C62・C59を語るスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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国鉄最大の旅客用蒸気機関車C62と最後のパシフィック形C59を主に語るスレ
そのほかC59改造機のC60、C62と同じくD→C改造のC61のことについても いやはや、世界のレベルはすごいですな(汗) 広く、世界に目を向けるべきですな。C59もC62もかたなし、ですな。南アフリカに比べると、日本のそれは
模型ですわ。てんしょう堂の模型ですな・・・精密感はあるのですが、迫力とか、技術を徹底的に突き詰める達成感というものは、やったああーーという物は
ありませんでしたな。日本の蒸気機関車は
当時から、少し感じていたのですが。絵本です。絵本で見るアメリカの太いたくましい機関車と、現実目の前を、毎日通過する機関車と少し違うなとは、6歳ごろで、感じ取ったんです・・・ 南アフリカのレッドデビル(赤い悪魔)
機械が君臨していた時代の美学
日本の蒸気は遠く及ばない南アフリカレッドrデビル26型
http://steampunkengine.seesaa.net/article/287069890.html C59の1号機、すなわちC591らしきものがここに初登場しちょります。戦前のプロパガンダニュースである「日本ニュース」開始後6分のあたりに登場。
アナウンス中に、日本が世界に誇る鉄道技術うんぬんと、ありますが、その技術の実態はオランダのほうが上位にあったんですね。オランダの1000型は、すでに
このずっと前に4気筒を実用化していたのですから。
ニュース映画に見る戦時中の鉄道
https://www.youtube.com/watch?v=zkbmNW1yd-8 修正のお時間
加熱式蒸気(誤) →→ 過熱蒸気(正) >>558
修正のお時間
シリンダーカバーが赤熱して(誤) →→ シリンダーカバーの黒い塗装がはがれて、その下に塗っていた古い赤色の塗装が、部分的に浮き出たもの(正)
日本国内で製造した機関車は最後まで、オランダ製の4気筒のような複雑、精巧なものを作れず、結局C59、C62とも単純構造の2気筒のままで終わった(正) その問題の、貴重な部品であるコロ軸受けを、敗戦後の日本人は懸命の努力で国産化して、短期間で諸外国に追いつき、鉄鋼の技術もまた新日本製鉄(旧・八幡製鉄所)などの
研究努力により、鋳物製品、鍛造製品を含めて多様な鉄鋼製品を生み出したのですが、それはアメリカの安保条約の保護下の特殊な条件の下での技術進歩でもあったわけです。
結論すれば、米国によりもたらされた進歩で有ったわけです。この私の考えと、ほぼ同様の意見が、5ちゃんねるの電子技術者の書き込みに上がっていました。ぜひ一読を・・・
(その電子関係の技術者の意見) 379番の書き込み
まったく勘違いしてるよ
明治維新も戦後の急成長も日本人が特段に優れていたわけではない
明治維新は西洋の300年も進んだテクノロジーや社会制度と出合って、
取り入れたギャップによって急激に発展したのだし、戦後はGHQが人権思想なり、
小作の解放、財閥解体を行ったからよかったの
ニュース系の板をみてお分かりのとおり、日本人自身はあまり頭よくないよね
【電気・電子】日本の電気・電子産業の現在過去未来
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/denki/1508192943/ >>565 続く
さらに、突き詰めて言えば、私はこの電子技術者の意見と、「ほぼ同じ」意見であり、何から何までこの人の意見と同じという分けでは有りません。
ほぼ同じという事は、わたしはこの人とは違った部分もあるわけです。
この人の考え
「日本人が特段にすぐれていたわけではない」
わたしこと、ザーザーザー闇の声の考え
「日本人は恐るべき、侮りがたい人間であり、世界史の根底の部分を変化させるほどの大発明を連発する人間である」
ここが、この人とは違う部分です。この点も、上記のXY打ち込みのエクセル方式で判明したのですが、半導体の研究・開発
歩留まり改善の生産方式、磁気の研究、液晶の発明、三洋電機が発明した液晶面のアイコンを指で押す携帯電話方式、
メカトロニクスの結晶ともいうべき半導体製造装置の原理原則、軽量で確実で自在で安価なパソコンノ基本OS、デジカメの発明など
なんのことは無い、今、中国、米国、台湾、韓国、欧州で大量に生産されている生活用用品の文明の利器は、その元をたどれば、この「日本人」という人間にに行き着きますからね。 ↑ ↑
おい、爺さんよ、その電子技術者なる物は、どうもその書き込みの内容と、その前後関係をじっくり読むと、どうやら朝鮮の人だね。まがりなりに
電子業界でお世話になって、飯を食わせてもらってる日本人なら、その書き方は無いな。その書き方は無いよね。
そうですね、その偽技術者には見事に一本、とられました。そこには日本人に対する愛情のかけらもなく、さらに一番必要な、いかに巧妙、狡猾な方法で
日本から技術が盗み取られて、米国→→韓国→→中国大陸 に渡されたかという 「技術・盗っ人の記録」 (ぎじゅつぬすっとのきろく) というものが一切、触れられていませんからね・・・・・・・・・・・・・・ だな・・・・・・しかし、巧妙な世の中になっているね・・・・・現代の日本社会というものは・・・・・・・・・・ウーーーーム >>521 続く
この、C591について更に、調査が進みました。
C591
C59のなかでも、特に九州に縁が深いのが、その1号機のC591である。戦前は名古屋機関区に所属し、東海道線の特急
を引っ張っていた。この機関車は終戦直前の昭和20年、8月14日に米軍機の機銃掃射に遭い、車体に傷を持つ「つわもの」
だる。当時の機関助手である稲垣信夫さんは、この掃射で傷を受けながら、九死に一生を得ている。
速度と馬力を備えた同型機C59は、時速100kmが出せるため以下のような逸話を鹿児島本線において残している。
C59が九州で残した逸話
昭和30年代のある日、一度だけではあるが、博多駅を定刻遅れで発車した急行列車を引っ張り、折尾まで飛ばしに飛ばして
39分で到着した。これは現在の特急「ソニック」にかなはないものの快速電車をはるかにしのぐ高速である。 ↑ ↑
なるほど、このC59という機関車は、抜群の名機という程ものではないが、日本国鉄にとっては、いざという時には頼りになる名機であり名馬であったわけですね。
車輪の軸受けのベアリングは、ころ軸受けが入手不能の、戦時体制であり、しかたなくただ、一枚の板に穴をあけてそこに軸を通して、申し程度に両側に抜け止め
の金具ではさんだ程度で、その台車は鋳物で、一体成型できず、ボルトナットで組み立てた華奢で強度の取れない、高速の出せない台座であったんですね。 一枚の板に穴をあけてそこに軸を通して、申し程度に両側に抜け止め をかました、単純なプレーン軸受け(正) それで、今となってはそのC59を運転して、当時、下富野にあった一軒家の前を、轟音とともに片手を窓枠にあてて、毅然とした通過していた
国鉄マンに対して、今は、ただありがとうという気持ちで一杯ですね(笑)。当時、特急を運転する方というのは、いわば頂点を極めたエリートであり、今では
新幹線を運転するような方であったわけです。陛下のお召し列車を運転する栄誉にあずかるのも特急の運転士であったと聞きます。
当時、わたしはこの、あさかぜ号のエリートである運転手と、瞬間的であるが、目が合っていました。視線の軸線が一致していました。そのとき私は、さっと目をそらすのが常でしたね。そうですね。歳のころでいえば
特急運転士は、30歳から40歳の方でしたか、私を見るその目が「おやっ、この坊やは確か、昨日もこのあたりで見たぞ、そいえばその前にも見たし
よほど機関車が好きなのかのかこの坊やは・・・」といってる様でもあり、毎日かかさず基地外の様に見ていた自分が恥ずかしくもあり、さっと視線をはずしていたわけです。
6歳といえば、少年は幼児から脱出して妙に大人びた複雑な性格に達する歳でもあり(笑)、恥ずかしくもあったわけです。
この小倉到着まじかの区間は、あさかぜは時速60km前後だったか、はっきりしませんが、小倉では停車せず博多まですっ飛んでいっとったわけですが、それでも70km
や80kmで小倉駅構内を通過するのは危険であり、私の目の前を、それよりも少しだけ、スピードを落として走ったとも考えられます。
あさかぜが小倉駅は停車しない件はこの、鉄道懐かし板にもありました。
寝台特急★九州ブルートレイン総合★134レ
http://mao.5ch.net/test/read.cgi/jnr/1501338535/ 昭和31年ごろの、小倉駅構内の案内放送の予想(汗)
「お知らせしまーーーす、まもなく特急「あさかぜ」号が、本駅を通過します、あさかぜ号、本駅、停車せずに通過いたしまーーーす。
白線の後ろまでお下がり下さい。 特急「あさかぜ」号、まもなく本駅を通過しますので、白線の後ろまでお下がり下さい。 ご注意下さい、特急 「あさかぜ」号まもなく
本駅を通過しまーーーーす(汗) 」
↑ ↑
爺さん、おめえよう、もう 止めたらどうだね おめえの書き込みは 矛盾してるぜ
考えてみなよ、おめえさんは よっ そこで一番大事なよっ 日本人が陥りがちな 集団でもって どどーーと 後先考えずに 突っ走る
脳天くるくるパー の 島国根性の 「日本人とドイツ人は、プロパガンダで洗脳されやすい国民ではなかったか 」 をあげているが
その割には、その後に述べるべきポイントから ずれてんじゃあねのかい あんたは 仏教徒じゃねえのか それも大乗仏教じゃねえのか
その割には、朝鮮人に対するものの、言い方きついというか 残酷すぎや、しないかい それから 陛下、陛下と あんたはもまた、あの尊王教の靖国派なのかよ
あんたもまた、いまはやりの 靖国派か おめえもまた、またはそれに 連なるケチな靖国くずれなのか・・・・ 大体からしてよう・・・・・・・・・・・今の世はよう
朝鮮人も日本人もろくな目にあわされてない、世の中だぜ・・・白人様や、中国人さまを、せっせと下から持ち上げて、下支えに支えているのは、日本人と朝鮮人じゃあねえのか
違うか・・・・・中国様がいまや大国の中国様におなりに あそばしたのも 日本人と朝鮮人がそれを支えたからではねえのかい
それから、私は、反米派ではないと、言いながら、米国に対する言い方は、きついものがあるし、それから、大牟田時代の苦しい、地獄の餓鬼界の食い物に不自由した
の、結核でどうの、こうの、を あなたが いくらそこで 訴えても それは 単に 貧乏物語の恥ずかしい事情の、羅列であって そんな貧乏物語は
はいて捨てるほどのものだぜ・・・・・・やめとけよ 悪いことは言わん もう止めにしとけ そんなもん どうってことは ねえんだからっ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・よっつ でよう でよう 悪いことは言わん もう止めにしとけ そんなもん どうってことは ねえんだからっ ようっ・・・・・・
BY JA1 でよう >>561
C59 5が走るモノクロ映像なら昔NHKで見たな。
『C595』とプレス鉄板のしょぼいオリジナルナンバープレートだったから、恐らく新製直後 >>576
C59 1ではなく、その日本ニュースに初登場の、低解像度の動画の機関車はC59 5 だったんですね(笑) >>565 続く
修正のお時間
デジタルカメラの発明は日本(誤) デジタルカメラの発明はアメリカ(正)
世界初のデジタルカメラを作ったスティーブ・サッソン
1975年(昭和50年)12月、イーストマン・コダックの若き開発担当者であったスティーブ・サッソンが世界初のデジタルカメラを発明しました。
この時スティーブ・サッソンは入社わずか2年、若干24才でした。
Amazing Graph
デジタルカメラの歴史。世界初のデジカメを発明したのはどこのメーカー?
http://a-graph.jp/2017/09/29/30185 >>577
C59 5はC60 37になり、鹿児島電化まで踏み止まった。
通算在籍29年は一族中最長。
C60 9のテンダに重油タンク載った写真あったんだね。 >>579
C60も重油専燃車に改造されたのですか。私の手元に、C59 127号が重油専燃に改造された当時の、鮮明な写真が掲載された資料があります。交友社の「鉄道ファン」誌、2005年前後の
切り抜きですが、やましな物語「重油専燃のC59 127号機に乗務して という記事中に、ピカピカの新車の輝きのC59が4枚、写っちょります。鷹取工場1953年12月8日、試運転とあります。
1955年ごろまで、この重油焚きのC59が、京都や大阪近辺で動いとったわけですね。ただし、そのあとすぐ1956年に東海道線の電化完成ですから、そのときお払い箱になったのか・・・・・
もったいない、石炭を放り込むかわりに、燃料コックひとつ、捻れば燃焼できたのに・・・
と思っていましたが、この記事の先をずっと読んでいくと、C62ストーカ付きと同じで、走り出すまで1時間以上かけて、あらちこちら調整が必要うんぬんとあり、これではディーゼル機関車と同じに使うわけ
にいかなかったのでしょうか(汗) >>580
C60に重油オンリー車なんかないですよ。
あくまで併燃。 >>581
なんと、そんな機関車まであったのですか。この石炭から、石油への移行期では、その混乱に巻き込まれて蒸気機関車は計画通りの運用が出来ず、右往左往しながら
火が消えるように自然消滅していったわけですね。九州の石炭産業もまったく同様に、三井・三池労働争議という史上最大の、大乱闘の中に、花火の
様に一瞬、輝いてから消えていきましたが、わたしは少年の目ですが、その労働争議の修羅場を目撃してますから、それは貴重な体験でもあり、やはりそれは
語るべきなのか。ここでその見聞録を語るべきなのかと・・・・・ 運転士(誤) →→ 機関士と機関助手(正)
僕は特急の機関士で 三木鶏朗 森繁久弥 丹下キヨ子
https://www.youtube.com/watch?v=BjInJLjzfms ↑ ↑
ぜひ、語ってくれや。正月でもあるし、暇はたっぷりあろうから。修羅場に頭から突っ込んでいくのは、どどっと突っ込んでいくのは福岡県人の特質ではなかったか。
福岡連隊、小倉連隊、三井・三池労組、国労門司労組、あわせて4個師団、いずれも日本最強といわれながら、全て見事に消えうせ、ただのひとつの一師団さえ、この福岡に残らなかったが・・・・・・・・・
ロシア人がただ淡々と冷静に、独ソ戦の写真を解説しちょります。ロシア語は判りませんが写真が新しいです。戦車王のオットー・カリウスからはじまっちょります。
1番 ≪Тигры≫ в грязи. Воспоминания немецкого танкиста. (01 часть) Фотографии военных лет. Аудиокнига
https://www.youtube.com/watch?v=o63UTjUE-xg
2番
https://www.youtube.com/watch?v=x4ylQ02rYEQ
3番
https://www.youtube.com/watch?v=CX7BG35I47k
4番
https://www.youtube.com/watch?v=CX7BG35I47k この石炭から、石油への移行期では、その混乱に巻き込まれて蒸気機関車は計画通りの運用が出来ず、右往左往しながら
火が消えるように自然消滅していったわけですね(誤)
↓
この石炭から、石油への移行期において、輸送量が激増する東海道線他の大都市路線で電気機関車が主役となり、蒸気機関車は煤煙の公害が多く
運転に労力を要するため、ローカル路線に配置転換され、消えていったんですね(正) さあ、正月でもあるし、ここはひとつ、パーーーとはでに
コロンビア製のブラウン管テレビジョン14インチ両側にスピーカー有り、ただしモノラル音声 でも見るか。スイッチをパチンーーーーーーー
ブーン 123456789 11 12 13 14秒経過 15 16 17秒経過
出た The T.A.M.I. Show 1964 - Full HD Original Electronovision Version
https://www.youtube.com/watch?v=8pdZJ7TkJQU 重油は温度が高くないと燃えないしその辺が大変だったんじゃないの、石炭なら火室に種火があるけど重油だけだと最初の点火はチト面倒ではないか、詳しく構造は知らないけど >>589
重油専用燃焼車について調べてみると、インターネット上に相応な量の情報がありました。
「石炭焚きで50年使ったボイラーより、重油焚きで10年使ったボイラーの方が状態が悪くなる」などのほかに、
グーグルに「蒸気機関車 重油専燃」と入力するだけで、相当な量、読みきれないほどの量がヒットします。
PDF資料では以下があります。
技術資料・重油燃焼機関車 日本国有鉄道鉄道技術研究所 横堀 進
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jie1922/32/2/32_2_103/_pdf
この資料に、石炭と併用式ではレンガ積みの火炉を新たに設けて、バーナー給気する云々とあります。
また石炭との併用方式で、石炭の上に重油をかけると、点火着火はたやすいが表面の重油が燃え尽きるまで
石炭が燃えず、燃焼速度が低下して、黒煙が多く発生するなど、また石炭が火炉内に撒きにくいなどとあります。 >>591
今のJR東日本のD51498、ほとんど投炭していないように見受けられた。石炭ひいたあとは重油ばかりかな。 >>582 続く
正月に、このおおお軽いタッチでととと走って、その修羅場をご披露したかったのですが、
朴訥な炭鉱夫のおいちゃんが、喧嘩では必ず会社側がやくざを動員し、凶器を持ち2人一組で1人にかかり、たこ殴りになぐられ、体力も腕力もあるおいちゃんのほうが負けていたこと。
黒い背広を着てネクタイをしめたいた痩せ型やくざのこと、粉塵爆発で死体が大量に出て病院の中でホースで水を掛けて粉塵を洗っていたのを母が目撃したこと。
当時の公明党は未だ党になる前で、選挙演説中に「議会のなかでなんみょうするのか、ははは」と共産党員、社会党員から取り囲まれ、ゴム銃の弾で顔面を激しく撃たれ、何をおおと反撃して
殴り帰してしまい、その公明議員はその乱闘の責任をとらされ公明政治連盟を首になったこと。その市会議員候補のAさんというのは、実は私が5年生で始めた聖教新聞販売店の店主であり、その人とは
悲劇の別れとなったこと。つまり私は結核で入院し、その人は議員を除名になり、そのひととは「つらいがお互い頑張ろうな」といって寂しく別れたこと。
当時、三池労組側の労働者は水筒と称して、長さ1mくらいの鉄パイプをもって市内をデモ行進しており、その人たちが座り込んで休んでいるところに、いきあたり「おじさんそれ何ですか」
「いや、これはボクチャンニハ、ワカランモンタイ」答えてもらったこと
などを正月の3が日そうそう、ここで始めるのはいくらなんでもまずかろうと・・・とこの様に思いましてな 実は私が5年生で始めた聖教新聞販売店の店主であり、その人とは (誤)
実は私が5年生で始めた自転車による聖教新聞の配達で、受け取りに通っていた販売店の店主であり、その人とは (正)
この昭和35年、聖教新聞は未だ日刊ではなく、週に3日の配達だったか、その配達給料450円は、そっくり母に渡していた。母は私から450円を受けとると、すぐ
米を買いに家を出る。ずっと必ず、全額450円を渡していた私に、魔が差したというか、1回だけプラ模型を買ってしまったことがある。当時の少年の流行は週刊誌の少年マガジンと
少年サンデーとプラモデルだった。配達の給料日に当時の大牟田繁華街である栄町の模型店に入った私は、いつも見るだけだった、三共のピーナッツシリーズのプラモデル
月光と彗星とムスタングの3機、1/150を購入。1機30円かける3機のこの90円の使い込みのために、その月はその日に米が買えなくなった母は、一瞬、怒ったがすぐに「いいよ、健ちゃん
でも今月だけにしといてよ、たのむよ、いいね」といつもの優しい顔にもどる。母も辛かったと思う。。しかしこの時の私の罪悪感というか、せつなさというのはなんとも説明のしようがない重い辛さだった。
飛行機プラモデル 三共ピーナツ・シリーズ No10 P51D ムスタング
https://blogs.yahoo.co.jp/airblue1223/64619486.html 「つばめ」「はと」の機関士・機関助士は戦闘帽じゃなくて羅紗の制帽被ってる人多いような 石油ストーブですら芯にタールなどが付着してシーズンオフにクリーニングするのだから重油だと更に大変だろう。コールタール状だと石炭の燃えかすみたいに処理出来ないな >>594 続く
ザーザーザー闇の声です。
熱烈なC59,C62ファンの皆さん、もし時間があれば、こちらも見てください。私の大牟田編の演劇ですが、正確を期すため
ただいま資料を集めています。1月中には開演しますので、その間、よろしければ、こちらを見てください。元旦より、私の趣味である
無線と音響の仲間のところへ、あいさつ回りにいってきました。1月1日より、YOUTUBE音楽をの配って歩いたのですが
荒れに荒れています・・・・・
アマチュア無線 CQ誌ウォッチング・第47号
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/radio/1503046345/
カセットデッキをしみじみ語る会 PART53台目
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/pav/1509371485/ >>596
そんな大変なら重油併燃装置付きのD51があんな大量に運用されなかったと思うが
C59の重油専燃機は乗務員運用が不便だったのがネック
まあ最初からそんなことぐらいわかっておけとは思うが >>576で書かれてる「プレス鉄板のしょぼい」タイプ=大型ナンバープレート?
末期に交換された機があるが、正直、似合ってないと思う
やはりC59には大型ナンバープレートが似合ってるというかバランスがいい >>599
それはC62等と同じ戦後規格のやつでは?
戦前形のオリジナルNo.プレートはC571のプレートから下の「形式○○○」を省略し、その分の上下寸法を詰めたもので、砲金ではなく単なるプレス物。
戦争末期にはそれすら剥がされたけど。 >>599
戦後形も戦前形と同じ寸法のプレート『C59XXX』(材質は改善されたはず)で竣工したと思うが、川車製の後半(124以降)は昭和20年代で戦後規格プレート『C59 XXX』になっていた。 599です。レスありがとうございます。
言ってくださっている各タイプの関係性がまだ解らないのですが、
161号機を例に出します、晩年に交換されましたよね?
それまでの大型タイプから、ありがちなタイプへそして廃車されました。
私が好きなのは、廃車時からひとつ前まで付けていた大きいやつです
それは、レスくださっている中で述べていただいたどれにあたりますでしょうか。
あの大型タイプのは新製時からのオリジナルではなかったのですか?てっきりそう思ってました 砲金製プレートでも戦後日が浅い時期のやつは>601にあるように戦前形の様式を引き継いでたり
戦後形の枠で戦前形の字体(確かC61の一部がこれ)とかいろいろ混在してるしね 郵便局からC62 3の製造70年記念でミニチュア付きの記念切手が販売されてる
10月に届く予定みたい
お値段は高いが俺は地元にいるカマとして予約した
https://www.shop.post.japanpost.jp/shop/g/gCS7942710115/ >>604
いいね
付属のC62-3ミニチュアは天賞堂Zのコピーかな? >>605
宣伝には苗穂の保存機を3Dスキャンしたと買いてあるね 伊藤昭氏が昭和25年8月9日に宮原で撮影した「はと」マークつけたC59 8なんだが、テンダが船底形のように写っていたのを見た記憶がある。
一時的でも、戦前形が戦後形テンダを付けて運用についた事ってあるのだろうか。 C591って一般人でも見学可能?
燃焼室付汽缶に振り替えられたかどうか誰か確認してくれないかな。 今回水害にあった坂町小屋浦あたりはカーブがあって
呉線屈指の蒸気機関車牽引列車の撮影ポイントだったところ
この地名をニュースで聞いて懐かしく思っている人もいるはず 張込み, - Harikomi - Stakeout (1958) Yoshitaro Nomura
視聴回数 2,178 回
https://www.youtube.com/watch?v=S9zwHD3soGg ↑
ウヘッ その板の384番と386番には、若松、火野葦平さんのご活躍が(泣き) >>352 続く
「あさかぜ」の登場によって、我が家の人気ナンバーワンのスターは「かもめ」から「あさかぜ」に
バトンタッチしたのですが、夕刻の6時過ぎに疾走してくる「かもめ」も捨てがたい魅力がありました。
私の小倉市・富野の家の前では、
最初はC57が牽引し、途中でC59に変わった様な記憶があります。また特急・ヘッドマークも2種類を
見たような気がします。以下にC59100牽引の処女列車の鮮明な写真が有ります。
DRFC-OBデジタル青信号
同志社大学鉄道同好会OB会(DRFCクローバー会)ホームページ
2364】1953年3月15日特急「かもめ」処女列車
https://drfc-ob.com/wp/archives/2364 オフィスナトリのc62ニセコとイカロス出版のc62ニセコ
を買ったけど、
小樽の樽の字が両者で異なっている。小樽市のHPの樽は前者と
同じで、後者の字も結構使われている。どうなんだろ >>616
162号機の前面も文字の間隔が詰まってるナンバーとやけに空いてるナンバー(こっちが末期)だったかなそういえば >>609
私がそうです。昭和45年8月に行きました。当時とはなにもかも変わっていると思いますがつい懐かしくなりました 近年、完全無人化されたと思ったら
こんどは水害・・ >>614 続く
C59への熱い想い、止み難く、68歳になった現在もインターネットに流通するこのサラブレット駿馬の写真を捜しています。
そこへ上がってきたのが、ピンタレストという写真集めの外国のホームページです。ここにC59,C61,C62
の写真を僅かながら集めてアップしていますので、皆さん是非とも、ご覧ください。
写真保存ホームページ ピンタレスト .pinterest
https://www.pinterest.jp/
上気に飛んでログインして下さい。ログインはGOOGLEのアカウントとパスワードがあれば
数分で終わります。初めての人もメルアドや電話番号、名前を入力すれば10分程度で終わるとおもいます。
しかし、ここはあまりに多くの写真を集める為、著作権の問題で訴えられて裁判問題にいたる危険性が
あります。訴えられるわけです。その場合は、このピンタレストの会社は一切責任をもちませんので数百万円
からそれ以上の損害金を
個人で負える人のみが利用してください。あくまでも、利用者個人の各局さんの責任において判断してください。
わたしは一切の責任を持ちません。
ログインが出来た人は 最初のページの検索欄の一番上の欄に、小文字で goto kenji とうちこ私のページに飛んで
下さい。
わたしの名前はごとうけんじ ですから ゴーツー ケンジ で登録して写真を保管しています。
私は61項目にわけて保存していますが、そのなかの以下をご覧ください。約1000枚の白黒写真が有ります。
↓
国鉄(昭和45年頃まで) 時代と歩んだ国鉄列車 1 終戦と鉄道の復興
26,776 回視聴
https://www.youtube.com/watch?v=bA8QTwgoD4c
寝台特急あさかぜ、博多発東京行16時35分分発が、短い時間ですが、
開始後、12分16秒から写っています。
12分16秒分
↓
時代と歩んだ国鉄列車 2 進展する近代化
21,374 回視聴
https://www.youtube.com/watch?v=qV_B9k2fbl8
時代と歩んだ国鉄列車 3 無煙化計画と電車時代の到来
69,149 回視聴
https://www.youtube.com/watch?v=9NQrTKQs4WU
時代と歩んだ国鉄列車 4 特急網の全国拡大と貨物輸送の増強
23,250 回視聴
https://www.youtube.com/watch?v=Kd24bE8u3Sw
以後、5,6,10編まであります。 ↑
爺さんよ、この昭和31年11月19日というは、東海道本線電化完成後の新ダイヤスタートの
記念すべき日だったんだな。この日に東京駅を出発する、EF58が引く「つばめ」が写っている
じゃないか。それも運転手はかっこういい国鉄を代表するようなイケメンの運転助手?をえらんどるわ。さすがに
いまとちがい国立のJNAはんだ。しっかり
宣伝しちょるわ、つばめガールの方も美人を待機させとるしな・・・・しかし、同じこの日の夕刻に出たはずの
「あさかぜ」の処女列車は、写っとりゃせん。 東京発の、寝台特急「あさかぜ」号の処女列車は、写っとりゃせんど(怒・怒・怒)!! 国立のJNA →→ さすがに国立のJNRだ。素晴らしい。スケールが大きい。 貴重映像】カラーで見る1946年(昭和21年)の鉄道交通、国鉄など (パブリックドメイン)
10,817 回視聴
https://www.youtube.com/watch?v=VKexzWKmpLI >>624
JNRとは日本国有鉄道のことだよJapanese National Railways 国立ではない!!
さすがにゆとり世代だな君は!! ↑
国有どころか、国立つまり、国で基幹交通である鉄道を立てないと、新幹線技術などが中国などに持っていかれてしまう。
それで十河さんが居た時の様な国鉄、技術の防衛にも強い国鉄、国でしっかり立てる意味で国で立てろ、技術を盗られるな
国立に戻せと、叫んだのですが・・・・
まあ正確には、貴方のおっしゃるその通りで、そこは正確に国有というべきだったのですが。
最近の話ですが、私は福岡県人ですが、母の墓参りで、天ケ瀬温泉まで行った際に、小倉と日田間を走る、日田英彦山線が
大雨で線路を流されており、JR九州が分割民営化された結果、線路の修復が2年を経過しても成されずに、その区間は代行バスが
2時間もかけて走るという酷い状況になっていました。それでその2時間余計にかかる時間に、団塊世代ですが体がたえられず、遠回りして小倉から
博多まで新幹線、博多から天ケ瀬まで「湯布院の森」号で遠回りしていくという結果となりました。分割民営化した結果、デメリットとして
赤字路線を運営せず情け容赦なく切り捨て、その分を他の商売に力を注いで、ホテル経営、駅ビル経営でもって黒字化している現状なんです。
おまけに、このJR九州は、本州のJR西日本や東日本に比べて規模が圧倒的に小さく、約50分の1 くらいの規模しかありません。
しtがって日田英彦山線のような今後もずっと赤字の決まったローカル
路線は修復しようにも、その余剰資金が無い。いや資金はあるが、ここに投入すると株主がうるさいという、中小企業に成り果てた
んです。九州の国鉄は・・・・ >>626
それで、天ケ瀬の駅に、ぽつんと一人で座って切符売り他をすべて一人で切り盛りしている駅長さんと
切符を買う時に、窓越しに
話す機会があったので 「駅長さん、まだ線路が修理されませんが、分割されずに、国鉄のままだったら
あっという間に修理して再開されていたでしょうね、この日田英彦山線も、なにせ天下の国鉄ですから」
「その通りですよ、線路の修復など、国鉄のままだったら、あっという間ですよ」と駅長さんも、おっしゃって
いました。
そういうわけで、十河信二や次の、石田礼助総裁の居た国鉄なら、中国に技術を漏洩させた、川崎重工などへの
睨みも効いていたのではと、この国立の国鉄、国有の国鉄を想う、近況なんです。なんたって、あの「あさかぜ」号
を走らせていた国鉄ですから、まさか日田英彦山線が補修されず放り出されたままとは夢にも思わず、です。 >>628
博多発のあさかぜ処女列車は写真も動画も記録が残り、同じ日の東京発の処女列車の写真も動画も極端に少ない
理由は、その後の調査で以下であろうと推測できます。
あさかぜは、ある程度の成功はすると予測されたが、「大成功して、いつも満車の大人気となる」という、この「大」の字の付く予測は無かった。
京阪神を夜間に通過するという、悪評のあった変則的走行の実験でもあった。あさかぜ号はひとつの実験だった。当時は、この特急が10系軽量客車から
20系のブルーに統一された名門列車になろうなどとというとは、夢にも思わない状況だったか。
それに比べて、同日の処女列車となった「つばめ」号は、すでに古くから高評価のある、名門特急であった。そのためEF58
全面の特急マークも特大の翼マークが両ウイングについた特製となり、出発式も大がかりマスコミ総動員な演出の大セレモニーとなり
しかも写真写りの良い昼間の明るい中での出発となった。それにくらべて同じEF58が引く「あさかぜ」号は夜の
19時10分発と薄暗い東京駅ホームからの出発。特急マークに、ツバメの様な両ウイングを有していたかも不明。 あさかぜの東京駅発の処女列車の写真どころか、九州の小倉を走る写真さえ、あまり見た覚えが無い。
C591が特急「さちかぜ」を引く写真は多数あるが、肝心のC591が「あさかぜ」を引く写真が、やはり無い・・・・ なろうなどとというとは →→ なろうなどとは(正)
↑
爺さん、焼酎の飲み過ぎの状態で焦って書き込むなよ。 >>621
さっそくですが、この「時代と歩んだ国鉄列車 」の1から10までが、YOUTUBEで見れなくなりました。まだ著作権が残るフイルムだった
ものと思われます。残念、大会社である国鉄が現存であれば、この様な良質の記録フイルムも常時、宣伝のため流し続けてくれたものと
思われますが、なにしろ今は大親分の国鉄様が不在ですので。
ソフトなアナウンスで、上品な語り口で解説する貴重なフイルムだったのですが。 それにくらべて同じEF58が引く処女列車「あさかぜ」号は夜の
19時10分発と薄暗い東京駅ホームからの出発。特急マークに、ツバメの様な両ウイングを有していたかも不明。 ←← 時刻は間違いです。
正しくは16時30分発
東京駅19時10分発となったのは、ずっとあとの1960年(昭和35年)7月20日からで
「はやぶさ」に20系が導入。これに伴い、「あさかぜ」も増結を行い14両編成化後。1956年の処女列車は
松本清張の大ベストセラーである「点と線」に有る通りで、東京駅13番ホームからの出発時刻は16時30分です。ここが狂うと
有名な、今は存在しない東京駅在来線13番線ホームから、犯人の安田やら、女中のお時らが
15番線に停車中のあさかぜ号、博多駅行きを、たった数分間だけ見通すことが不可能となり、「点と線」が全く売れませんです。(汗また汗) 正しくは18時30分発(正) ←← 最終確認、これが正しい。 くそつまらん、低能なTV放送は一日中、年から年中、嫌気がするほど放送されているが、何回も見たい国鉄の躍動期の
記録フイルムはすぐ消えるな。糞つまらん、日本国じゃのう・・・・ 点と線に登場の昭和30年代はじめの、あさかぜ号の列車の色について
ここでひとつ、私から問題を提起しますが、あさかぜ号の列車・車体色は葡萄色(焦げ茶色)が正しく、映画「点と線」の新旧2本が
それぞれ青大将色(グリーン色)と青色(20系客車の色)で出てきたのは完全な演出ミスであり間違いではなかったかという件
です。
ビートたけし出演の新作TV映画・朝鮮朝日放送のニセモノ「点と線」 →→ 完全な青色 (ブルトレよりも新しい客車)
南 廣 山形勲 高峰美枝子 1958年版 本物の 「点と線」 →→ EF58が引く青大将色 (識別困難だが茶色ではない)
>>632
>大会社である国鉄が現存であれば、この様な良質の記録フイルムも常時、宣伝のため流し続けてくれたものと
>思われますが
ねえよ ↑
だな。清張作品「点と線」のこの当時は、あさかぜ号はEF58も客車も、焦げ茶の葡萄色が正解だな。この時代、あさかぜは機関車・客車とも茶色で写真が残っている。
同じ時代の名門特急「つばめ」号は有名な
青大将色のEF58が、おなじく青大将色の客車、最後尾が展望車の豪華編成を牽引していたのだな。それを茶色とすべきを、新旧2本とも青色で出演させるという大ポカ
の失敗をやっている。旧作である名作の方の1958年版でさえ、東京駅でロケをする際に、あさかぜ号発車の18時30分まで待ちきれずに、午前中の
「つばめ」号の青色客車を移す事で代用させてしまったのだな。月光仮面の監督でもあった小林恒夫さん以下も早いとこ切り上げて午前中に
帰りたかったものと思われる。その大事なシーンは、あさかぜ号で撮影してない。その映画に出たのは「つばめ」号だ。 >>638
そんなバナナ、いや馬鹿な。国鉄って真面目な会社だったでしょうが。 もし国鉄が真面目だったら、しゃちょっさんが、十河さんみたいな人だから、過去を忘れるな、浮かれているとあっという間に
こそ泥に持っていかれるぞと、現在全くおこなわれていない、技術面の防諜に関する大事な教育を、TVのCMと
YOUTUBEなどで繰り返して流すと思われる。 >>639
旧作品の1958年版の「点と線」は、車体が緑に見えましたが、この東映フイルムは全体的に、緑に
偏光しており、さらに何度も確認し実車のあさかぜ号での撮影だろうという事になりました。つばめではなく
茶色車体のあさかぜ号だと思われます。
撮影場所 東京駅15番ホーム 17時49分にホーム着
18時30分発
なんと停車時間が、41分もあり、さすがに長躯、これから九州まで駆け抜けようという特急の
発車の堂々の進発体制です。監督以下スタッフが夕刻に参集して、あさかぜの茶色の列車
をバックにしての余裕を持った撮影だったのか。
または、当時、客車を管理していたという品川運転所のホームに、客車清掃時などで引き込み
品川が撮影場所であったか。いずれにせよ、背景は実車のあさかぜ号であるのは間違いのないところです。
(修正)
旧作品 東映版「点と線」 列車「あさかぜ」号 茶色車体 で撮影 偉い、真面目だ!!
新作品 TV映画版「点と線」 20系のさらに後の、青色に白いライン入り普通列車用のオンボロ車体 を無理やり20系という事にして撮影 青色に白いライン入りの普通列車用の、丸丸としたなんの珍しさもない、見たくもないオンボロ車体 新作のその丸丸とした列車は、113系の電車を使っていますね。青色に見えますが、オレンジ色と緑の2トーンの車体を、その部分のみデジタル処理により
目が覚めるような青色にしております。新技術による見事な演出ですね。列車ではなくて電車です電車。
↓
出演者 ビートたけし(鳥飼重太郎)、柳葉敏郎(安田辰郎)、高橋克典(三原紀一)、原沙知絵(お時)ほか
放送日 2007年11月24日(土)、25日(日)
撮影日 2007年8月1日(水)〜3日(金)、9月10日(月)〜12日(水)
撮影場所 宮原総合運転所、交通科学博物館、SLやまぐち号 ほか
https://www.westjr.co.jp/company/business/location/tour/2007/report07.html ↑
青色の113系を持ってきたのでないか。青色の113系というのが有ってだな、それを持ってきたと・・・
それだとデジタル処理などの面倒な作業無しでOKだが 昭和47年夏に鉄道開業100周年記念として
広島駅旧宇品線用線路上にC621号機が展示されたので
見学しに行き写真も撮った
「かもめ」のヘッドマークを付けて展示されていた
他にD51278やC58299等の蒸気機関車も展示され
線路上に降りて近づいて見れ運転台の中にも入れた
まだカラーフィルムが高価な頃で運転台の中まで写真は
撮らなかったのは残念
このころの広島駅は多種多様の特急・急行電車
DC・客車列車が入れ替わり立ち替わり入線し
活気があった 再放送を見た。一つ気になったのは鳥飼刑事が支那戦線で負傷し、「グラマンの機関銃」の弾丸が4個今でも体の中にあるという設定。これには笑っちゃった。
支那戦線ということは鳥飼は陸軍の歩兵だ。闘う相手は支那兵。支那兵がグラマンの機関銃を持っているはずがない。チェコ製だろう。
ちなみにグラマンはアメリカの航空機メーカー。わかるだろう。陸軍の歩兵が支那でグラマン戦闘機と戦って被弾し、生き延びたなんてほとんど喜劇だろう。
| nebokeneko | 2012/02/13 3:54 PM |
nebokenekoさま
戦史に詳しいんですね。確かにヘンな話です。原作では戦争の影は一切ありません。脚本の竹山洋はベテランなのに、残念ですね。よい作品の割には細部の詰めが甘かった。
イケてる、モノ・コト
http://monokoto.jugem.jp/?eid=945 >>649
待望のC59の門司機関区の文書コピー他を入手。それによると、昭和31年に、C59とD52がペアを組み、試験的に九州へ入線。
記念すべきC59の最初の号機は、C5932です。これが440トンの荷物を引くなどして、鹿児島本線で試験走行。
博多門司間では、C59はC57より16分短縮するデーターをたたき出したとのことです。
昭和31年、10月17日 上記のC5982に続き、以下の機が姫路第二機関区より転属。
C5973、 C59124、 C597、 C5937、 C5924, そして有名なC591,も姫路第二機関区より転属されてきました。
このため、門司機関区のC57が余り、米子機関区へ転出しています。
最終的には本州の電化完成により、九州へ転属となったC59は、29両になるようです。(昭和31年から36年まで) >>649
記念すべきC59の最初の号機は、C5932 →→ C5982 (正)
以下、その29両 →→ 28両(正) の号機
昭和31年に転属されてきたC59の機番
82 73 124 74 7 37 24 5 14 15 31 44 45 57 13 30 ←有名な、あさかぜ号、博多発の処女列車を引く
36 25 1 ← これも有名な1号機、あさかぜ号、門司発の処女列車を引いたか、まだ不明。写真無しのため当選確実の一報が打てず・・・・
昭和32年 〃 〃
20 26 68
昭和33年
109 71
昭和35年
105 29 108
昭和36年
174 以上、総計28両 になります。
最終的には本州の電化完成などにより、九州へ入線となったC59は、29両になるようです(誤)
↑
ここは、門司機関区(正) 最終的に、本州の電化完成などにより、門司機関区へ入線となったC59は、総計で28両になるようです(正) 28両です。28両
>>633 修正のお時間
女中のお時らが →→ 女中の八重子やとみ子らが(正)
お時は、小説の冒頭、博多の香椎浜で佐山憲一と共に殺される、ちょいと見の良い
まあまあの容貌の女性。八重子、とみ子といっしょに、赤坂の料理屋「小雪」で働いていた。 上記のピンタレスト(日本の国鉄その他)をやり過ぎて目と視神経をやられて、しばらく休止期間をおいて静養していました。
それでようやく、元気が戻りました。
あまりに急に写真を集め過ぎて、完全にオーバーヒートして、2週間前頃から片方の目に痛みがはしり、
同時に脳の奥の視神経の方からも、頭痛に似た鈍い痛みがありインターネットに書き込む事もままならず
安全のため休止していました。ネットにつなぐ時間も最小限とし、書物の読み込みも止めた結果ようやく
元に戻りました。
教訓 ピンタレストのやり過ぎは眼球とその奥の視神経を痛める
ここ3か月間で、約51,000枚の写真を集めた。この5万枚すなわち5万ピンの写真を集めるためにその
2,3倍の15万枚ほどの写真を参考として見て、極めて短時間の瞬時の選別作業をしたことになる。例えばマッチのレッテルであれば、私は
日本の大正時代から昭和の戦後初期までに限って集めていたので、たとえば外国のの人のページから、素早く、日本の
ものだけを選別しなければならない。その作業には目の他、脳も使って考えていたのか、この最も大事なパーツである脳みその疲労も重なったのか
ある日突然、限界に達し、いっきに体に来ました。無理もない、昼夜暇なく卓上ではノートパソコン、寝床に入っても10インチタブレットで深夜3時、4時まで写真を確認し
なければ3,4か月で15万ピンもの写真を守備範囲とすることは出来ない。みなさんのごとき健全な市民におかれては、このような過激な作業は
行ってはならない。それを私は強く忠告するものであります。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています