいしかないけど >>405
20系当時のつるぎは日本海と共通運用の盛アオ所属車。食堂車は営業休止で当時20系特急で唯一食堂車非営業だった。 >>404
「列車で横になる」と云うことがいかに贅沢であったかー当時の国鉄の輸送事情、時台背景を理解しないと20系や10系の52センチ寝台を正しく評価は出来ないだろう。 押入暗室というのもあってだな。焼付けすると薄暗い赤い光の中で
印画紙にナハネフの丸っこい尻が浮かび上がって海坊主の幽霊かと。
モケットにこぼれた酢酸が染み込んで酸っぱい匂いするけど
まあ気にしない。 天井にファンデリアの出っ張りが無くて広々としてる
中段を上に跳ね上げて収納し背もたれは別途設置されてるから、着席時に52cm幅をフルに使える
通路に簡易椅子がある
10系ハネと20系ハネの接客設備の違いはこんなとこかな
これにプラスして遮音性の高さと空気バネによる乗り心地の良さ
急行転用になかなか踏み切らなかったのも頷ける 10系は窓が開閉式だったからね
遮音性の差は大きいな 特に10系ハネの通路側は下降窓だったから雨水腐蝕で末期はボロボロだったなw >>404他
3等寝台というものは戦前から幅52サンチ
20系製造段階の概念が単にまだ従来のままだっただけ
幅52サンチでは狭いという風潮になってくるのはもっと時代経てから 戦後第一世代の二等寝台車スロネ30の二段寝台の幅が確か60cm
それを考えれば52cmは妥当、と言うよりは輸送力増強が至上命題の昭和30年代初頭に座席より定員の少ない三等寝台を復活させたのは英断という他ない 今の国際線で言うビジネスクラスとエコノミークラスのあいなかみたいなもん >>417
スロネ30の下段は55cmしかなかったんじゃないかな 昭和42年に電車寝台の581系がデビューして、その2等寝台の居住性においては
従来の客車ハネを凌ぎ、1等寝台に引けをとらないサイズで、サービスの「ねじれ」?の
ような状態が出来上がったんだろうか。。当時の評判については知り得ないので。 いや、そうだよ。だから当初からずっとロネが作られなかった。
(583「きたぐに」充当時にハネ改造でロネは一応は誕生したけど、
それはまた別の理由からなので) >>422
昼間のリクライニングシートと夜間の寝台を両立する方策=583系での本来の1等寝台は企画としてはまとまりそうだったという話があったな。
でもリクライニングシートとベッドの両立は今で言うなら飛行機のファーストクラスやビジネスクラスにあるようなフルフラットを思い付くからアイディアとしてはこんな感じだったのだろうか。 >>423
14系化の時にA寝台を望む声があったんだろ
対して夜行だいせん20系化でA寝台とG車が無くなってるけど
こっちは望む声が無かったのかも >>423
あれかな?
役人が出張する時にA寝台料金で請求出来るからかと。実際は分からんが。 初めて乗った20系は、昭和49年「瀬戸」のナロネ21。今思うと、乗り心地や車内の静粛性は
14系や24系よりも優れていたことは断言できる。 ロネはとうとう一度も乗らず仕舞でしたわ
20系のハネも末期の臨時「ざおう」上野−山形間で乗っただけ >>428
スハネフ14はキハネフだからなw 14系はデビュー間もなく「きたぐに」の火災事故のあおりで
分散電源の問題性から、2年経たず(かな?)製造中止の憂き目に。。閑話休題 開放ロネなら乗ったこと有るけど、冬に乗った為に座席下ヒーターの熱がこもってサウナだった印象しか無いw 自分もロネは乗れなかったな
小岩井農場でホッテル利用されてた時もそっち方面へ旅行する機会が無かった
ナシは弁天町時代にまだ食堂として
予約無しで普通に利用出来た時にいけて良かったけど 20系ハネは親に無理いって自分だけ新星に乗せてもらった。親はひばりで先に帰って。
ナロネはないな。だいせんのナハ21に乗ったくらい。
だいせん、DD51と相まって引きだしは綺麗だったけど、走行はそれほど静かじゃなかったな
ブレーキはASだからジャーいうし。
ナロネ21、60.3で終わりだっけ。銀河、おが、天の川くらい?30年以上前だし、この辺に
なると乗ったことある人少ないだろうな >>433
制動時のジャーって音はブレーキシステムの問題じゃなくて
制輪子が鋳鉄だから鳴る
20系ができた頃はレジンシューが無かったから 制輪子だけの問題でもないんだよな。
同じ頃、北海道で14系乗ったけどあんな音しなかった。旧客と20系、あと国鉄キハや80系みたいにA弁だと派手な音がする 40年以上前の昭和51年(76年)の24系25型の2段B寝台ですでにナハネ20の命運は尽きていた。
昭和33年(58年)デビューだから、いちおう「新世代」特急用3段式B寝台は20年持たなかったわけだ。。 >>437
私見だが1970年の大阪万博による経済への影響が大きいかな
14系/24系の70cm幅3段式B寝台の製造期間は試作込みで僅か2年
20系最終増備から25型1次落成まで3年半しかない >>437
24系25形の登場は昭和49年4月、20系時代の終わりと言う事を考えるとやはり新幹線博多開業がターニングポイント。同改正で24系24形の東京進出で転用された20系新設特急も急行を無理くり格上げしたような列車で20系時代の終わりを感じさせるものだった。 >>440
北星、北陸、安芸(音戸)の格上げは20系の値打ちを下げたな。
特に安芸。 >>441
同改正であさかぜからナロネ20.ナロ20が外れた事が一番象徴的だか北陸.北星.安芸の3列車、名目は特急だが従来なかった短距離で実質的な急行格下げ感を否め無かった。 >>442
ナロネ20やナロ20を外したのは需要が減ったからだろうけど
新幹線や飛行機に次第に転移していったからだしな。
そうするとその後の値上げも含めて、相対的に高くなってくるんだな >>443
ナロネ20を外したのは部屋売りではなかった2人個室の売り難さ解消の為。ナロ20は並行新幹線との料金バランス。ナロ20普段は満席になることは稀だったけど上りの博多〜岡山間は7割くらい席が埋まってた。最終つばめの後の唯1両の対本州行き座席車。 >>444
博多発で
16:00 つばめ8号 岡山
16:58 あさかぜ2号 東京
のあとの583系を忘れてるよ
18:53 金星 名古屋(広島23:07)
20:05 明星1号 新大阪(広島0:22)
21:03 明星2号 京都(徳山23:53)
23:45 月光1号 岡山
0:08 明星3号 京都
急行なら
18:45 つくし2号(座席車は普指のみ) 新大阪
19:13 阿蘇 名古屋
19:27 西海1号 大阪
20:24 桜島 東京
22:14 雲仙2号 京都
3:38 屋久島2号 大阪(これは苦しいか)
もある >>444
その後のオロネ25で2人個室が設定されなかったのはナロネ20での2人個室の売り難さを踏まえた結果だろうか。 金帯あさかぜで壁側同士の部屋にドア付けて2人個室に出来たよね >>445
スマン!つばめ8号の後の岡山日着を追加。 >>447
旧一等寝台車も区分室だから2人室、4人室とも部屋でなく寝台単位で発券じゃなかったかな
(富士用のマロネ38にあった特別室は部屋売りとされるがそれこそ要人用だし) >>446
そうですね、ナロネ20の2人個室は部屋売りでなく寝台売りでしたからね。2人個室の部屋売りはスハネ25ー700のデュエットまで待たれることになります。蛇足ながらナロネ20の2人個室は4人個室になる構造になってました。 3等級制時代なら相部屋でも顔見知りの場合があったのかも
1・2等は特権階級が利用するモノだった訳だし >>453
リクエストに応えて
6:27 つばめ1号 岡山
7:30 つばめ2号 岡山
7:50 玄海1号 岡山
8:15 まつかぜ2号 山陰経由新大阪
8:23 つばめ3号 岡山
9:30 つばめ4号 岡山
9:42 玄海2号 岡山
10:28 つばめ5号 岡山
10:40 つくし1号 大阪
10:44 さんべ1号 鳥取
11:26 はやとも 広島
11:33 つばめ6号 岡山
11:52 つばめ7号 岡山
12:53 なは 大阪
13:00 かもめ 京都
13:52 玄海3号 岡山
15:03 あきよし 浜田
15:39 出島 呉
16:00 つばめ8号 岡山
16:58 あさかぜ2号 東京
17:33 あさかぜ3号 東京
18:02 はやぶさ 東京
18:35 みずほ 東京
18:45 つくし2号 新大阪
18:53 金星 名古屋
18:58 さくら 東京
19:13 阿蘇 名古屋
19:27 西海1号 大阪
20:05 明星1号 新大阪
20:17 あかつき1号 新大阪
20:24 桜島 東京
20:54 あかつき2号 新大阪
21:03 明星2号 京都
21:15 あかつき3号 新大阪
21:34 あかつき4号 新大阪
21:48 さんべ3号 米子
22:14 雲仙2号 京都
23:17 あかつき5号 新大阪
23:45 月光1号 岡山
0:08 明星3号 京都
0:17 あかつき6号 新大阪
0:51 あかつき7号 新大阪
3:38 屋久島2号 大阪 >>454
昔の特に一等は上流階級の社交の場でもあったからね
戦前の日欧はそうだったし、欧は比較的近年までそういう雰囲気が残っていた
一方アメリカ人はマイネ40の二人部屋を嫌った
見ず知らずの人と一緒になるのはイヤだと言って
一等は上流の社交場という意識が薄い >>452
JR化直前のデュエットとツインデラックスまで2人用寝台個室がなかったな
部屋売りだと4人用のカルテットが先に出ていたけど 昭和50年3月改正寸前まで、国鉄が安かった頃だがナロネ20を筆頭に優等車両の料金も
ずいぶんリーズナブルになってたと思うが、当時の庶民のレジャーや旅行等への平均的な
可処分額、散財できる額の比率としてはどうdあったんだろう? やっぱ高いっちゃ高かったのかな? >>459
1.2等制からモノクラス制になってからAネ.グリーン車は利用しやすくなったとは言え、新幹線博多開業直前を考えても一番高い二段寝台料金1600円に対しA寝台.2人個室の下段4200円上段3800円1人個室5400円は高かったね。 >>455
当時の時刻表からの拾い出しお疲れさまでした。この時代 福岡市内のタクシー運転手さん東京行関西行の寝台特急の発車時間を普通に知ってる人が多かった。 >>460
あ〜、さすがに個室となると当時でもやっぱ別格だねw
料金だけで5千越えなんて、当時の金銭感覚だと相当な奮発だったはず。。 >>462
因みに当時の羽田〜福岡の航空運賃 片道19500円往復35000円、東京〜博多ナロネ20.22の個室を利用してもはるかに安かった。 鉄道もそれだけ安ければもっと需要があったんだろうな。寝台も。
たた、政治絡みで安くされたままで赤字になってた事実があるしな。 >>465
当時の普通列車のグリーン料金51キロ以上一律300円。大垣夜行のサロ165が驚異的な盛況だった時代。 急行の場合、自由席の二等(旧三等)は席の確保が大変なので、指定席の一等(旧二等)を選択する人が結構いたという話 >>455
早朝から深夜まで博多駅が楽しかった時代ですね。
客車ファンにとっては16時58分のあさかぜ2号を筆頭に寝台特急、急行列車群が相次いで発着する光景はしびれますね。 折角なので下り到着も
4:12 あかつき1号 新大阪
4:28 あかつき2号 新大阪
4:48 あかつき3号 新大阪
5:15 きりしま 京都
5:35 明星2号 新大阪
5:49 桜島 東京
6:10 あかつき4号 新大阪
6:16 雲仙2号 京都
6:28 あかつき5号 新大阪
6:36 月光2号 岡山
6:50 西海1号 大阪
7:13 あかつき6号 新大阪
7:33 さんべ3号 米子
7:44 あかつき7号 新大阪
8:02 明星3号 京都
8:22 明星4号 新大阪
8:57 さくら 東京
9:11 はやぶさ 東京
9:31 みずほ 東京
9:40 阿蘇 名古屋
10:11 金星 名古屋
10:30 つくし2号 大阪
10:51 あさかぜ1号 東京
11:21 あさかぜ2号 東京
12:20 あきよし 江津
13:37 つばめ1号 岡山
13:44 出島 呉
15:15 なは 大阪
15:20 玄海1号 岡山
16:42 かもめ 大阪
17:15 つばめ2号 岡山
18:12 つばめ3号 岡山
18:23 つくし1号 大阪
18:41 さんべ2号 鳥取
19:36 つばめ4号 岡山
20:15 玄海2号 岡山
20:40 つばめ5号 岡山
20:50 まつかぜ1号 大阪(山陰線経由)
21:16 つばめ6号 岡山
21:24 はやとも 広島
21:35 つばめ7号 岡山
22:12 玄海3号 岡山
22:37 つばめ8号 岡山
1:21 屋久島1号 大阪 >>471
上りも下りも一日中楽しかったね。いい時代でした。 20系の座席車のみで編成を組んだ昼行客車特急というのも想定されていたのかな >>473
151系電車以前に検討された高速客車特急がそれに当たるのでは?
電源車連結で全車冷房完備の >>474
20系のような車体にはなってなかったろうから
見た目的に20系の座席車のみ編成って感じじゃなかったんじゃないかな? たまに京成電車に乗って標準軌の乗り心地
を味わう度に日本に標準軌上の寝台列車の
文化が育たなかったのを残念に思う >>473
20系が計画された当時の時点で昼行は電車、夜行は客車と云う方向が示され20系の座席だけの昼行運用は全く考慮されていなかった。 >>455>>471
新幹線博多開業直前の在来線特急.急行群の最後の華の姿ですね。寝台特急.夜行急行群も最後のピーク。 >>475
というか、474がいってるのをベースにして夜行にしたのが20系だから。東海道線全線
電化時にEH10の高速化したEH50使って10系ベースに電磁ブレーキ、MG積んだ
電源車に展望車の固定編成をやろうとしたけど、その前に島技師長になって昼行は
電車特急を開発。まぁ10系ロやシは20系と似たようなもんだから、座席特急作ってたら
そうなってたんじゃないの。EH10に20系のハとロとシにカニ22にマイテ30、色は青大将で >>480
>まぁ10系ロやシは20系と似たようなもんだから
これは違うと思うなあ
似てるの20系のコピーのオロネ10だけだろ >>474
昔のセマウル号だな。
電源車はマニ20似で客車の屋根上にキノコクーラー。 座席の20系の客車列車。。。
使用許諾得るのがめんどくさくて適当にブルートレインっぽくつくったガムのおまけみたいだな。 最後のロザを潰して数年後にハザが必要になる
先を見通せない不手際だなアレは >>484
20系を急行格下げの過程で比較的経年の新しいナロネ21が余剰になって思いついた産物だ。 >>483
14系の宗谷と天北のように寝台車を普通席扱いにすれば
座席の20系の昼行客車列車もできた >>484
夜行の座席利用を特急では次第に減らしていって急行では残したところからきたギャップ
昭和50年代以降の夜行列車自体が迷走めいたことになった一端でもあるが… 寝台車の座席代用は根本的にダメ
プルマンはまだしも、車内が薄暗く見通しも利かない
ヨーロッパ風と云えば聞こえはよいが、6人相部屋とかどうなんだか >>488
津軽のアレは、国鉄本社がおとなしい東北人ならアレでも我慢するってナメた結果だと思う
しかし勝手に寝台を組み上げて寝る東北の酒呑みオヤヂどもの敵ではなかったw >>489>>490
座席需要に対応する為の窮余の一策だったのだろうが20系も随分とぞんざいな扱いをされるもんだと当時は嘆いたものだ。 >>490
しかも上野⇔秋田の夜行急行の座席車自体がこの改正で大幅に減って
新幹線もまだ大宮発着時代だから需要としてはまだ結構あったのに
定期だと20系の座席車のみになったからな >>492
元来座席車主体の津軽を十和田のお下がりそのままに20系を転用したことに無理があった。東北新幹線大宮暫定開業を期に一般客車による急行を淘汰したかった意図はあったのだろうが。 57.11以降だと交直急行型電車も余剰が生じているだろうし、
暫定的に津軽の電車化は考えなかったのだろうか?
やはり増収のために寝台車が必須という判断で20系以外の選択肢は無かったのだろうか >>494
仙台所集中配置でまだ急行持ってた上に奥羽本線北部への入線経験もなかった455・457系よりは
尾久にも秋田にも青森にもいた14系で20系編成交換したほうが容易 つまり、仙台圏の通勤輸送の足かせになっていた客車普通列車の電車化を取りやめて、仙台から青森に転属させた上で寝台需要を
捨ててまで津軽を電車化するべきだったと言うんですね 57.11では「まつしま」は存置、新幹線アクセス用に「もりおか」2往復は仙台〜盛岡を快速化し仙台以南は「ときわ」に統合、
「くりこま」3往復も快速化、「仙山」は3往復を快速化、福島〜山形間に「ざおう」1往復新設
…何処に津軽にまわすような余剰があったの? やっぱり寝台+座席の形にするには電車急行は無理だな >>498
臨時津軽で津軽の電車急行による寝台+座席は実現したけど >>493
結局おがの14系と入れ替えることになったからな
おがでもハネを座席代用していたケースがあった 85年国鉄の局報というのをとっておりまして
見たらつくば博臨として12系14系はあたりまえ、キハだの20系だのキ〇ガイのような
通達が載ってまして、こりゃいったい何が起こるんやろじゃと思いましたです。583もあったっけ? これなんか寝台座席利用のクレージー
な例えないでしょか? >>501
見たいな。あの時は派手だったからな。青森だけじゃなく向日町の583もきてた
キハは奥久慈の間合いだっけ。デカイHMつけてた
583はピストンやってたから開放サロに何回か乗ったけど、20系は撮ったんだけど
何故か乗らなかったんだよな。列車ホテルだけじゃなく送り込みで大宮発があったはず
なのに日にちが合わなかった。20系は8029と63のPPだったり、81301が12系牽いたり
ヲタ発狂の日々だった。 >これなんか寝台座席利用のクレージー
上・中段に人寝かせて下段は座席として利用するって意味かい? あまり知られてないけどカニ22がマニ20の代わりの分割併合用の電源車になっていた
マニ20は改正前に離脱していた >>505>>508
50年3月新幹線博多開業前、前年の9月頃から検査切れマヤ20に代わり同年4月彗星24系化で捻出された大ムコカニ22(捻出後は盛アオ)を門サキ貸出で充当。(カニ22〜1.3.52.53)あかつき1.7号はやぶさの長崎編成に運用。 >>509
ただ書籍ではそのことがあまり触れられなくて
改正前に全車運用離脱したのも関わらず
マヤ20が改正まで担当したような扱いになっているんだよな >>509の追記として昭和49年春期.夏期運転のあさかぜ51号は2編成共にカニ22で運用されたが冬期は>>509による理由とカニ25改造のためカニ22を捻出出来ず2編成共に南シナのカニ21で運用された。 >>510
昭和50年の新幹線博多開業時の改正を取り上げた鉄道ファン〜プル―トレインスペシャルが掲載される以前はブルートレインと云えども当時具体的な運用などが掲載されることは稀だった自分の足で出向いて色々調査したものだった 自分の足で稼いだ情報だから面白いというのはあるね。
それを仲間うちで共有したりね >>513
昭和40年代後半世の中SLブームの真っ只中、そう言う中で広セキ.広ヒロ.大ムコ.南シナ.秋アキ.盛アオと当時の20系配置区は全て訪ね歩いた。SL配置区を訪れる人は数知れず多かったが客車区を訪ねる人は稀で大変珍しがられ歓迎もされた。広セキを訪ねた折には何と昼食までご馳走になった。 ナシ20は製造数が多いけど活躍期間が極端に少ない車両もあるよな >>515
ナシ20(.22.23)S43〜S50=実質6年半、同(17)S43〜S50=7年同(25〜29)=7年 同(24)=7年3ケ月同(17〜19)=9年4ケ月。その他S40年製でも9年半。 「日本海」等の最後尾によく連結されてた狭窓座席ナハフ20改造のナハネフ20、
窓二つ分に寝台一区画充当で通常のナハネ20より前後ピッチが長かったらしいが
居住性もそれなりの変化はあったのだろうか。ベッド幅自体は同じだから大して変わらない? >>517
ナハフ20.21改造のナハネフ20.21狭窓2個分で通常のハネ.ハネフ車よりシートピッチはかなり広い。解り易く言えば1区画のスペースは14系〜24系のハネとほぼ同じで寝台幅が70センチ→52センチと狭い分シートピッチが広いと思って下さい。 >>518
あー、そうか区画の寸法は次世代(14系〜)とほぼ同じ、その上で旧規格の52センチだから
それまでのナハネ20等と比較すると「だだっ広い」感じなのかな。いや14系〜で見慣れてる目線でも
妙に広く感じるかも。この辺は写真、画像がほしいところ。。 >>519
確かに妙に広い感じだね。因みに新幹線岡山開業前の東京口のさくら.あさかぜ2号のF号車にナハネフ21が充当されていた。このF号車と言うのは当時の急の1ヶ月前発売の区画でナハネフ21に乗りたければ1ヶ月前発売を狙えば比較的容易に乗ることが出来た。 >>510
昭和49年11月、その運用離脱したマヤ20が4輌門トスに疎開留置のを実見した。 昭和47年まだ幼児だったナウでヤングな自分からすると520さんのような生の話が聞けるのはネットの大きなメリットです。ナハネフ21のさくら
なんてコロタン文庫の中のお話。試験的に
70センチ寝台つけて特Bとかしたら面白かった
かも >>523
まだ受精卵にすらなって無い…>>S47 >>523
私は>>520ですが20系に初めて乗ったのが昭和37年の夏、あさかぜでした。以来20系に取りつかれ唯々が好きで好きで堪らない 20系ヲタになった爺です。 20系1000番台は臨時用で使えなかったのだろうな >>528
一般の20系とも混結出来ない機能になっていたし両数的にも鹿カコ.米ヨナ.大ミハ共必要最低限の改造しか行われなかった 昭和51年2月、特急つるぎの二段ハネ化による20系捻出車で急行銀河が20系化された。前年の50.3改正のように特急に格上げされることなく急行のまま転用されることになり前年改正以上に明確に20系時代の終焉を感じたものだった。 さすがにもうその当時ではハネが3段52cmってのは特急サービスとしては陳腐化は免れなかったな。
また、折からのブルトレブームのなかで「あさかぜ」の20系使用編成(下り1号、上り2号)は
元祖としての貫禄を持ちながらも当時最新鋭だった24系25型の「富士」や「はやぶさ」「出雲」らとは
微妙な力関係(ヒエラルキー)?がファンの間で揺らいでいた。そして最後の砦となった「あけぼの」は
もう古色蒼然、早期の新型切り替えを望む声も少なからずあったと思う。 527さんは父親世代の方ですかね?
昭和36年両親が九州から東京に出てくるのに
20系で、以来親類縁者の誰やら彼やらが
福岡東京往復していて少なからず20系に
乗ったんだろうと推測します。
急な不幸な用事で日航ムーンライト号
なんて事もあったようだけど、財産一部
処分するような気持ちだったろうなあと
思われます。 >>533
C62牽引の九州特急を実見してきた世代です。出張.その他で20系での東京〜九州の往復は数知れず、身内の不幸はムーンライト〜運賃半額でしたからね。まともに航空機に乗ると云う発想が無かった時代でしたね。そして特急に乗ることに構えて緊張感があった時代でした。 >>531
昭和53年2月あさかぜ二段ハネ化同10月北陸.北星14系化。あけぼのの置換も翌年にはと…しかし2年据え置かれ昭和55年10月まで最後の20系特急として孤高の時を過ごす、決して古式蒼然ではなかったですが…。 そろそろ棺桶用意した方がいいんでね?
内寸52cm幅でw >>536
時代背景も解らずに20系を語っていても仕方ないね。列車で横になることの贅沢さを知らないとね〜単なるちゃかしは無用なり。 >>531
臨時特急で使用されていた20系が臨時急行になったときは設備が大きく影響していた
また急行あおもりが583系になったのは最初は急遽だった話がある
当時の時刻表には客車で運行扱いになっていた >>541
昔の鉄道本や雑誌にないようなエピソードや乗車経験 前にも書いたけど臨時あさかぜ乗ったら
寝台解体を行わない&ナハネフ23連結日でWガッカリだった思い出 >>544
広鉄波動用20系は昭和52年10月に10輌、53年10月に10輌配属されていたがナハネフは22 501. 23 1.23 503.23 504で片方の編成が23ー23の編成になってしまう。この内23 504は後部貫通扉のガラスがスリガラスで見通しもきかず最悪だった。 >>536
良いことを言ってくれたなぁ〜20系で冥土への旅が出来るのか!!20系ヲタとして無上の幸せ、楽しみだ。 まぁ公共交通機関で完全に寝る事ができるのって
鉄道だけだもんな
今のし尺はそれを放棄してる >>547
夜間に移動する必然がなくなってきたのが今の日本の交通体系だ。
また寝台車に対するニーズが多様化して対応が難しくなって商売として成り立たなくなってしまったのだ。 新幹線もや高速道路もずいぶん整備されてきたし、狭い国土で寝台列車はコスパが悪い。
金持ちヒマだらけのジジババや鉄ヲタくらいしか需要が無い。 >>548
一度夜の夜行バスターミナルに行って見ることを
勧めるよ >>552
バス1台程度の需要くらいでは大量輸送の鉄道では成り立たないのだ。近視眼的に物事を見ないこと! >>548
多様化に対応したサンライズ瀬戸・出雲だけが成功した訳だね
上りは銀河の後を担う形にもなってるし
客車のままだったら滅んでたかもしれんね
話が逸れてスマン 20系は寝台特急の全盛期を駆け抜けたと言うことだな。 >>554
新幹線と航空機の間隙を辛うじてカバーし得うる存在だが現行285系の後が続くのかを危惧する。 >>553
一台で済むとでも思っているのか?
そんなにバスが好きならこんなスレに
いないでバススレにでも行けよ 新幹線博多開業後の寝台特急の需給を見てみると新幹線並行区間以南の落ち込みが顕著だ。はやぶさの基本編成を例にとると20系7輌292(ロネ28ハネ264)24系3段6輌217(ロネ28ハネ144)24系2段6輌148(ロネ14ハネ134)2段ハネに到っては20系のほぼ半分だ。 出張族が乗らなくなった時点で平日の乗車率がガタ落ち、減車減便廃止の運命が待っていた >>559
新宿だけでも同じ方面に近似時刻に
何便出てると思ってるんだ?
それに長い目で見りゃバス運転手は
減少傾向だからな
同じ方面に大量輸送できる鉄道の復権も近いかもな あさかぜのナロ20、常に食堂車の隣に連結されていた。食事時になると食堂車側の開戸が頻繁に開閉され客室内に隣の食堂車のあの独特の匂いが漂っていた。 >>560
昭和51年11月の運賃.料金50%値上げからしばらく経った頃から東京〜九州の出張が航空機利用の日程になってきたんだよな。 ルーメットは雰囲気があっていいのだが実際のところゆったり眠れるのはプルマンの下段の方だ。 ID真っ赤にしてる奴必死過ぎるやろw
おまけに昔の本で書いてあったことばっかりだし >>567
鉄懐板はそういうのを観察する場所でもあるしな(以前はもっとおかしいのいたし) >>569
観察っつーか絡まれてるじゃないですかやだーw 珍しく進行してるかと思えば
言い返せなくなったら負けってヤツだな
ナン20の頃に比べたらカワイイものさね >>566
ルーメットの寝台の長さって充分足りてたんだろうか。まあどの形式にも言えてくるが
一等料金払って頭や足先がギリギリとかやだな。。w >>573
長さ方向190センチなので十分だった。自分は身長180センチ、幅方向は狭さをやや感じるがあのスペースとしては良く考えられた物だと感心した。 >>575
ナロネ20とナハフ21とナハ21とナハフネ20を外装と内装を再現して展示すればいい >>575
鉄ヲタにAKBヲタ並の気概があれば造作なく実現できるよ。他人任せじゃ何も実現しない。 >>577
今年の夏に行ったが、金払えば車中に入れて、寝台のセットも解体も自由に行える。
ただ、保存車あるあるだが、細かい埃との闘い。
20系のA寝台の実物を初めて見て、触って、感動した。 >>579
近況のご報告深く感謝いたします。昭和53年2月にあさかぜ24系化の後に北海道 新得に渡ってから40年近く状態を案じておりました。一緒に保存されているナロネ21 551と共に20系ロネを今に伝える大変貴重な存在です。 >>455
つばめ7号と8号の時刻が随分開いていたな!
偏った時刻に感じたが、7号までは岡山で東京行きひかりに接続のダイヤを組んでいたのだな!?
確か昼過ぎのなはやかもめでは、岡山で東京行きひかりに間に合わなかった。
>>471で下りつばめ1号と2号の時刻が開いてるのも同様。
そう見ると、当時の博多と大阪・東京は夜行列車利用が主体で、効率良かったのが分かる。
現在新大阪〜鹿児島中央が4時間程度とは、隔世の感だ! >>581
博多16時発のつばめ8号を逃すと岡山日着の座席はあさかぜのナロ20のみとなる。新幹線に乗ると0系時代の210kmでも早いと感じていたが現在は…改めて在来線とのスピードの次元の違いを感じる。 技術は進歩したが、それとともに旅情は置き去りにされていったね。。 ゆっくりした移動がしたけりゃ西のローカル線超おぬぬめ
異論は認めぬ >>584
スロートラベルってのを
し尺は何か勘違いして捉えてるっぽいんだよなぁ… >>583>>585
早くて便利、現代では航空機であり新幹線が担っている。しかし寝台特急が早くて便利を担っていた時代があったのだ。旅情でもって持て囃されていたわけではない。より早くて便利そして安い方に人は流れて行く、元来日本人は旅のプロセスを楽しむのが苦手な人種だ。 >>586
いや要らない整備新幹線を建設してしまった結果だよ。
実際東京〜鹿児島中央も博多乗継ぎの新幹線で行けるようになったとはいえ、日本人に乗り通す
旅客はほぼいない。
所要時間は0系時代の東京〜博多と変わらないけど、時間とコスパで飛行機利用がほとんど。
東京〜博多でも新幹線乗り通し客が、今は稀少だしな。
なので北海道新幹線が開通しても、東京〜函館は新幹線に流れているわけでない。
札幌まで開通させるだけムダの極み。 >>587
西は博多
北は仙台
それより先に伸ばしても採算取れない
と、
石田元国鉄総裁が言っていたようだ
ほぼその通りになってるんじゃないか? >>587
それに現状青函トンネルって
新幹線と貨物の独占になってるよな >>587
最初から東京〜鹿児島の直通客なんか見込んでないよ。東京〜福岡の航空機シェア97.2%。 >>591
寝台列車の設備で5時間と
新幹線に隣詰められて5時間とじゃ
雲泥の差があるからな…
飛行機は速いからまだ耐えられるけど
アレで十何時間とか言った日にゃ
部屋に引きこもるわ >>587
いまどきそんなことをいう世間知らずがまだ生き残ってたんですね 整備新幹線が作られようが作られまいがいずれ夜行列車はなくなってたのをどうしても認めたくないんだな >>591
>東京〜福岡の航空機シェア97.2%。
それ、何処の数値?
↓では92.7%だけど?
ttp://www.westjr.co.jp/company/ir/library/fact/pdf/2014/fact07.pdf 夜行列車と貨物列車の全廃論は70年代からの計画だったからな、そりゃ勝利宣言したくて仕方ないご時世だろう >>596のリンク先によると、九州新幹線全線開業で京阪神〜熊本のJRのシェアは29.9%から61.6%に倍増、
京阪神〜鹿児島もJRのシェアは9.2%から27.5%に大幅増となってる
そして両者共に全体の輸送量も対2008年度比で1.16〜1.13と大きく増えている この実績が出ているものを作るだけムダだという人間のほうが世間においてはムダな存在だろ
鉄道はヲタのおもちゃじゃないんだから ノスタルジアだけでは夜行列車も鉄道も残せないのだよ。好むと好まざるに関わらず時代ですよ >>594=595
日本の1000兆円以上の財政赤字を、全部お前が背負うなら、その書込みもいいけどw 本題に戻そう!昭和50年3月改正、南シナ20系。カニ21(3.11.15)ナロネ22(101.102.103.151.153.154.155)ナロネ21(129.502.551.555)ナシ20(17.18.19.20.24)ナハネフ23(5.6.7.8)ナハネ20(1.3.5.8.10.12.13.14.55.62.63.216.217.218.219.231.311.312.506.507.508)ナハネフ22(14.502.503) >>10
座席車に改造があったのか
乗って見たかった >>602
お前、すんごく痛いんだけど
バカの自己紹介にしかなってないの分かってる? >所要時間は0系時代の東京〜博多と変わらないけど
あまりに酷いウソなので事実を書いておく
東京〜博多の所要時間の推移
1975年3月10日 ひかり 6時間56分 0系
1985年3月14日 ひかり 6時間26分 0系
1986年11月1日 ひかり 5時間57分 100系使用開始
1989年3月11日 ひかり 5時間47分 100系
1993年3月18日 のぞみ 5時間04分 300系使用開始
1997年11月29日 のぞみ1号 4時間49分 500系運転開始
2001年10月1日 のぞみ1号 4時間53分 500系 新神戸追加停車
2003年10月1日 のぞみ1号 4時間58分 500系 新山口追加停車
2006年3月18日 のぞみ1号 4時間55分 500系 新山口通過
2007年7月1日 のぞみ1号 4時間50分 N700系使用開始
2010年3月13日 のぞみ1号 4時間55分 N700系 福山追加停車
2017年3月4日 のぞみ1号 4時間52分 N700系 山陽新幹線ATC更新 >>609
>東京〜博多の所要時間の推移
>1975年3月10日 ひかり 6時間56分 0系
東京〜鹿児島中央の所要時間と変わらないだろう!
今やそんな利用する奴は、ほぼ考えられないがw またバカの自己紹介かよ
いったいどう過ごせばこんなバカ爺になるんだか 東京→鹿児島中央 のぞみ3号・みずほ605号 6時間27分(乗車6時間8分) 東京→鹿児島中央 のぞみ245号・みずほ611号 6時間20分(乗車6時間14分) シュプール号に使用されていた20系を模型化したらいいかも 30分くらいの差を変わらないと見るかどうかという問題やね というかさ
読み返してみたけど
>>587は
>実際東京〜鹿児島中央も博多乗継ぎの新幹線で行けるようになったとはいえ、日本人に乗り通す
>旅客はほぼいない。
>所要時間は0系時代の東京〜博多と変わらないけど、時間とコスパで飛行機利用がほとんど。
と言っている訳だろ?
これを
所要時間は0系時代の東京〜博多より短いくらいけど、時間とコスパで飛行機利用がほとんど。
と言い換えても何ら主旨的に変わるものでもないわな
むしろこっちの方がこの人の主張上都合が良いくらいだ
つまり自己の主張の為に事実を捻じ曲げたとは思えない
あまりに酷いウソと文句をつける意味は議論をする上ではあるとは思えないわな 鉄ヲタって時間に厳しい人ばかりだと思ってたけど
そうでない人も居るんだね まあ整備新幹線なんて政治家の手腕アピールと田舎の地元おこしのアイコンみたいなもんで
東京中心の移動手段としての実用性に乏しいのは判ってるんだけどねww >>619
まぁその最たるものが
北海道新幹線の現状と
九州新幹線の新大牟田の存在だな 事実に主観で返されても「ああそうですか」としか言えませんな >604 昭和49年のあさかぜ51号でナハネ20(多分)に乗った時、天井に穴の
ある初期型だったんだけど、もしかしたら青森なんかの車輌の貸し出しで、
電源車はパンタ無しの貴重なカニ22だったかも知れないみたいね。
まだ幼児だったんであさかぜって1日50本以上走っていてさすがに大人の
やる事は違うわいと思った記憶。 >>587の痛いのは、端から想定に入っていない東京〜鹿児島のシェアを引き合いに出して、要らない整備新幹線を建設したからだと言ってるところだろ
事実認定からしてダメダメなのに>>593では「だから作るだけムダだろう!」と恥の上塗りまでしちゃってるし 鹿児島発着のブルトレなんて東京発着は九州新幹線運行開始の遥か前、新幹線がある程度のシェアを持つ関西発着ですら新八代部分開業時に廃止になってるわけだし >>622
昭和49年乗車なら春期.夏期なら電源車はカニ22(同年春の彗星24系化捻出車配属盛アオ)冬期は南シナカニ21。ナハネの初期形なら南シナが一番配属が多い。 20系あさかぜが51往復w
東京駅20系だらけになっちゃうwww 51往復もあれば2、3往復くらいはうちの近所の駅にも停まってたかもしれないな いやホント、あさかぜ39号とか43号とかあると思ってたんだって。20分ヘッド
だったら1日中発着してたら可能だね。
カニ22とか穴あき天井の初期車とかまだまだ昭和30年代のがバリバリ現役
ですねえ。あさかぜ51号に乗る前に京浜東北線で東京駅に着く時に並走して
20系編成が神田方から入線してたんだけれどあれはそれから乗る
あさかぜ51号で間違えなかったのかな。日が暮れた頃に青い車体に側面
ドア付近の白い案内灯がズラーリと並んで、編成の荘厳さ美しさに幼児は
息をのみゴーーんとショックを受けましたよ。
幼児といっても小学1年なんだけど情報をよく見ていてクラスの女の子に
交通博物館で買ってもらった下敷き見せてこのSLが最後北海道でもうすぐ
なくなるとか得意になって言ってました。あさかぜに乗る前の多分昭和47年
だったと思いますが、筑豊に帰省する時に岡山まで新幹線、岡山から481?ボンネットのしおじ?で途中から疲れてボクがギャン泣き、トドメが筑豊線の10系ディーゼルで発狂、で親が懲りたのか次は寝台のあさかぜになったんだと
思われます。あの荘厳なあさかぜに乗れるし、横になって寝れるし、同じ
ボックスのお姉さん二人はいろいろかまってくれるし、で小倉まで上機嫌
で行けたのを覚えてます。 カヤ21にJRマークがほとんどつかなかったのは何でだろうか というか他の電源車や緩急車の場合どんな感じだったの? >>628
時間的に下関行のあさかぜ3号か乗車されたあさかぜ51号だったのでしょうね。 新系列ブルトレが定着した昭和50年代半ばのナハネだけのモノクラスだけになってたあさかぜ51号、
同じ料金でこんなの乗せられるなんてっつう苦情はなかったんだろうか。。 >>634
苦情があったのは事実。特に昭和51年11月の運賃.料金50%値上げ以降の一般客の風当たりは強くなってきたね。20系ヲタの自分は抵抗はなかったけど昭和55年10月20系定期特急消滅後も臨時とはいえ平成の時代までよく使ったものだと正直思う。 寝台料金が高いだのカスだの叩いていたが
限られた空間で横になれることが贅沢だと思えなかったのかね
国際線ビジネスクラスのように >>634
カニやナハネフのことも思い出してあげてね >>636
列車で横になれることの贅沢さ.有り難がった時代を経験していないと理解されないだろう。今の時代のように物が豊か過ぎて何が贅沢か有り難みを理解できない世代には無理だろう。 いやーでもシティホテル並の値段取って蚕棚じゃあ納得なんて得られないだろうさ
ビジネスクラスならアメニティが充実してるし、他のクラスあってこその値段設定だし
開放Bなんて時代錯誤もはなはだしい設備が結局ブルートレインの最後まで残ってしまったのはどうかと
ある程度のところで見切りをつけてゴロンとに一本化するのがいいとこだったんじゃなかろうか >>639
シティホテル並の値段〜昭和51年11月の運賃.料金大幅値上げ以降の国鉄の寝台料金に対する口実だ。当時三段ハネが1300円→3000円二段ハネが1900円→4000円と社会常識を逸脱した値上げ、寝台列車を躓かせた大きな要因だ。
開放Bが時代錯誤と言う辺りが物の豊な時代に育った証だ。良い悪いではない。育った環境が違うから仕方ないのだ。 昭和53年2月あさかぜが遂に二段ハネ化され九州特急から20系が消滅した。これ以降九州出張の際には急行銀河&新幹線を利用した。食堂車は新幹線で満足出来たし東京駅を20系で発って20系で帰ってこれる。そうやって20系九州特急消滅後の溜飲をいくらか下げていた。 昭和50年代は2段式の25型が主力とする方向だったから、まあ時代錯誤というか、
特に20系52cmハネなんかは当時の潮流としてはもう前時代的になっていた、って感じでしょ。 >>642
その通りだ。70センチ幅の14系以降のB寝台車が定着してきた時代だったから一般には20系は敬遠されがちだったのは紛れもない事実、乗り心地で10系寝台より優れていたが寝台幅で同じ扱いにされてきた時期であった。 例えば枕、シーツ、毛布無し、のゴロンとシートみたいにして寝台組立解体も無し、24系より定員多い分半額位にして、急行運用でってしたら昭和50年代でももっと活用されてた気がするけどどうかなあ? >>645
それしか言えないって内容無さ過ぎじゃない? JR化後に臨時でも特急扱いではなくて急行扱いにされたのは
結構大きい出来事だよな >>646
昭和50年代の20系や14系の急行転用、運用ぶりが割とグダグダだった辺り
そういう考え以前で国鉄の対応がその場しのぎだった感もあるなそこは >>648
定期の20系特急が無くなったのが昭和55年10月それから平成元年まで特急扱い、時世からしてちょっと特急として引っ張り過ぎだったかな。 寝台幅52cmしかないために14系とかと比較し遜色あったな
特急にせず急行にしたのは納得いくが速度面では特急並だった?
寝台料金3000円でも良かったのに といっても妥当なところだろ
ゴロンとシートがあればもっと客いたかもな >>652
ゴロンとシートは夜行バスが出来てからの思いつきの対抗策。 >>651
昭和61年11月以降も二段ハネでさえ急行に転用されたのに臨時とは言え特急のまま存置されたのは不思議、急行化された後もダイヤだけは特急時代と同じだったけど。 52センチだからもう限界ってんで臨時あさかぜは玄海というシャレだったん
だろうけど、愛称は好きだったねえ。
逆に昭和51年夏東京駅で撮ったあさかぜが24系25形の0番台で折妻が
格好いいけど、謎写真だったのがネットで臨時あさかぜと判明。
まだあさかぜ1号は20系だったのに皮肉だったねえ。 臨時あさかぜは平成の初頭まで走り続けていた
20系の完全引退は1997年11月
「金融危機」「ジョホールバルの伝説」のころ
あれからもう20年過ぎたのか >>640
料金値上げは昭和50年11月にもう1段階あった。
客車三段寝台は1300円→2000円→3000円。客車二段式は1900円→3000円→4000円の推移。
昭和50年11月は運賃据え置きで料金だけだったけど、グリーン・A寝台の値上げ幅はかなり大きかった。
それで1年後に運賃も全ての料金も大幅に上げれば、そりゃ凄まじい割高感になるわなorz
なので大幅値上げ後の特急・急行のグリーン車は、大半が空気輸送だったorz
寝台料金も特急料金がセットで上がれば、B寝台でも割高感が生じた挙句、長距離は航空機指向になるよなorz >>659
飛行機志向とバス転換だよな。
今思うと、夜行列車廃止論もあわせて殺しにかかったターンだったんだよな >>660
寝台列車がビジネス客を失いつつあった時期に漫然と走らせていたことに対する警鐘と言えるだろう。 >>657
25形の0番台グループのオハネフは東京口にはあまり来なくて
銀河が25形化されて富士とはやぶさが鹿児島や熊本担当になったころからたびたび運用に入るようになった EF65と新系列14系、24系は似合わなかったな。青20号が妙に鮮やかでw
勿論65は20系とコーディネート塗装だし、何より幼い頃見た絵本の記憶が刷り込まれてる。 レインボー色のEF65とトワイライト色のEF81と20系の組み合わせはどうだろうか >>661
40年かけて安楽死させたんだよいい加減気づけ >>665
前スレでEF66と20系の元空気溜め菅が繋がってる画像あるとか
息巻いてた人が居たけど元気かな
データ復元に失敗したか単なる記憶違いか既に墓場へ持ってってしまったのか 旅客夜行が無くなっても
夜行貨物が減ってないんだから
JRも国鉄も政府も
旅客<貨物と見ているんだろうな
自分含め皆コケにされてるよな >>668
鉄道は人よりもモノはお客様である
>>669
過去の事実の羅列よりもまだマシ >>662
というより、25型1・2次車は、カニ24以外は61.11まで東京口の定期運用が無かった
(厳密には、オハネ25 38のみ一時南シナに配置されていたが) >>670
その過去の事実を貴方は経験してないだけ >>673
ほかの板でもたまに高齢の人はいるんだけどこの板はなんか独特のふいんきがあるお >>671
オハネ25 38出雲のBネがゴールドラインになる頃にいつの間にかまぎれこんでたな。 堂々と25型の話題を盛り込んでくる人には困ったものだね >>676
スレチだけど取り敢えずリアクションしてさしあげないとね…これとて30年以上前の昔話だ。 >>673-674
過疎スレや放置スレが多いもんだからスレを占有するような真似がしやすいなこの板は 20系寝台車ってそれだけ往年の国鉄車両の中でも、歴史を刻み夢を運んだ際立った存在だったから、
オマージュやノスタルジーに思いを寄せて、いわば酒を飲みながら懐メロに耳を傾けるような趣(おもむき)を
このスレで展開したいのさ。。(おれもね) >>679
趣w
誰にも相手されない孤独なジジイがただマウントしてるだけじゃねぇかw 世代による見識の違いはあっても
最後に言った者勝ちって感覚だけは変わらないのが面白いな 二段式B寝台がデフォの時代に育った世代としては、
なぜ10系寝台車がブルートレインじゃないのか理解できなかった。
幅52cmの三段式、20系とどこが違うんだと。
ここで「ブルートレイン」の条件が挙がったところで改めて問いたい
ホリデーパル玄海とトワイライトエクスプレスはブルートレインか? >>682
僻んでいるとして僻まれてる方はまともなコメントしているのだろうか?
議論はそこからだな ここかい?大人のスレに子供が
紛れ込んではしゃいでるってのは >>688
爺さんが紛れ込んではしゃいでるスレですよ >>688>>689
そんなことしか言えねぇのかい?だったらちゃんと20系を語って見ろや!!情けねぇ!! どうも本人はちゃんと20系を語っていると思っているらしい >>691
そう言う事は語ってから言うもんだよ!恥ずかし〜い!! 「ちゃんと」を抜きましたね
書き込みは半年くらいROMってさ
雰囲気(何故か変換できた)掴んでからの方が良いんでないかい? 20系は無骨ながらも高度成長期を支えたのがええんだよ
爺の酒呑み語りなんかいらん デザインは近代化されても細かいところが手作業だったろ
そこが武骨という意味 >>696
確かにそれは言えている
乗り降りするドアも自動ドアじゃないからな 従来とは客車の概念を変えたのは大きいね
20系以降の客車は同系列で組成した編成単位で運用する形になったし 151系こだまもだが、58年あの当時、空調完備(はめ殺し窓)でエアサス台車でデビウは衝撃だったかもしれない。。 >>700
EF58でも寝台特急色ならスマートな感じする。
あと案外青大将も似合ってると思う。 EF60がカニパン操作してたころが
一番充実してたような気がする
まあ当時は、生まれてもいないんですが >>699
その同時デビューは国鉄も当然ねらっていたのだろうけど、
実にエポックメイキングなニュースだったことだろうね >>700
それは現在の感覚かな
当時の電機は基本デッキ付でEF58は最もスマートな電機だった訳で >>702
車両だけからすればEF65PでAREBブレーキの110km/h運転を始めた頃かな
しかしその頃には581・583系が登場していたことからすれば
既に先が見えていたのかもしれん ホリデーパルは海坊主のバケモノだよな。その後のJRの悪趣味でチープな
塗装崩壊の先駆けとも言える。国鉄時代だって新規の塗色導入については
十分に時間を掛けた上何種類かの試験塗装を経るか、外国の実績のあるのを
導入してるんだ。民営化後のJRが思いつきで色変えてもいいものができる
はずもない。
684さんの問いについては、すでにホリデーパルやカシオペアの出来た時は
夜行列車=ブルートレインという言葉が意味する時代の熱い温度が失われて
いたのでその問いもあまり考えられることもなかったであろう。
色だけ見ればブルーでないが、ブルーであったからといってもふーんnで
しかない、みたいな。 逆にボロボロの10系であってもブルートレイン
に準じるものはあったよね >>707
国鉄末期の短編成化で誕生した地域色はケバくて殆どが短命だったけどね 爺さん爺さんウルサいな
お前さんも必ず爺さんになって煙たがられるんだぜ
その頃にはオレは墓の下だから心配すんな 酉の単色は変な地域色よりよっぽどいいと思うんだが、
なんであんな評判悪いんだろうね >>712
どう考えても中国地方の黄色と北陸の青は逆のほうがいい。 >>710
別に爺さんであること自体は何の問題もない
もうちょっと馴染めるように頑張れよってだけの話だ >>713
確かに雪の多い北陸が警戒色なしでいいの?とは思う >>714
なんで勝手に取り仕切ってるの?
こんなスレ爺さんが中心になるのに頭大丈夫? >>718
仕切れない貴方に問題有り。誰も仕切ろうとは思ってないが。 >>718
仕切ってなんかいないよ
暴走爺さんは迷惑だからさ
ここ爺さんも多いだろうが
他の人は年齢関係なくみんな馴染んでるだろ?
新参は場の空気とか掴んでから書き込もうねってだけの話 ACそのままだね
途中から最後の一文が無くなったけど
瀬戸物と瀬戸物がぶつかるとお互い傷ついてしまう
でもどちらかが柔らかければ傷つかない
そんな私はいつも瀬戸物 >>722
そりゃそうだけど
何が言いたいのか分からんのよね
資料鉄が何? >>723>>724
老若どちらもヤバいよ!若いのは経験の基礎が乏しいから童貞のエロ話を聞いてるみたいで話に奥がない、知ったかを言う。老人は昔の女遊びを語っているようで経験は傾聴に値するが語り過ぎで若い世代は訳解らず飽きてしまうのだ。 そういう問題じゃないな
ここにいる改行なしの老害は他人が興味ないのに自分語りして、自分の興味がない話題は
いちいち癇癪おこして突っかかってくる。周りから嫌われちゃってる孤独な老人の典型 20系のスレなのに平気で他形式のネタぶっ込んでくるヤツが居るからな
カニ25は仕方ないがそこから24系ネタでグイグイ来らっれるとねぇ しかしEF60 500が20系特急で2年くらいしか使われなかったというのは
そこまで出力不足が顕著だったのかねえ?その頃はやぶさが九州の末端では
まだ蒸気機関車が使われてた頃だよね あの頃はまだ貨物需要も旺盛で
新しい機関車造って転用してたろ >>728
出力不足というか高速性能の不足だなそこは 高速域の出力に限ればゴハチに勝てるのは国鉄型ではEF66しか居ないし ブルトレ牽引特化型の電気機関車作る気はなかったんだな
まあ仕方がないか >>728
90km以上の高速では弱め界磁の連続使用をせざるを得なくて故障頻発に悩まされていたようだ。九州末端の蒸気牽引とは速度域と定数の違いだ。 >>732
EF60→65の経緯や交流・交直流電機で要求された汎用性?といい
貨物が高速化するついでに旅客列車牽けるような特性になっていくしなその辺 EF60の512〜514は前照灯も2つでEF65と変わらないから紛らわしいな。。 ナロネ21の格下げ座席車に乗ったが
あれはやはり2人掛けだと思い知らされた。 >>739
583系の普通車と同じようなもんじゃないのか? 583系と違って1BOXに4人で座る事を考慮してないからでは? いつも思うんだけど、見ず知らずの人とボックスに二人だけになるんじゃない?
ある意味6人のB寝台より気詰まりな気もするがどうだったんだろう >>742
考慮も何もほぼ同じだと思うが
どこが違う? >>746
581.583系寝台幅106センチ、ナロネ21寝台幅96センチ。10センチの違いが大きい。 雲仙、霧島、玄海、あおもり、カートレイン、シュプール
関西では20系の最後の活躍を見届けることができた。 大阪駅は絶好の駅撮り場だったのにな
駅ビルの造り方があかん 20系の編成表ってどこかにないかな…
ARCが無くなってしまって
集約されている所って無いし… >>745
プルマンは異業種交流に格好の場所でしたね。 >>752
鉄ピク2005年7月号を探そう
もっと最近の号だと思ってたら12年も前だった >>754
わい寝台のセットと後片付けをやる列車に乗ることはなかった(´・ω・`) >>753
>>755
サンクス
ARC復活してたんだ…知らなかった
鉄ピクの2005年7月号は持ってる
編成表には気付かなかった…
でもNだとまだ組めない編成もあるんだよな…
ナハがまだ出てないからね… 20系明星ってバックサインの文字が
不格好なあれか? 明星の文字、バランスの悪さが
小学生の書初めを連想した。 彗星も少し変だよ。予算が無くて業者に発注出来なくて職員が暇な日の
午後にガムテープでめんどくせぇとぶつくさ言いながら作ったような
感じがする。今どき20系もねえよなとか 字体が変なのってカニ25に使われてたバックサンでは? >>766
文字マークならカニ25の方だけど
絵入りマークでも3種類ほどあって
その中の1つが文字マークみたいに文字になっていた おぉサンクス
検索かけたら中央部分を拡大したような感じのがあったよ 広セキのホリデーパルって引退前にさよなら運転とかやったのでしょうか? >>771
独身で実家のきょうだいを訪ねる可能性w 教えてえろい人
20系と10系の居住性はどれぐらい違った? プルマンロネはほぼ同じ、ハネは枕灯の違いと上段のファンデリアの圧迫感。
それより、固定編成ゆえの食堂車の存在が、、。
寝台利用では短距離乗車でなければ、必ず利用した。 >>759
その臨時明星は急行格下げになってその後設定自体が一度取りやめになったあと
しばらくして24系25形の臨時なはになった >>782
たぶん>>780は答えずにトンズラするだろう >>782-783
概ね昭和40年代になるのでないか?東海道新幹線が開通から、山陽新幹線博多開業まで。
高度成長期真っただ中で、特急・急行の長距離列車増発も凄かった。
20系客車もその時期を担っていた。
14系・24系25型客車が登場して翳りが出てきて、山陽新幹線博多開業時は20系は末期の様相だった。 「もはや戦後ではない」の昭和30年代からニクソンショック、
オイルショックの昭和46年頃までじゃないかな?
このころの主要駅や操車場は不夜城だった。 >>785
で、全盛期っていつよ?
そこまで大きな口利いたんだからハッキリ答えたら?
780 名前:回想774列車[] 投稿日:2018/01/14(日) 09:03:41.69 ID:oVwDhvAk
鉄道全盛期を知らない今の鉄道ファンが不憫。
785 名前:回想774列車[] 投稿日:2018/01/14(日) 17:09:39.39 ID:oVwDhvAk
「もはや戦後ではない」の昭和30年代からニクソンショック、
オイルショックの昭和46年頃までじゃないかな?
このころの主要駅や操車場は不夜城だった。 横からでスマンが1968年の東北本線複線電化完成から
1970年の大阪万博開終了までかなと私的に思う おっとこのままではスレチになっちゃう
1970年は20系客車の最終増備年でもあるしね 確かに10系ハネのベッド灯ー枕灯は電球、透明豆電球タイプだったよな。
20系ハネは利用したことはないが、ロネはどちらも数回乗車した。
20系ロネは座席の灰緑色の段モケットが高級感があったなぁ。
上野23時発のゆうづる2本が20系だった頃、
十三本木峠を食堂車の車窓から眺めたのは、
全盛期の終焉後となりますかね。 バナナはおやつに含まれず
家に着くまでが遠足
新幹線は鉄道には含まれず
各方面新幹線開業直前が全盛期
結局、昼行夜行、寝台座席、特急急行快速、
定期臨時、電車客車、交流直流の多様性が
失われ趣味の研究対象の多様性が失われて
趣味的に面白く無くなる。 それじゃあ鉄道全盛期じゃなくて趣味的に鉄道が最も面白かった時代だね 自分は昭和51年生まれなんだけど
その少し前の、新幹線と蒸気が揃っていたころに
物心ついていたかったなあと思う >>792
物心ついた頃に国鉄の赤字とか運賃値上げとか赤字線廃止とかそんなネガティブな話題ばっかだったぬ
でもなんだかんだでまだ鉄道が注目されていた件 都市交通と新幹線以外で鉄道の存在が本格的に薄れるのはそれこそ20系の去った後になるしな >>793
それに加えて労働組合問題にダラ勤問題な。
たしかに順法闘争で困ったとしても、マスコミがあそこまで叩ける筋合いだったかと。
労働問題については、日本人はもっと赤くても良いと思うぞ。 上尾事件とかリアルタイムで空気感じたかった
浅草橋の火炎ビンは知ってる 幅52cmであったとしても、横になって寝れることには充分な意義があっただろうな。
当時の座席車で寝ることは半分拷問のようなものだっただろうから。 >>800
同じ時間乗ってても
新幹線と寝台じゃ段違い
たとえそれが昼ネでもね 列車の床にカーペット敷いてあるだけでも横になって体を伸ばして寝れたら快適だからな。
それはグリーン車よりも快適。
はまなすで体験済み。 >>803
JRとしては最高の位置づけのはずなのにね
>>新幹線
そんなんだから夜行バスと客を食い合ったり
飛行機に逃げられたりするんだよ 実際乗ったことない世代が苦行だのと想像で書きたくもなるだろうのは解るけど
寝台幅、いうほど苦じゃないよ。
むしろ現代人には寝台幅よりも寝台長サ(身長方向)のほうが窮屈だと感じるはず 「一つの寝台を大人と子供の2人利用はできます」
826レでやってみたが無理。
車補でもう一人分購入した。 3段ハネものちに臨時特急でも通用しなくなった理由の一つになると思う
3段ハネでも583系とは違う >>808
庶民的にはまだハネですら輝いてた頃、新婚旅行で中段か上段から新婦が落ちて半身不随だか植物人間だかになったという悲劇は何かで読んだことある あの紐どうやってすり抜けたんだろ
実質あの紐の上で寝てる人はいたな >>798
>>805-806
でも寝台幅52cmというのは3等寝台が初めて登場した1930年代の日本人の体格が小さかったというのもあると思う。
仮に白人や現代の日本人みたいな大柄な体格がデフォだったらあんなに狭い幅にはしなかったと思う。 でも座席としての利用時は
14系よりもかけ心地が良い。 20系は下段の角度が変えられるようになってたね
14系以降は水平で固定 >>812
805で俺が書いたのは、あくまで「現代視点で語ってる人へ対して」です
貴殿の書いた部分は当然承知してます >>815
寝台使用時は背ずりを水平にして座席使用時は背ずりの支えを立てていた。背ずりの支えは昭和43年製までは木製、44年製以降アルミのプレス物になっていた。 20系以降の寝台車は
どんどん設備が簡略化して行って
しまいにゃ固定だったからな…
個室は少し変わるけど…
上りあけぼのの一部区間みたいに
座席扱いにされてても
リネンが上段にあるだけで
下段は三人対面ボックスだったからなぁ… 20系がそれほど評判悪くないのは昼間快適だったからかね?
70センチは深すぎる座席に目障りな窓のハシゴ。小柄な
女の人などは靴脱いで足座席に乗せて女座りしてる人が
多かったような。ミカンとかせんべえとか食べながら 笑 寝台幅70cmでも居住性が悪かったとのたまう御仁はどういう設備だったら満足かね >>823
今のJR標準のせんべいウレタン敷きの
硬い座席がいいのかな?
今やグリーン車でさえそんな造りだから困ったもんだよ┐(´д`)┌ヤレヤレ >>821
>20系がそれほど評判悪くないのは昼間快適だったからかね?
夜も快適だったんだよ
当時の夜行列車の水準では >>817
座面も変えられなかったっけ?
ともって自分で撮影したヤツ見比べてみたけど
獲り方がヘボくて判別出来ずorz 北海道には投入されなかったんだな
青函トンネルを超えて北海道に入る運用があったらどうなっていたか
折戸なので粉雪が入り込む危険性が高い
583系も折戸から雪が入り込んでた事がある 引戸の485系でも車内に雪が入り込んでたのに何を言ってるんだろう >>793
その国鉄末期10年は、国鉄は斜陽企業になっていた。
膨大な赤字と運賃高騰で未来の希望が持てず、地方ではダサい交通機関になって、
モータリゼーションが進んだ時期だった。
>>799
それが拷問なら、0系時代の転換シートは ry 折戸だと凍って人力では開かなくなるための引戸改造でしょ
粉雪がどうこうなんてのは瑣末な問題 711系試作車は4枚折戸だったが雪入り放題で結局失敗だった
他にクロ157でしか採用されなかった稀な構造である >>831
引き戸でも凍って開かなくなって485系1500番台のいしかりでは駅員がやかんで熱湯をかけて開ける始末だった
781系は強力なヒーターが入っている 新潟の481もデッキに注意書きがあったな。
ドア足元にヒーター設置とかなんとか。 小学校卒業で長野の婆ちゃん家へ在来線だったあさまで。
デッキで小銭を落とし扉で止まったのを拾い上げようとしたらドアレールが熱かったのを覚えてる。 >>829
今のせんべいウレタンの座席と比べるも無い >>837
煎餅ウレタンが詰め物の現代のシートは硬ければ疲れないという俗説を免罪符にしてるとしか思えん。
硬ければ疲れないというのは自動車のシートで尚且つレカロなどちゃんとした造りの話だと思うのだが。
それなら大昔の一等展望車のソファーは長時間座って疲れないのかと聞きたいわ。 >>838
だから今の新幹線の座席は苦痛だと言っているのだが? >>838
24系や14系のハネでさえ疲れないんだから
昔の一等車は言わずもがなだと思うが? 都合の悪いところは覚えておらず昔を美化しまくりなのは老害 >>842
E5系のロザに新青森>>大宮まで乗ったが
途中から苦痛でしかなかったんだが何か? >>845
バカ野郎老害なんて言われるほど年食っちゃいねぇよ 年食ってないのに老害と言われる症状が出てるって問題ありまくりだろ >>844
それは座席というよりお前の体がヤバイだけじゃ? >>848
>>849
まぁ何とでも言え
新幹線の座席が苦痛なのは
何もうちだけでは無いのだからな
209系から始まったせんべいウレタンの
座席が嫌だというのは
うちの周りでも声が出ている
どう書こうが老害乙で済ませるのが
お前らの常套手段だろうがな 老害とか罵ってるヤツは20系の思い出が無くて悔しいんだな
まぁ2回しか乗った経験ない自分が言うのもナニだけど
2回とも冬で暖房の効きは丁度良かったな 書き込みに問題があるだけだよ
アドバイスとかされても聞く耳持たいないしな 自分の周りで声が出ているといってるヤツにその詳細を具体的に聞くと決まって逆ギレするのが老害 >>852
20系も10系寝台も数回ありますが何か? >>855
まぁまぁ
こいつらは「老害」って言葉を
覚えたから使ってみたいんだよ 仕事終わりに20系銀河で上京
疲れて爆睡して、気付いたら旧品川客車区に留置されてたw
仕方なしに品川駅ホームまで歩いてあったが、問題は革靴がなくなっていた事
他のお客さんに取られたのか?職員が片付けたのか?はわからないが、あれは本当に困ったなwww まあ座席が軟らかくても固くても長時間同じような姿勢で座っていればそれなりに疲れてくるものだ、そろそろ老若とも話を治めた方がいい。 そりゃそうなんやけどここ20系の座席車で夜を明かした猛者はおらんのか ナハネで夜行、座席扱いとか繁忙期のおがくらい?
これだと期間も短いし中々いないだろ。だいせんとか十和田なら結構いるだろうけど。ホリデーパルなら乗ったことある人いるのかね 軟弱ですまんが、おがの寝台には乗ったな。夜が明けてから、勝手に中段寝台を跳ね上げてヒルネ仕様にしてたね。
昭和60年頃だけど、あの頃もナハ21が付いていたかは思い出せないな。 >>866
3月14日改正以前ならナハ21は連結されていたが、改正後のおがは全車寝台に替わったような。
乗った時に、東北・上越新幹線は大宮発着だったか?上野開業後だったか? 元祖あさかぜ1号20系最終日から、今日はちょうど40年! >>868
翌日2月1日の博多発最終は雪の舞い散る寒い中を東京に向けて発車して行った。もう40年か! >>867
春休みに出掛けたから上野開業直後だわ。オールB寝台だろうね、サンクス。 ナロ20は雰囲気いい車だったよ。寝台と違う感覚で20系の軽やかな柔らかい走りを楽しめた。リクライニングを倒せばゆったり眠ることも出来た、大昔の話になっちゃったね。 >>872
今でいう夜行バスみたいな感覚なのかい? 狭苦しく圧迫感のある三段寝台の上段に比べれば、開放的なリクライニングの方が心地よいと感じる人もいるのでは? >>868
53.10まで持たなかったんだな、記憶あやふやだなw
東京九州ブルートレインは[東]EF65+南シナ(東シナ)だな、やっぱ。
[関]や九州持ちはしっくりしなかった。
あさかぜ20系撤退、ついに陥落、という印象だった。 臨時おがは14系座席車+24系寝台車に置き換わる前に
北上線経由で運行されていたんだよな >>875
そうそう。
583の下段もしくはパンタ下の寝台が取れなかった時はグリーンにした事あったよ。 ナハネの上段は体験出来なかったが
屋根カーブのお陰で中・下段より圧迫感が少なかったりした? >>880
>屋根カーブのお陰で中・下段より圧迫感が少なかったりした?
しない
圧迫感凄いよ
一番高いところが下の段と同じ高さなんだから
俺はSLホテルで登ってみたことしか無いけど
親父によると雨降ったら最悪だったらしい >>883
荷物が置ける場所があるところかな。
中段だけだと、置けないよね。 >>880-883
三段式ならどこでも圧迫感はあっただろう。
比較してどこが一番マシかは、個々に分かれていた。
20系で上段は高さ寸法的には一番余裕があったが、雨音が神経質だと>>881のコメントになった。
下段は古くからそこだけシーツがあるのと、梯子の昇り降り不要が好きな人は多かった。
但しセキュリティー的には劣った。
中段は一番中途半端だったので、好んだ人は少ない。但し二段式になって無くなるカテゴリーなので、
手元に券があれば貴重。 >>886
3段式だと場所によって寝台料金違ってたな 俺も中段より上段派
通路上の荷物置場分
空間が大きかった >>887
客車三段式は、昭和50年頃から一律料金。 >>888
荷物置場のスペースが思った以上に上段の救いになってたね。 九州には電源車の一部と12系併結用以外はほとんど20系が配置されていなかったんだよな もはや初老から後期高齢者の爺さん世代しかまともに語れないスレになってしまってるな。 客車 上800 中900 下1000
電車 上中1100 下1300 「知らない」世代が「知ってる」世代の言ってることを理解できずに「老害」の一言で片付けていい気になっているのは、どんな場面でも一緒なんだな。
俺は「知らない」世代だがな。 「10年早く生まれていれば・・・」
鉄道ファンの思い。 >>895は電車寝台が出た時の2等寝台料金を書いた
うろ覚えだが、結果的に>>900と同じ意味になるのかな? 自由に旅行に行けるようになった頃は、10系は引退し20系の定期運用も消滅直前だった
生まれるのがあと五年早ければ、銀河や天の川に乗れたのに
10年早ければ奮発して個室にも乗れたのに ガキの頃にブルートレインの存在を
もっとよく知っていれば…orz 東京口に二段寝台デビューとかで
学年誌にはやぶさ乗車ルポが載ってたのを見た記憶がある
20系について知るのはナロネ22とナシ20が引退してから ナロネ20やナロネ22の個室を経験した人からすると、
オロネ25の個室の居住性って駄目だったの? ルーメットは経験ないがオロネ25は壁が前に迫ってたりベッドからずり落ちそうになったり
個室のメリット以外あんまりなかった記憶ならある。
まあ、かの西村京太郎氏が小説「夜行列車殺人事件」でダイナマイトで爆破したことからお察しください オロネ25って寝台幅70cmだっけ
いくら個室でもそれであの料金設定はあまりに酷い >>910
消毒くさくない病室
そんな感じだったな >>914
うちは後ろでも前でも気にしないけど
気になる人は気になるもんなんかねぇ…>>向き >>910
同じシングルデラックスでもJR化後にできたタイプは結構豪華だった トワイライトEXPのシングルツインがナロネ20/22の1人個室とほぼ同寸だとか
ベッド二段だし洗面台無いけど車内通路も途中で切り返しがあって
レイアウト的に疑似体験が出来て良かった >>917
あけぼの用は2人でも利用可でナロネ20の2人個室とほぼ同じ寸法だったみたいだね >>907
20系のルーメットに優る点は何一つ無い。殺風景な室内、Bネと同じ寝台、スペースが活かされていない閉塞感。ルーメットは狭いながらも良く考えられた造りだったね。 >>918
シングルツインはB寝台個室扱いだから値段もA寝台個室よりは安い 昭和30年代の20系、特に「あさかぜ」は「動く最高級ホテル」といっても大げさではなかった。
なにしろナロネの利用者は政財界の大物や超一流芸能人・超一流プロスポーツ選手のどれかだったんだから普通車とは明らかに客層が違う
当時のナロネ20、ナロネ21は岸首相など山陽線沿線に選挙区がある議員が地元と東京を往復するために乗っていた
誰が言ったか知らないが「動く執務室」なんてあだ名もあった ナロネ20の2人個室で相部屋になっても
「おやお久しぶり どちらまで?」
「どうもご無沙汰です 会議で広島ですよ」
みたいに顔見知りなんてケースもあったんだろうね 一人客で敢えてコンパートメントとる人ってどういう理由だったんだろう? >>925
1人用が満席だからとかね。
今でもフェリーの一等とかは相部屋になる可能性があるよ。 >>914-915
後ろ向きについては、北斗星のロイヤルでも同じことは言えた。 >>925>>926
ルーメットもプルマンも満席でコンパートメントの上段が空いてたと云うことは現実的に有り得た話だ。 うちが20系に興味を持ったのは
特急あさかぜ
と言う短編映画(動画?)を見たのが
きっかけだった
それから模型が欲しくなり
KATOのNゲージ車両
(後年16番にも手を出す)を
購入したりした 模型で見ると関水金属の最初の20系は今の基準では酷かったなあ。ケツはナハフ20しかない、
だから昭和30年代の編成で再現しようとしても
ナロネ20もナロネ22もない。帯が太い。これは
パートのおばちゃんが手作業でマスキングして
作ってたからか?重要なアクセントの窓枠のHゴムが再現されてない。室内灯もテールライトも点かない。 だが、模型はあくまで模型、
実物見たけりゃ駅までどうぞという時代であった。カツミのHOはまずまず? プレスアイゼンバーンという超ハイソな模型出してるOJは
ため息出るほどの出来栄えだった。
やがてカトーがプラ薄板のHO出して、
アイゼンバーンに匹敵する出来栄えの
良作を出した! それからまもなく実物が無くなり、また間もなくカトーがHO並の
出来栄えのNを出した! >>931
アイゼンバーンの20系の製造元はカツミなんですが… そうなんだ。ボディはそのままで塗装など再検討して細部を徹底的に
作りこんだということかな。KATOはそれを参考に廉価な量産品を
つくった、と。20系に限らず実車が無くなると模型が充実するのが
ちと寂しい気もする。 20系は臨時あさかぜ以外の特急列車にはあまり使用されなかった気がする 創臨も忘れないでやって下さい。
あれに乗る旅行というのは信者通しで楽しかったのかなあ >>941
お前がな
>>938のレスが妥当かどうかは団体列車かどうかは関係ない
問題なのは特急列車だったかどうかだ
団体専用列車も普通列車だったり急行列車だったり特急列車だったりするんだよ 創臨20系で使ってた8111レ8112レは急行スジだけどね。 >>943
だから指摘するならそれを指摘しないとイカンのよ 指摘されるまで特急だと思ってたんだろ?
ちなみに牽引機は65PFじゃ無くても牽けるぞw >>945
いいや思ってないよ
創臨の種別なんて興味ないから特急だったとか急行だったとか考えたことがない
>>939は
創臨は団体列車だべ
とでも言っとくべきだったな
>ちなみに牽引機は65PFじゃ無くても牽けるぞ
またそうやって流れと無関係なことと言い出す
大丈夫か? だから話の流れが読めてないじゃん。
>>936からの流れで臨時特急に使われたのを挙げてるんだぞ。
創臨は特急でも無いし列車名でも無い。
そんなんだからアスペって言われるんだよ。 >>947
流れ読めてないのお前じゃん
もう一回>>946嫁
「創臨は団体列車だべ」ってツッコミはおかしいんだよ
「創臨は急行列車だべ」だったら普通の流れ 謝ったら死ぬ病の老害同士の醜い争い
いいぞ、もっとやれ いつもの66あさかぜクン大暴れだな。
いいかげん写真を見せて欲しいものだw >>952-953
おまえらみたいなのが一番いらないんだけどね >>936
何を言っているのか理解に苦しむが、20系を使用した歴史がない寝台特急の方が少ないというか、ほとんどないのだが? 北斗星、出羽、鳥海、いなば、紀伊、明星(定期)、なは さちかぜ、へいわ、月光、きりしま、金星、紀伊、いなば、鳥海、出羽、なは、北斗星、トワイライトエクスプレス、カシオペア
こんな感じ?
さちかぜ、へいわは寝台特急なのって面もあるしさくらになった訳だから除外の方が良いのかな? あはは、国鉄時代のブルトレで考えてたが、電車特急いれたらけっこうあったな(苦笑) 荒れる原因になったようでゴメンよ。
936見て20系を持て余してた昭和50年代後半の話かと勝手に
解釈した。関東あたり住んでると20系って臨時あさかぜが
唯一花形運用で、あとは銀河や天の川とかの急行運用、
ちょっと定期運用っぽくいつも来るのが創臨だったからねえ。
ヘッドマークはないんだけどある時間になるといつものように
来る12系14系20系のヘッドマークもない地味な列車という雰囲気は
この時代に写真撮ってたアニキ達には分かってもらえるはずと思う 国鉄時代は銀河が真っ先に絵入りマークになったけど他の寝台急行とは別格に扱われていたのだろうか?
国鉄最末期にかいもんと日南が絵入りになったが他は「急行」だけだったし。 急行で愛称がついた先駆けだから
それなりの格はあったのでしょう 格というか利益出してる列車だったんじゃない??90年代はいっても乗車率
結構高かったような。だが大阪や東京への出張サラリーマンが夜遅くまで
飲まされて、銀河で帰って朝そのまま出勤とかありそう。 昔、品川で『銀河』の編成が車庫に入っていくのを見た。
切り離しもないのに中間にナハネフ23が連結されていて、不思議に思ったもんだ。 品川駅では日中に編成組み換えでDE10に引かれた20系他品川客車区の
車輌が行ったり来たりしてたね。そして大宮送りのやつは最後尾に
ナハフ11を連結して出発時間までホームに待機 >>964-965
「銀河」は20系時代が一番華だっただろう。
B寝台は三段式でも、関東一円と関西一円の間は便利な列車だったし。
JR化後、B寝台が二段化されて衰退の一途になった。
「銀河」の守備範囲地域にも高速バスが直で結ばれ、東京〜京都・大阪も何本もの
高速バスが発着するようになった。
それにビジネスホテルチェーンの拡充、飛行機の実質値下がりで、寝台列車のコスパが
悪くなる一方。
20系時代に11両の客車を繋いでいたのに、二段寝台化後の90年代後半は通常期6両!
かなり衰退が進んだのを感じた。そして案の定10年前に廃止orz 寝台が二段になったから衰退したのか
衰退したから二段化されたのか 20系銀河というと新大阪駅下で
昼寝しているのをよく見かけた >>969
二段化>>少しでも収容数が減らないように工夫>>
それでも収容数減>>テコ入れ>>二度の値上げ
>>衰退>>JR化後は自然死させるようにテコ入れせず
>>結果全滅
違ったっけ? >>967
自分の頃はDD13だったな。品川機関区、一つ目の初期型が残ってた覚えがある
品丼食いながらそれ眺めてた。小回も大船試客も懐かしい >>972
個室車両の導入はテコ入れってほどではなかったか >>974
時代のニーズに合わせたものだったけど
その文収容力落とすのが多かったから
(あけぼのソロは論外)
収益につながらなかったのかと…
ソロとハネが値段同じだったし… >>974
いざ個室の寝台券取ろうとしても、両数少ないからほとんど取れなくて、開放寝台も価格放置で
結局利用者いなくなったねっていえるまで放置して終了。 >>966
20系銀河所定E号車ナハネフ23。専務車掌室が必要な為、しかしながらしばしばE号車にナハネ20が入ることがあり@号車ナロネ21J号車ナハネフ22の両端にしか専務車掌室がないので乗務員が不便な思いをしていた。 荷物車のエピソード
あさかぜには博多発着の荷物向けに5t積のカニ21を起用
さくらには2tのカニ22を
はやぶさには3tのマニ20を起用 >>975
>その文収容力落とすのが多かったから
>(あけぼのソロは論外)
じゃあどうしろというんだよ >>979
そこが難しいんだよ
快適性と収容力は相反するからね…
部屋の大きさで値段を変えるべきだったかな? >>981
それなら2段ハネでも十分でしょ>>二度寝 >>972
新幹線博多開業→終了
以上
そもそも二段化なんて三段である必要がなくなった(新幹線岡山・博多開業による需要減)から出てきたようなもんでしょ。
トイレの向きを変えたりして16区画を17区画に増やしはしたけれど。 >>983
需要もまだあったほうだからいかに詰め込むかって思想はまだあったって証拠だしな。
仕方なく、時代に合わせて(ようやく)二段にした感じだもんな 懐板は即し判定無いよね?
新スレに保存車の画像貼ってみたよ >>963
A寝台も最後まで連結されていたから
格は結構高かった 20系じゃないけど地元にちょっと有名な個人所有の物件あるけど
最近になって屋根抜けちゃった様子
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