懐かしの国鉄奈良線
紀ノ川は東京一番の新幹線から接続し東京行き最終新幹線に間に合う列車だった
グリーン車もつないでいて、五條市に本社がある会社の東京支店長が、本社での会議に日帰りで愛用してた
かもしれない >>3
前身の奈良鉄道建設当時、今の近鉄やR24が通ってる辺りは
巨椋池という大きな池だったからな。そのせいか地盤も軟弱で
工事も難しく、結局迂回したルートで作らざるを得なかった。 >>25
それは和歌山線でも生じていたこと
ここに限らずローカル線には速達性の向上というテーマには
とことん無関心だったようだ ニーズが無いと思うよ
たかだか5分10分速くなっても同じ 昔々 奈良線のキハ10系と平行する奈良電(現 近鉄京都線)1200形1350形で
バス窓車対決があった。 >>33
たとえば都市圏で走ってるような快速などの速達列車が
無理なく設定できるようになればいいかなと。 速達列車は各停の犠牲の上に成り立ってるが
それを無しで走らせようということなら
首都圏や京阪神圏でやってる複々線しかない みやこ路快速の設定前は京都〜奈良に特急を走らせようとしていてたんだよな。
結果的に快速にしたのはよかったと思う。
だけど設定当初停車駅が宇治、木津だけで客が少なくどんどん停車駅が増えてきたわ 勝手踏切スレにもある
http://i.imgur.com/Jt0joww.jpg
の勝手踏切って昔からあったの?
近年関西のローカルニュースで時々話題になるけど
電化され多少なりとも列車本数が多くなって以降
この問題がクローズアップされるようになったのかな。 >>39
昔からあった。ただ地元民でもそんなに通んなかったぞ。 >>38
停車駅が増えて表定速度が落ちていくというのは
全国各地で見られた光景ですね 京都〜奈良は距離にして30数キロだけど、特急を就役させられたの? >>42
多分新幹線からの乗り継ぎ客は特急料金が半額になるし、運賃も通しだから
近鉄特急とは競えると踏んでいたのだと思う。 昔も今もだけど新幹線からの乗り換えも近鉄の方が便利だし、
特急を設定しても近鉄特急と競えるとは到底思えないけどなぁ
>>38氏の言うように快速にしたのは正解。 京都寄りは難しいかもしれないが、奈良寄りはまだ土地に余裕がある部分もあるので
やろうと思えばやれないものだろうか 今日カンテレのニュースワンダーで元々奈良線だった木津〜奈良間が
関西線の急勾配解消による経路変更で、関西線に編入されたって話
取り上げてたね ああ思い出の紀ノ川 ピカピカのキハ58最高だったな。
電化された時の寂しさときたら 電化開業前日に乗りに行きました。
紀ノ川の送り込み列車から切り離されたキハ40が単行で折り返す運用で、
車内は満員でした。
奈良線はキハ35という固定観念があった自分にはキハ40は新鮮でした。
途中で交換した列車もキハ40だったので、置き換わっていたのでしょうか。
それにしても、最終日の紀ノ川には立派なマークがついていましたねえ。 >>48
斑模様に複線化してもそれほど効果ないんですってね >>55
んなぁこともないよ。羽越本線は全線複線ではないが、ポイントを押さえて複線化されているおかげで効率化はかなり進んだ。 同感です
複線区間の最適化は絶対に模索すべき
全線複線は不可能として諦めるのは早い! まだ先の話だが、
北陸新幹線やリニアが大阪まで延伸されたら状況が変わるかもな。
途中駅の設置場所によっては今の路線ルート変更もありえる? 仮に南寄りのルートになっても奈良線周辺に駅ができる可能性があるの? 昔国鉄奈良駅前に住んでたので構内に侵入し蒸気機関車眺めてたな
なんかごっついターンテーブルあったような
大宮幼稚園時代の思い出 東福寺駅のトイレが汚くてなあ…
まあ駅トイレはどこも大差ないがここは特にひどかった
学生の頃ここで京阪と乗り換えてたが用足しは専ら京阪で済ませてた
今は綺麗になったんだろか そらもう今は綺麗なもんですよ。外国人観光客も多いので。 劇的に綺麗になったのは大阪地下鉄やな
大都市地下鉄がお役所経営から純サービス業にランクアップした好例 そんな奈良線電化用の105系改造車も今改正で全滅なのだろうか
電化直前に配置されたキハ40
京都駅八番線
1分前から発車ベルを延々と鳴らし 15秒くらい前にベル停止
キハ35は閉扉しエンジンをぶんぶんふかしてのんびり加速
駅員は「次は〜とおふくじ〜とおふくじ〜」
どう考えても汽車だな 京都駅で東海道線から奈良線に乗り換えて
最初にローカルムードを体感できるのはDCのエンジン音だった
車掌の駅案内も>>72がレスしてるとおりマッタリしてたね いや、今でも京都駅奈良線ホームの場末感は消えてないよ
大勢の人が行き交う南北自由通路からちょいと脇に逸れて階段を降りて行くと草臥れた103系が静かにお客を待ってる‥
特急車が発着する山陰線ホームとも、何かが違う 延々と続く長いホームに4両編成の電車が物寂しかった
客が少なかった 延々と続く長いホームに7両編成の気動車が物寂しかった。
客が少なかった。 >>69
東福寺駅w
コアなネタでワロタ
トイレは覚えてないがベンチにはガムの食べ滓、灰皿には吸い殻が溢れ返っても誰も掃除してなくて
呆れたことは覚えてる 奈良線は宇治市民にとっては最高に良い列車だったぞ
京都駅まで少ない駅を
快適な速度で安い価格で走行してくれていた。 そろそろ正月輸送の時期だな、稲荷ー京都のピストン輸送に普段日中は入らないキハ35以外の気動車が投入されるのが楽しみだったが非電化最後の年はキハ35だけだった。 稲荷駅の巨大絵馬、巨大注連縄
飾り付けられると正月が近いと実感できた >>84
奈良電化以前は奈良・桜井線は白熱灯照明の薄暗いキハ17のたまり場だったので
キハ35が入っていたら蛍光灯が明るくて嬉しかったんだ。でも走り出すと窓や側扉からの
隙間風が酷く冬場は隣のキハ17に早々に待避したね。 「鉄道模型趣味」の別冊に桃山駅と周辺を実物そっくりに
Nゲージで作った記事が載っていた。
アパートの一角まで実物どおり。「こういう細々とした
部分こそ、最も再現されなければならない」とか何とかの
文言が新鮮だった。
あのレイアウト壊されずにまだ残っているのかなあ? >>88
自分も京都に行くときに多くは近鉄の大久保から乗ったけど、時々奈良線の新田から乗車した。
片やエレベーター付きの高架駅、片や田舎然とした木造の時間帯によっては無人駅。その落差が楽しかった。 >>87
昭和の桃山駅は貨物駅なイメージ、米を積んだワムやアルコール輸送のピカピカ光るタンク貨車で酒造会社向けの貨物を扱ってた。貨物の施設の大半が今はマンションになってる。 >>89
もっと言うとその二者では京阪>近鉄の認識が一般的だった >>92
勝手に一般化するなw
我が家ではデパートや野球チームを持ってた近鉄の方が上だった
……近鉄は今はどっちも無くなってしまったが 爺さんが生前に桃山駅は御陵の最寄りで昔はすごく格の高い駅だったと力説してたが、
俺の知る桃山駅は駅廻りにろくに店のない寂れた場末の駅でしかなかった >>95
格が高いからこそ駅の真ん前に店を構えるなど
畏れ多くてできなかったとか?
大手筋というと京阪と竹田街道の間が中心地であって
近鉄よりも東は急に人通りも減ってしまう印象
>>94
とはいえ百貨店は元は丸物、鉄道も元は奈良電鉄だったわけで
近鉄プロパーではない 京都駅から祇園や清水寺などへ行く観光客に、JRでは奈良線東福寺まで出て京阪に乗り換えるよう案内してるとのことで、時代の変化を感じるわ
昔の国鉄職員は私鉄の存在など知ったことでなく、案内をしなかったか、せいぜい市バスさらに昔は市電で行ってくれくらいしか言わなかったという 存在感がないくせに態度だけは尊大か
そりゃ閑古鳥が鳴くのも分かる 昔は車内放送で東福寺での乗換案内なんかやってなかったろ 今は市内の主要通が車の洪水でバスもタクシーも使えない
オーバーツーリズムのせいだ 国鉄時代のサービスは何もかもがダメだったことは確か >>102
バスは路線を選べば使えんことはないよ
タクシーはいい運ちゃんに当たれば裏道飛ばしてくれるけど期待薄 >>98
>>昔の国鉄職員は私鉄の存在など知ったことでなく、案内をしなかったか‥
これが鉄道界での官尊民卑なのか サービスが悪いのに駅員の数だけは多かったよな
小さい駅でも10人くらい常駐してたんじゃないか
今では考えられん 宇治駅に銀行のATMが置かれたのはかなり早い時期だった気がする
京阪宇治は国鉄より遅かった
当時はCD機といった
銀行に行かなくても時間を気にせず(といっても24時間営業ではない)お金が引き出せると
好評だった >>110
当時の利用客数は京阪がJRを圧倒してたはずだが、それでも進出する奇特な銀行があったのか 当時の事情は分からないが、国鉄が誘致したとは考えられない?
集客の一環として 電化して民営化してもしばらくは列車改札してたな。
普段私鉄に乗っていたぶん、切符を買ってもホームに入れて貰えなかったのには面食らった。 城陽は建て替え前は寂れた雰囲気のさえない駅だったな
出入り口前では昼間から客待ちのタクシーの運ちゃんが
昼寝してたりラジオ聴いてたりのサボリ場所になってた >>116
建て替え前は交換設備もなかったし駅舎も粗末で城陽市の代表駅には相応しくなかった。
国鉄時代の城陽市民の多くは近鉄京都線寺田駅を利用してたからな。 あまりにみすぼらしいので見かねた城陽市が
いくらか改装費用を負担してリニューアルされたらしい
もっと以前には、近鉄寺田駅を城陽市駅にしようという動きもあったとかなかったとか >>108
名鉄名古屋では名鉄線,名鉄バス,近鉄線,地下鉄の案内のあと
JR線や新幹線は最後に仕方なくという感じで付け足し的に案内するじゃん >>113
CD機が普及し始めた頃に駅、役所、病院、スーバー、公共施設など人が多く集まる場所に競って出店する動きは全国的にあった 城陽駅は木造平屋建ての駅舎にホームが一面だけの駅だったな。
プラットホームも低い汽車ホームで、ステップがない電車に乗るときは段差が大きかった。
かなり遅くまで列車改札をしていた。
確か平成の初めに交換設備ができて橋上駅舎になったけど、未だに京都方面行きホームの奈良方には汽車ホームの名残がある。 >>119
それは鉄道会社が行政からカネを引き出す常套手段 >>109
一人でできる仕事を三人がかりでやってました トラブルにはマンパワーで対応するしかなかった時代というのも考慮しないとな。
今と違って何が何でも止めずに走らせてたし。 京都都心部の京阪の駅から宇治の平等院に行こうとする観光客
「地図とか路線図を見ると、東福寺で国鉄に乗り換えると良さそうだね。
このルートで行こう。」
やって来た電車は宇治行き。
(昔は中書島でのスイッチバック運用があった。)
「やっぱこれで終点まで乗ろう。」
国鉄奈良線の出番がない。 >>129
駅前のコンビニや中華料理屋は潰れちまったけどな…。
小さいながらもロータリーがあるからタクシープールやバス停がある分マシに見える。 京都到着時の放送
必ず
国鉄奈良線は乗り換え
だった
国鉄をつけるのは奈良線だけ >>135
昔から連絡きっぷは売られてたけど、奈良線が使い物にならなくて列車が増発されるまで乗り換える人はあんまり見なかった。 >>135
そりゃ利用客は知ってるわな。
てかどういう意図で質問してるの? 105系が走っていたころはワンマンカーだったのですか。 >>111
1面1線でしたよ。
子供のとき、墓参りでたまに利用してた。
当時は、奈良寄りの踏切のところに駅舎があったようだ。
今は踏切から遠くなったが。 時々車輛運用の関係で桜井線用ワンマン運転対応の105系が京都まで来たことあったな。
運転台の真ん中に丸い車内監視用のミラーがあるからすぐに見分けが付いた。 電化当初は105系2両編成だったのに
今や6両編成もあるとは隔世の感 京都−城陽間の複線化が完了したら、大阪−城陽間の直通快速を運行して欲しい 京都到着時の放送は
必ず
国鉄奈良線、普通気動車の奈良行きは・・・
だったよ 別スレにもレスしたけど96年頃の快速はL特急みたいな風格があった。
完全単線なのに上下とも宇治で緩急接続してしまうダイヤで、
京都〜宇治、城陽〜木津は運転停車無しのノンストップ。
車両も当時の特急踊り子ほどでは無いけど、京阪や阪急の特急と同じ
2ドア転換クロスシートで3ドアの新快速や大和路快速より居住性良かった気がする。
奈良から乗った時は空席が多かったから、駅で買った柿の葉寿司駅弁を車内でよく食べた。
ただ一部ロングシート化された117系が来たのもこの頃だったかもしれない。 >>144たしかに
ディーゼル時代の朝はもっと長かったか 激しく混雑するのがほんの1本か2本だね 今はもう少し増えたか
京阪や近鉄はもっと多いけど 民営化後、複線化工事が始まるまで、稲荷駅北側の祓川踏切よりさらに北側の線路東側にプラットホームの跡のようなものが残っていたけど、何だったんだろう。
あまり高くなくて汽車ホームぐらいの高さだった。 >>157
そのことに興味を持った人のツイート群を参照すると、やはり貨物ホームだったらしい
「愛知県から出荷された陶器を受荷してた」という人の子孫のリプライもあった
ポなどの陶器車が連なっていたんだろうか。
画像を探してみたが、当該ホーム上から撮影した蒸機列車の写真(1972撮影)は
とりま見つけた。
http://samu36.uh-oh.jp/conv0018437.jpg
http://samu36.uh-oh.jp/conv0019327.jpg
http://samu36.uh-oh.jp/newpage79.html
単線時代の各年代の空中写真も見てみたが、
ホームの存在と、北側から南側へと側線が分岐している様子もみられる。
北側からの分岐部分から撮影した写真もあった(おそらくホームは撮影者の背中側)。
https://stat.ameba.jp/user_images/20180423/16/tetsudotabi/e9/37/j/o1024069214176334393.jpg?caw=800
https://ameblo.jp/tetsudotabi/entry-12370605222.html
同じ蒸機時代(2年前の1970撮影)なのにこっちの写真は側線のレールが見えないけど
草生しているだけかと推測。 あるいは分岐部分はすでに撤去されてて
ホーム部分だけしかレールは残ってなかったのかも。 >>152
実質関東じゃ有料特急として使われた車両だからね。
デッキがあったとはいえ。 城陽市の広報に国鉄奈良線城陽駅開業にまつわる記事が。
棒線にホーム一面だけの駅で民営化後も列車改札をしていた駅がずいぶん立派になったもんだ。 うまくお金を引き出せたんだよ
JRの勝利
地元のメリットを強調すれば、まず断られることはない 城陽駅のことなら全額かそれに近い額を出させたんじゃなかったか?
六地蔵駅新設の時も今の複線化工事もそうだが
鉄道は公共性が強いので補助金はかなり出せる
↓見ればわかるが複線化工事は3/4が補助金
https://www.city.uji.kyoto.jp/soshiki/35/7314.html 便利になって欲しいだけで、
設備を不必要に豪華にする必要はない
そこを自治体が勘違いしてリニューアルといえばやたらと重装備にしたがる 基本設計を決めてから全ては始まるんやから設計事務所と役人の考え方で決まるんだよ。まぁ設計事務所も役所への競争入札だから基本は役所の考え方がベースだね 石部の人が「奈良線は複線化が進んでるのに、なんで草津線は単線のままやねん」と嘆いていた。
「そら、府からお金が出てるから工事してる」と言うも今ひとつ納得してなかった。
奈良線は、ここ30年で大きく姿が変わった路線の一つだな。 奈良線は曲がりなりにも奈良と京都を結ぶ路線で沿線人口もそれなりにいるからね
草津〜拓殖じゃあ無理もない 私だ、柘植康英である。
名前を間違えるとは、けしからんヤツである。 こことは違って草津線は京都と伊勢・名古屋への通り道だけだしな
その割には輸送人員は万を越えてるんだよな >>172
> 草津線は京都と伊勢・名古屋への通り道だけだしな
おいおいそんな奴ほとんどいないよ
伊勢へは近鉄、名古屋へは新幹線だろう
でも草津線自体には並行する鉄道がないから一定数の沿線需要はあるんだろうな 京都〜名古屋は、急ぎなら新幹線
安く行きたいなら高速バスなど
急行平安が走っていた時でも短絡機能は無かった
京都〜伊勢で草津線経由は、近鉄特急が直通する前までさかのぼる
新名神ができた今、近鉄でさえ大回りに感じる
しかしまぁ、奈良線は民営化後大化けしたなぁ
電化後しばらくの中古暖房車2両のイメージが強い ああ〜 我が青春の 千代田線103系〜
奈良にて美しき我が若き日々が蘇る〜
回春だってぇ? 余計なお世話だ〜 >>173
関西鉄道時代から新幹線開通前の話だよ
流石に今このルートで行くのは18キッパーだけだよ >>177
関西鉄道が旧東海道のルートを踏襲したのが草津線だからね >>178
「関西鉄道が旧東海道のルートを踏襲したのが草津線だから」172読んでそう思えるのか?
訳分かんねえぞ そうこうしてるうちに城陽〜京都完全複線化完了です
懐かし板なのでこれだけにしときます 通常は大久保駅から京都に行っていたが、たまに奈良線新田駅も使う。いまだに木造駅舎だが、自動改札になったのは時代を感じる。 それでも近鉄京都線は全区間複線だからなあ…
まだまだ、背中は遠い 伏見民は京都駅へ出るのに鉄路の選択肢が4つもあるのだな
その中でもっとも選ばれる確率の低いのが奈良線というわけで 京阪は置いとくとして、実際に3つから選べる伏見区民なんかそうは居ない 京都教育大の近くに住んでるが京都駅出るのに奈良線以外に選択肢なんかない
JR藤森できる前なら別だが 昭和45年までなら市電、京阪、近鉄、国鉄ってこと? そんなもん行き先によっていかようにも変わる
決められるか >>185
それはいくらなんでも国鉄をディスり過ぎよ >>192
国鉄時代でも京都駅行くのに京阪使うのはアホのすることや
今より東福寺の乗り継ぎ不便だったんだから余計にな >>193
1968年までは近鉄との相互乗り入れがあったからな >>193
当時のあの本数の奈良線を待つぐらいなら七条から歩いてたわ
たとえ待ったほうが早くてもな 同じタイミングで電化された和歌山線五条和歌山間や弥彦線がコスト節約で直接吊架式採用したが奈良線はシンプルカテナリにしたのは、やはり、今後は高速高頻度運転していくぞという気持ちの現れだったんだろうか 木津まで全線複線化、と思っていたら今回も部分複線化ですからね
単線区間が残ると、結構ネックになると思います >>201
まあ、列車本数が多い城陽までは完全複線化できて増発もできたし
玉水のあたりで部分から複線化したことで、みや快の棚倉運転停車も無くなってスピードアップも達成できたからそこそこ良かったんじゃないかな?
増発・速達化で利用者が増えれば次は完全6連化、一部8連化とかしていって、それからさらなる増発速達を目論んで完全複線化に向かうって算段じゃないかな 国鉄時代(ただし電化後)から知ってるけど、
国鉄→JR奈良線は、将来「化ける」と
なんとなく思ってたけど、
実際そのとおりになってきた。 105系2両がうろちょろしていた時代→113系非冷房→117系…
進歩したねぇ。 105系2両編成がすごく混んでいたのを見た
ことがある。
103系1000番台が、のんびり余生を過ごすべくやってきたのに、この混在にはたまげたと思う。 >>205
おいおい仲間は常磐快速線でラッシュに立ち向かってたのに
のんびり余生とか甘すぎるんだよw >>204
117系は主に快速での使用で普通列車は103系に後退した >>207
103がずーっといたことは知ってるよ。
それよりも117系が快速として走り始めたことのほうが衝撃だったってこと。
JRやる気出てきたなぁ…と思ったもんだ。 あの奈良線に快速が走り出したってだけで当時なかなかの衝撃ではあったな
開始当時六地蔵はまだなくてその開設から快速停車までだいぶかかったけど、利益結構取り逃してたんだろうなと >>211
非電化時代にはキハ35がいたくらいだから通勤型として違和感はない。 キハ35は関西本線のついでに走っていたようなものだから
もともと不相応 リアルでは電化後105系時代以降しか知らないが、
ムック本なんかで奈良線の非電化時代の写真が
皆キハ35系なので
俺もやっぱり奈良線(非電化時代)=キハ35のイメージなんよね。 117系快速は加速が鈍かったので単線の奈良線には辛そうだった 表示幕が新快速のようにデザイン付ではなく「普通」と素っ気ないものだった >>213
昭和40年代まではキハ17も結構多かったからな。
キハ35がメインになったのは関西線湊町−奈良の電化後の話だし。 >>217
優等と差を付けるためにlocal普通車は素っ気なくするのはまっとうだと思うが。
localにそんなとこまで求めるかいな 1980年代には既に「奈良線全線複線化は県民の悲願!」という看板が木津駅付近に立っていた
あれから40年以上の歳月… そりゃ奈良県民だろう
京都府民にはあまり関係ないからな イオン高の原店は「県境」が店内にあることで有名だけど、
府境って言わないみたいだね。 それは京都視点だからだろう
自分側からみて自分側の呼び名は
あまり使わないのではと
一般的に >>221
複線化の前は電化だった
悲願は少しずつかなえられてゆく >>226
店内に線を引いていたり、アピールする表示もあるね。
境に位置する店もある。 >>229
たしかに離れてるけど
「かなり」と表現するほどは離れてない 平城山駅も木津駅も3㌔以上か
お世辞にも沿線とは言えず徒歩移動も現実的ではないし「かなり」で語弊はない >>232
駅から歩いて買い物に行く人はほとんどいないんじゃないかなという距離だもんね 都会ならそこまで歩かなくても店あるし田舎なら車に乗らなきゃ下手すりゃ不審者扱い
物好きか徒歩1万歩が日課とかそのくらい