【上野】急行八甲田・津軽・十和田 2号車【青森】 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>656 戦前生まれの親が週5日制がまだ普及せず、盆暮れの帰省が今よりも集中していた時代、移動時間節約したいと考えるのが普通だろ。
高い金出して指定券苦労して取って定期のつばさに乗るか、スピードや格は落ちるが臨時つばさで行くか、それとも立ち席覚悟で幼い子供連れて津軽で行くか。 子連れの帰省が如何に大変か想像できない鉄オタがいるんだな >>658
ここに入り浸るような男共は生涯独り者の素人童貞しかいない >>653
母親だったので細かいことは頓着しませんでした
座る席が確保できればよかったのです
また母は特急車両に乗ると乗り物酔いするみたいで結果的によかったかもしれません
>>654
たしかにノロノロで時刻表にない駅で停車して定期の急行に追い抜かれていました
>>656
母は若い頃汽車に乗るときは座布団を持参したと言ってましたね 1982年か3年だったが、20系寝台の「十和田」で青森まで。幅52cmでも苦痛と思わなかった
じつはこれが最初のブルトレ乗車。「撮るもの」であって「乗るもの」と思ってなかったからかなぁ ビジネスクラスのフラットシートもそれぐらいの幅
しかも料金はボッタクリ 飛行機と鉄道を一緒にするな
フェリーと寝台列車を一緒にするようなもんだ >>658
5ch(2ch)の鉄道スレは結婚しなくて(出来なくて)
家庭を持ったことがないヤツが多い独身ヲタが多いから
多分理解出来ないのだと思う >>667
子ども達はガッタンゴットンに乗ると妙に気持ちが高ぶるもんだ
特に長距離便だと >>668
ガキの頃に一人で真冬にクソ混んだ八甲田を利用したが、北とうほぐから上野まで大型荷物置き場に座っていったぜ。
ガキながら酷い経験だった。 >>669
ボックスシートに4人、その下のスペースに2人が寝てる、
こんな時代もあったものだ 新聞紙ひいて通路で寝たの思い出した ボックスに座るより楽に寝れた わ そういや津軽も八甲田もスハフしか乗ってないからいつもエンジンの音が耳鳴りで残ってたな >>661
20系「十和田」なら、82年11月まで。83年は有り得ない。
その際の上越新幹線開業ダイヤ改正で、12系1往復になった。 88年に八甲田に乗った
14系で味気ないと思っていたけれども
今思えばとても貴重なおもひでぽろぽろ 上りの八甲田・十和田は、長い編成でも八戸・盛岡などから自由席が座れない時代も
あったのに、もうそれは過去の遺物になってしまった。 夏休み。下り八甲田(定期)の仙台増結車(自由席)に一度乗ったが、立ち客も出るありさま。
自分は運よく窓側に座れたけど、今思うと護送車みたいだった。 今朝、新日本紀行(昭和54年放送)で
朝の奥羽本線十文字駅に到着した「津軽3号」が映っていた
ED75-700に牽引された12系(後部の1-5号車寝台編成は確認できず)
田植えを控えたて出稼ぎから帰った人たちが続々に降りてきた
それと交換してホームの反対側で動き出した貨物列車(トラ45000、ワム80000など2軸車ばかり)とか、
今まさに発車した貨物列車(ED75-700に牽引、ヨ8000が先頭)とかが見られた
新幹線のない時代はのどかだね
ノスタル爺といわれても、懐かしいものは懐かしいな >>685
その映像は「NHKアーカイブス」で見られるはず。
無料ですから試してみてください。
自分は検索が面倒なので観てません(陳謝)。 >>684
「キングコング対ゴジラ」に登場する「津軽3号」は、こだま型の特急電車だった >>687
まさに夜行急行が出稼ぎ列車と呼ばれてた時代か 満員の夜行列車って荷物も多いから網棚も床も荷物で埋まってるイメージ 座席の夜行とかホタテや貝ヒモ食いながら隣で呑んでるおやじ思い出すなぁ
食べるか?とか言ってホタテくれたりするw 青森〜上野は常磐線へ回る列車が多かったのはどうして。 東北本線は信越、北陸、上越、羽越、奥羽方面とか詰め込んでたからね >>694-695
それと共に夜行でゆうづるが多かったのは、東北本線保守の関係もあっただろう。 はつかり号は常磐線が電化したのに東北本線経由に変わってしまった 1Mは北海道連絡ありきだったから
全線複線で速達化できる東北本線廻りになったんですね 昼行だと常磐線の単線がネックになるし、
電車だと多少の勾配は高速で走れるからね 東北本線も単線多かったから。福島近辺の勾配と単線、大宮から上野の線路容量がひっ迫してた
S.40に大宮の高崎、東北の立体交差、S.42に福島近辺の複線化、S.43の大宮以南の電車線の線増
これらをやって、43.10の全線電化と全線複線化で青森行は距離も短い東北線を使うようになった 盛岡までなら夜行「いわて」がありましたね
昼行でも運行できる範囲=電車という方程式でしょうか >>702
仙台〜青森は「くりこま」で運転したけど、上野〜青森は全線電化なら距離的に特急化の意向になっていたような。
夜行急行や普通は他の交流電化区間と同じく、機関車稼働の関係で客車や、また非電化区間直通車両の併結の関係で気動車で運転も多かった。 西方向の急行で、
80系/153系で東京⇔姫路(はりま)
153系で東京⇔広島(宮島)
167系の東京⇔下関(長州)
475系の名古屋⇔博多(玄海)
は可能だということから、青森も理屈上では可。 90年代でさえ秋田開業前の仙台以北の
東北新幹線の寂しさを思い出してみると
60年代に最新の貴重な455系を仙台以北
盛岡以北にさく余裕はなかったんだろうと
思う。通過するだけの北海道連絡特急には
良い車を割り当てるが区間利用も多い急行
には客車で充分という 急行型1971年までしか作ってないから
485は1979年まで。もう特急しか増発する気がない
くりこまとまつしまでいじれば上野ー青森で直通出来そうな気もするけど、仙台の455、凄まじい運用してたからやりたくなかったんだろうな
儲けにならんし >>708
だね。上野〜秋田の「おが」もずっと全区間架線下DCで走らせていたし。 >>706
長州!
修学旅行列車「わこうど」のスジで走る多客臨
主要駅でたっぷり停車時間を取るから下関まで16時間くらい要したんだよね 84年の14系寝台車も連結していた「津軽」は、まだEF58牽引だったんだ!
https://youtu.be/oxVu77Fgg1c 青森駅に到着する、国鉄末期の「八甲田」
この当時、既に国鉄色から塗り替えた気動車が存在してたとは!
https://youtu.be/nSmES5pTLa4 座席の客車急行…
青函トンネルが開通した時、せめて1本くらいは
上野⇔札幌を走ってほしかった。 >>717
座席車で上野〜札幌直通?
もしそうなら青函トンネルがあと20年早く開通してないと無理だっただろう。
34年前の開業時は類似距離の東京〜博多でも夜行座席車はなかったし、JR北・東も当初は北斗星の需要も懐疑的だった。 20年早く青函隧道が開業するとなれば1968年
1968年に上野〜札幌間で座席夜行急行が走れば
明らかに旧型客車だっただろうね?
津軽海峡線も非電化区間だったかも知れない
1968年だと新型客車では20系だけで12系も14系も
まだ生まれて来てなかった
上野〜札幌間を20時間で結んだのだろうな(遠い目) 流石に防火上旧客はないだろ
専用の何か作るしかない 青函トンネル内で垂れ流しは大問題になる
しかし、トンネル内だけ使用禁止にできるほど短い距離ではない
12系はあと1年で作られるものの、折戸だから冬季の札幌直通は無理
20系はすでにできているものの、まだ垂れ流し(粉砕はしていたけど)
よって、製造中の455系に循環式トイレを設置した編成を数本作り、青森−木古内間にて暫定運転することになろう
583系は全車装備
1968.10開業時
特急「すずらん(昼座席)/おいらせ(夜寝台)」 583系 上野−函館。青森以北食堂車非営業
快速「海峡」 455系 青森−木古内(繁忙期は蟹田−木古内間へ短縮されることも。車両改造編入を受けて1969.10改正にて函館通年発着化)
ただ、北海道内の急行の気動車化率は年々上がっており、千歳線の付け替えまで南回りが電化できないとなれば、寝台特急以外は函館乗り換えが妥当
寝台特急も折戸の20系では札幌発着には使えないため、設計を進めていた12系寝台車(当時。後の14系寝台車)を引き戸に改め、集中電源方式でも使えるよう改良された結果、14系名称変更
オシ14は排水タンクも設置し、函館・青森両駅でも給排水実施
1970.10改正で485系が新製投入されて特急比率向上
1972.3改正でようやく14系投入
特急「すずらん」 485系・583系 583系は1往復だけ 青森以北食堂車非営業
寝台特急「北斗星」 14系(集中。2度電源車付け替え)
快速「海峡」 455系 青森−函館
と言う夢を見た >>721
便所は大きな問題だ。
係員がポータブルトイレを巡回する夢を見た。
「トイレに行きたい方はお申し出下さい」 NIOEが通過したときはジョッピンカッタのかしら? 上野から北海道周遊券で八甲田に乗って青森まで乗ったな
往復乗ったけど二度と乗りたくないと思った
東北地方の人の忍耐強さを改めて認識した列車だったわ >>725
わかる
座席車で上野から青森まで乗るなんで考えられない
最低でもB寝台でないと >>727
それはこのスレ的には少数派じゃないか? >>727
少なくとも昭和時代に、そんな利用者は当たり前にいた。
一時は583系ゆうづるで、全車座席車もあった。 買ったばかりの文庫本数冊とウォークマンに予備電池とお気に入りの曲だけを入れたカセット数本を抱えて乗ったので
特に苦痛はなかったな >>726
80年代で旧客や10系客車とかの頃じゃないよw
でも12系か14系かは覚えてないな
85年のダイヤ改正で14系化らしいから中3終わりの春休みに乗ってるので14系だったのかな
https://youtu.be/muE7ZMZaO2Q?t=277
上野14時19分発 八甲田53号
八甲田の臨時列車って真昼間に走ってたんだね >>721
折戸の24系は北海道のあちこちに行ってたけどな
まあ定期列車ではないが >>732
八甲田53号は青森に2時13分に着いて連絡船の臨時便に乗り継いで函館に6時20分に着いた
なので連絡船まで含めると普通に夜行列車 >>792
69年生まれか?そうするとバブル絶頂期に成人した世代か?
14系座席車なら、当時の特急普通車と同等の設備だったから、八甲田全区間でそんな感想なら、東京〜博多で0系新幹線普通車乗るのもきついかもなw >>735
まあそうだけど、ずいぶんロングパスだな >>735
> バブル絶頂期に成人した世代
これ見ると得してそうだが全然そんなことない世代だな むしろ世の中に金が満ちているときに学生で金がないのでバブルの恩恵はあんまりなかった世代だな >>738
そうとも言い切れない。人手不足でアルバイトの時給が高騰してた。
そのため就職するよりバイトを続ける方が潤うので、わざと就職しない学生もいた。
またバブル時期、新幹線のグリーン車に学生の利用が多かった。
そして就職活動では企業側が新卒の学生を確保したいので、遠方からの交通費支給や、
高級レストランの接待、研修の名目で高級リゾートホテル宿泊など、
今では考えられない待遇だった。 >>739
「言い切れない」のはそうかも知れん
まぁでも貧乏学生も多かったよ
グリーン車利用が多かったのは就職活動の時に企業が交通費出してくれたからな
俺みたいに研究室に居残った人間はほぼほぼ恩恵がなかったよ
あと「一生フリーターで生きていける」って就職しなかった同期連中は今でも就職してないなぁ >>740
どの時代でも一律に潤うことはないが、バブル期に学生のグリーン車利用はそれだけでなく、バイト成金も多かった。
またバブル期に女を手中にしたいため、グリーン車で機嫌取る若者もいただろう。グリーン個室で行為に及ぶ者もw
女子大生の方がそれ以上に潤っていた。
アッシー君や複数の男を股にかけ、高収入で支出がかからない女子は多かった。 色んな世代はあれども
鉄ヲタに関しては断然昭和10〜20年代生まれが勝ち組だな >>743
新井さんとか久巳さんが属する50's後半もなかなか
高校生くらいでSLの終焉や新幹線博多開業
20代半ばくらいで貨物やゴハチの終焉(久巳さん神懸かりでしたね) 新幹線開業前の上野駅の賑わいとブルトレ衰退前の夕暮れ時の東京駅の賑わいを知ってるだけでも自分は幸せだと思う リニアに乗るのを楽しみにしながらも寿命が尽きた面々がいるから一概には言えない 東北新幹線が当分壊れているので復活すれば良いのに。 >>749
上野東京ライン・湘南新宿ラインの普通・快速電車が、新幹線開業前より
大幅に多くなってるのでそうはいかない。
那須塩原〜仙台で臨時快速が、いなほ編成のE653系で設定されたけどな。
でも混雑してるようで、常磐線も一部不通ならE657系を充当できないかと思うが。 >>732の動画、たしかに国鉄式文字だけど
なんか暑苦しい違和感があるな。
やはり駅掲示類や行先表示で使う文字で
列車案内に使う文字ではないな。 >>747
平成あたりから、高速バスネットワークが確立し、高くて乗り心地悪い夜行列車は敬遠・衰退していった。
スレタイの八甲田と津軽も平成5年に定期廃止されたので、物心ついた時は過去のものだったろう。
鉄道好きなら周遊や乗り潰しに不自由な時代になった点はあるが、交通機関が移動手段と割り切れば長距離を安く行き来も可能なので、その意味では負け組でもない。
青春18きっぷの利用者は、若年層が少ないと言われていて、その意味で平成生まれ以降は鉄道好きや鉄道にこだわってる連中が少なさそうに思えるが。 周遊券の廃止がデカイな
北海道ワイド、東北ワイドで10~20日過ごせた(学生なら学割も効く)
特急も夜行も自由席乗り放題
そんなのが無くなったら、みな鉄道旅行から離れてしまうよ 周遊券は急行自由席は無料ですが特急は除外だったと思う >>755
ワイド周遊券は、域内なら特急の自由席は無料だよ
だから、夜行折り返し(オホーツクやおおぞら)が出来た
東北だと、福島で八甲田から津軽が名所だね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています