C62・C59を語るスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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>>12
盛岡か青森にDF50 500を投入して、はつかりは重連牽引でw
ディーゼル化失敗だと、かもめの方がダメージ大。 余剰の出始めるC59がじゃんじゃんC60に改造されてたかもしれん。 電化後の山陽からC62転用も現実化してそうだなそれだと とにかくディーゼル化は全部失敗の前提で
かもめはC62+マニ20+ナロ20×3+ナシ20+ナハ20×4+ナハフ20とか如何でしょう 夢がないけど、青大将客車が流れてくるだけのような気がする>かもめ
赤い電機が青大将牽くってのもなかなかか? >>11 >>15
盛岡や青森にまで配置するほどC62が来たら盛岡以北C62重連になってそうだなそれ 鉄道データファイルによるとC62の仙台以北は保線区からの反対で実現しなかったとある。C60とC62軽とは軸重殆ど変わらないのに、SLは線路をハンマーで叩きながら走る様なものだとも書いてあった。 >>20
1964年以降、仙台のC59が一ノ関を越えて盛岡まで臨客や不定期急行ひめかみを牽いて入ってたから、そこまではC62も問題なく入れたはずだけど、臨時すらダメとは、盛岡側が蛇蠍の如く嫌がったんだろう。
>>21
保線側の反対が起きない環境なら、まずC59で十分では?
盛岡局管内はC60で十分だったんだし。
乙線でケチがつかないなんてありえないでしょ。 >>20-21
重量級ならD62がいたり盛岡電化の直前には臨急で一ノ関までC59が上がってる辺り考えると
保線もあるが仙台所が車両の管理費的に抱えるの渋ったのもC62の北上に響いてるだろうし
この辺はDD51が仮に失敗したら43・10までの繋ぎでC62使わせるのは充分ありそうではある なんか>>22氏と被った(ついでにC59の運用間違えた)
仙台所の管理費に関してはC62がC60に対して同じ運用だとより石炭を食うのと
(C60だった常磐ローカルの運用をC62にした形なのである意味仕方ないが)
同所の転車台がここ数年で消耗激しくなった原因として挙がったとかその辺 >>23
1958年に仙台にC59が入る時点で、保線の関係で運用は一ノ関以南となっていた。
1957年5月に福島1区にC5981が転入していた降り、当時の人の回想では、この頃から白河(と宇都宮?)のC59が仙台まで来ていた由。
『ノスタルジックレイル』とかいう雑誌に1965年9月の臨客運用表があって、C61とともにC59が盛岡までの運用を持っていた記載がある。
『蒸気機関車』誌1980年3月号に『東北本線・常磐線牽引定数表』があり、仙台〜盛岡間でC60とC59が同一定数と記載されている。 転車台への負担は深刻だったのでは、C62の様な超弩級のカマは想定してなかったんじゃないか、水と石炭満載だとかなりいく、機関士が小錦みたいだと更に・・つまらんこと言った >>24
C59の一ノ関以北の事はあまり知られてないようで、写真も見た事ありません。
軌道強化がもっと早く進んでれば、奥中山越えや常磐線にはC59が定着し、日本海縦貫線新津・新潟以北の花形はC57からC60に代わっていたかも。 >>26
20m級ではあるがC51もいない1916年製造のが元だけに補強やモーター交換しても限度はあったし
C59・C60以上に自重があるやつが常駐したらそりゃな…というのはある >仙台所の転車台 >>29
『そんな余裕あるなら我々に回せ』(D51DF) 失敬。
長町区が噴火しそう。
仙台の釜のメンテは金輪際手伝わん!とか。
一ノ関や盛岡も大丈夫だろうけど、一戸・尻内・青森はゴネたでしょう。
しかし最大の壁は保線‥‥。
郡山〜白石間でどんな空転やらかしたのか。 少なくとも仙台盛岡間は10パーミル以内で曲線もゆるいし
D62も入ったんだからC62軽だって入れそうなもんですけどね 奈良区で梅小路待ちC59を見かけてこれ走らせるのかと
すげぇ期待したのを覚えてるわ。 当時は仙鉄と盛鉄で機関車の貸し借りも盛んにしてたようだし、仙台〜青森間を通しで使えない機関車は好まれなかったのでしょう。 railmagazineのSL甲組の肖像に掲載されてないかな?お待ちの方調べてみて下さい いやもちろん史実の事情は判ってるんですけど何とかC62の奥中越えをと思いまして >>36
DD51 2〜4も不調ならあり得たでしょうが、はくつる・ゆうづる・みちのくの本務機(仙台持ち)のみで、盛岡以北はC60の前引き付きだったでしょう。
盛岡・青森にC62入れるくらいならC60に重油併燃付けた方がコスパ良でしょ。 ではC60戦後形+C62+はくつる・ゆうづる・みちのくの奥中越えで我慢するとしますか >>38
我的には、C60は10-25Aテンダに名古屋機関区形湾曲デフステー(C59 1参照)がついたC60 21(←C59 70)が一押し。
十三本木越えでのC60+C61特急のブラストって、山線のC62重連と比べてどうだったのだろう? 仙台に保存してたC611と吹田のC59166、解体免れる事は出来なかったのか。移転や再開発で邪魔物扱いされるのだろうが貴重なカマも少なくない。 >>40
似た境遇だったC621は助かったものの共に国鉄関連施設の物だったのが下手な公園保存車より災いした感もあるな
常磐電化の頃にRF誌でC6249と別にC6210も郡山工で保存云々の投稿あったが実現してても今まで残れたかはわからない… >>41
C621が残れたのはC62そのものの人気の高さと準鉄道記念物に指定されていたのが大きいんでね?
ついでに言えばC621は結果的に最初の予定通り梅小路に保存されたことになったね。 C621は梅小路の候補に始めは入ってた。C591やD521みたいに施設に保存されず小郡機関区に保管という形だったから自由が効いたのか。しかしツバメの人気に勝てなかった。 C61が高崎(電化前)や酒田まで入ってた事以外で、『こんなとこにC59〜C62が列車牽いてきてた!』という事例てあるのだろうか? 25と同じ本で、元仙台機関区助士でスイカ開発に携わった○山氏らしい人が触れてた。
勿論臨客だけど、それ以前に入線試験してたんだろうね‥‥。
亡き親父は昭和28年に赤湯から上京したんだが、当時の奥羽南線はC51→EF16。
福島〜白河はC51かC57かC61かはわからんが、白河で“見たことがないほど太い”機関車に代わったと言ってたから、白河以南はC62だと思う >>44
高崎だと機関区構内で待機するC6223の写真がRF400号にあったね
あとは山線不通で室蘭本線迂回の列車にC62がついたのも聞いたことが…
>>46
白河以南のC62が東海道から転出のC59に追い出されるのがS30年前後だしそうじゃないか >>47
さいざんすか。あの有名機がねー。
高崎線未電化時は水戸・白河にいたから、間合か何かで高崎線に入ってたのかな。
C61と C59が宇都宮・白河に転入した前年にC62とC61のシャッフルが実施済みで、C59に直接追い出されたのは宇都宮と白河のC57。
C61や軽C62とC59じゃ性能差が僅かだから、C57を代替して上野口の定数を全面アップさせたんだろう。
もっとも白河以北は相変わらずC51メインだったけど C60〜61は両数は少ない方だし使う路線も地方幹線に限られていたので地味な感じは否めない。鹿児島本線が電化されて奥羽本線が最後の砦のはずか日豊本線に、もう少し決定が早ければ鹿児島本線のを回せたのに 元々ハドソン&バークシャー機は活躍した地域が限定されてたせいか過小評価気味な気がする。 >>50
C60はもう少し多く改造して羽越線や海線あたりに振り向ければよかった。
C51の淘汰促進と高価な割に非力なDF50の製造抑制に貢献できたろうに。 C60が誕生すればそれだけC59が減ることになるがストーカーが無いしシリンダーを縮小してないことが現場でどう影響してたか? >>53
C60やC62軽軸重型の軸重とシリンダ牽引力の比率はC57と大差なし。
C62 3もシリンダボアダウンは施工されなかった。
C60は素の状態でも引き出し性能はC61より優れていたのだから、重油併燃ならC61を上回っていた。
逆に言えばC61は動輪上重量を晩年のC51並に設定可とし、シリンダ径もC55並ならよかったのでは。
あくまで結果論でしかないが。 C59の余剰廃車は岡山・仙台電化以降。
昭和33年度時点でC59は素では行き場がなくなる事がわかっていた。
D62みたいに軸重は維持したまま先行してハドソン化しておけば。
無煙化はいいとして、DF50は500台でもC60・C61より非力なのに。 >>55 C61の出力がD51並みの1280PSとして、炭水車含めた総重量は128トン、
DF50はモータ出力600Kw(816PS)で重量81トン。出力重量比からすると、同じくらいか。
C61のような重いSLが入りにくい亜幹線であっても、DF50はそれと同等の性能を発揮できたということ。
おまけに石炭の煤煙に悩まされなくて済むというメリットもある。 いやいやDF50はズルツァーがC58、マンがC57程度の能力しかないから
両形式を無煙化するのが関の山でヘビーパシ、ハドソンの置換えは無理ぽ スモールエンジンポリシーってのが根強かったみたいだから、
太いボイラーの機関車はどうしても嫌われ気味だったのかねぇ。
C57で間に合ってるんだから、C60なんかよこしてくれるなと。
C60を重油専燃にでもして東北筋はこれで統一、C61を日本海側に、なんて妄想はあるけどね。
集煙とボイラー上に重油背負ったC61なんてかっこよくないかな?
C59127を重油炊きにした時に一緒に二軸従台車をつけておけばどうなったか、と思わないでもない。 >>58
日本がスモールエンジンポリシーなのは最初に鉄道を学んだ先がイギリスだったことと島安次郎の存在が大きかったのだろうね。
ハドソン・バークシャーはアメリカ発祥の様式、つまりラージエンジンポリシーの下で生まれたから日本では正当な評価がされにくいのかも。
ましてや保守的な国鉄だから余計に。 >>57 出力重量比という概念理解できないのかなあ?DF50重連で、同じ出力重量比でC61単機を上回る馬力を出せるということ。C61重連にすると、もっと馬力は多くなるが、線路への負担も増す >>60
いくら出力重量比出力が優ったところで出力の絶対値が低いから意味無し
それにDF50重連にしたら168トンでC61はおろかC62より重くなりますがな しかもDFには遅いというオマケがあるしな
奥羽線末期の活躍がC61やD51の補機だったのも仕方ないくらいに 非電化幹線の列車を牽引するには、DF50の設計最高速度90Km程度で十分なんでは?
C61と出力重量比同等でパワー不足の感は否めないが、東北本線等の主要幹線は10数年以内に全線電化される、電気機関車ないしより高性能のディーゼル機関車に代わられるまでの繋ぎとしてなら、生産配備する意義はあったと思うけどね。
仮にDF50を止めてC61等の重量級SLをより多く量産していたとしても、主要幹線における活躍期間は短い。液体式気動車が昭和30年代前半から本格導入され始めていることも考えると、非電化幹線でも旅客用重量級SLの必要性は少なくなる。
要するに宝の持ち腐れになっていただけだろう。 いやだからDF50じゃ出力が足りないんだってば
C61が同じ速度で12両牽けてたところを9両に成ったら輸送力下がるでしょっての 電化予定の線区にディーゼル対応の給油設備を作ったり乗務員教育するとかはまさに二重投資の最たるもの
電化までのつなぎであれば大型蒸機を軸重軽減して下級線区に投入すればよいし
気動車などは未電化閑散線区にこそ好適
あとディーゼル機は蒸機よか製造費高いはずだがそこは如何なのねん >>65
そういやDF50(0番台)の原形だったDD50は初期に山陽でかもめ牽引に使おうと考えたものの
常時重連化は勿論高速向けに機器やら下回りは改造となるから没とかだったね >>64
DF50開発の数年前に蒸機の新造は打ち切り。
C63が製造されてたら、DF50の発注はもっと少数だった。 >>65 理解できてない奴だな。12両ほどの輸送力を必要としない区間だからDF50で間に合う、ましてやC61による重連必要とするようなことはない、そんな線区であればDF50で十分だろ。
12両以上の輸送力必要とする区間は、近いうちに電化されるんだし。C61でないと対応できないケースがあるとしても、必要最小限で済む。
電化されなくとも液体式気動車の長大編成に置き替わるケースも多かったし。東北の昼間急行なんてその一例。
>>66 C61も軸重軽減して丙線区間に投入する構想があったが、液体式気動車が普及したこともあって没になったね。
DF50だと石炭の煤煙はなくなるし、転車台も不要で合理化にもなるというメリットも考えないと。 >>68 1956年頃、C63が何故、計画中止に追い込まれたか考えないとね。
分散式動力方式列車の優位性に、この種の車両の大量導入計画が実行に移され始めたから。 C61が本気出さなきゃいけないところをDF50で置き換えようとするのか、
もっと楽なところにC61を回すならDF50でいいじゃんかというのと話がかみ合って無いような気がすんですが。 >>69
言ってることが矛盾してる
>>64では
「電気機関車ないしより高性能のディーゼル機関車に代わられるまでの繋ぎとして」
DF50を配備せよと自分で言ったのを忘れたのか? >>72 繋ぎとしてC61クラスの重量型旅客用SLを新製するよりも、DF50の方が総合的コスト・パフォーマンスで有利と判断されたからは?
上にも挙げたように無煙化できる、合理化にもなる、非電化亜幹線はそれで満足できる。 大型蒸機新製するとか誰が言ってるんだ?
東海道山陽で余ったC59をC60に改造すりゃ
DF50の新製より遥かに安上がりだ
ま、DF50はせいぜいC57・C58・9600でも置き換えてろってことだ DF50最大の功績は亜幹線無煙化の切り込み隊長。次いでC51への直接間接での刺客。
惜しむらくはC57を直接淘汰するには至らず、D51には跳ね返され、ハドソンやC59からは無視された事 >>74
レス52で、こんなこと言ってる奴がいるだろ。
「C60はもう少し多く改造して羽越線や海線あたりに振り向ければよかった。
C51の淘汰促進と高価な割に非力なDF50の製造抑制に貢献できたろうに。」
まあ、ジョークなのかもしれないが・・ レス73修正、「繋ぎとしてC61クラスの重量型旅客用SLを新製する」の次に追加
「、あるいはC59のC60への改造車を増やす」 国鉄も亡き者になった今となっては全てジョークと鱈レバー。
雑誌だったか、C62を『女王』と評した記事を見た時はお茶噴いた。
女王はC59だろうさ。 スト権ストやってた国鉄労組も、合理化人員削減さえなければ無煙化、SL廃止に大賛成だったからなあ。
軸重軽減改造による延命措置なんて、現場サイドとしては止めてほしかったのかもなあ >>79
C62ニセコが復活運転始めた頃の記事だったかなそれ 出力でSL>DLと結論づけてる子は通勤電車と新幹線しか見たことないんだろうね
SLもDLも非電化用の機関車だから似たようなものと思っている
輸送量の多い幹線には3000PSのDF51が予定されていたが
結局いたずらに形式を増やさず、電化かDD51重連で賄った
非力で2台要るからSLのままという選択はない >>82
お前の大好きなDF50は単機でC59〜C62、D51、D52を置き換えたのか?
非力だから電化もしくはDD51の登場を待つしか無かったんだろ?
似たようなものだと? 片腹痛いわ ディーゼルがお好きな方は置いておいて、C59が大量余剰になるのは目に見えたのだから、
もっとたくさんC60にしておけばどうなってただろうね、ってだけの話だったんですがねぇ。
九州はC59ではなく昭和31年の時点でC60投入だったのだろうか。C62も渡道してなかったかもね。
余剰廃車になったC59がC60として生き延びていたら、C51やC55の寿命が短くなったのだろうから、
そう思うと、何ともかも知れない。 >>87
>九州はC59ではなく昭和31年の時点でC60投入だったのだろうか。
鹿児島線北部と東北線南部は軌道強化してC59のまま転用した史実が正解でしょう
>C62も渡道してなかったかもね。
手焚きのD51で通標授受とで助士2名乗務の解消が目的の一つだからストーカー付きでないと無理ぽです C61は33両しかなかったから他にも活躍できた路線があっても回せなかったのかな、だがC57は細身に見えるが結構パワーがあったんだな、客車に乗っても力強さを感じた。C61でなくても十分だった >>89
前段
C61の不足を改造C60がある意味おぎなった訳です
後段
C61は時速20km以下ではC57にやや劣りますが30km以上なら三割増しで圧勝します 東北や九州の客車急行を400t台まで編成増強、さらに特急運転開始にはC61の功績もあるしな C59並の性能を乙線で実現できたのが最大のメリット
燃えん炭と罵られた低品質石炭でもそれなりに走ってくれたのも、当時の助士にとっては砂漠に雨だったろう。 そしてC62は国鉄復興の象徴だった。
生い立ちは戦争の影を引いていたものの、それを感じさせない姿形。
紛れもなく時代を引っ張っていた。
物心ついた時は既に衰退期だったけど。 播但線でC61を使っていれば生野越えや三重連も見ることが出来たか、それなら行く回数増えていた。 関西でC61使うのであればむしろ関西本線とか草津線とかが向いてると思うの >>91
加えて言えばつばめ・はとを最大13両・550t牽引を可能としたのはC62の功績な気がする。
名古屋電化以降のC62つばめ・はとの写真を見たら大概13両編成となってるのが多い。
所定11両編成にスハ44が2両、もしくはスハ44が1両とスイ38を1両増結してるのだろう。
>>95
関西本線はC61の元になったD51の天下だったからね。 関西本線の旅客は早く無煙化されたからウチらの世代が興味持つ頃は無いだろうな。山陰本線でも使えたか、京都から浜田へのロングランなんてあったし。余部の鉄橋を走れば絵になる ここの諸兄様方は今おん歳70位でいらっしゃるのか?自分は昭和42年生まれだけど、筑豊の96やD60の気配が幼児の記憶として微かにあるだけです。 >>98
したように見える?
転用といってもボイラと一部共通機器ぐらい。 >>100
大半は後にボイラーも新品に替えた。
>>99
自分は1966生まれ。
親の実家の関係で米沢の96とC11は覚えている。
後、山形で新庄のC5768か170を見たかな? 昭和42年生まれでD60や9600覚えているなんて凄いね。私は昭和32年生まれで筑豊には昭和47年に行った。2〜3歳の頃に山陽本線の列車を見てる、状況から見てほぼC62に間違いない >>98
D→C改造の背景はC57とC59の足回りとテンダーは造れたけどボイラーが造れなかったので
遊休のD51とD52からボイラーを巻き上げたわけです
昭和22年度に試作各1両、23年度にそれぞれ32両、48両量産し
24年度もC61を20両程度、C62を50両程度造りたかったけど
ドッジ緊縮財政の発動でストップされたわけです >>103
そうなってたらC60の登場も早まって、東北・常磐線の上野口は完全にハドソンに置き換わっていたかも。 >>104
そうなるとC51、54が昭和35年頃、C55が43年頃に全廃になってたかも。
更にSL最終旅客列車もC60か61牽引になっていただろうな。 >>105
さすがにそこまでは無理じゃないか?
無煙化完了が昭和50年度のままなら、C60・C61が北海道に行ったとして、昭和48年度中にC62もろとも引退かと。
無煙化計画が後ろ倒しになったとしても、客釜で最後までの 最後まで残るのはC57でしょ。
それにしてもC59・C60の話題少ない。 重油専用機のC59127は期待通りの結果は得られなかったのか。 C60はC59と同じ日、昭和45年9月30日に使命を終えた。呉線はC59が安芸を牽いて最後を飾ったが鹿児島本線ではさよなら列車はC6133だった。 >>108
C62並みの性能は出たが1両しか無いため乗務員と運用が限定された
同一仕様が20両もあれば活用されたのでわ C59127は重油満タンで石炭より走れたのか?テンダー長いからかなり積めただろうが、最後は盛岡で使われたというが結局すぐ解体された。 >>111
C59127の重油タンクは容量6,500リットル
重油1リットルの発熱量は上質炭の約1.5倍だから約10トン相当
石炭焚きC59の搭載量と同じだから航続距離も同等と見て良いでしょう あと蒸気噴射式「消煙装置」。
C5979とC6240に取り付けられ、成績良好だったという。
他にも取り付けられたというが、1955年頃、名古屋にいたC5916のキャブ下にそれらしき物体がついている写真が蒸気機関車EXのC59・C62特集にあった。
また、ファン誌1970年10月号のC59特集にも、名古屋区形湾曲ステーの戦前形が同様の装置を付けて急行瀬戸を牽く写真があった。 呉線の三両のC59はよく最後まで残ったな、164は電化前に検査期限を迎えたが。梅小路で現役時代を知ってる唯一のカマ、タイミングが悪く走行中の写真を写せなかった 調子がよかったのか検査に余裕あったか知らんが本やネット上に出ている呉線末期の写真見ると162号機が多い印象 C62山陽組の傷みがひどくて、これじゃC59や常磐組の方がましという事だったんだろう。
C59を延命させるつもりで改造したC60が、C59と同時に全廃とは何たる皮肉。
逆に言えば、糸崎の3両が土俵際でC62をうっちゃったからだろうけど。 ストーカー未装備で、燃焼室設置のC59101号機〜って80キロくらいで走行
してたのかな? 【BS11:紀行・教養】 <尾上松也の古地図で謎解き!にっぽん探究>放送時間:毎週水曜日 よる8時00分〜8時54分 #bs11 http://www.bs11.jp/education/post-74/ C62の登場で命運尽きたC53、テンダーだけでも再用できなかったのだろうか?さすがにストーカー取り付けは無理だろうから、D51-1000あたりに転用して、それをストーカー付きにしてC61に回す・・・・とか >>117
東海道時代、不定期特急さくらをC62とほぼ同じ所要時間で牽いてますたよ。
編成は所定9両だけど、昭和31年1月12日にC59115が外人団体用らしきマイテ39とスイ38を増結した11両牽いて山科の坂を上る姿を故高橋弘氏が撮影している。(松本謙一『C59』収録)
偶然にも当日の編成記録が鉄道ファン誌1977年6月号に記載されていて、食堂車はマシ29 2。
ス級9両にマ級2両の定数45に対し、C59の特急最大定数は48。C62のつばめ・はととほぼ同等に走れた。
さくらを牽く姿の写真が多いのは、下りが名古屋のC5916と110。上りは宮原のC599・74・115・124。
戦前形も普通に牽いてます。 >>119
確か、一部が糖蜜輸送用タキに改造転用。 連投すまぬ
C5321のテンダはC51236に流用された。
戦後の混乱期だったから、他のC51やD50に流用されたものもあるかも。
C53の中には水槽容量がより大きいD50とテンダ振替をした機があるから、あるいはD50に出戻っていったテンダがあるかも。 >>119
ロングランする特急急行牽引機にくっ付けてダブルテンダーにして給水停車を少なくするとか >>119
あるいは大操車場の入換専用機に付けてホース繋がない貨車列の制動距離短くするとか >>124
ミキ20(旧燕用水槽車)やC62の廃車テンダを使ってたという長町のアレですか そーですそーです
んでC62の廃車テンダはC61に譲るとか いえいえ、複雑怪奇な玉突き転用の挙句、8620や9600のテンダーが大型化し、さらには6760とか8850とかB50のテンダーが・・・・・ C51の「燕」水槽車の話は、まだまだ各主要駅の給水設備が整ってなかった時代なんじゃないかな?ホーム末端に給水が無かったら、機関車交換いがい方法がなかっただろ、そこで給水車、でもすぐ滅びたのも「地上インフラ整備」のおかげだとおもうけどなぁ
・・・しかしますますC59からはなれていってるか? ミキ20の型式名称の由来は神社のお神酒から。
マメ知識な。 そのミキ20は晩年東北にいたから、C60・C61と顔合わせしていたかもね。
C59といえば、昭和35年に福島まで電化されてからも1年あまり、白河に3・110・190がいた。 >>128
主要駅の給水設備などそれこそ開通時から有りましたがな
昔はテンダーが小型だから航続距離も短かったわけだし
あと「燕」の水槽車は長距離無停車運転のためで色んな本に書いてあります 水運車は、確保できる水量が足らなかったり、水質が蒸機に合わなかったりと水の条件が悪い駐泊所などに水を届けるためではなかった?
基本的には廃車された機関車のテンダ改造だったが、戦後ミム100が新造。
2代目かもめは当初岡山〜広島間ノンストップ。
福山と尾道が停車駅に名乗り上げて収拾がつかず、国鉄がキレて両成敗にしたが、冬場はC59でもギリギリだったので、仕方なく福山にD50?のテンダを使った給水設備をあつらえたとか。 >>130・131
なるほど、勉強になりました ありがとうございます >>132
福山って急行停車駅でしょ?
給水設備無かったんですかね? >>134
恐らく、機関区がある糸崎で給水してた。 >>136
当時のかもめは、お召し列車を除けばつばめ・はとに次ぐランク3位の列車で、大阪以西ならNo.1の最重要かつ最速の列車。
事故でもないのに、本来停まらない駅で給水なんかしたら、機関士たちはおろか、カマ所属の区長の責任が問われる。
そんな調子悪いカマを特急にあてたのかと総裁から大目玉喰らう。 いや福山も本来の停車駅ではないし
缶水欠乏でヘソ溶かすよか良くね? あと福山と尾道の勝負は尾道が勝ち給水設備が設けられ
機関車もC62に代わったとF誌宇田賢吉氏記事に有ったので
>>132の後段はいずれにせよ誤り >>130
電化後も残ったのは臨時列車用
当時はELに夏冬多客時の臨客にまわすだけのゆとりがなかった
熊本に残った最後のC60も同様に臨客用 >>138
いやもう過去の事だから。
実際に特急でへそ溶かしあったかは不明。
昭和20〜30年代、特急の機関士はお召し列車運転できる技量だったから、いぶし銀の腕で間に合わせてたんだろう。
>>140
ED71は当初絶縁油ぶちまけたり等、初期トラブルも多かったというし、山形国体お召しも大事とって重連で牽いてたから、黒磯側の予備機という意味もあったのだろう。 いきなり話が飛びますなあ、C59.C62撮影のメッカだった所だが今はどうなっているか? >>142
駅長だった庄田氏は呉線電化から約10年で亡くなってたんだな
(この前部屋整理して出たF誌の81年9月号読んでたら訃報が載ってた) 呉線に限らずSLが走っていた頃の面影が残っている場所はほとんど無いだろう。田畑は住宅地に、単線が複線に、踏切が高架になったりしてるだろうな。大和ミュージアムに行くことあれば乗るがいつになるやら それこそ震災前の常磐線北部はまだC62が来そうなムード残ってたんだけどね C60が梅小路入りしなかったのはバークシャーが選ばれなかったのと同じ理由か、オリジナルがあるからいらないということか。仙台に残したのは子供の投書が発端らしいね 最初の候補絞込みのときは鷹司平通氏がD52でなくD62を強硬に推薦してたらしい 撮影地といえばC62なんかを山崎で記録した写真はあまりないんだよな。
山科はかなり見かけるが、やはり昔は望遠レンズで
アウトカーブから狙う習慣がなかったからか。 当時は一眼レフが少なかったからね
主力はブローニー版の二眼レフやセミ版の距離計連動式だったでしょ >>149
仙台のC60といえば常磐線と仙台以北というイメージが強いが、C59が福島・仙台入りするまでは、C51やC57に混じって急行青葉なども牽いていた事。 そういえば電化区間でもあったしな。
でも優等はカーブ後に阪急に抜かれるのに備えて
ダッシュした話もあるから記録がないのは惜しいな。 西尾かつさぶろう氏が戦前にライカで燕と新京坂の競争を連続数駒撮ってた C62の頃は高槻から山崎越えて長岡京手前まで併走姿が見れたんだよな。
東海道線は山崎のカーブがあったので、そこからが勝負だったそうだね。 >>160 国鉄の方が線形良く駅間距離も長いし、
新京阪よりも名鉄との並走区間の方が、国鉄の列車にとってスピード競争で有利なんでは? 地図で比較すればわかるよ。
阪急(新京阪):大山崎、長岡天神間と、JR(国鉄):山崎、長岡京間がほぼ同じ位の距離で、線形も似たような感じ。
当時、阪急の西山天王山駅はなかったから、両者とも中間駅なし。
名鉄:名鉄一宮、黒田間と、JR(国鉄):尾張一宮、木曽川間がほぼ同じくらいの距離。
線形は似たようなものだが国鉄は中間駅がないのに対し、名鉄は現在でも中間駅が3つ(新木曽川、石刀、今伊勢)もある。
名鉄は一宮の南で大きくカーブするし。
中間駅が多く、加減速の繰り返しが多いのであれば、高速度を犠牲にしても加速度重視の車両を導入するだろうから、「電車の格」なんてものによる単純比較はできない。
要するに、名鉄は高速度走行にあまり向いていない路線ということだ。 山崎では両者クロスするというのがまたいいね。
省線は大カーブ連続、新京阪もカーブして登りなんだから
運転してる側も意識するなというのは無理だろうな。
優等は高槻出て併走を確認したら蒸気控えて身構えたそうだし。 逆を言えば、C51から157系まで相手にし、長生きしたP-6と、お守りしてきた新京阪・阪急の技術が実に大したものかがわかった。 >>156-157
西尾氏が昭和10年にP-6から上り燕の併走を撮った写真は
C5343の流線型が確認できるけど最後はP-6が振り切られてる(展望車が遠くへ去っていく) C53の助手も張り切ったんだろうなw
そういえばC59のなんかの試験で内側線を走る
急電をぶち抜いた話もあったな。 C59 1の落成試験で104km/hを出したときだね >>168
C59は当初テンダとの連結が硬すぎたのか、高速で石炭がキャブになだれ込んできたようだが、初号機たる1はどうだったのだろう。
昭和16年5月完成のC59 1は灯火管制フード無しで引き渡されたようだが、8月完成の川車製初号機のC59 11はフード付の完成写真がある。
7月にはアメリカが日本の資産凍結に踏み切ったから、当局も対米戦不可避と覚悟したからか。 >>169
F誌高田隆雄氏記事
「C59の炭水車は、当初基本形の摩擦緩衝バネをとりつけたので、とくに後続車両への影響が大きかった。
その後、他形式と同じように柔らかいコイルバネに変更されたので、前後動の
影響はよほど緩和されたと思う。」
> 川車製初号機のC59 11は
あれって灯火管制フードなのか?
ひさし型のじゃなくて?
ひさし型が広まったのは空襲の可能性が高まった19年以降だけどね >>170
昭和14年に宮原構内で撮影のC5389の写真でも前灯にC5911と似たフィルター状の、
標識灯には筒を斜めに切った形の覆いをつけてるんでたぶん初期の管制覆いなんでしょう >>171
なるほどー
調べたら西尾氏が昭和17年10月に撮ったC59 52も同じような前灯と標識灯を付けてた
前灯前面はルーバーに成ってるみたい オロ40 10(当時はスロ31129か)を従えたC59 1試運転は、ナンバープレートがプレス鋼板である事以外はカマも平時仕様で、添乗者の様子も含めてまだのどかさが漂っていたが、有名なC59 52の写真になると、大幹線の花形機関車にも関わらず、車体の煤けが目立ってきた。
そして終戦直後だという沼津の扇形庫にC53 93や2271と並ぶC59 35の汚いこと‥‥。 西尾克三郎氏は形式写真が多く走行は少ない
乾板式カメラではそうなるか。主な撮影地の宮原機関区が始めどこにあるかわからなかった。今の新大阪だと知ったのはずっと後 走行写真だとSSの問題があるからなぁ
30、40年前の鉄道雑誌でも完全に止めきれなくて被写体ぶれしている写真も少なくないし >>175
C51、C53の列車や流電なり関西私鉄は勿論上京する際に撮った車窓に
板谷峠や北海道とか走行やスナップ写真でも結構すごいの残してるもんな 写真集出した時の鉄道ファンのインタビュー思い出した。新聞記者もやってたとのこと、同僚が沢山撮ったのに西尾氏のワンショットが採用されたとある。記憶が曖昧だが そりゃ40年前は基本のポジが感度64から160程度で
バケペンでも1/1000だからな。 西尾克三郎、黒岩保美両氏の写真は鉄道雑誌を賑わせてくれた。原京一氏の写真も気に入ってたが本人は故人、早過ぎるよ C60はもっと増備する予定だったらしいが評価が良くないとのことで打ち切られたというが東北、長崎、鹿児島以外のどこで使うつもりだったのか >>182
確か奥羽、羽越、北陸、関西本線辺りにも入れる計画だった
(奥羽本線については秋田以北で一時入ったしC62の仙台配置で玉突き転用も検討したが) >>182
小樽〜旭川間とか向いてたんじゃね?
札幌近郊の通勤列車が重くなってC57では牽けなくてD51が牽いてたから >>182
零戦と雷電みたいなもので、C57を基準にしたら大抵のカマは評判良くない。
敢えていえばC55くらいしかない。
北海道なら海線でも良かったし、山線でも入れたのでは? >>182
C59からC60の改造は昭和28〜29年に17両、35年に30両で
C59として使える間はそのまま使うべきだし予算が無いと改造したくとも出来ない
36〜39年は東海道新幹線の工事で予算がそっちへ回った為と思われ
>>185
> 北海道なら海線でも良かったし、山線でも入れたのでは?
そうも思ったんだけど山線は急行以外C形は向かないし
海線も仁山越えが有るうちはD51でやるべきかと C57では力が足りないが、急勾配があると意味がないってことなので
せいぜい羽越か奥羽の極く一部程度だろう
でも、それならC61でもいいわけで、どうしてもC60にこだわることもない いやだからC60はC61不足の補充の意味が有ってだな あとC60については、ストーカが無いのでC61に比べて嫌われた
東北筋の優等・高速貨物運用は、本務機C61・補機C60だったし ハドソン重連の高速貨物なんて有ったか?
特急貨物は盛岡青森間はD51+C60orC61で盛岡一戸間はD51の前々補機の三重連だったけど >>188
不足補充もなにも、他線転用考える頃にはもう関係ないっての DD51とED75の配備で昭和40年には早くもお払い箱が始まったし。
さすがに北海道も引き取らなかった。 DD54やDF50は故障が多くて現場の評価もあまりよくなかったらしいが
DD51も初期形は結構面倒な故障があったらしいな
量産形になってやっと改善してSL淘汰に多大な貢献をしたが
(撮影側からはブタと呼ばれて散々だった) >>191
>>188は>>182からの流れで言ってるんですけど判りませんか? DF50が性能の割に高価だったから、これじゃC59をC60にしてC51を玉突き淘汰した方が安上がりじゃないかと検討したのでは?
まあ、速くて車内も明るく近代的な20系や55系DCが評判良かったのが幸いしたかな。 日豊本線で急遽C61を導入したが当初は宮崎〜鹿児島間がストーカーもあるし良いのではないかとされたがC57と大差ないので延岡〜宮崎間に回された。ハドソンは平坦路線の方が力を発揮出来るのか >>196
気動車出た一方で客車急行も編成が10両以上に伸びてブルトレも増える時期だったから
非電化の平坦、緩勾配区間でこれを単機で引くにもC59以降じゃないと厳しくはあった
それだけの重要路線なら電化ということになるし5年ほど後にはDD51が製造始まってしまうが…
>>198
基本的に各停と貨物運用のみでしかもC57が多数派な都合そうなってしまうんじゃないかな >>198
C61はC57より低速域での牽引力が無いから勾配線をノロノロ走るのは得意でない
ハドソンとかの大型ボイラーは高速で連続航行する時にその蒸発能力が活かせるわけです >>183
羽越線は47年の電化までC57でした。その気があれば43.10で余ったC60を廻せた筈ですけどやらなかった、C57で充分で、わざわざ燃料食う大型機に変更する意味が無かったとか? >>201
その時点で秋田と東新潟にまとまった数のDD51が転配属できたからでは? >>202
いえいえ、43.10の時点でC57の代わりにC60を転用できたのに・・・という意味です
C571が廃車になってたかも? >>200
動輪上重量がC55とC57の中間なのは理解に苦しんだ。
結果としてはC51並で十分だった。
東北本線北部の牽引定数はC61>C60(=C59盛岡以南)>C57で、鹿児島本線南部ではC60>C61=C57だった。 >>203
C60とDD51じゃ、やはり後者でしょ。
C60は羽越本線での実績ないし。
酒田まで南下した事あるC61だったらあるいは、ですがね。 >>201 >>203
日本海、きたぐに、天の川、鳥海と軒並みDD51になっていた43・10時の状態では
C57の代機にしても普通・臨時用となるだけに入れようとは思われなかったんでしょう
(結果として臨時きたぐには新潟以北でC57やD51が12系を牽引する珍事が起こった) >>203
43-10の時点で余剰になっても、もうどこも受け入れてくれないでしょ。
今更そんな大型機いらね、それよりDD51寄越せ、となるからね。 >>200
日本の場合ハドソンやバークシャーは軸重軽減の為で性能向上目的でなかったから過小評価に繋がった気がする。
本家アメリカのようにパシフィックやミカド機と比べて格段に差があるならば正当な評価されていたと思う。
個人的にはハドソン・バークシャーは過小評価されてた一方パシフィックやミカドは日本においては過大評価されてると思ってる。
日本国鉄の新しいモノ嫌いな体質もそうした傾向の助けになったのだろうね。 ディーゼルの無い日本国鉄を妄想しつつ喜悦に浸る今日この頃 無煙化計画を見直してDLの増備を抑えていたら、C59はともかく、ハドソンは2年くらい延命しただろうか‥‥。 無煙化の進展が一番遅い計画だと
C60が100台ほど改造されてて、1980年ごろまで蒸気機関車が残ってるんじゃなかったか?
最近(ここ1〜2年?)のネコの本か何かに出てたような記憶があるが、何に書いてあったんだか。 C59の延命措置としてC60として登場したが元々長期の使用は想定してないだろう。それにしてもC57の潜在能力は凄い、ハドソン相手にわたりあうとは いやC57の潜在能力が凄いんじゃなくてハドソンに合うお仕事が無くなったわけ >>212
C57単機でも20系13両を牽く事はできる。
但しC59〜C62と同じダイヤでは走れない。
C57が互角に渡り合えるとすればC61で、それも普通列車だけ。 山陽本線のC62特急の映像見たら他の形式を寄せ付けない凄い走りをしてる。C57は勿論C59でも出来ないほど。どのカマかはわからないが、最好調機は29.35あたりだがさて 蒸気ブルトレ末期の1964年3月あたりだと
下りさくら、みずほが広転、あさかぜ、はやぶさ(?)が下関の運用で
所属機は
広転 1,5,6,12,13,14,15,28,33,36,41,43
下関 16,17,18,25,26,29,31,34,35,40
のようです >>215
その頃の山陽C62を録音したビクターのレコードは一度聴いてみたかった
(後年に同社が出してたC59音戸の録音もどんなものだったか興味あるが)
>>216
昭和37年10月改正時だと広島所が下りさくらと上りあさかぜ、みずほの上下、
下関区が上りさくらと下りあさかぜ、はやぶさの上下ですな かもめのヘッドマークのデザインが違ってたりしてたが広島でそれが並んでいたから梅小路、宮原のC62はかなり遠くまで行ってたんだな かもめ牽いたC59ってほとんど戦後形で戦前形はあまり写真見ないよね C59100が牽いてる写真見たけどこのカマは後にC6019になる。C60への改造は好不調や実績に関係なく行なわれたのか >>221
試運転は広2のC5977が広島〜下関間往復やったし、本運転で牽く写真もある。
ダークグリーン機C5979もかもめ牽いてセノハチに挑む写真もあるから、あのカラーリングで京都まで行っていたのだろう。
大阪局は101〜が多かった一方で広島局には戦前形も少なからずいた。
何よりキャブにかもめマークを付けたカマ3両中2両が戦前形(42と77) >>218
C59時代、広島第2機関区は下り広島→下関と上り広島→京都を担当。
往復を担当したのは広2だけだったから、相当力が入ってた。 >>218
山陽だけでも梅小路、広二、下関で全部デザイン変えてるしねかもめのHMは >>225
門司港もお忘れなく。
九州では、末期は鳥栖のC6023が上りかもめを牽く姿も撮影されている。
個人的には、かもめはC59が牽いている方が締まって見える。 おいらが雑誌で見た集計結果は
2回
梅 100,107,118
1回
梅 108,116
広 20,77,95,119,158,172,191
関 99,158
となりました
プレスの本は見ていません >>222
100は1955年に宇都宮に行き白河を経てC60になってるから梅区の中では早くに都落ちしてるね >>227
故竹島紀元氏が1957年に八幡製鉄所の煙突群バックにかもめ牽くC5925を撮影してる。
>>228
C59100は東海道線電化完成の1956年11月に宇都宮転属。 >>229
>>227は山陽線内の話ね
あと ↓ だと1955.9転属になってる
ttp://d51498.com/db/C59/C59100 >>227
RF誌でかもめの写真を漁ってみたら161が5号に、104が227号、190が299号にあった 現在までの集計結果
2回
梅 100,107,118
1回
梅 104,108,116,190
広 20,77,95,119,158,161,172,191
関 99,158
=================関門海峡
門 25 100の宇都宮行きの時期の出典。
こちらはプレスアイゼンバーンC59とファン1970年10月号。
プレスアイゼンバーンC59にはかもめ牽くC59 24が載ってた。
1号機がかもめ牽く写真は見たことない。 ファン1970年10月号?今村氏記事ではS30.7.20とS31.10.12の2回100が梅から宇に転属となっていた
当時すでに山陽筋にはC59が足りてたので梅の釜は東北と九州へ行ったのが多い トップナンバーはみすほ専用機みたいになってたからな。異端児?の31は特急牽いたのかな >>233
ピクアーカイブスの6号にあった投稿の再録(1957年6月5日下り5レの編成メモ)だと126の牽引で京都発車
>>236
蒸気機関車誌の80年3月号にみずほ牽引の写真は載ってる >>235
1955/8/1現在の配置表で100はまだ梅小路区になってるから7/20付けはないと思われる
「機関車表」だと一回梅小路から宇都宮にいってまた梅小路に戻って
再度宇都宮に行ってるみたいだけど不可解
かもめの運用は56年秋にはC62が専従になったとどこかで読んだ覚えがある >>233
24の配置は何処ですか?
>>237
thx
>>238
行きつ戻りつは夏の多客で缶が足りなくなったから一旦返せ、とか
あとファ誌5号の161(202レ)は1960年代ではなかったかしら(ナハ10系が入ってた) 自己解決
ファソ誌5号の161(202レ)はS33(1958).8.1でした 現在までの集計結果
2回
梅 100,107,118
1回
梅 104,108,116,126,190
広 20,77,95,119,158,161,172,191
関 99,158
=================関門海峡
門 24,25
梅の戦前形は戦後形より早く都落ちしたためもあって
「かもめ」を牽いたケースはほぼ無いと見て良い >>241
元資料が古いのでどこまでアテになるかはともかくピクアーカイブス5号にあった1956年6月当時のかもめ牽引機一覧表から見ていくと
梅は47,100,104,107,108,109,119,126,128,190(他に冬期以外の予備としてC62が13両)
広二は11,12,20,32,39,42,51,53,68,77,79,83,84,95,119,172,181,191(+6両のC62)
関が72,91,97,99,123,131,132,157,158,159,160,161,162,163,171,183,187,192,193,194(C62は無配置)
とあるので(当時門司以西はC57牽引)、C59戦前型が入るとすれば広二の機が牽く上りかもめが多かったとみて良さそうですな >>241の訂正
2回
梅 100,107,118
1回
梅 104,108,116,126,190
広 20,77,95,119,161,172,191
関 99,158
=================関門海峡
門 24,25 >>242
紹介サンクスです
んで戦前形が多いはずの広二の運用で戦後形が多く記録されてるのは >>243
やはりそれなりの傾向を示してるのかと思いまして
(関は広島以西なので当時は写した人が少ない) 昭和45年9月に親父の転勤の関係で
呉から東京まで急行安芸に乗車
この時の牽引機関車がC59だった
正面の安芸のヘッドマークに目が行き
何号機だったかは記憶にない
15時半定時に大きなドラフト音を響かせながら
1番ホームに滑り込んできた
今思い返せば写真の一枚でも撮っておけば
貴重な記録になっていたのにと思う
C59の牽引は糸崎まででここで電気機関車に
付け替え更に後ろに増結車2両を連結したと記憶 翌10月には呉線が電化されることになっており、
結果的にこれが最後のC59牽引列車の乗車と
なってしまったが当時はそのようなこととは
つゆ知らず何の感慨もなく平日にも関わらず
大勢のサラリーマンで混み合っていた車内に
漫然と乗車していた
岡山を過ぎたあたりから進行方向左側に真新しい
高架橋とぽっかりと口を開けたトンネルが見えてきた
建設中だった新幹線だった
いずれここを通るんだなあと思いつつ通り過ぎた
その後数え切れないほど往復することになった 夕食を取ろうと食堂車に行ったが、満員で
列をなして並んで待っている状態だったので
あきらめて結局車販で弁当を買って済ませた
大阪に停車した時は夜遅く誰もいないホームを見て
このまま万博に行けたらなあと思ったもの
東京駅には今はない在来線15番線に到着しすぐ右上の
16番線に停車していた0系新幹線が綺麗で眩しく見えた >>245
> 15時半定時に大きなドラフト音を響かせながら
> 1番ホームに滑り込んできた
この一文ででウソがばれちゃって誰も読まなくなったんだよ。 「安芸」登りは広島15時発、先に車両をホームに入れて機関車がバックで来て連結。出発シーンをとらえたことあるよ C6217その二日後はC6237、後者はあまり蒸気や煙を出さなかった。牽引機は概ね番号順に回っていたようである >>249,250
よく文章をヨメ
「呉から東京まで」だ
呉駅の三原方面行きの列車は本屋がある1番線からの
出発で今も変わらない。
(昔は改札が1階にあったのでそのまま1番線ホームに
出れたが駅改築後の現在は2階に変わったので
改札に入ったら通路を通り階段を下りていく構造になった) 追伸
安芸下車後東京駅からは船橋駅まで移動したが
その時の様子を別スレ「高架駅・地下駅の地平駅時代」の
No.22に記載
http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1382781548/ あ〜ら〜インフルエンザ後でまだ頭ボケてますな、投稿者には申し訳ないことをしました。広島15時発なら呉はその30分程後。70年8月に呉でC59162の安芸を見た。暑さで歩道橋の階段もキツかった時だ 38レ時代の上り安芸は呉発が1534とかだし広島→呉が30分でしょうね てか>>245の突っ込みどころは停車間際に
「大きなドラフト音を響かせながら」
ってとこじゃね? >>257
乗車した車両が恐らく1番広島寄りの1号車B寝台だったと
推察される(食堂車に行くときにA寝台を通り抜けて行った
記憶があるため)乗車位置がホームの一番広島寄りで
(安芸号は糸崎までは10両編成)
まだスピードが出ていたためそう感じたのだと思うが
そのへんは記憶がおぼろげで自信がない 安芸は急行なのにヘッドマークが付いた。付け替えが大変なので登り下り共に同じ機関車が牽くようにしたとの事。もしニセコにも付けるとしたら羊蹄山の絵が描かれたかな C62重連の最末期に一度掲げたことなかったかニセコのHMは
(青地にニセコの文字と山影で国鉄末期にDD51で使ったのとも違う柄のやつ) >>259
安芸のHMは秀逸だったね。
急行安芸とは直接は無関係だがその後ブルトレ特急化されて廃止となったが時期が悪かったせいか機関車へのHMや客車の絵入りトレインマークは登場せず終わった。
もし廃止がもう少し遅かったら急行安芸時代のHMが復刻(但し「あき」と記された部分は漢字化か?)したりHMのデザインがモチーフになった絵入りトレインマークが表れてたかもね。 ずっとSL一筋だったので客車や貨車などの車両の知識は皆無に等しい程で**系やらカタカナが何を意味するかも知らない、今更覚える気もないしな。広島行く時に乗った宮島51号はEF58にオハフ13らしい C60の写真見たらC59時代はどこを走っていたのかとつい思ってしまう(調べればわかるが) D60〜61みたいにオリジナルと共通運用はなかったと思う。その点は改造して良かったのかな >>264
C6037←C595は通しでの在籍期間が最長(29年)だが、C595として登場早々とおぼしき映像をNHKで見た事がある。
ヘッドライトの灯火管制はしていなかったと思う。
汽車会社の最初の10両は灯火管制なしで引き渡されたのではないか? 鹿児島本線には行けなかった。九州では保存されてないが話はなかったのか、C60.61共に電化後は隼人駅等に放置されていたそうだが、日豊本線での使用決定がもう少し早ければ復活もあったか 「この世界の片隅に」は原爆を落とされる前後の広島が舞台ですので劇中に出てきたC59は明らかに戦前製ですね。 Rail MagazineにC62の特集が、シールドビームをつけたC625の写真は珍しい。 今月出る「国鉄時代」もC62・C61・C60がてんこ盛りとか >>271
最後は呉線に移ってLP403に交換した
C62には似合わんな >>274
言われてみればそうだw
C12やC56でも嫌いだわ 横に副灯を付けたのあるが不細工だと思う。函館本線のC62は一時煙室扉に付けてたがあれもねえ・・胆振線の二つ目の9600もあったな 横に副灯を取り付けるのは東北と北海道で多くなされたけど交流電化の関係なんだよね?
でも同じ交流電化でも九州では転属車を別にしてこういう変更はやってないね。 >>277
末期には関東でも一部で副灯付けた(常磐・水戸線他の都合)
経緯は東日本のほうが労組強かったとかメーカーのゴリ押しやら色々あるが 主灯の電球が壊れたとき交換するのが交流架線だと感電事故直結リスクがあるので予備灯を付けたと聞いたことがあるけど、
直流だと問題ないのがよくわからん
九州は根性で防げるのか もう電球無いんじゃないの?動態保存のカマにはLEDを採用!なんてね >>279
まあ交流のほうが感電のリスクは高い(条件によっては高圧線に近づいただけでもありえる)
東日本で副灯つけたのは上にもあるような事情に加え寒地というのもあった気も…
>>280
確か東はLEDを蒸機や旧客の灯具にも採用してた 交流は25000V身近な所に危険なものがあるんだな、近づいても放電するか、触れたら即死か、助かっても身体の組織が破壊されて廃人 交流は電圧が高いから近寄るだけで感電、20000Vだと大体1m以内だな。
ちなみに感電の危険性は直流だろうが交流だろうが変らない。
直流1500Vだと感電すれば常に流れっぱなしだし、
交流20000Vだと電圧が高いので0に戻る前に死ぬから、どちらも同じ。
C62は全高が高いので、前灯付近に接近すると交流放電で感電するから。
これが直流1500Vだと架線に触れない限り、10cm位まで近づかないと感電しない。 C62は全高が高いではなく、しいていえば車高が高いだな
ただ、明らかに車高が低い築港のC12も副灯つけてたのが不可解
あの高さですら交流だと感電するもんなのかと
さらになぜ九州だと副灯つけないのかと 20年くらい前だったか鹿児島で、留置中の485の屋根に登って遊んでた高校のバカガキ共が感電してマンコが重症だっての思い出したが、よく死ななかったよな
今も生きてりゃ植物人間か 九州でシールドビームがないのは、「かっこ悪い」から。 電圧だけでなく電流も問題、スタンガンは数万Vでるが電流が非常に微弱なのでショック受けても死なない C6120もせめて100km/h運転して欲しいね
100mphとは言わないから 副灯を嫌う先輩方もおいでだがC622の副灯は神だと思いますが
でも主灯がシルドビームなのは流石に忍びない C62 2に関係なく主灯がシールドビームって格好悪いってことね こういうことでしょ?
ttp://www.geocities.jp/okazu1945/kure/c6231w.jpg >>292
書き方が悪くて御免なさい
C56とかC11で原型はずしてシールドを付けた奴がいたでしょ、アレの事
何れにしてもスレチで御免なさい C62では21も主灯がシールドビームだった
C59は知らん それこそ9号機(低い位置にシールドビーム主灯+副灯)というゲテモノがあるしなC62は
>>296
山陽線末期の写真で見た覚えがある気もするけれどどうだったかな >>277-279
亀でスマヌが副灯は冬季の視界確保だと五稜郭区にいた爺が言ってた。
球切れ云々は副次的効果だそう。
そもそも主灯の球切れ時はナンバープレート近くのフックにカンテラを掛ける訳で。
電機の貫通扉上にあるフックも同じ目的だとさ。 >>298
それなら副灯が関東以北の寒冷地限定だった理由が分かる。
逆に交流電化であっても九州にはなかった理由も。 五稜郭のカマで副灯付きは無いとおもう
冬期の視界確保なら裏日本の羽越や奥羽、北陸本線でどうだったかと言えば
末期の糸魚川区ですら富山電化済み後も副灯は付いてない
留萌のD61は深川電化がらみの副灯だったような
築港のは小樽電化がらみの対策だったのでは 常磐沿線は雪ほとんど降らないけど副灯付けてたから冬期の視界確保って訳じゃないと思う >>296
末期のC5953(下関区)がシールドビーム1灯
>>298
この前の蒸機エクスプローラ誌に記事あったが東北に関してははやはり電化対策だそうだ
(執筆した大山氏によると福島電化後に架線のある構内で点検や検査時の感電事故続発) アメリカ蒸機のサンビームがカッコいい
鉄道省はあれをパクれば良かったのに >>296
C62 19←『大いなる驀進』参照
C59 96も晩年はシールドビーム1灯+先輪は前後ともディスク輪心 >>304
鉄道省もLP42になる前はサンビームでしたけど何か そんなことは知っている。
あれは金を出して買ったんだよ
それより、サンプルだけ買ってパクる日本人のいつもの手口があるだろう? 民間旅客機の機長だと機種や運行路線ごとに個別の乗務ライセンスがあるけど
旧国鉄はどうだったの?
甲種蒸気機関車運転免許があれば、C59、C62関係なく、どこでも機関士乗務OK? 「甲種蒸気機関車運転免許」なんて訊いたことないけどね
旧国鉄はどうだったかは宇田賢吉著「鉄路100万キロ走行記」を嫁 >>309
甲組から大きい機関区は乙・丙・・・と組み分けされて
本線旅客担当・同貨物・支線・入換え・庫内と組毎に仕業が異なるのが基本
新米は庫内(焚き始め・焚き終わり専業)や入換え担当の乙・丙組から始めて
経験を積んで所定の内規によるチェックをクリアすれば、支線→本線貨物→同普通客レ→急行等優等客レの組に昇格、それぞれ仕業によりカマ形式は変わるのが基本で入換機に乗った翌日大型旅客用機に乗ることは通常ありえない
ただ、末期はそんな厳格な秩序は消滅して仕業も組も乗務員はDL・ELも含めてぐちゃぐちゃになっていったし、そもそも一つの区に多数の形式が集まることも激減した 甲乙丙、この言葉も使わなくなったな、40年程前にスピード違反のフェアレディZを停めさせようとしたパトカーが「そこのフェアレディ乙止まりなさい」と言ってたそうな 乗務員の組とカマの組は別々で
乗務員はその時々の労働基準法に準拠した所定労働時間を考慮した仕業により運用
カマはほぼ一定の走行距離か経過時間で区切った仕業をやはり順番に担当するように運用
ダイヤのスジは本局が担当しても、機関区の乗務員とカマの運用はそこの運転助役が鉛筆舐めてダイヤ改正のたびに1週間以上徹夜でゼロからやり直す
田舎の中途半端な路線はともかく枝線も担当する主要幹線の機関区の仕業は100近くあるから地獄の苦しみ
しかも乗務員は必ず要領のいいのが楽をして、お人好しが割を食うから仕業の割り振りの責任者でもある叩き上げの助役が恨まれる
区長は本局人事でコロコロ変わるお飾りで気楽な稼業 C62の通常ダイヤの牽引列車には乗り損ねたが
20年以上前に函館本線で運行れていた“SLニセコ号(?)”には
一度乗車したことがある
倶知安から小樽まで乗車したがやはり蒸気機関車は
乗るものではなく、走っている姿を見るのがいいと実感
今は梅小路で1号機と2号機が保存しており2号機の方は
運がよければ動く姿が見られる
ちなみに1号機は鉄道開業100周年の夏に広島駅0番線に
特急かもめのヘッドマークを付けた状態で展示されたことがあり
見に行って写真を撮った思い出がある 小学生の頃、C62が牽引するSL白鷺号に乗ったことがある(→1972年)
客車がブルートレインみたいなやつで、なんか「これじゃないだろ感」はあった >>321
ブルーにホワイトラインの20系客車かな? >>322
うん。青色に白ラインだった
扉は自動ドアでエアコンも付いていた >>324
そう、2段式の窓を全開にして牽引機関車であるC62 2の撮影を試みていた
とにかく客車が鮮やかなピカピカ青色で、イメージが合わなかった
自分としては、EF58以前のつばめ号客車編成を再現して欲しかった 26が保存に至った経緯は如何に?川崎車輛唯一の保存機だけど最高調機の29も残してほしかった。火を落としたら好不調も関係ないが 保存前提で保管の49を潰したのはもったいない。
常磐機の保存機はひとつもないんだね。
49か23あたりをかつての常磐特急の象徴として地元に保存されてたらよかった。 >>328
前に出た話かもしれんが呉線電化のときに23か37を戻そうという動きさえ
水戸局・仙台局や周辺自治体で起きなかった辺りでそこはな
(同時期に86、C50やD51を常磐線沿線に静態保存してるのがまた)
郡山工にC6210を標本として置くという話自体も過去に出たことは出たので一部でも残ってればね… 小倉工で保管されてたC59の程度の良さを見るにつけ九州にC62が入ってれば
と思われる
まあ小倉工にはED73の前科もあるから完全には信用出来んが 10番は不調機と聞いたが、他に45.49も。39はボイラーの具合が悪かったが事故機の21のボイラーを転用して復活。ゆうづる誕生前に廃車になった仙台区のカマにも好調なのあっただろうな 仙台のC62は当初青森までロングランさせるつもりで初雁を牽いた尾久の好調機を転属させた 好調とかなにを根拠にいうのかが不透明
機種によって軸重のからみで空転多発とかはあっても
昇圧不良とかは種機の選別時点で既にはじいてるわけで、
ボイラーの不調というより、単にストーカー調整が下手のカマ焚きが言い訳にしていたにすぎないと思う 電機なら同一形式が全部同一性能かも知れんが蒸機はバラツキが大きいからね SLは同じ構造なのに個体差が大きい、宮原機関区ではナンバープレートの色で分けていたとのこと。電化後は好調機は山陽本線に不調機は北海道へ >>334
いや機械は電機でも時と場合によってはばらつきはあるだろう
自動車ですら月曜日の製造車体は調子が悪いとか70年代までの米国車ではありがちだった
蒸機の場合、特に戦時中のボイラーは粗製乱造でほとんどのちに新缶に交換してるが、不調機でありながらなぜか新缶にせずそのままC62に改造されたD52が結構ある 昭和25年、北九州の若松市に生まれた私は、九州管内の16か所を引っ越しする生活だったが
昭和31年、小倉市の上富野の操車場の近くの、鹿児島本線直下にあった、借家の塀に掴まりながら、6歳の
時、ほぼ1年間、驀進する蒸気黄金時代をかぶりつきで一日中、堪能したのだった。 C51,57,59 D50,51型はナメクジ煙突、普通の煙突 よりどりみどり
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昭和30年代の中ごろ、昭和さんじゅうX年、X月X日のある日、私は三池炭鉱で有名な
三池炭田の中心地、大牟田市の大牟田駅の灰色のプラットホームに立っていた。
人の群れの絶えない停車場には、蒸気機関車が躍動し、蒸気と黒煙と白煙とブラストの騒音
と世界最大の大動輪を止めんと、必死のブレーキ音のC57で騒然となっている。
おっと、これはまずい、悪い予感が、左から蒸気が1台進入してくる。急行列車だ、
先頭に立つは、あの九州の化け物蒸気、おそろしい突貫小僧の精悍重厚のC59旅客パシフィックだ。
以下はこの【無線】 HIFI SSBアンチスレ の、359番の書き子で、続きをお楽しみ下さい(汗)・・・・・
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/radio/1462443341/ ↑ ↑
修正のお時間(汗)
(誤) >世界最大の大動輪 →→ (正) 狭軌では世界最大に近い大動輪の
狭軌で世界一の動輪直径は、たしか南アフリカ共和国の国産になる蒸機だったとの記憶がありますが・・・
正確には、C59や57の動輪は世界で二位、三位でしょうか。他にこの時見たと思われる蒸気
は、C11,くんろくの9600型、C55,C58,あるいは6歳の幼児ですから、C59の派生型である、C60とC61も
C59として見たとも考えられ、ささやかな6畳一間の借家でしたから、夕方6時に通過する、C57門鉄デフが引く
蒸気特急「かもめ」を合図とにして、我が家の夕食が始まっていました。この、「かもめ」が、我が家の人気ナンバーワン
だったんですよ・・・ええ、「あさかぜ」の突然の登場以前にはね じいさん、それは甘いで、昭和31年の門司、小倉近辺を走っとった蒸気はそんな、ちんけなもんや、あらへんで
蒸気黄金時代であるとともに、、九州の石炭黄金時代なんや、黄金時代が二つ、重なっとるやないけ、ダブルやダブル黄金時代なんや
筑豊炭田と三池炭鉱で掘った大量の石炭を、本州方面に、どどどどっ・・・・と送り込んで、いけいけどんどんや
くんろくが出たら八六も当然はしっとるやろが・・・ C56もC12も はちろく型の28695型も 当時の門司国労は、日本一の最強師団やで・・・・・・・
なんでもかまわん 犬でも猫でもかまわん、とにかく、全部走らせてしまえ・・・ 28695型ってなんだ?
そもそもC62・C59と関係ないネタはいいから 鹿児島本線の海側ではなく、山川にあったその家からは、右向きの上り列車が、4,5本存在した線路の一番向こうに見え、
貨物列車が、どんがらどんどんと、石炭を待ち受ける本州方面に送り込む、そして一番見やすい線路が目の前にある。下り博多方面行きの、その
かぶりつきの位置から右を見ると、遠くから、精悍重厚な黒い見慣れない機関車が、丸いヘッドマークを輝かせて、おう、なんてこった、列車の右面から
大量の赤白黄色の紙テープらしきものをひきずり、風に激しく揺らしながら突っ込んでくる。その機関車は、私が線路にほぼ張り付きの7mくらい離れた位置に
いるので、真一文字に突っ込んでくる。その黒いピカピカに磨きこまれた、見慣れない機関車が線路に直角に、右に左に、僅かだが激しくスイングしているのが判る。
昭和31年、11月20日の午前11時ごろ、私は家の板塀の内側にあった空き箱に乗り、背の低い私のここが所定の観察場所
であったが、夜間寝台蒸気特急「あさかぜ」の処女列車に遭遇した・・・・派手な見送りの祝賀テープは、関門を抜けた後の門司駅からの、お祝いの
贈りものと思われる・・・・・・その「あさかぜ」は昭和31年11月19日の東京・大阪間の電化完成の良き日の、当日の夕刻18時30、東京を立ち
途中、牽引機をEF58,おそらくC62,そして関門トンネルを、おそらく、ステンレス製EF15(汗)そして、新鋭C59に、めまぐるしくバトンタッチして
20日の昼前に、右方向から、私に突っ込んできたのだった・・・ 鉄懐板のお約束に近いからね、変な文章コピペするのは 修正のお時間(汗)
関門トンネル内牽引 (誤) EF15 →→ (正) EF10 外板ステンレス 九州鉄道記念館・Kyushu railroad memorial hall C59 1号C59No. 1
https://www.youtube.com/watch?v=GDSlkSM254E EF10とEF15を間違えることはリアルタイムで経験ならありえないかよほどのバカ 鹿児島本線の海側ではなく、山側にあったその家からは、右向きの上り列車が、4,5本存在した線路の一番向こうに見え、
長大な石炭専用貨物列車が、ガガガーと、石炭を待ち受ける本州方面に送り込んでいる。そして一番見やすい線路が目の前にある
下り博多方面行き線路の、かぶりつきの特等席から右を見ると、はるか遠くから、黒い見慣れない機関車が、丸いヘッドマークを白くピカリと輝かせて、
おう、なんてこった、列車の右面の全部の窓から大量の赤白黄、ピンク、紫、青色の紙テープらしきものをひきずり、風でくるくる回しながら突っ込んでくるぞ。こんな事していいのか。
あぶねえぞ、おいっ、大の大人がこんな事していいのか。
その化け物機関車は、私が線路にほぼ張り付きの7mくらい離れた位置に立って
いるので、真一文字に突っ込んでくる様に見える。その黒いピカピカに磨きこまれた、見慣れない機関車が線路進行方向に直角に、右に左に、僅かだが激しくスイングしているのが判る。
ここは、直に小倉駅に到着の、減速しなくちゃなんねえ区間だから、フルスピードじゃねえ。しかし長大な客車らしき物を後ろに引っ張っていながら、なんというきちがいじみた横揺れだよう、
この機関車は、ただものじゃない。
ウへっ、おまけにその客車の屋根は円形の初めて見る銀色らしきものを、ずっと後ろの方に引っ張っているぞ、ずいぶんと複雑な色違いの屋根の客車を引っ張っているな・・・
昭和31年、11月20日の午前11時ごろ、私は家の板塀の内側にあった空き箱に乗って立っている時に、背の低い私のここが所定の観察場所
であったが、幸運にも夜間寝台蒸気特急「あさかぜ」の処女列車に、遭遇した・・・・派手な見送りの祝賀テープは、関門を抜けた後の門司駅からの、お祝いの
贈りものであったと思われる・・・・・・その歴史に名高い名門特急「あさかぜ」は、昭和31年11月19日の東京・大阪間の電化完成の良き日の、当日の夕刻18時30分に東京駅を立ち
途中、牽引機をEF58,おそらくC62,そして関門トンネル内を、間違いなくステンレス製EF10、そして門司駅で、新鋭C59に、めまぐるしくバトンタッチしながら
20日の昼前に、右方向から、6歳の私に向かって 「おいおれがC59様だぜっ、俺がサラブレッドの競走馬だって事は充分、おめえは判るよな、おめえは朝の9時から夜の8時まで
そこで立ちんぼの少年蒸機マニアだからようっ、お坊ちゃん、こんにちわ、僕が、あさかぜです」 と大声で叫びながら、突っ込んできたのだった・・・ >>351
上富野の操車場近くの、そこから一歩も出ることが出来なかった.門司駅やあるいは門司港に行ってそのEF10を見たかったな。
しかし、悲しい事に、俺の親父が酒飲みで、毎日 「よっぱらった彼女は浮気もの〜♪♪♪〜 浮気はその日の出来ごころ〜〜♪♪ 」 なんて京都芸者から
新橋芸者のほうへ流れてきた、芸者のざれうたを歌いながら、毎日夜中の二時、三時に、帰宅の酔狂で、昼は汽車を見て、夜はこの時代から、もう
母と二人でネオンの繁華街へ出撃して、父を捜して、さまよい歩いてたな・・・・バーや小料理屋や食堂のドアをあけて素早く、大勢いる飲み客の下の方を見て、父の靴だけを捜すんだ・・・ >>351
飲み介の皆さんが楽しく盛り上がってるときに、ドアを開けて入ってきた貧乏そうな母子にうろちょろされたら、そこのママさん、さすがにご立腹だっ・・・・
だから、ママさんが恐ろしいから、目を会わさずに、ドアを開けると同時にカウンター下の父の靴を素早く探して、あとは父の袖をつかんで、強引に連れて帰るんだ。
学徒出陣した父は、戦時中は豪勢にも、東京・新橋芸者のところから、法政の専門部に通学してたんだ、実家が大分の寄生地主だったからね。金がなくなると
大分の実家に「日本銀行券、支給送れ・・・参考書買いたし・・・」などと、電報を打って、若い芸子の費用に100円、200円、500円と送らせていたんだ(笑) 日本銀行券、大至急送れ・・・参考書買いたし(笑)
東京から九州へ帰郷する前に、戦時中に父がお世話になった新橋芸者の実態を調べに、JRの新橋駅の近辺を散策してきました。
すると、新橋芸者とは、実は銀座芸者のことようであり、それなら、なんたる豪勢なものに、手を出していた我が父で有る事よ・・・
あきれかえって、散歩してきました。
親父は、若い芸子と法政大学の教授連中と学生とで、へべれけに酔狂している写真を残していますが、昭和17年から18年ころの
新橋の料亭での撮影か。新橋芸者とは、学生や当時の会社員用の安いお手軽な芸者と思っていましが、実は銀座芸者なのか。
銀座芸者の手配所、連絡所が新橋にあったため、銀座の東の端が新橋。それで銀座芸者を新橋芸者と呼んだのかな判断していますが。
私はその一帯の表通りをひととおり、散歩しただけであり詳細は不明です(汗)
ざれうた 「 酔っ払った彼女は浮気者 浮気はその日の出来心 」 は 相当にに古い、京都の芸者の歌のもよう
明日天気になあれ
http://www.dclog.jp/en/4492394/440390573 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0d4845c18d87cdd3bd38c992e32e840d) 銀座の西の端が新橋(正)
亡き母に捧げる曲
sarah vaughan - A Lover's concerto - HQAudio
https://www.youtube.com/watch?v=KahAPQ9sl6g >>357 続く
人間には様々な人有り、その恐ろしいママさんも、全体の7割で、残りの3割は「まあ可愛いぼうや、それに奇麗な奥様じゃないの、あなたは
今日は、もう帰りなさいよ・・・」と、母に協力して一緒になって、父を店から締め出してくれる、気風のいいママさんだった。
そんな常識人の人生の達人のママさんが3割くらいは居た。同様に昭和初期の大学生は、精鋭中の精鋭であったと、思われる、
全国選抜の少数精鋭の大学生達であったからだ。
特に、法政大学・学生とは、堂々の航空王国日本の若者の、きわめて真面目な学生だった。おそらく我が父の様な酒飲みは、全体の5%程度
であり、残りの95パーセントは、哲学書を片手に出撃していくような、旧制高等学校から入学の法政大学・堂々の学徒であったと思われる。
航空の法政大学
昭和5年、朝日新聞の後援で、財団法人 日本航空学生連盟設立 この時、法政大学が最もに熱心に参加する。法政大にはグライダー部有り。
昭和9年 同、連盟に海洋部が出来る。ここで帝国海軍がこの運動に参加か・・・
昭和11年 海洋部から海洋飛行団に昇格。名誉団長に山本五十六海軍中将、就任。完全に海軍の組織となる。
昭和12年 海軍予備航空団となる。
昭和16年 海軍予備航空団閉鎖 ←← ここがポイント、開戦後の大量の操縦士の損耗に、これじゃいかんと
帝国海軍、ここでようやく、近代戦の膨大な人員損失に気付き、焦り始める・・・・・いったん、閉鎖し、焦りまくる・・・
なんたる事か、上記の、航空団(法政大生が多く参加)は、わずかに総計309名、それに対するアメリカは既に、それに数十倍する大学生パイロット
の訓練に入っていた・・・ ↑ ↑
うわっ また軍事版になってる 無線も機関車もぜんぶ軍事版になるのかwww スレを壊してストレス解消したい方がよく出ますからね、この板 >>359 続く
あんたはここで、いったい何を言いたいのかとの声が聞こえてきますが。結論を先に言えば、勝つためにはどうするかとの話なんです。
日本はどうすれば、韓国人、朝鮮人の支配から独立できるのか。朝鮮人にこれから、勝つにはどうすればいいのか。
あるいは中国も含めて付き合っていけばいいのか。
また、先の大戦で敗北し、今また家電王国崩壊で日本の技術者が敗北し、合わせて2回も大敗北した我ら日本人技術者は
これから何を学めば勝利することが出来るのか。
それを、この太平洋戦争の戦い方、すなわち、帝国海軍と陸軍の戦い方を詳細に研究する事により、勝つための秘策が
浮かび上がって来るのではないか・・・・
私はこの、半年間で表計算、エクセルのソフトに、近代軍事史のデーターを打ち込み、データーベースしました。
エクセルの横軸に外せないポイントの以下の項目を取りました。
西暦、和暦、九州、空の戦い、北九州市の歴史、若松市の歴史、火野蘆平伝記、世間の流行、映画のヒット作、音楽の流行、日本技術の没落、技術史・米国のコンピュータ
金融王ジョージ・ソロス伝記、チューリングとコンピューター、孫正義の禿バンク伝記・あんぱん、S・ジョッブス・コンピューター、日米貿易摩擦・FX戦闘機をめぐる戦い、 さらに、その横軸をずっと右に伸ばして
(追加)
ポール・アレンのコンピューター、ハワードヒューズ飛行機、盛田昭夫SONY、電子技術史(SONY他)、日本が創造した技術、オーディオ技術史
アマチュア無線歴史、学徒動員と予備学生の歴史、朝鮮の歴史、日本の歴史、日本陸軍の歴史、米軍の兵器・ナパーム弾他、九州と本土・空の戦い
日本の飛行機、日本の諜報史(陸軍中野学校他)、米国によるアジア太平洋進出の歴史、中国・天津の歴史、石原莞爾と満州史、甘粕正彦(軍人)
阿片王・里見、十河信二・国鉄総裁、石坂泰三、石田豊助、岸信介、出光佐三(石油)、テレビの流行番組、大牟田市の歴史、我が家の歴史、親戚の歴史、職歴を含む自己の歴史を・・・
そして
縦軸に西暦1860年、和暦万延元年から、現在の2017年までを取り、上気の項目ごとに年別の交点の欄にその年度に起きた事柄を記入し、その記述がはみ出る時は、随時、コメントの編集を
右クリックして、なるべく詳細に書き込み、この6か月で、このXYプロッター方式? 近代軍事・技術史 早見盤の様なものを、完成しました・・・・・・ ↑ ↑
わかった、わかった。わかったからもう・・・・・・爺さんのせんずりこきは、養老院に行ってからやってくれ・・・・・ 養老院というなんと懐かしい響きの言葉が聞けるとは。 >>363 続く
(追加)
横軸の一番大事な部分が抜けていました。中央部分のブロックで、現在、取り組んでいる重要な項目です。
米国インテル社・社史、ソニーの暗黒史、国産OS・トロンの歴史、トロン潰し・悪の3人(インターネット上に有名なPDFファイルが存在)、日本ソフトウエア技術者の悲劇・鎮魂ウイニー開発者
造船技術史・西島造船大佐、真藤恒と戦後の造船技術、国産蒸気機関車の歴史 ←←いまここ(汗)・・・・・・・・・・・ (追加)のまた追加
九州の中小炭鉱(山野炭鉱他)の歴史
私は、九州人でしかも福岡県人ですから、これだけは外せません。三池争議というのは、この数多く存在した、中小の炭鉱を、除外した、大手炭鉱内部の争議
いわば、トヨタ、日産の様な大企業で発生した、極めて横着な、生意気な争議だったんです。気の毒にこれら、末端の中小炭鉱の人々は
最初は、自分たちの争議だ、これで暮らしは良くなるとぬか喜びし、実態は中小炭鉱は除外する・・・・・・との但し書きの条件を見つけて、がく然として・・・・・・ ここは蒸気のC59とC62の掲示板ですよ 石炭の話をする人はすぐにここを出なさい 退出しなさい
↑ ↑
別に、 いいんじゃね、蒸気機関車は石炭で動くんだしwww
ああそうか(汗) その昔の蒸機スレにいたタコ弁がついにボケちゃったんじゃね? >>367
そげんですたい、そのとおりですたい。そげんかこつば、おなじごつ感じ取ったとが、当時、おなじごつ
地べたを、はうごつ活動しとった創価学会員やったですもんね・・・・・・・・戦後の焼け跡に、不死鳥のごつ、立ち上がったとが新興宗教
御三家の
天理教と創価学会と立正佼成会の、ごつありましたばい・・・・・ばってんがら、この中でも、特に戦闘的な活動をしなはったけん
当時の三池労組から、とつけんなか迫害ば受けて、当時公明党はまだ、公明政治連盟だったですか、びっしゃげて、つっこけて
おっぽれるごつ、激しくたたかれて難儀ばしとったつが、そん公明政治連盟、すなわち公政連 (こうせいれん) から、出とんなはった市議会議員じゃなかったでしょうか・・・・・・
いまんごつまだ、公明党じゃなか時代のこつ、ですばい・・・・・・・・・・・・
BY がまだせ大牟田 うわっつ なにこれ 日本語 なに がまだせ。。。。。。。 何これ・・・・・・ >>371
文章自体読みづらいし、まともな教育受けてないんでしょ。可哀想に。 >>359 続く
エクセルでデーターベース化したところ、帝国海軍のある年度が、そこだけ活動停止して、空白の箇所が生じる場合があります。
激しい近代戦を戦うのに、長期間の休みは許されませんよね。
(海軍飛行士官の募集状況)
昭和16年 海軍予備航空団 廃止 なんら手を打たず、空白期間
昭和17年 なんの手を打たず、空白期間
昭和18年 山本長官の戦死、ガダルカナルの敗北、ラバウルでのパイロット大量戦死により、帝国海軍
ようやく事の重大さに気づく、この年10,000名以上の海軍飛行士官の募集があったが、遅すぎた・・・
上記の16年、17年の空白期間は致命的 16年は、のんきに構えて、せっかくの、良く練られたの計画であった(海軍予備航空団)を廃止、以後ほそぼそと
募集したのが、閉鎖後の採用者の、10期から12期までの、309名。
16年以前の採用者は309名ではなく、その13分の1程度の、23名 ←← これが昭和5年から開始の山本長官や
朝日新聞社までが後援した、せっかくの良質の計画の実態 おいおい、海軍さん16年じゃなくて、18年に気がついたんだな・・・・ 出よう、その18年に募集てのが 地獄の13期の
あれだろ 急きょ、学徒出陣でおんだされて ようっ 特攻隊主力となった、あの13期だろ ひでえ話だな おいっ
泥縄式のその場しのぎの 計画でよう しかも兵学校あがりにゃ どつき回されてよう・・・・
BY JA1 でよう >>375 続く
この、エクセルのX軸に項目、Y軸に年度別 としてどんどん、でデーターを打ち込んでいく方式は、いまのところ、非常に具合が良いです。
ただ、のんべんだらりと、単純に読書するのでは、同年度に起きたイベントに対する日米の対処方法などは、この頭では正確に記憶できませんが
この方式でまとめておけば、ピンポイントで分析可能となります。たとえば、上記のような、大学生パイロットの養成数などは、真横を
ずっと見ていけば、日本側で、学徒動員と陸軍航空士官養成数を・・・・アメリカ側で、米空軍・養成法などの項目を見ればいいわけです。
結果として、ピンポイントデその数が出ます。おそろしいのは、それぞれ1939年の対比数と1942年の対比数、つまり戦前では、どちらが戦争の準備に本腰を
入れていたか、あるいは開戦後1942年での準備は、どちらが優れるかなどもわかる点です。こういった事は単なる読書でか不可能です。
ただし、本を読みながらの要点の、打ち込みは壮絶(汗)な作業となり・・・・・・・こんなバ馬鹿なことはやめようかと
逡巡しながらも続けております。ただ横に、どんどん項目が、今日も増殖を続けております。もしこの世に、エクセル・データを
そのまま、原寸大で1枚の紙にプリントできるプリンターが存在すれば、横がおそらく 7m 縦が1m くらいの大きさになるのか(汗)・・・・・・・・ ↑ ↑
G3よう マイクロソフトのアクセス(データーベース)を使いなはれ わしゃあ、アクセスじゃあけんの
BY JA4 ちょい悪爺 最近は せんずりこきの 爺様が まっこと 増えたぜよ・・・・・・・
BY JA5CHT コロナ・ハード・トップ C62とC59を語るスレじゃなかったの?もうついていけないわ 小学生のころ鉄道100年と重なり、消え行くSLのブームがあった
当時の担任からどんな機関車が好きなんだと聞かれ、
・普通の男子:デゴイチ(それ以外の形式を知らない)
・鉄道好き:国内最大のC62(→数多いD51を不当に軽視)
・斜に構えた俺:9600形の哀愁を帯びた汽笛音 >>365
その様に、おっしゃるあなたは、相当な、お方です。 (汗また汗)
私が九州の石炭積み出しの港、若松市に生まれたのは、団塊・乗り遅れ組の年の昭和25年です。ええ、私も戦争の影というものは、引きずっております。
私が、最初に、覚えた言葉は、マンマ、ママ・・・・・に続いて 「コレ、チョウダイ」です。これを言うと、目の前にあった食事のおかずは
たちまち母の手で私の口に運ばれたので 「なんという便利で、素晴らしい言葉だろうか、・・・・・これちょうだい は 」
よし、これからは「これ、ちょうだい」をどんどん使うぞと。これが私の最初のはっきり、意識してしゃべった言葉。
最初の目の記憶は、なにやら大人が激しく争う、悲しい光景だった。以下が私の目に飛び込んだ
目の記憶である。なぜそうなのか、わからないが、私の網膜には以下のシーンが特に強く焼きついた。
私が2,3歳であった昭和27、28年ごろ、我が父は祖父と風呂場の釜の焚口のところで、はげしい大声で口論となっていた。その風呂釜の
そばに立派な、ハードカバーの書籍、青色と灰色の本が縦に積み上げられ、どうやら祖父は、その本を引き裂き、風呂釜に放り込もうとしている。
それに、抗議しているらしい我が父、おそらく「それはないだろう、お父さん、頼むよそれだけは止めてよ。お父さん・・・・・・」 と叫んでいた我が父。
しかし祖父は、ただ無言で、次の、教科書などのハードカバー本を取り上げ、乱雑に引き裂き、炎へ放り込む。おおつと叫び、呆然と立つ、わが父。
その激しい戦場に、かけつける母や家族。止めにかかる家族。、しかし一冊、一冊と確実に減っていく、縦に積み上げられた哀れな本。
若松市、老松町のこの二階建ての小さな木造商家は、一番奥が台所と風呂場だった。その風呂場は戦場であり、それが私の目の特記すべき記憶のひとつとなった。
大金を送って育てたはずの長男が大酒飲みで、当時の若松で有名になるほど、、あたり一帯を飲んで走りまわっていたので、わが祖父の
怒りは天を突いて当然だった。我が家恒例の行事となってしまった、この風呂場でのブックバーニングは、ただの1回では終わらなかったのである。
そして、その商家の、僅か向こうには、作家火野蘆平さんの御家族が、我が家同様、戦後の厳しい生活を、戦われていた。・・・ C59とC62の話まだーー、マチクタビレタビーー。 ←← はい、お待ちください、只今準備中 決して損はさせません・・・・ >>378 続く
考えてみると、この方法も、単なる自分用の読書ノートであり、読書感想文であり、それに度忘れ防止用のメモが付録でついたとも
言えます。しかし、著名人の伝記を苦労して打ち込むと、一人の人間の誕生から逝去までの人生が、見事に縦の一列に整然と並びます。
世の中の兵どもの、見事な生死の一代絵巻き物には、とうてい、凡人の及ぶものではありません。眼の玉が飛び出るほど、驚かされる英雄の
一代記が有り、その興味尽きること無しであります。
さっそく地元、若松の誇り、兵隊作家の火野葦平の時代の昭和27年前後を、見ると、読売新聞へ「花と龍」を発表、葦平の四男、四太郎さんが若松高校
へ入学、そして、葦平は戦後の時代、この後に、大変に衝撃を受ける罵倒事件・・・発生
駅のホームでファンの一人から、痛烈な皮肉を言われております「葦平さんよ、あんた、戦時中は「麦と兵隊」で、儲かって家を建てたそうだな、戦後のあんたは
また、今度は「金と兵隊」でも書いて、儲けるのか」・・・・このような事を、当時言われている。これはそうとうな、葦平にとっての、衝撃となったと思われます(泣き)・・・ 葦平の四男、四太郎(誤) →→ 四男、史太郎(正)
火野蘆平(誤) →→火野葦平(正) >>381
おまたっせしました(汗) C59の話です・・・
( C59の正しい鑑賞法 ) ただし、6歳の少年の目で見たもの
準備 母の手造りの、ズボン、ジャンバー、冬期は毛糸手袋、ちゃんちゃんこ、毛糸編み帽子など防寒着が必須
状況 線路に近過ぎて、乗客の発するオシッコの噴霧を常に、頭から浴びていた。それは後に成年になってから気づいた(泣)
周囲の色 線路、敷石、線路の乗った土手、我が家の壁、それを取り囲む板塀、などあたり一面は全て茶色に近い単色に染まっていた
線路を見上げる角度 30度くらいか しかし絶好の観察角度だと思う
線路との距離 7m前後 一番手前の左向き博多行きは最高の条件、奥の4,5本の線路は少し遠いが、当時は視力が
1,5ではなく、2以上あったと思われる。特に遠い、機関車も判別出来た。すごく遠い時から良く
見ておかないと、とんでもな珍種の機関車を見逃すことになる、近くに来てからそれに気づいたんでは
遅すぎる。珍種は特に古いさびだらけの機関車と、逆向きに運転席から突っ込んでくる機関車、重連?など
見ていた時間 朝の9時から、夜の8時ごろまで。夜まで見たのは客車の照明の美しさ、蛍光灯とそうでない白熱灯
の色の差など見るため、そして、カタッッツ カタッツ カタ〜 カタッッツ カタッツ カタ〜 カタッッツ カタッツ カタ〜
というポイントの快調な通過音とともに、通り過ぎていく、すごく多くの多種多彩の夜間照明の入った多くの窓の水平移動を見るのがポイント
休憩時間は取ったか 鑑賞時間は毎日、8時間ほどになるが、その内の2,3時間は適時、休む。家に戻っている時間には、忘れないうちに今見た機関車と
客車、貨車をさくらクレパス24色入りで、はがき二つ折の、カードに絵を描く。そのはがきとは、父のリッカーミシンの販促カード。
只で大量に手に入った。長方向に二通りにすると、畳の上に立つ。その列車模型カードで自分なりの、あさかぜ号をこしらえた。
特に青線や白線をいれた客車を描くのが好きだった。しかしクレパスでは線が太すぎ、機関車などの細かい表現に難儀した。
くそつまらん、しょうもないD51とか、なんの力強さもない、糞つまらんC57などの、駄作列車が多く通過する時間は家に入り
適時、休憩をとった
何故汽車だけ見る生活を続けたのか 父の酒飲みが近所に迷惑を与え、会わす顔がない 近所の子とあそぶのはちょっと、気まずい
何年間みたのか 1年間 、雨の日は完全休業、傘をさしては汽車が見えない 残念ながら、近代化後のあさかぜには会えず、引っ越した 鑑賞時間は毎日、8時間ほどになるが (誤)
鑑賞時間は毎日、11時間ほどになるが (およそ朝9時より夜8時まで) (正)
↑ ↑
C59だけの話はないのですか? ←← はい、しばらくお待ちください 長方向に二通りにすると、畳の上に立つ。その列車模型カードで (誤)
長方向に、二つ折りにすると、畳の上に立つ。その列車模型カードで、自分なりのあさかぜ号、およそ10両編成を編成し、ズラリとならべ (汗) いま万感の想いを込めて汽笛が鳴る
いま万感の想いを込めて汽車が行く >>388 続く
ザーザーザー闇の声さんに続いて、蒸気一般について、お聞きします・・・私は、そのおーー 雑誌 「模型列車とラジオ」 の編集子の吉田と
申します(汗) ご存じのとおり、本誌は今年・創刊100周年を迎え、その発行部数は、450万部、読者の皆様の熱いご愛顧に支えられ
CQ詩にはざっと、499万部の圧倒的な発行部数差をつけ、まあこれも実力かな、ちょろいもんよ・・・・と。かように感ずる昨今の情勢で御座います。
では、質問を続けましょう。蒸気一般に、関してデアリマスが・・・
リッカーミシンの販促カードとは何ですか ←←はい、父の背広の内ポケットに入ってるんです。それを貰った。当時、父はリッカーの小倉支店にセールスマンで勤めておりました。
営業に使う、はがき大の宣伝のチラシです。表にカラー印刷で、500円掛けのミシンの月賦を始めましょう。お手軽なイージー・ペイメントで
などと書かれていたようです。その裏が白っぽいので、細かい字は印刷ずみですが、その上から、汽車を描くんです。
とんでもな珍車の機関車とは ←←C51です。古い、お爺さんの感じがする、煙突部分が、ご飯をたく釜のように、中ほどでフランジが出っ張るタイプです。この機関車はたしか、昭和32年に
全て一気に廃止ですから、私はぎりぎりセーフで見ることが出来ました。当時、C51を見ると、爺さんが頑張っているようで、その感じが好きでした。
他のかまどの様な煙突の、貨物用機関車として、D40とD50を見たかもしれません。このC51は、1台も残さず、全部が廃車とのことですが残念です。
なにか、特に失敗談がおありでしょうか。これは、しまったというような
←←その販促カードに機関車、客車、貨車を合わせて、100枚程度完成させて、最後に大失敗しました。前部に連結器をつける無茶な改造をしたんです。
その模型カードは、バラバラに立てておいてるだけですから、つながっておりません。私は機関車だけを引っぱったら、全部ついてくるように、したくて
無茶な改造をやらかしてしまったんです。それは汽車の両端のところに切れ込を入れて、それに、紙で作った輪をかけて、連結機を作ったんですが
どうしてもうまくいかず、切れ込をいれただけ寸法が短くなり、とても汽車とは、いえない感じとなり、いっきに100台全部その改悪工事をやってしまって
あさかぜ以下、全列車が全滅しました。両端を切り込むなど余裕はなかったんです。いまのようにワゴムやゼムクリップなど連結器に使えそうなもの
有りませんでした。
嬉しかった事はなんですか ←←家主さんが、家賃の集金で、我が家に来た時、かならず飴玉をくださるんんです。いろいろ問題をかかえた我が家の状況をを心配してくださっての事だと
思いますが、ここらの下町には、九州人独特の人情、優しさがありました。そのお菓子もかなりの量を和紙にくるんでいっぱい下さったので、かなり
長い事、飴玉を食べながら汽車を見ました
499万部 →→ 449万部(汗) 証明その1 450万部−1万部(CQ史)=449万部
証明 終わり D40とD50 →→ D50とD60(汗)
↑ ↑
おい、爺さん、大丈夫か?
いえ、わたくしは、小学校へ行く前で、なんとか50位までの数は数えられたが、カタカナも読めず
貨車のワム、トムとかなんかの記号みたいに見ていたんです。それであれほどはっきり書かれていた機関車の前面のネームプレートがわけわかめで・・・・ C59とC62が出演する映画の松竹「張り込み」はご存じでしょうか・・・
予告編ですが、横浜・下関間をC62,関門をEF10らしき電機、博多駅でC59の5号機、そして映画の最後に
佐賀駅に進入するC57が出演します。この予告編は粒子が粗いので、私はDVDを借りて来て、繰り返し、見ております。
もうご存じの映画だとは思いますが・・・
松竹映画「張込み」 の長〜い導入部 国鉄SLで長旅 渋いね
https://www.youtube.com/watch?v=-7p3OYYH7lA 爺さんや、当時、小倉を走っとった、あさかぜ号の初代はC59-30じゃったな 、映画「張り込み」には普通のC59−5 が出ておるが・・・
↑
はい、30号機は博多発の処女列車、東京行きとして、写真記録として残っています。 「特急列車・走り続けて80年」 新潮文庫
高田隆雄(著) にです。 11月19日の16時35分博多発で門司駅が17時46分発ですから、しまったあああああ、私はこの、19日の上り
の処女列車を見逃したあああああ。 私が見たのは、東京発下り19日18時30分発の、夜通し走って翌20日の門司10時47分発
の20日の列車ですから、しまったああ 何をやってたんだろうか、 19日に、見逃したあああああ 一番むこうの線路を・・・ ↑ ↑
6歳のガキですから、家に入って、おそらくウンコでもしてたんでしょう・・・・それより、ええ歳こいた爺さんが何してるんですか、もう寝なさい!! 1750mmの大動輪を誇る、元祖パシフィックの名機関車 C51の廃止は 昭和32年(誤) →→ 昭和40年(正)
結果として、鉄道省・日本国有鉄道の蒸気機関車の技術水準はC51・D50の段階で停滞し、以後はボイラー圧力のある程度の向上や電気溶接採用などの部分改良が成功した程度で、
本格的な新技術の導入はうまくいかないことが多かった。幹線用蒸気機関車の実用最高運転速度は、戦後まで100km/h未満にとどまった。 東京とは・・・・・・・・東京のランドマークとは
(HD) 夜のゆりかもめ(新橋→豊洲) 01 (ご紹介3回目)
https://www.youtube.com/watch?v=tNka5saiVrc >>395
失礼しまっした。
訂正 牽引機関車 横浜・京都間 EF58(青大将色) 京都から先が、なぜか、ムチャクチャになっています。
主人公の刑事2人は、急行「さつま」号で出発したので、牽引機の交換は、最小限のはずですが、京都から先で
C59−33,C59−187,トンネルを抜けるとなぜか、唐突に、C62の機番不明に変化。しかし、冷房のなかった時代の、社内の蒸し風呂
状態の実写や、博多駅のホームサイン看板、城下町佐賀市のお堀、金魚売りの風物詩などで、日本映画屈指の鉄道映画となっております。
DVD屋さんで借りて、ぜひ一度、ご覧になって下さい。この監督は、徹底して、列車内に撮影カメラを持ち込んでおらちょります・・・・列車内優先カメラ目線
に、なっちょります・・・・・ おらちょります →→ おられちょります (正)
出た。長州弁・・・・ 長州人頑張れ 長州健児がんばれ 関門海峡がんばれ 下関、門司がんばれ・・・・・・・
BY 海峡人 機械出版の田中と申します。当社は、このおおお、非常に優秀な、雑誌「新・鉄道模型趣味」を発行しております。
続いてお聞きします。「ザーザーザー闇の声さんはその後も、そのハガキ大の宣伝チラシに絵を描き続けたと
お聞きしますが、よろしければ、その後どうなされたか、前後の状況を・・・・・・・・またあこの、なるべく詳細に
当時の、ご家庭の経済状況を許す範囲で・・・・・けっこうですからお話をいただけないでしょうか?」 ↑ ↑
次は、軍艦を描きました。当時、少し間をおいて、佐賀市に引っ越したころから、戦争もの専門の漫画雑誌「少年戦記」
が流行し、その影響でその雑誌だけ見て、今度は必死に軍艦、すなわち日米の戦艦、重巡洋艦、空母を描いてたんですよ。
母は私が3歳児のころから、ずっと、どんな時も、1,2か月に1回購入してくれたから、クレパス24色入りだけは何とか手元にあったんです。
その後さらに貧しくなり、結局かなりの軍艦の絵を、このミシンの宣伝チラシに書きました・・・・・ええ、列車の絵の後はずっと、軍艦を描いたんですよ
その後の引っ越し先は、あいにくと線路から離れてましたから、列車が書けないのが辛かったです。
しかし、この軍艦の絵は、手元に全部、残っていますから、これらの色んな廃物利用の紙に書いたものを、なんとかブログなどで、ご紹介できればと(汗)・・・・・・・・ 母は私が3歳児のころから(誤) →→ もの心がついた5歳ぐらいです(汗) わたくしは、主夫と生活社の、山田と申します。御存じのとおり、今の日本は、ユダヤ人の、キッシンジャーなる人物がが、唐突に
「中国よ・・・・・これから繁栄するのはお前だ・・・」との一言を発したため、日本の男と言う男は、一気に生活が苦しくなり、特に
エンジニアは、半導体が全て、中国へ、そして半導体関連の製造装置が全て、あの、へたれおまんたばやしの、オランダへ
盗られてしまってしまって・・・・・・・・・・あのおおおお、そのおおお オランダに至っては
昔は、チューリップの球根と、腐れチーズ、のかーベルマンチーズと、あとの産業として、アムステルダムの飾り窓の女
くらいしか存在せず、WW2では、かのドーベルマン少将指揮のオランダその他寄せ集め連合軍を、わが帝国が
ジャワ海海戦に、おいて叩きつぶしたはずなのですがっつ・・・・・・・・・・・・
それが、このおおおおおお・・・・・・ カーベルマンチーズ 知りませんなあ ドーベルマン海軍少将、それも私は存じませんなあ・・・・・・・・・・
相当に、固有名詞の間違いが見受けられますが、おたく・・・・・・・・・ちょっと、酒が入ってませんか?? スミマセンデシタッ・・・・・・・・・・麦焼酎をコーラで割って2合です。やっぱこの歳、67歳を考えると
1合くらいで抑えるべきでした(汗) しかも2級種は良くない(汗) イオンで買ったんで、民主党色がしてくさいんです。
しかし、なんですな、あの半導体製造の精密機械を、なんとまあ、オランダの様な二流国に持っていかれる時代がこようとは
思いもしませんでしたな・・・ ですな。オランダ共和国といえば、我が国のような、額に汗して、白人様のため、あるいは朝鮮電子台やTBSの北京支局のため
みつぎに、みつぐ一流国(汗) に比べて
オランダはズルばっかししてるので、まあ精々、お世辞を言って3流国ですからな・・・・ 訂正 現在の半導体製造装置の国別シェアはオランダが一位 (誤)
微細なテクノロジーである半導体製造装置は日本の得意とする分野。
トップのアメリカとほとんど並ぶ日本の半導体製造装置は、世界2位のシェア40%を誇ります。(正)
オランダ海軍のカレル・ウィレム・フレデリック・マリー・ドールマン少将は最期までオランダの為に戦って戦死した人物。
戦車のブログ
http://ameblo.jp/tank-2012/entry-11985528215.html ↑ ↑
爺さんや、やはり最低でも、ある程度の資料を手元に置いて、投稿せなあかんな。
たとえば、製造業分野別年鑑の最新版の2017年版、または2016年版の様なものを準備してね・・・・
↑
その通りです、以後気をつけます。 爺さんや、日本はかっての、世界1,2位を争うような経済大国ではなく、オランダの様な、小国ではあるが、あらゆる分野が
うまく働いていて、国民の幸福感も高いという、国を目指せ・・・・・ オランダは国土の大半が水面下にある悪条件を
克服して技術のある分野では世界のトップに達している、コンパクトで有りながら一流国であるオランダの様なを目指せ・・・・・
との意見があるのをご存じか・・・・ ↑ ↑
はい、それは承知しております。オランダに対して悪い事を言ってしまった。オランダは敵国ではなく、日本の友好国ですからね。
日本人はオランダを敵視することは無いと思われます。鎖国時代の長崎の出島をはじめ
日本とオランダの友好関係は圧倒的に永いですからね。ただ東芝が、あの惨状となり、私が東京の武蔵野市で確認したところでは
まず、三鷹市の日本無線が縮小傾向にあり、横河ヒューレッドパッカード社の、本社ですか。この2年間、その前を、毎日通りましたが
ここも縮小傾向にあり、かっての工場跡地を整地してマンションの建て替え工事が行われる状況に加えて・・・ 武蔵野市まで持参した書籍に、「電子王国日本」NHK出版 があります。この記述中に、半導体・製造装置開発に
創造的なアイデアを発揮した日本人技術者の体験が数例あり、その工場が、どうやら東京の下町にあると、判断し
ネット検索したところ、全くヒットしなっかったのですが、その書籍にあった80年代の都内の製造装置会社は、現在では
全て、中国本土の大企業か、あるいは日本か米国の大企業に吸収されたと思われます。
初期に心血を注いだ日本人技術者の努力は、それらに伝わって、決して無駄に終わったわけではなく、それら
大企業に伝わったのでそれで良いと思います。 C59だけの話まだあーー、マチクタビレタビーーーーー 脳を病んでる馬鹿がどっかのコピペ貼ってるだけだろ? >>415 続く
一国の盛衰は半導体に有り
ここに判りやすい資料があります。半導体生産における日本のシェアが低下している点が大問題。
半導体産業人協会特別顧問
工学博士・IEEEフェロー 牧本次生
「一国の盛衰は半導体に有り」
http://www.shmj.or.jp/makimoto/pdf/makimoto_06_21.pdf ↑ ↑
なんだかんだで、いろいろもたついている、わが日本だが、おちつくところに落ち着いたら(笑)
再度、半導体、世界一に挑戦したらいいね・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 今月は他のスレでもスレ潰しコピペ強化月間みたいだしな、鉄道懐かし板ではw オランダはインドネシアが日本の戦争のどさくさによって独立したと思ってる連中がまだ多いよ
表面じゃおもねってるが欧米の特に中年以上の連中にすればまだまだ胡散臭い日本は敵国
なぜか中共の方がまだ人気があるのが現実 オランダやフランスは一旦ドイツに負けたくせに戦後は戦勝国づらして
厚かましくもインドネシアやベトナムに舞い戻ったが
独立戦争(旧日本兵が支援)で追い出されたからね >>423
そんなネットや古臭い書籍だけの知識でどや顔されてもね C59は戦時中、外地へ行ってないよね
ま、そんな需要もなかったろうけど 外地で軸重16トン以上のエリアは広軌でC59以上のカマが既に居りましたがな >>420 続く
このX軸に項目、Y軸に年度を書きこんでいく読書法法をある程度、続けた時点で、私は大変な事を発見しました。
それは、以下の点です。
1 物事のある、一面のみをとらえて、それでもって、他のすべてを判断してはならない。
その例 →→ WW2は日本軍が勝ったのでのではなく、最後に大敗北し終わっている、例えばジャワ海海戦の勝利などは
一局面にしか過ぎず、最後はその艦船を全て、失う大敗北に終わっている。世界の人もそのように、日本大敗北と見ている。
2 自分の性格は父に似て、冷静さが無く、思考方法が、酒でも呑んだように、常に揺れていて、安定感が全く無い。
3 世界のモノ、こと、人の動きは、自分の考えている数百倍のスケールで動いていた。また僅か、2,3年後には、強弱関係が
反転するほどの猛烈なスピードで、それが動いている。世界のダイナミックレンジの大きさは、想像以上だった。
この、物と人と事の動きを今後、懸命に追わなければ、一瞬で置いていかれる。 >>428 続く
さらに、続けますが、世の偉人の伝記を書きこんでいく中で、自分の性格の欠点も明確に浮かび上がってきました(汗)
また、半導体の世界の技術史を、書き込んでいく中で以下の点が判明しました。これは、ちょっと遅すぎたのですが。
1 アメリカは戦略ミサイル部隊を持つ関係で、常に世界一の半導体、コンピューターを持たなければならない。
世界で2位の半導体を持てば、敵に先制を許し、アメリカは全滅する。この厳しさが、今回の勉強で特に
詳細に判った。特に帝王学。帝王学とは、物の善悪、物の強弱のさらにずっと、はるか、はるか、はるか、はるか(汗) 上に存在するのが判った。
2 日本はアメリカに替わり、世界の帝王となるのは、物理的に不可能であるから、アメリカが上記の1の条件を
満たすように今後も、半導体分野その他で積極的に協力しなければならない。しかし、現状の様な、日本半導体
壊滅の状態はなんとか脱出できるよう、アメリカと調整、協議し、日本も適量を生産可能な状態へ持っていく。
3 したがって、日本は半導体世界一を、目標せず、3位か4位ぐらいの位置にいれば良い。その分は他の産業の
起こして、補えば良い。
4 半導体は産業の米(コメ)であり、日本の現状の状態を放置すると、自動車その他、全てが総崩れになる可能性がある。 >>428 続く
私が、ここに書き込んでいるのは、上記で読んだ、わずかの書籍を元としているので、あくまでも途中経過での話になりますが、
5 株式会社その経営陣を押さえれば、乗っ取りは終了する。この手法はマスコミを押さえれば、その国の乗っ取りは,ほぼ完了するのと同じ手法・・・・
東芝はもうずっと前に、日本の東芝ではなく、いわば→→→ 朝鮮・韓国株式会社・日本支局東芝課
とでもゆうべき怪物に劣化していあのではないか・・・・すなわち
われら日本人が東芝だと、信じていたものは、実は
東芝株式会社 (誤)
朝鮮・韓国株式会社・日本支局東芝課(正) ←←← いま現在の話ではなく、いまを去ること30年くらい前 (泣き) から既にこの、恐るべき状況にあったのではないか。・・・・・・・・・
↑ ↑
そだね。 東芝の大分工場の最新の生産ライン配置も、考えてみると、そうとう前に流出したし、
あと、ICやLCの、大事な特許も、考えられない格安料金で、サムスンに特別に提供してるし
それに、絶対やっちゃなんねえ・・・・・・・フラッシュ・メモリーの技術も渡しているし、特別サービスで、やってしまってるし・・・・・・・怪しいよね・・・・ 株式会社その経営陣を押さえれば、乗っ取りは終了する(誤)
株式会社は、その経営陣を押さえれば、乗っ取りは終了する。 (正) でよう おめよう でその 頭のところに やっかいものの 冠詞のようっ・・・・・・・ 朝鮮・韓国株式会社・
朝鮮・韓国株式会社・のついてない、日本の株式会社は何社あるのかよう・・・・・・・つまり、普通の会社はよう
おいおい、ところで、日本に、普通(ふつう)の会社は、有るのかよう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
BY JA1 でよう とでもゆうべき怪物に劣化していあのではないか →→ とでもゆうべき怪物に、劣化していたのではないか
LCやIC →→ ICやLSI 修正のお時間(汗)
2 自分の性格は父に似て、冷静さが無く、思考方法が、酒でも呑んだように、常に揺れていて、安定感が全く無い (誤)
↓ ↓
2 私は、幼少時より、厳しい環境で生きててきたので、物事を極めて冷静に判断するという習慣を、自然と身につけていた (正)
今回のこの勉強方法を続けるうちに、私は常に安定して、戦略的にクールに物を考えて来たなと、あらためて自分の冷静な部分に感激した・・・・(正)
さらに、私の長所は、冷静でありながら、それをうまく隠して、極めて計画的に物を送り出す、敵に対して繰り出すパンチの順番を間違えない事にある。(正)
実にタイミングが良いのである、この私は。 結論すれば、クールでグッド・タイミングのパンチを繰り出す男、それは私です、とでも言えばいいのか。(正)
いまの、アジアにおける物の考え方というか、生き抜くコツというか、生活のたくましさというのは「自分は決して過ちを認めない、すべて相手が悪い」
との乱雑・粗暴の思想の上に成り立っている。 今後は、私もこのアジアの伝統であるこの不文律を厳しく守っていきたい。 どこがクールだよwww だいたいからしてイオンで2級酒の、「麦」を買う時点で−−−−−−。 それを2合も飲んでどうすんだよwww >>426
帝国海軍様のザル護衛で船ごと海の藻屑だったかもね。
東北線は九州より多数の配属で、かつ運用範囲も広かったのに、ハドソンと軌道強化の遅れで、仙台電化以降は地味でしたな。
それでも、東海道新幹線の予算オーバーのせいで延命したから、十河&島コンビには感謝かな。 客車の乗客としては、C59でもC62でも大差なしということでOK?
→牽引機関車当てクイズ(カーブで車窓から前方を見るのは禁止)
での正答率は5割り程度か 我が母に捧げる曲
「暗いはしけ」 マハリア・ロドリゲス Amalia Rodrigues barco negro (ご紹介 1回目)
https://www.youtube.com/watch?v=bKmCib5YsYo ここをご覧の、70歳以上の大先輩達に捧げる曲。団塊乗り遅れ組の私が、小学校に入学したころ
常に、ラジオから、こんな曲が流れていました。これを聴いて育ちました。この曲は、商店街のスピーカーからも流れていました。
70歳以上の大先輩に捧げる曲
LISBON ANTIGUA Nelson Riddle
https://www.youtube.com/watch?v=GeKB3YYV-KQ (ご紹介 1回目)
夢のカルカッタ
https://www.youtube.com/watch?v=L4zca7eWrAw (ご紹介 1回目)
C−59だけの話まだあーーーーマチクタビレタビーー。 ←←← はい、もうすこしお待ちください(汗) 鉄道文化社の島と申します。ザーザーザー闇の声さんは、歴史上に名高い二つの作戦の当事者となっておられますね・・・・・
きょうは、ひとつこの日本の歴史に燦然と輝く、名作戦について、お答下さい。
1 C−59 ハラホロヒレ 竜1号作戦
2 C−59 ヒレホロハラ 竜1号作戦
についてであります・・・・・・・出来れば、なるべく判り易くIQの低い人でもわかるように願います。 ↑ ↑
はい。わかりました。えーとですね・・・・・・・・・・まず
1 C−59 ハラホロヒレ 竜1号作戦
本作戦は、日本に仇なす、敵の工作員の割り出し作業であります。これを私は5年前にぶっぱなした、この、C−59 ハラホロヒレ 竜1号作戦 において
4者を割り出しました。その結果は、2ちゃんねるの、HI−FI SSBを語るの前の方を見て下さい。敵の工作機関が4件ほど、あがってるでしょ。その
4件が当面の主たる敵ですから、日本人の我々は充分にその行動をマークしなければなりません。 いいですか、敵はその4件ですよ・・・・・3件ではありません。 >>445 続く
このA番の、 C−59 ヒレホロハラ 竜1号作戦 これは、ハロホロヒレ とは異なります。
主に、わが父が落としたB−24コンソリーテッド4発重爆撃機、を落としたように、私も大物を1機でいいから
落としたいとの思い、父の後に続きたいとの思いで、主に
大物ねらいの作戦として、ですな(汗) この 2 C−59 ヒレホロハラ 竜1号作戦 を敢行いたしました・・・・・・・ ハロホロヒレ とは異なります →→ ハラホロヒレ とは異なります(正)
大物である、ソフトバンクの禿をなんとか一機落とせないかと、苦心惨憺して、ぶっぱなした、ところ・・・・・
見事にこのお、ヒットしました。SB社のはげを、ぎゃふんと言わせることができました。
2番目の本作戦は以下、このようにに成功しました。
オペレーション 中国製で悪名高いHUWEI の 10インチパッド(アンドロイドOS) ネット加入せず・回線無し・・・・固定電話も加入なし
で作戦操作を行った。
結果 ソフトバンクCM 白い犬と、日本人体操選手らしき人物登場 樋口可南子さん、登場で携帯電話を覗いていわく
「 アーラ凄いのね 」
私が本作戦を成功したと判断した理由 (2 C−59 ヒレホロハラ 竜1号作戦)。
先に実施した作戦で割り出した、中国人工作員とソフトバンク禿との、因果関係、連絡状況が判った。
やはり、現状の世界は中国、北朝鮮、韓国でガッチリ、スクラムを組んだ3者一体の関係にあると思われる。
この3者と、日本単独との厳しい戦いになる。
日本人は電話を外国人に握られてしまった・・・・・・・
連携は極めてスピーディーに行われ、その際に、中国人よりソフトバンク禿っ への 「 孫さんは素晴らしい、未来を担って立つ
大人材だ」等の高評価のゴマスリ作業が的確におこなわれている。結果なにがしのバック何とか等の教授も想像される・・・・・・・・ いったい全体、これでもC−59の話なのかwwww 楽しみに待ったのにwww >>448 続く
自称で、日本人を主張する、下級工作員を中国人と断定するには写真が一番早い。WW2における有名な
中国人の軍閥で、閻錫山(えんしゃくざん)がおりますがこの、4枚目の写真の、特に鼻のあたりを見て下さい。目の下がり方とか
額の感じ、顔全体の与える感じ・・・
閻錫山末代秘書在台過世
http://www.chinatimes.com/realtimenews/20160415006363-260417 おもしろい・・・・オモシロスグル 続いて インテリジェンスの 3 ホンデラカンギ 竜1号作戦 をお願いするwww
↑ ↑
はい、 3 ホンデラカンギ 竜1号作戦 ですね、しばらくお待ちください(汗) TUAWEI →→ 中国 HUAWEI のスパイタブレット (正)
半導体を取られ、電話の通信会社を盗られ、家電を全て盗られ、テレビとラジオの放送局と送信設備一式を全て、朝鮮人に盗られ・・・
弁護士を盗られ、最高裁の裁判官を盗られ、大学の教授を盗られ・・・・経団連を盗られ、スポーツ業界を盗られ・・・・ 半導体製造装置の様な、精密機械を、いつのまにか、ああたっ、半導体の発明にも、LSI生産のの部止まり改善にも、卓上電卓にもポログラマブルCPUにも関係なく
フラッシュ・メモリーの発明にも、ああた、一切かんでない なんの関係も
あろうことか、精密機械のセ の字もない、オランダにいつのまにか 持っていかれ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日本人が使うスパイタブレットのWI−FIのスイッチを切っているにもかかわらず、なぜか自動的にオン状態になっていたり
始めからインストールされている、YAHOOに触ってもいないのに、なぜか「YAHOOの一部の機能がつかえません・・・・・」
などという、おせっかいな警告が何度も出て、驚かされたり
えっつ、まさかその警告は 「 YAHOOの機能の一部をこちらで勝手に使わせていただきました・・・・・」 という実は恐ろしいお知らせだと
気がついたり。腐れ外道の携帯通信会社参加のTON(仮名)の無線WI−FIルーターの無料使用申し込みの地雷を、
わざと踏んだところ、一方通行で、向こうからはこちらのスパイタブレットに繋がるが、こちらから相手の情報は見えないのだなと、判明したり
このTONの電界強度がいつも一番強い地域に住んでいるのだな・・・・・・
せっかくの郷土の小倉に住んでも、結局、パヨクの巣窟であった、武蔵野・吉祥寺と、全然変わらねえなと感じたり 爺さんや、 その、TON(仮名)の無線WI−FIルーターの個体の内部に使われている無線通信のLSi が中国HUAWEI製なのは有名な話
だからね。そのLSいは大量生産されいて、大量に日本中にばらまかれているからね。日本がもし、まともな民主主義の国であったら、当然
それらの監視とか、管理はなされているはずだが、過去に悪の3人が登場して日本の根幹の部分の破壊に成功した後はずっと
もう、日本の政界も財界も自民党も、お役所も・・・・・・・すっかり元気をなくして、いまや外国勢のおもうがままの状況だからね。いかんね、この状況は。 >>366 続く
爺さんや、トロン潰し悪の3人については、検索で以下を入力すれば、定番の資料が出るな・・・無線家は承知とおもうが
どうか、C−59、C−60ファンの皆様も、どうかこの機会に、血涙くだる日本技術者の魂の叫びを確認して下さい。
トロンの歴史、トロン潰し・悪の3人(インターネット上に有名なPDFファイルが存在) ←← これではヒットしない
通産省国売り物語 ←← これでヒットします。
このファイル「通産省国売り物語」 は1から8まであり、その中ほどに、トロン潰し・悪の3人の実名が出てきます。 >>446 続く
無線家には何度も紹介しておりますが、わが父がB−24コンソリーテッド4発重爆撃機を撃ち落とした時に使用したのは
この、陸軍自慢の最新兵器20mmを6門、連動制御する、2式多連高射機関砲、通称名・ケキ砲 です。一番したの射手席に座っているのが、私の父、
地獄の13期といわれた、昭和18年に学徒出陣した父です。このCGを描いてくださった方に感謝します。
中田CG工房
CG日本陸軍二式高射砲
http://gunsight.jp/c/type2cannon.htm
YAHOO写真BOX 皆さんに見えるかどうか判りませんが・・・・・・・
陸軍・高射第四師団 ケキ砲と我が父
https://box.yahoo.co.jp/guest/viewer?sid=box-l-ete3g3yoendajndztgfw64rqky-1001&uniqid=675aa584-efc1-4738-9873-3239f45f7c64&viewtype=detail 70歳以上の大先輩に捧ぐ
Do not forsake me, My Darling. (High Noon) (ご紹介2回目)
https://www.youtube.com/watch?v=A4a_1UhwgFU&app=desktop インテリジェンスの 3 ホンデラカンギ 竜1号作戦 まだあーーーマチクタビレタビーーーーチンチン
↑ ↑
はい、しばらくおまちください 決して損はさせません(汗) しかし爺さん、良かったじゃないか あんな美人女優のソフトバンクの樋口可南子さんさんに、凄いわねなんて 言われてよおう おい
67歳のじじいが、アーラとか 凄いわね!! なんて、なかなか 言われるもんじゃないぞっ おい
樋口可南子さん といえば そのお(汗) ショートカットの細身の楚々としたお姿に 赤いジャンパーなどお召しに成れば その、うなじが うなじのところが よう おい
おいっ・・・・・・・・・・・・・・・良かったな
BY JA1でよう
_.。ャぁて丕刀フ7ゎ。._
,.ィ炙ヲi≠┴⇒弍j込ス>。
. ,ィ升ヲナ'´ `゙'<弖心、
. ;夕フア´ / ̄ ̄⌒⌒ ̄\ \ホi心.
んfiУ | __λ_ | ▽ij∧
从j'Y | ノ ヽ 〆| | ∨iハ
. 斤W | ノ \| kい
|友カ | / ノ(_)( ) }ソ川
. い叭 \___ / ̄| / 仄ガ
. Wi从 \ | ++| / 从ノリ
. ∀t△ \  ̄( ∧fリ/
゙マじへ、 |__| /リiУ
\夊id、_ ,.イ!刋/
`マ才i「≧ェ。。.。。っ夭テ少'゚
`゚'' ミ芝玉竺壬云=‐'´
快速 春18乞食罵力號 C59 1がみずほ以外の九州特急牽いてる写真て見たことありますか? あおもりいいい ねぶたあああああーーーー うんこうかいしいいーーー 運行開始いいいーーー 青森ねぶた いよいよ開始の大太鼓青森ーーー
https://www.youtube.com/watch?v=BVKiNZhVvgA
きたきゅうしゅううううう 北九州 とばたあああ 祇園大山笠あああああ 運行開始いいいいーーー 運行開始い 運行開始い
第30回 わっしょい百万夏祭り 5段上げ、開始!!お-落ちる??? 2017年8月5日 戸畑祇園大山笠
https://www.youtube.com/watch?v=rx8KuSKvWno
戸畑祇園大山笠 わっしょい百万夏まつり 2017 8/5 全8基 提灯大山笠による運行開始
https://www.youtube.com/watch?v=OR-TMTgCz0E はやく、 夜行寝台蒸気特急「あさかぜ」号 の初代寄せ集め列車編成のものと、 C−59 および C−62の運行開始もおながいしますーーーー
↑ ↑
はい、しばらくお待ちください 唯今、準備中 乞うご期待ーーー C−59の30号機は、ただいま大牟田三池炭鉱と筑豊、飯塚および、直方および筑前若松半島の若松駅で、石炭積み中です・・・・東洋一の自動積み込みホッパー作業で忙しいので
しばらく、これを見ながらお待ちください。 BY 門司国鉄労組 (日本一の最強師団)
2017青森ねぶた祭り初日、開始2分前からの5分間。 https://www.youtube.com/watch?v=m7uLXLAefYo&t=174s
これを見ればわかる!青森ねぶた2017 https://www.youtube.com/watch?v=dElYgaS6QkE&t=367s
第30回 わっしょい百万年 ヨイトサ ヨイトサ 壮大 戸畑祇園山笠 4基の大山笠と4基の小若山笠 2017年8月5日
https://www.youtube.com/watch?v=E2Tk15LOvGA&t=109s ソフトバンクの後ろには最初から中華マネーがいるからライブドアとは全く違う
最初から最後までとにかく日本を衰退させ中国にカネを流すことが使命なのがソフトバンク
↓ ↓
C−59およびC−62ファンの皆様、このビジネススレの、344番の書き子を参照のこと・・・
2ちゃんねる 【ビジネスnews】−【業績】ソフトバンクG、4−6月期利益98%減の55億円に デリバディブ関連損失2571億円を計上したことが響く
http://egg.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1502091325/ Cと59・62の間にハイフンねえ。
案外若い人じゃ? >>470
当時6歳で、あっという間に61年間が経過しました。70歳まじかの今でも轟音立てて、瞬時に走り去っていた、あさかぜC59-30号機の大動輪が
はっきりこの網膜に焼きついちょります。・・・・・・もう一回見たいものだ。そのピストン、クランク、長いアーム横棒が、ガッチン、ゴッキン、シャッキン、ガッキンクラーーーン と
金属性の轟音をたてて、ほんの2,3秒で通り過ぎていましたね。このガッチン、ゴッキン、シャッキン、ガッキンクラーーーン ガッチン、ゴッキン、シャッキン、ガッキンクラーーーン
のクラーンのこのクラーーーーンは外を大回りする長い横棒の発する音ですが、このクラーーンがメカニカルで良かった。もちろんD51もC57もC55も目の前、ほんの数メートルを通過するから、
全機、クラーーーンと轟音を聴くのが楽しみでしたね。 >>470
C59はこのスレの最初でどなたかが言われているように、抜群にバランスが良く、しかも力強い機関車で
いわば、元気で働く若き日の父を思わせるような、実に花のある機関車でした。このC59に比べると、他の機関車は、全部がどこかクセがある
変形した機関車に見えました。まず前面から見た円形の全面扉のカーブが優美で、ここがペタンコの平面扉のD51などの普及品とは違います。
前面から見る、煙突がピッタシの長さで恰好がいい。その後ろのふくらみの砂箱を入れた部分もすっきりしています。たまげたのは運転席の
前方のぞき窓でここが、傾斜して流線型の形状で少しでも風の抵抗を減らそうとしていたのか、ガラス窓が斜めに切ってあります。ああゼロ戦の
風防と同じだ、これは特別の機関車だと、これは戦闘機だ。しかもいつもピカピカに磨かれているぞ。そうだこれは、特別戦闘機だと、当時、そのように感動して
見ていましたね。C59とは特別戦闘機だったんですよ。おまけに前〜見るとまず風を、象徴する流れるラインの入った、あさかぜ特急マークが誇らしげに飛び込んで
きますからね。 >>470
C59のかっこ良さはそのくらいで終わるものでは有りません。後続する石炭車が、上品で表面の鉄板の凸凹がなく、他の機関車長より長大で
特に一番したの角のところが丸くRをとってあり、円形にカーブしてたと思います。この豪華で長大な石炭車が動輪の鑑賞後に瞬時に
左に飛び去っていきますが、その異常な長さが前方の機関部に、みごとにマッチして、特別感というか、長大な豪勢な感じをあたえ、ここが
他の機関車には絶対にない素晴らしい部分でした。C59は非常に長い立派な機関車なんです。それと常にピカピカに磨かれているので、上円筒ボイラーの上の方の、銅配管とか
縦長円筒ピストン状の部品や、その他の小部品がやたらとはっきり目に飛び込んでいました。それで、このC59の登場以後は他の機関車の
ボイラー周りの小部品も気をつけて良く見るようになりました。 (修正) やっぱ70前の男が焼酎2合以上飲むのは良くない(汗)
他の機関車長より長大で →→ 他の石炭車より長大で >>470
わたしはアマチュア無線が、趣味ですから、こちらにも書き込んでいます。よろしければ一読を願います。このスレの
949番から書き込んでいます。内容が重複しておりますが・・・
【無線】ーCQ誌ウォッチング・第46号[無断転載禁止] http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/radio/1489941512/
それから私は、「文章の句読点を正しい場所に打つ会」の名誉顧問になっており、まことにすまんけど、この私は教養が余っているものですから(汗)
いまのところ、私は輝くばかりのグロウリアスなインテリジェンスの横溢に悩んでおり、その件の、句読点で日本人である私はこの朝鮮の人と論争になっております。
この人です。 伏見さんという方です。
↓ ↓
伏見顕正(あきまさ)の「時を斬るブログ」 http://blog.goo.ne.jp/duque21 >>475 続く
私の書き込みは、驚くほどの人の監視対象となっており、ここまで判明したところでは、下の方のしもじもの人間からいくと、まず河原乞食・芸能人のビートきよし
糞外道のSBの孫正義、週刊誌のほとんどの記者、たまにのぞく自動車雑誌の記者、くそミンスのR4、国籍不明者、朝日新聞、CIA、電通、北京電子台であるTBS毎日放送
ひとつめ小僧をチョロッと出してくるNHK,SM壁画を新年早々に披露して物議をかもすウジテレビ、黒鷺・詐欺師、まさに百花蘭万の化け物小屋の100円くらいの、安物の面々の総集結であり
その他数知らずの奇怪な面々は、いちいち、ここでそれを、ここであげても仕方がありません・・・・・・ 百花爛漫(ひゃっからんまん) ←← (正) (汗) ↑ ↑
なるへそ、ブログを見てきた。その伏見さんて人は、句読点を、、 、、 、、と、2回打つんだな。 変な句読点だwww (修正のお時間)
ビートきよし(誤) →→ ビートたけし(正) 百花爛漫(ひゃっからんまん) (誤) →→ 百鬼夜行(正)
おいおい、大丈夫か 夏休みだろ? BY JA1 でよう >>465
私の手元にある、文庫本サイズの写真集「特急列車・走り続けて80年」 高田隆雄(著) 新潮文庫 昭和60年発行 定価520円
の、いまや入手不能のお宝本、の中ほどのページに特急「みずほ」を引く、C59−30号機が載っています。場所は
昭和39年1月11日 鹿児島本線 木葉〜植木 ・・・・・とあります。これこそ、私が「あさかぜ」号で約1年間、見とった30号機なわけですが
昭和31年から8年経過していますから、さすがに、車体各所に、やれ、錆び が発生し、塗装の艶なく、かっての青年の輝きはなく、地方どさ回り興行中の
花形役者の感あり、胸が痛いです・・・となると「みずほ」は、この時代、C59−1 と C59−30 の2台の交代で運用していたとも考えられますが
どうでしょうか。はて・・・
それにさかのぼって、同じペアで、初代「あさかぜ」を運用していたというのは、考えられないでしょうか。門司の鉄道博物館にも行ったのですが、なんと
したことか、人材が入れ替わったのが原因か、あさかぜの、あの字の情報も得られませんでした。これは参った。もう、蒸気で引くあさかぜやら、みずほの話を
する爺様というのはマイナーリーグの数百人を全国で残すのみと、そういうことなんでしょうか。 ↑ ↑
そう言う、爺さんが6歳で、C59-1 を見とったんや、内科。 思い出せや ボケッ いまや数少ない歴史の、現場の生き証人やないけ ぼけっが
↑
いやそれが、わたくしはそのおおおお、白い新品のあさかぜマークの、上の方のプレートをみても、やたら少ない数字で、すっきりとなにか書いてあるな、5桁や6桁ある
数字じゃなかったなと・・・・というのだけは、思い出すのですが(汗) >>428 続く
3 世界のモノ、こと、人の動きは、自分の考えている数百倍のスケールで動いていた。また僅か、2,3年後には、強弱関係が
反転するほどの猛烈なスピードで、それが動いている。世界のダイナミックレンジの大きさは、想像以上だった。
この、物と人と事の動きを今後、懸命に追わなければ、一瞬で置いていかれる。
↑ ↑
各局および、C59・C62ファンのみなさん、まったく上記のとおりで、ここ数年から10年くらいで状況が変化し、そのターニングポイント(転換点)を2003年くらいに
おいたほうが良いかもしれません。現在、読んでいるサイバー戦争の関連の本とネットからの情報では、要約、以下の通りです・・・・
4 2003年までの全世界の情報量は、2017年の現在では、わずか2日分に過ぎない。すなわち2003年までの世界と、2017年の今では情報量が全く
途絶するほど異なる。
5 ネット上で閲覧可能な図書館が提供する図書の量は74テラバイト、それに対する世界でネット利用者が生み出す雑多な情報量は1分間に1800テラバイト。
6 YOUTUBEに上がっている動画の1か月分の量(送信される量のことか)は、アメリカのTVが1940年に放映開始後に現在に至るまでの合計量よりも大きい。 YOUTUBEに上がっている動画
C59−30があさかぜの処女列車として、博多を発車する記録が2例、存在します。
ブルートレインのすべて 20系紹介部分 (30秒後から53秒まで)
https://www.youtube.com/watch?v=fWxijgGaxH0
思い出の国鉄(星の寝台特急) (33秒後から43秒まで)
https://www.youtube.com/watch?v=alsmhAoo4As C59−30の動きはようわかるな、 しかしC59−1 はどこで何をしとったんや・・・・これは、あかんで
情報量からゆうたら、日本全国、各新聞社から雑誌、広告会社、汽車の製造会社その他を合わせて、おそらくC59−1で、残っとる写真はは数百枚
そのうち、さあ出せゆうて、この世に出てくるのは、いまや、数十枚とちがうんか それだったら、ここには、いくら待ってもでてこんでぇ
それと処女列車の、11月20日に大阪でC62に付け替えた分は、この世に出てこんでぇ いかんな 大阪付け替えは夜中の2時29分や この大阪付け替え
写真が無いで わしゃ見たことないで 夜中の2時に写真とる馬鹿はおらんかったのんと、違うんか・・・ くだり、大阪駅で付け替え 夜中2時19分(誤) →→ 夜中2時01分 大阪駅発 (正) 爺さん、C59−1の写真はたしかに少ないが、書類上の運行記録はいくらでも有るでしょう、JR九州の博多本社なり、門司の博物館なりで聞いてみなされ・・・
文書記録は、年度順に全て残っているでしょうから。
↑
ああ、そうですね(汗) このクラスならNikonだな、見栄張りたいならCaを選べば良い
撮って写真にしたら解る >>489
失礼しました。
無線家はハイフンを使うことが、わりかし多いんです。 (例) 6Z−P1 国産の真空管、ショボイ 9R−59D 通信型受信機(庶民無線家にとってのC59)
蒸気機関車愛好家は、ハイフンを使わず (例) C59 1 C59 30
これで充分に、OKなんですね。 >>482 続く
2016年 X月 X日 私は、その門司港のレトロ街の海岸に面したウッドデッキに置かれたテーブルに
飛来した、可愛らしい雀に、アイスクリームのかけらを与えて、母を偲んでいた。母との最後の日々を私は小さな
病院の病室で、スプーンにすくったプリンを少しずつ、誤飲しないように食べさせて過ごしていた。
この病院に通う道にも、2人組の尾行者がついてきたのだった。大声でこれみよがしにわけのわからない
「ああこっちの、道がいいねえーーー」 「おうこっちだねえ ここ、ここ、こっちをいこうや」 家を出てから
全ての曲がり角を私と一緒の方向に曲がりながら、距離は数メートルを正確に保ちながら、強気のの尾行を
病院前まで続ける2人組、その粗末なすり減った、汚れたナイキのスポーツシューズだけが、不思議と印象に強く残っている。
振り向きざまに、なぜ「あんたら、なんだ何か俺に用があるのか」と何故いわないかだって、なぜその尾行の男たちを私が詰問しないかだと・・・・・・・
↑ ↑
それは無理な話だ。わたしの身に何かあったら、誰が母の面倒を見る。それに私の父は自殺を図った自殺者なんだ。父は最期の最後に
その命をかけて家族を見捨てた男だぞ。さらにこの学徒出陣した父は、創価学会授与のご本尊を引き裂いて、2階屋の窓から仏壇ごと、放り出した
ご本尊不敬者だぞ。この世に本尊を破り捨てるなどまで、やってしまう人間が何人いると思うんだ、数万人に一人じゃないのか。
巻物のご本尊ならきれいに、お巻きして、タンスのなかにしまっておいて「すいませんが」と差し出して、お返しするのが男じゃないか。それが日本の普通の市民じゃないか。
俺の父は、学徒出陣はしたが、ご本尊を破りすて、果ては家族全員に、命をかけて反逆した男だぞ。その宿命の長男の俺が、その2人の尾行者と、もみ合いになったら
怪我で何日か抜けたら、その間の母の面倒は誰が見る 母との最後の日々を私は小さな
病院の病室で、スプーンにすくったプリンを少しずつ、誤飲しないように食べさせて過ごしていた。 (誤)
2016年、母との最後の日々を私は東京武蔵野の小さな終末介護型の
病院の病室で、スプーンにすくったプリンを少しずつ、誤飲しないように食べさせて過ごしていた。 2人組の尾行者がついてきたのも
この病院だった。 (正) うわっつ 濃すぎる 吐きそう 吐きそう・・・・・・ ばかやろ 吐きたいなら洗面器を持ってきてそこに吐け。 日本人は辛いんだ 皆辛いが、我慢して居るんだ。 >>495 続く
お知らせします。 ザーザーザー闇の声でございます。ゴホッツ、ゴホッツ、。 当館、闇の声劇場の第二部 運命の大牟田、決闘三池争議! 「修羅の巷に人情の九州人」
のどん帳上げをいよいよ行います。まことに遅れておりますがあああーーーーいよいよ開幕いたします。
( 告 )
ここの蒸気ファンの皆様にこれ以上、御迷惑をかけて長居はできませんので、いよいよ場所を「 CQ誌を語る 」 の本陣に殴りこみをかけ
あるいは、「Hi−Fi 秀逸 SSBをかたろう!」に殴りこんで、小屋を移して開幕いたします予定で御座います。なお各自、洗面器1個、のご用意ならびに
頭痛止め「セデス」をご用意をなさって席におつきくださいませ・・・・
>>496
各局、ならびにC59.60ファンの皆さん。現在の日本は、様々な問題をかかえていますが、私が今後の物語で提起する
予定の問題は以下のとおりです。
@ 中小企業で、健康保険の使用を会社側から、無言の圧力をかけて制限されている社会的弱者が,わたし以外にも日本に
大勢いるのではないか。私の場合は、この堂々たる憲法違反の不条理が父の自殺の原因のひとつとなったが。
父との自殺の前は、毎日この件で、父と激しい口論の連続だった。父には悪いことをしてしまった。それなら早く
自公政権でその弱者救済の対策を打つ必要があるが。
A 日本の弁護士という職業は正常に機能しているか。朝鮮人に会長他を抑えられ、日本人弁護士全員が
総崩れして、ていの良い高級奴隷の隷属状態ではないのか。歴史上で前代未聞の弁護士全員の構造的腐敗が
発生し全滅状態にあるのではないか。
公明党の弁護士の無料相談に行って、上記1番の件を詳細に話して、助けを求めたが「日本の会社で、そんな話は
聞いたことが無い。貴方の何かの勘違いでしょう」と放り出されたが。公明党員の弁護士でさえ、このしまつだから、
私には、日本の弁護士の存在理由が私はわからない。 この弁護士から「 健康保険の大きい問題は、私の手には
負えません。問題が大きすぎるので、私がもっと良い弁護士を相談します、そちらで相談してください」と。このように
もし、そのとき丁寧な応対を受けていたら、父との激しい口論にならずにすんだと思うのですが。もっとも。これは
「無料の弁護士相談に重い問題をもちこむじゃねえぞバカヤロ」との意向でもあったのかもしれませんが。
それにしても、弁護士のこの底抜けの重さ、暗さの様子に私は異常なものを感じます。
B 同様に裁判官、検察官、警察これら、すべて朝鮮人の制圧下にあり機能不全をおこしてないか。日本の歴史上
空前の大失態が発生してないか。
昭和20年の本日、岩国市大空襲。
多数の市民と共に、C5963も犠牲に‥‥ ↑ ↑
そうですか。 私は、おとといのNHKの「日本大空襲」の放映を見ました。B29による空襲の仕上げを、マスタングP51の
無差別銃撃、動くものは子供、動物全て掃射せよとの、命令がでて、線路上の列車、D50.60.51 C51の機関車が掃射され
機関車、客車から白煙が上がってましたね。 (この板の管理人様へ・・・・・・・連続投稿の許可を感謝いたします)
巻物のご本尊ならきれいに、お巻きして、タンスのなかにしまっておいて「すいませんが」と差し出して、お返しするのが男じゃないか。 (誤)
もし、その信心に反対する場合は、巻物のご本尊ならきれいに、お巻きして、タンスのなかにしまっておいて「すいませんが」と差し出して、お返しするのが男じゃないか。 (正)
昭和3X年 X月X日
ぼくは大牟田市の郊外、吉野にあった曽我病院に入院して2年が過ぎようとしていた。ここは空気はガラスのように澄み、天高く、ひばりが鳴いている。
私は、重症の肺結核が快方に向かい、左胸にあった、鶏卵大の空洞が半分まで小さくなり、少しだけ健康になり小さな希望がわいていた、ああまた学校に戻れる、みんなとも会える・・・・
病院の近くの学会員の婦人は、私の親代わりになって、病室で座談会を開いてくださり、5,6人ぐらいの学会員の患者が集まって、互いに励ましあった。
その中の一人、森田さんと言う壮年は、私を病院近くにあった自宅まで招待してくださり、夕食をともにし、そのあとSONYのテープ・コーダーで、ベルト・ケンプフェルト楽団を・・・
だから私はその後、もりたさんという名前を聴くだけで胸がカーと熱くなる。わたしにとって「もりたさん」とは特別の人だ。
そんな、ある日、母の緊迫した声が病院にあった電話の受話器に響いた 「健ちゃん、たいへんなことが起きたよ。お父さんがねご本尊様を破ってね・・・う う いま下に落ちた仏壇の破片を
集めててね、う う ご本尊様はね、健ちゃんが置いていた、鉄腕アトムのシールがあったやろ う う ご本尊様はね、それをセロテープ代わりになんとかつなぎ合わせたんよ 心配しなさんなよ なんとかするからね
いいね、絶対心配したらいけんよ・・・・お母さんがなんとかするから」 星空のブルース(ベルト・ケンプフェルト楽団)
https://www.youtube.com/watch?v=oYR66c5UuHg
Bert Kaempfert Medley 1967
https://www.youtube.com/watch?v=QUFvr2kcwYw
おまけ、トニーザイラー大特集!!! トニーザイラー大特集!!! トニーザイラー大特集!!! 五輪スキー金メダリスト!!!
白銀は招くよ
https://www.youtube.com/watch?v=DqJL9qcVibI
Toni Sailer - Ich bin der glucklichste Mensch auf der Welt 1959
https://www.youtube.com/watch?v=z3AhVnwSfB4 >>498
その放映ではNHKは「本土空襲」になってましたが、これはいかん。
NHKの凶悪なところは、かってに、この、日本と言う言葉をはずして、こういう卑怯な造語をやってしまうんです。NHKは・・・
ただしくは →→ 日本本土空襲 (正)
日本本土大空襲 (正) 人類史上空前の原爆が投下され、それがこれまた、2発も投下されたので、ここは、大を頭に持っていって大空襲でもいいですよね。
それをNHKは →→ 本土空襲 (誤) とやってしまったが、これでは日本に対する空襲が行われた、しかも民間人が主体の日本がその日本が空襲の被害者となったしまったと事実が、希薄化し
事実の矮小化が発生しませんかね。これがNHKお得意の、中国中央電視台方式の送信方法なんです。こういった小細工を年から年から年中このNHKという放送局はやっている。
さらに追及しますが、空襲と言う言葉は、たとえばドイツ本土空襲とか、南京空襲とか、ドイツ本土迎撃戦とか、その地域、地名とかならずセットになって使われる場合が圧倒的に多いです。それが普通です。日本と違って
殆んどの国家は、ドイツが空襲されたらドイツ空襲となり、イギリスではロンドン空襲となり、これがまともな民主主義国家の、普通の、普遍妥当性のある正しい言葉だと思います。
それを、このNHKは、本土空襲と言ってのけたが、なんでまた・・・・・・現在の日本だけが、素直に日本空襲と言わない。 ↑ ↑
だって、NHKの職員は、みんな中華航空のプラチナ切符を持ってるんでしょ。なにかあった場合はそれで、羽田なり成田から日本に、サヨナラして飛んでけばいい訳だし・・・ 言葉が薄くなるから、微妙にはずしたんじゃねwww たしかに日本をはずせば、日本人の、日本国民の悲劇性は薄れるからねwww それに加えて、この番組「本土空襲全記録」に登場した爆撃王カーチス・ルメイ将軍の写真が良過ぎたね。
↑
君も、気がついたのか・・・・俺もこういう風に感じた。
「この番組におけるカーチス・ルメイの写真から感じた印象」
数枚の写真が出たが、ルメイの悪い写真といい写真のうち、よいほうを目立つように、中央に長時間さらして
悪い方はすぐに引っ込める手法を使い、うまい印象操作をしていた。これはまたなんと姑息な。もともとこの葉巻きシュガーこと、爆撃王ルメイは悪相で有名で、ぎろりと睨まれたら、空軍の仲間さえ席をはずして、かかわりを恐れて逃げ出し
くわえて自信をもち強硬に主張し、あの悪相で、ギロリと見据え・・・・この男の意見がそのまま通ることが多かったんだ。マリアナ諸島・テニアンの爆撃準備基地界隈ではで有名な話だ。
だがNHKはなぜか、この男の良い方の写真を長時間、中央に映し出していたな。しっかりとな、そのいいほうとは
顔は優しく、ふっくらとして恰幅よく堂々と座って、この男ならこれから、キリスト教の牧師ととして日曜の訓話を与えてもいいな・・・とでもいうか、そのくらいの
紳士的な普通の人物の写真なんだ。そっちをメインに持って来たんだ。加えて、ルメイさん、お色なおしで顔色修正のフォトショップ?でふっくらとNHK側での追加サービスはあろうがな。 ↑
電通(べんつう)に来いよ、俺がアポとって人事部長に紹介してやっからよ・・・
あわてて、博報堂にいくんじゃねえぞ、いいな・・・・・・・・ さらに姑息で悪質
本土空襲 ←← これだけでは、「日本」はずしがバレバレ、しかも言葉の数が少なく不自然、不自然な感じを与えてしまえば小細工がバレル
本土空襲・全記録 ←← これでバランス良くOK、やったぜ、日本はずしが成功 やった大成功!! やっぱし、あんた電通(べんつう)に来いよ いや、来てくれよ、年収2000万 ボーナスは他にだすからよっ・・・・・・・・・・・
さらに、さらに悪質、日本のガン、日本の恥・NHK
同様の今年のスペシャル番組において
インパール作戦 ←← こちらを使い
インパール作戦・全記録 ←← 上記の本土空襲・全記録の場合と同様の題名表記となすなら、とうぜん、こうすべきだが、これを使わず >>509 続く
各局、および蒸気ファンの皆さん、私はいわゆるネトウヨとか右翼とか、靖国派右翼とか、そういった頭から火を吹くような、火の粉を巻き上げる様な右翼とはかなり違う違う考えです。
また特に私は日本会議とは正反対の立場にいます。そこを説明するのに、私の基本的考えを手早く済ますと
1 日本は中国・満州その他、全アジア地域にに武力進出すべきではなかった。せいぜい中国から依頼があれば、日本製武器を輸出する程度に、とどめれば良かった。
2 南京爆撃などの市民を含む無差別爆撃には絶対に反対する。( 海軍の米内がこれら上海他の中国攻撃を推進し、対して陸軍の石原莞爾は強硬にそれに反対していた)
3 私は反米派ではなく、引き続き、米英による世界の警察官役を望む。日本を含むアジア人などには世界の警察官役などは未だ500年、早い。特に東アジア人は、徹底的にアホな山猿であるとの考えを持っています。
4 よって、米軍のたとえばカーチス・ルメイ将軍を責めたくはない。米軍の個人の将軍を恨む気持は私は微塵もない。この将軍でさえ、それより上位に存在する、巨大な世界制覇の帝王学の下では
最前線の塹壕でのたうちまわる、一人の兵士に過ぎず、その胸中をかんがえると寒気がしてくる。
5 何人かわからんような国籍不明の報道陣がマスコミと放送局の全部の100%を支配して、放送しているその現状にに強硬に抗議したい。それら全報道陣を一日も早く、叩きだしたい。できれば抗議などもせず、だまって無言で
叩きだしたい。
6 私は、石原莞爾をあまり評価してない。この男の満州進出の成功が、他の軍人に中国進出の成功例としての目標を与え、かかる大惨事を招いたからな。石原は戦後、中国方向にむけて土下座してお詫びしていたが、それは遅い遅すぎる。
また、最近の研究では石原は、自己が著した世界最終戦争論などはすべて、現状に合わずと、この戦略論を否定してから、世を去っている。また石原の信奉した国柱会の日蓮主義とは、まったく私は考えが180度異なり、
ゆっくり進む絶対平和主義であり、一人の犠牲者も出すな!との主義。ただ石原の持って生まれた優しさ、イハトーブを愛した宮沢賢治のごとき、東北の大地から生まれた様な、比類なき石原の優しさは評価するが
>>386 続く
ここでこのXY方式でエクセルに纏めた中の、世の中の兵どもの、見事な生死の一代絵巻き物の一つをひも解くと
石原莞爾将軍の次の言葉があります。 「 朝鮮人にしっかりと給料は手渡されているか 」
石原は理で物を進める、理想主義の冷静な理論派ですから、とくに移動中も手帳にこまごまと数値を記入し、満州アルミニュームあと20万頓、ボーキサイト5万頓
鋼材3,000頓とか、やたらこまごまと書きこんでいて、最近その石原メモの解明が進んでいます。そして優しい石原は
口癖のように「 朝鮮人にしっかりと給料は手渡されているか 」 「 朝鮮人が心配だ 給金はきちんと渡しているか 」とつぶやいていました。
石原が満州を追い出され、東條が入れ替わり赴任する最悪の事態となり、関東軍が、東條の憲兵曹長の支配下となる結果、けちな市役所に劣化しないかと・・・・
五族共和で分け合う約束の、朝鮮人の取り分が
けちな市役所の官吏の、四角四面のがちがち頭の東條のおかげで、減らされることを最後まで石原莞爾は心配していたようです・・・
「 朝鮮人にしっかりと給料は手渡されているか 」 (修正のお時間)
五族共和 →→ 五族協和
石原が満州を追い出され、東條が入れ替わり赴任する最悪の事態となり (誤)
石原が満州を追い出され、大戦略不在の最悪の事態となり (正) >>511 続く
「おかしい、この海軍の大先輩に何故、勲章が授与されないんだ」 「 確かにおかしいな、これは一体どうなってるうだ?」・・・・・・・・・・・後輩が
集まって先輩の不遇の扱いに、怒っておりました・・・・・・
その不遇だった先輩士官とは・・・・・・・・
この巻物を、さらにさささーーーと、 広げていくと米国海軍の、暗号解読の天才、ジョセフ・J・ロシュフォート海軍大佐(退役時)が見つかります。
この人は影が薄く、ケネディー大統領と同様に人種差別を受けて、生前は勲功抜群ながら、造船所の浮ドックの責任者に左遷されちょります・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
米海軍勝利の立役者で、一人でもって、空母4隻、戦艦4隻、巡洋艦20隻、駆逐艦50隻分の働きをした男です。
戦後になってこの男、不運の天才の後輩士官や関係者があつまって協議し、この歴史に埋もれた天才暗号解読者、ジョセフ・J・ロシュフォートの叙勲を申請し、その結果
死後にようやく、おそらく最高位のDSM ディフェンス・ディスティングシュド・サービス・メダル(Defense Distinguished Service Medal) が授与されたものと
思われます。このDSMを受けると、国防総省の廊下に写真入りで掲げられ永久に顕彰されるとの事。
無線解読の天才 ジョセフ・J・ロシュフォート海軍大佐
例の、ミッドウエー島は水処理機が故障、「AFは水不足」の電報を日本軍に発信させるきっかけとなった、AFミッドウエー割り出しのおとり作戦を実施
ミッドウエー海戦時に、日本海軍の殆んどの動きを見抜き、ミッドウエーに日本空母が何日に進出するか、的確に、事前に察知、ニミッツに進言
ガダルカナル上陸の日本軍は、「工兵隊を伴う」・・・・・とモールス解読で明確に推測、これは日本軍飛行場を意味したので、素早い米軍の反攻に繋がる 「 確かにおかしいな、これは一体どうなってるうだ?」・・・・・・・・・・・(誤)
「 確かにおかしいな、これは一体どうなってるんだ?」・・・・・・・・・・・(正) ↑
ザーザーザー闇の声さん、それより、インテリジェンスの 3 ホンデラカンギ 竜1号作戦 まだですか?
それと、軍艦の絵をブログで紹介するという約束は 早くして下さいよ 約束したじゃないですか・・・・・クレパス画でどの程度の
絵を描いたかを見たいんです・・・・・重巡と軽巡、魚雷艇まで描いたんじゃないんですか、迷彩塗装の
それに竜1号作戦、ばかりで竜2号作戦は、ないのですか。竜1号はもう飽きました。 インテリジェンスの竜2号作戦も早くして下さい。
さらに、肝心の
運命の大牟田、決闘三池争議! 「修羅の巷に人情の九州人」
は、いつ始まるのですか。だいたいそれがメインの売り物でしょうが。それにこの板はもともと、C59、C62専用ですよ。いつになったらここを出ていく気ですか? いいかげんで、無線板に行って下さいよ。
それに、ここの家賃だって、もう6か月も溜めてるでしょ。家賃を払ってくださいよ。家賃を・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 各局及び、熱烈なるC59,C62ファンのみなさん、大変にこのをーーー開演が遅れておりますが
もうしばらく、お待ちください。必ず開演いたします(汗) >>517
「こんなトコにC59〜C62」
変わった場所に姿を見せた釜ってどの位いる?
仙台のC62 1、久里浜のC59 3etc‥‥ >>517
「こんなトコにC59〜C62」
変わった場所に姿を見せた釜ってどの位いる?
仙台のC62 1、久里浜のC59 3etc‥‥ 僚機より約1年早く、1957年5月に姫路第二機関区から福島第一機関区に転属(当初は貸渡?)したC59 81 >>518
C591は、やはりC5930とペアを組み、初代「あさかぜ」号を
牽引しちょりました。門司鉄道博物館で撮った写真の1枚に、
説明看板が、うつっちょりまして、概略以下のことが解りました。
C591
製造 1941年
製作会社等 汽車会社
特徴 昭和31年に門司に配属され、寝台特急「あさかぜ」をはじめ、急行「雲仙」などに使用され、
昭和37年には熊本に配属、この年に誕生した熊本発の特急「みずほ」を牽引しています。
昭和40年の熊本電化が完成した時点で、荷重が重く転属先がないことから廃車になりました。
同型の9両は解体されましたが、この車両は準鉄道記念物として小倉工場で展示保管されていました。
廃車まで地球62周分を走行しています。
やっぱ、私はC591を見ちょりました・・・あまりに、シンプルなネームプレートであったために、逆に記憶に残らなかったのか。
そげん、おもうちょります・・・
>>519
C59164は梅小路入り直前は一時的に奈良運転所に配置されていたとのことだけど実際奈良に居たのか? >>522
このスレでマジレスするのもなんだがRF誌の71年11月号に奈良へ回送されたという投稿はある
(岡山→竜華→奈良と回送、王寺駅を通る回送列車の写真あり) 昭和47年5月に奈良機関区の扇状庫にナンバープレートを外した状態で入っていた(駅のホームから見える)現役時代を知る者にとっては寂しく感じた。 >>521 続く
「あさかぜ」号がなぜ、突っ込んできたかというのは。以下の
この1950年代が発するところの、背景と大意を、および「傾向と対策」泣き、を知らなければならなーーーい。間違いない。
↓
朝鮮戦争当時の港、若松
1950年
港、若松で私は生まれた。朝鮮戦争が勃発した年だった。私は1歳か2歳のころ、この目に入る全部の乗り物、自動車とラジオの音楽が好きに
なった。ここ老松町の繁華街は海側の入口あたりを連歌(れんがまち)と呼び、芸者さんが往来し、そこを少し山側にあるくと、
商家・木造二階家の中で、未だ乳児だった私が音というものを、新しい耳で聞いている。昔のの若松は、朝早くから大勢の人が通りを歩いていた。
地元の店員が市場に通う、からんころんと鳴る下駄の音がしてくる。それに洞海湾、向こう岸の戸畑や八幡製鉄所へ通う工員や船員、会社員の靴の音が加わる。
1951年
1歳の時、わたしは、奥のラジオから流れる。美空ひばりの歌謡曲「私は街の子」で音楽というものを聴いた。再生を掛け過ぎ
の、木製ケースで、上が半円形のカテドラル型の並4ラジオから聴こえる、ピーという不思議な再生音と混ざった天使の声だった。
母の様な、安心出来る天使の歌だ。だが、しかし、その声がおねえさんの声か、子供の声か、母の声か、判別が出来ない私。 1952年
大流行した、ひばりのその不思議な曲が、まだずっと、商店街の頭上のスピーから流れている。まるで
空気のようだった。ひばりの歌が全て、上から聴こえたのは、自分が背の低い赤ん坊だった為か。
1953年
窓ガラスから、外の人通りを覗くと、音もなく進駐軍のフォード乗用車が進行する。あるいはパッカード乗用車だったのか。
車の行き先は近くのグランドキャバレー「金の星」または「みつばち」だ。この日は店の外まで飛び出す大量のクラッカーや金属製のテープ
や、三角の帽子などを拾っていたのが、私と近所のよちよち歩きの、悪ガキどもだ。今晩は、1953年のクリスマスイブだ。米兵がいっぱい、キャバレー
に来たと思うが、ここでは見なかった。このころのNHKラジオは、夕方始まる時代劇ドラマを家族みんなで聴く。「風雲黒潮丸」という題名だったか、
テーマ曲「ルソン、安南、カンボジア・・・」と流れる放送が始まる。NHKは、この「ルソン、アンナン、カンボジア」という不思議な、おまじないの
言葉を夕方になると教えてくれた。後に判ったが、アンナンとは、激しい戦争で世界史に登場するベトナムのことなのだった。
1954年
この狭い街に映画館、16館が存在した若松の、老松町のあちこちに東宝の「水爆怪獣ゴジラ」の映画ポスターが貼られ、列車を咥えて立つ恐ろしい
姿がレビューする。この時期、3,4歳の私は、映画館銀座の真ん中で、数十本の映画を観るという、望外の幸運に恵まれた。父は大酒を飲んで、
大声をあげて、軍隊帰りの強靭な体力でもって、若松市内狭し、と走り回っていた。しかし父の弟は、愛情があり、父と正反対の人物だった。私は
出来れば、この人の子として生まれたかった。今年、平成29年に90歳で亡くなったこの弟は。全く酒を飲まず温厚で大の映画好きだった。当時、
23,4歳の優しい弟が父となって、私を自転車の前サドルの幼児専用席に載せて、映画館を回り、私をシートに座らせてくれる。見上げるスクリーン
に、宇宙戦争、地下水道、謎の水爆怪獣X15号、西部劇、時代劇、火星探検、ニュースが映る。目が回るような幸運だった。しかし、その中には怖い映画
があった。洋画の「地下水道」という、ポーランドの抵抗運動らしい映画は、暗い水道の中を逃げ回り、最後は必ず鉄格子のはまった場所で行き止まりと
なり、光や希望葉向こうにあるという肝も凍る、幼児にとっては、酷な内容だった。これは何故か、母との強制的な別れを想像させて、以後しばらく、母に
しがみつき、離れないようにしていた。 聞けば、地下水道を内容とした洋画は、10本が存在するという。私が観た「地下水道」は名作のそれより
制作年度が早く、別の作品だと思われる。
↑ ↑
大牟田編はどうした 若松じゃないかっ 詐欺、詐欺 金返せ
三井・三池労働争議はどうした!
金返せ! 金返せ 金返せ
BY 二階堂卓也・銀座探偵事務所 ええ では今日の良き日にあたり いよいよ このお 決闘、三池争議! 修羅の巷に、人情の九州人
の開幕に先立ちですな ええ このような佳き日にですな ええと この1954年のですな
ええと このお・・・・・・・・・早い話がですな、1954年度を、もってその先駆けのプレリュードと、してですな
1954年
映画館銀座の老松町の繁盛する大通りを若松市役所前の大広場まで行くと、中央に大勢の人々が集まっている。そこで朝鮮戦争から帰還した
米兵が、Uコントロールの模型飛行機を操縦ワイヤーの先で大きく振り回している。ビーン、ウイーンと独特の唸り音をあげる模型エンジンの
音、それを囲んで、見事な円形の空白地帯を空けて、ドーナツ状に整列して見物する鈴なりの戦後・若松市民の群衆。父に肩車されて、その
大きな円の中心に若い米兵の得意満面の顔を見る。ワイヤーの先で唸りを上げる模型飛行機と、混合燃料独特の焦げた臭い、地獄の戦場から
生還した米兵と安堵のカーキ色の米兵達と、整然とした見物人の若松市民が共演するサーカスの様な会場だ。そこを突っ切り、洞海湾まで行くと
船舶のマストが林立する大パノラマが待ち受ける。 なんという小型船の数だ。帆柱の数だ。機帆船、水や食料を売る小型ランチ、ポンポン船(焼き球ディーゼル機関の船)
後部に住居付きの古いハシケ、水上警察・巡視艇の白色の数隻が接岸し、沖をゆく貨物船とタグボート。岸壁に並ぶ
海岸の食堂から、うどんと、醤油味ちゃんぽんと、コショーの香りが広がる。その中、満杯の船をうまく避けながら、
市営の渡し船がこちらに向かう。海岸沿いの北の方向に石炭の山と、そこで健気に働く蒸気機関車、くんろく、D50,D60
の姿があったはず。その岸に、機帆船とポンポン船と、はしけ。
ずっと昔、若松港は大正14年ごろ、石炭運搬の帆船の数が35,000隻を数え、それを目撃した外国人に「驚いたな、欧州
の港を凌ぐマストの本数だ」と言わせた。それより前の明治時代は「川ひらた」という陸のダンプカーの様な、手漕ぎの
小さな川船が、筑豊炭田から下っていた。この石炭運搬用の川船、別名「五平太」(ごへいた)は、最盛時に9000隻が遠賀川
を上下していた。この若松港は、帆柱数、世界一、船頭も多く、そして石炭積み出し量が日本一となった。私は幼児ではあったが
その、船多き時代のその終わりの部分を見た。そして、その次に蒸気機関車の黄金時代が到来する。「くんろく」や、D50、D60が、
逆三角形の石炭貨物車を引いて走り回る。 「風雲黒潮丸」 はNHK deha naku
nippon housou ニッポン放送のラジオ劇
風雲黒潮丸 − ラジオ劇主題歌 https://www.youtube.com/watch?v=lG6TK2YyCXQ >>454
恐るべし、侮りがたし、オランダの技術。 オランダに精密機器の「セ」の字は有り。 実はオランダは精密機器の国だった。
フォッカー旅客機・WW2におけるフォッカー戦闘機。
戦前からオランダは、日本のC59などを遙かにしのぐ機関車を製造する技術があった。
↓ ↓
インドネシア国鉄の1000型、オランダ製
日本占領前の植民地を120kmで走り
ツバメ特急以上の性能だった。日本のC51型登場と同じ時期に生まれた。
狭軌最高速である。1600mm*393回転で形式はパシフイック。内側2気圧が高圧、外側2気圧が低圧のコンパウンド、当時ドイツでみられた短いコネクティング・ロッドで
ともに第一動輪を,集中駆動する。インドネシアの2大都市ジャカルタ〜スラバヤ間をスコールの影響を避けるため昼間のみ運行する必要があり、12時間を切って走った。
東京、広島間ほどのロングランで特急「燕」の平均速度を上回り、日本の鉄道省のプライドに大きなショックを与えた。単線区間が多く、制限速度も多いため、この平均速度を
維持するには最高129kmで走行した。WW2で特急運転はなくなり、名称も占領軍の日本によって、C53型と変えられたが、1970年頃まで
活躍活出来たのはその優秀性を物語っている。
南アフリカと、ニュージーランドは多気筒をあきらめ。2気筒で小口径動輪を高速回転させるアメリカの方式を進め、日本を上回る高速運転を実現している。
日本は1750っm動輪を300回転以内として最高時速は95k以内に収めた。 >>531 続く
1954年
この頃、老松町は、夕闇が訪れるころ、通りから、ジャズの名曲「ラビアンローズ」が流れて来る。キャバレーがある方角から。
あるいはラジオから。毎晩の様に繰り返し、グランドキャバレー・ベラミ、金の星、みつばち、のある方向から、その曲が流れる。ひばりの天使のさえずりの次は、
名曲ラビアン・ローズが飛び込んだ。有難い。名曲の数々の連続だ。ずっと昔、大正期に入ると北九州の門司港は上海をはじめとする中国五大港と航路で結ばれ、
取扱量が神戸・横浜を抜いて日本一となり、若松にも急速に西洋文化が入りミルクホールにビフテキ、モダンボーイやモダンガールが現れ、ここを拠点のジャズバンドが活躍し、
上海バンスキングが、福岡県の田川、飯塚、直方へと広がったという。戦後も、グランド・キャバレー・ベラミから、そのキング達が演奏するラビアンローズがたしかに聞こえたと思う。
同じく、1954年
若松港を出て、遠く港を門司・下関港まで行くと、こんどは暗い太平洋戦争の戦跡が飛び込む。海峡の青緑の海面に沈没船の黒い大きな船首部分が突き出している。
なんという不気味な船だ。大きな船体が斜めに突き上げてる。
その船の間を縫うように往復する、関門海峡の渡し船に乗って、その光景を見あげ、肝をつぶす私「うわっ、大きな船はこうやって船首を海面から突き出しているモノなのか、
これが船の最後か、鉄というものはこれほど無惨に錆びるのか、塗装の色が無いぞ、いったい、ここで何をやらかしたのか、風が吹いたのか、誰かと誰かがケンカしたのか、
これがケンカか、どうしたら大きな船がこうなるんだ」幼児の頭で必死に考え込む、まだ戦争などというものが全然、理解出来ない、父の両腕に抱かれながら船に乗る私。
この不気味な黒い大きな海面の影、垂直に近い角度で船首を突き上げていた、赤茶色に錆びていた沈没船の群れは昭和20年のB-29による関門海峡封鎖・機雷投下作戦による戦果のひとつだった。
徹底的な主要都市・低空無差別焼却攻撃の効率化のため、強い風が吹いて都合が良い3月から4月を選んで実行し、焼き払い作戦を達成した米空軍。 その前の、1945年、終戦前
都市攻撃でナパーム焼夷弾を残らず使い果たした米空軍は、段々と機数を増し、爆撃の連度も上がってきたB-29戦略爆撃航空団の運用空白期間を空けるわけにいかず、
急きょ、在庫があった分の音響機雷と磁気機雷の投下作戦に切り替えて、ここ日本列島の交通のかなめ、関門海峡に放り込んできたのだった。昭和20年3月27日、B29が104機、
来襲して投下したのを手始めに、以後、終戦日近くまで、連続して波状的に関門海峡に機雷を投下してきた。これにより、20年3月以後、海峡で平均して1日に7隻が損傷するという、
日本最大の被害を受けた港湾となる。別の資料によると、日本に投下した機雷総数9000発中の半数、5000発がここ関門海峡に投下され、その種類も音響機雷、磁気機雷、時限式機雷が
混じっていたため、戦後その処理にあたった海上保安庁、特別掃海部隊の小さな木造船が触雷沈没し、大苦戦されたと聞く。帝国海軍生き残りである世界一の腕前と度胸の掃海艇の
精鋭が戦後、昭和28、9年頃まで、関門海峡で黙々として、5000発の機雷除去作業の戦闘中にあったわけであり、その命がけの、人の見ぬ場所での静かな戦闘には本当に頭が下がる。
この作業により、戦後日本の復興が初めて成された。さらに、それらの精鋭、木造小艦艇は玄海灘の向こうの朝鮮沿岸まで遠征して機雷除去を行ない1名の殉職者を出したという。さらに、
朝鮮戦争でも8000名の日本人が海上輸送任務で側面から支援したという。戦後、海上自衛隊の原点はここ関門海峡にも有る。
1956年
その爆撃の11年後、1956年、夜行寝台特急「あさかぜ」号が、国鉄マンの老練の作業でめまぐるしく牽引機を変えながら、新旧の混成客車群10両を引っ張りかって戦火を浴びた要衝、関門トンネルを、
連日走破して、スイングしながら突っ込んで来る。あの突貫小僧の化け物蒸機C59は、今日も、白く輝くあさかぜ特急ヘッドマークの風の金属ラインをピカリと、太陽に輝かせ今日も突っ込んでくるぞ・・・
少年は、木箱に登り、板塀をつかむ。 >>533 続く
1939年11月に大国ソ連がフィンランドに侵攻を開始しました(冬戦争)。3300機もの航空機を投入してきたソ連空軍に対して、性能的に何とか対抗できるフィンランド空軍戦闘機は、たった42機のオランダ製のフォッカーD21戦闘機だけでした。
鳥です
https://plaza.rakuten.co.jp/allmilitary72/diary/201111160000/ コンパクト・ディスク(CD)は、音楽信号をデジタル化して記録再生する新しいメディアとして1982年10月に市場導入された。このCDは、
ソニーとオランダフィリップスとの共同開発になるものである。光学式ビデオディスクの規格提唱者であるフィリップスと業務用
PCMデジタルオーディオ機器で圧倒的シェアを得ていたソニーの両社は、1979年8月にデジタルオーディオディスクの共同開発に着手し、
翌年にこの技術規格の採用を世界中のオーディオメーカー、レコードメーカーに働きかけた。その結果、1982年の市場
導入からわずか5年で音楽流通用メディアの世代交代が実現しました。
Sound Gallery
Vintage CD Player About the history of the development
http://soundgallery.web.fc2.com/player.html 南アフリカやニュジーランドでは動輪の軸受けやロッド類の回転部分にコロ軸受けを使用していたのです。強い衝撃を受けるSLの回転部分にコロ軸を使用するのはかなり難しく、世界ではアメリカ以外に実用化した国はあまりなかったのです。
もうひとつSLの高速運転で問題になるのは、シリンダーと台枠の結合と台枠自体の造りにあります。日本のSLの台枠は組み立て式で・・・・
昭和23年にC62が完成した時、関係者の間から、狭軌として世界に負けないものだといった
話があったそうですが、実は一体鋳鋼やコロ軸の採用にはかなり水をあけられていたのです・・・・・ニュージーランドでは、日本のD51より小さいにもかかわらず100km以上の運転をこなしていたのです・・・
D51の、最高速度は85kmとされていますが、実際85kmも出すと動揺がすごく怖いくらいです・・・・・
鉄道友の会 福井支部報 「わだち」 No125
http://www6.plala.or.jp/jrcFukui/125.pdf 南アフリカやニュジーランドでは動輪の軸受けやロッド類の回転部分にコロ軸受けを使用していたのです。強い衝撃を受けるSLの回転部分にコロ軸を使用するのはかなり難しく、世界ではアメリカ以外に実用化した国はあまりなかったのです。
もうひとつSLの高速運転で問題になるのは、シリンダーと台枠の結合と台枠自体の造りにあります。日本のSLの台枠は組み立て式で・・・・
昭和23年にC62が完成した時、関係者の間から、狭軌として世界に負けないものだといった
話があったそうですが、実は一体鋳鋼やコロ軸の採用にはかなり水をあけられていたのです・・・・・ニュージーランドでは、日本のD51より小さいにもかかわらず100km以上の運転をこなしていたのです・・・
D51の、最高速度は85kmとされていますが、実際85kmも出すと動揺がすごく怖いくらいです・・・・・
鉄道友の会 福井支部報 「わだち」 No125
http://www6.plala.or.jp/jrcFukui/125.pdf South African Steam: GEA & GMAM Garratts Montagu Pass South Africa
https://www.youtube.com/watch?v=DIbMcJ3jxKo
South African Steam: SAR Class 26 3450 Red Devil Ashton South Africa 17 Aug 2002
https://www.youtube.com/watch?v=99MADUckaQQ
South African Railways 15CA 2056 starts away from Magalies 30-08-08.MOD
https://www.youtube.com/watch?v=lwNE8w9VAHM ムラ、ムラッとくる、セクシーな新幹線の女性運転手と女性乗務員。
??? ?? ??? ・ ??? Female crew & conductor of the shinkansen
https://www.youtube.com/watch?v=LfFOCRMcmwc
Shinkansen 300系 & 500系 @ Shin-Osaka station + Beautiful female crew operations.
https://www.youtube.com/watch?v=Lxd9Gk1DdFY 3号戦車の組み立て方と、その組み立て方のお勉強を、」独第三帝国のプロタガンダ映画
によって勉強していいかどうかの、お伺いを誰にお聞きしていいのか判らない件の動画
3号戦車
?Deutsche Panzer Produktion im 2 Weltkrieg Originalfilm
https://www.youtube.com/watch?v=IALW5uI807g
6号戦車
Welt Krieg II Deutsche Schwere Panzerkampfwagen VI Ausfuhrung H / Sd.Kfz. 181 Tiger
https://www.youtube.com/watch?v=3QS_ZMAgqB4
Tiger II starting, unloading and driving - Retromobile 2015
https://www.youtube.com/watch?v=_dhPW_ksFcM
↑ ↑
うわっ、また軍事板になってる。無線だろうが、オーディオだろうが、蒸気機関車だろうが、
全部が軍事版になってしまうのか・・・ 別に、いいんじゃね。オーディオだろうが難だろうが戦車だろうが、そんなもんは鉄の塊の
くず鉄の単なるノスタルジーの、男の昔話になっているだけのオソマツ限りない、今は昔のじじいの、せんずりこき、のお話だからよう・・・だからどうだっていいんじゃね・・・・・ ここで、せんずりこいても、いいのか。知らんかったわ・・・ 修正のお時間(汗)
プロタガンダ映画 (誤) →→ プロパガンダ映画 (正)
組み立て方と、その組み立て方のお勉強を、」 →→ 組み立て方を
>>534
ジャズの名曲「ラビアンローズ」 (誤) →→ シャンソンのエデット・ピアフの名曲をジャズにアレンジした (正)
Edith Piaf - " La Vie En Rose " ばら色の人生 (1945)
https://www.youtube.com/watch?v=ChTm6G4s5rU ↑ ↑
たいがいに、しとけよ。てめえっ・・・・それで、肝心の演劇のだし物の、 「運命の大牟田、決闘、三池争議! 修羅の巷に、人情の九州人」 は始めるのか はじめないのか
止めるのか、はっきりしろ この野郎
こちとら、入り口のところで、入館料100円(三本立て)払ってんだ このやろ てめえ二階堂をなめてんな 100円だぞ 大枚、100円をはらってんだ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
現金だ 現金だぞ(汗) 現金で100だっ・・・・・・・
BY 二階堂卓也
銀座無頼帖 銀座旋風児 https://www.youtube.com/watch?v=OClfJ3cbFXM
ザーザーザー闇の声さんでしょう。ようやく、ネットがつながったのか(笑い) いや、そのお 乗り物、の懐かし鉄道の、「C62・C59を語る」の板で連続書き込み
の16連ちゃんを、かましてアク禁食らったんでしょう、おそらく それでこっちに逃げてきたんでしょう・・・ はい、館長のザーザーザー闇の声でございます。どうも、 はい はい 非常にこのおおお 遅れておりますが、あのおそのお
要するに、いわゆるネット乞食ともうしマシテ ヨウスルニ WI-FI乞食にまで 手を出汁ましてですなそのおおお ローソンとセブンイレブンで無料WI-FIを
受信のみ、いたしてまして、なんですな、このお、ここは送信出来ず・・・・・あまりに長時間を、このおローソンの前の路上でしつこく受信のみおこなうので、中の人からジロリと
にらまれ、しかたなく帰りにアンパンと牛乳パック入りを買って帰る、非常にきびっしい、さびしい生活をですな
この一年ほど、ここ小倉北区で送ってまいった とまあ こういう按配でそのお 書き込みができなっかったわけでありまして ヒャイハナシが
いや 早い話がですな、このたび、館長たる わたくしは はれて日本臣民たる 権利を行使してですな・・・光回線の固定プロバイダーと このお 正式に
契約を結ぶ結果とあいなりましてですな これでもって晴れて書き込みが出来る状況とあいなった次第なのであります。
それでまず、これをご紹介したいのであります。
16 嵐を呼ぶ男 https://www.youtube.com/watch?v=bANWoe01lmk >>555 続く
続きでありますが、どうもお前の話はわからん、ザーザーザー闇の声よ、あんたの話はどうもわからん、あんたは一体どういう人間なんだ、という声があがっていますので
ここで、いよいよ晴れの開幕式を挙行するにあたりですな、いよいよ、このをおおおおおおおおおお。
いまやああああーーーーーー、敵は焦っているのであり、あせっているからして、ひとつ、ここは、じっくり腰をすえてですな、わたくしの開演前のご挨拶をお聞き願いたいのであります。
これであります。本件であります。
本件 日本人とドイツ人は、プロパガンダで洗脳されやすい国民ではなかったか
ということであります。 C59とC62の世界における地位というものを、上記のXY軸打ち込みのエクセル方式で、調査したところ、日本で言うところの名機などではなく、このC59もC69、世界という舞台に
出すと平凡な凡機にしかすぎず、こと蒸気機関車に関しては、日本は南アフリカやオランダ、アメリカ、ニュジーランドの技術レベルにはとうてい及ばないというのが判明しました。
戦前の日本は、コロ軸受けさえ、まともに造れない水準でもってWW2に突入し、枢軸で同盟を組んだドイツも工業国であるソ連に比較すると、半農半工業の中途半端な
生産国であり、ナチスのプロパガンダによって踊らされた目先のことしか見えない国家であることがわかります。
このアホさ加減は日本も同様で、戦後のD51ブームとは何か、戦後のこのブームの期間中、マスコミは85km以上の速度で、悪質の揺れが発生する点や、軽自動車でさえ
出る100kmの速度が困難であった件を、マスコミは正確に伝えたのか。D51は名機だやれC62は美しいと、はやしたてて煽った雑誌、鉄道雑誌?の責任は如何と・・・ ↑ ↑
爺さん、南アフリカのレッドデビル(赤い悪魔)はすごいな。あれが機関車だな。あれこそが 「THE機関車」だ。噴煙を工場のそれのように噴き上げるし、加熱式蒸気の
温度をさらに上げて、300度から400度にアップしたのか、前のシリンダーカバーが赤熱して、ガス溶接で鉄をあぶったように内部から赤熱させ、車輪の空転時にはしたの
線路をかつお節けずりのように、鉄の表面から紙のように削りとっていたぞ・・・ いやはや、世界のレベルはすごいですな(汗) 広く、世界に目を向けるべきですな。C59もC62もかたなし、ですな。南アフリカに比べると、日本のそれは
模型ですわ。てんしょう堂の模型ですな・・・精密感はあるのですが、迫力とか、技術を徹底的に突き詰める達成感というものは、やったああーーという物は
ありませんでしたな。日本の蒸気機関車は
当時から、少し感じていたのですが。絵本です。絵本で見るアメリカの太いたくましい機関車と、現実目の前を、毎日通過する機関車と少し違うなとは、6歳ごろで、感じ取ったんです・・・ 南アフリカのレッドデビル(赤い悪魔)
機械が君臨していた時代の美学
日本の蒸気は遠く及ばない南アフリカレッドrデビル26型
http://steampunkengine.seesaa.net/article/287069890.html C59の1号機、すなわちC591らしきものがここに初登場しちょります。戦前のプロパガンダニュースである「日本ニュース」開始後6分のあたりに登場。
アナウンス中に、日本が世界に誇る鉄道技術うんぬんと、ありますが、その技術の実態はオランダのほうが上位にあったんですね。オランダの1000型は、すでに
このずっと前に4気筒を実用化していたのですから。
ニュース映画に見る戦時中の鉄道
https://www.youtube.com/watch?v=zkbmNW1yd-8 修正のお時間
加熱式蒸気(誤) →→ 過熱蒸気(正) >>558
修正のお時間
シリンダーカバーが赤熱して(誤) →→ シリンダーカバーの黒い塗装がはがれて、その下に塗っていた古い赤色の塗装が、部分的に浮き出たもの(正)
日本国内で製造した機関車は最後まで、オランダ製の4気筒のような複雑、精巧なものを作れず、結局C59、C62とも単純構造の2気筒のままで終わった(正) その問題の、貴重な部品であるコロ軸受けを、敗戦後の日本人は懸命の努力で国産化して、短期間で諸外国に追いつき、鉄鋼の技術もまた新日本製鉄(旧・八幡製鉄所)などの
研究努力により、鋳物製品、鍛造製品を含めて多様な鉄鋼製品を生み出したのですが、それはアメリカの安保条約の保護下の特殊な条件の下での技術進歩でもあったわけです。
結論すれば、米国によりもたらされた進歩で有ったわけです。この私の考えと、ほぼ同様の意見が、5ちゃんねるの電子技術者の書き込みに上がっていました。ぜひ一読を・・・
(その電子関係の技術者の意見) 379番の書き込み
まったく勘違いしてるよ
明治維新も戦後の急成長も日本人が特段に優れていたわけではない
明治維新は西洋の300年も進んだテクノロジーや社会制度と出合って、
取り入れたギャップによって急激に発展したのだし、戦後はGHQが人権思想なり、
小作の解放、財閥解体を行ったからよかったの
ニュース系の板をみてお分かりのとおり、日本人自身はあまり頭よくないよね
【電気・電子】日本の電気・電子産業の現在過去未来
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/denki/1508192943/ >>565 続く
さらに、突き詰めて言えば、私はこの電子技術者の意見と、「ほぼ同じ」意見であり、何から何までこの人の意見と同じという分けでは有りません。
ほぼ同じという事は、わたしはこの人とは違った部分もあるわけです。
この人の考え
「日本人が特段にすぐれていたわけではない」
わたしこと、ザーザーザー闇の声の考え
「日本人は恐るべき、侮りがたい人間であり、世界史の根底の部分を変化させるほどの大発明を連発する人間である」
ここが、この人とは違う部分です。この点も、上記のXY打ち込みのエクセル方式で判明したのですが、半導体の研究・開発
歩留まり改善の生産方式、磁気の研究、液晶の発明、三洋電機が発明した液晶面のアイコンを指で押す携帯電話方式、
メカトロニクスの結晶ともいうべき半導体製造装置の原理原則、軽量で確実で自在で安価なパソコンノ基本OS、デジカメの発明など
なんのことは無い、今、中国、米国、台湾、韓国、欧州で大量に生産されている生活用用品の文明の利器は、その元をたどれば、この「日本人」という人間にに行き着きますからね。 ↑ ↑
おい、爺さんよ、その電子技術者なる物は、どうもその書き込みの内容と、その前後関係をじっくり読むと、どうやら朝鮮の人だね。まがりなりに
電子業界でお世話になって、飯を食わせてもらってる日本人なら、その書き方は無いな。その書き方は無いよね。
そうですね、その偽技術者には見事に一本、とられました。そこには日本人に対する愛情のかけらもなく、さらに一番必要な、いかに巧妙、狡猾な方法で
日本から技術が盗み取られて、米国→→韓国→→中国大陸 に渡されたかという 「技術・盗っ人の記録」 (ぎじゅつぬすっとのきろく) というものが一切、触れられていませんからね・・・・・・・・・・・・・・ だな・・・・・・しかし、巧妙な世の中になっているね・・・・・現代の日本社会というものは・・・・・・・・・・ウーーーーム >>521 続く
この、C591について更に、調査が進みました。
C591
C59のなかでも、特に九州に縁が深いのが、その1号機のC591である。戦前は名古屋機関区に所属し、東海道線の特急
を引っ張っていた。この機関車は終戦直前の昭和20年、8月14日に米軍機の機銃掃射に遭い、車体に傷を持つ「つわもの」
だる。当時の機関助手である稲垣信夫さんは、この掃射で傷を受けながら、九死に一生を得ている。
速度と馬力を備えた同型機C59は、時速100kmが出せるため以下のような逸話を鹿児島本線において残している。
C59が九州で残した逸話
昭和30年代のある日、一度だけではあるが、博多駅を定刻遅れで発車した急行列車を引っ張り、折尾まで飛ばしに飛ばして
39分で到着した。これは現在の特急「ソニック」にかなはないものの快速電車をはるかにしのぐ高速である。 ↑ ↑
なるほど、このC59という機関車は、抜群の名機という程ものではないが、日本国鉄にとっては、いざという時には頼りになる名機であり名馬であったわけですね。
車輪の軸受けのベアリングは、ころ軸受けが入手不能の、戦時体制であり、しかたなくただ、一枚の板に穴をあけてそこに軸を通して、申し程度に両側に抜け止め
の金具ではさんだ程度で、その台車は鋳物で、一体成型できず、ボルトナットで組み立てた華奢で強度の取れない、高速の出せない台座であったんですね。 一枚の板に穴をあけてそこに軸を通して、申し程度に両側に抜け止め をかました、単純なプレーン軸受け(正) それで、今となってはそのC59を運転して、当時、下富野にあった一軒家の前を、轟音とともに片手を窓枠にあてて、毅然とした通過していた
国鉄マンに対して、今は、ただありがとうという気持ちで一杯ですね(笑)。当時、特急を運転する方というのは、いわば頂点を極めたエリートであり、今では
新幹線を運転するような方であったわけです。陛下のお召し列車を運転する栄誉にあずかるのも特急の運転士であったと聞きます。
当時、わたしはこの、あさかぜ号のエリートである運転手と、瞬間的であるが、目が合っていました。視線の軸線が一致していました。そのとき私は、さっと目をそらすのが常でしたね。そうですね。歳のころでいえば
特急運転士は、30歳から40歳の方でしたか、私を見るその目が「おやっ、この坊やは確か、昨日もこのあたりで見たぞ、そいえばその前にも見たし
よほど機関車が好きなのかのかこの坊やは・・・」といってる様でもあり、毎日かかさず基地外の様に見ていた自分が恥ずかしくもあり、さっと視線をはずしていたわけです。
6歳といえば、少年は幼児から脱出して妙に大人びた複雑な性格に達する歳でもあり(笑)、恥ずかしくもあったわけです。
この小倉到着まじかの区間は、あさかぜは時速60km前後だったか、はっきりしませんが、小倉では停車せず博多まですっ飛んでいっとったわけですが、それでも70km
や80kmで小倉駅構内を通過するのは危険であり、私の目の前を、それよりも少しだけ、スピードを落として走ったとも考えられます。
あさかぜが小倉駅は停車しない件はこの、鉄道懐かし板にもありました。
寝台特急★九州ブルートレイン総合★134レ
http://mao.5ch.net/test/read.cgi/jnr/1501338535/ 昭和31年ごろの、小倉駅構内の案内放送の予想(汗)
「お知らせしまーーーす、まもなく特急「あさかぜ」号が、本駅を通過します、あさかぜ号、本駅、停車せずに通過いたしまーーーす。
白線の後ろまでお下がり下さい。 特急「あさかぜ」号、まもなく本駅を通過しますので、白線の後ろまでお下がり下さい。 ご注意下さい、特急 「あさかぜ」号まもなく
本駅を通過しまーーーーす(汗) 」
↑ ↑
爺さん、おめえよう、もう 止めたらどうだね おめえの書き込みは 矛盾してるぜ
考えてみなよ、おめえさんは よっ そこで一番大事なよっ 日本人が陥りがちな 集団でもって どどーーと 後先考えずに 突っ走る
脳天くるくるパー の 島国根性の 「日本人とドイツ人は、プロパガンダで洗脳されやすい国民ではなかったか 」 をあげているが
その割には、その後に述べるべきポイントから ずれてんじゃあねのかい あんたは 仏教徒じゃねえのか それも大乗仏教じゃねえのか
その割には、朝鮮人に対するものの、言い方きついというか 残酷すぎや、しないかい それから 陛下、陛下と あんたはもまた、あの尊王教の靖国派なのかよ
あんたもまた、いまはやりの 靖国派か おめえもまた、またはそれに 連なるケチな靖国くずれなのか・・・・ 大体からしてよう・・・・・・・・・・・今の世はよう
朝鮮人も日本人もろくな目にあわされてない、世の中だぜ・・・白人様や、中国人さまを、せっせと下から持ち上げて、下支えに支えているのは、日本人と朝鮮人じゃあねえのか
違うか・・・・・中国様がいまや大国の中国様におなりに あそばしたのも 日本人と朝鮮人がそれを支えたからではねえのかい
それから、私は、反米派ではないと、言いながら、米国に対する言い方は、きついものがあるし、それから、大牟田時代の苦しい、地獄の餓鬼界の食い物に不自由した
の、結核でどうの、こうの、を あなたが いくらそこで 訴えても それは 単に 貧乏物語の恥ずかしい事情の、羅列であって そんな貧乏物語は
はいて捨てるほどのものだぜ・・・・・・やめとけよ 悪いことは言わん もう止めにしとけ そんなもん どうってことは ねえんだからっ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・よっつ でよう でよう 悪いことは言わん もう止めにしとけ そんなもん どうってことは ねえんだからっ ようっ・・・・・・
BY JA1 でよう >>561
C59 5が走るモノクロ映像なら昔NHKで見たな。
『C595』とプレス鉄板のしょぼいオリジナルナンバープレートだったから、恐らく新製直後 >>576
C59 1ではなく、その日本ニュースに初登場の、低解像度の動画の機関車はC59 5 だったんですね(笑) >>565 続く
修正のお時間
デジタルカメラの発明は日本(誤) デジタルカメラの発明はアメリカ(正)
世界初のデジタルカメラを作ったスティーブ・サッソン
1975年(昭和50年)12月、イーストマン・コダックの若き開発担当者であったスティーブ・サッソンが世界初のデジタルカメラを発明しました。
この時スティーブ・サッソンは入社わずか2年、若干24才でした。
Amazing Graph
デジタルカメラの歴史。世界初のデジカメを発明したのはどこのメーカー?
http://a-graph.jp/2017/09/29/30185 >>577
C59 5はC60 37になり、鹿児島電化まで踏み止まった。
通算在籍29年は一族中最長。
C60 9のテンダに重油タンク載った写真あったんだね。 >>579
C60も重油専燃車に改造されたのですか。私の手元に、C59 127号が重油専燃に改造された当時の、鮮明な写真が掲載された資料があります。交友社の「鉄道ファン」誌、2005年前後の
切り抜きですが、やましな物語「重油専燃のC59 127号機に乗務して という記事中に、ピカピカの新車の輝きのC59が4枚、写っちょります。鷹取工場1953年12月8日、試運転とあります。
1955年ごろまで、この重油焚きのC59が、京都や大阪近辺で動いとったわけですね。ただし、そのあとすぐ1956年に東海道線の電化完成ですから、そのときお払い箱になったのか・・・・・
もったいない、石炭を放り込むかわりに、燃料コックひとつ、捻れば燃焼できたのに・・・
と思っていましたが、この記事の先をずっと読んでいくと、C62ストーカ付きと同じで、走り出すまで1時間以上かけて、あらちこちら調整が必要うんぬんとあり、これではディーゼル機関車と同じに使うわけ
にいかなかったのでしょうか(汗) >>580
C60に重油オンリー車なんかないですよ。
あくまで併燃。 >>581
なんと、そんな機関車まであったのですか。この石炭から、石油への移行期では、その混乱に巻き込まれて蒸気機関車は計画通りの運用が出来ず、右往左往しながら
火が消えるように自然消滅していったわけですね。九州の石炭産業もまったく同様に、三井・三池労働争議という史上最大の、大乱闘の中に、花火の
様に一瞬、輝いてから消えていきましたが、わたしは少年の目ですが、その労働争議の修羅場を目撃してますから、それは貴重な体験でもあり、やはりそれは
語るべきなのか。ここでその見聞録を語るべきなのかと・・・・・ 運転士(誤) →→ 機関士と機関助手(正)
僕は特急の機関士で 三木鶏朗 森繁久弥 丹下キヨ子
https://www.youtube.com/watch?v=BjInJLjzfms ↑ ↑
ぜひ、語ってくれや。正月でもあるし、暇はたっぷりあろうから。修羅場に頭から突っ込んでいくのは、どどっと突っ込んでいくのは福岡県人の特質ではなかったか。
福岡連隊、小倉連隊、三井・三池労組、国労門司労組、あわせて4個師団、いずれも日本最強といわれながら、全て見事に消えうせ、ただのひとつの一師団さえ、この福岡に残らなかったが・・・・・・・・・
ロシア人がただ淡々と冷静に、独ソ戦の写真を解説しちょります。ロシア語は判りませんが写真が新しいです。戦車王のオットー・カリウスからはじまっちょります。
1番 ≪Тигры≫ в грязи. Воспоминания немецкого танкиста. (01 часть) Фотографии военных лет. Аудиокнига
https://www.youtube.com/watch?v=o63UTjUE-xg
2番
https://www.youtube.com/watch?v=x4ylQ02rYEQ
3番
https://www.youtube.com/watch?v=CX7BG35I47k
4番
https://www.youtube.com/watch?v=CX7BG35I47k この石炭から、石油への移行期では、その混乱に巻き込まれて蒸気機関車は計画通りの運用が出来ず、右往左往しながら
火が消えるように自然消滅していったわけですね(誤)
↓
この石炭から、石油への移行期において、輸送量が激増する東海道線他の大都市路線で電気機関車が主役となり、蒸気機関車は煤煙の公害が多く
運転に労力を要するため、ローカル路線に配置転換され、消えていったんですね(正) さあ、正月でもあるし、ここはひとつ、パーーーとはでに
コロンビア製のブラウン管テレビジョン14インチ両側にスピーカー有り、ただしモノラル音声 でも見るか。スイッチをパチンーーーーーーー
ブーン 123456789 11 12 13 14秒経過 15 16 17秒経過
出た The T.A.M.I. Show 1964 - Full HD Original Electronovision Version
https://www.youtube.com/watch?v=8pdZJ7TkJQU 重油は温度が高くないと燃えないしその辺が大変だったんじゃないの、石炭なら火室に種火があるけど重油だけだと最初の点火はチト面倒ではないか、詳しく構造は知らないけど >>589
重油専用燃焼車について調べてみると、インターネット上に相応な量の情報がありました。
「石炭焚きで50年使ったボイラーより、重油焚きで10年使ったボイラーの方が状態が悪くなる」などのほかに、
グーグルに「蒸気機関車 重油専燃」と入力するだけで、相当な量、読みきれないほどの量がヒットします。
PDF資料では以下があります。
技術資料・重油燃焼機関車 日本国有鉄道鉄道技術研究所 横堀 進
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jie1922/32/2/32_2_103/_pdf
この資料に、石炭と併用式ではレンガ積みの火炉を新たに設けて、バーナー給気する云々とあります。
また石炭との併用方式で、石炭の上に重油をかけると、点火着火はたやすいが表面の重油が燃え尽きるまで
石炭が燃えず、燃焼速度が低下して、黒煙が多く発生するなど、また石炭が火炉内に撒きにくいなどとあります。 >>591
今のJR東日本のD51498、ほとんど投炭していないように見受けられた。石炭ひいたあとは重油ばかりかな。 >>582 続く
正月に、このおおお軽いタッチでととと走って、その修羅場をご披露したかったのですが、
朴訥な炭鉱夫のおいちゃんが、喧嘩では必ず会社側がやくざを動員し、凶器を持ち2人一組で1人にかかり、たこ殴りになぐられ、体力も腕力もあるおいちゃんのほうが負けていたこと。
黒い背広を着てネクタイをしめたいた痩せ型やくざのこと、粉塵爆発で死体が大量に出て病院の中でホースで水を掛けて粉塵を洗っていたのを母が目撃したこと。
当時の公明党は未だ党になる前で、選挙演説中に「議会のなかでなんみょうするのか、ははは」と共産党員、社会党員から取り囲まれ、ゴム銃の弾で顔面を激しく撃たれ、何をおおと反撃して
殴り帰してしまい、その公明議員はその乱闘の責任をとらされ公明政治連盟を首になったこと。その市会議員候補のAさんというのは、実は私が5年生で始めた聖教新聞販売店の店主であり、その人とは
悲劇の別れとなったこと。つまり私は結核で入院し、その人は議員を除名になり、そのひととは「つらいがお互い頑張ろうな」といって寂しく別れたこと。
当時、三池労組側の労働者は水筒と称して、長さ1mくらいの鉄パイプをもって市内をデモ行進しており、その人たちが座り込んで休んでいるところに、いきあたり「おじさんそれ何ですか」
「いや、これはボクチャンニハ、ワカランモンタイ」答えてもらったこと
などを正月の3が日そうそう、ここで始めるのはいくらなんでもまずかろうと・・・とこの様に思いましてな 実は私が5年生で始めた聖教新聞販売店の店主であり、その人とは (誤)
実は私が5年生で始めた自転車による聖教新聞の配達で、受け取りに通っていた販売店の店主であり、その人とは (正)
この昭和35年、聖教新聞は未だ日刊ではなく、週に3日の配達だったか、その配達給料450円は、そっくり母に渡していた。母は私から450円を受けとると、すぐ
米を買いに家を出る。ずっと必ず、全額450円を渡していた私に、魔が差したというか、1回だけプラ模型を買ってしまったことがある。当時の少年の流行は週刊誌の少年マガジンと
少年サンデーとプラモデルだった。配達の給料日に当時の大牟田繁華街である栄町の模型店に入った私は、いつも見るだけだった、三共のピーナッツシリーズのプラモデル
月光と彗星とムスタングの3機、1/150を購入。1機30円かける3機のこの90円の使い込みのために、その月はその日に米が買えなくなった母は、一瞬、怒ったがすぐに「いいよ、健ちゃん
でも今月だけにしといてよ、たのむよ、いいね」といつもの優しい顔にもどる。母も辛かったと思う。。しかしこの時の私の罪悪感というか、せつなさというのはなんとも説明のしようがない重い辛さだった。
飛行機プラモデル 三共ピーナツ・シリーズ No10 P51D ムスタング
https://blogs.yahoo.co.jp/airblue1223/64619486.html 「つばめ」「はと」の機関士・機関助士は戦闘帽じゃなくて羅紗の制帽被ってる人多いような 石油ストーブですら芯にタールなどが付着してシーズンオフにクリーニングするのだから重油だと更に大変だろう。コールタール状だと石炭の燃えかすみたいに処理出来ないな >>594 続く
ザーザーザー闇の声です。
熱烈なC59,C62ファンの皆さん、もし時間があれば、こちらも見てください。私の大牟田編の演劇ですが、正確を期すため
ただいま資料を集めています。1月中には開演しますので、その間、よろしければ、こちらを見てください。元旦より、私の趣味である
無線と音響の仲間のところへ、あいさつ回りにいってきました。1月1日より、YOUTUBE音楽をの配って歩いたのですが
荒れに荒れています・・・・・
アマチュア無線 CQ誌ウォッチング・第47号
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/radio/1503046345/
カセットデッキをしみじみ語る会 PART53台目
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/pav/1509371485/ >>596
そんな大変なら重油併燃装置付きのD51があんな大量に運用されなかったと思うが
C59の重油専燃機は乗務員運用が不便だったのがネック
まあ最初からそんなことぐらいわかっておけとは思うが >>576で書かれてる「プレス鉄板のしょぼい」タイプ=大型ナンバープレート?
末期に交換された機があるが、正直、似合ってないと思う
やはりC59には大型ナンバープレートが似合ってるというかバランスがいい >>599
それはC62等と同じ戦後規格のやつでは?
戦前形のオリジナルNo.プレートはC571のプレートから下の「形式○○○」を省略し、その分の上下寸法を詰めたもので、砲金ではなく単なるプレス物。
戦争末期にはそれすら剥がされたけど。 >>599
戦後形も戦前形と同じ寸法のプレート『C59XXX』(材質は改善されたはず)で竣工したと思うが、川車製の後半(124以降)は昭和20年代で戦後規格プレート『C59 XXX』になっていた。 599です。レスありがとうございます。
言ってくださっている各タイプの関係性がまだ解らないのですが、
161号機を例に出します、晩年に交換されましたよね?
それまでの大型タイプから、ありがちなタイプへそして廃車されました。
私が好きなのは、廃車時からひとつ前まで付けていた大きいやつです
それは、レスくださっている中で述べていただいたどれにあたりますでしょうか。
あの大型タイプのは新製時からのオリジナルではなかったのですか?てっきりそう思ってました 砲金製プレートでも戦後日が浅い時期のやつは>601にあるように戦前形の様式を引き継いでたり
戦後形の枠で戦前形の字体(確かC61の一部がこれ)とかいろいろ混在してるしね 郵便局からC62 3の製造70年記念でミニチュア付きの記念切手が販売されてる
10月に届く予定みたい
お値段は高いが俺は地元にいるカマとして予約した
https://www.shop.post.japanpost.jp/shop/g/gCS7942710115/ >>604
いいね
付属のC62-3ミニチュアは天賞堂Zのコピーかな? >>605
宣伝には苗穂の保存機を3Dスキャンしたと買いてあるね 伊藤昭氏が昭和25年8月9日に宮原で撮影した「はと」マークつけたC59 8なんだが、テンダが船底形のように写っていたのを見た記憶がある。
一時的でも、戦前形が戦後形テンダを付けて運用についた事ってあるのだろうか。 C591って一般人でも見学可能?
燃焼室付汽缶に振り替えられたかどうか誰か確認してくれないかな。 今回水害にあった坂町小屋浦あたりはカーブがあって
呉線屈指の蒸気機関車牽引列車の撮影ポイントだったところ
この地名をニュースで聞いて懐かしく思っている人もいるはず 張込み, - Harikomi - Stakeout (1958) Yoshitaro Nomura
視聴回数 2,178 回
https://www.youtube.com/watch?v=S9zwHD3soGg ↑
ウヘッ その板の384番と386番には、若松、火野葦平さんのご活躍が(泣き) >>352 続く
「あさかぜ」の登場によって、我が家の人気ナンバーワンのスターは「かもめ」から「あさかぜ」に
バトンタッチしたのですが、夕刻の6時過ぎに疾走してくる「かもめ」も捨てがたい魅力がありました。
私の小倉市・富野の家の前では、
最初はC57が牽引し、途中でC59に変わった様な記憶があります。また特急・ヘッドマークも2種類を
見たような気がします。以下にC59100牽引の処女列車の鮮明な写真が有ります。
DRFC-OBデジタル青信号
同志社大学鉄道同好会OB会(DRFCクローバー会)ホームページ
2364】1953年3月15日特急「かもめ」処女列車
https://drfc-ob.com/wp/archives/2364 オフィスナトリのc62ニセコとイカロス出版のc62ニセコ
を買ったけど、
小樽の樽の字が両者で異なっている。小樽市のHPの樽は前者と
同じで、後者の字も結構使われている。どうなんだろ >>616
162号機の前面も文字の間隔が詰まってるナンバーとやけに空いてるナンバー(こっちが末期)だったかなそういえば >>609
私がそうです。昭和45年8月に行きました。当時とはなにもかも変わっていると思いますがつい懐かしくなりました 近年、完全無人化されたと思ったら
こんどは水害・・ >>614 続く
C59への熱い想い、止み難く、68歳になった現在もインターネットに流通するこのサラブレット駿馬の写真を捜しています。
そこへ上がってきたのが、ピンタレストという写真集めの外国のホームページです。ここにC59,C61,C62
の写真を僅かながら集めてアップしていますので、皆さん是非とも、ご覧ください。
写真保存ホームページ ピンタレスト .pinterest
https://www.pinterest.jp/
上気に飛んでログインして下さい。ログインはGOOGLEのアカウントとパスワードがあれば
数分で終わります。初めての人もメルアドや電話番号、名前を入力すれば10分程度で終わるとおもいます。
しかし、ここはあまりに多くの写真を集める為、著作権の問題で訴えられて裁判問題にいたる危険性が
あります。訴えられるわけです。その場合は、このピンタレストの会社は一切責任をもちませんので数百万円
からそれ以上の損害金を
個人で負える人のみが利用してください。あくまでも、利用者個人の各局さんの責任において判断してください。
わたしは一切の責任を持ちません。
ログインが出来た人は 最初のページの検索欄の一番上の欄に、小文字で goto kenji とうちこ私のページに飛んで
下さい。
わたしの名前はごとうけんじ ですから ゴーツー ケンジ で登録して写真を保管しています。
私は61項目にわけて保存していますが、そのなかの以下をご覧ください。約1000枚の白黒写真が有ります。
↓
国鉄(昭和45年頃まで) 時代と歩んだ国鉄列車 1 終戦と鉄道の復興
26,776 回視聴
https://www.youtube.com/watch?v=bA8QTwgoD4c
寝台特急あさかぜ、博多発東京行16時35分分発が、短い時間ですが、
開始後、12分16秒から写っています。
12分16秒分
↓
時代と歩んだ国鉄列車 2 進展する近代化
21,374 回視聴
https://www.youtube.com/watch?v=qV_B9k2fbl8
時代と歩んだ国鉄列車 3 無煙化計画と電車時代の到来
69,149 回視聴
https://www.youtube.com/watch?v=9NQrTKQs4WU
時代と歩んだ国鉄列車 4 特急網の全国拡大と貨物輸送の増強
23,250 回視聴
https://www.youtube.com/watch?v=Kd24bE8u3Sw
以後、5,6,10編まであります。 ↑
爺さんよ、この昭和31年11月19日というは、東海道本線電化完成後の新ダイヤスタートの
記念すべき日だったんだな。この日に東京駅を出発する、EF58が引く「つばめ」が写っている
じゃないか。それも運転手はかっこういい国鉄を代表するようなイケメンの運転助手?をえらんどるわ。さすがに
いまとちがい国立のJNAはんだ。しっかり
宣伝しちょるわ、つばめガールの方も美人を待機させとるしな・・・・しかし、同じこの日の夕刻に出たはずの
「あさかぜ」の処女列車は、写っとりゃせん。 東京発の、寝台特急「あさかぜ」号の処女列車は、写っとりゃせんど(怒・怒・怒)!! 国立のJNA →→ さすがに国立のJNRだ。素晴らしい。スケールが大きい。 貴重映像】カラーで見る1946年(昭和21年)の鉄道交通、国鉄など (パブリックドメイン)
10,817 回視聴
https://www.youtube.com/watch?v=VKexzWKmpLI >>624
JNRとは日本国有鉄道のことだよJapanese National Railways 国立ではない!!
さすがにゆとり世代だな君は!! ↑
国有どころか、国立つまり、国で基幹交通である鉄道を立てないと、新幹線技術などが中国などに持っていかれてしまう。
それで十河さんが居た時の様な国鉄、技術の防衛にも強い国鉄、国でしっかり立てる意味で国で立てろ、技術を盗られるな
国立に戻せと、叫んだのですが・・・・
まあ正確には、貴方のおっしゃるその通りで、そこは正確に国有というべきだったのですが。
最近の話ですが、私は福岡県人ですが、母の墓参りで、天ケ瀬温泉まで行った際に、小倉と日田間を走る、日田英彦山線が
大雨で線路を流されており、JR九州が分割民営化された結果、線路の修復が2年を経過しても成されずに、その区間は代行バスが
2時間もかけて走るという酷い状況になっていました。それでその2時間余計にかかる時間に、団塊世代ですが体がたえられず、遠回りして小倉から
博多まで新幹線、博多から天ケ瀬まで「湯布院の森」号で遠回りしていくという結果となりました。分割民営化した結果、デメリットとして
赤字路線を運営せず情け容赦なく切り捨て、その分を他の商売に力を注いで、ホテル経営、駅ビル経営でもって黒字化している現状なんです。
おまけに、このJR九州は、本州のJR西日本や東日本に比べて規模が圧倒的に小さく、約50分の1 くらいの規模しかありません。
しtがって日田英彦山線のような今後もずっと赤字の決まったローカル
路線は修復しようにも、その余剰資金が無い。いや資金はあるが、ここに投入すると株主がうるさいという、中小企業に成り果てた
んです。九州の国鉄は・・・・ >>626
それで、天ケ瀬の駅に、ぽつんと一人で座って切符売り他をすべて一人で切り盛りしている駅長さんと
切符を買う時に、窓越しに
話す機会があったので 「駅長さん、まだ線路が修理されませんが、分割されずに、国鉄のままだったら
あっという間に修理して再開されていたでしょうね、この日田英彦山線も、なにせ天下の国鉄ですから」
「その通りですよ、線路の修復など、国鉄のままだったら、あっという間ですよ」と駅長さんも、おっしゃって
いました。
そういうわけで、十河信二や次の、石田礼助総裁の居た国鉄なら、中国に技術を漏洩させた、川崎重工などへの
睨みも効いていたのではと、この国立の国鉄、国有の国鉄を想う、近況なんです。なんたって、あの「あさかぜ」号
を走らせていた国鉄ですから、まさか日田英彦山線が補修されず放り出されたままとは夢にも思わず、です。 >>628
博多発のあさかぜ処女列車は写真も動画も記録が残り、同じ日の東京発の処女列車の写真も動画も極端に少ない
理由は、その後の調査で以下であろうと推測できます。
あさかぜは、ある程度の成功はすると予測されたが、「大成功して、いつも満車の大人気となる」という、この「大」の字の付く予測は無かった。
京阪神を夜間に通過するという、悪評のあった変則的走行の実験でもあった。あさかぜ号はひとつの実験だった。当時は、この特急が10系軽量客車から
20系のブルーに統一された名門列車になろうなどとというとは、夢にも思わない状況だったか。
それに比べて、同日の処女列車となった「つばめ」号は、すでに古くから高評価のある、名門特急であった。そのためEF58
全面の特急マークも特大の翼マークが両ウイングについた特製となり、出発式も大がかりマスコミ総動員な演出の大セレモニーとなり
しかも写真写りの良い昼間の明るい中での出発となった。それにくらべて同じEF58が引く「あさかぜ」号は夜の
19時10分発と薄暗い東京駅ホームからの出発。特急マークに、ツバメの様な両ウイングを有していたかも不明。 あさかぜの東京駅発の処女列車の写真どころか、九州の小倉を走る写真さえ、あまり見た覚えが無い。
C591が特急「さちかぜ」を引く写真は多数あるが、肝心のC591が「あさかぜ」を引く写真が、やはり無い・・・・ なろうなどとというとは →→ なろうなどとは(正)
↑
爺さん、焼酎の飲み過ぎの状態で焦って書き込むなよ。 >>621
さっそくですが、この「時代と歩んだ国鉄列車 」の1から10までが、YOUTUBEで見れなくなりました。まだ著作権が残るフイルムだった
ものと思われます。残念、大会社である国鉄が現存であれば、この様な良質の記録フイルムも常時、宣伝のため流し続けてくれたものと
思われますが、なにしろ今は大親分の国鉄様が不在ですので。
ソフトなアナウンスで、上品な語り口で解説する貴重なフイルムだったのですが。 それにくらべて同じEF58が引く処女列車「あさかぜ」号は夜の
19時10分発と薄暗い東京駅ホームからの出発。特急マークに、ツバメの様な両ウイングを有していたかも不明。 ←← 時刻は間違いです。
正しくは16時30分発
東京駅19時10分発となったのは、ずっとあとの1960年(昭和35年)7月20日からで
「はやぶさ」に20系が導入。これに伴い、「あさかぜ」も増結を行い14両編成化後。1956年の処女列車は
松本清張の大ベストセラーである「点と線」に有る通りで、東京駅13番ホームからの出発時刻は16時30分です。ここが狂うと
有名な、今は存在しない東京駅在来線13番線ホームから、犯人の安田やら、女中のお時らが
15番線に停車中のあさかぜ号、博多駅行きを、たった数分間だけ見通すことが不可能となり、「点と線」が全く売れませんです。(汗また汗) 正しくは18時30分発(正) ←← 最終確認、これが正しい。 くそつまらん、低能なTV放送は一日中、年から年中、嫌気がするほど放送されているが、何回も見たい国鉄の躍動期の
記録フイルムはすぐ消えるな。糞つまらん、日本国じゃのう・・・・ 点と線に登場の昭和30年代はじめの、あさかぜ号の列車の色について
ここでひとつ、私から問題を提起しますが、あさかぜ号の列車・車体色は葡萄色(焦げ茶色)が正しく、映画「点と線」の新旧2本が
それぞれ青大将色(グリーン色)と青色(20系客車の色)で出てきたのは完全な演出ミスであり間違いではなかったかという件
です。
ビートたけし出演の新作TV映画・朝鮮朝日放送のニセモノ「点と線」 →→ 完全な青色 (ブルトレよりも新しい客車)
南 廣 山形勲 高峰美枝子 1958年版 本物の 「点と線」 →→ EF58が引く青大将色 (識別困難だが茶色ではない)
>>632
>大会社である国鉄が現存であれば、この様な良質の記録フイルムも常時、宣伝のため流し続けてくれたものと
>思われますが
ねえよ ↑
だな。清張作品「点と線」のこの当時は、あさかぜ号はEF58も客車も、焦げ茶の葡萄色が正解だな。この時代、あさかぜは機関車・客車とも茶色で写真が残っている。
同じ時代の名門特急「つばめ」号は有名な
青大将色のEF58が、おなじく青大将色の客車、最後尾が展望車の豪華編成を牽引していたのだな。それを茶色とすべきを、新旧2本とも青色で出演させるという大ポカ
の失敗をやっている。旧作である名作の方の1958年版でさえ、東京駅でロケをする際に、あさかぜ号発車の18時30分まで待ちきれずに、午前中の
「つばめ」号の青色客車を移す事で代用させてしまったのだな。月光仮面の監督でもあった小林恒夫さん以下も早いとこ切り上げて午前中に
帰りたかったものと思われる。その大事なシーンは、あさかぜ号で撮影してない。その映画に出たのは「つばめ」号だ。 >>638
そんなバナナ、いや馬鹿な。国鉄って真面目な会社だったでしょうが。 もし国鉄が真面目だったら、しゃちょっさんが、十河さんみたいな人だから、過去を忘れるな、浮かれているとあっという間に
こそ泥に持っていかれるぞと、現在全くおこなわれていない、技術面の防諜に関する大事な教育を、TVのCMと
YOUTUBEなどで繰り返して流すと思われる。 >>639
旧作品の1958年版の「点と線」は、車体が緑に見えましたが、この東映フイルムは全体的に、緑に
偏光しており、さらに何度も確認し実車のあさかぜ号での撮影だろうという事になりました。つばめではなく
茶色車体のあさかぜ号だと思われます。
撮影場所 東京駅15番ホーム 17時49分にホーム着
18時30分発
なんと停車時間が、41分もあり、さすがに長躯、これから九州まで駆け抜けようという特急の
発車の堂々の進発体制です。監督以下スタッフが夕刻に参集して、あさかぜの茶色の列車
をバックにしての余裕を持った撮影だったのか。
または、当時、客車を管理していたという品川運転所のホームに、客車清掃時などで引き込み
品川が撮影場所であったか。いずれにせよ、背景は実車のあさかぜ号であるのは間違いのないところです。
(修正)
旧作品 東映版「点と線」 列車「あさかぜ」号 茶色車体 で撮影 偉い、真面目だ!!
新作品 TV映画版「点と線」 20系のさらに後の、青色に白いライン入り普通列車用のオンボロ車体 を無理やり20系という事にして撮影 青色に白いライン入りの普通列車用の、丸丸としたなんの珍しさもない、見たくもないオンボロ車体 新作のその丸丸とした列車は、113系の電車を使っていますね。青色に見えますが、オレンジ色と緑の2トーンの車体を、その部分のみデジタル処理により
目が覚めるような青色にしております。新技術による見事な演出ですね。列車ではなくて電車です電車。
↓
出演者 ビートたけし(鳥飼重太郎)、柳葉敏郎(安田辰郎)、高橋克典(三原紀一)、原沙知絵(お時)ほか
放送日 2007年11月24日(土)、25日(日)
撮影日 2007年8月1日(水)〜3日(金)、9月10日(月)〜12日(水)
撮影場所 宮原総合運転所、交通科学博物館、SLやまぐち号 ほか
https://www.westjr.co.jp/company/business/location/tour/2007/report07.html ↑
青色の113系を持ってきたのでないか。青色の113系というのが有ってだな、それを持ってきたと・・・
それだとデジタル処理などの面倒な作業無しでOKだが 昭和47年夏に鉄道開業100周年記念として
広島駅旧宇品線用線路上にC621号機が展示されたので
見学しに行き写真も撮った
「かもめ」のヘッドマークを付けて展示されていた
他にD51278やC58299等の蒸気機関車も展示され
線路上に降りて近づいて見れ運転台の中にも入れた
まだカラーフィルムが高価な頃で運転台の中まで写真は
撮らなかったのは残念
このころの広島駅は多種多様の特急・急行電車
DC・客車列車が入れ替わり立ち替わり入線し
活気があった 再放送を見た。一つ気になったのは鳥飼刑事が支那戦線で負傷し、「グラマンの機関銃」の弾丸が4個今でも体の中にあるという設定。これには笑っちゃった。
支那戦線ということは鳥飼は陸軍の歩兵だ。闘う相手は支那兵。支那兵がグラマンの機関銃を持っているはずがない。チェコ製だろう。
ちなみにグラマンはアメリカの航空機メーカー。わかるだろう。陸軍の歩兵が支那でグラマン戦闘機と戦って被弾し、生き延びたなんてほとんど喜劇だろう。
| nebokeneko | 2012/02/13 3:54 PM |
nebokenekoさま
戦史に詳しいんですね。確かにヘンな話です。原作では戦争の影は一切ありません。脚本の竹山洋はベテランなのに、残念ですね。よい作品の割には細部の詰めが甘かった。
イケてる、モノ・コト
http://monokoto.jugem.jp/?eid=945 >>649
待望のC59の門司機関区の文書コピー他を入手。それによると、昭和31年に、C59とD52がペアを組み、試験的に九州へ入線。
記念すべきC59の最初の号機は、C5932です。これが440トンの荷物を引くなどして、鹿児島本線で試験走行。
博多門司間では、C59はC57より16分短縮するデーターをたたき出したとのことです。
昭和31年、10月17日 上記のC5982に続き、以下の機が姫路第二機関区より転属。
C5973、 C59124、 C597、 C5937、 C5924, そして有名なC591,も姫路第二機関区より転属されてきました。
このため、門司機関区のC57が余り、米子機関区へ転出しています。
最終的には本州の電化完成により、九州へ転属となったC59は、29両になるようです。(昭和31年から36年まで) >>649
記念すべきC59の最初の号機は、C5932 →→ C5982 (正)
以下、その29両 →→ 28両(正) の号機
昭和31年に転属されてきたC59の機番
82 73 124 74 7 37 24 5 14 15 31 44 45 57 13 30 ←有名な、あさかぜ号、博多発の処女列車を引く
36 25 1 ← これも有名な1号機、あさかぜ号、門司発の処女列車を引いたか、まだ不明。写真無しのため当選確実の一報が打てず・・・・
昭和32年 〃 〃
20 26 68
昭和33年
109 71
昭和35年
105 29 108
昭和36年
174 以上、総計28両 になります。
最終的には本州の電化完成などにより、九州へ入線となったC59は、29両になるようです(誤)
↑
ここは、門司機関区(正) 最終的に、本州の電化完成などにより、門司機関区へ入線となったC59は、総計で28両になるようです(正) 28両です。28両
>>633 修正のお時間
女中のお時らが →→ 女中の八重子やとみ子らが(正)
お時は、小説の冒頭、博多の香椎浜で佐山憲一と共に殺される、ちょいと見の良い
まあまあの容貌の女性。八重子、とみ子といっしょに、赤坂の料理屋「小雪」で働いていた。 上記のピンタレスト(日本の国鉄その他)をやり過ぎて目と視神経をやられて、しばらく休止期間をおいて静養していました。
それでようやく、元気が戻りました。
あまりに急に写真を集め過ぎて、完全にオーバーヒートして、2週間前頃から片方の目に痛みがはしり、
同時に脳の奥の視神経の方からも、頭痛に似た鈍い痛みがありインターネットに書き込む事もままならず
安全のため休止していました。ネットにつなぐ時間も最小限とし、書物の読み込みも止めた結果ようやく
元に戻りました。
教訓 ピンタレストのやり過ぎは眼球とその奥の視神経を痛める
ここ3か月間で、約51,000枚の写真を集めた。この5万枚すなわち5万ピンの写真を集めるためにその
2,3倍の15万枚ほどの写真を参考として見て、極めて短時間の瞬時の選別作業をしたことになる。例えばマッチのレッテルであれば、私は
日本の大正時代から昭和の戦後初期までに限って集めていたので、たとえば外国のの人のページから、素早く、日本の
ものだけを選別しなければならない。その作業には目の他、脳も使って考えていたのか、この最も大事なパーツである脳みその疲労も重なったのか
ある日突然、限界に達し、いっきに体に来ました。無理もない、昼夜暇なく卓上ではノートパソコン、寝床に入っても10インチタブレットで深夜3時、4時まで写真を確認し
なければ3,4か月で15万ピンもの写真を守備範囲とすることは出来ない。みなさんのごとき健全な市民におかれては、このような過激な作業は
行ってはならない。それを私は強く忠告するものであります。 目が痛いだの、あそこが立たないだの ああたは
あんた一体全体、いつになったら、肝心の演劇のだし物の、
「運命の大牟田、決闘、三池争議! 三池炭鉱炭鉱夫 VS 朝鮮国際ヤクザ・ソフトバンク禿 修羅の巷に、人情の九州人が立つ!!」 を始めるのですか。
あなたは、たしかザーザーザー闇の声さんですよね・・・
あなたは確か、ザーザーザー闇の声さん、 そうですよね ↑ ↑
もうしばらくお待ちください。 始める気持ちはやまやまですが、あのう
ここのところの、写真集めのピンタレストの写真の枚数ガ、70,000万枚近くに
なりましてですな、その選別作業でですな、その3倍近くの約21万枚の写真を見続けたため、こんどは
肩、特に利き腕の右肩のほうに来ましてですな。わたしも決してただ、のんべんだらりと遊んでいるわけではないんです。
要するるにですな、体がぶっ壊れてですな 以下のピンタレスト検索窓に GOTO KENJI と入力してください
ピンタレストホームページ
https://www.pinterest.jp/
ここを途中で放り出すわけにはいかず、コツコツと毎日少しずつ追加、修正、整理しております。皆さんは項目別で
「国鉄 昭和45年ころまで」をご覧ください。その中にさらに別フォルダーを設けてC59,C60,C61,C62、D52を
まとめて164枚入れていますので、是非ご覧ください。なお、なお顔を見たくもないD51やC57その他ののクズ鉄どもは、情け容赦なく
叩き出しており、機関車の仲間にはいれておりません。 >>661 続く
(私のページへの飛び方の説明)
ピンタレスト検索窓に GOTO KENJI と入力したら、エンターを押す前に、自動で
ユーザー名が3人表示されますから、そのまん中の灰色のGの丸マークがある GOTO KENJIをクリックして
飛んで下さい。顔写真なしの GOTO KENJI です。 1954年
この狭い街に映画館、16館が存在した若松の、老松町のあちこちに東宝の「水爆怪獣ゴジラ」の映画ポスターが貼られ、列車を咥えて立つ恐ろしい
姿がレビューする。この時期、3,4歳の私は、映画館銀座の真ん中で、数十本の映画を観るという、望外の幸運に恵まれた。父は大酒を飲んで、
大声をあげて、軍隊帰りの強靭な体力でもって、若松市内狭し、と走り回っていた。しかし父の弟は、愛情があり、父と正反対の人物だった。私は
出来れば、この人の子として生まれたかった。今年、平成29年に90歳で亡くなったこの弟は。全く酒を飲まず温厚で大の映画好きだった。当時、
23,4歳の優しい弟が父となって、私を自転車の前サドルの幼児専用席に載せて、映画館を回り、私をシートに座らせてくれる。見上げるスクリーン
に、宇宙戦争、地下水道、謎の水爆怪獣X15号、西部劇、時代劇、火星探検、ニュースが映る。目が回るような幸運だった。しかし、その中には怖い映画
があった。洋画の「地下水道」という、ポーランドの抵抗運動らしい映画は、暗い水道の中を逃げ回り、最後は必ず鉄格子のはまった場所で行き止まりと
なり、光や希望葉向こうにあるという肝も凍る、幼児にとっては、酷な内容だった。これは何故か、母との強制的な別れを想像させて、以後しばらく、母に
しがみつき、離れないようにしていた。 ↑
誤爆した御免、地元の北九州市の板に書き込むつもりでした 鹿児島本線の海側ではなく、山川にあったその家からは、右向きの上り列車が、4,5本存在した線路の一番向こうに見え、
貨物列車が、どんがらどんどんと、石炭を待ち受ける本州方面に送り込む、そして一番見やすい線路が目の前にある。下り博多方面行きの、その
かぶりつきの位置から右を見ると、遠くから、精悍重厚な黒い見慣れない機関車が、丸いヘッドマークを輝かせて、おう、なんてこった、列車の右面から
大量の赤白黄色の紙テープらしきものをひきずり、風に激しく揺らしながら突っ込んでくる。その機関車は、私が線路にほぼ張り付きの7mくらい離れた位置に
いるので、真一文字に突っ込んでくる。その黒いピカピカに磨きこまれた、見慣れない機関車が線路に直角に、右に左に、僅かだが激しくスイングしているのが判る。
昭和31年、11月20日の午前11時ごろ、私は家の板塀の内側にあった空き箱に乗り、背の低い私のここが所定の観察場所
であったが、夜間寝台蒸気特急「あさかぜ」の処女列車に遭遇した・・・・派手な見送りの祝賀テープは、関門を抜けた後の門司駅からの、お祝いの
贈りものと思われる・・・・・・その「あさかぜ」は昭和31年11月19日の東京・大阪間の電化完成の良き日の、当日の夕刻18時30、東京を立ち
途中、牽引機をEF58,おそらくC62,そして関門トンネルを、おそらく、ステンレス製EF15(汗)そして、新鋭C59に、めまぐるしくバトンタッチして
20日の昼前に、右方向から、私に突っ込んできたのだった・・・ 門司鉄博物館に、C591が保存されていますが、開始後の23分から26分まで、特別に許可されて
乗り込んで撮影しています。C591の貴重な運転席内のシーン有り。
30)【第20日】特別警報が出た! 門司・小倉で安全な観光《夏休み日本一周の旅 小倉駅〜門司港駅》8/28-101│Moji Port Station and Railway Museum
154,642 回視聴?2019/09/02に公開済み
https://www.youtube.com/watch?v=batAL2DEEpw オランダの古強者の凄さはこのスレの533番の書き込みで確認を・・・蒸気機関車を見ると
その国が、勝てる国か、負ける国かがはっきりわかります。日本で人気のD51、デコイチ
などもゴミです、ゴミ。
C62・C59を語るスレ [無断転載禁止](c)2ch.net
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/jnr/1481513381/ それとアメリカとロシアの蒸気機関車も少しゴミですな
ベトナムと日露で >>668
ここ5世紀で3勝1敗
実は日本の蒸気機関車って結構優秀なんじゃね? >>671
アメリカ製蒸気は世界で1,2位を争う優秀機ぞろいですよ。シャーマン戦車を見て下さい。立派な鋳物で
一体成型していますが蒸気の台車が他の国、欧州では出来ない鋳物で仕上がっています。
ベアリングもアメリカ製は優秀。
ピンタレスト に写真を集めました。以下のホームページに、800枚集めました。ログインの申請を済ませたら
さいじょうだんの検索窓に goto kenji と入力。 ごとうけんじ さんが3人表示されますから私はその真ん中
灰色の顔写真表示なしの kennji goto をクリック、60項目並んだ中から下記の項目をご覧ください。
https://www.pinterest.jp/
米国の古い大型蒸気機関車・列車 US VINTAGE BIG STEAM LOCOMOTIVE >>672
満鉄もクズ、あの大きさでは120kmではなく160kmは出たはず、C59もC62も少しだけクズ
だと思います。 まあ、吸収式の車内冷房が全車に導入というのは少しは評価しなければ
ならないと思いますが満鉄。
上記の60項目の中に、日本の国鉄というのが有ります、C59,60、61、62の名機の写真も集めました。 新鋭機関車C621完成 山口県・国鉄幡生工場 開始後26分10秒より
ニュース映画にみる終戦直後の鉄道事情
88,297 回視聴?2017/06/18
https://www.youtube.com/watch?v=OpyDVbfdf_I
1961年の東京 - 車載カメラ [60fps HD] Driving Tokyo in 1961 (Dashcam) from Getty Images | 1960年代の日本/60's Japan
733,310 回視聴?2020/05/13
https://www.youtube.com/watch?v=M9Da8Wyvb7o&list=PLJL88_M7FDgCb3GwMTIJ9DZJ-Zlcxm6E0
1966年の東京 [60fps HD] Tokyo in 1966, from Kinolibrary | 1960年代後半の日本 / Japan in the 1960's
10,650 回視聴?2020/06/06
https://www.youtube.com/watch?v=VmXPwCJ9lag&list=PLJL88_M7FDgCb3GwMTIJ9DZJ-Zlcxm6E0&index=5 【デビュ−おめでとう】東海道新幹線N700S系 一番列車のぞみ1号&二番列車のぞみ3号
318,279 回視聴?2020/07/01
https://www.youtube.com/watch?v=qFc23m2RyC8
N700S 一番列車に乗車!のぞみ1号 小倉から博多 2020年7月1日 東海道・山陽新幹線 新型車両
24,422 回視聴?2020/07/01
https://www.youtube.com/watch?v=dD6i9ImZGgQ 極上ライフ おとなの秘密基地 鉄道模型(4)The Greatest Life.A Secret Base of Ladies and Gentlemen.Model Railroad Part4.
https://www.youtube.com/watch?v=7UZIfoUg0zw 南滿洲鐵道 特急亞細亞號( あじあ号)特快列車之旅 日本紀?片
236,332 回視聴?2019/03/28
https://www.youtube.com/watch?v=iUcjZ9OC1sA 特急つばめ号EF58時代。"Tsubame" Ltd. Exp. driven by EF58.
142,094 回視聴?2012/02/01
https://www.youtube.com/watch?v=ETGWpJyfDQI つばめを動かす人たち 昭和29年制作 (鮮明映像版)
8,867 回視聴?2018/12/29
https://www.youtube.com/watch?v=-rzDC0MatN0&list=PLSU_KhSC4YR8gkamLToqpynzG_yN2557E&index=7 ヤクルトスワローズの前身が国鉄スワローズで
それは当時の看板列車つばめ号に因んだものなのです https://www.youtube.com/watch?v=cMdl25iac3w
東海道本線を最高時速で駆け抜けるC62
↑
コレ、コメント欄で「フィルムが劣化して微早回しになってるだけ。だから実際はもっと遅い」
みたいな感じのコメントあるけど、映写速度=目視速度とほぼ同一だと思う。
これは海外蒸機の高速走行シーンだけど、上記フィルム映像とほぼ同じ速さで動いてる。
https://www.youtube.com/watch?v=4xa6Cr39LZU >>692
梅小路蒸気機関車館が開館した時はSL列車をよく走らせていたしこのC62も写しに行ったよ。でも昭和51年の死亡事故で以後はなくなった。あれはマスコミの過剰報道も一因だと思うが。来年は鉄道開通150年何かやってほしい >>695
C62速いですね。C59もあんなに速くシャカリキで走っていたのでしょうか。私の眼に焼きついたのは
あさかぜが、小倉駅を通過する前の、かなり速度を落とした走りでしたが。 国鉄時代の付録に付いてたDVDにC62が特急を牽引している映像が多く収録されている。走りを見て流石C62だと思った。煙もほとんどなくボイラーも好調で機関助手の腕もいい。C59やC57とはやはり違う 【蒸気機関車】SL列車 表定速度ランキングTOP10【最速は?】
180,155 回視聴
2020/05/25
https://www.youtube.com/watch?v=rmhjfN2AqoY おジイさんの90歳くらいの機関車では評定速度36,5km/h
が最速でつか 正月そうそう悪いものを見てしまったな いよいよ遠くなってしまった。 >>701
C59とはまったく何の関係も有りませんが、良かったらいま此処に
居りますからぜひ是非、訪れてください。懐かしい時代背景だけはどんぴしゃ
でマッチすると思われ・・・
「力道山とテレビジョン受像機と正力松太郎」
以下の直近の書き込みをご参照のこと
電話級・電信級の思い出 Part12
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/radio/1611142221/ EF58とC59とC62が全速で駆け抜けちょります。
張込み
5,263 回視聴?2020/12/10
https://www.youtube.com/watch?v=p6T4y88k14I ドラマ「点と線」の間違っている点を鉄ヲタが指摘するとこうなる【ビートたけし】
1,137 回視聴?2021/01/30
https://www.youtube.com/watch?v=mH66sDQKhWQ 猫パンチは疾走する電車さえ倒すのか、あの力道山や木村政彦さえ凌ぐのか
電車もてあそぶ巨大ネコ 衝撃的姿に6万「いいね」(2021年3月15日)
1,318,243 回視聴?2021/03/15
https://www.youtube.com/watch?v=Yre2mlRuh9A
SNSで人気 駅舎をまたぐ「巨大」猫たち…大阪
9,447 回視聴?2021/02/25
https://www.youtube.com/watch?v=FfMhUNS0acc 現在、門司の鉄道記念館で保存中のC591は全盛期に京都の「東駐泊所」ひがしちゅうはくしょ、
に泊っていたとのことです。3枚目の写真を参照のこと。
DRFC-OB青信号
同志社大学鉄道同好会OB会(DRFCクローバー会)ホームページ
羽村さんが遺したアルバムから 〈11〉
投稿日時: 2018年12月19日 投稿者: 総本家青信号特派員
https://drfc-ob.com/wp/archives/102745 C62 VS はつかりディーゼル機関では低速域では互角の勝負をしたとのことです。3DCGが進歩を遂げて、
このはつかりは、一瞬、おおーペンキ塗り替えで新造車並みになるのかと勘違いしましたが、これ、良くできた
CGです。
ディーゼル特急「はつかり」
124,926 回視聴?2021/04/13
https://www.youtube.com/watch?v=runVHIw27wo 萩原政男 鉄道 8mmフィルム・ライブラリー Part I (2) HD
30,351 回視聴?2012/11/03
https://www.youtube.com/watch?v=gC3Fg2ZGLqk&t=241s 【豪華すぎる】戦前仕様のグリーン車 SLやまぐち客車の旅
189,546 回視聴?2021/05/23に公開済み
https://www.youtube.com/watch?v=BV3T05cEoV0 これを見ると、C622以外もつばめマークが付いてたんだな。
https://youtu.be/MsjBf05Nc3Y 東京駅(1956年(昭和31年)5月3日)
54,734 回視聴2021/06/27
nnishi1968
チャンネル登録者数 877人
昭和31年頃の東京駅を取材した短編映画です。
当時の車両や駅構内の様子が判る映像です。
https://www.youtube.com/watch?v=EG26Injuk1w Union Pacific Big Boy 4014
199 回視聴・2021/08/17
https://www.youtube.com/watch?v=0pMJHkZMgoM
Union Pacific Big Boy 4014 Midlothian Texas
324 回視聴2021/08/18
https://www.youtube.com/watch?v=naAiJdaaE4U SLスチーム号 C622号機真夏の構内試運転 2021.07.30
12,950 回視聴2021/08/06
https://www.youtube.com/watch?v=CpEZThow6TA&t=580s 広島市に新しいサッカー場が出来るとの事だが場所をみるとC59161が保存されている所か、違うかもしれないがもしそうなら機関車はどうなる?解体だけは避けて欲しい 12系SLスチーム号 12系イベント最終日は大サプライズ!令和に蘇った急行ニセコ
1,155 回視聴2021/10/17
https://www.youtube.com/watch?v=OAP5EPDbqMc&t=36s
Kitabiwako Umekouji
チャンネル登録者数 3290人 蒸機C62はCGによる再現は無理があるのでしょうか。残念ながらEF58がーーーー
特急つばめ
6,937 回視聴2021/10/21
https://www.youtube.com/watch?v=9Ep7oJmjgnU&t=2s
TurbinePowered07
チャンネル登録者数 5280人
190424昭和25年特急つばめ号から昭和39年夢の超特急新幹線
4,808 回視聴2019/04/24
https://www.youtube.com/watch?v=aMB7B9PqZAA 蒸機特急あさかぜも、こんな風に酷い横揺れをしていたと思われます。現代の新幹線に
比べると、激しい横Gにより振り回されているが乗車した紳士諸兄が、それをものともせず
余裕綽々の笑顔でもって強靭な体力をみせつける。ここに高度成長期、黄金時代の鋼鉄の
ごとき産業戦士たちの姿がーー
特急こだま 車内風景 1950年代〜60年代
3,708 回視聴2021/06/07
https://www.youtube.com/watch?v=hThRHZFTQCQ SLスチーム号 一体なぜ?C622号機に尾灯装着この日限りの特別装飾! 2021.10.10
1,691 回視聴2021/10/22
https://www.youtube.com/watch?v=2hXtZjtsaoA
Kitabiwako Umekouji
チャンネル登録者数 3310人 迷列車で行こう 単発017「超特急『燕』の凄すぎる伝説」ゆっくり解説
79,052 回視聴2021/07/08
https://www.youtube.com/watch?v=P6Me8EFKDmQ かなり上のほうになってしまったけど、
C59ナンバープレートの書体の相違についての話題を出した者です。
その後、わかりました。鉄道省ナンバープレートの規定で、
交換前のほう→AD66180
交換後のほう→AD66398
のようです。要するに簡単に表現すると、
形式ナシになってからの初代が66180のほう(文字間隔が形式入り時代のまま)で、
そのさらに次のタイプが66398のようです。
勉強になりました。 C 59161 ←AD66180、全体サイズも少し大きい
C 5 9 1 6 1 ←AD66398、天地寸がタイトなので若干横長に見える
書体が美しく全体のたたずまいが綺麗なのは、やはり66180のほうだと
個人的には好みです。 ↑
半角スペースが書き込みに反映していないみたいで、見た目が逆転状態になってます
すみません。 >>724-726
要は天地が少々大きく、形式と番号の間に空白?が無いのがAD66180
天地が小さく、形式と番号の間に空白が入るのがAD66398
ということでしょうか?
AD66180 はC59161や164の戦後型、C57の3次型の多く、C58の戦後型の多く(C58427など)
なのでしょうか
なお、RP蒸気機関車特集集成下巻にD51のナンバープレートの写真が並んでおり、
AD66398と思われる物でも、Dの書体が2種類あるのが確認できます
地域性(担当工場)面でも相違があったんですかねえ?
いろいろすみません >>727様
前段も後段もそのとおりだと思います。
文章で補足ありがとうございます。
後段は、やはり工場で文字差はあったようです。
昔は万事おおらかな時代ですし 最後の重パシフィック栄光のC59の試行錯誤 The last heavy Pacific Steam Locomotive JNR Type C59
13,354 回視聴2022/01/01
https://www.youtube.com/watch?v=8yeTRhOTMR0&t=5s
C62に使われた軸受の歴史と背景 日、瑞、米、独の戦い Japan Steam Type C62, the history of train Roller Bearings
7,392 回視聴2021/10/16
https://www.youtube.com/watch?v=L8l9Q27dlvI
C62-2号機、青函連絡船の桟橋での慟哭~JNR fastest locomotive type C62, Swallow Angel cried at the Ferry pier.
14,149 回視聴2022/07/09
https://www.youtube.com/watch?v=_lqo4xnc2kw&t=89s
東京駅にC62? 常磐線の特急・急行用蒸気機関車~JNR C62 for Tokyo Terminal!? Jouban Line Limited Express Steam Locomotives
34,911 回視聴2022/05/29
https://www.youtube.com/watch?v=fB_li7t8LAs&t=540s 昭和45年ころ、私はまだ5歳で、親に小学館の「交通の図鑑」を買ってもらった。
その中に、機関車の仕組み(断面図)を描いたページがあった。
そこに描かれていたのが、C62とEF58であった。
なので私の中では、機関車といったらこの2形式、というのが刷り込まれ、染みつき、
今に至る。 999の映画に登場したC6248は実在した。好調機で常磐線では特急ゆうづるを担当し、電化後は呉線で急行安芸を牽いた。昭和44年に検査切れで廃車。保存されていたら999の映画公開時に脚光をあびただろう 変態しても短命だった!ハドソンC60~Transformed heavy pacific: JNR type C60
https://www.youtube.com/watch?v=xkg6jEMDcfA ハンマーブロー対策は堅固なバラスト線路&軌道路盤にするしかなく、豆腐と言われている日本では無理な話
C52のグレズリー式連動弁装置を忠実にコピーしておけば、幹線高速旅客機で採用され続けた
ボイラーも戦争中の劣悪炭使用を前提とするまで、燃焼室の設置を渋った >>738
たぶんないと思われる
理由は「軍機保護法(正確には昭和14年の施行規則改正)」により、鉄道を撮影していたら警官や憲兵に連行されるようになったあと、C59が作られたため
なお、運輸通信省(昭和18年11月〜20年5月)時代に、財団法人社会教育協会(同省検閲済)が製作した「日本乃動脈」の中にC59が写っているけど、たぶん昭和16年12月前のもの >>739
その他の当時の国策映画には登場してないの? 日本ニュース第123号 昭和17年10月14日公開にC59が入っている
内閣情報部(のち内閣情報局)の「写真週報」に入っているかもしれないけど、それをおいらが検索するには能力不足 敗戦後に連合軍に提出した形式写真集めた写真帳みたいなのに載ってない? c51 とc59が東海道・山陽本線で一緒に走った時期ってあったんですかね… 松本零士さんが小倉時代にC59を目撃しながら、銀河鉄道999では何故かC62を
描いてしまった原因をわたしなりに考えてみました。
以下に、(いつもの人)で
C62・C59を語るスレ [無断転載禁止](c)2ch.net
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/jnr/1481513381/ 更に調べたところ、松本さんは残念ながら小倉でC59を見ておりません。18歳で上京して
いますので1938年生まれですから、1956年には北九州の小倉を出たことになり、11月の
ダイア改正で走り出したC59には全く、遭遇せずの悲劇か。そのため上京後に関東近辺
を走っていたC59を見ても何の感動も感激もない。よって松本さんの心を占める花形蒸気機関車
とはC62となり、銀河鉄道999にも当然、ごく普通のC62が登場する。こういった状況でしょうか。 また、松本さんは蒸機マニアではなく、正確には飛行機・兵器マニアです。わたしたちの様な蒸機マニアなら
写真を見ずにさらさらと脳内メモリーから簡略スケッチ画が描けますが、なんと松本さん
は銀河鉄道の最初のころのC62は、C11か12の小型機関車の足回りの所を省いた様なポンチ絵の
機関車を旅客ハドソンパシフィックとして登場させてるシーンが有り、松本さんの心にある蒸機とは、メカニズム
の象徴としての、グリコのおまけのC62です。つまり飛行機・兵器プラスその他メカニズムおまけのC62. 修正版(汗)
(松本零士さんにとっての蒸気機関車とは)
更に調べたところ、松本さんは残念ながら小倉でC59を見ておりません。18歳で上京して
おられますので1938年生まれですから、1956年には北九州の小倉を出たことになり、この年11月の
東海道線電化ダイア改正で走り出したC59には全く、遭遇せずの悲劇か。そのため上京後に関東近辺
を走りまわっていたはずのC59を見ても何の感動も感激もない。よって松本さんの心を占める花形蒸気機関車
とはC62となり、銀河鉄道999にも当然、ごく普通にC62が登場する。こういった状況でしょうか。
また、松本さんは蒸機マニアではなく、正確には飛行機・兵器マニアです。蒸機マニアなら
写真を見ずにさらさらと脳内メモリーから簡略スケッチ画が描けますが、なんと松本さん
の銀河鉄道の最初のころのC62は、C11か12の小型機関車の足回りの所を省いた様なポンチ絵のような
機関車を旅客ハドソンパシフィックとして登場させているシーンが有り、松本さんの心にある蒸機とは、メカニズム
の象徴としての、グリコのおまけのC62です。つまり飛行機・兵器プラスその他メカニズムおまけとしてのC62。 それでも美しかった松本さんの描く陸軍の飛行機、飛燕 や92式重機やメッサーやフォッケウルフ。 c59の前照灯にlp405(シールドビーム)をつけたものっていたんでしょうか? >>756
C5996が一時期は前照灯本灯がLP405だったとプレスアイゼンバーンのC59に記載がある
真偽のほどは不明、正確な時期や理由も不明だが晩年の入場時に不調で交換するはずのLP403が欠品してたんじゃないだろうか 757さんありがとうございます!もう一つ、蒸気末期の山陽本線の列車本数についてご存知の方いらっしゃらないでしょうか? >>753 >>755
銀河鉄道999のポスターの絵を見て思ったのだが、C62の牽く客車が
茶色いスハフ43?にしか見えないので、あれは多分模型屋でテキトーに
C62(NゲージならKATO、HOならカツミ)と、たまたま売ってた客車
(NゲージならGM、HOなら中村精密のプラキット)を買ってきて
まんまコピーしたのではないかと推測。ハズレてたらゴメン。 アニメとか興味ないんだけど、大塚康生さんがまだ学生の時に描いた蒸機
の側面の絵を雑誌で観た時うめーと思った 宇田賢吉氏、気になってググったら個人サイトが出て
お元気そうで良かった。
年齢が母と同い年とは初めて知った
失礼ながらもっと上かと思ってた
だって大型蒸機の第一線の機関士だったわけだし 2000年に60で定年か・・確かにもっと古い人かと思っていた
でも国鉄では若くして辞めた人も多いし羨ましい人生ですね
漏れも鉄道会社社員を永年勤続扱いで希望退職したが
特に本来と違う業務になってからは、でもシカ野郎で努力も研鑽も怠ったから
自分が悪いんだけど 花形蒸機の特急に乗車されていた機関士さんたちは皆さん短命だったと聞く。平均寿命60代だったか。労働とストレスは過酷、煤煙は吸い込み、下からガチンガチンのショックアブソーバー無しの数十トンの荷重の乗った鉄車輪に付き上げられては背骨を圧迫、、、 下関から走って来たあさかぜ号の花の機関士の青灰色の軍服の壮年は、とうじ六歳だった僕を独特の鋭い流し目で追いながら、おおっ、この僕ちゃんは、この間もこの辺りで、たしかに見たぞ、、、ははーん、よほど蒸気機関車が好きなのか 下関 → 門司駅(正)方向から
年末の忙しい中、どうか御安全にご活躍下さい ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています