【竿灯】20系固定編成客車スレ04【日本海蔵王】©2ch.net
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20系固定編成客車を真面目に語るスレです
前スレ後半がああいうことになったので
雰囲気一新のためにスレタイの方式を少し変えました >>328
広鉄では1977年10月以降保留車(厚狭駅疎開留置)になっていたナシ20(21.25〜29)から改造する計画だったが本社の許可が下りず代わりに当時南シナで予備車に余裕のあったオシ14を回した次第。 >>326>>327
昭和46年(1971)下り雲仙2号火災事故、ナハ10 54全焼が実例。当時ニュースで視て余りの焼け方に驚いた。 ハードボードとはよく安い本棚に使われているMDF材の一種かな?
床の下地材で高密度の堅くてくっそ重いボードなら今でも普通に
住宅建材としてあるね >>322
新幹線開業で、座席車利用客を新幹線に誘導するために寝台改造した。全車寝台化はそれがきっかけ。
しかし昭和50年代から国鉄が値上げを繰り返し、寝台特急の利用率が振るわなくなったのは、
全車寝台化で設備の選択肢がなくなった原因があるので、確かにそれはある。
特に昭和55年10月改正以降、山陽本線の夜行列車が寝台特急オンリーになったが、
九州方面のワイド・ミニ周遊券の移動ルートは山陽本線に限られていたので苦難があった。 >>331
ナシ20はあさかぜに始まり、あさかぜで終わった期間が1958年10月〜1978年1月なので20年足らず。
オシ14は1972〜1999年、オシ24は1973〜2006年、スシ24は1988〜2015年なので、確かにw >>336
ナシ20はその後に臨時などにも連結されていたこともないからな
ちなみにスシ24は1987年に数回団体列車に使用されて
2015〜2016の特別なトワイライトエクスプレスでも使用されていた 1970年までナシ20の増備しておきながら
1975年3月改正で東京口以外の食堂車連結廃止で余剰車大量発生
落成から7年で廃車とか酷いのもある >>331>>336>>337
スシ24の種車は1971〜74年製造だから、もっと活躍してる
サシ489-4→スシ24 2が最長で45年間活躍
(白山廃止〜改造まで2年半ほど休車だが) >339
サシ489がスシ24に改造して、結局45年も使用されたのは、
新車導入となると、保健所に最初から手続きし直しとなり
それが面倒だったからではないかな。 >>340
ただ単に新車なんて作る状態でなくて
オシは一応使ってて余裕ないから
サシ489から無理矢理作っただけ ここは20系のスレなんだけどな
20系の食堂車は、基本構造はオシ17型と大差ないもので、電気レンジと、業務用冷蔵庫が設置されていた。
昭和30年代、冷蔵庫の普及率はわずか1%。今や生活に欠かせない冷蔵庫ですが、
50%を超えたのは10年後の昭和40年。さらに10年後の昭和50年になって、ようやく1世帯に1台になります。
昭和30年代当時、冷凍食品は今ほどメジャーじゃなかった。 冷凍食品とセットで使われる電子レンジが本格的に普及するのは、1980年代以降です。 >>338
ナシ20は1両も他の車両に改造された車両がないんだよな
その上にあさかぜ運用終了後に営業はしなくても臨時列車や団体列車に連結されたこともない 初の完全電化食堂車だよね
従来は氷冷蔵庫に石炭レンジで運用が大変だったみたいだしね
電子レンジに関してはオシ16やサハシ153の功績だからスレチかな 大いなる驀進で車掌と列車ボーイが食堂で
超大盛りのカレー食べてるシーンがあるけど
実際に食堂車って食材を余裕のよっちゃんで
たらふく積載してたんだろか? >>347
まかないは本来ならハチクマライス
だろ? >>346
20系客車は当時の最新技術を投入した冷暖房完備のハイテク客車だからな
しかも当時「車内でビフテキ(死語)が食える」これだけで有り得ない
そりゃ利用者多数の人気列車にはなるだろう
・・・信じられないかもしれないが、1958年当時の家庭用冷蔵庫の普及率は、3%。
1955〜1960年頃、家庭で食べるご馳走の代名詞と言えばすき焼きだった。
要するに、牛肉や豚肉というのは、かなりの贅沢品だったのだ。 このドアは半自動です
開く際にはレバーを引いて下さい >>349
>信じられないかもしれないが、1958年当時の家庭用冷蔵庫の普及率は、3%。
家庭と比べても意味ないけどな
あくまで食堂なんだから >>349
戦後は電気冷蔵庫はともかく、氷の冷蔵庫はあったでしょ
氷屋が毎日来ていたって話を聞いた時は驚いた。 カニ25はカニ21の後期車を使用していれば
もっと長く使用できただろうな 1975年3月改正で分割併合がある明星・あかつきを25型化することになり、当時構想があった15型を1978年10月改正で投入するまでの
繋ぎとして、マヤ20と同様の位置付けで2両だけ改造されたんだから、最初から長く使う気など全くなかったでしょ
運用・保守する側から見れば異端車は種類も数も少ない方が良いに決まってるんだし >>355
位置付けはマヤ20と同じでも実際の使用ではカニ25もカニ(カヤ)24と同じく本務電源車としても使われたのがマヤ20との違いだね。 >>357
マヤ20は1963年11月に臨時あさかぜの電源車として東京まで上ったことがある >>346
20系の食堂車の登場で一番の恩恵を受けたのは西鉄ライオンズのナインだった。
大阪に移動した西鉄ライオンズの選手、長時間の移動となれば、腹が減る。旅と言えば駅弁だが、10時間の長旅で出されたのは、人造米の駅弁1つ。人造米は、麦やとうもろこしなどのでんぷん質から作った米状の食品で、米ではない。
衛生管理が今よりもずっといい加減だった大昔、球団からは「車中買い食い禁止令」が出ていた。
変なモノを食べて腹を壊すのを防ぐためだが、ある遠征で豊田泰光選手が球団から出された弁当だけでは腹が減ったから、こっそり下関駅で途中下車し、うどんとかまぼこを頬張った。
それが原因で、食中毒に。翌日の試合には何とか出場したものの、腹が痛くてはプレーに身が入るはずがない。結局、試合に負けた。
電気冷蔵庫がある20系登場で「車中買い食い禁止令」は解除された模様 >>360
鶴見事故による途中折り返しで沼津特発となった20系みずほと20系あさかぜが追突事故を起こし双方の車両が破損
この追突で被災を免れた20系車両を組み合わせて「あさかぜ」として運転したが、その際に電源車として組み込まれて上京 >>362
昭和28年(1953年)、米の配給不足と国民の栄養失調を補うために「人造米」が出回るようになった。
これは小麦粉やでんぷんなどを混ぜ合わせ、米の形に整えたもの。
米価格の高騰などから一時は普及したが、その後、安定して米が供給されるようになると、
食卓におけるシェアは次第に縮小していった。 >>362
そりゃ、今とはまるで時代が違う
昭和33年、厚生省が「栄養白書」の中で日本人の4人に1人が栄養不足であると発表した。
当時の日本はまだ貧乏国だった。 米の形にわざわざするのが凄いよな
団子かなにかの形で主食すればいいのではと
思ってしまうが、精神的にご飯粒にこだわったんだろか >小麦粉やでんぷんなどを混ぜ合わせ、米の形に整えたもの。
その手間を考えたら米を作る方が経済的、効率的な気がするんだが(笑)
現代人の感覚か… >>357
>>360
カニ25は向日町に転属して本務電源車を担当することもたびたびあったからな >>369
米が欲しい時に機械やなにかから米を作れるのなら苦労はしねえわな。 >>370
1両だけな
もう1両は改造後3年で廃車 カニ25-1は結果的に20系一族の中で定期の特急運用についていた最後の1両ということになるのかな? >>374
昭和55(1980)年10月最後の20系定期特急あけぼのが24系化後も彗星.明星に運用され奇異な運命だがそういうことになりますね。 >>375-376
カニ25になったとはいえ元は20系だからな 「20系」じゃなく「20系一族」だからな
と言うことでおkなのかな? カニ25-1
ttp://blogs.yahoo.co.jp/vgb3dx/62926784.html
1981.7.26 6028レ(明星4号)大阪駅
ttp://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-01-96/vgb3dx/folder/1561094/84/62926784/img_0?1412322882.jpg >>379
当時俺はカニ25は25形用の電源車と思ってて雑誌で実車の写真見てナンジャコリャと思ったのを思い出す。
カニ25という形式はカニ24-100が名乗ったらしっくりくると思ったね。
1981年ということはテールマークは絵入りになってるはずだけどカニ25は文字のままなんだな。
でもこの明星、なんか手書きというか手作りチックな感じ。
ついでにいえばこの当時関西〜九州ブルトレの25形使用列車でカニ24が使われてるのは見たことない。
カヤ24もしくはこの画像のようにカニ25がデフォだったのだろうね。 コロタン文庫のブルートレインの本を買ったのが1981年
大阪にカニ25なんてあるんだーと思いつつ未だに走ってる
ような気がする。しかし粗末なテールマークだね。絶縁テープ
でも貼り合わせて書いたの?みたいな。
昭和35年の初期車の貴重な生き残りではあったわけだが あとマヤ20が包帯巻いた日本軍の傷痍軍人みたいに見えて
痛々しいと思うのは俺だけ? >>368-369
現代でも米粒状の擬似ライス(コンニャク)があるんだから、
時代ガーってのはちょっとちがう カヤ21には一部しかJRマークが付けられなったけど
なぜなんだろうか >>384
解体するのかな?
それとも、どこかで保存? >>385
民営化にあたって車両に対するJRマーク貼り付けの指定リストに入ってなかったから >>386
もう車体がボロボロだろうから
運び出せないだろうし
展示するにも内装が完全に違うから
資料にもならないし
解体するにしてもアスベスト使ってるから
普通に解体するのとはわけが違うからな
難しいね >>388
JR東海だけ後年崩壊した
113系で一回り小さいJRマーク(他のJRはスカ色に合わせて大きさを決めてたため湘南色では塗り分け線と被った)とか新幹線で大型JRマークやめて小型JRマークとか >>335
単純にブルートレイン増発による「20系」寝台車の不足からだと信じていたが。 >>338
急行用の座席車に改造とかもできなかったのだろうか 運用の都合で最近もたまにあるやろ
山手線の6扉車とか >>338>>394
落成から7年で廃車=ナシ20(22.23)昭和43年大ムコ新製配置 昭和47年10月盛アオ転属。昭和49年ゆうづる、あけぼの食堂車欠車処置により取り合えず広セキに転属するが転属後は一度も運用されることなく昭和50年廃車。 >。394
'75念の時点では急行に転用とかまだ考えられてなかったのではないかな
座席車に改造と言うが足回りは流用出来るけど車体はほぼ新製になるし >>335 >393
当時の鉄道関連の雑誌で、新幹線との料金のバランスをとるためという
記事があったと思う。
要するに在来線夜行特急の実質値上げによる増収策に他ならない。 >>397
75年当時20系の急行転用を躊躇したのは比較的短距離の北陸.北星.安芸(音戸)を特急に格上げしたことで明らかだろう。. >>400
最初から食堂車を組み込まない形での20系特急新設はこの時が最初で20系を使った特急新設の最後となった。 >>402
始発が大体21時から22時台で到着が6時から7時台従来ない形の短距離寝台特急でした。 ナハネの53cm幅って自分の布団で測ってみたが狭いなw 片側は壁だし圧迫感がハンパなかったはず。
でもデビューから60年代にかけては、これでも冷暖房完備だし若干座高も旧型よりはあったから
特急車両として君臨できたんだろうな。。 つるぎは食堂車連結してたが営業してたんかね?
当時の時刻から推測すると上下とも直江津―新潟の2時間くらいしかないけど >>405
20系当時のつるぎは日本海と共通運用の盛アオ所属車。食堂車は営業休止で当時20系特急で唯一食堂車非営業だった。 >>404
「列車で横になる」と云うことがいかに贅沢であったかー当時の国鉄の輸送事情、時台背景を理解しないと20系や10系の52センチ寝台を正しく評価は出来ないだろう。 押入暗室というのもあってだな。焼付けすると薄暗い赤い光の中で
印画紙にナハネフの丸っこい尻が浮かび上がって海坊主の幽霊かと。
モケットにこぼれた酢酸が染み込んで酸っぱい匂いするけど
まあ気にしない。 天井にファンデリアの出っ張りが無くて広々としてる
中段を上に跳ね上げて収納し背もたれは別途設置されてるから、着席時に52cm幅をフルに使える
通路に簡易椅子がある
10系ハネと20系ハネの接客設備の違いはこんなとこかな
これにプラスして遮音性の高さと空気バネによる乗り心地の良さ
急行転用になかなか踏み切らなかったのも頷ける 10系は窓が開閉式だったからね
遮音性の差は大きいな 特に10系ハネの通路側は下降窓だったから雨水腐蝕で末期はボロボロだったなw >>404他
3等寝台というものは戦前から幅52サンチ
20系製造段階の概念が単にまだ従来のままだっただけ
幅52サンチでは狭いという風潮になってくるのはもっと時代経てから 戦後第一世代の二等寝台車スロネ30の二段寝台の幅が確か60cm
それを考えれば52cmは妥当、と言うよりは輸送力増強が至上命題の昭和30年代初頭に座席より定員の少ない三等寝台を復活させたのは英断という他ない 今の国際線で言うビジネスクラスとエコノミークラスのあいなかみたいなもん >>417
スロネ30の下段は55cmしかなかったんじゃないかな 昭和42年に電車寝台の581系がデビューして、その2等寝台の居住性においては
従来の客車ハネを凌ぎ、1等寝台に引けをとらないサイズで、サービスの「ねじれ」?の
ような状態が出来上がったんだろうか。。当時の評判については知り得ないので。 いや、そうだよ。だから当初からずっとロネが作られなかった。
(583「きたぐに」充当時にハネ改造でロネは一応は誕生したけど、
それはまた別の理由からなので) >>422
昼間のリクライニングシートと夜間の寝台を両立する方策=583系での本来の1等寝台は企画としてはまとまりそうだったという話があったな。
でもリクライニングシートとベッドの両立は今で言うなら飛行機のファーストクラスやビジネスクラスにあるようなフルフラットを思い付くからアイディアとしてはこんな感じだったのだろうか。 >>423
14系化の時にA寝台を望む声があったんだろ
対して夜行だいせん20系化でA寝台とG車が無くなってるけど
こっちは望む声が無かったのかも >>423
あれかな?
役人が出張する時にA寝台料金で請求出来るからかと。実際は分からんが。 初めて乗った20系は、昭和49年「瀬戸」のナロネ21。今思うと、乗り心地や車内の静粛性は
14系や24系よりも優れていたことは断言できる。 ロネはとうとう一度も乗らず仕舞でしたわ
20系のハネも末期の臨時「ざおう」上野−山形間で乗っただけ >>428
スハネフ14はキハネフだからなw 14系はデビュー間もなく「きたぐに」の火災事故のあおりで
分散電源の問題性から、2年経たず(かな?)製造中止の憂き目に。。閑話休題 開放ロネなら乗ったこと有るけど、冬に乗った為に座席下ヒーターの熱がこもってサウナだった印象しか無いw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています