昔の長野電鉄を語る
ロマンスカー2000系やOSカー0系が信濃路を元気に走り回っていた時代の思い出を語ろう 長野電鉄には前面が国鉄EF58に似たスタイルの電気機関車が在籍していたな >>35
2001編成なんか台車や電気品を3500系と同じものに交換したしね。
それゆえに保存車となったのに部品取りされてしまったが。 10年前の大減便の衝撃は忘れられない。
五輪に絡んで増発したのは正に「泡沫の夢」と思えた。
完全にそれ以前に戻っちまった印象だから。 それでも長電と江ノ電はマメに既存車両に手を加えてゆくので(補修じゃなくてアップデート)
車両に対する現場のヒトの愛情をかんじる。 >>38
「それ以前」どころか、さらに後退なんだが…
1980年代にはすでに日中の長野〜朝陽間15分間隔があったから、
その基準さえ満たさないレベルにまで落ちたとみるべき。 長野駅での長野電鉄と他社との接続は昔からもう1つだな。
以前は朝一番の新幹線に間に合う電車がなかったり(2011年2月に設定)。 下り一番電車が長野626発と聞いてビックリ
夜行に接続しスキーや登山客を運んだ日々も今は昔… 志賀高原なら長野駅から急行バスで直行だからな
今はあまりないけど帰りに渋滞すると湯田中で長電に乗り損なってえらいことになるから、長電自身が電車をあまり奨めてない 国鉄から「志賀」が乗り入れてきた事もあったが、”今は昔”だ…。 長野電鉄は2000系やOSカーなど昔は電車を自社発注していたが、
最近は他社からの譲渡車が多いのは、長野電鉄には新型電車を車両メーカーに
発注して新造するだけの資金がないからだろうか 地方私鉄はどこも同じ
新車を買うと一気に減価償却が嵩み、大赤字に転落
それ以前に銀行から借入できるか? 車両メーカーによる地方私鉄向け規格型の新車を買うよりも、大手私鉄の中古車を導入した方がコストパフォーマンスが高い、ということなのかなあ 末端視線こそ廃止したが、長野市内の地下化
中古とはいえ他社と較べ かなり上質な中古車両(ロマンスカー)のを調達手配してくるのだから長電は、かなり優秀というか健闘していると思う。 元東急青ガエルの2500系は、東急時代は下部にあった尾灯が
前面窓上部に移設されたり、助士席窓下にタイフォンが設置されたり、
客用ドアの窓が高い位置にあったりして、前面スタイルが不気味にも
見えたりしたな >>50
ドア窓が上に小さくなったのは東急時代にやってたはず
ラッシュ時にガラスが割れたり外れたりしたからだったかな 赤蛙の急行灯の尾灯転用は不可解だな。
元々の尾灯じゃ低すぎたの?(降雪時の視認性とか?・・・そのままじゃ微妙に 特急車2000より低い気もするし・・・)
あれで東急5000の可愛らしさが失われ残念だった。
・・・その後 福島で既存尾灯を埋めない可愛らしい赤蛙が登場したのは、少し嬉しかった。 あの頃の長電には灯火をなるべく窓より上に設置する方針があった
下にあると踏切事故で壊れやすいのと、前照灯が下だと乱反射してよく見えないからだそうだが、じゃ今は何なの?と聞きたい気はする 赤蛙以降、片運転台車や中間車ばかりが導入されて、
それが旧河東鉄道の殆どを消滅させる結果に繋がったと思うと、
何ともやり切れない。
一時、クモハ119の両運車を屋代線に導入したら、なんて話もあったらしいが。 >>53 灯具の下配置は踏切事故うんぬん・・・
結局あまり根拠ないんだよな。
東急8090(特に初期車)が下部に設けたとき 東急線は踏切事故が少ないから問題があまりない・・・
結局、自動車はともかくヒトはよくぶつかっていたし・・・
当の8090は、踏み切りの多い大井町線に早々都落ち 早くから遮断機や障害物検知などを整備した大手と、
ろくに警報機もない中小の違いもあるのでは? 0系・10系は新製時点で「前照灯も尾灯も運転台の上部」になった。
これは、従前の長電車両(旧型・2000系)にない特徴だった。 0系4連なんていう大輸送力の電車が運転された時代もあった。 ま、そのために造った車両だしな
地方だからこそ、特定の時刻に客が集中する 少子高齢化が進んだ今日 初代OSカーが必要性に迫られ時代を先取りし4ドア車として導入されたのに、
現在は、必要性も無いのに安価中古車両で条件に合うものが無いが故に大量に中古導入された4ドア車が地方私鉄に多数散在
なんと皮肉なことか・・・。 0系、3ドア両開きでもよかったんでは?
大手私鉄の西武が3ドア両開きの車両造り続けてたころでっせ。
当時の長野市内の混雑といえども、東京ほどではなかっただろうし。 2〜3扉だと奥まで詰めにくい、混雑が偏る、停車時間が延びるとかあったんじゃないの?
で、最ピークの要注意列車に都市形電車を投入
長野に限らず、地方の人は東京のような乗り方はできない
東京の混雑が異常だけど >>63
10系は3扉に変更された。
まぁ、これが登場した頃(1980年)はモータリゼーションの影響が露見してきて、
客も減少傾向にあったんだろうが。
前年は貨物列車が全廃されたし、2年前には、権堂・須坂・信州中野停車のA特急が消えて、小布施にも停まるBに変わってた。 背伸びして4ドア両開きの0系造ってみたものの、冬季の車内保温で不利。中間の2ドアを閉じていても隙間風が入る。
混雑もそれほどでもない。3ドア両開きで十分か・・ってことになったのでは? >>66
もしそうだとしたら、8500系の譲受で4ドア車再導入となったのは皮肉だな。
当時の状況からしたら、西武101なんて長電にうってつけだったろうに。
3ドアでしかも抑速ブレーキつきだし。
まあそれでも8500になったのは、4ドアのデメリットがあってもなお、無塗装の
メリットを優先したという事か。 多扉車の効果が長野ではイマイチ発揮できてない
ラッシュ時の客数も減ってしまった。 キハ58の急行「赤倉」が乗り入れたとき、乗務員は自社で受け持ったらしいけど、
動免の養成は何処で行ったの?(政令制定前だとしても教習は必至だな。)
そもそも、そうそうシーズン以外必要性の低い資格だし 緩い時代とは云え、
取り扱いミス防止に担当者は相当苦慮したのでは? >>71
>キハ58の急行「赤倉」が乗り入れたとき
どうでも良いけど初っ端から大胆に間違ってんな
>そうそうシーズン以外必要性の低い資格だし
これも意味不明 今となっては、「赤ガエル」以前の旧型車両がよかった。
両運転台付で単行運用もできるって意味で。
8500系3連なんて、この車両の「生家」の東急池上線・多摩川線より輸送力でっかいんだから、
大いなる無駄。 大型3両ならラッシュ時に詰め込めるから、多少の不自然はあっても結果的に効率化できるんじゃないの?
ラッシュ4両・昼間2両が実態に合ってるとはいえ、それでは保有車両が増えてしまう
あと、池上や多摩川は本数が全く違う テスト期間や部活の遠征に対応した増結手配を取る時代では無いからな… 119系の両運車を屋代線に入れる、なんて話も聞こえてたが、
ほんのちょっとの可能性でもあったんだろうか…。 45年前頃、「本郷ステーションデパート」なるものが出来て、
当時のC特急は、それまで停まっていた善光寺下を通過、代わりに本郷に停車となった。
長野市にもドーナツ化現象が起きてたんだろう。
しかし今、そのステーションデパートは見る影もない。1店舗も入っていないと言っていい。
「栄枯盛衰」を痛感させられる。 専門店街だな。
間違っても伊勢丹や高島屋をイメージしてはいけない 1000系の最晩年に乗車した記憶が微かにあるが、
扇風機が天井についてる車両はあったかなあ そんな気の利いたものは無かったよ
夏は窓を全開にしてれば風が吹き込んできてそれなりに
涼しかったので、冷房車への渇望感はない
ただ地下線が出来てからそういう感覚は無くなったな 1000は客用扉が車体の内寄りに付いていたのが一風変わっていた
乗務員扉と客用扉との間には窓が3〜4枚。
今どきは乗務員扉と客用扉は間に客用扉の戸袋窓が一枚あるだけだね あ、スマン
初代の1000の話です。
ついでに>>85
ウィキペディアに車内の様子が写真で出ている
室内灯は蛍光灯ではなく白熱灯 >>87
> 今どきは乗務員扉と客用扉は間に客用扉の戸> 袋窓が一枚あるだけだね
その方がワンマン運転には都合がよい 記憶違いかもしれないが地下乗り入れ当初は、
長野行が地下区間に近づくと窓を閉めるように案内放送してなかったっけ?
なにせ30年以上も前の記憶なので間違っていたらゴメンなさい >>91
1100系って内容的には2000系やOSカーよりも下だけど
利用客の印象度で言うとむしろ上じゃないかな
鉄に興味が無くても長電といって最初に連想するのは
この形式だという人は少なくないんじゃないかな ローカルにしか使われてないのに印象に残るか?
確かに特徴のある外観だとは思うけどさ。 誕生順では2000系→1100系→0系。
長電の代表形式ともいうべき2000系と0系の狭間で
ひっそり生まれた月見草という印象だ。 1100系は3両編成の中間の車両にも運転台付けてた(これだけ貫通式、両端は非貫通式)。
2両編成で走らせる計画があったか、実際走らせた事あるのかは失念したが、
種車が全て運転台付だったのを律儀に再現してた。 2000系みたいな音を聞きたかったら東武の6050系が有る >>97
スターになるにはボディと足回りに揃って見るべきものがないと無理だね
たしかにボディはハイカラでも、足回りが大正生まれの骨董品であれば
2000やOSには勝てないね 0系の客扉は、冬季には一部を締め切る構造になってた(ドアの上にその趣旨の表示あり)。
実際そうなってるのを見たという定かな記憶はないけど。 小学生の頃は、2000系のローカル転用の電車に乗るのが楽しみだった。
拙宅の最寄駅には特急は停まらなかったので。
今はそういう楽しみがなくなったのがちょっと寂しい気もする。 1100鋼体化の頃までは日車も地方私鉄向けの小ロット製造や改造等きめ細かい仕事を引き受けてくれたみたいだね。
蕨(東京支店)が無くなってから殿様商売になったような・・・
関東鉄道キハ703,704の片運転台化&顔面移植なんか日車(東京)改造名義で大栄の下請け工事だし・・・ 1994年10月15日のダイヤ改正で、特急が各停を朝陽で追い越すようになった。
そのために、朝陽駅の長野よりに亘り線が追加される工事がなされたが、
そんな投資して実現した追越もたった5年で廃止に(1999年12月4日の改正で取り止め)。 50年ほど前、当方の父親は、信州中野―須坂―信濃川田間を通勤で利用してた。
須坂での乗り換え時間はどれほどだったんだろうと思う。
で、時には帰りに須坂から特急に乗る事もあったらしいから、
或いは接続の悪さに悩まされてたのかも知れない。 地方鉄道なのに(ゴメンな)独自で日車に二階建ての計画など、凄いと思うぞ。鉄道ファンで図面見た時呆れた。w しかし今はもう…。
路線網は全盛期の半分を割って、分岐も一切なくなった。
1998年の五輪の頃は、増発に備えて新たに交換可能化された駅もできるとか華やいでたけど、
現状の本数は下手すりゃ当時の半分。 >>111
善光寺に湯田中、野沢温泉、志賀高原と沿線に有名観光地が多い。そして高速道路の開通が比較的遅かった。
これだけ恵まれた環境の地方私鉄って、他には富山地鉄位ではないかな。 2000年10月から全線でワンマン運転になったが、
その時期まで車掌が乗務してたってのは大健闘と言えただろうな。 ボックスシートの国鉄急行車両で、屋代から特急料金、それに馬鹿高な運賃が初乗りでかかるようでは、早期に客離れが進んだのも当然だろう
富山地鉄のように、JR特急車乗り入れができなかった
中途半端な有料特急には乗りたがらないってことさ 国鉄〜富山地鉄の乗入の場合、富山を経由した。
一方、国鉄〜長野電鉄だと、長野は通らず。これも影響したかも知れない。
長野経由で長電乗入であれば、名古屋方面との直通列車も設定できたが…。
あと、信越線の特急の場合、3両で運転できるような措置(M→Mc化改造)が取られなかったから、長野電鉄に入れなかった。
富山地鉄だって、「スーパー雷鳥」の編成(当初485系)が6+3に分割できるようにされなかったら、
JRとの直通の復活はなかった筈。 >>116
長野市内から湯田中までの道路が整備され、草津、志賀方面から車やバスで直接、長野市内に出るのが便利になったからでは?
富山地鉄の場合、並行する道路で宇奈月温泉、黒四ルートであればその入口、立山駅までしか入れない。
よって、車やバスに十分対抗できる。
75年に学校の旅行で草津から志賀高原行ったとき、バスで湯田中まで行って、そこから国鉄乗り入れ急行で帰るのかと期待してたら、長野駅まで行ってしまったもんな。
そこから165系か169系の集約綸乗ったが。
まあ、国鉄が採算取れると踏んでたら、189の3両ユニット造って湯田中までの乗入れ継続してただろ・・ 信濃吉田―朝陽間に、長電が旧信越線を乗越す場所がある。
ここで両者が連絡してたら…、なんて妄想したりもする。 まあ、せこい有料特急への需要があると甘く見てたから凋落したんじゃないの?
名鉄旧5000並みの車両をつい最近まで特急料金取って走らせてた。富山地鉄では、京阪3000の改造車を特別料金取らずに走らせていたってのに。 座席指定料金というわけでもないのか?
乗ったことがないので基本的な事を聴いてしまんが容赦してくれ 長野電鉄の場合、一時は特急の座席指定もやってたが、短期間で取り止めになったとの事。
昔、特にスキーシーズンは電車が猛混雑して、指定席を予約した客が自席に辿り着けないケースが相次いだからだとか。
」今は、「スノーモンキー」の個室だけが指定制になってる。 旧1000系3両編成の場合、基本的には
長野方からTc+Mc+Mcだったが、1500系に限っては、
長野方から1502(Mc)+1501(Mc)+1551(Tc)になってた。
これは今思い出しても不思議。
まさか、国鉄の横川―軽井沢間張りに、「信州中野―湯田中間で坂の下に電動車配置」…!? クハ1550形の運転台は長野方が1000系と湯田中寄りが1500系と総括できるようになっていたため。 >>124
逆(長野方が1500系、湯田中方が1000系と総括)じゃないの?
ついでに言えば、
←長野方 湯田中方→
1552+1004+1003
1552+1032+1002
何ていう編成も見られた。 × 何ていう編成も見られた。
○ なんていう編成も見られた。
失敬…。 >>125
逆じゃないよ。
クハ1550形は長野寄り運転台のマスコンは1000系と総括できる15D。
同じく湯田中寄りは1500系と総括できるKL72。 >>127
そうか、少々頭が混乱していた。重ね重ね面目ない。
長野(湯田中)方の先頭車になると、湯田中(長野)方の運転台が他の車両とくっつくから、
つい、「長野方が1500系、湯田中方が1000系」と錯覚した。 22年前の平成6年10月15日、朝陽で特急が各停を追い越すようになった。
同時にこの駅折り返しの電車が無くなって、須坂延長の形に。
こんな風に、明るい未来を予感させる時代もあったんだ…。 >>120
2000系時代は冷房料金だったが、今は100円でロマンスカーとN'EXに乗れる。
すげーお得になった。
以前のピクによると、2000系の寿命で有料特急を止める事も考えていたらしい。 >>78でも触れたけど、
昭和46年に、当時のC特急は、それまで停まってた善光寺下を通過、代わって本郷に停車するようになった。
今日なら「本郷に追加停車」になるような気がするが、この頃善光寺下駅付近に住んでた向きはどう思ったんだろう。
なんて考えてたら、5年前に「B特急が朝陽停車、一方で北須坂と中野松川〜上条間通過」になったから仰天した。 権堂にすごい基地害JJI駅員が居たが
まだ居んの? 1002って確か火災を起こして廃車になったんだっけ? 昔、長野ー信濃吉田間ていう電車があって、
この電車は、信濃吉田駅の1番線(下り本線)に着いた後、長野方に引き上げ、亘り線を通って上り線を横断、3番線に移ってた。
本数が少ないからできたとも言えるけど、乗客への配慮が見られたと回想してる。
国鉄(当時)だったら、いきなり3番線に入線させてただろう。 もしも地下化の時にOS10を大量導入していたら、今も更新、冷房化して現役だったかな?