江ノ島電鉄の昔ばなし©2ch.net
500形(初代)造ったアトに何故300形に戻った(マア どちらも厳密には改造だが)の?
廃止を予見して投資の後退? 束式が8000系を作ったあとに5000系を作ったようなものだ >>29
いや、晩年の曲面ガラス→5枚窓への変化は
俺的には大歓迎だったよ 初代500のクロスシートは普通のボックス配置だったんだな
てっきり阪神ジェットカーみたいな背中合わせかと思ってた >>37
同意
改造の図面引いた奴ちょっと来い、といいたい気分 500が登場した時はまだ両開きドアは珍しかったんでは?
曲面ガラスやR付き側窓など時代をかなり先取りした意欲的な意匠だわ >>29
魔改造なんて下品な言葉を使わない方がいい 現役話だが、乗ってて吊り掛け音に気づいた
しばらく吊り掛けは続くだろうが貴重な鉄道遺産だな サザンの桑田佳祐が映画監督になった稲村ジェーンが封切りになったころに乗りに行ったが
すごいブームだった
うまく客を取り込めてると感じた ロケ協力で電車や線路、駅が映っただけで宣伝効果に繋がる
湘南という立地の勝利
京都の嵐電と共通してると思う >>43
完全同意
当時の社内に新しいもの好きな人がいらっしゃったのかな 藤沢駅の入り口にあったコカ・コーラの大きな広告
CMの関係で早見優がイベントで駅に来たこともあった 江ノ島といえばアイドル全盛期のミニコンサートの聖地
今は死語になった親衛隊も江の電に乗って出陣したのだろうか 1980年代くらいまでは、線路で子供が遊んでいた? 江ノ島〜腰越の併用軌道区間の横断歩道で
電車接近ギリギリまで踏ん張って思いっ切り警笛を鳴らされてる悪餓鬼は
何度か見たことがある
あの区間をスムーズに走過する技術は
今も昔も称賛に値すると思う >>54
というより、よく言われた「民家の軒先を霞めて走る」の通り、本当に一般民家の庭のすぐ先を電車が通っていた
境界を示す柵も溝も何もなし、地続きw
今はプライバシー意識の高まりで壁や塀を作る家が増えてそんな光景は減った >>56
根性試し、な
子供は意味の無いことに必死になるもんだな 腰越付近の専用軌道には線路に向かって家の玄関がある住宅が多かったが、線路内立ち入り禁止が声高に叫ばれる今日でもそのままなのだろうか? > 線路に向かって家の玄関がある住宅が多かった
神戸電鉄粟生線市場付近にもそんな場所があった記憶がある。
探せば他にもあるかも。
腰越付近は専用軌道とはいえそんなに飛ばさないが、
神戸電鉄はそこそこスピード飛ばすからねえ >>57
塀というより竹垣が多かったな
趣があって良い >>59
電車は絶対に停まるのを分かってやってるんだから根性なんて無くってもできるでよ 『ちいさなでんしゃ』という絵本を覚えている人いるかな? 古い写真を見てると窓回りがオレンジになってる車もあるね 幼い頃 亡き父に江ノ電に両開きドアの電車がいる と言ったらあんなボロイ路線にいるわけないだろう
と笑われた ポール末期の頃 いま思うと500だった 調べてみると1955年前後というと両開きはまだ珍しかったと思う
営団丸ノ内線、阪神ジェットカーくらい? 開口部が広くなる以外の実用面のメリットが本当にあるか、当初はどの社も懐疑的だったらしい
ちなみに京急は1500で採用するまで頑固に片開だった。時は既に1980年代後半になっていた >>63
大事故に繋がりかねない
コドモの悪戯で済ましてはいかんよな ユーチューブの茨交水浜線の映像同じことをするガキが写っていて コメントにも危ないと書かれていた
まあ昔の江ノ電沿線は寒村で民度が低いのもいたからねえ 自分もだけど >>61
いわゆる勝手踏切のたぐいは減ったとはいえ各地に残ってる >>72
窓が少なくなって車内の採光が不利になるという説を読んだことがある
ネタ元は・・冷蔵庫 >>74
民度低かったの?
昔から鎌倉文士も居る高級住宅地兼別荘地というイメージだったが@浦和土民 続行運転してた頃の江ノ電は今みたいな観光色があまりなく
ちょっとうらぶれた雰囲気 腰越あたりは漁師やガテン系藤沢もガラの悪い者が多かった
文士の別荘地は沿線から少しそれてる
異論があるかもしれません 1980年代からイメージ一新で観光色を前に出してきたが
逆に社名から「観光」の文字が消えたのは偶然か 1900年 江ノ島電気鉄道
1949年 江ノ島鎌倉観光
1981年 江ノ島電鉄
江ノ電は戦前からの歴史ある略称 そのまえに
社名は今も昔も江ノ島電鉄だと思ってたのに
江ノ島鎌倉観光という社名の時代があったことさえ知らなんだ あの社名はひょっとしたらバス転換するかもしれないというのもあったんだろうか なるほどなあ
転換ではなく、電車を残しつつバスも拡充して稼ぎの中核にしようという魂胆があったか
また、ホテルや飲食も手広くやろうとしてたか…
いろいろ想像をめぐらせられる 教習所はタクシーの運チャンが免停食らって乗務できない間の食い扶持保障として教官として受け入れる慣行が昔あったらしい(昭和40年代)
なので運輸業が傘下に教習所を持つことは珍しくなかった
当時、運チャンが食らう免停て何だっただろう >>93 今の法令で駐車禁止二回繰り返せば累積で違反点数6点となるから、30日の免停処分。酒酔い運転のような重大な違反、ないし人を跳ねた場合は刑事罰となる。刑事罰受けたら3年間経って刑が失効しないと、教習所の教官の資格を得られないことがある。 >>89
戦後、総合レジャー会社を標榜したかったとかであの社名に
経営陣は1960年代に、ガチで廃線を画策していたほどだから
それも束の間、程なくなくして・・・(形成逆転)
モータリゼーション到来による交通渋滞で、沿線住民の反対運動勃発
江ノ電が見直されてるきっかけになった 廃止路線が存続していたらという仮定はよく見るが
もし江ノ電が廃止になっていたなら、その後はバス専用道にでもなっていたのだろうか >>98 湘南モノレールが江の電の線路敷活用して、江ノ島から鎌倉まで延伸する 撤退を考えてたわりには、車両の置き換えなどでそれなりに投資してたようだが。
高架化もやった 305と306が登場する8年の間にどうも止めようと非公式に計画が出たようだ
600 800が出て藤沢高架になった頃には道路が渋滞してきて 持ち直してきた
その後俺たちの旅でブーム 1000のデビユー 305が出来た後 ですね訂正します
あと江ノ電じゃ将来がないので新しくできたドリームモノレールに転職した人もいたらしい
その決断はこうなっちゃったが
脱線して悪いが草軽から伊豆急や 日立電鉄からつくばとか転職ありますね 60年代、経営苦しい中で併用軌道の解消や、完全新製ではないものの台車流用で新製した500形の導入など路面電車からの脱却を図ったから生き残れたんではないのか?
60年代末頃になると並行する道路の渋滞がひどくなったから経営改善し、74年に藤沢付近での高架化を達成できたのでは。 地上時代の藤沢駅すごいな…
駅みんなくっついてて南口ゴチャゴチャ… >>105
そんな時代からもう大手による地方中小の系列化は始まっていたのね
うーん 湘南は小田急のテリトリー
支配下に置くことに何の不思議もない >>108
港南台の仮称が湘南日野だったけど、確かにあの辺は江ノ電と神奈中が多い >>109
民家の軒先ギリギリを走ってる区間は
元々は併用区間だった可能性あり >>101氏の指摘の通り1000型が転換点になった
好きな電車で何度も乗りに行った 山のように駅があった時代が羨ましい
鎌倉〜和田塚の間に3駅とか信じがたいw 電車運転が始まった頃は駅というほど立派なものもなく、適当な場所に適当に停まって客を拾っていたという記録もある。やがてお上が取り締まるようになり場所は固定化され停留所へと進化して行くが適当時代の名残で至近距離に停留所が置かれたケースは各地にあると思われる。 >>114
同じ時期に箱根登山、新京成、伊豆鉄、上信電鉄にも完全新車が登場して、
地方私鉄がまだまだ元気だった時代 「俺たちの朝」でグズロク?が線路に寝そべって、江ノ電に轢かれて死んでやるー
とじたばたしていたが、今だったらマズイやね
最近鉄道自殺が多いし 地方私鉄の中ではCMやドラマや映画に登場する機会が最も多いかも
CMで思い出すのは「♪あの~どーぞ、いつものですね!」のソングで知られた山本海苔店
車両は300形 >>121
あのCM車窓の動きからずいぶんスピード出てるなあ、と当時思った >>121
そんな地域限定CMよりも稲村ジェーンだろが
映画だぞ 小田急も江ノ島観光のCMで江ノ電を使っていたよ
モデルは300 >>123
サザン好きだったけれど、稲村ジェーンはつまらない 極楽寺車庫のデルタ線は、おおよそ今でも場所はわかるけど、
大境の複線は、今のどこからどこまでかイマイチはっきりしない。 モナカで有名な扇屋が600を引き取って店頭に置いたのは平成初め頃だったか 旧型を腰下ライトに改造したのがとても残念で、306が出来て約10年変わらなかったが
301の事故後短期間で改造されてしまった。現存する305も角型尾灯ながらも
端正だったのに。
もし108号が2灯化されたらとてもキモイと思う
変な事書いてすみません