東野鉄道©2ch.net
『ひがしのてつどう』だと思ってました(* ̄∇ ̄)ノ 今の栃木県である下野(しもつけ)国の東部を走るから「東野」 中心駅だった大田原に東武百貨店があるので、東武本社と何か資本関係があったのかと思ってたが無関係なんだな
東武矢板線が矢板を越えて大田原まで伸びていれば、、、と妄想せずにはいられないw >>4 関連あるよ。
当夜自体も小湊みたいに小規模ながらグループを構成しているから解かりにくいが・・・。 >>3
当初は水郡線大子まで伸ばすつもりだったから
常陸と下野を結ぶ意味で「常野鉄道」になってたかもね 自分が生まれる遥か前に廃止されたが自宅近くを走っていたので縁は感じている。
例によって廃線跡は遊歩道に整備されているがレールを模した道路面の塗装、現役時代と似ても似つかぬ駅名標などなど、
往時を偲ぶのに妨げになるものばかりが揃えられている。
これらがすべて地元自治体の費用、つまり税金で造られたと言うから余計に穏やかではいられない。
こんな不毛なこの他の廃線跡で起こらぬよう願うや切に。 ぽっぽ通りのこと?
そんなに悪くないと思うよ
博物館や記念館ではないし、そんなにリアリティに迫らなくても良いじゃん 自分の頭の中で描く想像図が、目の前にある無粋なオブジェによって
ぶち壊されるのが許せないということですかね。
廃線跡を歩く、系統の個人ブログを見ると、この人大丈夫か?と思うくらいに
サイクリングロード&遊歩道を叩いてるのにしばしば遭遇します。 廃線跡地の活用策と言ったら遊歩道かサイクリングロードくらいしかない
あんな細長い土地は売れないからな
駅名標のレプリカやプラットホームは、気にしてない人の方が圧倒的に多い。 >>12
同じ思いです。
でも、>>11が言うようにヤバいレベルでバッシングしてるのは俺も見たことがあります。
それも一人や二人ではない。 起点が西那須野ではなく矢板であればもう少し需要を喚起出来てたかな?
大田原〜矢板なら人や物の往来は活発ではないかと。 矢板までは遠いだろ。
直近で国鉄に連絡できる西那須野へ乗り入れたのは当然の判断。 てゆうか西那須野〜大田原だけでないと採算取れてなかったよ 昔の西那須野駅は塩原電車も発着する県東北部の交通の結節点でだな…
ここまで書かないと分からんかな君達? >>17と>>18とでは全然時代感覚が違うね
ある意味面白い 1966年に台風で蛇尾川鉄橋を損傷しておきながら復旧させてたのに
その後すぐに廃止しちゃったんだな
南部鉄道や東濃鉄道みたいに災害から再起できずに廃止なら分かるが、
投資して復旧しても採算が取れる判断をしたのかな
ちなみに南部は災害発生2日後には復旧を諦めて全面撤退の決定を下してた。 橋を一か所直したらどうにかなるのと、ほぼ全線で道床流失&築堤崩落などが起こっていたのとでは
自ずとダメージが違いますがな 黒羽の農業倉庫まだ残っているの?
此処って戦後落ち着いてから 新造車入れず、気動車は戦前製中型車中古 DLは、津軽の中古DC201、202
を入れただけだけど、廃止を覚悟していたのか?
津軽で難ありのDC201(で懲りていたと思うのだが・・・)を 続けて202を追加購入した理由がわからん!
DC200に限らず、初期のDLは汽車会社製 SL改造の森ブタ以外(出力もあるが・・・)、どこも難があり
誤魔化して?セカンドーユーザーに渡った場合も嫁ぎ先でも功労しているな。 何気に真岡鐵道に出資(近隣 私鉄の出資は無い中)。 >>24
当時は国や県から復旧のための補助金のようなものは
貰えなかったのだろうか かりに災害復旧を迫られることにならなくても
早晩行き詰まってたのでしょうか >>29
廃止の数年前に機関区廃止して自動車工場の出張的な形で車両整備する状態だったからな… 東野って車庫のあった黒羽で車両整備員が常駐していたときからバスと同居(戦後バスが居候してきた)じゃなかった?
鉄道末期には、バスの整備部門(鉄道兼務?)も黒羽から撤退していたの? >>31
鉄道廃止の2年前に部署としての機関区廃止、自動車工場に移管してる
(機関庫や転車台自体は廃線まで残ってたが)
よくまあンな状態でトラブル多かったというDC20を最後まで走らせたとは思うが。。。 常総筑波みたいにオリジナル気動車沢山もっていたワケでもないし路線長もソコソコなのに
不思議とこの路線惹きつけられるんだよな。 スマートじゃないんでけど、蒸機ボールドウィンの1,2号は、
子供の書いた絵の汽車みたにダサ可愛くて好きだな。
寿都と東野の蒸機に惹かれて俺は蒸機はアメリカ型一番好きになった。 >>34
生まれる遥か前に廃止されたが写真を見る限りでは
ヘッドライトの位置がちょっとイカしてる07かな >>41 距離的に導線的(都心と逆方向で)にまずあり得ない!
万々が一電化していたら場所柄 西武中古のユーザーになっていたと思う。
戦後 流山電鉄一時が小山延伸を構想したいたらしいけど、(東武の圧力?で断念)
繋いだら面白い事になっていたような・・・マア(東野は東武の傘下だからマズ無理)
単なる誇大妄想なんだが・・・ 大田原は一応、市だからそれなりの人口を抱えてるわけで・・ 黒羽側も開発が進んで残骸探訪も望み薄だな
現役時代を知らないとそれほど気乗りもしない 東野鉄道って警報器付きの踏切(1種or3種)あったの? 塩原ダムのサイレンが乗った橋台
箒川の橋台と紹介する廃線本もあるが、よく調べもせず無責任だな
箒川越える橋桁を支えるには小さすぎると思わんのかね 「写真集東野鉄道の時代」に両岸の橋台を写した写真が出てる >>46
開発が進んでるとか関係なくて、
ネットで簡単に調べられてしまうから。
東野の廃線跡探検はざっとググっただけで個人のサイトが10くらいヒットした
しかもどれもよく出来てる 西の塩原電車は難所が多いのかサイトが少ないな
那須軌道に至っては現地報告はひとつもない
きっと難所だらけなんだろうな
まあ何が難所なのかよくわからんが >>55
黒羽近くの踏切注意の看板がなくなったのは痛恨事 今や田舎の交通は民から公にシフトする流れだな
民間の手には負えないくらいに経営環境が悪い 大田原駅跡に10年おきに訪れてるが行く度に変わっていて興味深い
たしか2000年当時はサティだったが昨年1月に行ったら聞き慣れぬ名のドラッグストアチェーンだつた >>63
10年後は何が建ってるだろうね
店を構えて商売するスタイルがもう成り立たなくなってるかもしれない
つまり、土地の値打ちが下がる 108年後を想像するのも楽しい
とうや、だけにね! >>28
亀レスになるが、国では金銭ではなく現物の補助が検討されたという
復旧用の物資や重機を無償で給付または貸与しようとするものだが
そんなのよりマンパワーの確保が先だろとなって陽の目を見なかった
1978年地震でやられた伊豆急が初のテストケースになるかとの話も聞いたことあるが
分からずじまい >>63
その間にディスカウントストアが挟まってる 既出だが地震や台風で被害を受けても復旧するための苦労は並大抵じゃないと思うだけに
あっけない幕切れ(廃線)だと思う お先真っ暗で幕引きするタイミングを見計らってるところに災害が来た 公共交通は廃止するにも地元との協議が必要だからね
グッドタイミングだったのかも 復旧費用の分担を求められて反対できなかったんじゃね
そのあたりは協定書に記されてるかも ネコの本以外で、まとまった記載のある書物ないですかねえ >>77
写真集東野鉄道の時代
あとトコトコはそれなりに集めてる >>77
ネットの方が充実してないか?
キャプションはサイト主の思い込みや憶測が混じり込んで信憑性が落ちるが写真だけは事実だからキャプションは無視して写真だけを愉しんでいる >>81
記憶違いもあるしな
30年も40年も前の出来事を正確に記憶するのは難しい
撮影メモでも遺してれば別だが 廃止当日(1968年12月15日)の写真をスライドショー形式にした動画があがってるね
BGMが少し耳障りだがよくまとまっていて一見の価値アリ 何千円もする写真集を買わなくても
ネットで手軽に貴重な映像を
みられるようになって本当に有り難い。
とかくネットは
利点より弊害の方を喧伝されるが
こういうこともあるのは
意識しておきたい >>86
西那須野や大田原の写真はよく見かけるが白旗城跡は初めて見た
周りに何もなかったんだね 沿線の大田原高校生徒が在りし日の東野線SLやディーゼル車のスケッチを市役所に展示していたのはもう何年前になるか…
作者は相当な御年になってるだろう 人里離れた場所にある駅の利用者とは、どのような人々なのでしょうか 戦前に廃止された那須小川までの廃線跡も人家が少ない そもそも半世紀以上前に消えた線の廃線跡をたどれるのか? 何もない原っぱや田んぼを眺めながら想像を巡らせるのが楽しい 黒羽に残されていた石造りの農業倉庫も解体され、目立つ遺構はいよいよ残り少なくなったね