【上野】急行八甲田・津軽・十和田 2号車【青森】 [無断転載禁止]©2ch.net
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自分も夕方からはあるが、朝から待ってるなら、そのまま乗ればいいと思ったことある。
当時は昼の急行あるから目的地まで行けるし
宿代節約のため? >>504
目的地はその列車の停車駅とは限らないからなぁ
支線乗り継ぎとかあったら昼行だと乗り継ぎ駅で最終出た後になったりするから >>503
若い頃八甲田や津軽使って旅行してて
今は豪華列車の旅で喜んでる人はたくさんいるだろ >>504
八甲田が上野発1510の時代
常磐線廻り、みちのく950、はつかり1330では青森着が2300以降になってしまう(渡道がメイン)
青森直通の昼行が少ない時代は貴重だったんだ。
http://i.imgur.com/q5BkOSa.jpg
http://i.imgur.com/4jtjpid.jpg 名物焼きそば「急行」閉店 88歳店主、厨房で倒れ死去
6/4(日) 10:23配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170604-00000015-asahi-soci
北海道のJR・道南いさりび鉄道木古内駅そばにあった老舗食堂「駅前飯店急行」の店主垣内キミさんが5月、亡くなった。
直前まで名物の焼きそばを作り続け、厨房(ちゅうぼう)で倒れた。旧国鉄時代や昨年春の北海道新幹線開通など、
木古内のまちの移り変わりを見守った88年の生涯だった。約60年続いた食堂は、垣内さんの死去とともに幕を閉じた。
「駅前飯店急行」は、垣内さんが作る和風味の焼きそばが名物だった。2013年夏までは、JR木古内駅のすぐ前で
開店当時の古い店舗で親しまれてきた。北海道新幹線開業に伴う駅前再開発で立ち退き、同年10月から数百メートル離れた場所に
移転して営業を続けていた。
垣内さんが倒れたのは5月16日。夕刊を読み、午後5時ごろにやってきた男性客に焼きそばを作ったあと「背中が痛い」と言って、
厨房にある丸いすに腰を下ろした。毎日手伝いに来ていた知内町の宮西容子さん(62)に「水が飲みたい」と頼んだ。
宮西さんが湯飲みを取ろうと振り向くと、いすから崩れ落ちるように倒れていたという。
すぐに救急車を呼びドクターヘリで函館の病院に運ばれたが、午後8時過ぎ息を引き取った。大動脈瘤(りゅう)破裂だった。
道東の浜中町出身。旧国鉄時代、松前線と江差線の分岐点だった木古内駅前で始めた店は繁盛した。
「急行でも止まればいいのに」と願いを込めて付けた店名だった。
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中国建築歌富裕層息子カジノ通い連日連夜オールTRUMPパーティー(反日飛行機雲農薬散布マスク女問題)駅内マスクオンNACNN向け原文ママニュース 大学受験の時、どうしても宿が取れず、仙台から上野まで十和田に乗って行った。案の定、全く眠れず、試験会場では半分船漕いで問題解いてた。
それでも第二志望に現役合格しました。平成初頭のおはなし。 ↑
すまん、八甲田だった(十和田はすでに廃止されてた)。
上野駅到着が5時50分ころだったのを覚えてる。 通しだけでなく早朝上野到着の便利な始発でもあったようで
八甲田で郡山からお嬢さんが乗って来て上野まで俺に寄りかかって寝てた
新幹線増収のための廃止でもあった 平成初期の頃だと思うけど、ふれあいみちのくを使った、臨時の夜行で、八戸から上野まで乗ったわ。お盆の上りだけど、空いていて快適だったわ。
列車名が思い出せないのよね。
八甲田8○号だったか、お座敷みちのくとでも言ったかな? 昭和45年夏に臨時の津軽で渡道したとき、上野出るときの牽引はEF56だった >>517
OK
583系臨時津軽は寝台も連結されていた時期があった 昭和40年代の時刻表見てみたら、帰省ラッシュ時の奥羽磐越方面の夜行を上野駅の混雑緩和の為か品川発に変更する処置を取ってたんだが、これっていつまで続けてたんだろう?やっぱり新幹線工事で東京〜上野間の線路剥がすまでかな
あと、実際に品川から乗った経験ある方がいらっしゃればその時の話をお願いします 数か月前のRP誌によると昭和50年の年末が最後だったらしい<品川発 RPじゃなくて先月発売の国鉄時代だった
山貨経由と東京経由両方設定されていた
品川発着の理由は519氏のとおり上野の混雑緩和のため 定期列車は上野で荷扱いするから東京経由じゃないかな? 中学の時に臨時十和田は上野で撮影した。その後に鉄道から離れたので八甲田や津軽は撮影どころか見ることすらしなかったのが悔やまれる。 >>503
三沢航空ショーも劇混み
リクライニングをハの字1組にした隙間に新聞敷いて寝てた輩が居たの >>526
通路立ちがあるくらいに混んでた時はそれやってたな
チビだったんでスッポリ入り込めた
足を縮めて窮屈だったけど立ちっぱよりはマシだった >>517-518
538津軽
自由席ハザ 勝手に下段寝台セットして寝てる客が多数
車掌も見て見ぬフリ >>66
確か盛岡からのはつかりが一時間に一本走らない時間があって、他客期のその時間帯においらせが12系で走ってたわ。八戸発14時台の八戸線快速に接続してたね。懐かしいわ。 >>533
機関士の気分しだいなんだろうが、
黒磯から先は、貨物列車の発車とおなじ
俺は、夜勤だ、おまえら 起きろ〜との
無言のメッセージが、届きます >>511
東京住みから北海道の大学に通う事になり、記念にと八甲田に乗った日、車中で国鉄からJRに変わったのを思い出した >>528
東北本線では暗黙の了解だったんだよな
583系はつかり自由席で同じような事日常茶飯事だった
4人以上であのスペースで酒盛りして、仙台過ぎた頃には雑魚寝で青森まで行くグループがいた >>537
オレはそれをやって、朝山形を発車してから車掌に叩き起こされた。 夜行の十和田は想像つくが昼の十和田とか乗ってるの苦痛では? トーホグ人はじーっと静かに座ってるのよ
今の東北新幹線みたいに >>539
気動車「おが」も上野〜秋田を日中長い時間走ってたしな。
また上り「八甲田」も日中の区間が長かったが、「まつしま」の使い方をする利用客も多かった。 津軽はずっと食堂車無しで山形秋田弘前は格下扱いなのを痛感したものだ 揺れる車内での調理って難しそう
あと、碓氷峠を超えるときとか、調理場のテーブルが斜めにならなかったのかな? >>546
約4度傾くからなぁ、利用する分には不自由なかったけど。
(計算結果、実際にサシ489でコップの水の傾きを紙に写し取ったのもそれくらい)
横軽は空気バネをパンクさせるから、ズンという振動は直接来るが、ふわふわとは揺れない。 上野ー秋田の「おが」って、非電化区間ってあるの?
奥羽本線電化後は全線電化区間だったと思うのだが。 >>548
当時、交直流電車を製造して充当する金が無かった。
また、当時は電化が進んで急行型DCが余剰気味で、それを活用する必要があった。
全区間架線下のDC急行なら、他に赤倉などの例もある。 >>548
羽前千歳-秋田の電化が1975年じゃん
急行用電車の新製は4年前に終わってる
当時は他で急行用電車が余らない限り
電化しても特急格上げかディーゼルカーのままという場合が多いね
457系増備して電車化したらキハ58系が余っちゃう
そこまでして電車化するメリットなかったんだろう 秋田での間合いの関係もあるのかな
平地を走るまつしまとかときわをDCに置き換えて
おがやざおうを電車にして板谷峠を20分短縮&冷房は
利用者的には相当ありがたい感じがする ときわは末期まで奥久慈併結してるのはキハだったよな
それに電車でもときわは451だから >>549
>>549
なるほど、そんなところですかね
レスありがとうございました >>551
間合の関係はあるよ、
通勤時間帯にその分だけ別に車両が必要になる。
それも理由で特急に格上げしなかった列車もある。 >>551
そもそもまつしまの455系は仙台持ちだしンなことしたらざおうの455系運用まで巻き添えになるがな
ざおうも新幹線上野開業まで残るのは455系の定期1本と12系の臨時だった辺りで察したほうがというとこだけど 抑速ないとかは置いておいても、板谷はMT54の455や485でMT比2:1を確保してたから
たとえ451をMT比2:1にしても、上越の時に161系でそれでやっとだったから板谷は無理だと思う >>556
「ざおう」は上越新幹線大宮開業前までは、「いいで」併結の気動車が定期で、455系電車は
季節列車だった奇妙な急行だった。
大宮暫定開業時は「つばさ」「やまばと」が減ったけど、山形地区は新幹線乗継ぎの利便性が悪く、
上野直通列車の需要がまだ多かったので、電車「ざおう」を定期化したようだった。 八甲田は発車時の連結機の遊びが有りすぎてめちゃくちゃ揺れた思い出しかない
寝ててもその度に起こされた >>561
どの時代の話?
14系ハザ?
12系?
旧客?
気動車? >>561ではないが14系八甲田下りで再ノッチ時ビクーリ起きる位の衝撃。上りではそんなに感じなかったのでウテシにもよるんでしょう
その乗ってた上りが誰か写真撮っててさよなら出稼ぎ列車と読売写真大賞金賞取った(平成5年11月22〜23)記憶 機関車の癖と性能と運転士によるな。交流機は面倒さえ厭わなければその差が出にくいのと
ダイヤに余裕があるから、562みたいな印象になる。
あと同じところで衝撃くるのは故障してる時もあるから一概にヘタというわけでもないのかも 急行妙高の夜行も酷かった記憶
ET62+旧型客車
貨物列車が発車する時の様なあの連続音と揺れ >>542 >>543
夜行十和田は急行食堂車では一番遅くまで残ってたからな。
あの北陸トンネル火災でオシ17が連結禁止になって食堂営業も廃止に追い込まれた。 >>249
この音を聞きながら絵本の「やこうれっしゃ」を見ているとたまらない。夜行バスの出始めでも学割で東京ミニ周遊券が東京往復の最安だったので津軽、八甲田は乗ったなぁ。青函連絡船の青森駅の広い待合室が懐かしい。
青森新町の成田本店のベストセラーになっていたけど写真集「青函連絡船の人びと」はここに集う人にはおすすめです。 ターレットが行き来する青森駅ならわかる
けど、下り津軽で停まった秋田駅のホーム
がやたら広かった印象がある。朝食の牛めし
と350缶のサッポロ黒ラベルが後のあけぼの
4分停車でも定番だった。
下り八甲田の盛岡15分停車の記憶はほとんど
ないのはなぜか?ホームが普通の広さだった
からなのだろうか?
今になって583系と485系の津軽に乗ってお
かなかったことが悔やまれる。 >>577
確かゆうづる待ちだったと思う。
583系の車両だった。 下り八甲田の盛岡15分停車って5時45分到着6時ちょうど発の時代の話だよね?
俺的にはちょうど夜行と昼行の区切り目みたいな感じで印象深かったけどな 一戸駅にとんかつ弁当があった時代ですね
若さと旅の勢いから朝食として何回か食べ
た記憶があります。一度でいいから連絡船
の鮭弁当を食べてみたかった。 >>249
福島の次は小牛田!
いい八甲田号に乗られましたね かすかな記憶では小さい頃母親とお盆の時、はつかりの切符とれなくて三戸から上野まで昼行十和田乗った記憶ある。自由席で三戸からどこらへんかまで立ってきたのを覚えてる。上野駅着いた時もかすかに記憶あるが座席に座ってた。18時頃着いたんじゃないかな? 平成元年の仙台駅時刻表を見ると
3:13分 下り急行 八甲田青森行き が載っている。
次発は 6:08 一ノ関行き 6:24 利府行き
6:32 松島行き(休日運休) 6:40 利府行き(休日運休)
6:55 古川行き
当然のことながら、新幹線が開通しているので盛岡・青森方面の特急電車は記載されていません。
ちなみに、北斗星下り時刻は 1号 21:13 3号 21:44 5号 23:34 >>581
これが仙台駅発 3:13分の列車か?
で、1975年頃の仙台着 急行 いわて
の仙台駅5時台の電車はあったの?
たぶん、これで上野駅から乗って帰省していたのかな〜(記憶がない爺) >>586
>これが仙台駅発 3:13分の列車か?
そうだね
仙台には3時1分到着
ちなみに
>6:32 松島行き(休日運休)
これは大河原5時32発の松島行なんだけど休日のみ仙台行になる >>577
下り急行八甲田の盛岡駅15分停車は1985年3月14日から1990年までの
間で、盛岡駅は5:45-6:00の15分停車だったが、1991年くらいから
盛岡駅は5:55-6:00の5分停車に減り、1993年12月からの臨時八甲田に
なってからは盛岡駅の発着時刻が5:43-45の2分停車に縮まって寝台特急
はくつる3号(13M)の退避は6分停車の水沢(4:43-49)に変わった。
更に1996年春の改正で臨時八甲田の時刻が大幅(上野22:16→9:09青森)
に変わると盛岡駅時刻は5:51-6:07へ変更されて、はくつるも1往復に
減って黒磯駅か郡山駅で八甲田を抜いているものだと思う。 >>581
下り八甲田の事実上の夜明けというか朝を迎える感じだった。
早朝なのに盛岡駅の駅弁3社(伯養軒・村井松月堂・むつ弁)が
ワゴンで駅弁を売っており、15分停車でゆっくり朝飯を選ぶ事が
出来て貴重な15分間だった 夜行の夜明けと言えば、津軽1号の上りで目を覚ますのが西那須野だった。下りは十文字だったか。那須塩原が東那須野だった頃は、西那須野の方が観光地への入口だったなあ。 今から45年前、中学を卒業した北海道へのご褒美旅行で郡山から「八甲田」を利用。
当時普通車自由席は満席で通路でリュックにもたれていると傍に座っていたのおばさんから
「どこまで行くの?」と聞かれ
「釧路までです。」と答えると
「先は長いから気をつけてね」大福をわけてくれたっけ。
そのおばさんは下町風の普段着で車内はそういう客が目立った。
通路で一晩過ごしたが後年「はつかり」などの利用よりも想い出深い。
3月に定年退職前の有休消化で当時の思い出をだどるべく釧路に向かう際に「はやぶさ」
を利用したが隣席へのあいさつ以外はスマホで過ごす。
時代の変化を痛感するのみ >>592
>隣席へのあいさつ以外はスマホで過ごす。
お前は何してたんだよ?
話しかけられるの待ってたのか? 上り津軽2号(404レ)は6:32-37の郡山駅で、上り八甲田(104レ)は6:44-46の
福島駅が夜明けでその辺りで目を覚ます事が多かった。
でも朝飯調達は黒磯駅で上り津軽2号(7:35-42)、上り八甲田(8:26-36)共に
停車時間にも余裕があったし、当時はホームで駅弁となめこ汁の立売りも
していたけど10分停車の上り八甲田なら1番線ホームの立ち食い蕎麦でも
余裕で間に合った。 急行津軽は旧客、12系、20系、14系と乗ったけど津軽が2往復あった時代がよかった >>597
仙山線周りの頃だったか 583系と485系もあっただろ 1980年後半に583系板谷峠越急行津軽もあったよね 座席を回した14系 の背もたれのすき間に新聞を敷いて、リュックを枕に一晩を過ごした下り八甲田の記憶、自由席は通路に寝る人を踏まないようにトイレに行くのも大変だった。
深夜国道?を走るトラックを軽々と置き去り、上り津軽で関東圏に入ると北東北に無い瓦屋根と朝靄の中に点在する竹やぶ。同じダイヤでやってくれないかなぁ。小5の初一人旅で583ゆうづるのパン下(偶然)で小窓から外を見て一睡もできななかったのもいい思い出 八甲田・津軽・十和田なんか何両編成で運転していたんだろうか
おれは、仙台までだったので専ら、ばんだい・まつしま・いわて号を
利用していたんだが何両編成だったかわからん。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています