C62・C59を語るスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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国鉄最大の旅客用蒸気機関車C62と最後のパシフィック形C59を主に語るスレ
そのほかC59改造機のC60、C62と同じくD→C改造のC61のことについても >>44
高崎だと機関区構内で待機するC6223の写真がRF400号にあったね
あとは山線不通で室蘭本線迂回の列車にC62がついたのも聞いたことが…
>>46
白河以南のC62が東海道から転出のC59に追い出されるのがS30年前後だしそうじゃないか >>47
さいざんすか。あの有名機がねー。
高崎線未電化時は水戸・白河にいたから、間合か何かで高崎線に入ってたのかな。
C61と C59が宇都宮・白河に転入した前年にC62とC61のシャッフルが実施済みで、C59に直接追い出されたのは宇都宮と白河のC57。
C61や軽C62とC59じゃ性能差が僅かだから、C57を代替して上野口の定数を全面アップさせたんだろう。
もっとも白河以北は相変わらずC51メインだったけど C60〜61は両数は少ない方だし使う路線も地方幹線に限られていたので地味な感じは否めない。鹿児島本線が電化されて奥羽本線が最後の砦のはずか日豊本線に、もう少し決定が早ければ鹿児島本線のを回せたのに 元々ハドソン&バークシャー機は活躍した地域が限定されてたせいか過小評価気味な気がする。 >>50
C60はもう少し多く改造して羽越線や海線あたりに振り向ければよかった。
C51の淘汰促進と高価な割に非力なDF50の製造抑制に貢献できたろうに。 C60が誕生すればそれだけC59が減ることになるがストーカーが無いしシリンダーを縮小してないことが現場でどう影響してたか? >>53
C60やC62軽軸重型の軸重とシリンダ牽引力の比率はC57と大差なし。
C62 3もシリンダボアダウンは施工されなかった。
C60は素の状態でも引き出し性能はC61より優れていたのだから、重油併燃ならC61を上回っていた。
逆に言えばC61は動輪上重量を晩年のC51並に設定可とし、シリンダ径もC55並ならよかったのでは。
あくまで結果論でしかないが。 C59の余剰廃車は岡山・仙台電化以降。
昭和33年度時点でC59は素では行き場がなくなる事がわかっていた。
D62みたいに軸重は維持したまま先行してハドソン化しておけば。
無煙化はいいとして、DF50は500台でもC60・C61より非力なのに。 >>55 C61の出力がD51並みの1280PSとして、炭水車含めた総重量は128トン、
DF50はモータ出力600Kw(816PS)で重量81トン。出力重量比からすると、同じくらいか。
C61のような重いSLが入りにくい亜幹線であっても、DF50はそれと同等の性能を発揮できたということ。
おまけに石炭の煤煙に悩まされなくて済むというメリットもある。 いやいやDF50はズルツァーがC58、マンがC57程度の能力しかないから
両形式を無煙化するのが関の山でヘビーパシ、ハドソンの置換えは無理ぽ スモールエンジンポリシーってのが根強かったみたいだから、
太いボイラーの機関車はどうしても嫌われ気味だったのかねぇ。
C57で間に合ってるんだから、C60なんかよこしてくれるなと。
C60を重油専燃にでもして東北筋はこれで統一、C61を日本海側に、なんて妄想はあるけどね。
集煙とボイラー上に重油背負ったC61なんてかっこよくないかな?
C59127を重油炊きにした時に一緒に二軸従台車をつけておけばどうなったか、と思わないでもない。 >>58
日本がスモールエンジンポリシーなのは最初に鉄道を学んだ先がイギリスだったことと島安次郎の存在が大きかったのだろうね。
ハドソン・バークシャーはアメリカ発祥の様式、つまりラージエンジンポリシーの下で生まれたから日本では正当な評価がされにくいのかも。
ましてや保守的な国鉄だから余計に。 >>57 出力重量比という概念理解できないのかなあ?DF50重連で、同じ出力重量比でC61単機を上回る馬力を出せるということ。C61重連にすると、もっと馬力は多くなるが、線路への負担も増す >>60
いくら出力重量比出力が優ったところで出力の絶対値が低いから意味無し
それにDF50重連にしたら168トンでC61はおろかC62より重くなりますがな しかもDFには遅いというオマケがあるしな
奥羽線末期の活躍がC61やD51の補機だったのも仕方ないくらいに 非電化幹線の列車を牽引するには、DF50の設計最高速度90Km程度で十分なんでは?
C61と出力重量比同等でパワー不足の感は否めないが、東北本線等の主要幹線は10数年以内に全線電化される、電気機関車ないしより高性能のディーゼル機関車に代わられるまでの繋ぎとしてなら、生産配備する意義はあったと思うけどね。
仮にDF50を止めてC61等の重量級SLをより多く量産していたとしても、主要幹線における活躍期間は短い。液体式気動車が昭和30年代前半から本格導入され始めていることも考えると、非電化幹線でも旅客用重量級SLの必要性は少なくなる。
要するに宝の持ち腐れになっていただけだろう。 いやだからDF50じゃ出力が足りないんだってば
C61が同じ速度で12両牽けてたところを9両に成ったら輸送力下がるでしょっての 電化予定の線区にディーゼル対応の給油設備を作ったり乗務員教育するとかはまさに二重投資の最たるもの
電化までのつなぎであれば大型蒸機を軸重軽減して下級線区に投入すればよいし
気動車などは未電化閑散線区にこそ好適
あとディーゼル機は蒸機よか製造費高いはずだがそこは如何なのねん >>65
そういやDF50(0番台)の原形だったDD50は初期に山陽でかもめ牽引に使おうと考えたものの
常時重連化は勿論高速向けに機器やら下回りは改造となるから没とかだったね >>64
DF50開発の数年前に蒸機の新造は打ち切り。
C63が製造されてたら、DF50の発注はもっと少数だった。 >>65 理解できてない奴だな。12両ほどの輸送力を必要としない区間だからDF50で間に合う、ましてやC61による重連必要とするようなことはない、そんな線区であればDF50で十分だろ。
12両以上の輸送力必要とする区間は、近いうちに電化されるんだし。C61でないと対応できないケースがあるとしても、必要最小限で済む。
電化されなくとも液体式気動車の長大編成に置き替わるケースも多かったし。東北の昼間急行なんてその一例。
>>66 C61も軸重軽減して丙線区間に投入する構想があったが、液体式気動車が普及したこともあって没になったね。
DF50だと石炭の煤煙はなくなるし、転車台も不要で合理化にもなるというメリットも考えないと。 >>68 1956年頃、C63が何故、計画中止に追い込まれたか考えないとね。
分散式動力方式列車の優位性に、この種の車両の大量導入計画が実行に移され始めたから。 C61が本気出さなきゃいけないところをDF50で置き換えようとするのか、
もっと楽なところにC61を回すならDF50でいいじゃんかというのと話がかみ合って無いような気がすんですが。 >>69
言ってることが矛盾してる
>>64では
「電気機関車ないしより高性能のディーゼル機関車に代わられるまでの繋ぎとして」
DF50を配備せよと自分で言ったのを忘れたのか? >>72 繋ぎとしてC61クラスの重量型旅客用SLを新製するよりも、DF50の方が総合的コスト・パフォーマンスで有利と判断されたからは?
上にも挙げたように無煙化できる、合理化にもなる、非電化亜幹線はそれで満足できる。 大型蒸機新製するとか誰が言ってるんだ?
東海道山陽で余ったC59をC60に改造すりゃ
DF50の新製より遥かに安上がりだ
ま、DF50はせいぜいC57・C58・9600でも置き換えてろってことだ DF50最大の功績は亜幹線無煙化の切り込み隊長。次いでC51への直接間接での刺客。
惜しむらくはC57を直接淘汰するには至らず、D51には跳ね返され、ハドソンやC59からは無視された事 >>74
レス52で、こんなこと言ってる奴がいるだろ。
「C60はもう少し多く改造して羽越線や海線あたりに振り向ければよかった。
C51の淘汰促進と高価な割に非力なDF50の製造抑制に貢献できたろうに。」
まあ、ジョークなのかもしれないが・・ レス73修正、「繋ぎとしてC61クラスの重量型旅客用SLを新製する」の次に追加
「、あるいはC59のC60への改造車を増やす」 国鉄も亡き者になった今となっては全てジョークと鱈レバー。
雑誌だったか、C62を『女王』と評した記事を見た時はお茶噴いた。
女王はC59だろうさ。 スト権ストやってた国鉄労組も、合理化人員削減さえなければ無煙化、SL廃止に大賛成だったからなあ。
軸重軽減改造による延命措置なんて、現場サイドとしては止めてほしかったのかもなあ >>79
C62ニセコが復活運転始めた頃の記事だったかなそれ 出力でSL>DLと結論づけてる子は通勤電車と新幹線しか見たことないんだろうね
SLもDLも非電化用の機関車だから似たようなものと思っている
輸送量の多い幹線には3000PSのDF51が予定されていたが
結局いたずらに形式を増やさず、電化かDD51重連で賄った
非力で2台要るからSLのままという選択はない >>82
お前の大好きなDF50は単機でC59〜C62、D51、D52を置き換えたのか?
非力だから電化もしくはDD51の登場を待つしか無かったんだろ?
似たようなものだと? 片腹痛いわ ディーゼルがお好きな方は置いておいて、C59が大量余剰になるのは目に見えたのだから、
もっとたくさんC60にしておけばどうなってただろうね、ってだけの話だったんですがねぇ。
九州はC59ではなく昭和31年の時点でC60投入だったのだろうか。C62も渡道してなかったかもね。
余剰廃車になったC59がC60として生き延びていたら、C51やC55の寿命が短くなったのだろうから、
そう思うと、何ともかも知れない。 >>87
>九州はC59ではなく昭和31年の時点でC60投入だったのだろうか。
鹿児島線北部と東北線南部は軌道強化してC59のまま転用した史実が正解でしょう
>C62も渡道してなかったかもね。
手焚きのD51で通標授受とで助士2名乗務の解消が目的の一つだからストーカー付きでないと無理ぽです C61は33両しかなかったから他にも活躍できた路線があっても回せなかったのかな、だがC57は細身に見えるが結構パワーがあったんだな、客車に乗っても力強さを感じた。C61でなくても十分だった >>89
前段
C61の不足を改造C60がある意味おぎなった訳です
後段
C61は時速20km以下ではC57にやや劣りますが30km以上なら三割増しで圧勝します 東北や九州の客車急行を400t台まで編成増強、さらに特急運転開始にはC61の功績もあるしな C59並の性能を乙線で実現できたのが最大のメリット
燃えん炭と罵られた低品質石炭でもそれなりに走ってくれたのも、当時の助士にとっては砂漠に雨だったろう。 そしてC62は国鉄復興の象徴だった。
生い立ちは戦争の影を引いていたものの、それを感じさせない姿形。
紛れもなく時代を引っ張っていた。
物心ついた時は既に衰退期だったけど。 播但線でC61を使っていれば生野越えや三重連も見ることが出来たか、それなら行く回数増えていた。 関西でC61使うのであればむしろ関西本線とか草津線とかが向いてると思うの >>91
加えて言えばつばめ・はとを最大13両・550t牽引を可能としたのはC62の功績な気がする。
名古屋電化以降のC62つばめ・はとの写真を見たら大概13両編成となってるのが多い。
所定11両編成にスハ44が2両、もしくはスハ44が1両とスイ38を1両増結してるのだろう。
>>95
関西本線はC61の元になったD51の天下だったからね。 関西本線の旅客は早く無煙化されたからウチらの世代が興味持つ頃は無いだろうな。山陰本線でも使えたか、京都から浜田へのロングランなんてあったし。余部の鉄橋を走れば絵になる ここの諸兄様方は今おん歳70位でいらっしゃるのか?自分は昭和42年生まれだけど、筑豊の96やD60の気配が幼児の記憶として微かにあるだけです。 >>98
したように見える?
転用といってもボイラと一部共通機器ぐらい。 >>100
大半は後にボイラーも新品に替えた。
>>99
自分は1966生まれ。
親の実家の関係で米沢の96とC11は覚えている。
後、山形で新庄のC5768か170を見たかな? 昭和42年生まれでD60や9600覚えているなんて凄いね。私は昭和32年生まれで筑豊には昭和47年に行った。2〜3歳の頃に山陽本線の列車を見てる、状況から見てほぼC62に間違いない >>98
D→C改造の背景はC57とC59の足回りとテンダーは造れたけどボイラーが造れなかったので
遊休のD51とD52からボイラーを巻き上げたわけです
昭和22年度に試作各1両、23年度にそれぞれ32両、48両量産し
24年度もC61を20両程度、C62を50両程度造りたかったけど
ドッジ緊縮財政の発動でストップされたわけです >>103
そうなってたらC60の登場も早まって、東北・常磐線の上野口は完全にハドソンに置き換わっていたかも。 >>104
そうなるとC51、54が昭和35年頃、C55が43年頃に全廃になってたかも。
更にSL最終旅客列車もC60か61牽引になっていただろうな。 >>105
さすがにそこまでは無理じゃないか?
無煙化完了が昭和50年度のままなら、C60・C61が北海道に行ったとして、昭和48年度中にC62もろとも引退かと。
無煙化計画が後ろ倒しになったとしても、客釜で最後までの 最後まで残るのはC57でしょ。
それにしてもC59・C60の話題少ない。 重油専用機のC59127は期待通りの結果は得られなかったのか。 C60はC59と同じ日、昭和45年9月30日に使命を終えた。呉線はC59が安芸を牽いて最後を飾ったが鹿児島本線ではさよなら列車はC6133だった。 >>108
C62並みの性能は出たが1両しか無いため乗務員と運用が限定された
同一仕様が20両もあれば活用されたのでわ C59127は重油満タンで石炭より走れたのか?テンダー長いからかなり積めただろうが、最後は盛岡で使われたというが結局すぐ解体された。 >>111
C59127の重油タンクは容量6,500リットル
重油1リットルの発熱量は上質炭の約1.5倍だから約10トン相当
石炭焚きC59の搭載量と同じだから航続距離も同等と見て良いでしょう あと蒸気噴射式「消煙装置」。
C5979とC6240に取り付けられ、成績良好だったという。
他にも取り付けられたというが、1955年頃、名古屋にいたC5916のキャブ下にそれらしき物体がついている写真が蒸気機関車EXのC59・C62特集にあった。
また、ファン誌1970年10月号のC59特集にも、名古屋区形湾曲ステーの戦前形が同様の装置を付けて急行瀬戸を牽く写真があった。 呉線の三両のC59はよく最後まで残ったな、164は電化前に検査期限を迎えたが。梅小路で現役時代を知ってる唯一のカマ、タイミングが悪く走行中の写真を写せなかった 調子がよかったのか検査に余裕あったか知らんが本やネット上に出ている呉線末期の写真見ると162号機が多い印象 C62山陽組の傷みがひどくて、これじゃC59や常磐組の方がましという事だったんだろう。
C59を延命させるつもりで改造したC60が、C59と同時に全廃とは何たる皮肉。
逆に言えば、糸崎の3両が土俵際でC62をうっちゃったからだろうけど。 ストーカー未装備で、燃焼室設置のC59101号機〜って80キロくらいで走行
してたのかな? 【BS11:紀行・教養】 <尾上松也の古地図で謎解き!にっぽん探究>放送時間:毎週水曜日 よる8時00分〜8時54分 #bs11 http://www.bs11.jp/education/post-74/ C62の登場で命運尽きたC53、テンダーだけでも再用できなかったのだろうか?さすがにストーカー取り付けは無理だろうから、D51-1000あたりに転用して、それをストーカー付きにしてC61に回す・・・・とか >>117
東海道時代、不定期特急さくらをC62とほぼ同じ所要時間で牽いてますたよ。
編成は所定9両だけど、昭和31年1月12日にC59115が外人団体用らしきマイテ39とスイ38を増結した11両牽いて山科の坂を上る姿を故高橋弘氏が撮影している。(松本謙一『C59』収録)
偶然にも当日の編成記録が鉄道ファン誌1977年6月号に記載されていて、食堂車はマシ29 2。
ス級9両にマ級2両の定数45に対し、C59の特急最大定数は48。C62のつばめ・はととほぼ同等に走れた。
さくらを牽く姿の写真が多いのは、下りが名古屋のC5916と110。上りは宮原のC599・74・115・124。
戦前形も普通に牽いてます。 >>119
確か、一部が糖蜜輸送用タキに改造転用。 連投すまぬ
C5321のテンダはC51236に流用された。
戦後の混乱期だったから、他のC51やD50に流用されたものもあるかも。
C53の中には水槽容量がより大きいD50とテンダ振替をした機があるから、あるいはD50に出戻っていったテンダがあるかも。 >>119
ロングランする特急急行牽引機にくっ付けてダブルテンダーにして給水停車を少なくするとか >>119
あるいは大操車場の入換専用機に付けてホース繋がない貨車列の制動距離短くするとか >>124
ミキ20(旧燕用水槽車)やC62の廃車テンダを使ってたという長町のアレですか そーですそーです
んでC62の廃車テンダはC61に譲るとか いえいえ、複雑怪奇な玉突き転用の挙句、8620や9600のテンダーが大型化し、さらには6760とか8850とかB50のテンダーが・・・・・ C51の「燕」水槽車の話は、まだまだ各主要駅の給水設備が整ってなかった時代なんじゃないかな?ホーム末端に給水が無かったら、機関車交換いがい方法がなかっただろ、そこで給水車、でもすぐ滅びたのも「地上インフラ整備」のおかげだとおもうけどなぁ
・・・しかしますますC59からはなれていってるか? ミキ20の型式名称の由来は神社のお神酒から。
マメ知識な。 そのミキ20は晩年東北にいたから、C60・C61と顔合わせしていたかもね。
C59といえば、昭和35年に福島まで電化されてからも1年あまり、白河に3・110・190がいた。 >>128
主要駅の給水設備などそれこそ開通時から有りましたがな
昔はテンダーが小型だから航続距離も短かったわけだし
あと「燕」の水槽車は長距離無停車運転のためで色んな本に書いてあります 水運車は、確保できる水量が足らなかったり、水質が蒸機に合わなかったりと水の条件が悪い駐泊所などに水を届けるためではなかった?
基本的には廃車された機関車のテンダ改造だったが、戦後ミム100が新造。
2代目かもめは当初岡山〜広島間ノンストップ。
福山と尾道が停車駅に名乗り上げて収拾がつかず、国鉄がキレて両成敗にしたが、冬場はC59でもギリギリだったので、仕方なく福山にD50?のテンダを使った給水設備をあつらえたとか。 >>130・131
なるほど、勉強になりました ありがとうございます >>132
福山って急行停車駅でしょ?
給水設備無かったんですかね? >>134
恐らく、機関区がある糸崎で給水してた。 >>136
当時のかもめは、お召し列車を除けばつばめ・はとに次ぐランク3位の列車で、大阪以西ならNo.1の最重要かつ最速の列車。
事故でもないのに、本来停まらない駅で給水なんかしたら、機関士たちはおろか、カマ所属の区長の責任が問われる。
そんな調子悪いカマを特急にあてたのかと総裁から大目玉喰らう。 いや福山も本来の停車駅ではないし
缶水欠乏でヘソ溶かすよか良くね? あと福山と尾道の勝負は尾道が勝ち給水設備が設けられ
機関車もC62に代わったとF誌宇田賢吉氏記事に有ったので
>>132の後段はいずれにせよ誤り >>130
電化後も残ったのは臨時列車用
当時はELに夏冬多客時の臨客にまわすだけのゆとりがなかった
熊本に残った最後のC60も同様に臨客用 >>138
いやもう過去の事だから。
実際に特急でへそ溶かしあったかは不明。
昭和20〜30年代、特急の機関士はお召し列車運転できる技量だったから、いぶし銀の腕で間に合わせてたんだろう。
>>140
ED71は当初絶縁油ぶちまけたり等、初期トラブルも多かったというし、山形国体お召しも大事とって重連で牽いてたから、黒磯側の予備機という意味もあったのだろう。 いきなり話が飛びますなあ、C59.C62撮影のメッカだった所だが今はどうなっているか? >>142
駅長だった庄田氏は呉線電化から約10年で亡くなってたんだな
(この前部屋整理して出たF誌の81年9月号読んでたら訃報が載ってた) 呉線に限らずSLが走っていた頃の面影が残っている場所はほとんど無いだろう。田畑は住宅地に、単線が複線に、踏切が高架になったりしてるだろうな。大和ミュージアムに行くことあれば乗るがいつになるやら ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています