旧型客車総合スレ2 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
オハフ33が215だったらな、白熱灯なのに。
とてもいい夜汽車の雰囲気。
今年のもビール列車につなぐかな? デッキの床に蒸気暖房?の四角い蓋があるけど、ありはなんの為に付いているの? >>479
地上ボイラーからの給気もしていたんだ。
温まるのに時間が掛かるし、ゴハチなんかボイラーの操作が面倒だったとか。 >>477
ここでボヤいても仕方ないけど、灯具の形状がオリジナルじゃないから違和感ある
今の時代は3Dプリンタがあるんだから正当な形状の灯具にしてほしいよね。 列車内の室内灯、蛍光灯は新しくてイイ車両、白熱灯は古くて安っぽい車両 って認識だった。 >>482
明るくて新しい蛍光灯、暗くて古い白熱灯だったな 観光で乗る分には良いけど
日常で車内白熱灯はきついな
まともに本も読めん
なんであんなに薄暗かったんだか >>485
車軸発電機の発電量では知れている。
結構昔の話になるが、大井川鉄道のオハ47は一つおきの点灯だった。
(今はどうなん?)
車軸発電機の発電量が間に合わんとか、蓄電池に充電できんとかだったと思う。
同じ白熱灯でも、発電量に余裕があるキハ17や20はまだマシだった。
ただ、古い名鉄電車の白熱灯車は、手入れが悪く?車内が薄汚いのも相まって、
暗いことこの上なかった。
同業他社の旧型車に比べると、かなり見劣りしていた。
少々脱線すまぬ 大井川鐵道の速度じゃ発電、充電が不十分だからと営業部長さんから聞いたよ。
貸切の打ち合わせの時に何故半減か聞いてみた。
車両も何番を貸切仕立てに希望するかとか
車両の状態とか詳しく教えてくれた。
オハ35857がやばい状態で廃車検討してた頃。
千頭折り返し時も発車直前まで灯具スイッチは点けないようにしてたね。 距離が短すぎて消費電力が発電量を上回ってしまう
和田岬線のオハ64・オハフ64とほぼ同じ現象
かといって充電池や発電装置を多く積めば、走行抵抗となってしまい、SL単独での牽引両数が減る
大井川は低速しか運転しないためトルクはあるので、発電装置のギア比を変更すればいいだけただし大井川には金がない 客車全盛期は客車区に蓄電池室なんてのがあって充電の管理したの
棚一面に並ぶ充電中の大量の蓄電池が発する音が結構凄かったよ
車軸発電機なんか気休め程度だから >>491
車軸発電が普及する前から有るんだがソレ。
昔は1個の充電池で3両給電してたんだよ。 >>493
その関係で編成替えに制約があったとか、なんかで読んだな >>492
今使ってるスマホの充電器も音立ててるよ
ノートパソコンよりも大きいリチウムイオンだろうから何となく想像できる リチウムイオンじゃなく鉛電池時代でしょ
ジー より チュイー かな マロネ49の旧特別室って他の2Aと同じ2等A寝台料金で利用できたの? >>481
天井の中央に一列で大型の灯具だったっけ?
>>482
幼児の頃なのではっきり覚えていないが20系気動車の白熱灯車内照明はかなり
暗かった記憶がある。本を読むのは諦めるレベルだったような。 >>481
私鉄電車の部品だったかな、
3Dプリンターでできるかどうかはわからんが、ちょっと違和感があるな。
あの車両のオリジナルは、台形(オハ61など)が丸いやつ(スハ32など)かどちらだろう? 客車の蛍光灯は、静かだとインバータ音がジーって聴こえる。 >>502
一般的な交流電源の蛍光灯も草臥れてくるとトランスからジーと音をたててたよ? 旧客といえば、走行中に隣の車両に移動するとき、渡し板の部分が怖かったなぁ もし首都圏のラッシュに投入されてたら毎日開いた扉から落ちる人が続出だなw >>507
混んでる客車に乗らず、EF57のデッキで通学していた知人がいる。
パンタからの火花で、制服の背中に点々と穴が開いていた。 >>507
首都圏ではないが関西圏ではマジな話、1980年代前半迄結構当たり前だった。
ただ当時大阪〜宝塚間ではまともな人は阪急に乗るのが当たり前の時代なので、わざわざ国鉄福知山線旧型客車に乗る、体育の鬼教師の授業に出る感覚なので、覚悟を決め乗ったから案外なかったな。 >>507
昭和20年代30年代前半までは客車通勤はたくさんあったろ。
近郊型ができたから電車化が加速したわけで。 マニに乗って岩見沢から手稲まで行った事がある
荷物は全く載ってなくて人が普通に乗ってたりした
1977年頃 乗降口に鈴なりになってぶら下がって通勤が日常だったからな。
ポイント通過時に乗客が零れ落ちる事故なんて珍しいものではなかった時代。 >>515
落ちたらドンクサイ野郎で片付けられる時代だわ >>514
1980年代も高校への通学はこんな感じで混んでて扉閉められずだった。
冬は死ぬほど寒かったわ >>517
1980年代でも山陰本線は当たり前いや1986年でも鳥取山陰本線そうだった。
YouTubeにその頃のけっこうあるし団塊Jr.あたりまで旧型客車の高校通学が結構当たり前だったと言うの結構羨ましい。CoronaVirusで3密が問題になってかつ、山陰本線でも旧型客車の頃とは違って、短編成のディーゼルカーばかりになり、分散通学余儀なくされる今ではなおさら まぁ走行中はいうほど落ちてないしな。ポイントの動揺とかでそうそう落ちたりはしてない
問題は駅で止まりきる前にボンボン降りてひっくり返ったり、ホームで並んでたり歩いてるひとに
ぶつかったりしてケガ人が続出したこと ホームで回転する人いたよね
三回転する人がいたけど、ケガしたのかなぁ 40系列10系列は車掌室側には貫通路に引き戸があるけど、古い形式は扉が無くて吹きさらしじゃないですか。
編成端っこになったら風雨雪時の吹き込みってどんなんだったんですかね?
雨が降れば水浸し、冬場なんか雪が凍りついてて出入りは諦めてたとか? >>521
60系が抜けているぞ
一部は貫通幌を結合する金具を使い、蓋を取り付けたり、半分から下の柵を付けたり、行灯型テールマーク取り付け金具を取り付けたりした
しかしそれ以外は、チェーンを1本渡すだけ
昔(というか大昔)は車掌室と反対側の緩急区画が一つになっていた
高崎のスハフ32も1945年以降に車掌室の壁を付けた >>518
大井川鐵道なら今でも定期券で通勤通学が可能
確か急行料金免除で着席保証なし
10年くらい前の平日に乗ったら
JKが乗り込んで来て驚いた思い出 スハ40・オハ41・スハ42とかいうマイナーな客車 >>521
>冬場なんか雪が凍りついてて出入りは諦めてたとか?
昭和の日本男児がドアの凍結ぐらいで諦めるわけがない
凍ってた時はドアを何回も蹴飛ばして あけるんだよ。 なるほど、オハ35系あたりでも鋼製ドアに代わってたのは耐久強化策なんだw
ブルトレの折戸でさえもデッキやステップ周りが真っ白になってたもんなあ。 >>522
横からすまんが後半の件は知らなかった。43系の車掌フロアのままアウトデッキみたいになってる感じだったのか。 >>528
オハフ33の国鉄図面(新製時)を見ればわかる
1945年以前製の車両とそれ以降製の車両では、壁を付けて区切っているかどうかわかるから
オハフ33
1-346 1945年以前製 車端屋根絞りあり 壁・区切りなし
347-606 1946年以後製 車端屋根絞りなし 壁・区切りあり >>523
いまどきjkに旧客の組み合わせ、見てみたいなあw
ようつべの国鉄鳥取駅のやつには当時のjkが開けっ放しの
扉からピースしてるの映ってるけど。 駆け込み乗車に、助役が停車指示だして止めたやつか? 1986昭和61年JKてことはギリギリ団塊Jr.のJKでも旧型客車で通学てことか?
3密どころか扉開いたままの旧型客車で通学とか今となっては何て羨ましいJKw >>531
そう、それ。あの映像もう100回以上は見てるわ。
めっちゃ切なくなるの。 >>532
でその父ちゃん母ちゃんも同じ旧客で通学してたのかもしれん >>514
ホームも黄色い線からはみ出て待ってる人だらけでスリルがある
俺だったら長い時間掴んでられないよ
列車もホームに落ちる人がいるから慎重に加速してる
雨の日はもっと地獄だったろうな
手すりも滑りやすいだろうし >>535
垂れ流しだから浴びてるだろってコメントが付いてたけど
便所に入れるような状態じゃねーわなw >>537
通学で窓から出入りする連中はよく見たけど
あと旧客ならではで ホームの反対側から線路渡ってきて
そのままデッキから乗る人が老若男女問わず居た 窓から乗ったことはある
どうしようもなく混んでたので 民宿-1番線ホーム-2番線ホーム位置関係2番線ホーム旧型客車列車止まってかつ
2番線ホームから駅舎行く場合言っても無人駅であるが民宿とは全く正反対側に2番線ホームから駅舎行く陸橋ある場合そのままデッキから降りて線路を渡って線路の真ん前の民宿行った事ならあるななかなか文章で解りにくいだろうけどもこういうことができたのは旧客ならでは 旧客は デッキを通り抜けできて便利な 時がある。
これだけのことを言うのに、 これほど分かりにくく書けるのは、 ある意味天才だ。 電気機関車から供給を受ける真冬の電気暖房って、
蒸気暖房と比べ暖かかったのでしょうか? 蒸気暖房は機関車によってムラがあったり、始発では暑いくらいだったのが、深夜になると寒くなったりしたとか。 >>543
電車のヒーターと同じだよ
座席の真下から暖かくなる
SGは罐の次位とかなら暑いくらいだが
反対側末端とかだとクソ寒いことも
体験したければ冬の大井川や真岡へ行けば良い
EGはないけど…そっかもうEGないんだな 海峡号が最後だったかな?
夏はEGから3相440ボルト電源取って冷房に使っていた。貨物のED79-50にもEG搭載していた。 でも 高崎のEF64とオハニ以外の旧客でその気になれば出来ん事もないのかな?
SL整備中の冬季イベントとしてやってくれないかなあ タカの旧客でEG実施したこと、なかったっけ?
もし実施した記憶が正しいならいつが最後かな EF55と61と64-1001の三重連の時かな。他にも数回、1001のEG使ってた
>>346
50系の5000番台の冷房、何Vかは忘れたけど単相のままだったような気がするんだけど
三相にするのにインバータかMGいるよな 543です
みなさんの書き込み、ありがとうございました。 EGは単相交流1500V
これを12系2000番台同様、変圧器(たぶんインバータ)で3相440Vへ変換してAU13AN(51型改造はAU51)に供給 12系2000番台と一緒なら50系5000番台も単相だよ。変圧しかしてない
冷房のコンプレッサー用モーターを単相にすればいい話だから。2000番台は交換してる
だから0番台と併結できない >>549
Thx
タカ旧客は初めてSG炊いたとき(冬期只見だったはず)こそ珍重されたけど、
やっぱりEGのほうが珍しくなってしまってるね。
余談だが、旧型電機は各JRともゴハチを主に頑張ってたけど全滅、
それ以前の蒸機が健在どころか新たにも復活してるし、
客レが疎がられて消滅寸前なのにもかかわらず旧国は全滅、でも旧客は健在とか、
結局「保存維持ってものに関してだけ」は電気系のモノは厄介で
より原始的なほうが残ってるってのも、興味深い。 あの時の数回だけだったんだよな、電暖使ったの。ちゃんと全検で絶縁みて使えるように
したのに。64-1001のEGも整備した。まぁでもインバータとはいえ30年前の機関車に
木造の70年経った古い客車。高圧の電気かけるのは怖いわな
>>554
だろって言われても、理由は説明してるからそれで理解できないならそれまで
自分で調べれば納得できるんじゃね 555 まあ時代時代で果たした役割をていりょうtr 失礼 555 まあ時代時代で果たした役割を定量的にだけ語る事も出来ないけど、
日本経済への量的な貢献という点ではEF65あたりが一番大きかったんじゃないかと思うんだよね。通勤電車は103系かな。そういう意味で電気機関車も電車も動態保存含めてしっかり後世に残して欲しいと思う次第。 >>556
電暖使わないのはそういうことか。
古〜い電気ストーブを使うようなものだしな。
引き直しもやればできるだろうが、多数のシート下ひとつひとつに…こりゃお金も手間もたいへんだぁ。 >>548
JR化後も東北地方へ入ったときに電暖使ったことはあった(当然オハニ36が入ってない場合だけど)
もっともED75牽引の旧客営業列車自体ここしばらくないが 自分の母親の出身地の山形では、頻繁に走っていたな。
あの頃に戻りたいな。。 でもさ、電気暖房が由来の列車火災ってどれだけあったの?
かの北陸トンネル事故も主因は石炭コンロやら電気系統やら実はタバコの不始末なんてものまで色々な説はあるが >>566
マニ30?が火災事故を起こした時はタバコの火の不始末が原因とされそうになったけど
実際は暖房用スチーム配管の周囲の木製部品が低温蓄熱?で発火したのが原因だった。 >>567
急行「阿蘇」(名古屋時代)のスユ43か?
代わりに「結果的に異端車」になったスユ15 2001が造られた。 電気暖房の場合、漏電したら火災になる前にNFBトリップで防がれるから騒ぎにならないのでは バカ停した時の車軸発電式の室内灯ってどれくらい持つんだろうか? >>566
あれは確か元々急行の食堂車なんかは、国鉄的にすぐに廃止にしたかったので、食堂車犯人の罪をなすりつけたんでは?
事実あの事故であっさりとなくなったし >>571
火元がオシ17なのは事実
急行の食堂車ってあの時点で2往復だけだから
火災事故がなくても早々に無くなってただろう >>569
でも、トラッキング現象みたいな出火なら燃えるまで電気止まらんぜ
トラッキング現象の危険性を大々的にアピールする様になったのって、ここ20年くらいでしょ? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています