懐かしの国鉄奈良線
ライバルの近鉄京都線に比べると地味だった、
国鉄奈良線の懐かしい日々を語るスレ。
JR転換後の話題もどうぞ。 ライバルと言える位に競り合ってたのかなあ
全く相手にされてなかっただろ? 電化当初、京奈間連絡と盛んに宣伝しながら、宇治で大きく迂回してるのが致命的に痛かった。
単線で行き違いのためスピードが出ない以上に、遠回りしてたんだもんな 電化開業日、春日塗りの113系祝賀列車が走っていたが
HMが粗末でガッカリした記憶がある 関西線快速就役時と同じデザインだから
奈良線だけが粗末と言う訳ではない。 複線化も新駅設置も速達列車の設定も
みんな国鉄時代から取り沙汰されてたのに何一つ実現しなかった
特に新駅京都教育大前は実家近くなので期待したが、遅れに遅れて1997年開業。
マイナーな大学だから後回しにされたなどと地元では言われてたわw しかも開業時には名前がJR藤森に変わってしまってたと言うオチがついたなw >>7>>8
コラ
小生の母校をdisるんじゃないw >>2
非電化時代は本数もスピードも段違いだったが、
電化されてからはスピードでは勝負できるようになった。
なにしろ駅間距離が長いから各駅停車でも結構飛ばすことがあった。 >>3
逆に宇治市民のみなさんが京都駅周辺に行こうとしたら、
近鉄は西の端っこを走ってるだけで使えないし、京阪は遅い。
宇治経由は致命的ではないと考えるが、どうか。 >>4
記念列車が春日塗だったのはよく覚えてる。
が、それよりもクーラーが付いてたのが嬉しかった。
秋とはいえまだ暑い日があって、車内に入ると冷気が顔を撫でる感触が心地よかった。
当時京阪も近鉄もクーラー車は珍しくも何ともなかったが、国鉄のローカル線に登場しただけで
感激してたんだなw 藤森に決まる前には墨染と言う案もあったな
どちらにせよ京阪の二番煎じで頭にJRを冠せないと駄目な訳だが。 >>13
おお、仮称が「墨染」だった頃もあったな。
JR藤森に正式に決まった時、耳を疑った。
由来となる藤森神社からはかなり離れていたから。
今でも駅名は京都教育大学前が相応しいと思ってるぞw 神社から離れてるのも問題だが京阪の藤森とも離れてる方がもっと問題
駅名が同じなら乗換できると勘違いされるのも致し方ない 食パン顔のキハ35が先頭になった朝の通勤列車、キハ45やキハ20等との混成部隊が
興味深かったな 短編成だが同一系列でスタイルも統一されてる近鉄に比べると、
カオスっぽさが濃かった。
ドアの位置も数もまちまちで座席も様々。
でもそれが楽しみでもあったね。 稲荷駅のランプ小屋
サボなどの鉄道部品などが保存展示されていた >>17
色もバラバラ、急行系キハ58も繋いでなかったっけ? 急行「紀ノ川」を利用して、京都からわざわざ和歌山へ行く人はほとんどいなかったようで、
廃止直前は車内はガラスキのまま運転されてたな 「紀ノ川」は「しらはま」の時代からガラガラだったよ >>20
京都・和歌山だったら新快速と紀州路快速と
乗り換え一回だが特別料金なしで一時間半位で行けちゃうかな 奈良線電化完成前、ED60牽引のオイラン列車が奈良線で運転されていたが、
電気機関車の奈良線入線はこれが最初で最後ではないだろうか 急行のせいで各停に追い越し待ちの時間的皺寄せが行ってたんだよな
ガラガラ急行なら一刻も早く廃止して欲しかった。 >>20-22
当時でさえ京都−和歌山だと新快速と環状線と阪和快速を乗り継いだ方が、
奈良−和歌山だと快速を天王寺で乗り継いだ方が速かったから、
京都・奈良と和歌山を移動するのにわざわざ急行紀ノ川を利用する価値はなかった。
さらに当時は京和間では阪急or京阪〜御堂筋線〜南海を乗り継ぐルートが、
奈和間でも近鉄と南海を難波で乗り継ぐルートの方が国鉄を使うよりも安かったから尚更だった。 まあまあ、そう目くじら立てずにw
急行「紀ノ川」とか急行「大社」とか
急行「くまの」とか
一見役立たずで存在理由不明のDC急行があったのが
国鉄時代の面白さなんだよ。 紀ノ川は東京一番の新幹線から接続し東京行き最終新幹線に間に合う列車だった
グリーン車もつないでいて、五條市に本社がある会社の東京支店長が、本社での会議に日帰りで愛用してた
かもしれない >>3
前身の奈良鉄道建設当時、今の近鉄やR24が通ってる辺りは
巨椋池という大きな池だったからな。そのせいか地盤も軟弱で
工事も難しく、結局迂回したルートで作らざるを得なかった。 >>25
それは和歌山線でも生じていたこと
ここに限らずローカル線には速達性の向上というテーマには
とことん無関心だったようだ