C62・C59を語るスレ [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
国鉄最大の旅客用蒸気機関車C62と最後のパシフィック形C59を主に語るスレ
そのほかC59改造機のC60、C62と同じくD→C改造のC61のことについても >>171
なるほどー
調べたら西尾氏が昭和17年10月に撮ったC59 52も同じような前灯と標識灯を付けてた
前灯前面はルーバーに成ってるみたい オロ40 10(当時はスロ31129か)を従えたC59 1試運転は、ナンバープレートがプレス鋼板である事以外はカマも平時仕様で、添乗者の様子も含めてまだのどかさが漂っていたが、有名なC59 52の写真になると、大幹線の花形機関車にも関わらず、車体の煤けが目立ってきた。
そして終戦直後だという沼津の扇形庫にC53 93や2271と並ぶC59 35の汚いこと‥‥。 西尾克三郎氏は形式写真が多く走行は少ない
乾板式カメラではそうなるか。主な撮影地の宮原機関区が始めどこにあるかわからなかった。今の新大阪だと知ったのはずっと後 走行写真だとSSの問題があるからなぁ
30、40年前の鉄道雑誌でも完全に止めきれなくて被写体ぶれしている写真も少なくないし >>175
C51、C53の列車や流電なり関西私鉄は勿論上京する際に撮った車窓に
板谷峠や北海道とか走行やスナップ写真でも結構すごいの残してるもんな 写真集出した時の鉄道ファンのインタビュー思い出した。新聞記者もやってたとのこと、同僚が沢山撮ったのに西尾氏のワンショットが採用されたとある。記憶が曖昧だが そりゃ40年前は基本のポジが感度64から160程度で
バケペンでも1/1000だからな。 西尾克三郎、黒岩保美両氏の写真は鉄道雑誌を賑わせてくれた。原京一氏の写真も気に入ってたが本人は故人、早過ぎるよ C60はもっと増備する予定だったらしいが評価が良くないとのことで打ち切られたというが東北、長崎、鹿児島以外のどこで使うつもりだったのか >>182
確か奥羽、羽越、北陸、関西本線辺りにも入れる計画だった
(奥羽本線については秋田以北で一時入ったしC62の仙台配置で玉突き転用も検討したが) >>182
小樽〜旭川間とか向いてたんじゃね?
札幌近郊の通勤列車が重くなってC57では牽けなくてD51が牽いてたから >>182
零戦と雷電みたいなもので、C57を基準にしたら大抵のカマは評判良くない。
敢えていえばC55くらいしかない。
北海道なら海線でも良かったし、山線でも入れたのでは? >>182
C59からC60の改造は昭和28〜29年に17両、35年に30両で
C59として使える間はそのまま使うべきだし予算が無いと改造したくとも出来ない
36〜39年は東海道新幹線の工事で予算がそっちへ回った為と思われ
>>185
> 北海道なら海線でも良かったし、山線でも入れたのでは?
そうも思ったんだけど山線は急行以外C形は向かないし
海線も仁山越えが有るうちはD51でやるべきかと C57では力が足りないが、急勾配があると意味がないってことなので
せいぜい羽越か奥羽の極く一部程度だろう
でも、それならC61でもいいわけで、どうしてもC60にこだわることもない いやだからC60はC61不足の補充の意味が有ってだな あとC60については、ストーカが無いのでC61に比べて嫌われた
東北筋の優等・高速貨物運用は、本務機C61・補機C60だったし ハドソン重連の高速貨物なんて有ったか?
特急貨物は盛岡青森間はD51+C60orC61で盛岡一戸間はD51の前々補機の三重連だったけど >>188
不足補充もなにも、他線転用考える頃にはもう関係ないっての DD51とED75の配備で昭和40年には早くもお払い箱が始まったし。
さすがに北海道も引き取らなかった。 DD54やDF50は故障が多くて現場の評価もあまりよくなかったらしいが
DD51も初期形は結構面倒な故障があったらしいな
量産形になってやっと改善してSL淘汰に多大な貢献をしたが
(撮影側からはブタと呼ばれて散々だった) >>191
>>188は>>182からの流れで言ってるんですけど判りませんか? DF50が性能の割に高価だったから、これじゃC59をC60にしてC51を玉突き淘汰した方が安上がりじゃないかと検討したのでは?
まあ、速くて車内も明るく近代的な20系や55系DCが評判良かったのが幸いしたかな。 日豊本線で急遽C61を導入したが当初は宮崎〜鹿児島間がストーカーもあるし良いのではないかとされたがC57と大差ないので延岡〜宮崎間に回された。ハドソンは平坦路線の方が力を発揮出来るのか >>196
気動車出た一方で客車急行も編成が10両以上に伸びてブルトレも増える時期だったから
非電化の平坦、緩勾配区間でこれを単機で引くにもC59以降じゃないと厳しくはあった
それだけの重要路線なら電化ということになるし5年ほど後にはDD51が製造始まってしまうが…
>>198
基本的に各停と貨物運用のみでしかもC57が多数派な都合そうなってしまうんじゃないかな >>198
C61はC57より低速域での牽引力が無いから勾配線をノロノロ走るのは得意でない
ハドソンとかの大型ボイラーは高速で連続航行する時にその蒸発能力が活かせるわけです >>183
羽越線は47年の電化までC57でした。その気があれば43.10で余ったC60を廻せた筈ですけどやらなかった、C57で充分で、わざわざ燃料食う大型機に変更する意味が無かったとか? >>201
その時点で秋田と東新潟にまとまった数のDD51が転配属できたからでは? >>202
いえいえ、43.10の時点でC57の代わりにC60を転用できたのに・・・という意味です
C571が廃車になってたかも? >>200
動輪上重量がC55とC57の中間なのは理解に苦しんだ。
結果としてはC51並で十分だった。
東北本線北部の牽引定数はC61>C60(=C59盛岡以南)>C57で、鹿児島本線南部ではC60>C61=C57だった。 >>203
C60とDD51じゃ、やはり後者でしょ。
C60は羽越本線での実績ないし。
酒田まで南下した事あるC61だったらあるいは、ですがね。 >>201 >>203
日本海、きたぐに、天の川、鳥海と軒並みDD51になっていた43・10時の状態では
C57の代機にしても普通・臨時用となるだけに入れようとは思われなかったんでしょう
(結果として臨時きたぐには新潟以北でC57やD51が12系を牽引する珍事が起こった) >>203
43-10の時点で余剰になっても、もうどこも受け入れてくれないでしょ。
今更そんな大型機いらね、それよりDD51寄越せ、となるからね。 >>200
日本の場合ハドソンやバークシャーは軸重軽減の為で性能向上目的でなかったから過小評価に繋がった気がする。
本家アメリカのようにパシフィックやミカド機と比べて格段に差があるならば正当な評価されていたと思う。
個人的にはハドソン・バークシャーは過小評価されてた一方パシフィックやミカドは日本においては過大評価されてると思ってる。
日本国鉄の新しいモノ嫌いな体質もそうした傾向の助けになったのだろうね。 ディーゼルの無い日本国鉄を妄想しつつ喜悦に浸る今日この頃 無煙化計画を見直してDLの増備を抑えていたら、C59はともかく、ハドソンは2年くらい延命しただろうか‥‥。 無煙化の進展が一番遅い計画だと
C60が100台ほど改造されてて、1980年ごろまで蒸気機関車が残ってるんじゃなかったか?
最近(ここ1〜2年?)のネコの本か何かに出てたような記憶があるが、何に書いてあったんだか。 C59の延命措置としてC60として登場したが元々長期の使用は想定してないだろう。それにしてもC57の潜在能力は凄い、ハドソン相手にわたりあうとは いやC57の潜在能力が凄いんじゃなくてハドソンに合うお仕事が無くなったわけ >>212
C57単機でも20系13両を牽く事はできる。
但しC59〜C62と同じダイヤでは走れない。
C57が互角に渡り合えるとすればC61で、それも普通列車だけ。 山陽本線のC62特急の映像見たら他の形式を寄せ付けない凄い走りをしてる。C57は勿論C59でも出来ないほど。どのカマかはわからないが、最好調機は29.35あたりだがさて 蒸気ブルトレ末期の1964年3月あたりだと
下りさくら、みずほが広転、あさかぜ、はやぶさ(?)が下関の運用で
所属機は
広転 1,5,6,12,13,14,15,28,33,36,41,43
下関 16,17,18,25,26,29,31,34,35,40
のようです >>215
その頃の山陽C62を録音したビクターのレコードは一度聴いてみたかった
(後年に同社が出してたC59音戸の録音もどんなものだったか興味あるが)
>>216
昭和37年10月改正時だと広島所が下りさくらと上りあさかぜ、みずほの上下、
下関区が上りさくらと下りあさかぜ、はやぶさの上下ですな かもめのヘッドマークのデザインが違ってたりしてたが広島でそれが並んでいたから梅小路、宮原のC62はかなり遠くまで行ってたんだな かもめ牽いたC59ってほとんど戦後形で戦前形はあまり写真見ないよね C59100が牽いてる写真見たけどこのカマは後にC6019になる。C60への改造は好不調や実績に関係なく行なわれたのか >>221
試運転は広2のC5977が広島〜下関間往復やったし、本運転で牽く写真もある。
ダークグリーン機C5979もかもめ牽いてセノハチに挑む写真もあるから、あのカラーリングで京都まで行っていたのだろう。
大阪局は101〜が多かった一方で広島局には戦前形も少なからずいた。
何よりキャブにかもめマークを付けたカマ3両中2両が戦前形(42と77) >>218
C59時代、広島第2機関区は下り広島→下関と上り広島→京都を担当。
往復を担当したのは広2だけだったから、相当力が入ってた。 >>218
山陽だけでも梅小路、広二、下関で全部デザイン変えてるしねかもめのHMは >>225
門司港もお忘れなく。
九州では、末期は鳥栖のC6023が上りかもめを牽く姿も撮影されている。
個人的には、かもめはC59が牽いている方が締まって見える。 おいらが雑誌で見た集計結果は
2回
梅 100,107,118
1回
梅 108,116
広 20,77,95,119,158,172,191
関 99,158
となりました
プレスの本は見ていません >>222
100は1955年に宇都宮に行き白河を経てC60になってるから梅区の中では早くに都落ちしてるね >>227
故竹島紀元氏が1957年に八幡製鉄所の煙突群バックにかもめ牽くC5925を撮影してる。
>>228
C59100は東海道線電化完成の1956年11月に宇都宮転属。 >>229
>>227は山陽線内の話ね
あと ↓ だと1955.9転属になってる
ttp://d51498.com/db/C59/C59100 >>227
RF誌でかもめの写真を漁ってみたら161が5号に、104が227号、190が299号にあった 現在までの集計結果
2回
梅 100,107,118
1回
梅 104,108,116,190
広 20,77,95,119,158,161,172,191
関 99,158
=================関門海峡
門 25 100の宇都宮行きの時期の出典。
こちらはプレスアイゼンバーンC59とファン1970年10月号。
プレスアイゼンバーンC59にはかもめ牽くC59 24が載ってた。
1号機がかもめ牽く写真は見たことない。 ファン1970年10月号?今村氏記事ではS30.7.20とS31.10.12の2回100が梅から宇に転属となっていた
当時すでに山陽筋にはC59が足りてたので梅の釜は東北と九州へ行ったのが多い トップナンバーはみすほ専用機みたいになってたからな。異端児?の31は特急牽いたのかな >>233
ピクアーカイブスの6号にあった投稿の再録(1957年6月5日下り5レの編成メモ)だと126の牽引で京都発車
>>236
蒸気機関車誌の80年3月号にみずほ牽引の写真は載ってる >>235
1955/8/1現在の配置表で100はまだ梅小路区になってるから7/20付けはないと思われる
「機関車表」だと一回梅小路から宇都宮にいってまた梅小路に戻って
再度宇都宮に行ってるみたいだけど不可解
かもめの運用は56年秋にはC62が専従になったとどこかで読んだ覚えがある >>233
24の配置は何処ですか?
>>237
thx
>>238
行きつ戻りつは夏の多客で缶が足りなくなったから一旦返せ、とか
あとファ誌5号の161(202レ)は1960年代ではなかったかしら(ナハ10系が入ってた) 自己解決
ファソ誌5号の161(202レ)はS33(1958).8.1でした 現在までの集計結果
2回
梅 100,107,118
1回
梅 104,108,116,126,190
広 20,77,95,119,158,161,172,191
関 99,158
=================関門海峡
門 24,25
梅の戦前形は戦後形より早く都落ちしたためもあって
「かもめ」を牽いたケースはほぼ無いと見て良い >>241
元資料が古いのでどこまでアテになるかはともかくピクアーカイブス5号にあった1956年6月当時のかもめ牽引機一覧表から見ていくと
梅は47,100,104,107,108,109,119,126,128,190(他に冬期以外の予備としてC62が13両)
広二は11,12,20,32,39,42,51,53,68,77,79,83,84,95,119,172,181,191(+6両のC62)
関が72,91,97,99,123,131,132,157,158,159,160,161,162,163,171,183,187,192,193,194(C62は無配置)
とあるので(当時門司以西はC57牽引)、C59戦前型が入るとすれば広二の機が牽く上りかもめが多かったとみて良さそうですな >>241の訂正
2回
梅 100,107,118
1回
梅 104,108,116,126,190
広 20,77,95,119,161,172,191
関 99,158
=================関門海峡
門 24,25 >>242
紹介サンクスです
んで戦前形が多いはずの広二の運用で戦後形が多く記録されてるのは >>243
やはりそれなりの傾向を示してるのかと思いまして
(関は広島以西なので当時は写した人が少ない) 昭和45年9月に親父の転勤の関係で
呉から東京まで急行安芸に乗車
この時の牽引機関車がC59だった
正面の安芸のヘッドマークに目が行き
何号機だったかは記憶にない
15時半定時に大きなドラフト音を響かせながら
1番ホームに滑り込んできた
今思い返せば写真の一枚でも撮っておけば
貴重な記録になっていたのにと思う
C59の牽引は糸崎まででここで電気機関車に
付け替え更に後ろに増結車2両を連結したと記憶 翌10月には呉線が電化されることになっており、
結果的にこれが最後のC59牽引列車の乗車と
なってしまったが当時はそのようなこととは
つゆ知らず何の感慨もなく平日にも関わらず
大勢のサラリーマンで混み合っていた車内に
漫然と乗車していた
岡山を過ぎたあたりから進行方向左側に真新しい
高架橋とぽっかりと口を開けたトンネルが見えてきた
建設中だった新幹線だった
いずれここを通るんだなあと思いつつ通り過ぎた
その後数え切れないほど往復することになった 夕食を取ろうと食堂車に行ったが、満員で
列をなして並んで待っている状態だったので
あきらめて結局車販で弁当を買って済ませた
大阪に停車した時は夜遅く誰もいないホームを見て
このまま万博に行けたらなあと思ったもの
東京駅には今はない在来線15番線に到着しすぐ右上の
16番線に停車していた0系新幹線が綺麗で眩しく見えた >>245
> 15時半定時に大きなドラフト音を響かせながら
> 1番ホームに滑り込んできた
この一文ででウソがばれちゃって誰も読まなくなったんだよ。 「安芸」登りは広島15時発、先に車両をホームに入れて機関車がバックで来て連結。出発シーンをとらえたことあるよ C6217その二日後はC6237、後者はあまり蒸気や煙を出さなかった。牽引機は概ね番号順に回っていたようである >>249,250
よく文章をヨメ
「呉から東京まで」だ
呉駅の三原方面行きの列車は本屋がある1番線からの
出発で今も変わらない。
(昔は改札が1階にあったのでそのまま1番線ホームに
出れたが駅改築後の現在は2階に変わったので
改札に入ったら通路を通り階段を下りていく構造になった) 追伸
安芸下車後東京駅からは船橋駅まで移動したが
その時の様子を別スレ「高架駅・地下駅の地平駅時代」の
No.22に記載
http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1382781548/ あ〜ら〜インフルエンザ後でまだ頭ボケてますな、投稿者には申し訳ないことをしました。広島15時発なら呉はその30分程後。70年8月に呉でC59162の安芸を見た。暑さで歩道橋の階段もキツかった時だ 38レ時代の上り安芸は呉発が1534とかだし広島→呉が30分でしょうね てか>>245の突っ込みどころは停車間際に
「大きなドラフト音を響かせながら」
ってとこじゃね? >>257
乗車した車両が恐らく1番広島寄りの1号車B寝台だったと
推察される(食堂車に行くときにA寝台を通り抜けて行った
記憶があるため)乗車位置がホームの一番広島寄りで
(安芸号は糸崎までは10両編成)
まだスピードが出ていたためそう感じたのだと思うが
そのへんは記憶がおぼろげで自信がない 安芸は急行なのにヘッドマークが付いた。付け替えが大変なので登り下り共に同じ機関車が牽くようにしたとの事。もしニセコにも付けるとしたら羊蹄山の絵が描かれたかな C62重連の最末期に一度掲げたことなかったかニセコのHMは
(青地にニセコの文字と山影で国鉄末期にDD51で使ったのとも違う柄のやつ) >>259
安芸のHMは秀逸だったね。
急行安芸とは直接は無関係だがその後ブルトレ特急化されて廃止となったが時期が悪かったせいか機関車へのHMや客車の絵入りトレインマークは登場せず終わった。
もし廃止がもう少し遅かったら急行安芸時代のHMが復刻(但し「あき」と記された部分は漢字化か?)したりHMのデザインがモチーフになった絵入りトレインマークが表れてたかもね。 ずっとSL一筋だったので客車や貨車などの車両の知識は皆無に等しい程で**系やらカタカナが何を意味するかも知らない、今更覚える気もないしな。広島行く時に乗った宮島51号はEF58にオハフ13らしい C60の写真見たらC59時代はどこを走っていたのかとつい思ってしまう(調べればわかるが) D60〜61みたいにオリジナルと共通運用はなかったと思う。その点は改造して良かったのかな >>264
C6037←C595は通しでの在籍期間が最長(29年)だが、C595として登場早々とおぼしき映像をNHKで見た事がある。
ヘッドライトの灯火管制はしていなかったと思う。
汽車会社の最初の10両は灯火管制なしで引き渡されたのではないか? 鹿児島本線には行けなかった。九州では保存されてないが話はなかったのか、C60.61共に電化後は隼人駅等に放置されていたそうだが、日豊本線での使用決定がもう少し早ければ復活もあったか 「この世界の片隅に」は原爆を落とされる前後の広島が舞台ですので劇中に出てきたC59は明らかに戦前製ですね。 Rail MagazineにC62の特集が、シールドビームをつけたC625の写真は珍しい。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています