【琴電】昔の高松琴平電気鉄道【コトデン】 [無断転載禁止]©2ch.net
こんぴら号の奇矯な走行音・制動音が懐かしい
デパートビルが建つ前の瓦町駅の風景が懐かしい
嗚呼、昔の琴電スレ ここに始まる。 とにかくデカいというのが第一印象
それまではどんなに大きくても17mくらいだったからかな
国鉄のDCに比べれば小さいがなぜか比較対象にしなかった 瓦町駅はビル化されてから都会の平凡な表情に成り下がってしまった
何よりも頭上に建物が覆い被さって圧迫感が出てしまったのが大きい
4方面から発着する電車をウォッチングするのは、やはり青空の元でやりたった デパートビルは西武百貨店になるかもしれないといううわさも聞いた クーラーなしは確かに今となっては有り得ないがおそらく90年代までは夏の暑さも今ほど苛烈でなく、
窓を全開すればどうにかしのげるレベルだったと思う
「サウナ」呼ばわりも今の感覚で当時の状況を見てしまってるのではないかな 文句は京急に言えとw
なんでこんな暑苦しいデザインにしたんだとな >>10
そうだったのか
西武に来て欲しかったなあ >>20 電車での関わり(直接取引)を拒絶?していたのにソレはムシの好いハナシでは? 昔の鉄オタが羨ましいよ
車庫に行けば数えきれないくらいの種類の電車があり、
そのほとんどがゲテモノ系だったというじゃないか >>24
楽しかったよ、車庫に行かなくても朝の瓦町で充分楽しかったし、変電所に超ゲテモノ制御車も放置してあった。 >>23 琴電に決まっているじゃん。
山交からのの電車は、恐らく西武所沢が紹介したのだろうけど、所沢には仕事をさせていない。 そうだ、遙々山形からも中古を買い込んだんだよなあ
そんなに出物というほどの車だったのかなあ 昔の瓦町車庫って現在のどの辺にあったんですか?現在写真と過去写真を定点写真で見比べたいです。 昔の瓦町はYoutubeに何本かアップされてる
懐かしくて涙が出てしまった ホームで8ミリビデオを回してる人もいたな
こちとら安物のカメラでパシャリパシャリ。
機動性では全く歯が立たない
羨望の眼差しで見ていたっけ
8ミリ持ってたのはいい年したオッサンだったた
たぶん金持ちw >>28
どんな電車が来るか分からないワクワク感があったね
そんな中で阪神ジェットカーと名鉄HL車は不人気だった >>33
ジェットカーも試作車もあったし、名鉄も高運やそっくりな三岐120型が居たりで今思えばバラエティ豊かだったね。末期は台車も新調してたのにあっさり廃車は残念。。 ブラタモリで琴電出てたな
琴平に四社も乗り入れていた過去があったとは…Σ(@Д@)!! まあ俺にとっては盆と暮れのビッグサイトが現代のこんぴら参りだが…w
いくらあの時代娯楽がないからって、こんぴら参りがコミケとディズニーランドを合わせたようなものだからって!!
需要と供給のバランス崩れ過ぎ!!
ビッグサイトはりんかい線とゆりかもめ、鉄道は二つだ(船もあるが)。
羽田空港も、成田空港も鉄道は二つだ。 名鉄HLは見かけがあまりにも平凡で
不人気というよりは、存在感がなかった
最大派閥だったのにね
JETカーは両開きドアが珍しかったなあ 毎日通勤通学で利用する者にとってはどうでも良いことだが。 >>6
でも窓のスタイルがオリジナルのものと、
2ドア化時に新設されたものとでは
異なっていたよ
上手く似せてあったとは思う >>40
そのとうり
ただでさえテンション低い朝に、たまたま乗り合わせる電車の出自に関心を持つのは
余程鉄道が好きな人くらいでしょう >>27
長尾線昇圧絡みでとにかく1500Vの安い中古車を集めていたのでは?
東濃車も同じ頃では?
>>44
まだ大手私鉄が冷房改造やっている時代に冷房車が放出されたのもすごい話。 600は加減速が1000形よりも劣って使い辛かったのだよ。しかも2扉クロスシート。乗降に余計に時間を喰う車は厄介者としか言いようが無い。
帰宅時に座席料金を頂戴して一稼ぎしようとの発想が出てくるのは全廃の直後だった。
前面サボ替え用の扉も付けて貰って、スピードが乗ると独特の唸りも堪能出来て、こんだけ長生きさせてくれて随分幸せ者じゃなかったのかな。 他の京急車はそんなに改造されてないのに
600だけは原型がないくらいに顔面整形しちまっね あれは手術失敗だと思う
前面貫通でないとダメなのか? 増結した時に車両間を行き来できるようにしただけ
デザイン面の問題ではない 手術で阪神顔になったのにはワロタ
惜しむらくは方向幕が付かなかったこと。
ケチることなかったのに‥ 貫通扉が目立ってないので阪神顔というよりは京成顔が相応しい 無理とは思うがシートだけは京急時代のままでいて欲しかった
クーラーがあることだけでも良しなのかな クロスのこんびら号や1020型も軒並みロング化した時代だったしね。
琴電が求めていたのは瓦町のカーブ絡みで2ドアの通勤車。 ただでさえホーム縁と車両の隙間が大きいのにカーブ上に停まったらそりゃ余計に広くなってしまうぞな
中央扉を埋めるのも有りだったかもしらんが
ホームの改良や伸縮形のステップの道はなかったのかな >>53
そう。
運転初日はテレビニュースになったくらいに
地元の関心は高かった。
そしてインタビューされて語る客は口々に
クーラーがある電車が来てくれて嬉しいと慶びを表していた 民事再生法で大量税金を投入して
経営者の体質は変わらず
結局は日本は財閥が得する国で貧乏には知らずに生きてる
税金は自分のお金だと思って湯水のように使い
また赤字で倒産させて会社を大きくさせて私福をふやす。一般市民には分かることのない世界
バカな一般人達 !
一生騙され尽くして死んでいきなさい
ワッハッハ 再生法適用前後で駅員や乗務員の態度が反転したのにワロタ思い出 電車の装備品で、冷房ほど存在感が大きいものはないからな
今は有るのが当たり前で忘れられているが、入線時に冷房の有る無しで一喜一憂したのは夏の思い出
冷房車と暖房車の混成だと、慌てて冷房車のほうへ走ったり 分かる
夏の猛暑は地球温暖化とかヒートアイランド現象などというが
昔からこの地方の夏はクソ暑かった
朝にクーラー付きに当たれなかっただけでテンション下がったこともあった 琴電の社員はかわいそうだわ
安い給料で一生懸命
倒産した経営者の報酬を教えてあげたい 会社が倒産しても社員は雇用が維持されるのは運が良かったの? >>64
今は破たんしても再生させるためのスキームを優先して作るようになってんでしょ 希望退職者を募ったはず
一人も去らずに再スタートは有り得ない 本業で傾いたのなら諦めもつくが
副業でコケたツケが回された挙げ句、潰れるなんて本家(運輸部門)の人間は
ブチ切れただろうな そういえば1980年代終わりごろから1990年代ごろまでに琴電の電車のドアに貼られていた
赤いカニの絵が描かれていた「ゆびづめご注意」のステッカー、
ケンタッキーフライドチキンで「琴電ゆびづめグラタン」に、
ミスタードーナツで「琴電ゆびづめパイ」に、
ロッテリアで「琴電ゆびづめリブサンド」にされちまったよな
その琴電のカニのステッカーについてた広告ってチオビタドリンク(大鵬薬品のドリンク剤)だったっけ? >>68
潰れはしなかったがバブル期には大手でも副業(主に不動産)で大火傷負ってる
商売ってのは難しいもんだね >>58
都会だってその25年くらい前に同じように冷房車登場との派手な宣伝に釣られてる乗客が居たのだよ 琴電の真鍋財閥は税金を自分達のお金ぐらいと思って使ってるから瓦町フラッグもひどいもんです
金持ちは何でも許されて羨ましい >>72 それでも鳩山由紀夫異常の苦労知らずの馬鹿で国賊ではないでしょ? >>70
損失を出したのは事実だが
今の感覚で是非を論じるのはどうかな
当時はそうせざるを得ない環境にあったのかも知れないよ 座席なんてどっちでもいい
とにかく夏のクーラーだけは最低限必要
1990年頃の利用者の声 少なかったとは言え、琴平線は冷房車の可能性があるだけマシだった
長尾志度は、各地から寄せ集めた木屑が全て
平成になってアレではねぇ…
建築限界が、重量制限が、などと言っても、客にとっては知ったことではない そのとおりだね
遅々として進まない冷房化。
モタモタしてる間に乗客の逸走が進んでしまった 夏は暑いもの。少々暑いくらいでグダグダぬかすな!
という思いだったのかな 一年12ヶ月のうち長くても3ヶ月しか使わないクーラーには
投資の価値がないと判断してたのでしょう まだ当時は比較的涼しかったから
ベタなぎでも電車が走れば風が入って涼しかった
ただ、80年代に入ってからは大半の路線バスも冷房化され、国鉄・JRも冷房化車両が増えた
それでもあの当時は電化する対JR対策として琴平線車両の(あれでも)大型冷房化とデパート建設に血眼となっており、
他2線は老朽更新以外目もくれなかった
だから、破たんするまで国鉄・JRと仲が悪かった
デパート経営をせず、新駅と送電能力向上、そして重軸重化に新車導入をしていたら、
コトデンスーパーの半分はマルヨシとタイアップし規模を大きくして残っていた 高松築港駅
軌道である市内線を廃止にする代わりに作られた
始めは名称も「築港駅」で、今の高松高検の北側のカーブ上に仮駅として作られた
なぜカーブ上かといえば、そこまでは昭和3年の博覧会の時に埋め立てており、
その北側の細い堀は埋め立てる工事をしていたため
少しして城側を志度・長尾線用の600Vに落とし、「高松築港駅」に改名
で、埋め立て工事等が終わった昭和30年に現在の場所より少し北へ移転開業
当時は琴平線用の4両ホーム1つと、志度・長尾線用の2両ホーム2つの相対ホーム(1つは切りかけ)だった 小型車換算で
この続きは明日 >>81
そうなんだよ
先にバスに冷房サービスを始められてしまったのが痛かった
これはどこのローカル線でも同じ。 中小私鉄・路面電車・路線バス
どれも1980年頃冷房化が始まったが、10年後にバスはほとんど冷房車に
鉄道車両とバスでは耐用年数が違うから、まぁ仕方ないけど
中小私鉄にとっては、冷房改造するのも中古電車探すのも大変だ
地方の普通列車に冷房は時期尚早と言ってた国鉄も、民営化直前から一気に冷房車が普及した
ココの長尾線や志度線は… 冷房装置代に大したことはない
車内端に冷房装置を床上設置する場合なら、補強工事もごくわずか
しかし、冷房装置まで給電する箇所の機器代や改造費が膨大
それらの大半を省略できる直流1500V直接駆動冷蔵装置はあの近江鉄道が1991年に作った 長尾線、志度線の車両にバス用の冷房装置搭載して、早期に冷房化することはできなかったのだろうか?
長崎や熊本で路面電車冷房化が始まったときは、その方法でやってるよね。取り付ける車両が古すぎたのか? バス用の冷房装置使った路面電車は土佐電200と広電1900の一部程度。
長崎や熊本では,バス用の転用はなかった。 名古屋市からどういう縁で小型車しかも第三軌条集電式を買う流れになったのかしら コトデン側からの絶対条件は、小型軽量の冷房車
京王重機が必死こいて探したのでは?
各地の廃車から、使える部品を徹底的に集めた 38運用、名古屋836発藤ヶ丘ゆき
ほぼ確実に黄電
最混雑時間帯の暖房車(実は暖房も無し)、乗れる状態でも次を待つ人も
大学通学の時、そんな感じで乗っていた
数年後に高松で乗った時、全てが別物だった
変われば変わるものだと、ただ驚くばかり >>82 の高松築港駅続き
昭和41年に志度線側を再昇圧し、信号設備等の変更を行って昭和42年から再度複線運転化
高松グランドホテル建設敷地を抽出するため、昭和45年にホーム移転改築工事を行い、南側へ移転
インターネットで捜索していたら、移転工事中の貴重な写真(しかもカラー有)が発見できた
http://seishunm.blog.fc2.com/blog-entry-13.html
1994年に瓦町駅改悪工事で乗り入れ車両が志度線から長尾線へ変更
2000年代に入ってから、ホームのかさ上げと一部改良がされた 今使ってる鋼製車が古くなれば
また名古屋から調達するしかないよね
その頃には5050がやって来るのだろうか 大江戸線を転用するとなるとかなり手を入れる必要あるのでは? 琴電が1980年代に行うことは、
高松築港と瓦町へのビジネスホテルの増築と瓦町駅の改良、長尾線への18m広幅車導入、そして冷房化
1013形や1050形(1051F/1053F)、810Fと1011Fはどうにか2両で冷房化できそうだが、
それ以外の非冷房車はT車化した中間車を1両連結しなければ無理そう
3代目30形は志度線に回されるが、長尾線ほどではないものの橋梁が少しシビアだから、簡易冷房程度の冷房能力で妥協するしかない